菅浦の百姓 供御人となる | |||
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(イラスト:Tさん) |
現在も中世村落の風景を残す菅浦。 鎌倉期より隣の大浦と熾烈な堺相論を繰り広げたことで知られていますが、琵琶湖での漁業権をめぐって堅田とも争っていました。湖上を幅広く展開する堅田に対抗するべく、建武2年(1335)8月、菅浦は供御人となることを申請します。供御人とは天皇の食物を納める人々のことですが、こうした天皇との直接的なつながりを得ることで漁業活動の保障を得て、もし訴訟が起こった際には天皇権力を引き出し訴訟を有利に進めようとしたわけです。とても魅力のある身分というわけです。 ただし無償で供御人となれるわけではありません。供御人ですから食物となるものを貢納しなければなりません。供御人となるにあたって提出された申請書には、毎年、鯉30匹、麦1石4斗4升、枇杷2駄、大豆1石3斗4升を納めるとあります。鯉と枇杷あたりが特産のように思います。このときの天皇は鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇。北条時行の乱など起こり足利尊氏が討伐をしていた内乱前夜の時期です。後醍醐天皇は琵琶湖の鯉を食べられたのでしょうか。 |