日根野荘民質取事件
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(イラスト:荒東 慶美)


 九条政基が若すぎるのはご愛嬌。どうかご容赦ください。
 文亀元年(1501)6月17日、和泉国佐野市場で大木村(日根野荘入山田村の内)の百姓が捕えられます。大木村の人々は大騒ぎ。きっと佐野村の村人が捕まえたのだろうと思い、佐野村を放火するか、守護領の者を捕まえるか、報復を企てます。人質をとられたらとった村を攻撃するか、とった先に関係する領域に暮らす人々を人質にするというのが当時の慣習だったようです。
 当時、日根野荘園を守護の侵略から守り直接支配(直務支配)するため在荘していた領主の九条政基は、この村人の動きに対し「佐野は大きな集落であるから、放火しに行っても勝てるわけないし、百姓がつかまった佐野村は守護なのでまずは守護に問い合わせるべきだ」とたしなめています。政基の対応をみると、大木村はとても過激な行動をしようとしていたことがわかります。
 報復するか、まずは冷静になって交渉を始めるか議論している最中、捕まっていた百姓のうちの一人が、自力で脱出し大木村に戻ってきます。その脱出した百姓によれば「犯人は守護だ」と言います。加えて捕まえた村は佐野村ではなく近木村の村人ということも述べています。守護は日根野荘を我が物にしようと狙っていたわけですが、そのやり方は露骨な武力行使ではなく、人質をとって従わせるというものでした。じゅうぶん卑怯な手段ですが、一般的に想像してしまうような戦って奪うというような荘園侵略イメージとはまったく異なりますよね。
 さて、この証言を受け、佐野村への報復は中止となります。そして領主である政基は守護との交渉を始めます。がんばれ政基。この結末やいかに。




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