日根野荘に守護勢侵入! | |||
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(イラスト:荒東 慶美) |
文亀元年(1501)8月28日、日根野荘入山田村内に危急を知らせる早鐘が鳴り響きます。何事かと思えば、同荘の日根野村に守護の被官人・日根野光盛が侵入し村人の代表者である刑部太郎と脇百姓を連れ去ったというのです。またまた、村人が守護の関係者に連れ去られるといった事件が起こってしまいました。 これをうけて荘内の村人は迅速に対応します。入山田村内にあった土丸村がすぐに日根野光盛に立ち向かったのです。荘内の百姓の結束の強さがうかがえます。 しかし、やはり武士との対決は苦戦。すぐに援軍の要請が政基のもとになされます。政基は家来の信濃小路 長盛(しなののこうじ ながもり)と石井 在利(いしい ありとし)に入山田村内の村人を添えて土丸村衆に加勢させます。 矢戦が行われ、日根野光盛方には負傷を出した一方、日根野荘村人衆は無傷という戦果をおさめます。村人からなる軍勢もなかなかやるわけです。しかし、拉致された百姓2名を取り戻すことはできませんでした。政基は「無念無念」と述べています。 日根野荘を手に入れようと、守護はこのように村人を何度も拉致して、村人の動揺を誘います。さすがに日根野村の村人は守護による質取行為にたえられなくなったようです。領主である政基に命を守るため「山入」を宣言します。 「山入」とは「逃散(ちょうさん)」のことで、田植えなどの生産活動を蜂起し、付近の山に逃げ込むことを言います。不作などで不作の時に村人は領主に年貢の減免を交渉するわけですが、聞き入れてもらえない場合の最終手段として行うのが逃散です。生産活動(農作業)を停止してしまうわけですから、米ができなくなるわけで、当然年貢も納められなくなります。領主にとっては痛い行為なわけです。しかし、百姓にとっても米が作れないわけですから自身の食糧を確保できなくなります。いわば諸刃の剣なわけで、今にいうストライキに該当します。 逃散となれば年貢が入ってこなくなるわけですから、領主である政基としては大変困るわけで、守護による拉致被害を解消しなければなりません。そこで提案したのが無辺光院という日根野荘園の政所(年貢を収集し、荘園の管理をする所)に避難せよというものでした。とにかく逃散だけはやめてねというわけです。 しかし無辺光院に集まったところで守護の質取行為は止むわけではないのですから、当然百姓は政基の命を退けます。百姓からすれば何ら解決になってないじゃんといったところでしょう。自力で生命を考える手段を考えなければならないところが、この時代を生きる民衆の苦しみといえるでしょう。 一方の政基に視点を移せば、守護の暴力に有効な手段を講じることができないところに政基の苦難がうかがえます。将軍がしっかりと守護の横暴を止めてくれさえすればと思ったことでしょう。このあたりに応仁の乱以降の社会・秩序の混迷ぶりがあらわれているのかもしれません。 |