人 物 史

合志親為 こうし ちかため
生 没 年?-天正13年(1585)10月
出 身肥後国幼 名-
別 称親賢
法 名宣頓
戒 名-
赤星重隆
合志高久[養父]
-
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者-
-
官 位伊勢守、蔵人大輔
役 職-
城 郭竹迫城(肥後国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
合志親為 年表
和暦 西暦 年齢 事項 出典
-----合志親為が生まれる。-
天正10年15821123-子・親重が島津氏に服属を請う。『上井覚兼日記』同年月日条
天正11年1583711-島津義久合志親為の服属を祝し太刀1腰・鹿毛の馬1疋を贈る。『上井覚兼日記』同年月日条
天正12年1584213-龍造寺隆信合志親為を攻める。『上井覚兼日記』同年2/26条
天正12年158464-合志親為延暦寺復興勧進に奉加を出すこと約した書状を豪盛祐能に送る。6/4付合志親為書状(「三千院文書」『大』11-7)
天正12年1584閏828-合志親為が合志(肥後国)に帰ろうとしていたところ、上井覚兼より申し渡すことがあるとして留められる。『上井覚兼日記』同年月日条
天正12年1584921-合志親為が上井覚兼に使者を送り、太刀・袷を贈る。『上井覚兼日記』同年月日条
天正13年1585閏822-合志親為が子・親重の進退について島津氏を裏切るのではないかという噂があったので、親為は孫を連れて上井覚兼のもとを訪れ、親重が酒狂であるので手を焼いていること、孫をもって島津家に仕えることを伝え、さらに覚兼に太刀・織筋・杉原10帖を贈る。『上井覚兼日記』同年月日条
天正13年158592-新納久饒・本田刑部少輔・稲富長泰より、子・親重が島津氏に敵対するという噂が立っているが、合志親為が老齢の身でありながら島津氏に忠節を尽くすと表明したことについて、諸侍の手本となるべき行為であると称賛され、また家名の安堵も受ける。ただし、竹迫城は明け渡すように命じられたため抗議するも叶わず受け入れる。『上井覚兼日記』同年月日条
天正13年158591月5日-新納久饒・稲富長泰が竹迫城(肥後国)に遣わされ、同城が島津氏に接収される。『上井覚兼日記』同年月日条
天正13年1585910-合志親為のしんみりとしている様子を見かねた上井覚兼が親為に酒肴を贈る。『上井覚兼日記』同年月日条条
天正13年158510--合志親為が死去する。-
人物リストに戻る

Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.