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人 物 史
弘中隆包
ひろなか たかかね
生 没 年
大永1年(1521)-弘治1年(1555)10/3
出 身
-
幼 名
-
別 称
隆兼
法 名
-
戒 名
-
父
弘中興勝
母
-
兄 弟 姉 妹
弘中隆包
配 偶 者
-
子
-
官 位
三河守、中務丞
役 職
安芸国守護代
城 郭
西条槌山城(安芸国)
参 考 文 献
○
弘中隆包に関する参考文献
関 連 デ ー タ
-
弘中隆包 年表
大永1年 1521年 -月-日 1歳
弘中隆包
が生まれる。
出典:-
大永1年 1521年 8月23日 1歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
出典:-
享禄1年 1528年 8月20日 8歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-
天文1年 1532年 7月29日 12歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-
天文20年 1551年 9月1日 31歳
大内義隆
が
陶隆房
の謀叛にあい大寧寺にて自害する。
出典:『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『厳助大僧正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻19「義隆卿自害並大寧寺炎焼之事」
天文24年 1555年 3月16日 35歳
陶晴賢
の命を受けた弘中隆包が
江良房栄
を殺害する。
出典:『陰徳太平記』巻第24「陶全〓誅江良丹後守事」
天文24年 1555年 9月3日 35歳
陶晴賢
が安芸国を攻めるべく、軍勢27000を率い山口(周防国)を発つ。
出典:『陰徳太平記』巻25「陶入道厳島渡海之評定之事」
天文24年 1555年 9月7日 35歳
陶晴賢
率いる大内勢が岩国(周防国)の永興寺(周防国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻25「陶入道厳島渡海之評定之事」
天文24年 1555年 9月26日 35歳
乃美宗勝が
村上通康
の来島海賊衆500艘を伴い厳島(安芸国)に上陸する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)
天文24年 1555年 9月28日 35歳
陶晴賢
勢が攻撃中の宮尾城(安芸国)に
熊谷信直
・高直・直清・広真・三須隆経が入る。
出典:『陰徳太平記』巻26「能島久留島与力元就付弘中隆包軍議事」
天文24年 1555年 9月30日 35歳
毛利元就
が廿日市(安芸国)より軍勢を率いて出航し、厳島(安芸国)に上陸する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」
天文24年 1555年 10月1日 35歳
厳島(安芸国)に滞在中の
陶晴賢
を
毛利元就
が急襲し、晴賢は自害する。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年)、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」、同巻28「陶全羨最後之事」
天文24年 1555年 10月3日 35歳
吉川元春
が宮島龍ヶ馬場(安芸国)に籠る
弘中隆包
を攻め、隆包は戦死する。
出典:『万代記』
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