人 物 史

陶晴賢 すえ はるかた
生 没 年大永1年(1521)-弘治1年(1555)10/1
出 身-幼 名-
別 称五郎、隆房
法 名-
戒 名卓鍼軒呂翁全羨
陶興房右田弘詮の娘
兄 弟 姉 妹陶興昌、陶晴賢、陶隆信
配 偶 者内藤隆時の娘
陶長房、陶貞明
官 位尾張守
役 職周防国守護代
城 郭若山城(周防国)
参 考 文 献陶晴賢に関する参考文献
関 連 デ ー タ陶晴賢の関連文化財
陶晴賢の家臣
陶晴賢 年表
大永1年 1521年 -月-日 1歳
陶晴賢が生まれる。
出典:-

大永1年 1521年 8月23日 1歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
出典:-

享禄1年 1528年 8月20日 8歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

享禄1年 1528年 12月20日 8歳
大内義興が死去する。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 12歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文9年 1540年 8月10日 20歳
尼子詮久吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を攻めるべく、月山富田城(出雲国)を出陣する。一門衆として尼子久幸、尼子経貞、尼子国久尼子誠久尼子豊久尼子敬久が、国衆として小鴨氏、庄氏、三村氏、石川氏、細川氏、伊勢氏、山内氏、高野山氏、木梨氏、池上氏、三吉氏、宮氏、杉原氏、三沢為幸、三刀屋久祐、浅山、宍道、佐波隆連、本城常光、羽根氏、福屋隆兼、岡本正長、小笠原長徳、周布氏、祖式氏、吉川興経武田信実、尼子家家臣として亀井安綱、佐世清宗、河本隆任、牛尾幸清、湯原宗綱、川副常重、川副久盛、宇山久信、秋上綱平、中井久包、中井平蔵兵衛、高尾久友、黒正久澄、立原久光、三刀屋蔵人、森脇勝正、森脇清平、横道清高、多胡辰敬、古志吉信、熊野久家、熊野次郎、米原広綱、湯惟宗、湯家経、馬田慶信、山中氏、神西氏、広田氏、桜井氏、原氏、吉岡氏、疋田氏、遠藤氏、池田氏、相良氏、大西氏、本田氏、平野氏、津森氏、松田氏等が出陣する。総勢48000とされる。
出典:『陰徳太平記』巻10「尼子晴久吉田発向之事」

天文9年 1540年 9月12日 20歳
尼子詮久毛利元就の居城・吉田郡山城(安芸国)の大田口・広修寺縄手口・祇園縄手口を攻める。元就は応戦する。大田口にで大合戦が行われる。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」

天文9年 1540年 9月23日 20歳
尼子詮久が青山三塚山に陣替えする。毛利元就は尼子本陣の風越山を急襲する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 9月26日 20歳
尼子詮久が坂に陣取っていた杉元相・小早川興景を攻める。毛利元就は坂に赴き、尼子勢と闘う。尼子方の湯原宗綱が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 10月11日 20歳
尼子詮久が郷内にいつものごとく軍勢を遣わしたところ、毛利元就が出撃し、尼子勢を青山構まで追い払う。尼子方の三沢為幸が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 12月3日 20歳
陶隆房尼子詮久の攻撃を受けている吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を救援すべく、軍勢10000をもって山田中山に陣取る。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文9年 1540年 12月11日 20歳
宮崎・長尾(安芸国)にて尼子詮久方の南条・小鴨・吉川・高橋と毛利元就・宍戸勢が戦う。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 11月26日 20歳
尼子晴久の攻撃を受けている吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を救援するため、陶隆房を大将とする大内勢が山口(周防国)を出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文10年 1541年 1月3日 21歳
尼子詮久吉田郡山城(安芸国)を攻める。相合口にて尼子勢と毛利元就が戦う。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文10年 1541年 1月11日 21歳
陶隆房が天神山に陣替えする。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」、『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文10年 1541年 1月13日 21歳
吉田郡山城(安芸国)に籠る毛利元就が、城攻めのため宮崎・長尾(安芸国)に陣を張る尼子詮久を攻める。元就の攻撃に、陶隆房も呼応し、詮久は敗れて出雲国に撤退する。この戦いで、隆房被官の深野興房・宮川興広が、尼子方は尼子久幸・三沢為幸・高尾豊前守が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」

天文10年 1541年 11月13日 21歳
尼子経久が死去する。
出典:-

天文11年 1542年 1月12日 22歳
大内義隆月山富田城(出雲国)の尼子晴久を攻めるべく、山口(周防国)を出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻13「尼子経久逝去並ニ大内義隆雲州発向之事」

天文11年 1542年 2月-日 22歳
大内義隆尼子晴久を攻めるべく出雲国に向けて出陣する。陶隆房、内藤興盛、毛利元就等が参加する。新庄西禅寺に大内勢が陣取る。
出典:『江濃記』「京極生害之事」、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文11年 1542年 3月-日 22歳
大内義隆勢が出羽二山に陣取る。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文11年 1542年 7月18日 22歳
毛利元就がつが東に陣取る。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文11年 1542年 7月19日 22歳
大内義隆勢の陶隆房・内藤興盛等が赤穴光清の赤穴城(出雲国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻13「尼子経久逝去並ニ大内義隆雲州発向之事」

天文11年 1542年 7月23日 22歳
大内義隆勢が赤穴光清の籠る赤穴城(出雲国)を包囲する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文11年 1542年 7月27日 22歳
大内義隆勢が赤穴光清の籠る赤穴城(出雲国)を攻め、同城を落とす。光清は戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻13「尼子経久逝去並ニ大内義隆雲州発向之事」、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文12年 1543年 1月21日 22歳
大内義隆が畦地山(出雲国)に本陣を置く。
出典:『陰徳太平記』巻13「富田菅谷蓮池合戦之事」

天文12年 1543年 2月12日 23歳
大内義隆が椋羅木山(出雲国)に本陣を移し、陶隆房が経塚(出雲国)に陣を置く。
出典:『陰徳太平記』巻13「富田菅谷蓮池合戦之事」

天文12年 1543年 5月7日 23歳
大内義隆が椋羅木山(出雲国)の本陣を払い、湯谷より船にて山口(周防国)に撤退せんとする。義隆の養子・晴持が海路にて周防国に帰国する最中、船が転覆して溺死する。
出典:『陰徳太平記』巻14「大内義隆朝臣殿軍付晴持最後之事」、『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文12年 1543年 7月3日 23歳
尼子晴久が石見国に侵攻する。
出典:『陰徳太平記』巻14「尼子晴久石州発向之事」

天文12年 1543年 7月14日 23歳
尼子晴久が秋上三郎左衛門、立原備前守、森脇長門守を先陣として久利城(石見国)を攻め、同城を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻14「尼子晴久石州発向之事」

天文14年 1545年 5月-日 25歳
相良武任が剃髪・隠遁し、大内義隆への出仕を控える。
出典:相良武任申状写(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文17年 1548年 6月20日 28歳
陶隆房毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景、宍戸元源、宍戸隆家、平賀隆宗、香川光景、己斐豊後守の軍勢10000が山名理興神辺城(備後国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻第17「備後国神辺ノ城合戦之事」

天文17年 1548年 6月23日 28歳
吉川元春神辺城(備後国)より討って出た山名理興が戦う。
出典:『陰徳太平記』巻第17「備後国神辺ノ城合戦之事」

天文17年 1548年 8月-日 28歳
大内義隆が相良武任に再出仕を命じる。
出典:『言延覚書』「相良武任申状写」(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文20年 1551年 9月1日 31歳
大内義隆陶隆房の謀叛にあい大寧寺にて自害する。
出典:『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『厳助大僧正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻19「義隆卿自害並大寧寺炎焼之事」

天文21年 1552年 1月-日 32歳
陶晴賢が杉重政を攻める。重政は自害する。
出典:『陰徳太平記』巻19「陶晴賢討杉重政事」

天文21年 1552年 3月1日 32歳
大内義長が三田尻(周防国)に到着する。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文21年 1552年 3月3日 32歳
大内義長が山口(周防国)に到着する。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻20「大内義長山口入之事」

天文23年 1554年 6月5日 34歳
明石口(安芸国)にて毛利元就陶晴賢の家臣・宮川房長が戦い、元就が勝利する。毛利方の参戦者 熊谷信直
出典:(天文23年)6月11日付毛利元就・隆元連署状(『大日本古文書』家わけ14「熊谷家文書」129号)

天文23年 1554年 6月8日 34歳
久島・白沙動にて毛利元就陶晴賢勢が戦う。毛利方の参戦者 熊谷信直
出典:(天文23年)6月11日付毛利元就・隆元連署状(『大日本古文書』家わけ14「熊谷家文書」129号)

天文23年 1554年 8月17日 34歳
陶晴賢が吉見(石見国)より山口(周防国)に戻る。
出典:『陰徳太平記』巻24「陶与吉見和睦之事」

天文24年 1555年 3月16日 35歳
陶晴賢の命を受けた弘中隆包が江良房栄を殺害する。
出典:『陰徳太平記』巻第24「陶全〓誅江良丹後守事」

天文24年 1555年 9月3日 35歳
陶晴賢が安芸国を攻めるべく、軍勢27000を率い山口(周防国)を発つ。
出典:『陰徳太平記』巻25「陶入道厳島渡海之評定之事」

天文24年 1555年 9月7日 35歳
陶晴賢率いる大内勢が岩国(周防国)の永興寺(周防国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻25「陶入道厳島渡海之評定之事」

天文24年 1555年 9月26日 35歳
乃美宗勝が村上通康の来島海賊衆500艘を伴い厳島(安芸国)に上陸する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文24年 1555年 9月28日 35歳
陶晴賢勢が攻撃中の宮尾城(安芸国)に熊谷信直・高直・直清・広真・三須隆経が入る。
出典:『陰徳太平記』巻26「能島久留島与力元就付弘中隆包軍議事」

天文24年 1555年 9月30日 35歳
毛利元就が廿日市(安芸国)より軍勢を率いて出航し、厳島(安芸国)に上陸する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」

天文24年 1555年 10月1日 35歳
厳島(安芸国)に滞在中の陶晴賢毛利元就が急襲し、晴賢は自害する。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年)、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」、同巻28「陶全羨最後之事」

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