人 物 史

吉川元春 きっかわ もとはる
生 没 年享禄3年(1530)-天正14年(1586)11/15
出 身安芸国吉田郡山城幼 名千法師
別 称少輔次郎
法 名-
戒 名随浪院殿前駿州太守四品拾遺海翁正恵大居士
毛利元就吉川興経[養父]妙玖(吉川国経の娘)
兄 弟 姉 妹毛利隆元五龍(宍戸隆家の妻)、吉川元春小早川隆景二宮就辰穂井田元清毛利元秋出羽元倶天野元政末次元康毛利秀包
配 偶 者新庄局(熊谷信直の娘)
吉川元長毛利元氏吉川広家、吉川松寿丸、娘(益田元祥の娘)、雪岩秀梅
官 位治部少輔、駿河守
役 職-
城 郭小倉山城(安芸国)、日野山城(安芸国)
参 考 文 献吉川元春に関する参考文献
関 連 デ ー タ吉川元春の関連文化財
吉川元春 年表
享禄3年 1530年 -月-日 1歳
吉川元春が生まれる。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 3歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文2年 1533年 -月-日 4歳
弟・小早川隆景が生まれる。
出典:-

天文9年 1540年 8月10日 11歳
尼子詮久吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を攻めるべく、月山富田城(出雲国)を出陣する。一門衆として尼子久幸、尼子経貞、尼子国久尼子誠久尼子豊久尼子敬久が、国衆として小鴨氏、庄氏、三村氏、石川氏、細川氏、伊勢氏、山内氏、高野山氏、木梨氏、池上氏、三吉氏、宮氏、杉原氏、三沢為幸、三刀屋久祐、浅山、宍道、佐波隆連、本城常光、羽根氏、福屋隆兼、岡本正長、小笠原長徳、周布氏、祖式氏、吉川興経武田信実、尼子家家臣として亀井安綱、佐世清宗、河本隆任、牛尾幸清、湯原宗綱、川副常重、川副久盛、宇山久信、秋上綱平、中井久包、中井平蔵兵衛、高尾久友、黒正久澄、立原久光、三刀屋蔵人、森脇勝正、森脇清平、横道清高、多胡辰敬、古志吉信、熊野久家、熊野次郎、米原広綱、湯惟宗、湯家経、馬田慶信、山中氏、神西氏、広田氏、桜井氏、原氏、吉岡氏、疋田氏、遠藤氏、池田氏、相良氏、大西氏、本田氏、平野氏、津森氏、松田氏等が出陣する。総勢48000とされる。
出典:『陰徳太平記』巻10「尼子晴久吉田発向之事」

天文9年 1540年 9月4日 11歳
尼子詮久が多治比に陣取る。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 9月5日 11歳
尼子詮久が吉田上村(安芸国)に出勢し、家を放火する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 9月6日 11歳
尼子詮久毛利元就の居城・吉田郡山城(安芸国)の太郎丸および町屋等を放火する。
太郎丸にて尼子勢の川副常重、黒正兵衛、湯信濃守、広田宗意、桜井左衛門尉、馬田長兵衛、黒田采女等の軍勢4500と毛利勢の福原貞俊桂元澄、児玉就忠、粟屋元信、口羽通良、国司元相、坂新五郎左衛門、渡辺通、内藤、三戸、佐藤、飯田、麻原、桜井が戦い、毛利勢が勝利する。
坂にて尼子勢の湯原宗綱と毛利勢の援軍としてやってきた梨羽景盛・赤川左京亮、南方宮内少輔、秋山隼人、羽二藤兵衛、中村豊後守、波多野源兵衛、井上源五郎、井上源三郎、井上右衛門太夫、井上与三右衛門、山県弥三郎が戦い、弥三郎が宗綱を討ち取る。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」、『陰徳太平記』巻10「太郎丸並池内合戦付湯原弥次郎討死之事」

天文9年 1540年 9月12日 11歳
尼子詮久毛利元就の居城・吉田郡山城(安芸国)の大田口・広修寺縄手口・祇園縄手口を攻める。元就は応戦する。大田口にで大合戦が行われる。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」

天文9年 1540年 9月23日 11歳
尼子詮久が青山三塚山に陣替えする。毛利元就は尼子本陣の風越山を急襲する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 9月26日 11歳
尼子詮久が坂に陣取っていた杉元相・小早川興景を攻める。毛利元就は坂に赴き、尼子勢と闘う。尼子方の湯原宗綱が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 10月11日 11歳
尼子詮久が郷内にいつものごとく軍勢を遣わしたところ、毛利元就が出撃し、尼子勢を青山構まで追い払う。尼子方の三沢為幸が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 12月3日 11歳
陶隆房尼子詮久の攻撃を受けている吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を救援すべく、軍勢10000をもって山田中山に陣取る。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文9年 1540年 12月11日 11歳
宮崎・長尾(安芸国)にて尼子詮久方の南条・小鴨・吉川・高橋と毛利元就・宍戸勢が戦う。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 11月26日 11歳
尼子晴久の攻撃を受けている吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を救援するため、陶隆房を大将とする大内勢が山口(周防国)を出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文10年 1541年 1月3日 12歳
尼子詮久吉田郡山城(安芸国)を攻める。相合口にて尼子勢と毛利元就が戦う。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文10年 1541年 1月11日 12歳
陶隆房が天神山に陣替えする。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」、『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文10年 1541年 1月13日 12歳
吉田郡山城(安芸国)に籠る毛利元就が、城攻めのため宮崎・長尾(安芸国)に陣を張る尼子詮久を攻める。元就の攻撃に、陶隆房も呼応し、詮久は敗れて出雲国に撤退する。元春は陣攻めの許しを元就に請い、一度は拒絶され城に引き返すも、元就を追いかけ陣攻めに加わる。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」

天文15年 1546年 -月-日 17歳
弟・二宮就辰が生まれる。父・毛利元就が虎法丸と名付ける。
出典:-

天文17年 1548年 3月-日 19歳
毛利元春が吉川家相続につき、小倉山城(出雲国)に入城する。
出典:『陰徳太平記』巻16「元春吉川家相続之事」

天文17年 1548年 6月20日 19歳
陶隆房毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景、宍戸元源、宍戸隆家、平賀隆宗、香川光景、己斐豊後守の軍勢10000が山名理興神辺城(備後国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻第17「備後国神辺ノ城合戦之事」

天文17年 1548年 6月23日 19歳
吉川元春神辺城(備後国)より討って出た山名理興が戦う。
出典:『陰徳太平記』巻第17「備後国神辺ノ城合戦之事」

天文17年 1548年 8月3日 19歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景熊谷信直香川光景、飯田義武等が、山口(周防国)に居る大内義隆のもとに礼に赴く。
出典:『陰徳太平記』巻第17「毛利元就父子防州山口下向之事」

天文17年 1548年 -月-日 19歳
子・元長が生まれる。
出典:『陰徳太平記』巻16「元春吉川家相続之事」

天文18年 1549年 3月-日 20歳
毛利元就吉川元春小早川隆景が山口(周防国)より吉田郡山城(安芸国)に帰城する。毛利隆元は山口に残る。
出典:『陰徳太平記』巻第17「毛利元就父子防州山口下向之事」

天文19年 1550年 9月27日 21歳
毛利元就吉川興経のもとに熊谷信直天野隆重を遣わし、興経・千法師父子を殺害する。
出典:-

天文20年 1551年 9月1日 22歳
大内義隆陶隆房の謀叛にあい大寧寺にて自害する。
出典:『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『厳助大僧正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻19「義隆卿自害並大寧寺炎焼之事」

天文20年 1551年 9月8日 22歳
毛利隆元吉川元春小早川隆景が西条飯田(安芸国)に出陣する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文20年 1551年 9月11日 22歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景が槌山を攻める。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文20年 1551年 -月-日 22歳
弟・穂井田元清が生まれる。
出典:-

天文21年 1552年 5月-日 23歳
泉(備後国)にて毛利元就尼子晴久が戦う。この戦いに毛利勢として参加する。
出典:『陰徳太平記』巻21「備後国泉合戦之事」

天文21年 1552年 7月23日 23歳
毛利元就が祝甲斐守・祝治部大輔・久城修理亮が籠る祝城を攻める。吉川元春、平賀隆宗、宍戸隆家、熊谷信直、天野隆綱、香川光景、飯田義武が城攻めに参加する。
出典:『陰徳太平記』巻21「祝城没落之事」

天文21年 1552年 9月8日 23歳
毛利隆元吉川元春を大将とし、福原貞俊、志道、児玉、粟屋、井上、赤川元保、口羽通良、熊谷信直、天野、香川、飯田、入江等からなる毛利勢4000が、平賀隆保の籠る槌山城に向けて吉田郡山城(安芸国)を出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻20「安芸国頭崎城明退事並西条槌山落城之事」

天文21年 1552年 9月11日 23歳
毛利隆元吉川元春を大将とし、福原貞俊、志道、児玉、粟屋、井上、赤川元保、口羽通良、熊谷信直、天野、香川、飯田、入江等からなる毛利勢4000が平賀隆保の籠る槌山城近くに陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻20「安芸国頭崎城明退事並西条槌山落城之事」

天文21年 1552年 9月29日 23歳
平賀隆保が自身の命と引き換えに槌山城に籠る兵の助命を、毛利隆元吉川元春に申し出る。隆元・元春は隆保の申し出を了承し、隆保は自害する。
出典:『陰徳太平記』巻20「安芸国頭崎城明退事並西条槌山落城之事」

天文21年 1552年 -月-日 23歳
弟・毛利元秋が生まれる。
出典:-

天文22年 1553年 1月22日 24歳
甥・毛利輝元が生まれる。
出典:-

天文22年 1553年 2月15日 24歳
毛利元就隆元父子が伊未・井原(備中国)に陣取る。吉川元春が猿掛城(備中国)近くに陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻21「三村家親属毛利家付備中国猿掛城合戦之事」

天文22年 1553年 4月3日 24歳
三村家親吉川元春熊谷信直、天野隆綱が井原(備中国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻21「三村家親属毛利家付備中国猿掛城合戦之事」

天文22年 1553年 4月5日 24歳
夜、井原(備中国)にて穂井田為資と三村家親が戦い、家親が勝利する。穂井田勢は村田行吉が戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻21「三村家親属毛利家付備中国猿掛城合戦之事」

天文23年 1554年 5月12日 25歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景が神領(安芸国)を放火する。村田入道、杉生彦太郎が五日市(安芸国)に出る。五日市にて元就、熊谷信直、飯田義武と村田・杉生が戦い、元就が勝利する。
出典:『陰徳太平記』巻24「毛利元就被攻芸州所々城事」

天文23年 1554年 5月18日 25歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景が佐東郡に攻め入る。元就は井上就方を佐東銀山城(安芸国)城主の栗田時勝、小城の麻生鎮里のもとに遣わし開城を促す。時勝、鎮里は元就に城を明け渡す。
出典:『陰徳太平記』巻24「毛利元就被攻芸州所々城事」

天文23年 1554年 10月3日 25歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景が佐西郡(安芸国)に攻め入る。
出典:『陰徳太平記』巻24「毛利元就佐西郡働之事」

天文24年 1555年 9月3日 26歳
陶晴賢が安芸国を攻めるべく、軍勢27000を率い山口(周防国)を発つ。
出典:『陰徳太平記』巻25「陶入道厳島渡海之評定之事」

天文24年 1555年 9月7日 26歳
陶晴賢率いる大内勢が岩国(周防国)の永興寺(周防国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻25「陶入道厳島渡海之評定之事」

天文24年 1555年 9月26日 26歳
乃美宗勝が村上通康の来島海賊衆500艘を伴い厳島(安芸国)に上陸する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文24年 1555年 9月28日 26歳
陶晴賢勢が攻撃中の宮尾城(安芸国)に熊谷信直・高直・直清・広真・三須隆経が入る。
出典:『陰徳太平記』巻26「能島久留島与力元就付弘中隆包軍議事」

天文24年 1555年 9月30日 26歳
毛利元就が廿日市(安芸国)より軍勢を率いて出航し、厳島(安芸国)に上陸する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」

天文24年 1555年 10月1日 26歳
厳島(安芸国)に滞在中の陶晴賢毛利元就が急襲し、晴賢は自害する。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年)、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」、同巻28「陶全羨最後之事」

弘治1年 1555年 10月23日 26歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治1年 1555年 -月-日 26歳
弟・出羽元倶が生まれる。
出典:-

弘治2年 1556年 -月-日 27歳
子・毛利元氏が生まれる。
出典:-

弘治3年 1557年 3月2日 28歳
毛利元就隆元吉川元春小早川隆景父子が防府(周防国)に陣取る。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年)

弘治3年 1557年 4月3日 28歳
大内義長が死去する。
出典:-

弘治4年 1558年 2月17日 29歳
出羽(石見国)にて本城常光小笠原長雄・牛尾幸清・湯惟宗・宇山久兼吉川元春・出羽元祐・杉原盛重福屋隆兼が戦う。
出典:『陰徳太平記』巻31「石州出羽合戦之事」

弘治4年 1558年 2月28日 29歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄1年 1558年 4月晦日日 29歳
吉川元春益田藤兼、佐波秀連、杉原盛重福屋隆兼小笠原長雄の所領・温湯(石見国)の在所を放火する。その火が、長雄館にも引火する。元春は長雄勢を攻め、長雄は温湯城(石見国)に撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄1年 1558年 5月20日 29歳
毛利元就毛利隆元小早川隆景率いる毛利勢7000が小笠原長雄の籠る温湯城(石見国)を攻めるべく出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄1年 1558年 5月24日 29歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景益田藤兼、佐波秀連、杉原盛重福屋隆兼、宍戸隆家、熊谷信直天野隆重、出羽元祐率いる毛利勢12000が小笠原長雄の籠る温湯城(石見国)を包囲する。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄1年 1558年 5月29日 29歳
小笠原長雄の籠る温湯城(石見国)を攻めるにあたり、毛利隆元が笠取山に、吉川元春が温湯城・赤城間に、小早川隆景が小栖山に陣取る。
温湯城(石見国)-赤城間に陣取る吉川元春が、赤城の小笠原勢を攻めると思いこんだ小笠原長雄が、加勢として旗谷に勢を出す。元春は応戦し、小笠原勢を破る。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄1年 1558年 6月1日 29歳
吉川元春が、赤城に陣取る小笠原勢を攻める。小笠原勢は温湯城(石見国)に撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄2年 1559年 -月-日 30歳
弟・天野元政が生まれる。
出典:-

永禄3年 1560年 12月24日 31歳
尼子晴久が死去する。
出典:-

永禄3年 1560年 -月-日 31歳
弟・末次元康が生まれる。
出典:-

永禄4年 1561年 11月1日 32歳
子・広家が生まれる。
出典:-

永禄5年 1562年 4月-日 33歳
足利義輝の調停により毛利元就大友義鎮が和睦する。
出典:『桂岌円覚書』

永禄6年 1563年 8月4日 34歳
兄・毛利隆元が佐々部(安芸国)にて死去する。
出典:『桂岌円覚書』

永禄8年 1565年 4月17日 36歳
毛利元就尼子義久の籠る月山富田城(出雲国)を攻める。塩谷口にて吉川元春勢と尼子勢が戦う。
出典:『陰徳太平記』巻44「作州高田城合戦之事」

永禄8年 1565年 8月8日 36歳
杉原盛重今田経高二宮俊実、森脇市郎右衛門、山県四郎右衛門が蜂塚右衛門尉の籠る江美城(伯耆国)を攻め、同城を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻39「伯州江美城没落之事」

永禄8年 1565年 9月3日 36歳
毛利元就の命により三村家親香川光景・広景・春継父子が吉田元重の籠る大江城(伯耆国)を攻め、同城を落とす。元重は月山富田城(出雲国)に逃亡する。
出典:『陰徳太平記』巻39「大江城没落並富田勢夜討之事」

永禄8年 1565年 9月20日 36歳
毛利元就毛利輝元吉川元春吉川元長小早川隆景等が率いる軍勢25000が尼子義久の居城・月山富田城(出雲国)を攻めぐべく掠良木山に陣取る。
元就が末次(出雲国)に米原綱寛を、天満城に杉原盛重家臣の菖蒲左馬允・入江大蔵少輔・菊池肥前守を、守山に長屋小次郎を置く。
出典:『陰徳太平記』巻39「富田所々付城並山中鹿ノ助夜討事」

永禄9年 1566年 11月21日 37歳
尼子義久毛利元就に降伏する。
出典:-

永禄9年 1566年 11月28日 37歳
尼子義久月山富田城(出雲国)より退城する。
出典:-

永禄10年 1567年 1月18日 38歳
弟・毛利秀包が生まれる。
出典:-

永禄11年 1568年 2月-日 39歳
河野通直・通宣が宇都宮豊綱方の上須戒城(伊予国)を攻め、同城を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻41「伊予国所々合戦之事」

永禄11年 1568年 2月24日 39歳
河野通直・通宣が宇都宮豊綱方の上須戒城(伊予国)を攻め、同城を落とす。吉川元春小早川隆景が率いる毛利勢が下須戒城(伊予国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻41「伊予国所々合戦之事」

永禄11年 1568年 11月5日 39歳
吉川元春小早川隆景が長野兵部太輔の籠る三ツ嶽城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
出典:『陰徳記』巻42「豊前国三ツ嶽没落之事」

永禄12年 1569年 4月4日 40歳
吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、熊谷信直等が率いる毛利勢が壇(筑前国)に陣取る。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 4月4日 40歳
吉川元春小早川隆景等が率いる毛利勢が立花山城(筑前国)を攻めるべく壇(筑前国)を発つ。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 4月16日 40歳
吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、熊谷信直杉原盛重等が率いる毛利勢が立花山城(筑前国)を攻める。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 5月5日 40歳
吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、熊谷信直等が率いる毛利勢の攻撃を受けている立花山城(筑前国)を救うべく、大友勢が同城の後詰めとして到着する。大友勢と毛利勢が戦う。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 5月18日 40歳
立花山城(筑前国)近くで、吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、熊谷信直等が率いる毛利勢と戸次道雪率いる大友勢が戦う。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 5月-日 40歳
尼子勝久山中幸盛、立原久綱、横道正光、横道高宗、真木宗右衛門、吉田三郎左衛門、吉田八郎左衛門、川副右京亮、川副三郎左衛門、川副次郎左衛門、目黒助次郎、米原助十郎、月坂助太郎、力石九郎兵衛、平野加兵衛、平野源助、宇山弥次郎、三吉五郎左衛門、三吉甚次郎、小林甚助、青砥助次郎、日野又五郎、大塚弥三郎、大野平兵衛、日野助五郎、福山内蔵允、中井与次郎、片桐治部丞、江美源内左衛門が隠岐国に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻43「尼子勝久入雲州付松永霜台事」

永禄12年 1569年 6月23日 40歳
尼子勝久が忠山(出雲国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻43「尼子勝久入雲州付松永霜台事」

永禄12年 1569年 -月-日 40歳
吉岡長増が大友宗麟に対し、周防国を大内輝弘に攻めさせるよう提案する。宗麟は長増の提案を容れ、輝弘に軍勢をつける。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」

永禄12年 1569年 9月11日 40歳
大内輝弘が軍勢を率い秋穂(周防国)に入る。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」

永禄12年 1569年 9月13日 40歳
大内輝弘が軍勢を率い山口(周防国)に入る。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」

永禄12年 1569年 9月14日 40歳
山口(周防国)に陣取る大内輝弘のもとに諸勢が集まる。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」

永禄12年 1569年 10月13日 40歳
吉川元春小早川隆景が、出雲国で蜂起した尼子勝久、周防国で蜂起した大内輝弘を討つべく、軍勢を立花山城(筑前国)より撤退するにあたり、同城への留守居として坂就清、乃美宗勝を置く。
出典:『陰徳太平記』巻45「元春隆景立花退陣之事」

永禄12年 1569年 10月15日 40歳
吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、福原貞俊桂元澄、志道広好、吉見正頼、三沢為清、三刀屋久扶、益田藤兼杉原盛重熊谷信直等からなる毛利勢が、立花山城(筑前国)からの撤退を開始する。
出典:『陰徳太平記』巻45「元春隆景立花退陣之事」

永禄12年 1569年 10月18日 40歳
吉川元春が下関(長門国)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻45「元春隆景立花退陣之事」

永禄12年 1569年 10月24日 40歳
山口(周防国)に在陣中の大内輝弘に向けて毛利元就吉川元春熊谷信直率いる軍勢10000を長府(長門国)より差し向ける。
出典:『陰徳太平記』巻45「輝弘山口落付最後並防州徳地一揆退治之事」

永禄12年 1569年 10月25日 40歳
茶臼山にて大内輝弘が自害する。
出典:『陰徳太平記』巻45「輝弘山口落付最後並防州徳地一揆退治之事」

永禄12年 1569年 10月28日 40歳
毛利元就毛利輝元小早川隆景が長府(長門国)より防府(周防国)に移る。
出典:『陰徳太平記』巻45「輝弘山口落付最後並防州徳地一揆退治之事」

永禄13年 1570年 1月16日 41歳
毛利元就尼子勝久を攻めるべく、吉田郡山城(安芸国)より毛利輝元吉川元春吉川元長小早川隆景を出陣させる。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」

永禄13年 1570年 2月8日 41歳
毛利輝元小早川隆景が津賀(石見国)に陣取る。先陣の吉川元春吉川元長吉川経言が赤穴(出雲国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」

永禄13年 1570年 2月9日 41歳
吉川元春元長経言父子が福山次郎左衛門・遠藤甚九郎・川副右京亮率いる尼子勝久勢の籠る多久和城を攻め、同城を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」

永禄13年 1570年 2月14日 41歳
布部山(出雲国)にて毛利輝元吉川元春小早川隆景率いる毛利勢と山中幸盛・立原久綱率いる尼子勢が戦い、毛利勢が勝利する。毛利勢は細迫左京亮、児玉弥七郎、粟屋元光、田門右衛門尉が、尼子勢は真木与一、隠岐清実、寺本四郎三郎、東藤八、金尾半四郎、飛石孫太夫、横道正光が戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」

永禄13年 1570年 2月24日 41歳
末次城(出雲国)に籠る尼子勝久を攻めるべく、吉川元春元長経言が同城の向かいの山に陣取る。。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」

永禄13年 1570年 4月15日 41歳
毛利輝元吉川元春小早川隆景が牛尾弾正忠の籠る三笠城を攻めるべく、当地へ出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻47「雲州三笠城没落事」

永禄13年 1570年 4月16日 41歳
吉川元春勢の今田経忠、香川春継等が抜け駆けして牛尾弾正忠の籠る三笠城を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻47「雲州三笠城没落事」

永禄13年 1570年 4月17日 41歳
毛利輝元吉川元春小早川隆景が牛尾弾正忠の籠る三笠城を攻め、同城を落とす。牛尾弾正忠は自害する。
出典:『陰徳太平記』巻47「雲州三笠城没落事」

永禄13年 1570年 4月18日 41歳
毛利輝元吉川元春小早川隆景率いる毛利勢が、熊野城、高瀬城を攻めるため十倉に移動する。
出典:『陰徳太平記』巻47「雲州三笠城没落事」

元亀1年 1570年 4月23日 41歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 10月3日 41歳
尼子勝久が末次城(出雲国)を攻める。
勝久の末次城攻撃を月山富田城(出雲国)で聞いた吉川元春が末次城救援のため月山富田城を発つ。途中、杉原盛重、南条元清、三刀屋久扶、三沢為清、益田藤兼、山田重直が元春に合流し、末次城近くに陣取る。元春は元清・重直を新山攻めを命じる。勝久・幸盛・久綱は元春が後詰にやってきたことを受け、新山に撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻47「勝久攻末次付後詰並米原降参之事」

元亀1年 1570年 10月10日 41歳
吉川元春尼子勝久山中幸盛、立原久綱等が籠る新山城(出雲国)より撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻47「勝久攻末次付後詰並米原降参之事」

元亀2年 1571年 -月-日 42歳
秋上綱平・久家父子が吉川元春を介し、毛利家に降伏する。
出典:『陰徳太平記』巻48「秋上父子心替之事」

元亀2年 1571年 6月14日 42歳
父・毛利元就が死去する。
出典:『陰徳太平記』巻48「毛利元就朝臣逝去並鹿助披擒事」

元亀2年 1571年 8月10日 42歳
弟・出羽元倶が死去する。
出典:-

元亀2年 1571年 -月-日 42歳
末吉城に籠っていた山中幸盛が宍戸隆家・口羽通良を介し吉川元春に降伏を申し出る。元春は幸盛の処刑を主張するが、隆家・通良が助命を主張し、結果、幸盛を毛利家で召し抱えることになる。
出典:『陰徳太平記』巻48「毛利元就朝臣逝去並鹿助披擒事」

元亀2年 1571年 8月25日 42歳
吉川元春、宍戸隆家、口羽通良、杉原盛重、南条元清、三沢為清、三刀屋久扶等の軍勢7000が、尼子勝久の籠る新山城(出雲国)を攻める。勝久は城より脱出し、隠岐国に逃れる。
出典:『陰徳太平記』巻48「山中鹿助出奔付尼子勝久逃走於隠州之事」

天正1年 1573年 7月28日 44歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正2年 1574年 7月16日 45歳
姉・五龍が死去する。
出典:-

天正4年 1576年 5月14日 47歳
英賀(播磨国)にて毛利勢と黒田孝高が戦い、孝高が勝利する。
出典:(天正5年)5月16日付織田信長朱印状(福岡市博物館所蔵『軍師官兵衛』)、『黒田家譜』巻1「孝高記」

天正4年 1576年 7月12日 47歳
毛利家警固衆・小早川家警固衆・村上水軍衆の木梨元恒・村上吉充・生口景守・児玉就英戸川秀安・村上武満・粟屋元如・井上春忠・包久景勝・桑原元勝・村上景広・香川広景・村上吉継・乃美宗勝・村上元吉が岩屋(淡路国)を出航し、貝塚(和泉国)に着岸する。
出典:(天正4年7月15日付村上元吉他十四名連署注進状(『戦国遺文』瀬戸内水軍編460号「毛利家文書」)

天正4年 1576年 7月13日 47歳
大坂本願寺に兵糧を運び入れるため、毛利家警固衆・小早川家警固衆・村上水軍衆の木梨元恒・村上吉充・生口景守・児玉就英・村上武満・粟屋元如・井上春忠・包久景勝・桑原元勝・村上景広・香川広景・村上吉継・乃美宗勝・村上元吉、宇喜多家の戸川秀安が雑賀衆ととともに津より住吉(摂津国)に出船した際、木津川河口にて織田家の水軍衆に遭遇する。織田方は真鍋貞友、沼野伝内、沼野伊賀、沼野大隅守、宮崎鎌大夫、宮崎鹿目介、尼崎小畑、野口が300艘にて応戦。14日早朝まで戦闘が繰り広げられる。村上水軍衆の焙烙火矢により織田方の船が焼き崩される。織田信長も当地に向かうが、向った時には毛利勢による兵糧の運び入れが終わっていたため撤退する。
出典:(天正4年7月15日付村上元吉他十四名連署注進状(『戦国遺文』瀬戸内水軍編460号「毛利家文書」)、『信長公記』巻9(5)「西国より大船を催し木津浦船軍歴々討死の事」、(天正4年)7月27日付吉川元春書状(『上杉家文書』2-646号)

天正6年 1578年 4月-日 49歳
吉川元春小早川隆景宇喜多忠家尼子勝久山中幸盛の籠る上月城(播磨国)に攻め寄せる。羽柴秀吉荒木村重が救援に赴くが、城が落城する。
出典:『信長公記』巻11(6)「高倉山西国陣之事」

天正6年 1578年 7月3日 49歳
上月城(播磨国)にて尼子勝久・豊若丸・常若丸父子、尼子氏久、尼子通久、神西元通が自害する。山中幸盛は毛利家の捕虜となる。
出典:-

天正6年 1578年 11月6日 49歳
毛利家の水軍衆が木津へ向かってくるが、九鬼嘉隆の率いる大船7艘が応戦。毛利水軍衆の大将が乗る船を大鉄砲で打ち崩したため、水軍衆は九鬼の大船に近寄らなくなる。見物人は九鬼の手柄と称賛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正7年 1579年 1月9日 50歳
武田勝頼吉川元春に、荒木村重織田信長に謀叛したことについて、毛利家の本意に属すことであり、足利義昭を奉じて速やかに京都へ出勢すべきことを毛利輝元に諫言するように伝える書状を発給する。
出典:(天正7年)1月9日付武田勝頼書状写(『戦国遺文』武田氏編5巻-3067号、吉川家文書)

天正7年 1579年 2月-日 50歳
毛利輝元吉川元春吉川元長吉川広家小早川隆景率いる毛利勢40000が宇喜多直家領の美作国に向けて出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻第61「毛利三家作州発向付処々城没落之事」

天正7年 1579年 4月6日 50歳
2月5日に毛利輝元が畿内に向けて出勢したのを受け、武田勝頼は織田領の尾張・美濃、徳川領の三河に出勢することを吉川元春に伝える。また、本願寺顕如荒木村重が健在なうちに足利義昭の入洛を成し、畿内静謐を図るよう輝元に諫言するよう元春に依頼する。
出典:(天正7年)4月6日付武田勝頼書状(『戦国遺文』武田氏編5巻-3117号、吉川家文書)

天正7年 1579年 9月12日 50歳
毛利輝元吉川元春吉川元長吉川広家小早川隆景率いる毛利勢が宇喜多家の小寺畑城(美作国)を攻め落とす。
出典:『陰徳太平記』巻第61「毛利三家作州発向付処々城没落之事」

天正7年 1579年 9月16日 50歳
毛利輝元吉川元春吉川元長吉川広家小早川隆景率いる毛利勢が宇喜多家の大寺畑城(美作国)を包囲する。
出典:『陰徳太平記』巻第61「毛利三家作州発向付処々城没落之事」

天正7年 1579年 11月7日 50歳
甥・毛利秀元が生まれる。
出典:-

天正8年 1580年 1月17日 51歳
申刻(15-17時)、三木城(播磨国)にて別所長治別所友之が切腹する。三木城が羽柴秀吉の手に落ちる。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」、『天正記』「播磨別所記」、『豊臣記』

天正9年 1581年 2月14日 53歳
宇喜多直家が死去する。
出典:-

天正9年 1581年 6月25日 52歳
羽柴秀吉鳥取城(因幡国)を攻めるべく姫路城(播磨国)より出陣する。
出典:『信長公記』巻14(6)「因幡国取鳥城取詰めの事」、『綿考輯録』巻4、『豊臣記』

天正9年 1581年 6月28日 52歳
羽柴秀吉吉川経家の籠る鳥取城(因幡国)を攻める。
出典:『信長公記』巻14(6)「因幡国取鳥城取詰めの事」、『綿考輯録』巻4、『豊臣記』

天正9年 1581年 7月1日 52歳
羽柴秀吉吉川経家の籠る鳥取城(因幡国)を攻めるべく、付城を築き杉原家次を入れ、鳥取城への路次を封鎖する。
出典:『信長公記』巻14(6)「因幡国取鳥城取詰めの事」、『綿考輯録』巻4、『豊臣記』

天正9年 1581年 7月5日 52歳
羽柴秀吉吉川経家の籠る鳥取城(因幡国)を包囲する。
出典:『綿考輯録』巻4、『黒田家譜』巻2「孝高記」

天正9年 1581年 10月25日 52歳
鳥取城(因幡国)を守る吉川経家が、城兵の助命と引き換えに切腹する。検使は堀尾吉晴
羽柴秀吉は経家の首を安土城(近江国)に送る。
出典:天正9年10月26日付堀久太郎宛書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-350号)、『豊臣記』

天正9年 1581年 10月28日 52歳
吉川元春の攻撃を受けている南条元続・小鴨元清を救うため羽柴秀吉が伯耆国に出陣する。
出典:『信長公記』巻14(13)「伯耆国南条表発向の事」

天正9年 1581年 12月25日 52歳
杉原盛重が死去する。
出典:-

天正10年 1582年 3月15日 53歳
羽柴秀吉が毛利輝元攻めとして備中国に向けて姫路城(播磨国)より出陣する。
出典:『豊臣記』

天正10年 1582年 4月24日 53歳
羽柴秀吉が宮路山城・冠山城(備中国)を包囲するとともに、幸山城に籠る小早川隆景を挑発する。
出典:天正10年4月24日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-407号)

天正10年 1582年 4月25日 53歳
羽柴秀吉が冠山城(備中国)を攻撃し落城させ、城主の林重真・松田孫次郎をはじめ300名を討つ。
出典:天正10年5月6日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-415号)、天正10年5月19日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号)

天正10年 1582年 5月2日 53歳
羽柴秀吉が宮路山城(備中国)の水の手を断ち落城させる。また、賀茂城の端城に攻め入り落とする。その後、居城としていた亀石城に帰る。
出典:天正10年5月3日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-414号)、天正10年5月6日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-415号)、天正10年5月19日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号)

天正10年 1582年 5月3日 53歳
羽柴秀吉が河屋城を攻め落とす。また、備前国児島の内の郡年寄中に、命じていた縄を送ってくれたことを謝すとともに、冠山城・宮路山城(備中国)を落とし、かつ賀茂城の端城も落としたことを伝える。加えて縄200束の調達を依頼する。
出典:天正10年5月19日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号)、天正10年5月3日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-414号)

天正10年 1582年 5月8日 53歳
羽柴秀吉高松城(備中国)を包囲する。
出典:天正10年5月19日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号)

天正10年 1582年 5月18日 53歳
羽柴秀吉が得居通幸に高松城(備中国)を水攻めにしている旨を伝える。また、そのうちに瀬戸内海にて得居に警固船の動員を依頼するので、その心づもりでいるようにと伝える。
出典:天正10年5月18日付得居通幸宛書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-418号)

天正10年 1582年 6月2日 53歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月4日 53歳
羽柴秀吉毛利輝元吉川元春小早川隆景が起請文を交わす。誓約内容は、輝元・元春・隆景の待遇について、「公儀」=織田信長への執り成しをすること、そのうえで彼ら3人を見放すことはしないこと、互いに裏切ることをしないことの3点。
出典:天正10年6月4日付羽柴秀吉起請文写(『豊臣秀吉文書集』1巻-422号)、『多聞院日記』同年月5日条

天正10年 1582年 6月4日 53歳
高松城(備中国)に籠城していた清水宗治、清水宗知、難波宗忠、末近信賀が、毛利・羽柴両軍が見守る中で切腹する。
出典:-

天正11年 1583年 4月24日 54歳
柴田勝家北之庄城(越前国)にて自害する。
出典:-

天正13年 1585年 4月1月23日日 56歳
羽柴秀吉の命により長宗我部元親を討伐すべく讃岐国に向かう宇喜多秀家の軍勢15000、蜂須賀正勝黒田孝高仙石秀久・尾藤知宣・杉原家次・小西行長の軍勢8000が屋島(讃岐国)に着陣する。
出典:『南海通紀』巻17「備前播磨軍将出陣讃州記」

天正13年 1585年 4月24日 56歳
羽柴秀長長宗我部元親を攻めるため、阿波国に向けてより出船する。
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」

天正13年 1585年 4月25日 56歳
羽柴秀長率いる軍勢が福良(淡路国)を経由し土佐泊(阿波国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」

天正13年 1585年 4月-日 56歳
羽柴秀次長宗我部元親を攻めるべく丹波国の軍勢を率い播磨国を経由し岩屋(淡路国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻17「羽柴秀吉公四国征伐記」

天正13年 1585年 5月5日 56歳
弟・毛利元秋が死去する。
出典:-

天正13年 1585年 6月16日 56歳
長宗我部元親を対治するため、羽柴秀吉が弟・秀長を四国に出陣させる。
出典:『宇野主水記』同年7月3日条

天正13年 1585年 7月3日 56歳
長宗我部元親の対治のため羽柴秀吉が洲本(淡路国)に着陣する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 7月5日 56歳
羽柴秀長が木津城(阿波国)を攻め、落とす。長宗我部元親は木津城の後詰に出ていたが、落城したため土佐国に帰国する。
出典:『宇野主水記』同年7月3日条

天正13年 1585年 7月11日 56歳
羽柴秀吉への関白宣下が行われる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正14年 1586年 8月10日 57歳
吉川元春小早川隆景島津義久討伐のため安芸国を出陣する。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正14年 1586年 8月16日 57歳
毛利輝元島津義久討伐のため広島城(安芸国)より出陣する。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正14年 1586年 10月2日 57歳
羽柴秀吉島津義久に諸大名との停戦を命じ、従わない場合は成敗すると伝える。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正14年 1586年 10月4日 57歳
毛利輝元高橋元種が籠る小倉城(豊前国)を包囲する。元種は降伏する。
出典:(天正14年)10月14日付羽柴秀吉書状(『吉川家文書』1-99号)

天正14年 1586年 11月7日 57歳
吉川元春元長父子、黒田孝高が宇留津城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
出典:(天正14年)11月20日付豊臣秀吉書状(『吉川家文書』1-98号)、『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正14年 1586年 11月15日 57歳
吉川元春が小倉(豊前国)にて死去する。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

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