人 物 史

毛利元就 もうり もとなり
生 没 年明応6年(1497)3/14-元亀2年(1571)6/14
出 身安芸国幼 名松寿丸
別 称少輔次郎
法 名-
戒 名洞春寺殿日頼洞春大居士
毛利弘元福原広俊の娘
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者妙玖(吉川国経の娘)、乃美隆興の娘、三吉隆亮の娘
毛利隆元五龍(宍戸隆家の妻)、吉川元春小早川隆景二宮就辰穂井田元清毛利元秋出羽元倶天野元政末次元康毛利秀包
官 位右馬頭、治部少輔、陸奥守
役 職-
城 郭吉田郡山城(安芸国)
参 考 文 献毛利元就に関する参考文献
関 連 デ ー タ毛利元就の関連文化財
毛利元就の家臣
毛利元就 年表
明応9年 1497年 3月14日 1歳
毛利元就が生まれる。
出典:-

文亀1年 1501年 2月29日 5歳
「明応」より「文亀」に年号が改まる。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正1年 1504年 2月30日 8歳
「文亀」より「永正」に年号が改まる。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正8年 1511年 -月-日 15歳
毛利松寿丸が元服し、少輔次郎元就と名乗る。
出典:『陰徳太平記』巻3「丹比松寿丸元服付明人相人相事」

永正14年 1517年 2月10日 21歳
武田元繁佐東銀山城(安芸国)を発し、今田に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻3「武田元繁帰安芸国付攻諸城事」

永正14年 1517年 10月3日 21歳
武田元繁が小田信忠の有田城(安芸国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻3「武田攻有田城付吉川高橋論同城事」

永正14年 1517年 10月21日 21歳
武田元繁毛利元就の猿掛城を攻めるべく、熊谷元直、山中、一条、板垣、小河内、粟屋の軍勢1000を遣わし、同城近辺を放火する。元就が猿掛城を出て熊谷等の武田勢と戦い、武田勢を退ける。
出典:『陰徳太平記』巻3「猿掛麓合戦之事」

永正14年 1517年 10月22日 21歳
有田(安芸国)にて武田元繁毛利元就が戦い、元繁が戦死し、元就が勝利する。武田方は、熊谷元直が戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻3「有田合戦付元繁戦死之事」

永正14年 1517年 10月23日 21歳
毛利元就香川行景己斐宗瑞が戦い、元就が勝利する。行景・宗瑞が戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻3「香川己斐討死之事」

永正17年 1520年 8月12日 24歳
兄・興元が死去する。
出典:『陰徳太平記』巻5「元就毛利家督之事」

大永1年 1521年 8月23日 25歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
出典:-

大永2年 1522年 8月16日 26歳
毛利元就が山県信春の壬生城(安芸国)を攻める。
出典:同年月20日付大内義興感状(『毛利家文書』1-209号)

大永2年 1522年 8月20日 26歳
大内義興が、8月16日の壬生城(安芸国)攻めで首4つをあげた毛利元就の戦功を称える感状を発給する。
出典:同年月日付大内義興感状(『毛利家文書』1-209号)

大永3年 1523年 4月15日 27歳
毛利元就が青屋城を攻めるべく、吉田郡山城(安芸国)を発つ。
出典:『陰徳太平記』巻4「丹比元就被囲青屋ノ城事」

大永3年 1523年 6月13日 27歳
尼子経久の命により毛利元就・吉川元経が蔵田信房の籠る鏡山城(安芸国)を攻めさせる。検使は亀井安綱。
出典:『陰徳太平記』巻4「丹比元就被囲青屋ノ城事」、『老翁物語』

大永3年 1523年 6月27日 27歳
尼子経久毛利元就・吉川元経が大内家家臣・蔵田信房が在番する鏡山城(安芸国)を攻める。元就は経久許可のもと、城主・信房に対し、信房が切腹すれば妻子を助命すると述べ、信房は元就の提案を受け入れ切腹する。
出典:『陰徳太平記』巻4「丹比元就被囲青屋ノ城事」

大永3年 1523年 6月28日 27歳
鏡山城(安芸国)が開城する。
出典:『陰徳太平記』巻4「丹比元就被囲青屋ノ城事」

大永3年 1523年 7月5日 27歳
尼子経久が出雲国に帰国すべく、西条(安芸国)を発つ。
出典:『陰徳太平記』巻4「丹比元就被囲青屋ノ城事」

大永3年 1523年 7月16日 27歳
甥・幸松丸が死去する。
出典:『陰徳太平記』巻5「元就毛利家督之事」

大永3年 1523年 8月28日 27歳
毛利元就が毛利家家督として吉田郡山城(安芸国)に入城する。福原貞俊、桂広澄、志道広好、口羽、児玉、赤川が元就の入城に供奉する。
出典:『陰徳太平記』巻5「元就毛利家督之事」

大永3年 1523年 -月-日 27歳
子・隆元が生まれる。
出典:-

大永4年 1524年 5月20日 28歳
大内義興義隆父子が山口(周防国)を発ち、安芸国に攻め入る。義隆は陶興房とともに武田光和の居城・佐東銀山城(安芸国)を攻め、義興は草津・二保を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻5「大内勢取囲銀山桜尾ノ両城付次休蔵主ノ事」

大永4年 1524年 6月26日 28歳
大内義隆が陶興房、杉伯耆守、杉勘解由、杉豊後守、問田掃部助、問田紀伊守とともに武田光和の籠る佐東銀山城(安芸国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻5「大内勢取囲銀山桜尾ノ両城付次休蔵主ノ事」

大永4年 1524年 6月27日 28歳
大内義隆が陶興房、杉伯耆守、杉勘解由、杉豊後守、問田掃部助、問田紀伊守とともに武田光和の籠る佐東銀山城(安芸国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻5「大内勢取囲銀山桜尾ノ両城付次休蔵主ノ事」

大永4年 1524年 7月8日 28歳
尼子経久大内義興義隆父子の攻撃を受けている武田光和の籠る佐東銀山城(安芸国)を救援すべく、亀井安綱・牛尾幸清・馬田駿河守・浅山主殿助・広田助兵衛の軍勢5000遣わすとともに、毛利元就・吉川国経・宍戸・平賀隆宗・三吉・小早川等の軍勢4000とともに佐東銀山城を攻める大内勢に対峙する。
出典:『陰徳太平記』巻5「尼子勢銀山後詰付合戦之事」

大永4年 1524年 7月10日 28歳
亀井安綱・牛尾幸清・馬田駿河守・浅山主殿助・広田助兵衛の軍勢5000を先陣、平賀隆宗・宮・三吉・宍戸勢の2200を二陣、毛利元就・吉川国経・小早川・熊谷・香川・三須勢の1700を三陣とし、佐東銀山城(安芸国)を包囲する大内義隆勢を攻める。大内勢は陶安房守・問田掃部助・青景越後守の軍勢3000を先陣として、杉豊後守の軍勢1000、杉伯耆守・杉民部大輔・仁保・豊田等の軍勢5000、弘中三河守・狩野入道・冷泉判官・千寿・秋月・高橋等の軍勢5000、陶興房・深野・宮川・野上・江良の軍勢3000が応戦する。
出典:『陰徳太平記』巻5「尼子勢銀山後詰付合戦之事」

大永4年 1524年 8月5日 28歳
山内直通、宮下野守、杉原宮内少輔、三吉入道、吉川国経、毛利元就熊谷信直、香川美作守、香川式部少輔、三須筑前守等が、佐東銀山城(安芸国)を包囲する陶興房に夜襲をかけるが、興房が追い払う。
出典:『陰徳太平記』巻5「毛利元就夜討之事」

享禄1年 1528年 8月20日 32歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

享禄1年 1528年 12月20日 32歳
大内義興が死去する。
出典:-

享禄2年 1529年 -月-日 33歳
娘・五龍が生まれる。
出典:-

享禄3年 1530年 -月-日 34歳
子・吉川元春が生まれる。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 36歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文2年 1533年 8月10日 37歳
武田光和熊谷信直を討つため、佐東銀山城(安芸国)より出陣し、伴五郎、香川光景、己斐直之、山県筑後守、飯田義武、山田重任、遠藤利之、福島義茂、温佳家行、久村繁安の軍勢1000と、武田家譜代衆の粟屋兵庫助、小河内大膳亮、小河内左京亮、板垣、青木、一条の軍勢800で信直の居城・三入高松城(安芸国)を攻める。横川(安芸国)にて信直は軍勢300をもって応戦し、武田勢を退ける。
出典:『陰徳太平記』巻8「芸州横川合戦ノ事」

天文2年 1533年 -月-日 37歳
子・小早川隆景が生まれる。
出典:-

天文3年 1534年 3月-日 38歳
毛利元就熊谷信直天野隆重香川光景・元忠兄弟が宮下野入道の籠る宮城(備後国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻9「備後国宮城合戦ノ事」

天文4年 1535年 3月-日 39歳
毛利元就熊谷信直天野隆重、阿曽沼広秀、山田重任、飯田義武、香川光景・元忠兄弟、遠藤、山県が高野山城(備後国)を攻める。毛利家家臣の福原上総介、桂元澄、桂上総守、児玉就忠、児玉就方、志道広良、井上、粟屋、赤川、渡辺が城攻めに参加する。
出典:『陰徳太平記』巻9「備後国高野山降参付桂元澄弓精之事」

天文9年 1540年 8月10日 44歳
尼子詮久吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を攻めるべく、月山富田城(出雲国)を出陣する。一門衆として尼子久幸、尼子経貞、尼子国久尼子誠久尼子豊久尼子敬久が、国衆として小鴨氏、庄氏、三村氏、石川氏、細川氏、伊勢氏、山内氏、高野山氏、木梨氏、池上氏、三吉氏、宮氏、杉原氏、三沢為幸、三刀屋久祐、浅山、宍道、佐波隆連、本城常光、羽根氏、福屋隆兼、岡本正長、小笠原長徳、周布氏、祖式氏、吉川興経武田信実、尼子家家臣として亀井安綱、佐世清宗、河本隆任、牛尾幸清、湯原宗綱、川副常重、川副久盛、宇山久信、秋上綱平、中井久包、中井平蔵兵衛、高尾久友、黒正久澄、立原久光、三刀屋蔵人、森脇勝正、森脇清平、横道清高、多胡辰敬、古志吉信、熊野久家、熊野次郎、米原広綱、湯惟宗、湯家経、馬田慶信、山中氏、神西氏、広田氏、桜井氏、原氏、吉岡氏、疋田氏、遠藤氏、池田氏、相良氏、大西氏、本田氏、平野氏、津森氏、松田氏等が出陣する。総勢48000とされる。
出典:『陰徳太平記』巻10「尼子晴久吉田発向之事」

天文9年 1540年 9月4日 44歳
尼子詮久が多治比に陣取る。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 9月5日 44歳
尼子詮久が吉田上村(安芸国)に出勢し、家を放火する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 9月6日 44歳
尼子詮久毛利元就の居城・吉田郡山城(安芸国)の太郎丸および町屋等を放火する。
太郎丸にて尼子勢の川副常重、黒正兵衛、湯信濃守、広田宗意、桜井左衛門尉、馬田長兵衛、黒田采女等の軍勢4500と毛利勢の福原貞俊桂元澄、児玉就忠、粟屋元信、口羽通良、国司元相、坂新五郎左衛門、渡辺通、内藤、三戸、佐藤、飯田、麻原、桜井が戦い、毛利勢が勝利する。
坂にて尼子勢の湯原宗綱と毛利勢の援軍としてやってきた梨羽景盛・赤川左京亮、南方宮内少輔、秋山隼人、羽二藤兵衛、中村豊後守、波多野源兵衛、井上源五郎、井上源三郎、井上右衛門太夫、井上与三右衛門、山県弥三郎が戦い、弥三郎が宗綱を討ち取る。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」、『陰徳太平記』巻10「太郎丸並池内合戦付湯原弥次郎討死之事」

天文9年 1540年 9月9日 44歳
尼子勢の本城常光、赤穴幸清、湯家経が後小路を攻める。遣分にて毛利勢の渡辺通、門田宮内少輔、三田能登守、山県筑後守、天野紀伊守、井上与三右衛門、井上新三郎、児玉三郎右衛門、三戸小三郎、赤川十郎左衛門、庄原木工頭、志道源三、渡辺新右衛門、児玉左衛門太郎、二宮則阿弥、飛落小次郎等が応戦する。
出典:『陰徳太平記』巻10「遣分合戦之事」

天文9年 1540年 9月12日 44歳
尼子詮久毛利元就の居城・吉田郡山城(安芸国)の大田口・広修寺縄手口・祇園縄手口を攻める。元就は応戦する。大田口にで大合戦が行われる。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」

天文9年 1540年 9月23日 44歳
尼子詮久が青山三塚山に陣替えする。毛利元就は尼子本陣の風越山を急襲する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 9月26日 44歳
尼子詮久が坂に陣取っていた杉元相・小早川興景を攻める。毛利元就は坂に赴き、尼子勢と闘う。尼子方の湯原宗綱が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 10月11日 44歳
尼子詮久が郷内にいつものごとく軍勢を遣わしたところ、毛利元就が出撃し、尼子勢を青山構まで追い払う。尼子方の三沢為幸が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 12月3日 44歳
陶隆房尼子詮久の攻撃を受けている吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を救援すべく、軍勢10000をもって山田中山に陣取る。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文9年 1540年 12月11日 44歳
宮崎・長尾(安芸国)にて尼子詮久方の南条・小鴨・吉川・高橋と毛利元就・宍戸勢が戦う。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 11月26日 44歳
尼子晴久の攻撃を受けている吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を救援するため、陶隆房を大将とする大内勢が山口(周防国)を出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文10年 1541年 1月3日 45歳
尼子詮久吉田郡山城(安芸国)を攻める。相合口にて尼子勢と毛利元就が戦う。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文10年 1541年 1月11日 45歳
陶隆房が天神山に陣替えする。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」、『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文10年 1541年 1月13日 45歳
吉田郡山城(安芸国)に籠る毛利元就が、城攻めのため宮崎・長尾(安芸国)に陣を張る尼子詮久を攻める。元就の攻撃に、陶隆房も呼応し、詮久は敗れて出雲国に撤退する。この戦いで、隆房被官の深野興房・宮川興広が、尼子方は尼子久幸・三沢為幸・高尾豊前守が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」

天文10年 1541年 4月5日 45歳
大内義隆が友田興藤の籠る桜尾城(安芸国)を攻め、同城を落とす。
出典:『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文10年 1541年 5月-日 45歳
大内義隆方の毛利元就が武田信重の籠る佐東銀山城(安芸国)を攻め、同城を落とす。信重は自害する。
出典:『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文10年 1541年 11月13日 45歳
尼子経久が死去する。
出典:-

天文11年 1542年 1月12日 46歳
大内義隆月山富田城(出雲国)の尼子晴久を攻めるべく、山口(周防国)を出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻13「尼子経久逝去並ニ大内義隆雲州発向之事」

天文11年 1542年 2月-日 46歳
大内義隆尼子晴久を攻めるべく出雲国に向けて出陣する。陶隆房、内藤興盛、毛利元就等が参加する。新庄西禅寺に大内勢が陣取る。
出典:『江濃記』「京極生害之事」、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文11年 1542年 3月-日 46歳
大内義隆勢が出羽二山に陣取る。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文11年 1542年 7月18日 46歳
毛利元就がつが東に陣取る。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文11年 1542年 7月19日 46歳
大内義隆勢の陶隆房・内藤興盛等が赤穴光清の赤穴城(出雲国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻13「尼子経久逝去並ニ大内義隆雲州発向之事」

天文11年 1542年 7月23日 46歳
大内義隆勢が赤穴光清の籠る赤穴城(出雲国)を包囲する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文11年 1542年 7月27日 46歳
大内義隆勢が赤穴光清の籠る赤穴城(出雲国)を攻め、同城を落とす。光清は戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻13「尼子経久逝去並ニ大内義隆雲州発向之事」、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文12年 1543年 1月21日 46歳
大内義隆が畦地山(出雲国)に本陣を置く。
出典:『陰徳太平記』巻13「富田菅谷蓮池合戦之事」

天文12年 1543年 2月12日 47歳
大内義隆が椋羅木山(出雲国)に本陣を移し、陶隆房が経塚(出雲国)に陣を置く。
出典:『陰徳太平記』巻13「富田菅谷蓮池合戦之事」

天文12年 1543年 5月7日 47歳
大内義隆が椋羅木山(出雲国)の本陣を払い、湯谷より船にて山口(周防国)に撤退せんとする。義隆の養子・晴持が海路にて周防国に帰国する最中、船が転覆して溺死する。
出典:『陰徳太平記』巻14「大内義隆朝臣殿軍付晴持最後之事」、『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文12年 1543年 7月3日 47歳
尼子晴久が石見国に侵攻する。
出典:『陰徳太平記』巻14「尼子晴久石州発向之事」

天文12年 1543年 7月14日 47歳
尼子晴久が秋上三郎左衛門、立原備前守、森脇長門守を先陣として久利城(石見国)を攻め、同城を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻14「尼子晴久石州発向之事」

天文13年 1544年 7月26日 48歳
尼子国久誠久敬久父子、亀井安綱、牛尾幸清、平野又右衛門、神西三郎左衛門、池田、川副、宇山、松田、村井、熊野率いる尼子勢7000の攻撃を受けた三吉広隆を救援すべく、毛利元就が粟屋信賢、粟屋太郎左衛門、井上就信、福原貞俊、児玉就忠、長屋吉親を三吉(備後国)に遣わす。
出典:『陰徳太平記』巻14「備後国府野合戦之事」

天文13年 1544年 7月28日 48歳
国府野(備後国)にて尼子国久誠久敬久父子率いる尼子勢と三吉広隆及び福原貞俊・児玉就忠率いる毛利勢が戦い、国久が勝利する。
出典:『陰徳太平記』巻14「備後国府野合戦之事」

天文15年 1546年 -月-日 50歳
子・二宮就辰が生まれる。毛利元就が虎法丸と名付ける。
出典:-

天文17年 1548年 3月-日 52歳
毛利元春が吉川家相続につき、小倉山城(出雲国)に入城する。
出典:『陰徳太平記』巻16「元春吉川家相続之事」

天文17年 1548年 6月20日 52歳
陶隆房毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景、宍戸元源、宍戸隆家、平賀隆宗、香川光景、己斐豊後守の軍勢10000が山名理興神辺城(備後国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻第17「備後国神辺ノ城合戦之事」

天文17年 1548年 6月23日 52歳
吉川元春神辺城(備後国)より討って出た山名理興が戦う。
出典:『陰徳太平記』巻第17「備後国神辺ノ城合戦之事」

天文17年 1548年 8月3日 52歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景熊谷信直香川光景、飯田義武等が、山口(周防国)に居る大内義隆のもとに礼に赴く。
出典:『陰徳太平記』巻第17「毛利元就父子防州山口下向之事」

天文17年 1548年 -月-日 52歳
孫・吉川元長が生まれる。
出典:『陰徳太平記』巻16「元春吉川家相続之事」

天文18年 1549年 3月-日 53歳
毛利元就吉川元春小早川隆景が山口(周防国)より吉田郡山城(安芸国)に帰城する。毛利隆元は山口に残る。
出典:『陰徳太平記』巻第17「毛利元就父子防州山口下向之事」

天文19年 1550年 9月27日 54歳
毛利元就吉川興経のもとに熊谷信直天野隆重を遣わし、興経・千法師父子を殺害する。
出典:-

天文20年 1551年 9月1日 55歳
大内義隆陶隆房の謀叛にあい大寧寺にて自害する。
出典:『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『厳助大僧正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻19「義隆卿自害並大寧寺炎焼之事」

天文20年 1551年 9月11日 55歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景が槌山を攻める。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文20年 1551年 -月-日 55歳
子・穂井田元清が生まれる。
出典:-

天文21年 1552年 3月3日 56歳
大内義長が山口(周防国)に到着する。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻20「大内義長山口入之事」

天文21年 1552年 5月20日 56歳
毛利元就が江田隆貫の旗返城(備後国)を攻めるため涌木に陣取る。
尼子晴久が隆貫を救援すべく涌木に布陣する毛利勢に対峙す。
出典:『陰徳太平記』巻21「備後国泉合戦之事」

天文21年 1552年 5月-日 56歳
泉(備後国)にて毛利元就尼子晴久が戦う。
出典:『陰徳太平記』巻21「備後国泉合戦之事」

天文21年 1552年 6月5日 56歳
尼子晴久が釜棟より山内に陣所を移す。
出典:『陰徳太平記』巻21「備後国泉合戦之事」

天文21年 1552年 7月7日 56歳
毛利元就平賀隆保の頭崎城(安芸国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻20「安芸国頭崎城明退事並西条槌山落城之事」

天文21年 1552年 7月23日 56歳
毛利元就が祝甲斐守・祝治部大輔・久城修理亮が籠る祝城を攻める。吉川元春、平賀隆宗、宍戸隆家、熊谷信直、天野隆綱、香川光景、飯田義武が城攻めに参加する。
出典:『陰徳太平記』巻21「祝城没落之事」

天文21年 1552年 8月27日 56歳
平賀隆保が頭崎城(安芸国)より槌山城に移る。
出典:『陰徳太平記』巻20「安芸国頭崎城明退事並西条槌山落城之事」

天文21年 1552年 9月8日 56歳
毛利隆元吉川元春を大将とし、福原貞俊、志道、児玉、粟屋、井上、赤川元保、口羽通良、熊谷信直、天野、香川、飯田、入江等からなる毛利勢4000が、平賀隆保の籠る槌山城に向けて吉田郡山城(安芸国)を出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻20「安芸国頭崎城明退事並西条槌山落城之事」

天文21年 1552年 9月11日 56歳
毛利隆元吉川元春を大将とし、福原貞俊、志道、児玉、粟屋、井上、赤川元保、口羽通良、熊谷信直、天野、香川、飯田、入江等からなる毛利勢4000が平賀隆保の籠る槌山城近くに陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻20「安芸国頭崎城明退事並西条槌山落城之事」

天文21年 1552年 9月29日 56歳
平賀隆保が自身の命と引き換えに槌山城に籠る兵の助命を、毛利隆元吉川元春に申し出る。隆元・元春は隆保の申し出を了承し、隆保は自害する。
出典:『陰徳太平記』巻20「安芸国頭崎城明退事並西条槌山落城之事」

天文21年 1552年 -月-日 56歳
子・元秋が生まれる。
出典:-

天文22年 1553年 1月22日 57歳
孫・輝元が生まれる。
出典:-

天文22年 1553年 2月15日 57歳
毛利元就隆元父子が伊未・井原(備中国)に陣取る。吉川元春が猿掛城(備中国)近くに陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻21「三村家親属毛利家付備中国猿掛城合戦之事」

天文22年 1553年 4月3日 57歳
三村家親吉川元春熊谷信直、天野隆綱が井原(備中国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻21「三村家親属毛利家付備中国猿掛城合戦之事」

天文22年 1553年 4月5日 57歳
夜、井原(備中国)にて穂井田為資と三村家親が戦い、家親が勝利する。穂井田勢は村田行吉が戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻21「三村家親属毛利家付備中国猿掛城合戦之事」

天文23年 1554年 2月18日 58歳
毛利元就隆元父子が江良房栄のもとへ礼に赴く。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文23年 1554年 5月12日 58歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景が神領(安芸国)を放火する。村田入道、杉生彦太郎が五日市(安芸国)に出る。五日市にて元就、熊谷信直、飯田義武と村田・杉生が戦い、元就が勝利する。
出典:『陰徳太平記』巻24「毛利元就被攻芸州所々城事」

天文23年 1554年 5月18日 58歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景が佐東郡に攻め入る。元就は井上就方を佐東銀山城(安芸国)城主の栗田時勝、小城の麻生鎮里のもとに遣わし開城を促す。時勝、鎮里は元就に城を明け渡す。
出典:『陰徳太平記』巻24「毛利元就被攻芸州所々城事」

天文23年 1554年 6月5日 58歳
明石口(安芸国)にて毛利元就陶晴賢の家臣・宮川房長が戦い、元就が勝利する。毛利方の参戦者 熊谷信直
出典:(天文23年)6月11日付毛利元就・隆元連署状(『大日本古文書』家わけ14「熊谷家文書」129号)

天文23年 1554年 6月8日 58歳
久島・白沙動にて毛利元就陶晴賢勢が戦う。毛利方の参戦者 熊谷信直
出典:(天文23年)6月11日付毛利元就・隆元連署状(『大日本古文書』家わけ14「熊谷家文書」129号)

天文23年 1554年 10月3日 58歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景が佐西郡(安芸国)に攻め入る。
出典:『陰徳太平記』巻24「毛利元就佐西郡働之事」

天文23年 1554年 11月1日 58歳
尼子晴久尼子国久誠久父子の殺害を命じ、国久は月山富田城(出雲国)登城中に討たれ、誠久は館にて自害する。
出典:-

天文24年 1555年 3月16日 59歳
陶晴賢の命を受けた弘中隆包が江良房栄を殺害する。
出典:『陰徳太平記』巻第24「陶全〓誅江良丹後守事」

天文24年 1555年 9月3日 59歳
陶晴賢が安芸国を攻めるべく、軍勢27000を率い山口(周防国)を発つ。
出典:『陰徳太平記』巻25「陶入道厳島渡海之評定之事」

天文24年 1555年 9月7日 59歳
陶晴賢率いる大内勢が岩国(周防国)の永興寺(周防国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻25「陶入道厳島渡海之評定之事」

天文24年 1555年 9月26日 59歳
乃美宗勝が村上通康の来島海賊衆500艘を伴い厳島(安芸国)に上陸する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文24年 1555年 9月28日 59歳
陶晴賢勢が攻撃中の宮尾城(安芸国)に熊谷信直・高直・直清・広真・三須隆経が入る。
出典:『陰徳太平記』巻26「能島久留島与力元就付弘中隆包軍議事」

天文24年 1555年 9月30日 59歳
毛利元就が廿日市(安芸国)より軍勢を率いて出航し、厳島(安芸国)に上陸する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」

天文24年 1555年 10月1日 59歳
厳島(安芸国)に滞在中の陶晴賢毛利元就が急襲し、晴賢は自害する。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年)、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」、同巻28「陶全羨最後之事」

弘治1年 1555年 10月23日 59歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治1年 1555年 -月-日 59歳
子・出羽元倶が生まれる。
出典:-

弘治3年 1557年 1月10日 61歳
福原広俊が死去する。
出典:-

弘治3年 1557年 3月2日 61歳
毛利元就隆元吉川元春小早川隆景父子が防府(周防国)に陣取る。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年)

弘治3年 1557年 4月3日 61歳
大内義長が死去する。
出典:-

弘治3年 1557年 6月18日 61歳
毛利元就厳島神社(安芸国宮島)にて万部経法会を執行する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

弘治4年 1558年 2月17日 62歳
出羽(石見国)にて本城常光小笠原長雄・牛尾幸清・湯惟宗・宇山久兼吉川元春・出羽元祐・杉原盛重福屋隆兼が戦う。
出典:『陰徳太平記』巻31「石州出羽合戦之事」

弘治4年 1558年 2月28日 62歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄1年 1558年 4月晦日日 62歳
吉川元春益田藤兼、佐波秀連、杉原盛重福屋隆兼小笠原長雄の所領・温湯(石見国)の在所を放火する。その火が、長雄館にも引火する。元春は長雄勢を攻め、長雄は温湯城(石見国)に撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄1年 1558年 5月20日 62歳
毛利元就毛利隆元小早川隆景率いる毛利勢7000が小笠原長雄の籠る温湯城(石見国)を攻めるべく出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄1年 1558年 5月24日 62歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景益田藤兼、佐波秀連、杉原盛重福屋隆兼、宍戸隆家、熊谷信直天野隆重、出羽元祐率いる毛利勢12000が小笠原長雄の籠る温湯城(石見国)を包囲する。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄1年 1558年 5月29日 62歳
小笠原長雄の籠る温湯城(石見国)を攻めるにあたり、毛利隆元が笠取山に、吉川元春が温湯城・赤城間に、小早川隆景が小栖山に陣取る。
温湯城(石見国)-赤城間に陣取る吉川元春が、赤城の小笠原勢を攻めると思いこんだ小笠原長雄が、加勢として旗谷に勢を出す。元春は応戦し、小笠原勢を破る。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄1年 1558年 6月1日 62歳
吉川元春が、赤城に陣取る小笠原勢を攻める。小笠原勢は温湯城(石見国)に撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄2年 1559年 -月-日 63歳
子・天野元政が生まれる。
出典:-

永禄3年 1560年 12月24日 64歳
尼子晴久が死去する。
出典:-

永禄3年 1560年 -月-日 64歳
子・末次元康が生まれる。
出典:-

永禄4年 1561年 3月26日 65歳
毛利元就隆元父子が小早川隆景の居城・新高山城(安芸国)に赴べく、吉田郡山城(安芸国)を出立し、椋梨(安芸国)にて宿泊する。
出典:毛利元就父子雄高山行向滞留日記写(『小早川家文書』1-123号)

永禄4年 1561年 3月27日 65歳
毛利元就隆元父子が小早川隆景の居城・新高山城(安芸国)に到着する。元就は井上春忠邸に、隆元は巨真寺(安芸国)に宿泊する。
出典:毛利元就父子雄高山行向滞留日記写(『小早川家文書』1-123号)

永禄5年 1562年 4月-日 66歳
足利義輝の調停により毛利元就大友義鎮が和睦する。
出典:『桂岌円覚書』

永禄5年 1562年 9月1日 66歳
毛利元就隆元父子が熊谷信直に山代五ヶ村の内250貫文の地を給付する。
出典:永禄5年9月1日付毛利元就・隆元連署判物(『大日本古文書』家わけ14「熊谷家文書」140号)

永禄5年 1562年 11月5日 66歳
毛利元就本城常光を殺害する。
出典:-

永禄5年 1562年 11月10日 66歳
毛利元就隆元父子が熊谷信直に古志400貫文の地を給付する。
出典:永禄5年11月10日付毛利元就・隆元連署判物(『大日本古文書』家わけ14「熊谷家文書」142号)

永禄6年 1563年 7月-日 67歳
毛利元就尼子義久を志路村(安芸国)に置く。月山富田城(出雲国)に天野隆重を置き、南条城(伯耆国)に杉原盛重を置く。
出典:『毛利元就記』

永禄6年 1563年 8月4日 67歳
子・隆元が佐々部(安芸国)にて死去する。
出典:『桂岌円覚書』

永禄8年 1565年 4月17日 69歳
毛利元就尼子義久の籠る月山富田城(出雲国)を攻める。塩谷口にて吉川元春勢と尼子勢が戦う。
出典:『陰徳太平記』巻44「作州高田城合戦之事」

永禄8年 1565年 5月19日 69歳
午初点(11時)、松永久通ら三好勢10000が御所(春日殿)にいた足利義輝を襲撃する。義輝は応戦するが戦死する。義輝とともに討死した者は、周嵩、慶寿院、畠山九郎、大館岩石、上野兵部少輔、上野与八郎、摂津いと、細川宮内少輔、一色淡路守、一色又三郎、彦部雅楽頭、彦部孫四郎、荒川治部少輔、武田左兵衛尉、進士晴舎、進士主馬頭、沼田上野介、杉原晴盛、朝日新三郎、結城主膳正、有馬源次郎、治部三郎左衛門、福阿弥、台阿、松阿、林阿、慶阿、疋田孫四郎、二宮弥三郎、大弐、谷口民部丞、小林左京亮(慶寿院内者)、西面左馬允(慶寿院内者)、松井新二郎(慶寿院内者)、高木右近(慶寿院内者)、森田新左衛門尉(慶寿院内者)、竹阿(慶寿院内者)、金(慶寿院内者)、蔵首座(周嵩内者)、河端兵部丞(周嵩内者)、木村小四郎(周嵩内者)、飯田左橘右兵衛尉(春日局内者)、松原小三郎(春日局内者)、粟津甚三郎(春日局内者)、林与五郎(春日局内者)、西川新左衛門尉(春日局内者)、中井助左衛門尉(春日局内者)、畑(内者)、村田弥介(杉原内者)、八田十右衛門尉(杉原内者)、高橋(進士内者)、一河など。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄8年 1565年 8月8日 69歳
杉原盛重今田経高二宮俊実、森脇市郎右衛門、山県四郎右衛門が蜂塚右衛門尉の籠る江美城(伯耆国)を攻め、同城を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻39「伯州江美城没落之事」

永禄8年 1565年 9月3日 69歳
毛利元就の命により三村家親香川光景・広景・春継父子が吉田元重の籠る大江城(伯耆国)を攻め、同城を落とす。元重は月山富田城(出雲国)に逃亡する。
出典:『陰徳太平記』巻39「大江城没落並富田勢夜討之事」

永禄8年 1565年 9月20日 69歳
毛利元就毛利輝元吉川元春吉川元長小早川隆景等が率いる軍勢25000が尼子義久の居城・月山富田城(出雲国)を攻めぐべく掠良木山に陣取る。
元就が末次(出雲国)に米原綱寛を、天満城に杉原盛重家臣の菖蒲左馬允・入江大蔵少輔・菊池肥前守を、守山に長屋小次郎を置く。
出典:『陰徳太平記』巻39「富田所々付城並山中鹿ノ助夜討事」

永禄9年 1566年 2月5日 70歳
興善寺(美作国)にて遠藤秀清・俊通兄弟が三村家親を鉄砲にて狙撃し、家親は死亡する。
出典:『陰徳太平記』巻40「三村家親事」

永禄9年 1566年 11月21日 70歳
尼子義久毛利元就に降伏する。
出典:-

永禄9年 1566年 11月28日 70歳
尼子義久月山富田城(出雲国)より退城する。
出典:-

永禄10年 1567年 1月18日 71歳
子・秀包が生まれる。
出典:-

永禄10年 1567年 7月7日 71歳
戸次鑑連・吉弘鑑理・臼杵鑑速率いる大友勢が太宰府(筑前国)に陣取る。鑑速が高橋鑑種の家臣が籠る岩屋城(筑前国)を攻め、同城を落とす。鑑連、鑑理は宝満城(筑前国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻41「高橋宗仙毛利元就一味付筑前国所々合戦之事」

永禄10年 1567年 8月15日 71歳
戸次鑑連・臼杵鑑速率いる大友勢が秋月種実領の嘉摩郡、穂波郡に攻め入る。
出典:『陰徳太平記』巻41「高橋宗仙毛利元就一味付筑前国所々合戦之事」

永禄10年 1567年 9月3日 71歳
夜、秋月種実が休松(筑前国)に陣取る戸次鑑連・吉弘鑑理・臼杵鑑速率いる大友勢に夜襲を仕掛け、大友勢は敗走する。大友勢は戸次鑑方、戸次親宗、戸次鑑繁、戸次鑑堅、十時右近、由布五兵衛、安東右馬允、綿貫勘解由が戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻41「高橋宗仙毛利元就一味付筑前国所々合戦之事」

永禄11年 1568年 2月-日 72歳
河野通直・通宣が宇都宮豊綱方の上須戒城(伊予国)を攻め、同城を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻41「伊予国所々合戦之事」

永禄11年 1568年 2月24日 72歳
河野通直・通宣が宇都宮豊綱方の上須戒城(伊予国)を攻め、同城を落とす。吉川元春小早川隆景が率いる毛利勢が下須戒城(伊予国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻41「伊予国所々合戦之事」

永禄11年 1568年 2月-日 72歳
益田元祥が元服のため吉田郡山城(安芸国)の毛利元就のもとを訪れる。満願寺(安芸国)にて能が催される。
出典:『桂岌円覚書』

永禄11年 1568年 11月5日 72歳
吉川元春小早川隆景が長野兵部太輔の籠る三ツ嶽城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
出典:『陰徳記』巻42「豊前国三ツ嶽没落之事」

永禄12年 1569年 4月4日 73歳
吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、熊谷信直等が率いる毛利勢が壇(筑前国)に陣取る。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 4月4日 73歳
吉川元春小早川隆景等が率いる毛利勢が立花山城(筑前国)を攻めるべく壇(筑前国)を発つ。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 4月16日 73歳
吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、熊谷信直杉原盛重等が率いる毛利勢が立花山城(筑前国)を攻める。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 5月5日 73歳
吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、熊谷信直等が率いる毛利勢の攻撃を受けている立花山城(筑前国)を救うべく、大友勢が同城の後詰めとして到着する。大友勢と毛利勢が戦う。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 5月18日 73歳
立花山城(筑前国)近くで、吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、熊谷信直等が率いる毛利勢と戸次道雪率いる大友勢が戦う。
出典:『陰徳記』巻43「筑前国立花之城取囲事付大友勢後詰事」

永禄12年 1569年 5月-日 73歳
尼子勝久山中幸盛、立原久綱、横道正光、横道高宗、真木宗右衛門、吉田三郎左衛門、吉田八郎左衛門、川副右京亮、川副三郎左衛門、川副次郎左衛門、目黒助次郎、米原助十郎、月坂助太郎、力石九郎兵衛、平野加兵衛、平野源助、宇山弥次郎、三吉五郎左衛門、三吉甚次郎、小林甚助、青砥助次郎、日野又五郎、大塚弥三郎、大野平兵衛、日野助五郎、福山内蔵允、中井与次郎、片桐治部丞、江美源内左衛門が隠岐国に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻43「尼子勝久入雲州付松永霜台事」

永禄12年 1569年 6月23日 73歳
尼子勝久が忠山(出雲国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻43「尼子勝久入雲州付松永霜台事」

永禄12年 1569年 7月5日 73歳
桂元澄が死去する。
出典:-

永禄12年 1569年 8月3日 73歳
藤井道晧、大江田隼人佑が所原肥後守の守る杉原盛重の居城・神辺城(備後国)を攻め、同城を落とす。盛重の子・景盛は城より脱出する。
出典:『陰徳太平記』巻44「備後国神辺城合戦並防州関所城合戦之事」

永禄12年 1569年 -月-日 73歳
吉岡長増が大友宗麟に対し、周防国を大内輝弘に攻めさせるよう提案する。宗麟は長増の提案を容れ、輝弘に軍勢をつける。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」

永禄12年 1569年 9月11日 73歳
大内輝弘が軍勢を率い秋穂(周防国)に入る。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」

永禄12年 1569年 9月13日 73歳
大内輝弘が軍勢を率い山口(周防国)に入る。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」

永禄12年 1569年 9月14日 73歳
山口(周防国)に陣取る大内輝弘のもとに諸勢が集まる。
出典:『陰徳太平記』巻44「大内太郎左衛門尉輝弘山口入之事」

永禄12年 1569年 10月15日 73歳
吉川元春小早川隆景、宍戸隆家、福原貞俊桂元澄、志道広好、吉見正頼、三沢為清、三刀屋久扶、益田藤兼杉原盛重熊谷信直等からなる毛利勢が、立花山城(筑前国)からの撤退を開始する。
出典:『陰徳太平記』巻45「元春隆景立花退陣之事」

永禄12年 1569年 10月24日 73歳
山口(周防国)に在陣中の大内輝弘に向けて毛利元就吉川元春熊谷信直率いる軍勢10000を長府(長門国)より差し向ける。
出典:『陰徳太平記』巻45「輝弘山口落付最後並防州徳地一揆退治之事」

永禄12年 1569年 10月25日 73歳
茶臼山にて大内輝弘が自害する。
出典:『陰徳太平記』巻45「輝弘山口落付最後並防州徳地一揆退治之事」

永禄12年 1569年 10月28日 73歳
毛利元就毛利輝元小早川隆景が長府(長門国)より防府(周防国)に移る。
出典:『陰徳太平記』巻45「輝弘山口落付最後並防州徳地一揆退治之事」

永禄13年 1570年 2月8日 74歳
毛利輝元小早川隆景が津賀(石見国)に陣取る。先陣の吉川元春吉川元長吉川経言が赤穴(出雲国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」

永禄13年 1570年 2月9日 74歳
吉川元春元長経言父子が福山次郎左衛門・遠藤甚九郎・川副右京亮率いる尼子勝久勢の籠る多久和城を攻め、同城を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」

永禄13年 1570年 2月14日 74歳
布部山(出雲国)にて毛利輝元吉川元春小早川隆景率いる毛利勢と山中幸盛・立原久綱率いる尼子勢が戦い、毛利勢が勝利する。毛利勢は細迫左京亮、児玉弥七郎、粟屋元光、田門右衛門尉が、尼子勢は真木与一、隠岐清実、寺本四郎三郎、東藤八、金尾半四郎、飛石孫太夫、横道正光が戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」

永禄13年 1570年 2月24日 74歳
末次城(出雲国)に籠る尼子勝久を攻めるべく、吉川元春元長経言が同城の向かいの山に陣取る。。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」

永禄13年 1570年 4月15日 74歳
毛利輝元吉川元春小早川隆景が牛尾弾正忠の籠る三笠城を攻めるべく、当地へ出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻47「雲州三笠城没落事」

永禄13年 1570年 4月16日 74歳
吉川元春勢の今田経忠、香川春継等が抜け駆けして牛尾弾正忠の籠る三笠城を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻47「雲州三笠城没落事」

永禄13年 1570年 4月17日 74歳
毛利輝元吉川元春小早川隆景が牛尾弾正忠の籠る三笠城を攻め、同城を落とす。牛尾弾正忠は自害する。
出典:『陰徳太平記』巻47「雲州三笠城没落事」

永禄13年 1570年 4月18日 74歳
毛利輝元吉川元春小早川隆景率いる毛利勢が、熊野城、高瀬城を攻めるため十倉に移動する。
出典:『陰徳太平記』巻47「雲州三笠城没落事」

元亀1年 1570年 4月23日 74歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 10月3日 74歳
尼子勝久が末次城(出雲国)を攻める。
勝久の末次城攻撃を月山富田城(出雲国)で聞いた吉川元春が末次城救援のため月山富田城を発つ。途中、杉原盛重、南条元清、三刀屋久扶、三沢為清、益田藤兼、山田重直が元春に合流し、末次城近くに陣取る。元春は元清・重直を新山攻めを命じる。勝久・幸盛・久綱は元春が後詰にやってきたことを受け、新山に撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻47「勝久攻末次付後詰並米原降参之事」

元亀1年 1570年 10月10日 74歳
吉川元春尼子勝久山中幸盛、立原久綱等が籠る新山城(出雲国)より撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻47「勝久攻末次付後詰並米原降参之事」

元亀2年 1571年 -月-日 75歳
秋上綱平・久家父子が吉川元春を介し、毛利家に降伏する。
出典:『陰徳太平記』巻48「秋上父子心替之事」

元亀2年 1571年 6月12日 75歳
毛利元就が体調を崩す。
出典:『陰徳太平記』巻48「毛利元就朝臣逝去並鹿助披擒事」

元亀2年 1571年 6月14日 75歳
毛利元就が死去する。
出典:『陰徳太平記』巻48「毛利元就朝臣逝去並鹿助披擒事」

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