人 物 史

黒金景信 くろがね かげのぶ
生 没 年?-?
出 身-幼 名-
別 称-
法 名-
戒 名-
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兄 弟 姉 妹-
配 偶 者-
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官 位兵部少輔、上野介
役 職-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
黒金景信 年表
和暦 西暦 年齢 事項 出典
-----黒金景信が生まれる。-
天正8年1580104-黒金景信春日山城(越後国)の留守居を預かるなか、火事を出したことについて、越中出征中の上杉景勝から叱責される。(天正8年)10月4日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2047号)
天正8年1580107-上杉景勝春日山城(越後国)を留守居である景信について油断しており昼夜心配である旨が、同じ春日山城留守居の上村彦右衛門、岩井信能に伝えられる。(天正8年)10月7日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2048号)
天正9年1581513-越中国中郡の願関寺に寺崎喜六郎が籠城しているが攻め落としたとも噂されていること、増山(越中国)を焼き払ったこと、木船(越中国)は敵がまだ籠城していること、森山(越中国)は降伏したこと、井見庄小松倉を10日に焼き払ったことを黒金景信が斎木四郎兵衛尉に書状をもって伝え、上杉景勝に披露するよう願う。(天正9年)5月13日付黒金景信書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2124号)
天正9年1581522-5月20日に松倉城(越中国)に入城した上条宜順斎(政繁)が、黒金景信・楠川将綱・広居忠家とともに相談し越中の経営にあたることを樋口兼続に伝える。(天正9年)5月22日付上条宜順書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2129号)
天正9年158162-上条宜順斎(政繁)に越中国西部の情勢視察を命じられた黒金景信が、松倉城(越中国)に帰還する。(天正9年)6月3日付上条宜順書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2139号)
天正9年1581615-上杉景勝黒金景信に越中国西部の動静を伝えるように命じる。(天正9年)6月15日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2048号)
天正9年15816--黒金景信・広居忠家・山田長秀・吉益清定・楠川将綱が察花・極楽寺両村に狼藉の者があれば追捕する旨の制札を発給する。(天正9年)6月日付黒金景信等五名連署制札(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2153号)
天正9年158198-窪に攻め入った佐々成政の攻撃を受けている瑞泉寺佐運が黒金景信上杉景勝の出馬を要請する。(天正9年)6月日付黒金景信等五名連署制札(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2153号)
天正9年1581103-上杉景勝より黒金景信に越中国の処置について報告を求められ、使者の富永越中に報告した旨を樋口兼続に書状にて伝える。(天正9年)10月3日付黒金景信書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2194号)
天正10年1582210-瑞泉寺が上杉家の要求を聞き入れたこと、飛騨国衆が昨年の冬から織田信長と手切れ状態であることから、上杉景勝から書状を発給してほしいこと、塩屋秋貞父子にも景勝の書状を発給してほしいこと、城尾(越中国)の斎藤信言が上杉家に寝返りたいとの旨を申し出ているためこちらにも景勝の書状を発給してほしいことを記した書状を黒金景信直江兼続に伝える。(天正10年)2月10日付黒金景信書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2272号)
天正10年1582218-越中国の織田勢が安城(越中国)に500か600入城し、2、3日中に出撃するのではないかと黒金景信・楠川将綱が竹俣慶綱・小倉伊勢守・村山慶綱・斎藤朝信に伝える。(天正10年)2月18日付黒金景信・楠川将綱連署状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2278号)
天正10年1582627-黒金景信が木曽に遣わした中間が6月26日に帰還したので、中間が見聞したことを、景信・桐沢具繁が直江兼続に報告する。(天正10年)6月27日付黒金景信・桐沢具繁連署状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2429号)
天正11年1583818-寺内素休が越中国在番の上杉家家臣である桐沢具繁・黒金景信・須田満親・千坂景親に、上杉景勝教如からの音信をとりなしてもらうよう依頼する。また彼等に、寺内素休が越中在国期にお世話になったことの礼を述べる。(天正11年)8月18日付素休書状写(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2831号「景勝公諸士来書」十九)
-----黒金景信が死去する。-
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