人 物 史

織田信長 おだ のぶなが
生 没 年天文3年(1534)5/12-天正10年(1582)6/2
出 身尾張国幼 名吉法師
別 称三郎
法 名-
戒 名-
織田信秀土田御前
兄 弟 姉 妹織田信広、織田信時、織田信長織田信行織田信包、織田秀孝、織田信治、織田信興、織田秀成、織田信照、織田長益、織田長利
配 偶 者濃(斎藤道三の娘)、生駒吉乃、お鍋の方
織田信忠織田信雄織田信孝羽柴秀勝(於次)織田信房、織田信秀、織田信高、織田信吉、織田信貞、織田信好、織田長次、織田信正
官 位上総介、弾正忠、尾張守、参議、権大納言、内大臣、右大臣
役 職-
城 郭名古屋城(尾張国)、清須城(尾張国)、小牧山城(尾張国)、岐阜城(美濃国)、安土城(近江国)
参 考 文 献織田信長に関する参考文献
関 連 デ ー タ史料にみえる織田信長の呼称
織田信長の関連文化財
織田信長の家臣
織田信長 年表
天文3年 1534年 5月12日 1歳
織田信長が生まれる。
出典:-

- -年 -月-日 
織田信長の傅役として林秀貞平手政秀青山与三右衛門内藤勝介が付けられる。
出典:『信長公記』(首巻)おわり国かみ下わかちの事

- -年 -月-日 
織田信秀が那古野城(尾張国)を子・信長に譲り、古渡(尾張国)に新城を築き居城とする。
出典:『信長公記』(首巻)おわり国かみ下わかちの事

天文12年 1543年 7月17日 10歳
弟・信包が生まれる。
出典:-

天文15年 1546年 -月-日 13歳
吉法師が古渡城(尾張国)にて元服する。織田三郎信長と名乗る。林秀貞平手政秀青山与三左衛門尉内藤勝介が供をする。
出典:『信長公記』(首巻)吉法師殿御元服の事

天文16年 1547年 -月-日 14歳
織田信長が初陣(「武者始」)として駿河衆のいる吉良大浜(三河国)に出兵し所々を放火する。
出典:『信長公記』(首巻)吉法師殿御元服の事

天文16年 1547年 -月-日 14歳
弟・長益が生まれる。
出典:-

天文18年 1549年 11月-日 16歳
織田信長が熱田八ヶ村中に熱田社造営のため人別銭は熱田社へ納めるので国並みの棟別や他所・他国の勧進への奉加供出はしないこと、罪人を報告しない者は処罰すること、熱田社の法を守り他国や尾張国の敵味方・奉公人、足弱、預け物を取り調べることはしないこと、熱田社への参詣に対し路次において関銭の徴収等をしないこと、熱田社への使者役について負担に応じない者は譴責使を遣わすこと、俵物留めをしたとしても熱田社へは滞りなく運送するを定めた制札を発給する。
出典:天文18年11月日付織田信長判物(『増訂織田信長文書の研究 上巻』1号)

天文19年 1550年 12月23日 17歳
笠寺別当職について、織田信長が父・信秀の判形にのっとり参銭・開帳の収取権を熱田社座主坊に安堵する。
出典:天文19年12月23日付織田信長判物(『増訂織田信長文書の研究 上巻』3号(「密蔵院文書」))

天文20年 1551年 3月3日 18歳
父・信秀が死去する。
出典:-

天文20年 1551年 -月-日 18歳
横山(尾張国)にて織田信長丹羽氏識氏勝父子が戦い氏識・氏勝父子が勝利する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏識」の項

天文21年 1552年 10月12日 19歳
織田信長が大森平右衛門尉に対し、知多郡ならびに篠島の商人の守山への往来を妨げることのないように命じる。
出典:天文21年10月12日付織田信長判物(『増訂織田信長文書の研究 上巻』6号(『古今消息』4))

天文22年 1553年 閏1月13日 20歳
平手政秀が死去する。
出典:-

天文23年 1554年 7月12日 21歳
織田信友が、斯波義銀が堀江(尾張国)に川狩りに出ている隙に、清須城(尾張国)に居る斯波義統を攻める。義統は自害する。
出典:『清須合戦記』

天文23年 1554年 7月18日 21歳
尾張国守護・斯波義統を討った織田信友を討つべく、織田信長が信友の居る清須城(尾張国)を攻め、信長が勝利する。
出典:『清須合戦記』

天文24年 1555年 1月-日 22歳
織田信長の要請を受けて斎藤道三が派遣した安藤守就率いる軍勢1000が名古屋(尾張国)に到着する。
出典:『清須合戦記』

天文24年 1555年 1月21日 22歳
織田信長が村木城を攻め、同城を落とす。
出典:『清須合戦記』

天文24年 1555年 4月19日 22歳
織田信光が清須城(尾張国)南丸に入る。
出典:『清須合戦記』

天文24年 1555年 4月19日 22歳
坂井大炊助が清須城(尾張国)にて殺害される。
出典:『清須合戦記』

弘治1年 1555年 10月23日 22歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治1年 1555年 -月-日 22歳
子・信忠が生まれる。
出典:-

弘治2年 1556年 4月20日 23歳
長良川(美濃国)にて斎藤道三斎藤義龍が戦い、道三が戦死する。
出典:-

弘治2年 1556年 8月24日 23歳
稲生(尾張国)にて織田信長織田信行が戦い、信長が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、森可成、佐久間盛重、佐久間信盛丹羽長秀前田利家渥美友勝
織田信行勢:織田信行[大将]、林秀貞柴田勝家
出典:『寛政重修諸家譜』巻第961「渥美友勝」の項

弘治4年 1558年 2月28日 25歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄1年 1558年 4月4日 25歳
子・信孝が生まれる。
出典:-

永禄1年 1558年 9月1日 25歳
木下秀吉織田信長に仕官する。
出典:『太閤記』巻1「秀吉公素生」

永禄1年 1558年 11月2日 25歳
織田信長が病と称し清須城(尾張国)に弟・信行を召し寄せ、同城内にて殺害する。
出典:-

永禄1年 1558年 3月7日 25歳
織田信長が松平家次の籠る品野城(三河国)を攻める。家次は夜襲を仕掛け織田勢を敗走させる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平家次」の項

永禄1年 1558年 -月-日 25歳
子・信雄が生まれる。
出典:-

永禄2年 1559年 3月-日 26歳
織田信長が上洛する。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

永禄3年 1560年 5月18日 27歳
今川義元勢が丸根砦(尾張国)を攻め、同砦を攻め落とす。
今川義元勢:松平正親(戦死)。
夜、松平元康大高城(尾張国)に兵粮を入れる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第26「松平正親」の項

永禄3年 1560年 5月19日 27歳
桶狭間にて織田信長今川義元を襲撃し、義元が戦死する。義元は毛利良勝が討ち取る。
織田信長勢:森可成前田利家
今川義元勢:松平宗次(戦死)、鈴木重村。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第16「松平宗次」の項、同126「森可成」の項、同1154「鈴木重村」の項

永禄3年 1560年 9月-日 27歳
織田信長が生駒家長に諸荷物馬1疋での国中往還を許す判物を発給する。
出典:永禄3年9月日付織田信長判物(『増訂織田信長文書の研究 上巻』27号(『生駒氏所蔵文書』))

永禄4年 1561年 5月11日 28歳
斎藤義龍が死去する。
出典:-

永禄4年 1561年 5月13日 28歳
織田信長が勝村(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』首巻(36)「もりべ合戦の事」

永禄4年 1561年 5月14日 28歳
森部の合戦にて織田信長斎藤龍興が戦う。
出典:『信長公記』首巻(36)「もりべ合戦の事」

永禄4年 1561年 5月23日 28歳
十四条の合戦にて織田信長斎藤龍興が戦う。
出典:『信長公記』首巻(37)「十四条合戦の事」

永禄4年 1561年 5月24日 28歳
朝、織田信長が墨俣城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』首巻(37)「十四条合戦の事」

永禄4年 1561年 6月-日 28歳
織田信長が於久地(大口)に攻め入る。
出典:『信長公記』首巻(38)「於久地惣構破るゝの事」

永禄4年 1561年 10月-日 28歳
織田信長の命により前田利家が兄・利久に替り前田家の家督を相続する。
出典:『系図纂要』「前田家」

永禄5年 1562年 5月-日 29歳
賀留美(美濃国)にて織田信長斎藤龍興が戦う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田信輝」の項

永禄7年 1564年 9月9日 31歳
織田信長が井口(美濃国)付近に砦を築くよう命じたこと、金山城(美濃国)を攻略したことを直江景綱に伝える。
出典:(永禄7年)9月9日付織田信長書状案(『歴代古案』1、『織田信長文書の研究』上巻48号

永禄8年 1565年 9月9日 32歳
織田信長武田信玄に使者を送り娘と信玄の子・勝頼との婚姻を提案する。信玄は婚姻を承諾する。
出典:『享禄以来年代記』(『続群書類従』第29輯下)

永禄8年 1565年 12月5日 32歳
織田信長一条院覚慶より上洛を促す御内書を受けたことに対し、細川藤孝に、上意次第、お供(出兵)することを伝えるとともに朝倉義景武田義統への軍勢催促を促す。
出典:(永禄8年)12月5日付織田信長書状(「高橋義彦氏所蔵文書」10、『織田信長文書の研究』上巻60号)

永禄9年 1566年 9月1日 33歳
木下秀吉が墨俣(美濃国)に城を築くべく北方の渡に用材を整え、筏で流す。
出典:『太閤記』巻1「秀吉卿軽一命於敵国成要害之主事」

永禄9年 1566年 9月4日 33歳
織田信長が墨俣(美濃国)に向けて小牧山城(尾張国)より出陣する。
出典:『太閤記』巻1「秀吉卿軽一命於敵国成要害之主事」

永禄9年 1566年 9月5日 33歳
木下秀吉が墨俣(美濃国)にて城普請を始める。
斎藤龍興が墨俣(美濃国)で城普請をしている織田信長勢を攻め、織田勢は応戦する。
出典:『太閤記』巻1「秀吉卿軽一命於敵国成要害之主事」

永禄9年 1566年 9月7日 33歳
木下秀吉が墨俣(美濃国)にて普請をした城がおおよそ竣工する。
出典:『太閤記』巻1「秀吉卿軽一命於敵国成要害之主事」

永禄10年 1567年 8月1日 34歳
稲葉良通氏家卜全安藤守就織田信長に降伏する。
出典:『信長公記』首巻(44)「いなは山御取り候事」

永禄10年 1567年 8月22日 34歳
佐久間信盛が柳生宗厳に奈良油煙を贈ってもらったことへの感謝を示すとともに織田信長上洛につき、松永久秀と相談し、準備が整い次第、南都に織田勢を遣わすことを伝える。
出典:永禄10年8月22日付佐久間信盛書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1364号「柳生文書」)

永禄10年 1567年 10月3日 34歳
武芸八幡寺に織田信長が寺領安堵した旨を伝える連署状を坂井政尚森可成が発給する。
出典:(永禄10年)10月3日付坂井政尚・森可成連署状(「武芸八幡宮文書」『織田信長文書の研究』上巻 76号-参考)

永禄11年 1568年 4月晦日 35歳
三好長逸が、稲葉一鉄よりの音信として斎藤利三が使者として上洛し長逸に十文字鎌を贈ってくれたことについて返書を出し謝意を示すとともに織田信長への執り成しを依頼する。
出典:(永禄11年)4月晦日付三好長逸書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1400号「保阪氏所蔵文書」)

永禄11年 1568年 6月23日 35歳
細川藤孝・上野清信・明智光秀岐阜城(美濃国)に居る織田信長のもとに赴き、足利義昭の上洛を依頼する。
出典:『綿考輯録』巻1

永禄11年 1568年 7月16日 35歳
足利義昭織田信長の居城・岐阜城(美濃国)に向かうべく一乗谷(越前国)を発つ。朝倉景恒と前波景当が国境まで警護する。義昭は浅井長政の館に入る。
出典:『多聞院日記』同年月27日条、『綿考輯録』巻1

永禄11年 1568年 7月22日 35歳
足利義昭浅井長政の館より美濃国に移る。
出典:『多聞院日記』同年月27日条

永禄11年 1568年 7月25日 35歳
織田信長足利義昭を立政寺(美濃国)に迎える。
出典:『足利季世記』巻7「信長出張之事」、『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 7月27日 35歳
立政寺(美濃国)にて織田信長足利義昭に謁す。
出典:『綿考輯録』巻1、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 8月7日 35歳
織田信長が軍勢をともない佐和山城(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻1(3)「信長御憑み御請の事」

永禄11年 1568年 8月14日 35歳
織田信長三好義継に、足利義昭を美濃国に移し上洛の手助けを引き受けたこと、上洛のため近々軍勢を発すこと、その際は忠節を求めることを伝える奉書を発給する。
出典:(永禄11年)8月14日付織田信長奉書(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1419号「丹波市教育委員会所蔵文書」)、(『多聞院日記』同年月22日条

永禄11年 1568年 9月7日 35歳
織田信長岐阜城(美濃国)より出陣する。平尾村(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『当代記』巻1同年月日条

永禄11年 1568年 9月8日 35歳
織田信長が高宮(近江国)に陣取る(『信』)。愛知川(近江国)の近郷を焼き払う(『足』)。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『足利季世記』巻7「信長出張之事」

永禄11年 1568年 9月10日 35歳
織田信長が近江国中郡に侵攻する。これを受け、岩成友通が、朝、坂本(近江国)に向かう。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月11日 35歳
織田信長が近江国にて六角承禎と交戦する。一旦、美濃に引き上げる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月12日 35歳
織田信長佐久間信盛木下秀吉丹羽長秀、浅井新八に命じ箕作山城(近江国)を攻めさせ、夜、落とす。城攻めに松平信一、服部正成、明智光秀徳山則秀浅野長政細川藤孝松井康之蜂須賀正勝丹羽氏勝が参加する。
同夜、観音寺城(近江国)が自焼する。長光寺城(近江国)ほか11、12の城を落とす。
出典:『言継卿記』同年月13日条、『信長公記』巻1(4)「信長公御入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」、『綿考輯録』巻1、『寛政重修諸家譜』巻第85「丹羽氏勝」の項

永禄11年 1568年 9月14日 35歳
織田信長勢が六角承禎の居城を落とする。六角家家臣の後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里が信長に降伏する。
織田信長が15日に上洛すると京都で噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月15日 35歳
立政寺(美濃国)にいる足利義昭のもとに織田信長の使者として不破光治がやってきて9月13日に観音寺城(近江国)を落としたことを伝える。
出典:『足利季世記』巻7「新公方様御上洛之事」

永禄11年 1568年 9月19日 35歳
近江国おける六角承禎織田信長の戦いが、信長の勝利と大和国にて噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月20日 35歳
織田信長の上洛が京都で噂される。21日早朝、必ず信長が上洛すると京都にて噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月21日 35歳
織田信長の上洛が延期となり24日に上洛が決まったと京都で噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月23日 35歳
織田信長園城寺に出陣する。先陣が山科七郷(山城国)に陣取ると噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月23日 35歳
細川藤孝和田惟政が大将として織田信長に寝返った六角家家臣の軍勢10000を率い京都近郊に布陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月24日 35歳
織田信長大津(近江国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月25日 35歳
織田信長清水寺に入る。足利義昭大津(近江国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月26日 35歳
織田信長が山科郷(山城国)の南を通り東寺に布陣する。また信長は北白川を経由し軍勢を入京させる。足利義昭清水寺に移す。
久我にて織田信長三好長逸が戦う。
信長が勝龍寺城(山城国)に籠る岩成友通を攻める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月27日 35歳
織田信長足利義昭清水寺から東寺に移し、さらに西岡(山城国)まで移す。
信長勢が西岡の所々・吉祥院・淀・鳥羽(以上、山城国)・樟葉(河内国)を放火する。義昭を西岡寺土の寂勝院に布陣させる。織田勢を山崎(山城国)から天神之馬場までに展開する。
勝龍寺城(山城国)に籠る岩成友通と和睦交渉を進める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月28日 35歳
織田信長三好長逸勢が拠る山崎(山城国)を攻め落とす。西岡(山城国)あたりを放火する。
足利義昭が山崎の竹内左兵衛邸に移る。織田勢の先陣が芥川市場を放火する。(『言』)
織田信長より柴田勝家蜂屋頼隆森可成坂井政尚が三好攻めの先陣を命じられ、桂川を渡り岩成友通の籠城する勝龍寺城(山城国)を攻める。(『信』)
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻1(4)「信長御上洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」

永禄11年 1568年 9月29日 35歳
足利義昭が天神馬場(摂津国)に移る。織田信長芥川山城(摂津国)の麓を攻める。また織田勢が河内国の各所を放火する。夕方、三好長逸が芥川山城を、岩成友通勝龍寺城(山城国)を信長に明け渡す。
出典:『言継卿記』同年月日・30日条

永禄11年 1568年 9月30日 35歳
足利義昭芥川山城(摂津国)に入城する。
織田信長が郡山道場、富田寺外を落とす。富田寺内とは和睦する。池田城(摂津国)を攻める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 9月-日 35歳
織田信長芦浦観音寺に、織田勢の濫妨・狼藉、陣取り・放火、竹木伐採を停止する禁制を発給する。
出典:永禄11年9月日付織田信長禁制(滋賀県立安土城考古博物館『信長と宗教勢力-保護・弾圧そして支配へ-』)

永禄11年 1568年 10月2日 35歳
足利義昭織田信長芥川山城(摂津国)に陣取る。三好長逸池田勝正が義昭・信長に降伏する。
松永久秀が義昭のもとへ礼に赴くため八幡山(山城国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月3日 35歳
竹内季治、畠山昭高畠山高政松永久秀池田勝正、入江が足利義昭織田信長のいる芥川山城(摂津国)にやってきて降伏を受け入れてくれたことの礼をする。
出典:『言継卿記』同年月4日条

永禄11年 1568年 10月4日 35歳
松永久秀足利義昭織田信長に礼をする。信長は大和国の進退を久秀に委ねる。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

永禄11年 1568年 10月-日 35歳
松永久秀足利義昭織田信長に降伏した際、信長に九十九髪茄子(茶入)を進上する。
出典:『信長公記』巻1(4)「信長御上洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事」

永禄11年 1568年 10月10日 35歳
足利義昭織田信長松永久秀への合力として細川藤孝和田惟政佐久間信盛率いる軍勢20000を遣わす。同軍勢は西京の唐招提寺あたりに入る。これを受け、窪城が開城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月14日 35歳
足利義昭芥川山城(摂津国)より上洛し本圀寺に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月16日 35歳
足利義昭が細川管領邸に移る。織田信長は古津所に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月25日条

永禄11年 1568年 10月18日 35歳
夜、足利義昭が将軍宣下を受ける。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月23日 35歳
足利義昭織田信長を招き能を催す。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄11年 1568年 10月24日 35歳
織田信長が美濃国へ帰国するため足利義昭に暇乞いする。
出典:『信長公記』巻1(5)「観世大夫・今春大夫御能仕るの事」

永禄11年 1568年 10月26日 35歳
織田信長が守山(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻1(6)「信長御感状御頂戴の事」

永禄11年 1568年 10月27日 35歳
織田信長柏原(近江国)の成菩提院(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻1(6)「信長御感状御頂戴の事」

永禄11年 1568年 10月28日 35歳
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻1(6)「信長御感状御頂戴の事」

永禄11年 1568年 11月22日 35歳
織田信長が不在の京都に佐久間信盛村井貞勝丹羽長秀、良政明印、木下秀吉が軍勢5000にて駐留する。信長は来年2月には上洛すると噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月4日 36歳
三好長逸三好宗渭岩成友通が蜂起し、足利義昭を攻めるべく塩小路(山城国)まで押し寄せてくる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月5日 36歳
午刻(11-13時)、三好長逸三好宗渭岩成友通足利義昭の居所・本圀寺に攻め寄せる。本圀寺の北の中堂寺、南東の不動堂が放火される。足利勢は足軽衆20名が討死するも、長逸等の軍勢を退ける。
出典:『言継卿記』同年月日条、『当代記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月6日 36歳
三好長逸三好宗渭岩成友通が軍勢6000にて東寺・浄福寺あたりに陣取る。その後、長逸、宗渭、友通は七条(山城国)に移動する。足利義昭の救援として、池田勝正伊丹親興三好義継が上洛する。七条に陣する長逸等に西から池田勝正・伊丹親興、北から奉公衆(細川藤孝等)、南から三好義継が攻めかかり、長逸等は1000余名の戦死者を出し敗北する。長逸は八幡(山城国)に逃亡し、友通は北野神社松梅院に逃れるが、北野社に追手がきたためさらに逃亡する。
出典:『言継卿記』同年月日・7日条

永禄12年 1569年 1月10日 36歳
三好長逸三好宗渭岩成友通足利義昭を襲撃したとの報を受け、救援に駆けつけた織田信長が、この日、入洛する。救援の軍勢に松永久秀等が加わる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月12日 36歳
織田信長の上洛につき尾張国・美濃国・伊勢国・近江国・若狭国・丹波国・摂津国・河内国・山城国・大和国・和泉国の国衆が上洛し80000の軍勢が集まる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月19日 36歳
織田信長が近習500名を従え参内し、三毬打を見物する。その後、小御所にて酒を賜うも銚子が遅れたため退出する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月21日 36歳
足利義昭の居所として織田信長が勘解由小路室町にあった足利義輝の御所(武衛御所)を再興すべく自らが奉行となって普請を始める。石積みを西側より始める。尾張国・美濃国・伊勢国・近江国・伊賀国・若狭国・山城国・丹波国・摂津国・河内国・大和国・和泉国・播磨国より石を集める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 1月26日 36歳
織田信長が、足利義輝が戦死した御所(武衛御所)に、足利義昭の御殿を建立することを、同地に建立されていた真如堂蓮光院に伝える。真如堂には替地として一条の西の地(広さ4丁町)の寄進と所領の安堵、さらには西岡(山城国)のうち知徳庵、知徳庵道場分を新たに寄進、課役の賦課と寄宿停止を伝える。
出典:永禄12年1月26日付織田信長朱印状(「真正極楽寺文書」『織田信長文書の研究』上巻147号)

永禄12年 1569年 2月7日 36歳
勘解由小路室町に建設中の城の西側の石積みがおおよそ完成する。高さ4間1尺(約7.5m)。城の普請場にいる織田信長のもとに山科言継が見舞いに訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 2月8日 36歳
足利義昭織田信長によって自身が上洛したことを上杉輝虎に伝えるとともに、武田信玄との和睦を勧める御内書を発給する。使者は智光院。
出典:(永禄12年)2月8日付足利義昭御内書(「上杉家文書」『織田信長文書の研究』上巻 参考p250)

永禄12年 1569年 2月9日 36歳
勘解由小路室町城の南の岸が崩れ人夫7、8人が死亡する。普請人数は1日数千人という。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 3月5日 36歳
織田信長本能寺より屏風1雙(絵は鷹)が贈られたことに対し、謝意を述べるとともに旅宿の飾りに用いることを本能寺に伝える。
出典:(永禄12年)3月5日付織田信長書状(「本能寺文書」『織田信長文書の研究』上巻155号)

永禄12年 1569年 3月12日 36歳
興福寺織田信長に音信として樽を贈る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄12年 1569年 3月23日 36歳
織田信長が銭定の制札を奈良(大和国)の各所に打つ。
出典:『多聞院日記』同年月24日条

永禄12年 1569年 4月14日 36歳
織田信長が築城した春日室町第に足利義昭本圀寺より移る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 4月15日 36歳
織田信長妙覚寺(二条衣棚)にあって若狭衆・丹波衆・摂津衆の訴訟に対応する。(『言』)
入江、今中、上松、大西、田辺を死罪とする。(『多』)
出典:『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月18日条

永禄12年 1569年 4月21日 36歳
織田信長が春日室町第に入った足利義昭のもとに赴き、岐阜城(美濃国)に帰還するとして暇乞いに訪れる。義昭は涙を流し信長に謝意を表し、門外まで見送るとともに、春日室町第の東の石垣から信長が粟田口を越えるところまで見守る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 8月1日 36歳
織田信長岐阜城下(美濃国)に滞在中の山科言継今井宗久、江西、武井夕庵松井友閑、島田弥右衛門、金余等を岐阜城の山城に案内し饗応する。饗応には信長も同席する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 8月14日 36歳
岐阜城(美濃国)の織田信長のもとへ烏丸光康光宣父子、山科言継飛鳥井雅春が赴き暇乞いする。信長に鳥1、太刀(金作り)、馬代(金10両)、居唐金鉢を送る。信長の子・帰命(奇妙)に一本緞子1端(赤地)を送る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄12年 1569年 8月20日 36歳
織田信長が伊勢国に侵攻するため軍勢80000をもって岐阜城(美濃国)を出陣する。桑名(伊勢国)に宿す。
出典:『多聞院日記』同年9月7日条、『信長公記』巻2(6)「阿坂の城退散の事」、『当代記』巻1同年月日条

永禄12年 1569年 8月21日 36歳
織田信長が鷹狩をする。
出典:『信長公記』巻2(6)「阿坂の城退散の事」

永禄12年 1569年 8月22日 36歳
織田信長が白子観音寺(伊勢国)に着陣する。
出典:『信長公記』巻2(6)「阿坂の城退散の事」

永禄12年 1569年 8月23日 36歳
織田信長が木造(伊勢国)に着陣する。
出典:『信長公記』巻2(6)「阿坂の城退散の事」

永禄12年 1569年 8月26日 36歳
織田信長が、先陣を木下秀吉として阿坂城(伊勢国)を攻め、城を落とする。阿坂城に滝川一益を置く。
出典:『信長公記』巻2(6)「阿坂の城退散の事」

永禄12年 1569年 8月28日 36歳
織田信長北畠具教大河内城(伊勢国)を包囲する。城の南に織田信包滝川一益、織田忠寛、稲葉良通池田恒興、和田新介、中島豊後、進藤賢盛、後藤高治、蒲生賢秀、永原筑前、永田景弘、青地茂綱、山岡景隆山岡景猶丹羽長秀が、城の西に木下秀吉氏家直元安藤守就、飯沼長資、佐久間信盛、市橋長利、塚本小大膳が、城の東に柴田勝家森可成、山田勝盛、長谷川与次佐々成政、佐々政次、梶原景久、不破光治丸毛長照、丹羽源六、不破直光、丸毛兼利が布陣する。尺限廻番衆を前田利家がつとめる。
出典:『信長公記』巻2(7)「大河内国司退城の事」

永禄12年 1569年 9月8日 36歳
織田信長稲葉良通丹羽長秀池田恒興大河内城(伊勢国)の夜襲を命じられる。良通等は西搦手を夜攻めする。
出典:『信長公記』巻2(7)「大河内国司退城の事」

永禄12年 1569年 10月3日 36歳
織田信長北畠具教大河内城(伊勢国)を落とす。
出典:『多聞院日記』同年月5日条

永禄12年 1569年 10月4日 36歳
織田信長が伊勢国における諸関を免除する。
出典:『信長公記』巻2「関役所御免除の事」

永禄12年 1569年 10月4日 36歳
織田忠寛、滝川一益大河内城(伊勢国)を受け取る。
出典:『信長公記』巻2(7)「大河内国司退城の事」

永禄12年 1569年 10月5日 36歳
織田信長が伊勢神宮に参詣する。伊勢御師 堤源介邸を宿所とする。
出典:『信長公記』巻2「伊勢御参空の事」

永禄12年 1569年 10月6日 36歳
織田信長が伊勢内宮・下宮・朝熊山に参詣する。
出典:『信長公記』巻2「伊勢御参空の事」

永禄12年 1569年 10月8日 36歳
織田信長大河内城(伊勢国)に子・茶筅を入れ、津田掃部を添え置く。安濃津城(伊勢国)・渋見城(伊勢国)・小造城(伊勢国)に滝川一益を入れ置く。伊勢国上野城に織田信包を入れ置く。伊勢国攻めの諸部隊を解散する。
出典:『信長公記』巻2「伊勢御参空の事」

永禄12年 1569年 10月9日 36歳
織田信長が上洛するため千草峠を越える。
出典:『信長公記』巻2「伊勢御参空の事」

永禄12年 1569年 10月10日 36歳
織田信長が市原(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻2「伊勢御参空の事」

永禄12年 1569年 10月11日 36歳
織田信長が軍勢30000を率い上洛する。(『多』)
伊勢国平定を足利義昭に報告する。(『信』)
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻2「伊勢御参空の事」

永禄12年 1569年 10月16日 36歳
織田信長が京を出立する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄12年 1569年 10月17日 36歳
織田信長岐阜城(美濃国)に戻る。
出典:『信長公記』巻2「伊勢御参空の事」

永禄12年 1569年 -月-日 36歳
子・羽柴秀勝が生まれる。
出典:-

永禄13年 1570年 1月25日 37歳
織田信長足利義昭に鷹、鳥、雁150を、禁裏に銭50疋(500文)を進上する。禁裏への使者は細川藤孝
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 2月2日 37歳
織田信長が禁裏御所の作事を始める。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 2月30日 37歳
申刻(15-17時)、織田信長が上洛する。公家・室町幕府奉公衆が堅田、坂本、山中(近江国)にて信長を出迎える。上京下京の町人が1町につき5人ずつ吉田(山城国)まで向かう。明智光秀邸に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条、『晴右記』同年月日条、『多聞院日記』同年3月2日条

永禄13年 1570年 3月1日 37歳
織田信長畠山昭高畠山高政三好義長、畠山播磨守、鷲巣、大舘輝光、大舘晴忠等が足利義昭のもとに礼に赴く。
信長が参内する。太刀1腰、馬代1000疋(10貫)を進上する。
信長が長橋局に参り1000疋(10貫)を進上する。
信長が誠仁親王のもとに参り対面する。誠仁親王に太刀1腰、馬代1000疋(10貫)を進上する。
信長が新大典侍に参り折紙1000疋を進上する。
信長が半井驢庵のもとに赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条、『晴右記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月4日 37歳
一条内基山科言継織田信長の京の宿泊地を訪れる。しかし、信長は頭痛のため伏しており、対面できず。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月5日 37歳
一条内基山科言継織田信長の京の宿泊地を訪れ、銭30疋(300文)を贈る。
足利義昭の鷹狩に信長、三好義長松永久通が供をする。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月6日 37歳
織田信長の命にて明智光秀日乗が公家衆に知行分の申告をさせ吟味のうえ給付することを伝える。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月10日 37歳
中山孝親勧修寺晴右山科言継、甘露寺経元、庭田重通、日野、中院、局務師廉ら僧俗貴賤60名ほどが織田信長のもとに礼に訪れる。
出典:『言継卿記』『晴右記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月16日 37歳
三好義長松永久秀大友宗麟の使僧、太田垣氏の使者、宇喜多直家の使者、和泉国衆、河内国衆の20人程が織田信長のもとに礼に訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月18日 37歳
興福寺の多聞院英俊が織田信長の指揮する足利義昭の「御城」の普請を見物する。石蔵の四方ができていたという。また、内裏の造営についても英俊は見物。内侍所は檜皮葺きが完成し、紫宸殿は以前は檜皮葺きであったが瓦葺きになったこと、清涼殿は檜皮葺きであることを日記に留める。
出典:『多聞院日記』同年月日条

永禄13年 1570年 3月29日 37歳
織田信長が禁裏の作事を見舞う。禁裏へ進物として杉原3束、白鳥2、酒10を贈る。
出典:『言継卿記』『晴右記』同年月日条

永禄13年 1570年 4月1日 37歳
足利義昭が猿楽を催す。織田信長も招待されたというが参会しなかったという。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 4月14日 37歳
足利義昭が御所竣工につき能を催す。織田信長徳川家康松永久秀三好義継が参会する。義昭は織田信長の位階をあげることを勧めるが信長は拒否する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

永禄13年 1570年 4月15日 37歳
織田信長が請け負った禁裏の廊上の瓦葺き、内侍所の柱の垂木・白壁の作事がおおよそ完了する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄13年 1570年 4月20日 37歳
織田信長朝倉義景の領国である越前国へ侵攻すべく、軍勢30000を率い京都を発ち、一条(山城)を東に出て坂本(近江国)を経由して和邇(近江国)に到着する。和邇・堅田に陣取る。武井夕庵松永久秀池田勝正(軍勢3000)が従軍する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」、『多聞院日記』同年月22日条、『当代記』同年月日条

永禄13年 1570年 4月21日 37歳
織田信長が田中城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

永禄13年 1570年 4月22日 37歳
織田信長が熊川(若狭国)の松宮玄蕃の所に宿泊する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

元亀1年 1570年 4月23日 37歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 37歳
織田信長が佐柿(若狭国)の粟津越中守の所に逗留する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

元亀1年 1570年 4月25日 37歳
織田信長が敦賀(越前国)に着陣し、手筒山城(越前国)を攻める。織田勢は森可隆が戦死する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」、『言継卿記』同年月27日条、『多聞院日記』同年月29日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第126「森可隆」の項

元亀1年 1570年 4月26日 37歳
金ヶ崎城(越前国)に籠城していた朝倉景恒織田信長に降伏する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」

元亀1年 1570年 4月29日 37歳
織田信長が越前国侵攻中のところ、義弟・浅井長政が信長を裏切り、朝倉義景に呼応する。美濃国への往還が不可能となった信長は若狭国西路を京都(山城国)に向かって逃走する。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 4月30日 37歳
越前国侵攻中の織田信長が、浅井長政の裏切りにより越前国を撤退し、下田(丹波国)を経由し、亥刻(21-23時)、10名程度で京都に入る。松永久秀等が供をする。
出典:『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年5月1日条、『継芥記』同年5月1日条、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 5月3日 37歳
山科言継、松木、三条新少将、白川侍従、局務が織田信長のもとに赴く。取次は林秀貞
その後、言継等は徳川家康畠山高政松永久秀のもとに赴く。
次いで三好義継のもとに赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 5月9日 37歳
織田信長坂本(近江国)に下向する。
宇佐山城(近江国)に森可成を置く。
出典:『多聞院日記』同年月11日条、『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」、『継芥記』同年月日条、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 5月10日 37歳
織田信長が軍勢20000を率い、京都(山城国)を発ち、近江国へ出陣する。三好義継松永久秀等が信長を見送る。信長は志賀(近江国)の城に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 5月12日 37歳
織田信長が瀬田(近江国)の山岡城(近江国)に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」

元亀1年 1570年 5月13日 37歳
織田信長が永原(近江国)に到着する。永原城(近江国)に佐久間信盛を、長光寺城(近江国)に柴田勝家を置く。安土城(近江国)に中川重政を在番させる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」

元亀1年 1570年 5月18日 37歳
日乗永原城(近江国)に在陣中とされる織田信長を見舞うため、京都(山城国)を出立する。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 5月19日 37歳
永原城(近江国)にいる織田信長のもとに見舞いに赴いていた日乗村井貞勝が京都(山城国)に戻る。信長と六角義賢との和議が不調に終わる。信長は美濃国に向け、永原城を発ったとされる。その道中、信長は甲津畑(近江国)にて鉄砲4挺にて狙撃される。
義賢・義治父子は石部城(近江国)を軍勢20000で攻める。
出典:『言継卿記』同年月日・22日条

元亀1年 1570年 5月21日 37歳
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻3(5)「千草峠にて鉄砲打ち申すの事」、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月4日 37歳
午刻(11-13時)、落窪(近江国)にて柴田勝家佐久間信盛六角承禎義治父子が戦い、勝家等が勝利する。
申刻(15-17時)、織田勢の勝利の報が足利義昭のもとにもたらされる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(6)「落窪合戦の事」、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月19日 37歳
織田信長が長比砦(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻3(7)「たけくらべかりやす取出の事」

元亀1年 1570年 6月21日 37歳
織田信長小谷城(近江国)攻めのため虎御前山(近江国)に陣取る。坂井政尚森可成斎藤利治、市橋長勝、佐藤六左衛門、塚本小大膳、不破光治丸毛長照が雲雀山に陣取る。信長の命により、柴田勝家佐久間信盛蜂屋頼隆木下秀吉丹羽長秀等が小谷城の在所・谷々を焼き払う。
出典:『信長公記』巻3(7)「たけくらべかりやす取出の事」

元亀1年 1570年 6月26日 37歳
浅井久政長政父子が大寄山(近江国)に陣取る。織田信長が龍鼻(近江国)に陣取る。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月27日 37歳
徳川家康織田信長の陣取る龍鼻(近江国)に着陣する。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月28日 37歳
巳刻(9-11時)、姉川(近江国)にて織田信長徳川家康浅井長政朝倉義景が戦い信長・家康勢が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、坂井政尚坂井尚恒(戦死)、丹羽氏勝大島光義
徳川家康勢:徳川家康[大将]、酒井忠次[先鋒]、石川数正榊原康政松平信一松平忠正酒井重忠小栗忠政(銘 信国の槍で奮戦)、本多広孝、小笠原広重、野々山元政渥美友勝
浅井長政勢:浅井長政[大将]、遠藤直経(戦死)、藤堂高虎
朝倉勢:真柄直隆(戦死)、真柄直澄(戦死)、真柄隆基(戦死)。
戦後、信長が小谷城(近江国)の押さえとして木下秀吉を横山城(近江国)に置く。
出典:『言継卿記』同年月29日条、『信長公記』巻3(8)「あね川合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同45「小栗忠政」の項、同59「酒井重忠」の項、同65「酒井忠次」の項、同73「大島光義」の項、同85「丹羽氏勝」の項、同110「野々山元政」の項、同120「石川数正」の項、同191「小笠原広重」の項、同100「榊原康政」の項、同961「渥美友勝」の項、『藤堂家覚書

元亀1年 1570年 7月1日 37歳
織田信長佐和山城(近江国)を攻めるため城の東に百々砦を築き丹羽長秀を、北の山に市橋長利を、南の山に水野信元を、西の彦根山に川尻秀隆を置く。
出典:『信長公記』巻3(8)「あね川合戦の事」

元亀1年 1570年 7月4日 37歳
申刻(15-17時)、織田信長が馬3騎で急遽上洛する。
出典:『兼見卿記』同月日条、『多聞院日記』同年月6日条

元亀1年 1570年 7月5日 37歳
吉田兼見が織田信長のもとに礼に訪れ樽代100疋を贈る。
出典:『兼見卿記』同月日条

元亀1年 1570年 7月6日 37歳
織田信長が馬廻衆のみを引き連れ上洛する。
出典:『信長公記』巻3(8)「あね川合戦の事」

元亀1年 1570年 7月8日 37歳
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻3(8)「あね川合戦の事」

元亀1年 1570年 7月27日 37歳
三好康長三好長逸三好宗渭、三好為三、岩成友通、東条行長、松山重治、斎藤龍興、長井道利等が中島天満森(摂津国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 7月29日 37歳
安宅甚太郎率いる淡路勢1500が兵庫(摂津国)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月9日 37歳
安宅甚太郎率いる淡路勢1500が尼崎(摂津国)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月13日 37歳
安宅甚太郎・池田某が猪名寺(摂津国)にて戦う。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月17日 37歳
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が、三好義継畠山昭隆伊丹親興・遊佐の軍勢が籠る古橋城(河内国)を攻める。
出典:『尋憲記』同年月20日条、『言継卿記』同年月18日条、『多聞院日記』同年月18日条、『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月20日 37歳
織田信長が摂津国に向け岐阜城(美濃国)を出陣する。横山城(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 8月22日 37歳
織田信長が長光寺(近江国)に宿泊する。(『信』)
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が、天王寺、ウリウノ、に陣取る。松永久秀が高安(河内国)に、竹下秀勝が大窪に陣取る。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『多聞院日記』同年月日

元亀1年 1570年 8月23日 37歳
織田信長が上洛し、本能寺に宿泊する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 8月24日 37歳
織田信長本能寺に宿泊する。吉田兼見が信長のもとへ礼に訪れ、塙直政が信長に取り次ぐ。兼見は直政に20疋、菅屋長頼に20疋を贈る。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『兼見卿記』同年月日条、『陰徳太平記』巻47「信長大坂出張並所々合戦事」

元亀1年 1570年 8月25日 37歳
福島(摂津国)に陣取る三好長逸三好康長岩成友通を討つため、織田信長が京都より中島(摂津国)に向けて出陣する。淀川を渡り枚方寺内町(河内国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『兼見卿記』同年月日条、『陰徳太平記』巻47「信長大坂出張並所々合戦事」

元亀1年 1570年 8月26日 37歳
織田信長天王寺に陣取り、諸勢を天満が森、川口、渡辺、神崎、上難波、下難波、浜の手に展開し、三好長逸岩成友通三好康長、安宅信康、十河存保、篠原長房、松山重治、香西佳清、三好為三、斎藤龍興、長井道利が陣取る野田・福島(摂津国)を攻める。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 8月28日 37歳
織田信長天王寺に陣取る。織田勢は信長、畠山昭高三好義継松永久秀等が大坂(摂津国)の西の川端に軍勢20000-30000で布陣する。義継、久秀、和田惟政は川を越え天満森に布陣する。
野田・福島(摂津国)に陣取る香西佳清、三好為三が信長のいる天王寺に降伏するためやってくる。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 8月30日 37歳
足利義昭が中島(摂津国)に向けて2000余の軍勢を引き連れ京より出陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 9月3日 37歳
足利義昭が中島(摂津国)に入る。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月8日 37歳
織田信長が楼の岸(摂津国)に砦を築き、斎藤利治稲葉良通、中川重政を置く。川口に砦を築き、平手汎秀、長谷川与次、水野監物、佐々成政、塚本小大膳、丹羽氏勝、佐藤秀方、梶原景久、高宮右京亮を置く。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月9日 37歳
織田信長が天満が森に本陣を移す。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月12日 37歳
足利義昭織田信長が海老江(摂津国)に陣を移し、三好長逸岩成友通三好康長、安宅信康、十河存保、篠原長房、松山重治、斎藤龍興、長井道利の籠る野田・福島(摂津国)を攻める。長逸等は信長に降伏を申し出るが信長に断られる。
本願寺顕如が義昭、信長を攻撃する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『兼見卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 9月13日 37歳
本願寺顕如が織田方の楼の岸砦、川口砦に攻め入る。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月14日 37歳
本願寺顕如が天満が森に攻め入る。かすがゐ堤の合戦で織田信長と大坂本願寺勢が戦い、信長が本願寺勢を退ける。この戦いで織田勢の第1陣を佐々成政が、第2陣を前田利家がつとめる。成政は負傷し撤退する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月16日 37歳
浅井長政・朝倉景健の軍勢30000が坂本(近江国)に攻め寄せる。宇佐山城(近江国)の森可成が軍勢1000で応戦し退ける。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 9月19日 37歳
浅井長政・朝倉景健の軍勢が坂本(近江国)に攻め寄せる。宇佐山城主の森可成は応戦するも敗れる。可成、織田信治、青地茂綱、尾藤源内、尾藤又八、道家清十郎、道家助十郎が戦死する。浅井・朝倉勢は宇佐山城(近江国)に攻め入るも武藤五郎右衛門、肥田彦左衛門に退けられる。浅井・朝倉勢は大津の馬場・松本(近江国)を放火する。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 9月21日 37歳
浅井長政・朝倉景健の軍勢が逢坂を越え醍醐・山科(山城国)を放火する。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 9月22日 37歳
浅井長政・朝倉景健の軍勢が京都に攻め入らんとしていることについて中島(摂津国)に在陣中の織田信長のもとに注進が到る。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 9月23日 37歳
織田信長和田惟政柴田勝家に殿を命じ、野田・福島(摂津国)を引き払い京都に向かう。江口を経由して足利義昭とともに帰洛する。
信長は吉田兼見に白川と山中の通路を封鎖するように命じる。兼見は白川、浄土寺にその旨を命じる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 9月24日 37歳
織田信長本能寺より出陣し、逢坂を越え下坂本(近江国)に布陣する朝倉景健勢に攻めかかる。浅井長政・朝倉景健の軍勢は延暦寺に陣取る。これをうけ、信長は延暦寺に稲葉良通を遣わし、延暦寺に朝倉勢の引き渡しを求め、引き渡しに応じたならば延暦寺領を還付するよう伝えるが延暦寺は信長の要求を拒否する。信長は下坂本(近江国)に布陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 9月25日 37歳
織田信長が比叡山の麓にあって香取屋敷を丈夫に拵える。平手汎秀、長谷川与次、山田三左衛門、不破光治丸毛長照、浅井新八、丹羽源六、水野大膳に穴太(近江国)にて砦の普請を命じ、簗田広正川尻秀隆佐々成政、塚本小大膳、明智光秀、苗木久兵衛、村井貞勝佐久間信盛、進藤山城守、後藤喜三郎、多賀常則、梶原平次郎、永井雅楽助、種田助丞、佐藤六左衛門、中条監物を置く。下坂本(近江国)のうち田中に柴田勝家氏家卜全安藤守就稲葉良通を置く。信長は宇佐山城(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 11月15日 37歳
織田信長が勝軍地蔵城(山城国)に在陣する。吉田兼和が信長のもとを訪れる。兼和は明智光秀の陣所に宿泊する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 11月21日 37歳
織田信興が城主をつとめる小木江城(尾張国)が長嶋一向一揆の攻撃を受け、信興は応戦するも自害する。(『信』)
勝軍地蔵(山城国)に在陣中の織田信長の元に吉田兼和が訪れる。(『兼』)
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」、『兼見卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 11月22日 37歳
織田信長六角承禎義治父子と和睦する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 11月25日 37歳
堅田(近江国)の猪飼野甚介、馬場孫次郎、居初又次郎が織田信長に味方する。堅田に布陣する朝倉勢に攻めかかり、堅田を落とす。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 11月26日 37歳
織田信長が勝軍地蔵城(山城国)在番衆を大原(山城国)に陣替えする。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月27日条、『尋憲記』同年12月13日条、(元亀2年)正月22日付山崎吉家書状案(『歴代古案』)

元亀1年 1570年 11月26日 37歳
堅田(近江国)にて、前波景当(浅井・朝倉勢)と坂井政尚(織田勢)が戦い、浅井・朝倉勢が勝利する。
浅井・朝倉勢:前波景当[大将](戦死)。
織田勢:坂井政尚[大将](戦死)、遠藤胤俊(戦死)。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月27日条、『尋憲記』同年12月13日条、(元亀2年)正月22日付山崎吉家書状案(『歴代古案』)、『言継卿記』同年月27日条、『寛政重修諸家譜』534「遠藤」

元亀1年 1570年 11月30日 37歳
朝倉勢の籠る堅田(近江国)を攻めを終えた織田信長に対し、足利義昭朝倉義景との和睦を勧めるため園城寺に赴く。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 12月13日 37歳
織田信長勢が瀬田(近江国)まで撤兵すること、高島郡(近江国)に人質を送ることを条件に信長と朝倉義景が和睦する。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 12月14日 37歳
織田信長が軍勢を瀬田(近江国)の山岡景隆所まで戻す。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 12月15日 37歳
織田信長が比叡山麓に展開していた軍勢を撤退させる。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 12月16日 37歳
織田信長が佐和山の麓の磯郷(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 12月17日 37歳
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀2年 1571年 2月24日 38歳
佐和山城(近江国)城主・磯野員昌織田信長に佐和山城を進上し高島郡(近江国)に逃れる。それを受け、丹羽長秀を佐和山城主とする。
出典:『信長公記』巻4(1)「佐和山城渡し進上の事」

元亀2年 1571年 5月12日 38歳
織田信長願証寺(長島)を攻めるため津島(尾張国)に布陣する。中筋口より佐久間信盛、浅井新八、山田三左衛門、長谷川与次、和田新介、中嶋豊後を、大田口より柴田勝家、市橋長利、氏家卜全、伊賀平左衛門、稲葉良通、塚本小大膳、不破光治丸毛長照、飯沼勘平を遣わす。
出典:『信長公記』巻4(3)「大田口合戦の事」

元亀2年 1571年 5月16日 38歳
願証寺(長島)を攻めるため大田口を攻めていた柴田勝家氏家卜全等が所々を放火し引き上げたところ、一向一揆の攻撃を受け、勝家は負傷し、卜全は戦死する。
出典:『信長公記』巻4(3)「大田口合戦の事」

元亀2年 1571年 5月30日 38歳
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が畠山高政・遊佐の籠る高屋城(河内国)に攻め入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 6月11日 38歳
高屋城(河内国)を攻めていた三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が撤退する。
出典:『多聞院日記』同年月日12条

元亀2年 1571年 6月14日 38歳
毛利元就が死去する。
出典:『陰徳太平記』巻48「毛利元就朝臣逝去並鹿助披擒事」

元亀2年 1571年 8月16日 38歳
織田信長木下秀吉の在番する横山城(近江国)に着陣する。
出典:『信長公記』巻4(3)「大田口合戦の事」

元亀2年 1571年 8月18日 38歳
織田信長が横山城(近江国)に着陣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 8月20日 38歳
横山城(近江国)の塀や櫓が暴風によりに倒壊する。
出典:『信長公記』巻4(3)「大田口合戦の事」

元亀2年 1571年 8月26日 38歳
織田信長が中嶋(近江国)に陣取り余呉・木ノ本(近江国)を放火する。
出典:『信長公記』巻4(3)「大田口合戦の事」

元亀2年 1571年 8月27日 38歳
織田信長が横山城(近江国)に帰陣する。
出典:『信長公記』巻4(3)「大田口合戦の事」

元亀2年 1571年 8月28日 38歳
織田信長丹羽長秀の居城・佐和山城(近江国)に入る。先勢に小川村、志村を放火させる。
池田知正の討伐に向かった和田惟政が白井河原の合戦にて荒木村重と戦い戦死する。(『多』)
出典:『信長公記』巻4(3)「大田口合戦の事」、『多聞院日記』同年9月1日条

元亀2年 1571年 9月1日 38歳
佐久間信盛、中川重政、柴田勝家丹羽長秀の志村城(近江国)攻める。織田信長は城攻めの様子を観戦する。志村城が落ちたのをうけ小川城(近江国)の小川孫一郎が人質を出し降伏する。
出典:『信長公記』巻4(4)「しむら攻め干さるゝの事」

元亀2年 1571年 9月3日 38歳
織田信長が常楽寺に布陣し一揆勢の立て籠る金森寺内町(近江国)の周囲の田畑を刈り取り包囲する。金森寺内町は人質を出し降伏。信長は降伏を受け入れる。
出典:『信長公記』巻4(4)「しむら攻め干さるゝの事」

元亀2年 1571年 9月11日 38歳
織田信長山岡玉林房所に入る。
出典:『信長公記』巻4(4)「しむら攻め干さるゝの事」

元亀2年 1571年 9月12日 38歳
織田信長延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 9月20日 38歳
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」

元亀2年 1571年 9月21日 38歳
織田信長川尻秀隆丹羽長秀に命じて高宮右京亮一族を佐和山城(近江国)に呼び寄せ殺害する。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」

元亀2年 1571年 10月26日 38歳
織田信長勢の先陣が京都に入る。
出典:『多聞院日記』同年月28日条

元亀3年 1572年 3月3日 39歳
明智光秀が吉田兼見に、織田信長の上洛が14、15日頃で本能寺に宿泊する予定であることを伝える。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 3月5日 39歳
織田信長が赤坂(美濃国)に入る。
出典:『信長公記』巻5「与語・木本働きの事」

元亀3年 1572年 3月6日 39歳
織田信長が横山城(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻5「与語・木本働きの事」

元亀3年 1572年 3月7日 39歳
織田信長が余呉・木之本(近江国)を放火する。
出典:『信長公記』巻5「与語・木本働きの事」

元亀3年 1572年 3月9日 39歳
織田信長が横山城(近江国)に戻る。
出典:『信長公記』巻5「与語・木本働きの事」

元亀3年 1572年 3月10日 39歳
織田信長が常楽寺に宿泊する。
出典:『信長公記』巻5「与語・木本働きの事」

元亀3年 1572年 3月11日 39歳
織田信長が志賀(近江国)に入る。木戸・田中に砦を築き、中川重政、丹羽長秀明智光秀が在番する。
出典:『信長公記』巻5「与語・木本働きの事」

元亀3年 1572年 3月12日 39歳
未刻(13-15時)、織田信長が軍勢700程を引き連れ上洛し妙覚寺に宿泊する。吉田兼見が信長への礼に訪れると、明智光秀が奏者として対応する。兼見は信長に織色1面を、塙直政に湯がけ2具を贈る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 3月21日 39歳
足利義昭の命により徳大寺公維の屋敷地に織田信長の屋敷を建設することが決定する。屋敷は四方が築地で囲うことにする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 3月22日 39歳
織田信長の屋敷普請につき、簀板を賦課された安威藤治、三上輝房、狩野光茂が簀板欠乏につき吉田兼見のもとを訪れ神木の伐採を依頼する。兼見は一度は断るも、再度依頼があったため馬場の大木を伐採する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 3月24日 39歳
武者小路の空き地に建設する織田信長の邸宅の鍬始めが行われる。普請奉行は村井貞勝島田秀満、大工棟梁は池上五郎右衛門。
出典:『信長公記』巻5(1)「むしやの小路御普請の事」

元亀3年 1572年 3月27日 39歳
織田信長の屋敷の築地普請につき、三淵藤英細川藤孝が奉行をつとめる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 4月2日 39歳
吉田兼右織田信長のもとへ礼に訪れるも対面せず。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 4月3日 39歳
織田信長のもとへ礼に吉田兼右が訪れる。明智光秀の執り成しにより兼右は信長との対面が叶う。信長は兼右に金子1枚を遣わす。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 4月10日 39歳
織田信長の屋敷の築地が完成する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 -月-日 39歳
細川昭元、岩成友通織田信長のもとへ礼に訪れる。
出典:『信長公記』巻5(1)「むしやの小路御普請の事」

元亀3年 1572年 -月-日 39歳
本願寺顕如織田信長に玉澗仲石の軸と白天目茶碗を贈る。
出典:『信長公記』巻5(1)「むしやの小路御普請の事」

元亀3年 1572年 -月-日 39歳
三好義継松永久秀久通父子が織田信長に叛旗を翻し、畠山昭高の家臣・安見新七郎の交野城(河内国)を攻める。
出典:『信長公記』巻5(2)「交野へ松永取出仕候、追ひ払はるゝの事」

元亀3年 1572年 4月16日 39歳
三好義継松永久秀久通父子の攻撃を受けている安見新七郎の交野城(河内国)を救援するため、織田信長佐久間信盛柴田勝家明智光秀、坂井越中守、蜂屋頼隆斎藤利治稲葉良通氏家直昌安藤守就不破光治丸毛長照多賀常則細川藤孝三淵藤英上野秀政池田勝正伊丹親興和田惟長の軍勢20000を遣わす。
松永久秀は騎西城(河内国)に在城中という。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻5(2)「交野へ松永取出仕候、追ひ払はるゝの事」

元亀3年 1572年 5月4日 39歳
吉田兼見、施薬院全宗織田信長に枇杷1折を贈る。木下秀吉が信長に披露する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 5月5日 39歳
織田勢の先陣が西京(大和国)に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀3年 1572年 5月7日 39歳
織田勢の数万の軍勢が西京(大和国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀3年 1572年 5月9日 39歳
筒井順慶が南大門(大和国)に陣取る。奈良(大和国)にやってきた織田勢が大黒カ尾より松永久秀多聞山城(大和国)の北側を包囲する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀3年 1572年 5月11日 39歳
交野城(河内国)の救援に赴いていた軍勢が河内国より京都に帰陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 5月14日 39歳
辰刻(7-9時)、織田信長が京都より岐阜城(美濃国)に向けて出発する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 5月19日 39歳
岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻5(2)「交野へ松永取出仕候、追ひ払はるゝの事」

元亀3年 1572年 7月19日 39歳
織田信長小谷城(近江国)を攻めるべく岐阜城(美濃国)を出発し、赤坂(美濃国)に宿泊する。織田信忠が初陣として小谷城攻めに加わる。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 7月20日 39歳
織田信長信忠父子が横山城(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 7月21日 39歳
織田信長が、ひばり山、虎御前山に軍勢を置く。信長の命により小谷城(近江国)に押し寄せ、佐久間信盛柴田勝家木下秀吉丹羽長秀蜂屋頼隆が城下町を破る。勝家、稲葉良通氏家直昌安藤守就とともに先陣として布陣する。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 7月22日 39歳
織田信長の命により、木下秀吉が阿閉貞征の山本山城(近江国)の麓を放火し、城より出撃してきた阿閉勢を破る。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 7月29日 39歳
朝倉義景が軍勢15000を引き連れ小谷城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 8月8日 39歳
朝倉義景の家臣・前波吉継が信長に寝返る。信長は吉継の寝返りを喜び御帷子、小袖、馬皆具を賜う。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 8月9日 39歳
朝倉義景の家臣 富田弥六、戸田与次、毛屋猪介が織田信長に寝返る。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 9月10日 39歳
村井貞勝島田秀満織田信長の屋敷普請につき人足を公家衆に賦課する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀3年 1572年 9月16日 39歳
織田信長信忠父子が岐阜城(美濃国)に戻るべく横山城(近江国)を発つ。
出典:『信長公記』巻5(3)「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」

元亀3年 1572年 11月-日 39歳
武田信玄が二俣城(遠江国)を包囲するとの報を受けた織田信長が、佐久間信盛、平手汎秀、水野信元を援軍として浜松城(遠江国)に遣わす。
出典:『信長公記』巻5(4)「身方が原合戦の事」

元亀3年 1572年 12月22日 39歳
三方ヶ原(遠江国)にて武田信玄徳川家康が戦い、信玄が勝利する。
武田信玄勢:真田昌幸土屋昌続横手信俊[山県昌景勢]、山高信親(戦死)。
徳川家康勢:酒井忠次酒井正親榊原康政[先鋒]、小栗忠政鳥居忠広(戦死)・野々山元政(戦死)、石川正俊(戦死)、渥美友勝
織田勢:平手汎秀(戦死)。
浜松城(遠江国)留守居衆:石川家成、小笠原広重。
出典:『信長公記』巻5(4)「身方が原合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井忠次」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同118「石川家成」の項、同122「石川正俊」の項、同110「野々山元政」の項、同160「山高信親」の項、同163「柳沢信俊」の項、同191「小笠原広重」の項、同961「渥美友勝」の項

元亀4年 1573年 2月20日 40歳
織田信長柴田勝家明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆に、足利義昭の臣・山岡光浄院が籠る石山城(近江国)の攻撃を命じ、勝家等の諸勢が出陣する。
出典:『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 2月22日 40歳
足利義昭の城の普請につき吉田兼見より人足40人が訪れる。
義昭は兼見に鉄砲の灰木10束を進上するよう命じる。吉田郷には灰木がないとの訴えが兼見よりなされるが近郷から調達するようにと命じる。
織田信長の使者として島田秀満松井友閑が上洛する。両人の上洛は、義昭と信長の不和の噂につき、信長の意を伝えるため。
出典:『兼見卿記』同年月日条・3月6日条

元亀4年 1573年 2月24日 40歳
柴田勝家明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆が、瀬田(近江国)を渡り山岡光浄院が籠る石山城(近江国)を攻める。
出典:『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 2月26日 40歳
石山城(近江国)に籠る山岡光浄院が、同城を攻める織田家の柴田勝家明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆に降伏し、城より退城する。
出典:『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 2月29日 40歳
辰刻(7-9時)、足利義昭方の今堅田城(近江国)を丹羽長秀明智光秀蜂屋頼隆が攻める。光秀は琵琶湖上から攻撃し城を落とす。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 3月8日 40歳
足利義昭織田信長の不和の噂について、島田秀満が信長の意向を義昭に伝えるが義昭は拒絶する。秀満はすみやかに岐阜城(美濃国)に向かう。秀満は吉田兼見に大津(近江国)にまでの人足を依頼し兼見は3人を供出する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 3月11日 40歳
高山重友高槻城(摂津国)内にて和田惟長に叛き、惟長を殺害しようとする。惟長は重傷を負い天守閣に籠るも、家中の者の仲介により惟長は退城する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 3月29日 40歳
織田信長勢の先陣が粟田口(山城国)を経て、午刻(11-13時)、三条河原に展開する。自身は逢坂(近江国)にて細川藤孝荒木村重の迎えを受け、知恩院に入り本陣とする。軍勢を白川、粟田口、祇園。清水、六波羅、鳥羽、竹田に展開する。柴田勝家は吉田兼見より吉田郷の警固を依頼される。丹羽長秀蜂屋頼隆は聖護院に陣取る。
足利義昭は籠城する。
吉田兼見に兼見の所領である吉田郷への軍勢の陣取りはしないことを伝える。
兼見が信長のもとへ礼に訪れる。銀子1枚を贈る。兼見と対面する。義昭が戦闘行為をとったため軍勢を上洛させたと伝える。また、3月8日に島田秀満が京都より岐阜城(美濃国)へ下向した際、大津(近江国)までの人足を兼見が供出してくれたことについて謝し、吉田郷への軍勢の駐留を禁止する制札を発給する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻6(3)「石山・今堅田攻められ候事」

元亀4年 1573年 4月1日 40歳
織田信長が吉田兼見に南都が荒廃し北嶺(延暦寺)も破滅すると王都である京都の災いになるというがそれは確かなことであるのかを問う。兼見は南都北嶺が滅亡しても王城は滅しないと返答する。信長はこれを聞き喜ぶ。吉田社の修理を約束する。兼見に金子1枚を下賜する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月2日 40歳
禁裏の音信の使者として吉田兼見が織田信長の本陣である知恩院を訪れる。女房奉書、引合10帖、金襴1巻が贈られる。村井貞勝が披露する。兼見と対面する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月3日 40歳
東山に展開させていた織田信長の軍勢が陣払いをし、賀茂・西京より嵯峨を打ち廻り、所々を放火する。本陣である知恩院より出勢はなし。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月4日 40歳
丑刻(1-3時)、織田信長が西陣(山城国)を放火する。足軽を洛中に乱入させ放火。上京の二条より北を悉く焼き討ちにする。等持寺を本陣とする。
吉田兼見が等持寺にいる信長のもとへ陣中見舞いに訪れ、強飯、菓子1両種が贈られる。兼見より禁裏の近くまで類火が及んでおり放火を停止するよう求められる。もし、禁裏に火が及ぶ場合は、吉田社への正親町天皇の臨幸を考えている旨を伝えられる。それに対し信長は、兼見の気遣いを称し、村井貞勝を警固につけることを約す。また、兼見に舂木を添え、禁裏に害が及ばないようにすることを伝える。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻6(4)「公方様御構取巻きの上にて御和談の事」

元亀4年 1573年 4月5日 40歳
禁裏が足利義昭織田信長の争いを調停すべく、勅使として二条晴良、三条実澄、庭田重保を織田勢の本陣である知恩院に派遣する。勅使3名は信長と対面する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月7日 40歳
織田信長が和睦の使者として織田信広佐久間信盛細川藤孝足利義昭のもとに遣わす。義昭は3名に対面する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月8日 40歳
巳刻(9-11時)、織田信長岐阜城(美濃国)に向けて京都を発つ。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 4月12日 40歳
武田信玄が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第145「武田晴信」の項

元亀4年 1573年 4月27日 40歳
足利義昭織田信長の和睦が成立する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 5月15日 40歳
織田信長佐和山城(近江国)に入る。長さ27間、幅9間の大船の建造を近江国にて行う。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月3日 40歳
午刻(11-13時)、足利義昭が御所を退き槙島城(山城国)に移る。御所には日野輝資、高倉永相、伊勢貞興、三淵藤英を置く。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月4日 40歳
織田信長佐和山城(近江国)に逗留する。佐和山山麓の小松原に大船を建造する。吉田兼見が見舞いとして訪れる。島田秀満が披露。大船建造中の浜にて兼見と対面する。兼見は秀満に帷1、滝川一益に五明5本、羽柴秀吉に五明5本を贈る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月6日 40歳
織田信長勢の先勢が大津(近江国)に着陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月7日 40歳
午刻(11-13時)、織田信長坂本(近江国)に着陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月8日 40歳
織田信長勢の先勢が上洛し、祇園、四条道場に陣取る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月9日 40歳
織田信長が上洛し妙覚寺を陣所とする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月10日 40歳
吉田兼見が妙覚寺に陣所を構える織田信長のもとを訪れる。兼見は帷2端を信長に贈る。細川藤孝が兼見の来訪を披露する。
二条城(山城国)に籠城する足利義昭の軍勢が三淵藤英を除き信長に降伏する。柴田勝家が開城交渉のため城内に入る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月12日 40歳
柴田勝家の交渉により二条城(山城国)に籠城していた三淵藤英が退城する。藤英は伏見(山城国)に移る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月13日 40歳
織田信長が、二条城(山城国)の城内、御殿の資材等を洛中・洛外の者が自由に取ることができるようにする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月14日 40歳
明智光秀が吉田山(山城国)に織田信長の屋敷を建ててはと進言する。これにつき、信長の命により柴田勝家木下秀吉滝川一益丹羽長秀松井友閑、前波七郎兵衛が同地を検分する。吉田兼見とも話し合い、屋敷地の建設は取りやめとする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月16日 40歳
織田信長足利義昭の在城する槙島城(山城国)を攻めるべく、先勢を五ヶ庄・宇治に陣取らせる。信長の出馬は17日と決まる。先陣は、稲葉良通貞通父子で、平等院門前にて鬨の声をあげる。この城攻めに明智光秀荒木村重蒲生氏郷佐久間信盛柴田勝家羽柴秀吉丹羽長秀蜂屋頼隆細川藤孝忠興父子が五ヶ庄より攻める衆に加わる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻6(8)「真木嶋にて御降参、公方様御牢人の事」

元亀4年 1573年 7月17日 40歳
織田信長が京都を発ち五ヶ庄に着陣し、岡屋の所を本陣とする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月18日 40歳
織田信長が槙島(山城国)を放火する。信長が足利義昭が籠る槙島城(山城国)を攻めようとしたところ義昭が降伏する。義昭の子・義尋を人質として信長のもとに送り、義昭は槙島城(山城国)を退城し枇杷荘(山城国)に移る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月20日 40歳
五ヶ荘(山城国)にいた織田信長のもとを見舞いとして吉田兼見が訪れる。兼見が信長に粽30把を、塙直政に鮎1折を贈る。
足利義昭が枇杷荘より三好義継のいる若江(河内国)に移る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月21日 40歳
織田信長が京都に戻る。
出典:『信長公記』巻6(8)「真木嶋にて御降参、公方様御牢人の事」

元亀4年 1573年 7月23日 40歳
一乗寺城(山城国)に籠城する渡辺昌を稲葉良通が説得し退城させる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀4年 1573年 7月26日 40歳
織田信長が木戸城(近江国)、田中城(近江国)を攻撃し落とす。両城は明智光秀に給付される。
出典:『信長公記』巻6(9)「大船にて高嶋御働き、木戸・田中両城攻めらるる事」

天正1年 1573年 7月28日 40歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 8月2日 40歳
岩成友通が籠る淀城(山城国)を細川藤孝が攻める。藤孝の家臣・下津一通が友通を討ち取る。
出典:『信長公記』巻6(10)「岩成討果され候事」

天正1年 1573年 8月4日 40歳
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻6(10)「岩成討果され候事」

天正1年 1573年 8月8日 40歳
浅井長政家臣・阿閉貞征が織田信長に内通する。
出典:『信長公記』巻6(11)「阿閉謀叛の事」

天正1年 1573年 8月10日 40歳
織田信長が大づくの北山田山に軍勢を置き朝倉義景勢の越前国への通路を断つ。
出典:『信長公記』巻6(11)「阿閉謀叛の事」

天正1年 1573年 8月12日 40歳
浅見対馬の手引きにより大づくの下焼尾に織田信長が軍勢を入れ、信長自ら太山大づくに籠る朝倉勢を攻撃し落とす。大づくには塚本小大膳、不破光治不破直光丸毛長照、丸毛三郎兵衛を置く。その後、丁野山に攻めかかり、同所に拠る朝倉勢が降伏する。
織田信忠が虎御前山(近江国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月13日 40歳
織田信長朝倉義景の陣所に夜襲をかける。佐久間信盛柴田勝家滝川一益蜂屋頼隆羽柴秀吉丹羽長秀氏家直昌安藤守就稲葉良通、稲葉右京亮、稲葉貞通蒲生賢秀蒲生氏郷、永原筑前、進藤山城守、永田刑部少輔、多賀常則、久徳左近、阿閉貞征、阿閉孫五郎、山岡景隆、山岡孫太郎、山岡景猶に先陣を命じるも、信長は先陣を追い越し陣所に攻め入ったため、先陣の役割を果たさなかった諸将を叱責する。信長の叱責を受けた諸将は立つ瀬がないと信長に詫びるも、信盛は「自分たち程の家臣はない」と豪語したことで信長は機嫌を損ねる。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月14日 40歳
昨夜より織田信長朝倉義景勢に夜襲をかけ、朝倉勢は中野河内口、刀根口に撤退するも、織田勢が追撃し、3000程を討ち取る。斎藤龍興が戦死する。
信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(12)(「大筒・丁野攻破らるるの事」)・(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月15日 40歳
織田信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月16日 40歳
織田信長が敦賀(越前国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月17日 40歳
織田信長が木芽峠を越えて越前国に侵入する。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月18日 40歳
織田信長が府中龍門寺(越前国)に陣取る。朝倉義景は一乗谷(越前国)を引き払い大野郡山田庄六坊に移る。
出典:『信長公記』巻6(13)(「刀根山の戦並に一乗谷攻破らるるの事」)

天正1年 1573年 8月20日 40歳
朝倉景鏡の裏切りにより賢松寺(越前国)にて朝倉義景が自害する。義景の首が龍門寺(越前国)にいる織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月26日 40歳
織田信長が虎御前山(近江国)に入る。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月27日 40歳
羽柴秀吉小谷城(近江国)京極丸を攻略し、浅井久政長政父子を分断する。秀吉は小丸に籠る久政を攻め、久政は切腹する。久政の首は織田信長の居る虎御前山に届けられる。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月28日 40歳
織田信長小谷城(近江国)京極丸に入る。
浅井長政は小谷城にて自害する。
浅井久政・長政父子の首を京都に送る。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)、『豊鑑』巻1

天正1年 1573年 8月-日 40歳
丹羽長秀朝倉義景の母および嫡男・阿君丸を殺害する。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 9月4日 40歳
織田信長佐和山城(近江国)に移る。柴田勝家六角義治が籠る鯰江城(近江国)攻めを命じる。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)

天正1年 1573年 9月6日 40歳
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)

天正1年 1573年 9月10日 40歳
磯野員昌より杉谷善住坊が織田信長の居城・岐阜城(美濃国)に送還される。生き埋めにして首だけ地中より出し、首を鋸引きにする。
出典:『信長公記』巻6(16)(「杉谷善住坊成敗の事」)

天正1年 1573年 9月24日 40歳
織田信長が北伊勢に向けて岐阜城(美濃国)を発し、大垣城(美濃国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻6(17)(「北伊勢発向、多芸山戦の事」)

天正1年 1573年 9月25日 40歳
織田信長が大田城(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻6(17)(「北伊勢発向、多芸山戦の事」)

天正1年 1573年 9月26日 40歳
織田信長桑名(伊勢国)に軍勢を遣わし、一向一揆が立て籠る西別所城(伊勢国)の攻撃を佐久間信盛羽柴秀吉蜂屋頼隆丹羽長秀に命じ、同城を落とす。
出典:『信長公記』巻6(17)(「北伊勢発向、多芸山戦の事」)

天正1年 1573年 10月6日 40歳
一向一揆が立て籠る坂井城(伊勢国)を柴田勝家滝川一益が包囲し、同城が降伏する。
出典:『信長公記』巻6(17)(「北伊勢発向、多芸山戦の事」)

天正1年 1573年 10月8日 40歳
織田信長が東別所(伊勢国)に陣を移す。伊坂氏、萱生氏、赤堀氏、田辺氏、桑部氏、南部氏、長深氏、田辺九郎次郎、中嶋勘解由左衛門が信長に人質を差し出し降伏する。降伏しなかった白山の中嶋将監のもとに佐久間信盛羽柴秀吉蜂屋頼隆丹羽長秀を遣わし、中嶋を破る。
出典:『信長公記』巻6(17)(「北伊勢発向、多芸山戦の事」)

天正1年 1573年 10月25日 40歳
織田信長が多芸山と長良川の間の節所を通行し願証寺(長島)に攻め入ろうとしたところ一向一揆勢の襲撃を受け撤退する。信長は大垣城(美濃国)に入る。
出典:『信長公記』巻6(17)(「北伊勢発向、多芸山戦の事」)

天正1年 1573年 10月26日 40歳
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻6(17)(「北伊勢発向、多芸山戦の事」)

天正1年 1573年 11月4日 40歳
織田信長が上洛し、妙覚寺に宿泊する。
出典:『信長公記』巻6(18)(「三好左京大夫謀反の事」)

天正1年 1573年 11月-日 40歳
織田信長の命をうけた佐久間信盛三好義継の籠る若江城(河内国)を攻める。
織田信長勢:佐久間信盛[大将]、松井康之
三好義継勢:三好義継[大将]、金山武春、多羅尾右近、池田教正、野間佐吉、那須久右衛門、岡飛騨守、江川。
出典:『信長公記』巻6(18)(「三好左京大夫謀反の事」)、『綿考輯録』巻2

天正1年 1573年 11月-日 40歳
佐久間信盛三好義継の籠る若江城(河内国)を攻める。
織田信長勢:佐久間信盛[大将]、松井康之
三好義継勢:三好義継[大将]、金山武春、多羅尾右近、池田教正、野間佐吉、那須久右衛門、岡飛騨守、江川
義継家臣の多羅尾右近・池田教正・野間佐吉が信盛に内通し、金山武春を殺害して、若江城(河内国)城内に織田勢を引き入れる。
出典:『信長公記』巻6(18)(「三好左京大夫謀反の事」)

天正1年 1573年 11月16日 40歳
若江城(河内国)にて三好義継が自害する。那須久右衛門、岡飛騨守、江川が殉死する。
出典:『信長公記』巻6(18)(「三好左京大夫謀反の事」)

天正1年 1573年 11月24日 40歳
織田信長妙覚寺において茶会を開く。千宗易今井宗久の点前にて、松井友閑、山上宗二を招く。
出典:『今井宗久茶湯書抜』同年月日条

天正1年 1573年 12月2日 40歳
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻6(18)(「三好左京大夫謀反の事」)

天正2年 1574年 1月1日 41歳
岐阜城(美濃国)に諸国の武士が礼に訪れる。諸国衆の礼が終わった後、馬廻衆のみにて酒宴を開き、朝倉義景浅井久政浅井長政の首を薄濃にして衡立に載せ、それを酒の肴とする。
出典:『信長公記』巻7(1)「義景・浅井下野・浅井備前三人首御肴の事」

天正2年 1574年 1月17日 41歳
織田信長岐阜城(美濃国)にて細川藤孝、蒲生、青地、池田、松永久秀筒井順慶畠山昭高中川清秀、閉地、関、分部、平塚を饗応する。その席にて、信長が明智光秀の子を順慶の養子とすること、光秀の娘を津田信澄に嫁がせること、細川忠興に光秀の娘を嫁がせることを命じる。
出典:『綿考輯録』巻3

天正2年 1574年 1月19日 41歳
越前国守護代 桂田長俊が越前国国衆に殺害される。
出典:『信長公記』巻7(2)「前波生害、越前一揆蜂起の事」

天正2年 1574年 1月27日 41歳
武田勝頼が明智城(美濃国)に攻め寄せる。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 2月5日 41歳
織田信長信忠父子が武田勝頼勢に備えるため御嵩(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 2月6日 41歳
織田信長信忠父子が神箆(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 2月-日 41歳
武田勝頼が明智城(美濃国)を落とす。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 2月24日 41歳
織田信長信忠父子が岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 2月-日 41歳
織田信長が、武田勝頼に備えるべく小里城(美濃国)に池田恒興を、神箆城(美濃国)に川尻秀隆を置く。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 3月10日 41歳
柴田勝家興福寺に使者を遣わし奈良(大和国)の支配を織田信長より命じられたことを伝える。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正2年 1574年 3月12日 41歳
織田信長が上洛するため岐阜城(美濃国)を発す。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 3月14日 41歳
織田信長佐和山城(近江国)に滞在する。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 3月14日 41歳
柴田勝家が寺社および奈良(大和国)の支配を織田信長より命じられたことを記した制札を打つ。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正2年 1574年 3月16日 41歳
織田信長が永原(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 3月17日 41歳
織田信長が志那(近江国)より坂本(近江国)に渡湖する。
出典:『信長公記』巻7(3)「明智の城いいばさま謀叛の事」

天正2年 1574年 3月23日 41歳
筒井順慶織田信長への人質として母を京都に上洛させる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正2年 1574年 3月26日 41歳
蘭奢待を切り取ることを許す院宣が織田信長に発給される。
出典:『信長公記』巻7(4)蘭奢待を切捕らせらるるの事

天正2年 1574年 3月27日 41歳
織田信長が軍勢3000を率い多聞山城(大和国)に入る。奈良中の僧坊への陣取りや縁を頼っての宿借りを禁止する。多聞院英俊はこの施策を「一段善政下知」と評価する。信長の蘭奢待切り取りにあたり、荒木村重佐久間信盛柴田勝家菅屋長頼丹羽長秀蜂屋頼隆塙直政松井友閑が奉行をつとめる。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻7(4)蘭奢待を切捕らせらるるの事

天正2年 1574年 3月28日 41歳
織田信長東大寺の蘭奢待を5つ切り取る。
夜、八幡、東大寺大仏殿、春日社に参詣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻7(4)蘭奢待を切捕らせらるるの事

天正2年 1574年 4月1日 41歳
朝、織田信長が京都に向けて奈良を発つ。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正2年 1574年 4月3日 41歳
大坂本願寺にて本願寺顕如が率いる一向一揆が織田信長に対し挙兵する。
出典:『信長公記』巻7(4)蘭奢待を切捕らせらるるの事

天正2年 1574年 4月11日 41歳
大坂本願寺の一向一揆攻めのため織田信長の命により筒井勢が河内国に向けて出陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正2年 1574年 4月12日 41歳
一向一揆攻めのため織田信長が遣わした先勢が河内国を焼く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正2年 1574年 4月13日 41歳
六角承禎が石部城(近江国)を退城する。織田信長は同城に佐久間信盛の軍勢を入れる。
出典:『信長公記』巻7(5)佐々木承禎石部城退散の事

天正2年 1574年 4月14日 41歳
一向一揆が平泉寺(越前国)に籠る朝倉景鏡を攻め、景鏡が戦死する。
出典:-

天正2年 1574年 5月16日 41歳
織田信長岐阜城(美濃国)に向けて京都を発つ。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正2年 1574年 5月28日 41歳
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻7(6)賀茂競馬御馬仰付けらるるの事

天正2年 1574年 6月5日 41歳
武田勝頼高天神城(遠江国)を包囲中との報が織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻7(7)「高天神城小笠原与八郎謀叛の事」

天正2年 1574年 6月14日 41歳
高天神城(遠江国)の救援のため織田信長信忠父子が軍勢を率い岐阜城(美濃国)を発す。
出典:『信長公記』巻7(7)「高天神城小笠原与八郎謀叛の事」

天正2年 1574年 6月17日 41歳
高天神城(遠江国)救援のため出勢した織田信長酒井忠次の居城・吉田城(三河国)に入る。
出典:『信長公記』巻7(7)「高天神城小笠原与八郎謀叛の事」

天正2年 1574年 6月19日 41歳
織田信長が今切渡より高天神城(遠江国)に向かおうとする。
小笠原氏助が武田勝頼に内通し、武田城を高天神城に引き入れたことから、同城は勝頼が落とす。
高天神城の落城を知った信長は吉田城(三河国)に引き上げる。
出典:『信長公記』巻7(7)「高天神城小笠原与八郎謀叛の事」

天正2年 1574年 7月13日 41歳
織田信長信忠父子が願証寺(長島)に籠る一向一揆を攻めるため出陣し、津島(尾張国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」

天正2年 1574年 7月14日 41歳
織田信長願証寺(長島)を東の市江、西の香取、中筋の早尾の三方より攻める。市江口には子・信忠を大将として、織田信包、津田半左衛門、津田又十郎、津田市介、津田孫十郎、斎藤利治、簗田左衛門太郎、森長可、坂井越中守、池田恒興長谷川与次、山田三左衛門、梶原平次、和田新介、中嶋豊後守、関小十郎右衛門、佐藤六左衛門、市橋伝左衛門、塚本小大膳を付ける。香取口には佐久間信盛柴田勝家稲葉一鉄稲葉貞通蜂屋頼隆を置き、松之木の渡を守る一向一揆勢を攻める。信長は早尾口より、木下秀長、浅井新八、丹羽長秀氏家直昌安藤守就、飯沼勘平、不破光治不破直光丸毛長照、丸毛三郎兵衛、佐々成政、市橋長利、前田利家、中条将監、川尻秀隆、津田大隅守、飯尾隠岐守を先陣として小木江で防戦する一向一揆勢を攻める。また篠橋より出撃した一向一揆勢を破る。前ヶ州、海老江島、加路戸島、いくいら島を焼き払う。五明に野陣する。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」

天正2年 1574年 7月15日 41歳
織田信長願証寺(長島)攻めにつき、九鬼嘉隆滝川一益、伊藤三丞、水野監物が安宅船を、島田秀満林秀貞が囲船に乗船し、河口を塞ぐ。自身は子・信忠ととのもに殿妙に移り、伊藤三丞の屋敷近くに陣取る。一向一揆勢の籠る篠橋、大鳥居、屋長島、中江、長島のそれぞれに攻め手の衆を定める。篠橋攻めには津田大隅守、津田市介、津田孫十郎、氏家直昌安藤守就、飯沼勘平、浅井新八、水野下野守、横井雅楽助を置く。大鳥居攻めには柴田勝家稲葉一鉄稲葉貞通蜂屋頼隆を今嶋に陣取らせ、抑えの衆として佐久間信盛信栄父子率いる近江衆を坂手郷に陣取らせる。長島の東の押付郷には市橋九郎右衛門、不破直光丹羽長秀を置く。かろうと嶋の攻め手には、織田信包林秀貞、島田秀満を置く。南大島口の攻め手には、北畠信意神戸信孝、桑名衆を置く。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」

天正2年 1574年 8月2日 41歳
大鳥居に籠っていた一向一揆勢が風雨にまぎれた退城しようとしたところを織田信長が攻め殺す。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」

天正2年 1574年 8月12日 41歳
篠橋に籠っていた一向一揆勢が、願証寺(長島)に忠節を誓うとの理由で織田信長に詫びを入れる。信長は篠橋の一向一揆勢の詫びを受け入れ、同勢の願証寺入寺を認める。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」

天正2年 1574年 9月2日 41歳
織田信長伊達輝宗に、鷹の進上の返礼として金襴10端・緞子10端・褶20端・紅糸10斤・虎皮3枚を贈る。
出典:(天正2年)9月2日付織田信長書状・同朱印状(『伊達家文書』1-300号)

天正2年 1574年 9月29日 41歳
織田信長願証寺(長島)包囲につき、餓死者が続出する。これにより信長に降伏を申し入れ、船にて寺を退散する一向一揆勢が鉄砲にて撃たれる。信長は中江城、屋長島に籠る一向一揆勢の男女20000人を包囲し火をつけ焼き殺す。この戦いで織田勢は織田信広が戦死する。
出典:『信長公記』巻7(10)「樋口夫婦御生害の事」

天正2年 1574年 11月13日 41歳
織田信長が河内国より岡(大和国)へ軍勢を遣わし放火する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正2年 1574年 11月16日 41歳
織田勢が奈良(大和国)より引き上げる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正2年 1574年 11月25日 41歳
織田信長岐阜城(美濃国)へ向けて京都を発つ。
出典:『多聞院日記』同年月26日条

天正3年 1575年 2月11日 42歳
筒井順慶織田信長の娘もしくは妹を嫁がせるとの噂が流れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正3年 1575年 2月13日 42歳
織田信長清凉寺に、千部経期間中、国質・所質、喧嘩・口論、押買を停止する禁制を発給する。署名は村井貞勝明智光秀
出典:同年月日付村井貞勝・明智光秀連署禁制(「清凉寺文書」『増訂織田信長文書の研究 下巻』497号)

天正3年 1575年 2月15日 42歳
織田信長が分国中の路次について広さ3間に作りかえるよう命じる。それを受け、村井貞勝が今道・大津間の所々の領主に3間幅の道を作るよう指示する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 2月27日 42歳
織田信長が上洛するため岐阜城(美濃国)を発し、垂井(美濃国)に宿泊する。(『信』)
筒井順慶に娘もしくは妹を嫁がせる。同女は原田直政が順慶のもとに送り届ける。(『多』)
出典:『信長公記』巻8(1)「御分国道作仰付けらるる事」、『多聞院日記』同年月日条

天正3年 1575年 2月28日 42歳
雨のため織田信長は垂井(美濃国)に逗留する。
出典:『信長公記』巻8(1)「御分国道作仰付けらるる事」

天正3年 1575年 2月29日 42歳
織田信長佐和山城(近江国)の丹羽長秀の所に宿泊する。
出典:『信長公記』巻8(1)「御分国道作仰付けらるる事」

天正3年 1575年 3月2日 42歳
織田信長が永原(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻8(1)「御分国道作仰付けらるる事」

天正3年 1575年 3月3日 42歳
織田信長が今道を通り上洛する。相国寺慈照院を宿所とする。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻8(1)「御分国道作仰付けらるる事」

天正3年 1575年 3月4日 42歳
織田信長の宿所である相国寺慈照院へ公家衆が礼に訪れるも対面せず。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 3月16日 42歳
今川氏真が出仕し、織田信長に百端帆を進上する。
出典:『信長公記』巻8(1)「御分国道作仰付けらるる事」

天正3年 1575年 3月17日 42歳
吉田兼見が織田信長のもとを訪れる。兼見は信長に碁盤、菓子を進上する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 3月20日 42歳
相国寺にて今川氏真が蹴鞠を催す。同寺に滞在中の織田信長が見物する。
出典:『信長公記』巻8(1)「御分国道作仰付けらるる事」

天正3年 1575年 3月21日 42歳
織田信長の命により奈良(大和国)の神鹿2頭が京都に送られる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正3年 1575年 3月22日 42歳
織田信長細川藤孝に丹波国船井郡・桑田郡の諸侍を与力としてつけるので、秋に企図している大坂本願寺攻めに軍勢を動員するよう命じる。
出典:同年月日付織田信長朱印状(「細川家文書」『増訂織田信長文書の研究 下巻』501号)

天正3年 1575年 3月23日 42歳
織田信長塙直政を大和国守護に任じる。
出典:『多聞院日記』同年月25日条

天正3年 1575年 3月-日 42歳
武田勝頼が足助(三河国)に出兵する。これを受け、織田信忠が尾張衆を率い出陣する。
出典:『信長公記』巻8(2)「公家領徳政にて仰付けられ候事」

天正3年 1575年 4月6日 42歳
辰刻(7-9時)、軍勢10000余を率い河内国に向け出陣する。室町通五条を通る。蛸薬師にて吉田兼見の礼を受ける。八幡に宿泊する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻8(3)「河内国新堀城攻め干され並に誉田城破却の事」

天正3年 1575年 4月7日 42歳
織田信長が若江(河内国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻8(3)「河内国新堀城攻め干され並に誉田城破却の事」

天正3年 1575年 4月8日 42歳
織田信長が駒ヶ谷山に陣取る。佐久間信盛柴田勝家丹羽長秀塙直政三好笑岩が籠る高屋城(河内国)を攻める。
出典:『信長公記』巻8(3)「河内国新堀城攻め干され並に誉田城破却の事」

天正3年 1575年 4月12日 42歳
織田信長が住吉に陣替えする。
出典:『信長公記』巻8(3)「河内国新堀城攻め干され並に誉田城破却の事」

天正3年 1575年 4月13日 42歳
織田信長大坂本願寺を攻めるため、畿内、若狭国、近江国、美濃国、尾張国、伊勢国、丹後国、丹波国、播磨の国衆、根来寺衆を率い、天王寺、住吉、遠里小野に陣取る。
出典:『信長公記』巻8(3)「河内国新堀城攻め干され並に誉田城破却の事」

天正3年 1575年 4月14日 42歳
織田信長大坂本願寺近くの作毛を薙ぎ捨てる。
出典:『信長公記』巻8(3)「河内国新堀城攻め干され並に誉田城破却の事」

天正3年 1575年 4月16日 42歳
織田信長が遠里小野に陣取り、田畠の作毛を刈り取る。
出典:『信長公記』巻8(3)「河内国新堀城攻め干され並に誉田城破却の事」

天正3年 1575年 4月17日 42歳
織田信長が十河因幡守、香西越後が籠る新堀城を攻める。
出典:『綿考輯録』巻3

天正3年 1575年 4月19日 42歳
夜、織田信長が十河因幡守、香西越後が籠る新堀を攻める。香西越後、十河因幡、十河越中、十河左馬允、三木五郎大夫、藤岡五郎兵衛、東村大和、東村備後を討ち取り、新堀を落とす。
出典:『信長公記』巻8(3)「河内国新堀城攻め干され並に誉田城破却の事」、『綿考輯録』巻3

天正3年 1575年 4月20日 42歳
松井友閑を介し三好笑岩織田信長に降伏を申し入れる。信長は康長の申し入れを受け入れる。
塙直政に河内国内の城割を命じる。
出典:『信長公記』巻8(3)「河内国新堀城攻め干され並に誉田城破却の事」

天正3年 1575年 4月21日 42歳
織田信長大坂本願寺より軍勢を引き連れ京都に入り、室町通を通り、相国寺に宿す。
出典:『中書家久公御上京日記』同年月日条、『兼見卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻8(3)「河内国新堀城攻め干され並に誉田城破却の事」

天正3年 1575年 4月22日 42歳
公家衆が織田信長のもとに礼に訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 4月28日 42歳
織田信長岐阜城(美濃国)に向けて京都を発つ。神楽岡(山城国)にて吉田兼見・満千代父子の礼を受ける。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 5月13日 42歳
遠江国に侵攻した武田勝頼に対するため、織田信長信忠とともに岐阜城(美濃国)を出陣する
信長は熱田(尾張国)に宿泊する。熱田社の造営を岡部又右衛門に命じる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、同年月15日付織田信長朱印状(「細川家文書」『増訂織田信長文書の研究 下巻』509号)、『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月14日 42歳
織田信長岡崎(三河国)に着陣する。
出典:同年月15日付織田信長朱印状(「細川家文書」『増訂織田信長文書の研究 下巻』509号)、『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月15日 42歳
織田信長岡崎(三河国)に逗留する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月16日 42歳
織田信長が牛窪城(三河国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月17日 42歳
織田信長が牛窪城(三河国)に丸毛長照、福田三河守を置き、野田原(三河国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月18日 42歳
織田信長が極楽寺山(三河国)に陣取る。子・信忠は新御堂山(三河国)、徳川家康は高松山、滝川一益羽柴秀吉丹羽長秀は有海原に陣取る。家康、一益の陣所前に馬防の柵を設ける。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月20日 42歳
織田信長酒井忠次に信長馬廻の鉄砲衆500、金森長近、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門とともに、鳶之巣山(三河国)に回り長篠城(三河国)を包囲する武田勢を襲撃するよう命じる。戌刻(19-21時)、酒井忠次が鳶之巣山の武田勢に向けて出陣する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月21日 42歳
辰刻(3-5時)、長篠城(三河国)を包囲していた武田勝頼勢に、鳶ノ巣山(三河国)より酒井忠次が襲撃する。
酒井忠次勢:忠次、酒井家次松平家忠、松平康忠、松平伊忠(戦死)・松平家忠松平清宗小栗忠政[雨宮家次討取]。
武田勢:小山田昌行、雨宮家次(戦死)、屋代政長(戦死)、三枝昌貞(戦死)。
忠次の襲撃を受け、勝頼が前面に展開する織田信長徳川家康の軍勢に攻めかかるが、織田勢の鉄砲衆1000が、攻め寄せる武田勢を鉄砲にて悉く討ち取る。勝頼は鳳来寺方面に撤退する。『兼見卿記』には勝頼の敗北と「数千騎討死」が記される。
織田勢:佐々成政前田利家野々村正成福富秀勝塙直政大島光義
徳川勢:石川数正大久保忠世大久保忠佐大須賀康高鳥居元忠平岩親吉松平信一松平忠正松平康安松平康元酒井正親榊原康政本多忠勝渥美友勝岩瀬氏定(戦死)。
武田勢:馬場信春(戦死)、山県昌景(戦死)、土屋貞綱(戦死)、土屋昌続(戦死)、内藤昌豊(戦死)、油川信次(戦死)、小幡(戦死)、横田備中(戦死)、武田信実(戦死)、真田信綱(戦死)、真田昌幸、甘利藤蔵(戦死)、杉原日向(戦死)、名和宗安(戦死)、仁科(戦死)、高坂又八郎(戦死)、奥津(戦死)、岡辺(戦死)、恵光寺(戦死)、根津甚平(戦死)、和気善兵衛(戦死)、米倉重継(戦死)、青木信定(戦死)、横手信俊
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同29「松平伊忠」の項、同29「松平家忠」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井家次」の項、同73「大島光義」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同162「青木信定」の項、同163「柳沢信俊」の項、同169「米倉宗継」の項、同239「雨宮家次」の項、同237「屋代政長」の項、同963「岩瀬氏定」の項

天正3年 1575年 5月23日 42歳
北畠家の家督を織田信長の子・茶筅丸が譲り受ける。伊勢国に入国する
出典:『多聞院日記』同年月24日条

天正3年 1575年 5月24日 42歳
坂本(近江国)にいる明智光秀のもとを吉田兼見が見舞いに訪れる。兼見は薫衣香10袋を贈る。光秀は兼見に武田家を悉く討ち果たしたと記されている織田信長からの折紙(書状)を見せる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 5月24日 42歳
21日の長篠の合戦で武田勢が悉く討死したと奈良(大和国)で噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正3年 1575年 5月25日 42歳
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月27日 42歳
21日の長篠の合戦で武田勢1000が討死し撤退したこと、それにともない織田信長岐阜城(美濃国)に帰還したと奈良(大和国)にて噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正3年 1575年 6月26日 42歳
織田信長佐和山城(近江国)にて休息する。早船に乗り、坂本(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻8(5)「山中の猿御憐愍の事」

天正3年 1575年 6月27日 42歳
織田信長が上洛し、相国寺に宿泊する。
出典:『信長公記』巻8(5)「山中の猿御憐愍の事」

天正3年 1575年 7月1日 42歳
上洛中の織田信長のもとへ、公家衆、別所長治、別所孫右衛門、三好笑岩、武田孫犬、逸見駿河、粟屋越中、熊谷伝左衛門、山県下野守、内藤筑前、白井、松宮、畑田が礼に訪れる。
出典:『信長公記』巻8(5)「山中の猿御憐愍の事」

天正3年 1575年 7月3日 42歳
織田信長が禁裏の鞠会を見物する。
禁裏より信長に官位昇進の勅錠があったが断る。ただし、家老衆の任官は受け、松井友閑は宮内卿法印に、武井夕庵は二位法印に、明智光秀は惟任日向守に、簗田左衛門太郎は別喜右近に、丹羽長秀は惟住姓となる。
出典:『信長公記』巻8(6)「禁中において親王様御鞠遊ばさるゝの事」

天正3年 1575年 7月6日 42歳
織田信長妙顕寺にて公家衆とともに能を見物する。
出典:『信長公記』巻8(6)「禁中において親王様御鞠遊ばさるゝの事」

天正3年 1575年 7月12日 42歳
瀬田橋の柱立が行われる。
出典:『信長公記』巻8(6)「禁中において親王様御鞠遊ばさるゝの事」

天正3年 1575年 7月15日 42歳
織田信長が常楽寺に宿泊する。
出典:『信長公記』巻8(6)「禁中において親王様御鞠遊ばさるゝの事」

天正3年 1575年 7月16日 42歳
織田信長が垂井(美濃国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻8(6)「禁中において親王様御鞠遊ばさるゝの事」

天正3年 1575年 7月17日 42歳
京都から岐阜城(美濃国)に帰城途中の織田信長稲葉一鉄の居城である曽根城(美濃国)に立ち寄る。一鉄が孫による能を信長に見せる。
信長は岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻8(6)「禁中において親王様御鞠遊ばさるゝの事」

天正3年 1575年 7月-日 42歳
小寺政職岐阜城(美濃国)の織田信長のもとへ使者を遣わす。使者は黒田孝高
出典:『黒田家譜』巻1「孝高記」

天正3年 1575年 8月9日 42歳
大和国衆、山城国衆が一向一揆攻めのため越前国に向けて出陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正3年 1575年 8月10日 42歳
織田信長が一向一揆攻めのため越前国に向けて出陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 8月12日 42歳
織田信長が垂井(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 8月13日 42歳
織田信長羽柴秀吉の居城・小谷城(近江国)に宿泊する。秀吉が信長勢の兵粮を供出する。
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 8月14日 42歳
織田信長が敦賀(越前国)の武藤宗右衛門の所に宿泊する。
出典:同年月17日付織田信長朱印状(「泉文書」『増訂織田信長文書の研究』533号)、『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 8月15日 42歳
虎杖、木芽峠、鉢伏、今庄、火燧ヶ城、大良越城、杉津城、龍門寺要害(越前国)に布陣する一向一揆勢を、前波九郎兵衛、富田弥六、毛屋猪介、佐久間信盛柴田勝家滝川一益羽柴秀吉明智光秀丹羽長秀別喜右近細川藤孝原田直政蜂屋頼隆荒木村重稲葉一鉄稲葉貞通氏家直昌安藤守就磯野員昌、阿閉淡路守、阿閉孫五郎、不破光治、武藤宗右衛門、神戸信孝津田信澄織田信包北畠信雄率いる織田勢30000が攻める。円教寺、若林長門守を討ち取る。
鉢伏城(越前国)に籠城していた阿波賀三郎、阿波賀与三が降伏を申し出るが、信長は拒絶し、直政が両人を成敗する。
夜、三宅権丞が籠る府中龍門寺要害に忍び入り乗っ取る。これをうけて諸城より府中に撤退した一向一揆勢を秀吉、光秀が追撃し、一揆勢2000余人を討ち取る。
出典:同年月17日付織田信長朱印状(「泉文書」『増訂織田信長文書の研究』533号)、『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 8月16日 42歳
織田信長が敦賀(越前国)を発し、木芽峠(越前国)、鉢伏城(越前国)の一向一揆勢を追う。
越前一向一揆を悉く成敗する。
府中龍門寺(越前国)に陣を張る。今庄(越前国)に福田三河守を置く。朝倉孫三郎が下間筑後、下間和泉、専修寺の首を持参し降伏を願い出るが、孫三郎の願いを拒絶し、向駿河をもって孫三郎を成敗する。
出典:同年月17日付織田信長朱印状(「泉文書」『増訂織田信長文書の研究』533号)、『多聞院日記』同年9月3日条、『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 8月17日 42歳
北庄(越前国)にいる織田信長のもとへ勅使・勧修寺晴豊が訪れる。吉田兼見が同道。取次は村井専次。
兼見が柴田勝家原田直政に手縄、腹帯を、細川藤孝に菓子を贈る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 8月18日 42歳
柴田勝家丹羽長秀津田信澄が鳥羽城(越前国)を攻撃し、500-600名を討ち取る。
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 8月19日 42歳
原田直政滝川一益北畠茶筅神戸三七郎織田信包、氏家直通、武藤舜秀が一揆勢600を討ち取る。
柴田勝家丹羽長秀が朝倉与三の籠る要害を攻める。600余名を討ち取り、100余名を生け捕りのうえ首をはねる。
出典:同年月22日付織田信長朱印状(『増訂織田信長文書の研究』535号)

天正3年 1575年 8月20日 42歳
織田信長がひなかたけ山に籠る一揆勢を攻めるべく、菅屋長頼前田利家等の馬廻衆を遣わし、1000余名を切り捨て、100余名を生け捕りのうえ首をはねる。
信長が北畠茶筅滝川一益を大滝・白山に遣わし攻める。
越前一向一揆を悉く成敗もしくは2/3平定すると奈良(大和国)にて噂される。
出典:同年月22日付織田信長朱印状(『増訂織田信長文書の研究』535号)、『多聞院日記』同年月日条

天正3年 1575年 8月21日 42歳
織田信長が一乗谷(越前国)に入る。
吉田兼見に鮭を贈る。
佐久間信栄が一揆勢500名を討ち取り、10余名を生け捕りのうえ首をはねる。
風尾要害に籠っていた朝倉景健が信長に降伏を申し入れるが、信長は拒絶し、景健は自害する。
柴田勝家丹羽長秀が一揆勢1000余名を討ち取る。
出典:『多聞院日記』同年9月3日条、『兼見卿記』同年月日条、同年月22日付織田信長朱印状(『増訂織田信長文書の研究』535号)

天正3年 1575年 8月24日 42歳
織田信長が越前国より帰陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 8月28日 42歳
織田信長が豊原(越前国)に陣を移す。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 9月2日 42歳
織田信長が北庄(越前国)に移る。築城するため縄張りを打つ。
越前国内の内8郡を柴田勝家に給付する。大野郡の2/3を金森長近に、1/3を原長頼に給付する。今立郡・南条郡を佐々成政前田利家不破光治に給付する。
明智光秀に丹波国攻めを命じる。丹後国を一色氏に給付する。丹波国桑田郡・船井郡を細川藤孝に給付する。荒木村重に播磨国奥郡攻めを命じる。
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 9月13日 42歳
未下刻(14時)、織田信長が上洛し、妙覚寺に宿泊する。
出典:『兼見卿記』同年月日条・同年月15日条

天正3年 1575年 9月15日 42歳
妙覚寺に宿泊している織田信長のもとに公家衆が礼に訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 9月16日 42歳
織田信長千宗易に、越前一向一揆攻めにつき、鉄砲玉1000を送付してくれたことへの礼状を発給する。
出典:同年月日付織田信長黒印状

天正3年 1575年 9月25日 42歳
辰刻(7-9時)、織田信長が一乗寺(山城国)にて鷹狩を行う。吉田兼見が茶の湯菓子として焼栗、豆アメ、蜜柑、柿、きんとん、塩引、山芋を振舞う。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 9月26日 42歳
越前一向一揆攻めに参加した軍勢がおおよそ帰国する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正3年 1575年 9月27日 42歳
吉田兼見が小皷の徽5懸を織田信長に進上する。津田信澄が信長に披露する。25日の茶の湯菓子の礼および小皷の徽の返礼として雁を兼見に賜う。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 10月1日 42歳
織田信長が片岡藤五郎に、赤井直正の退治の為明智光秀を遣わすので加勢するように命じる。
出典:同年月日付織田信長朱印状(「新免文書」『増訂織田信長文書の研究 下巻』557号)

天正3年 1575年 10月10日 42歳
織田信長が上洛するため岐阜城(美濃国)を発つ。垂井(美濃国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 10月11日 42歳
織田信長柏原(近江国)にて三条、水無瀬の出迎えを受ける。佐和山城(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 10月12日 42歳
織田信長が永原(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 10月13日 42歳
織田信長が完成した瀬田橋を見物し、逢坂、山科、粟田口を通過し上洛する。妙覚寺に宿泊する。
出典:『多聞院日記』同年月15日条、『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 10月19日 42歳
伊達輝宗織田信長に進物として送ったがんぜき馬、白石鹿毛、鷹2足が届く。信長が清水寺に参詣する
出典:『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 10月20日 42歳
赤松義祐小寺政職別所長治等が上洛し織田信長のもとに礼に訪れる。(『信』)
奈良(大和国)の神鹿を捕らえ京都に送らせる。(『多』)
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻8(7)「越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事」

天正3年 1575年 10月21日 42歳
織田信長本願寺顕如三好康長松井友閑を介して和睦する。顕如が小玉鑑、枯木・花の絵を信長に贈られる。笑岩が茶壺三日月を信長に進上する。
出典:『信長公記』巻8(8)「大坂三軸進上の事」

天正3年 1575年 10月22日 42歳
大和国の道を3間2尺(6m)幅とするようにという織田信長の命に、多聞院英俊が寺社領の田畠の多く損失すると嘆く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正3年 1575年 10月23日 42歳
姉小路頼綱が上洛し織田信長に馬を進上する。
出典:『信長公記』巻8(8)「大坂三軸進上の事」

天正3年 1575年 10月28日 42歳
織田信長妙覚寺にて京・の茶人を召し寄せ茶会を千宗易の点前で催す。
出典:『信長公記』巻8(9)「御茶之湯の事」

天正3年 1575年 11月1日 42歳
吉田兼見が織田信長のもとを訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 11月7日 42歳
権大納言・右大将に任じられる。
織田信長青蓮院尊朝に新地として山城国粟田口72石と花園28石余を給付する。
出典:『兼見卿記』同年月5・7・8日条,

天正3年 1575年 11月8日 42歳
織田信長が権大納言・右大将に任じられたことにつき公家衆が礼に訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 11月11日 42歳
織田信長が鷹狩に赴く。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正3年 1575年 11月14日 42歳
織田信長岩村城(美濃国)に武田勝頼が攻め入ったとの報を受け、急ぎ岐阜城(美濃国)に向けて京都を発つ。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻8(11)「武田四郎岩村にて失勝利の事」

天正3年 1575年 11月15日 42歳
織田信長が公家衆に新たに知行地を宛行う。(『兼』)
岐阜城(美濃国)に到着する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻8(11)「武田四郎岩村にて失勝利の事」

天正3年 1575年 11月24日 42歳
織田信長岐阜城(美濃国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻8(12)「菅九郎殿岩村御存分に被仰付の事」

天正3年 1575年 11月28日 42歳
織田信長が家督を子・信忠に譲る。
出典:『信長公記』巻8(14)「御家督御讓の事」

天正4年 1576年 1月-日 43歳
織田信長安土城(近江国)の普請を丹羽長秀に命じる。
出典:『信長公記』巻9(1)「安土御普請の事」

天正4年 1576年 2月24日 43歳
織田信長安土城(近江国)に移る。
出典:『兼見卿記』同年月26日条

天正4年 1576年 2月26日 43歳
織田信長安土城(近江国)に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 3月4日 43歳
吉田兼見が安土城(近江国)に在城中の織田信長のもとに礼に訪れる。取次は村井専次。兼見は堀秀政に進物として下緒10筋を贈る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 3月7日 43歳
吉田兼見が村井貞勝のもとを訪れる。兼見は3月4日に安土城(近江国)を訪れ織田信長に礼をしたことを語る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 3月22日 43歳
織田信長が修理を命じた泉涌寺の方丈の上葺が完成した様子を吉田兼見が見物する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 3月28日 43歳
二条晴良邸が織田信長の命により報恩寺に移ることになり、その普請を山科言継山科言経葉室長教が見物する。明智光秀が晴良邸の普請奉行を命じられる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 4月10日 43歳
未刻(13-15時)、二条晴良昭実父子が報恩寺に造作した屋敷に移る。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 4月14日 43歳
本願寺顕如及び一向一揆が籠る大坂本願寺への路次を封鎖するため、荒木村重へ同寺の北にあたる野田(摂津国)に砦の普請を、明智光秀細川藤孝へ同寺東南にあたる森口・森河内(河内国)に砦の普請を、原田直政天王寺に砦を築き、木津を抑えて大坂本願寺への通路を遮断するように命じる。天王寺砦には佐久間信栄、光秀および検使の猪子高就大津長昌を置く。
出典:『信長公記』巻9(3)「原田備中御津寺へ取出討死の事」

天正4年 1576年 4月21日 43歳
織田信長が大坂に城を7つ築く。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 4月29日 43歳
織田信長が安土城(近江国)を発し、未下刻(14:00)上洛する。二条にある妙覚寺に宿泊する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『兼見卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年5月3日条、『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月1日 43歳
公家衆が織田信長のもとに礼に訪れるも対面なし。信長は近衛信基にのみ対面する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月2日 43歳
公家衆の二条晴良九条兼孝一条内基、西園寺公朝、近衛信基、三条西実枝、、中山孝親菊亭晴季徳大寺公維飛鳥井雅敦山科言継庭田重保、高辻長雅、葉室頼房持明院基孝柳原淳光四辻公遠、甘露寺経元、水無瀬兼成、高倉永相、山科言経、庭田重通、勧修寺晴豊正親町実彦、中山親綱、松木宗房、中院通勝、富小路千夜叉(秀直)、唐橋尊松(在通)、烏丸光宣、五辻為仲、冷泉為純、雅敦、大炊御門経頼、日野輝資、竹内長治、東坊城盛長水無瀬親具、白川雅朝、久我季通、西洞院時通、中御門宣教、広橋兼勝、高倉永孝、冷泉、葉室長教、四辻季満、高倉範国、万里小路充房、四条隆昌、橋本実勝、冷泉俊久、薄以継、五辻元仲、五条為名、門跡衆の仁和寺守理、青蓮院尊朝、妙法院常胤、聖護院道澄大覚寺尊信、勧修寺聖信、三宝院義演、実相院が妙覚寺に滞在中の織田信長のもとに礼に訪れる。公家衆からの進物を村井貞勝が披露する。
山科言継山科言経、葉室頼房、葉室長教、冷泉、薄以継が二条晴良邸の跡地に建てた信長の屋敷を見物する。
出典:『言経卿記』同年月日条、『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月3日 43歳
織田信長二条晴良のもとを訪れる。
早朝、原田直政が先陣に三好笑岩根来寺衆・和泉国衆を、次陣に直政率いる大和・山城国衆をもって木津の一向一揆勢の砦を攻めるが、楼の岸砦より出撃した一向一揆勢と戦い、直政は奮戦するも戦死する。他に塙喜三郎、塙小七郎、箕浦無右衛門、丹羽小四郎が討死する。一向一揆勢は余勢をかり、明智光秀佐久間信栄荒木村重猪子高就大津長昌等が籠る天王寺砦を攻める。
出典:『多聞院日記』同年月日・4日条、『兼見卿記』同年月日・4日条、『言継卿記』同年月4日条、『信長公記』巻9(3)「原田備中御津寺へ取出討死の事」

天正4年 1576年 5月4日 43歳
織田信長のもとに木津砦攻めで大坂本願寺に籠る一向一揆勢と戦った原田直政の討死が伝えられる。信長は5月5日に大坂本願寺へ出陣することを決め、分国中に残らず上洛するよう軍勢動員をかける。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月5日 43歳
辰刻(7-9時)、織田信長大坂本願寺に向けて2000の軍勢を引き連れ出陣する。午刻(11-13時)、八幡を通る。先陣の佐久間信盛が若江城(河内国)に攻め入る。
筒井順慶は信長の大坂本願寺攻めにつき、奈良中の15-60歳の男性を総動員するため一乗院尊政大乗院尋憲に許可を得るべく飯田出羽入道・松田を遣わす。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月6日 43歳
織田信長が若井(若江)(河内国)に在城する。
奈良(大和国)にて筒井順慶および松永久通の無事が伝わる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月7日 43歳
早朝より織田信長が総勢で住吉口より出陣する。先陣は佐久間信盛松永久秀細川藤孝、若江衆、二陣は滝川一益蜂屋頼隆羽柴秀吉丹羽長秀稲葉一鉄氏家直昌安藤守就、三陣は馬廻衆。午刻(11-13時)に天王寺に入り、大坂本願寺に籠る一向一揆勢と合戦。2000余を討つ勝利を収めたという。信長はこの戦いで足に鉄砲があたり負傷する。戦後、天王寺砦に佐久間信盛佐久間信栄、進藤山城守、松永久秀、松永久通、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿を置く。また、住吉浜に要害を築き、真鍋貞友、沼野伝内を置く。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻9(4)「後後巻再三御合戦の事」

天正4年 1576年 5月8日 43歳
織田信長本願寺顕如大坂本願寺周辺での戦闘についての報告が京都にもたらされる。その報告には、信長が大坂西木津の城を落とし、一揆勢10000人を討ち取ったという。また、信長が「大坂之城」(大坂本願寺)を攻め、「大坂之左右之大将」と言われる下間頼廉・雑賀孫市を討ち取ったという。(この報については誤報)
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月9日 43歳
雑賀孫市の首(とされるもの)が、京都の勘解由小路室町にある御所の堀に懸けられたという。織田軍の負傷者が近江に送られたという。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月10日 43歳
巳刻(9-11時)、織田信長が大和国一国一円の支配を筒井順慶に任せることを明智光秀万見重元を介して同人に伝える。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正4年 1576年 5月11日 43歳
勧修寺晴豊、甘露寺経元が、本願寺顕如と戦闘中の織田信長のもとにが勅使として赴く。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月13日 43歳
吉田兼見が本願寺顕如と戦闘中の織田信長のもと(本陣)に見舞いに訪れる。兼見は信長に御帷2(越後布 白アサギ)を贈る。堀秀政が披露。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月16日 43歳
織田信長が河内国に滞在する。
大乗院尋憲が信長のもとに見舞いに訪れる。
出典:『多聞院日記』同年月20日条

天正4年 1576年 5月22日 43歳
織田信長に陣を移す。
出典:『言継卿記』同年5/24条

天正4年 1576年 5月23日 43歳
毛利家が大坂本願寺へ船手をもって兵粮を運び入れるとの風聞を聞いた織田信長安宅神五郎に、もし中国地方より兵粮を運ぶ船が来たならば関船を出して追い落とすようにと命じる。
出典:(天正4年)5月23日付織田信長朱印状(『戦国遺文』三好氏編3巻-1746号、「萩原文書」))

天正4年 1576年 5月26日 43歳
織田信長明智光秀の病を見舞うため隼原を使者として遣わす。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月28日 43歳
本願寺顕如と戦闘中の織田信長の戦勝祈願を禁裏より命じられていた吉田兼見が御祓を禁裏に進上したところ、信長陣所まで持参するようにとの命を受ける。兼見は村井貞勝に相談したところ持参の許可を得る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月29日 43歳
吉田兼見が織田信長に戦勝祈願の御祓を贈る。使者は鈴鹿喜介。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 6月5日 43歳
織田信長が河内国より石清水八幡宮に入る。
出典:『言継卿記』同年6/6条

天正4年 1576年 6月6日 43歳
織田信長が、石清水八幡宮より槙島(山城国)を経て、未刻(13-15時)に妙覚寺に入る。二条晴良昭実父子、近衛前久信基父子、飛鳥井雅敦勧修寺晴豊烏丸光康光宣父子、山科言継言経父子、持明院基孝中山孝親庭田重保葉室頼房広橋兼勝冷泉為純薄以継大乗院尋憲一乗院尊政大覚寺尊信聖護院道澄が訪れ、対面する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『兼見卿記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 6月7日 43歳
織田信長の宿所の妙覚寺に公家衆が礼に訪れるも対面なし。
吉田兼見より林檎1折が贈られる。村井専次が披露。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 6月8日 43歳
織田信長安土城(近江国)に向けて妙覚寺を出発する。今道を通る。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月10日条

天正4年 1576年 6月16日 43歳
荒木村重より毛利家の水軍衆が警固100艘ばかりをもって岩屋(淡路国)に到着したため、尼崎(摂津国)に向かい船を揃えたという報告を受けた織田信長がその対応を評価するとともに、佐久間信盛・淡輪とともに防戦するように伝える。
出典:(天正4年カ)6月16日付織田信長黒印状(「佐藤孝雄氏所蔵文書」)

天正4年 1576年 7月6日 43歳
大乗院尋円と東北院兼深の確執について、伝奏である勧修寺晴右中山孝親、甘露寺経元、庭田重保織田信長への報告をしなかったことについて、信長が伝奏の公家を咎める。以後は朝廷での協議のうえ信長にも伝えるようにと定められる。
出典:『兼見卿記』同年月日条・同年7月6日条

天正4年 1576年 7月12日 43歳
毛利家警固衆・小早川家警固衆・村上水軍衆の木梨元恒・村上吉充・生口景守・児玉就英戸川秀安・村上武満・粟屋元如・井上春忠・包久景勝・桑原元勝・村上景広・香川広景・村上吉継・乃美宗勝・村上元吉が岩屋(淡路国)を出航し、貝塚(和泉国)に着岸する。
出典:(天正4年7月15日付村上元吉他十四名連署注進状(『戦国遺文』瀬戸内水軍編460号「毛利家文書」)

天正4年 1576年 7月13日 43歳
大坂本願寺に兵糧を運び入れるため、毛利家警固衆・小早川家警固衆・村上水軍衆の木梨元恒・村上吉充・生口景守・児玉就英・村上武満・粟屋元如・井上春忠・包久景勝・桑原元勝・村上景広・香川広景・村上吉継・乃美宗勝・村上元吉、宇喜多家の戸川秀安が雑賀衆ととともに津より住吉(摂津国)に出船した際、木津川河口にて織田家の水軍衆に遭遇する。織田方は真鍋貞友、沼野伝内、沼野伊賀、沼野大隅守、宮崎鎌大夫、宮崎鹿目介、尼崎小畑、野口が300艘にて応戦。14日早朝まで戦闘が繰り広げられる。村上水軍衆の焙烙火矢により織田方の船が焼き崩される。織田信長も当地に向かうが、向った時には毛利勢による兵糧の運び入れが終わっていたため撤退する。
出典:(天正4年7月15日付村上元吉他十四名連署注進状(『戦国遺文』瀬戸内水軍編460号「毛利家文書」)、『信長公記』巻9(5)「西国より大船を催し木津浦船軍歴々討死の事」、(天正4年)7月27日付吉川元春書状(『上杉家文書』2-646号)

天正4年 1576年 9月14日 43歳
織田信長足利義昭御所の石垣の石を取り除く。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 9月15日 43歳
破却が進む足利義昭御所の内部を山科言経が見物する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 10月25日 43歳
作事中の織田信長の館を山科言継が見物する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 11月4日 43歳
午刻(11-13時)、織田信長が上洛する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月6日条、『信長公記』巻9(7)「被進御官御衣御拝領の事」

天正4年 1576年 11月5日 43歳
公家衆が織田信長のもとに礼に訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 11月6日 43歳
織田信長が東山にて鷹狩をする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 11月21日 43歳
内大臣に任じられる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 11月22日 43歳
公家衆、門跡衆が織田信長のもとに礼に訪れるが信長は対面せず。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 11月23日 43歳
禁裏への礼として織田信長飛鳥井雅敦のもとへ赴き、銀子100枚を進上する。
安土城(近江国)に帰るべく京都を発す。石山寺に宿泊する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 11月25日 43歳
織田信長安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻9(7)「被進御官御衣御拝領の事」

天正4年 1576年 11月25日 43歳
北畠具教が死去する。
出典:-

天正4年 1576年 12月10日 43歳
織田信長吉良(三河国)にて鷹狩をするため安土城(近江国)を発し佐和山城(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻9(8)「三州吉良御鷹野の事」

天正4年 1576年 12月11日 43歳
織田信長岐阜城(美濃国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻9(8)「三州吉良御鷹野の事」

天正4年 1576年 12月12日 43歳
織田信長岐阜城(美濃国)に逗留する。
出典:『信長公記』巻9(8)「三州吉良御鷹野の事」

天正4年 1576年 12月13日 43歳
織田信長清須城(尾張国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻9(8)「三州吉良御鷹野の事」

天正4年 1576年 12月22日 43歳
織田信長吉良(三河国)に到着する。
出典:『信長公記』巻9(8)「三州吉良御鷹野の事」

天正4年 1576年 12月23日 43歳
織田信長吉良(三河国)に逗留する。
出典:『信長公記』巻9(8)「三州吉良御鷹野の事」

天正4年 1576年 12月24日 43歳
織田信長吉良(三河国)に逗留する。
出典:『信長公記』巻9(8)「三州吉良御鷹野の事」

天正4年 1576年 12月25日 43歳
織田信長清須城(尾張国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻9(8)「三州吉良御鷹野の事」

天正4年 1576年 12月30日 43歳
織田信長岐阜城(美濃国)に宿泊し、年を越す。
出典:『信長公記』巻9(8)「三州吉良御鷹野の事」

天正5年 1577年 1月2日 44歳
織田信長安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正5年 1577年 1月14日 44歳
織田信長が上洛し、妙覚寺に宿泊する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正5年 1577年 1月15日 44歳
公家衆が織田信長のもとに礼に訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 1月22日 44歳
公家衆が織田信長のもとに礼に訪れるも、信長は対面せず。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 1月25日 44歳
織田信長安土城(近江国)に帰城すべく京都を発つ。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正5年 1577年 2月8日 44歳
織田信長が上洛する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 2月9日 44歳
織田信長が上洛し、妙覚寺に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月10日 44歳
吉田兼見が織田信長のもとを訪れる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 2月13日 44歳
織田信長が雑賀郡(紀伊国)を攻めるため、子・信忠北畠信雄神戸信孝等とともに京都から出陣する。石清水八幡宮に陣を置く。総勢が『兼見卿記』では10万余、『多聞院日記』では15万余とされる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月14日 44歳
雨のため織田信長は石清水八幡宮に滞在する。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月15日 44歳
織田信長が和泉国に入る。(『多』)
石清水八幡宮を発ち若江(河内国)に陣取る。(『信』)
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月16日 44歳
織田信長が香庄(和泉国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月17日 44歳
織田信長が貝塚(和泉国)に籠る一揆勢を攻める。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月18日 44歳
根来寺杉坊が織田信長のもとに礼に訪れる。信長は佐野(和泉国)に陣を移す。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月22日 44歳
織田信長が志立に陣を移す。信長は、軍勢を山手と浜手に分け雑賀(紀伊国)に攻め寄せる。山手には佐久間信盛羽柴秀吉荒木村重別所長治、別所孫右衛門、堀秀政稲葉良通氏家直昌、飯沼勘平を遣わす。浜手には滝川一益明智光秀丹羽長秀細川藤孝筒井順慶を遣わす。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 2月28日 44歳
織田信長が淡輪(和泉国)に陣を移す。中野城の城兵が降伏する。中野城は織田信忠が請け取る。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」、『綿考輯録』巻3

天正5年 1577年 3月1日 44歳
織田信長滝川一益明智光秀蜂屋頼隆細川藤孝筒井順慶、若狭衆に鈴木重秀の居城・雑賀城(紀伊国)の攻撃を命じる。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 3月2日 44歳
織田信長が鳥取郷(和泉国)の若宮八幡宮に陣を移す。堀秀政不破光治丸毛長照、武藤惣左衛門、福富秀勝、中条将監、山岡景隆、牧村長兵衛、福田三河、丹羽氏勝、水野大善、生駒市左衛門、生駒三吉等を根来口に遣わす。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」、『綿考輯録』巻3

天正5年 1577年 3月-日 44歳
土橋平次、鈴木重秀、岡崎三郎大夫、松田源三大夫、岡本兵大夫、島本左衛門大夫、栗本二郎大夫が大坂本願寺攻めに加わるとの起請文を連署で織田信長に提出する。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 3月21日 44歳
織田信長が雑賀郡(紀伊国)より天王寺に陣を移す。(『多』)
出典:『多聞院日記』同年月22日条

天正5年 1577年 3月22日 44歳
織田信長が香荘に逗留する。雑賀衆に備えるため、佐野村(和泉国)に築城を命じ、佐久間信盛明智光秀丹羽長秀羽柴秀吉荒木村重を置き、根来寺杉之坊、津田太郎左衛門を定番として置く。
出典:『信長公記』巻10(1)「雑賀御陣の事」

天正5年 1577年 3月23日 44歳
織田信長が若江(河内国)に帰陣する。
天王寺屋龍雲が所持する化狄、今井宗久所持の二銘の茶杓を召し上げ、宗久所持の開山之蓋置を進上させる。
出典:『信長公記』巻10(3)「御名物被召置の事」

天正5年 1577年 3月24日 44歳
織田信長が石清水八幡宮に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(3)「御名物被召置の事」

天正5年 1577年 3月25日 44歳
織田信長が雑賀郡攻めより上洛し、妙覚寺に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(3)「御名物被召置の事」

天正5年 1577年 3月27日 44歳
織田信長安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻10(3)「御名物被召置の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正5年 1577年 5月-日 44歳
森蘭丸・坊丸・力丸兄弟が織田信長の近習となる。
出典:『兼山記』

天正5年 1577年 7月3日 44歳
伊達輝宗が進上した鷹が織田信長のもとに届く。
出典:『信長公記』巻10(3)「御名物被召置の事」

天正5年 1577年 閏7月5日 44歳
織田信長伊達輝宗に、上杉謙信を追伐する旨を伝え、本庄雨順斎と相談し謙信を攻めるよう要請する。
出典:(天正5年)閏7月23日付織田信長朱印状(『伊達家文書』1-302号)

天正5年 1577年 閏7月6日 44歳
織田信長が上洛し二条御新造に移徙する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻10(4)「二条御新造御移徙の事」

天正5年 1577年 閏7月12日 44歳
近衛信基の元服につき、加冠役を織田信長が、理髪は広橋兼勝がつとめる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻10(5)「近衛殿御方御元服の事」

天正5年 1577年 閏7月13日 44歳
織田信長が瀬田(近江国)の山岡景隆所に宿泊する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻10(5)「近衛殿御方御元服の事」

天正5年 1577年 閏7月14日 44歳
織田信長安土城(近江国)に帰城する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻10(5)「近衛殿御方御元服の事」

天正5年 1577年 8月8日 44歳
上杉謙信の攻撃を受けた七尾城(能登国)城主・長続連を救援すべく、織田信長柴田勝家を大将として滝川一益羽柴秀吉丹羽長秀斎藤利治氏家直昌安藤守就稲葉一鉄不破光治前田利家佐々成政原長頼金森長近、若狭衆を遣わす。
出典:『信長公記』巻10(6)「柴田北国相働の事」

天正5年 1577年 8月12日 44歳
織田信長の京都の屋敷の北側の堀普請につき、任助、大覚寺尊信、上賀茂郷、伏見伊勢三郎、吉田兼見に人足を賦課する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 8月17日 44歳
松永久秀久通父子が、定番していた天王寺砦を引き払い信貴山城(大和国)に籠城し、信長に叛く。
出典:『信長公記』巻10(7)「松永謀叛並人質御成敗の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正5年 1577年 8月-日 44歳
羽柴秀吉織田信長に届け出ることなく北国の陣から無断で撤退し、信長の勘気を蒙る。
出典:『信長公記』巻10(6)「柴田北国相働の事」

天正5年 1577年 9月6日 44歳
織田信長黒田孝高に備前国攻めにあたり羽柴秀吉の派遣を伝える朱印状を発給する。またこの朱印状にて戦の進め方や人質についての取り扱いについて秀吉の指示に従うようと命じる。
出典:(天正5年)9月6日付織田信長朱印状(福岡市博物館所蔵『軍師官兵衛』)

天正5年 1577年 9月27日 44歳
松永久秀久通父子が信貴山城(大和国)にて織田信長に叛く。
織田信忠が松永久秀・久通父子を攻めるため岐阜城(美濃国)を出陣し、蜂屋頼隆の肥田城(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(8)「片岡城被攻干事」、『当代記』巻2同年月日条

天正5年 1577年 9月27日 44歳
織田信長の京都の屋敷の普請につき、吉田兼見が人足を出す。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 9月28日 44歳
松永久秀久通父子討伐のため大和国に向かう織田信忠安土城(近江国)の丹羽長秀邸に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(8)「片岡城被攻干事」

天正5年 1577年 9月29日 44歳
織田信長の京都の屋敷が竣工する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 10月1日 44歳
織田信忠安土城(近江国)を出発し、瀬田(近江国)の山岡景隆所に宿泊する。
松永久秀の与力・森秀光、海老名勝正が籠る片岡城(大和国)を、明智光秀細川藤孝筒井順慶、山城国衆が攻め、落とす。この城攻めで細川忠興・興元兄弟が天守に一番乗りで攻め入り、城主の森秀光、海老名勝正等150余を討ち取る。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻10(8)「片岡城被攻干事」、『信長公記』巻10(9)「信貴山城被攻落の事」、『綿考輯録」巻3

天正5年 1577年 10月4日 44歳
織田信長松永久通の人質2名(松永孫六の子14歳、12歳)を安土(近江国)より京都に移す。5日処刑されると噂される。矢部家定、福富秀勝が移送を担当する。
出典:『兼見卿記』同年月日条・同年月5日条

天正5年 1577年 10月5日 44歳
織田信長松永久通の人質2名(松永孫六の子14歳、12歳)を京都六条河原にて処刑する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 10月9日 44歳
夜、織田信忠松永久秀久通の籠る信貴山城(大和国)を攻める。久秀・久通父子が切腹する。
織田信長勢:織田信忠[大将]、佐久間信盛羽柴秀吉明智光秀丹羽長秀細川藤孝筒井順慶細川忠興[細川藤孝勢]、細川興元[細川藤孝勢]。
松永久秀勢:松永久秀[大将]、松永久通。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正5年 1577年 10月10日 44歳
夜、織田信忠松永久秀久通の籠る信貴山城(大和国)を攻める。久秀・久通父子が切腹する。
織田信長勢:織田信忠[大将]、佐久間信盛羽柴秀吉明智光秀丹羽長秀細川藤孝筒井順慶細川忠興[細川藤孝勢]、細川興元[細川藤孝勢]。
松永久秀勢:松永久秀[大将](自害)、松永久通(自害)。
出典:『多聞院日記』同年月日・11日条、『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻10(9)「信貴山城被攻落の事」

天正5年 1577年 10月27日 44歳
織田信長の指示により京都の羽柴秀吉邸に近衛前久が移る。
出典:『兼見卿記』同年月28日条

天正5年 1577年 11月13日 44歳
織田信長が二条御新造に入る。
出典:『信長公記』巻10(4)「二条御新造御移徙の事」

天正5年 1577年 11月14日 44歳
織田信長が、未明、上洛する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 11月18日 44歳
織田信長が分国中の大名・馬廻衆を引き連れ鷹狩をする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 11月21日 44歳
内大臣に任じられる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正5年 1577年 12月3日 44歳
織田信長が京都より安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻10(13)「三州吉良御鷹野の事」

天正5年 1577年 12月10日 44歳
織田信長吉良(三河国)にて鷹狩をするため安土城(近江国)を発し、丹羽長秀の居城・佐和山城(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(13)「三州吉良御鷹野の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正5年 1577年 12月11日 44歳
織田信長が垂井(美濃国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(13)「三州吉良御鷹野の事」

天正5年 1577年 12月12日 44歳
織田信長岐阜城(美濃国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(13)「三州吉良御鷹野の事」

天正5年 1577年 12月13日 44歳
織田信長岐阜城(美濃国)に逗留する。
出典:『信長公記』巻10(13)「三州吉良御鷹野の事」

天正5年 1577年 12月14日 44歳
織田信長清須城(尾張国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(13)「三州吉良御鷹野の事」

天正5年 1577年 12月15日 44歳
織田信長吉良(三河国)にて鷹狩をする。
出典:『信長公記』巻10(13)「三州吉良御鷹野の事」

天正5年 1577年 12月19日 44歳
織田信長岐阜城(美濃国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻10(13)「三州吉良御鷹野の事」

天正5年 1577年 12月21日 44歳
織田信長安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻10(13)「三州吉良御鷹野の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正5年 1577年 12月28日 44歳
織田信忠安土城(近江国)に赴き、丹羽長秀邸に宿泊する。織田信長が子・信忠に初花、松花、雁絵、竹子花入、くさり、藤なみの御釜、道三茶碗、内赤盆を賜う。
出典:『信長公記』巻10(14)「中将信忠へ御名物十一種被参事」

天正5年 1577年 12月29日 44歳
織田信長が子・信忠に周徳茶杓、大黒庵所持の瓢箪の炭入、古市胤澄所持の高麗箸を下賜する。
出典:『信長公記』巻10(14)「中将信忠へ御名物十一種被参事」

天正6年 1578年 1月1日 45歳
五畿内、和泉、越前、尾張、美濃、近江、伊勢その他隣国の者が織田信長のもとへ礼に訪れる。
信長が、子・信忠武井夕庵林秀貞滝川一益細川藤孝明智光秀荒木村重、長谷川与二、羽柴秀吉丹羽長秀、市橋九郎右衛門、長谷川宗仁に茶を振る舞う。
出典:『信長公記』巻11(1)「御茶湯の事」

天正6年 1578年 1月13日 45歳
織田信長が清須(尾張国)にて鷹狩をするため安土城(近江国)を出立する。柏原(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(2)「御節会の事」

天正6年 1578年 1月14日 45歳
織田信長岐阜城(美濃国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(2)「御節会の事」

天正6年 1578年 1月15日 45歳
織田信長岐阜城(美濃国)に逗留する。
出典:『信長公記』巻11(2)「御節会の事」

天正6年 1578年 1月16日 45歳
織田信長が清須(尾張国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(2)「御節会の事」

天正6年 1578年 1月18日 45歳
織田信長吉良(三河国)にて鷹狩をする。
出典:『信長公記』巻11(2)「御節会の事」

天正6年 1578年 1月20日 45歳
織田信長の妻子が安土城(近江国)に移る。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 1月23日 45歳
織田信長岐阜城(美濃国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(2)「御節会の事」

天正6年 1578年 1月24日 45歳
織田信長岐阜城(美濃国)に逗留する。
出典:『信長公記』巻11(2)「御節会の事」

天正6年 1578年 1月25日 45歳
織田信長安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻11(2)「御節会の事」

天正6年 1578年 2月3日 45歳
磯野員昌織田信長の命に違背したため折檻したところ員昌が蓄電したため、員昌の所領である高島郡(近江国)を甥・津田信澄に給付する。
出典:『信長公記』巻11(4)「磯野丹波磯貝新左衛門の事」

天正6年 1578年 2月23日 45歳
別所長治三木城(播磨国)に籠城し、織田信長に叛旗を翻す。
出典:『信長公記』巻11(4)「磯野丹波磯貝新左衛門の事」

天正6年 1578年 2月29日 45歳
織田信長が近江国内の相撲取300人を召し寄せ相撲を見物する。
出典:『信長公記』巻11(5)「相撲の事」

天正6年 1578年 3月6日 45歳
織田信長が鷹狩のため奥島(近江国)に赴き長命寺に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(5)「相撲の事」

天正6年 1578年 3月7日 45歳
羽柴秀吉が姫路(播磨国)に到着する。
秀吉の姫路着陣を受け、別所賀相が秀吉を警戒し、別所長治に織田家を叛くよう勧め、長治は織田家に叛き三木城(播磨国)に籠城する。
出典:『天正記』「播磨別所記」

天正6年 1578年 3月8日 45歳
織田信長安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻11(5)「相撲の事」

天正6年 1578年 3月13日 45歳
上杉謙信が虫気により死去する。
出典:『薬師堂墨書』・『高野山過去帳』(『上越市史』資料編3)、(天正6年)3月24日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1477号)

天正6年 1578年 3月23日 45歳
申刻(15-17時)、織田信長が上洛し、二条御新造に宿泊する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻11(5)「相撲の事」

天正6年 1578年 3月26日 45歳
織田信長が吉田兼見に小物 尉若を遣わす。鮒之酢5を贈る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正6年 1578年 3月28日 45歳
吉田兼見が菓子5種(饅頭(薄皮)、宇治絵柿、打栗、大豆アメ、山芋(自然薯))を織田信長に進上する。松井友閑が披露する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正6年 1578年 4月4日 45歳
織田信長が、織田信忠を大将とし、北畠信雄織田信包神戸信孝津田信澄明智光秀滝川一益蜂屋頼隆丹羽長秀を加えた大坂本願寺攻めの軍勢を編成する。
出典:『信長公記』巻11(5)「相撲の事」

天正6年 1578年 4月5日 45歳
織田信長大坂本願寺周辺の麦苗を悉くなぎ捨てる。
出典:『信長公記』巻11(5)「相撲の事」

天正6年 1578年 4月6日 45歳
織田信長大坂本願寺周辺の麦苗を悉くなぎ捨てる。
出典:『信長公記』巻11(5)「相撲の事」

天正6年 1578年 4月8日 45歳
織田信忠大坂本願寺より京都に帰陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正6年 1578年 4月9日 45歳
織田信長が右大臣就任を辞退する。辞退状を広橋兼勝が請け取る。辞退状には四海平均を優先するためとし、官を子・信忠に譲与したいと記す。
信長の辞退申し出を受け、飛鳥井雅敦の所にて諸卿が協議する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正6年 1578年 4月10日 45歳
織田信長明智光秀滝川一益に荒木氏綱の籠る荒木城(丹波国)攻めを命じる。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 4月22日 45歳
織田信長が京都より安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻11(7)「洪水の事」

天正6年 1578年 4月27日 45歳
織田信長が上洛する。
出典:『信長公記』巻11(7)「洪水の事」

天正6年 1578年 5月13日 45歳
織田信長が播磨国に向けて出陣を予定していたが、京都で大雨が降り延期となる。
出典:『信長公記』巻11(7)「洪水の事」

天正6年 1578年 5月24日 45歳
織田信長竹中重治より八幡山城主が織田家に味方するとの報告を受け、羽柴秀吉に黄金100枚、重治に銀子100両を贈る。
出典:『信長公記』巻11(7)「洪水の事」

天正6年 1578年 5月27日 45歳
未明、織田信長安土城(近江国)に向けて京都を発つ。
安土城(近江国)の大雨被害を検分すべく、松本(近江国)より矢橋(近江国)まで船にて赴く。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻11(7)「洪水の事」

天正6年 1578年 6月10日 45歳
未刻(13-15時)、織田信長が上洛する。(『兼』)
上洛するため矢橋(近江国)より松本(近江国)まで船にて赴く。(『信』)
出典:『信長公記』巻11(7)「洪水の事」

天正6年 1578年 6月14日 45歳
織田信長が祇園会を見物する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻11(7)洪水の事(祇園会の事)

天正6年 1578年 6月16日 45歳
羽柴秀吉が上洛し、織田信長のもとに訪れる。信長は秀吉に神吉(播磨国)、志方(播磨国)を攻め破り、三木城(播磨国)を追い詰めるよう命じる。神吉城(播磨国)攻めの検使として大津長昌、水野九蔵、大塚又一郎、長谷川竹、矢部家定、菅屋長頼万見重元、祝弥三郎を遣わす。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 6月21日 45歳
織田信長安土城(近江国)に向けて京都を発つ。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 6月26日 45歳
九鬼嘉隆が大船7艘を熊野浦に出す。大坂へと回漕中、淡輪の海上にて大船の行く手を阻むべく、雑賀・淡輪浦の小船が嘉隆の大船を襲撃するが、九鬼の大船が大鉄砲にて小船を一掃。以後、九鬼への襲撃が止む。
出典:『信長公記』巻11(9)「九鬼大船の事」

天正6年 1578年 7月17日 45歳
九鬼嘉隆が率いる大船7艘がに着岸。見物人を驚愕させる。
出典:『信長公記』巻11(9)「九鬼大船の事」

天正6年 1578年 7月18日 45歳
禁裏に白鳥20、塩引30を進上する。(『兼』)
九鬼嘉隆が率いる大船7艘が大坂(摂津国)へと出航。海上に留まり、大坂本願寺への海路を封鎖する。(『信』)
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻11(9)「九鬼大船の事」

天正6年 1578年 7月20日 45歳
浦に伊勢から5000を乗船した大船が到着する。幅7間、長さ12-13間の「鉄ノ船」で「テツハウ」を通さない作り。大坂本願寺の通路を遮断するためという。
羽柴秀吉が神吉城(播磨国)を攻め落とす。
出典:『多聞院日記』同年月日・21日条

天正6年 1578年 7月-日 45歳
織田信長勢が別所長治の籠る居城・三木城(播磨国)を包囲すべく付城を築く。
出典:『信長公記』巻11(8)「播磨神吉城攻の事」

天正6年 1578年 8月5日 45歳
津軽為信、南部晴政が織田信長に鷹を進上する。
出典:『信長公記』巻11(10)「小相撲の事」

天正6年 1578年 8月15日 45歳
織田信長が近江・京都の相撲取をはじめ1500人を安土城(近江国)に集めて大相撲会を行う。蒲生氏郷が相撲に加わる。
出典:『信長公記』巻11 同年月日条

天正6年 1578年 9月23日 45歳
織田信長が上洛するため安土城(近江国)を出立し、瀬田(近江国)の山岡景隆所に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正6年 1578年 9月24日 45歳
辰刻(7-9時)、織田信長が上洛し、二条御新造に到着する。
太田保(越中国)の椎名小四郎、河田長親を攻めるため斎藤利治を遣わす。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『晴豊記』同年月日条、『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正6年 1578年 9月27日 45歳
織田信長九鬼嘉隆の大船を見物するため、京都を発ち、八幡に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正6年 1578年 9月28日 45歳
織田信長が八幡を発ち若江(河内国)に到着する。
出典:『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正6年 1578年 9月29日 45歳
早朝、織田信長天王寺に到着。佐久間信盛のところにて休息。その後、鷹狩をしながら住吉神社に移る。
出典:『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正6年 1578年 9月30日 45歳
織田信長に到着する。近衛前久、細川、一色が同道。九鬼嘉隆の大船を見物する。今井宗久のもとに茶を飲み、帰る途中、宗養・宗及・道昵の私宅にも寄る。住吉神社に帰る。住吉神社にて嘉隆を召し黄金10・服・ばくろう2折を与え、かつ1000人ずつ扶持を与える。また、犬飼助三・渡辺佐内・伊藤孫大夫の3人に黄金3枚と服を与える。
出典:『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正6年 1578年 10月1日 45歳
織田信長が住吉神社から河内国を経由し京都に戻る。安見新七郎のもとで休息する。二条御新造に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正6年 1578年 10月2日 45歳
織田信長が信長留守中に女房衆が遊興に耽ったとして重伝と女房のさいを成敗する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正6年 1578年 10月4日 45歳
斎藤利治が太田保内の本郷(越中国)に陣取る。今泉城(越中国)に籠る椎名小四郎、河田長親を攻め、月岡野の合戦にて破る。
出典:『信長公記』巻11(11)「越中御陣の事」

天正6年 1578年 10月5日 45歳
織田信長が二条御新造にて畿内の相撲取を召し寄せ公家衆とともに見物する。
出典:『晴豊記』同年月日条、『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻11(11)「越中御陣の事」

天正6年 1578年 10月6日 45歳
織田信長安土城(近江国)に向けて京都を発つ。京都から坂本(近江国)を経由し船にて安土城(近江国)に帰城する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻11(11)「越中御陣の事」

天正6年 1578年 10月10日 45歳
織田信長安土城(近江国)に帰城する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 10月21日 45歳
荒木村重織田信長に謀反をするのではと信長に伝わるが、信長は村重が謀叛をする理由がないとしつつも、確認のため松井友閑明智光秀万見重元を村重のもとに遣わす。村重は信長に謀叛をするつもりはないと返答するが、信長に対し謀叛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 10月28日 45歳
奈良(大和国)にて荒木村重織田信長への謀反が噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月3日 45歳
荒木村重の謀反につき、織田信長安土城(近江国)に子・神戸信孝稲葉一鉄不破光治丸毛長照を置き、同城を出陣する。二条御新造に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 11月4日 45歳
二条の御殿に滞在中の織田信長村井貞勝を朝廷につかわし本願寺顕如との和睦仲介を依頼する。
出典:『立入左京亮入道隆佐記』

天正6年 1578年 11月6日 45歳
毛利家の水軍衆が木津へ向かってくるが、九鬼嘉隆の率いる大船7艘が応戦。毛利水軍衆の大将が乗る船を大鉄砲で打ち崩したため、水軍衆は九鬼の大船に近寄らなくなる。見物人は九鬼の手柄と称賛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月9日 45歳
織田信長荒木村重を攻めるため摂津国に向けて出陣する。信長は山崎(山城国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月10日 45歳
織田信長荒木村重に与同した高槻城(摂津国)の高山重友を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆氏家直昌安藤守就稲葉一鉄を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝不破直光前田利家佐々成政原長頼金森長近、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に佐久間信盛羽柴秀吉松井友閑大津長昌を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『姫路市史 史料編1』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月11日 45歳
羽柴秀吉黒田職隆に、11月10日、織田信長荒木村重討伐につき高槻(摂津国)に到着したこと、高槻城(摂津国)を包囲したところ城主の高山重友が信長に降伏したこと、滝川一益稲葉良通安藤守就氏家直昌・武藤が郡山(摂津国)に陣取り砦を築くことになったこと、職隆が村重に与同せず信長に逆らわなかったことは竹中重治より聞いたので秀吉より信長に伝えたところ信長は喜んでいたことを伝える。
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『姫路市史 史料編1』「黒田家文書」4号)

天正6年 1578年 11月14日 45歳
滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆、武藤舜秀、氏家直昌安藤守就稲葉一鉄羽柴秀吉、永原が先陣として伊丹(摂津国)に足軽を出す。
同日、頼隆、長秀、蒲生賢秀、若狭国衆は見野郷(摂津国)に陣取り、織田信忠北畠信雄神戸信孝は小野原郷(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月15日 45歳
織田信長が郡山(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月16日 45歳
高山重友が郡山(摂津国)に在陣中の織田信長のもとへ赴く。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月18日 45歳
織田信長の命により、津田信澄茨木城(摂津国)への抑えとして置き、惣持寺(摂津国)寺中の要害普請に越前衆の不破光治前田利家佐々成政金森長近、日根野備中、日根野弥次右衛門、原長頼をあたらせる。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正6年 1578年 11月23日 45歳
織田信長が惣持寺(摂津国)に赴く。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正6年 1578年 11月24日 45歳
茨木城(摂津国)に籠る荒木村重方の中川清秀が、古田重然福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成の勧めにより、同城にいる石田伊予、渡辺勘大夫を追い出し、織田信長に降伏する。
清秀の降伏により、信長は本願寺顕如との和睦を取り止める。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『立入左京亮入道隆佐記』、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 11月26日 45歳
織田信長中川清秀に黄金30枚、高山重友に黄金20枚を下付する。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正6年 1578年 11月27日 45歳
織田信長が郡山(摂津国)から古池田(摂津国)に陣所を移す。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正6年 1578年 11月28日 45歳
織田信長信忠父子が昆陽野(摂津国)に陣所を移す。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正6年 1578年 11月-日 45歳
滝川一益丹羽長秀が西宮・茨住吉・芦屋・雀ヶ松原・御影・滝山・生田森(摂津国)に陣取り、荒木村重方の荒木志摩守が籠る花隈城(摂津国)を攻める。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正6年 1578年 12月3日 45歳
荒木村重方の大輪田城(摂津国)に籠る安部二右衛門が、織田信長に降伏する。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正6年 1578年 12月4日 45歳
滝川一益丹羽長秀が一の谷(摂津国)を放火する。その後、両人は荒木村重が籠る有岡城(摂津国)を攻めるべく塚口(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正6年 1578年 12月8日 45歳
織田信長荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻める。攻め衆は、堀秀政万見重元菅屋長頼が奉行をつとめ、筒井順慶、平井久右衛門、中野又兵衛、芝山次大夫等が参戦する。ただし、村重は織田勢を退け、織田勢は重元、水野忠分等2000余名の戦死者を出す。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『家忠日記』同年月12日条

天正6年 1578年 12月11日 45歳
織田信長有岡城(摂津国)の抑えとして付城の築城を命じ、古池田(摂津国)に移る。
塚口郷の砦に丹羽長秀蜂屋頼隆蒲生氏郷高山重友神戸信孝を、毛馬村の砦に織田信包滝川一益北畠信雄・武藤舜秀を、倉橋郷の砦に池田恒興元助池田古新を、原田郷の砦に中川清秀古田重然を、刀根山の砦に稲葉良通氏家直昌安藤守就・芥川を、郡山の砦に津田信澄を、古池田の砦に塩川伯耆を、加茂の砦に織田信忠を、高槻城(摂津国)に大津長昌・牧村長兵衛・生駒市左衛門・生駒三吉・湯浅甚介・猪子高就・村井作右衛門・武田左吉を、茨木城(摂津国)に福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成を置く。
播磨国に、羽柴秀吉佐久間信盛明智光秀筒井順慶を三田城(摂津国)に遣わす。
出典:『信長公記』巻11 同年月日条

天正6年 1578年 12月16日 45歳
織田信長荒木村重の妻・だしを六条河原にて処刑する。
出典:『立入左京亮入道隆佐記』

天正6年 1578年 12月21日 45歳
織田信長が古池田(摂津国)より上洛し京都に入る。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正6年 1578年 12月25日 45歳
織田信長安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

天正7年 1579年 1月9日 46歳
武田勝頼吉川元春に、荒木村重織田信長に謀叛したことについて、毛利家の本意に属すことであり、足利義昭を奉じて速やかに京都へ出勢すべきことを毛利輝元に諫言するように伝える書状を発給する。
出典:(天正7年)1月9日付武田勝頼書状写(『戦国遺文』武田氏編5巻-3067号、吉川家文書)

天正7年 1579年 2月18日 46歳
織田信長が上洛する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月19日条、『信長公記』巻12「安土城年賀の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 2月21日 46歳
織田信長が慈照寺あたりで鷹狩をする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正7年 1579年 2月26日 46歳
織田信長が鷹狩をする。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正7年 1579年 3月1日 46歳
山科言継山科言経父子が織田信長のもとに礼に赴くが対面はなし。その後、父子は村井貞勝のもとを訪れる。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正7年 1579年 3月2日 46歳
織田信長が賀茂(山城国)にて鷹狩をする。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻12「安土城年賀の事」

天正7年 1579年 3月5日 46歳
織田信長有岡城(摂津国)の荒木村重を攻めるべく、京都を出陣し、山崎(山城国)に滞在する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言経卿記』同年5月1日条、『信長公記』巻12(1)「摂津国御陣の事」

天正7年 1579年 3月6日 46歳
織田信長が天神馬場(摂津国)にて鷹狩をする。その日、郡山(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻12(1)「摂津国御陣の事」

天正7年 1579年 3月7日 46歳
織田信長が古池田(摂津国)に陣取る。織田信忠不破光治前田利家佐々成政原長頼金森長近等が荒木村重が籠る有岡城(摂津国)の四方に陣取る。
出典:『信長公記』巻12(1)「摂津国御陣の事」

天正7年 1579年 3月14日 46歳
織田信長が多田(摂津国)にて鷹狩をする。
出典:『信長公記』巻12(1)「摂津国御陣の事」

天正7年 1579年 3月19日 46歳
織田信長が摂津国に在陣中。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正7年 1579年 3月20日 46歳
織田信長が箕面(摂津国)の滝を見物する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 3月30日 46歳
織田信長が鷹狩をした後、箕面の滝を見物する。
出典:『信長公記』巻12(1)「摂津国御陣の事」

天正7年 1579年 4月8日 46歳
織田信長が播磨国に不破光治前田利家佐々成政原長頼金森長近堀秀政津田信澄を遣わす。
出典:『信長公記』巻12(1)「摂津国御陣の事」

天正7年 1579年 4月29日 46歳
古池田(摂津国)に陣取っていた織田信長のもとに、播磨国に赴いていた子・信忠が戻り、同国の情勢の報告を受ける。信長は信忠に岐阜城(美濃国)の帰城を許す。
荒木村重有岡城(摂津国)攻めのため同城周辺に在陣していた不破光治前田利家佐々成政原長頼金森長近の帰城を許す。
有岡城への備えとして、塚口郷に丹羽長秀蜂屋頼隆蒲生氏郷を、塚口郷の東の田中に福富秀勝・山岡景佐・山城衆を、毛馬村に細川藤孝忠興・興元父子を、川端砦に池田恒興元助池田輝政父子を、四角屋敷に氏家直昌を、河原砦に稲葉貞通・芥川を、賀茂岸に塩川伯耆・安藤守就・伊賀七郎を、池上に信忠勢を、昆陽古城に滝川一益・武藤舜秀を、深田に高山重友を、倉橋に池田元助を定番として置く。
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」

天正7年 1579年 5月1日 46歳
織田信長が摂津国より上洛する。
出典:『言経卿記』同年月日条、『信長公記』巻12(3)「二条殿・烏丸殿・菊庭殿・山科左衛門督・嵯峨彦策・武藤弥平衛、病死の事」

天正7年 1579年 5月3日 46歳
早朝、織田信長安土城(近江国)に向けて京都を発つ。山中より坂本(近江国)を経由し、船にて安土城に帰城する。
出典:『言経卿記』同年月日条、『信長公記』巻12(3)「二条殿・烏丸殿・菊庭殿・山科左衛門督・嵯峨彦策・武藤弥平衛、病死の事」

天正7年 1579年 5月11日 46歳
織田信長安土城(近江国)の天主に移る。
出典:『信長公記』巻12(3)「二条殿・烏丸殿・菊庭殿・山科左衛門督・嵯峨彦策・武藤弥平衛、病死の事」

天正7年 1579年 5月27日 46歳
織田信長安土城(近江国)にて浄土衆と日蓮衆との宗論を行う。浄土衆の勝者とし、日蓮衆の普伝、塩屋伝介を死罪とする。また、日蓮衆1000人程を久遠院に追い入れる。妙覚寺をはじめとする京都の日蓮衆の諸寺連署で、安土城での宗論は日蓮衆の負けであること、今後、他宗に対し法難をしないこと、日蓮衆が宗派として存在することを忝く思うことを誓う起請文を堀秀政菅屋長頼長谷川秀一宛に提出させる。起請文の連署者は、本能寺日幸、本圀寺日佑、妙覚寺日諦ほか。
出典:『言経卿記』同年月28日条・同年6月2日条

天正7年 1579年 5月28日 46歳
安土城(近江国)にて浄土衆と日蓮衆との宗論につき、日蓮衆側が5月27日付で宗論に敗れたことを認める起請文と連署状を堀秀政菅屋長頼長谷川秀一宛に提出したことを受け、その案文を村井貞勝に送り、正文の1通を知恩院に、もう1通を織田方で保管するとともに、洛中・洛外に触れ回るよう指示する。
出典:『言経卿記』同年月28日条・同年6月2日条

天正7年 1579年 6月4日 46歳
波多野秀治・秀尚・秀香が安土城(近江国)に送還され、織田信長の命により磔にされる。
出典:『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」

天正7年 1579年 6月18日 46歳
織田信忠安土城(近江国)にいる父・信長のもとへ見舞いのため赴く。
出典:『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」

天正7年 1579年 6月20日 46歳
織田信長が上洛する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正7年 1579年 6月20日 46歳
伊丹(摂津国)に在陣中の滝川一益蜂屋頼隆、武藤舜秀、丹羽長秀福富秀勝に、織田信長がハイタカミモト・小男鷹2を贈る。使者は青山与三。
出典:『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」

天正7年 1579年 6月24日 46歳
織田信長丹羽長秀に以前下付した珠光茶碗を召し上げ、代替として鉋切の腰物(銘長光)を下付する。
出典:『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」

天正7年 1579年 7月6日 46歳
安土城(近江国)にて相撲が行われる。
出典:『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」

天正7年 1579年 7月7日 46歳
安土城(近江国)にて相撲が行われる。
出典:『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」

天正7年 1579年 7月16日 46歳
徳川家康織田信長に馬を進上する。使者は酒井忠次。忠次・奥平信昌も信長に馬を進上する。
出典:『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」

天正7年 1579年 7月18日 46歳
大宝寺義氏が織田信長に馬5頭・鷹11羽を進上する。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 7月19日 46歳
織田信長が子・信忠に命じ、津田与八・前田玄以・赤座七郎右衛門をもって、所々の家に仕え信長に仕えない井戸才介を「無奉公」を理由に殺害する。
出典:『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」

天正7年 1579年 8月6日 46歳
織田信長が近江国内の相撲取を召し寄せ、安土城(近江国)にて相撲を取らせる。この日、甲賀出身の伴正林が「よき相撲」を七番打つ。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 8月7日 46歳
8月6日に引き続き、織田信長が近江国内の相撲取を召し寄せ、安土城(近江国)にて相撲を取らせる。6日に活躍した伴正林が再度よい相撲をとったため、信長に召し抱えられる。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 8月9日 46歳
明智光秀が赤井幸家の籠る黒井城(丹波国)を攻め、同城を落とす。
柴田勝家が加賀国に侵攻し、阿多賀・本折・小松町口を焼き払い、苅田をする。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 8月20日 46歳
織田信忠荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻めるため、岐阜城(美濃国)を発つ。柏原(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 8月21日 46歳
荒木村重の籠る有岡城(摂津国)攻めに向かう織田信忠が、安土城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 8月22日 46歳
荒木村重の籠る有岡城(摂津国)攻めに向かう織田信忠が、堀秀政とともに安土城(近江国)を発つ。昆陽(摂津国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻12(6)「赤井悪右衛門退散の事」

天正7年 1579年 9月2日 46歳
荒木村重が5、6名を召し連れ、有岡城(摂津国)から尼崎(摂津国)に逃亡する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月4日 46歳
羽柴秀吉が播磨国より安土城(近江国)にいる織田信長のもとに赴き、宇喜多直家の赦免を請う。信長は、秀吉が事前に相談することなしに、直家の赦免を約束したことに怒り、秀吉を播磨国に追い返す。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月11日 46歳
北条氏照織田信長に鷹3羽を進上する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月12日 46歳
織田信長が上洛する。
織田信忠有岡城(摂津国)攻めの軍勢の半分を割き、荒木村重が逃亡した尼崎(摂津国)に攻め入る。七松(摂津国)に砦を2ヶ所築くよう命じ、塩川伯耆・高山重友中川清秀・山岡景佐に各砦の定番を命じる。その後、信忠は昆陽(摂津国)に帰陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月15日 46歳
松平信康が父・家康の命により二俣(遠江国)にて自害する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 9月16日 46歳
織田信長滝川一益丹羽長秀に馬を下付する。使者は青山与右衛門。
出典:『信長公記』巻12(9)「宇治橋懸けさせらるるの事」

天正7年 1579年 9月17日 46歳
北畠信雄が伊賀国に攻め入る。柘植三郎左衛門が戦死する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月18日 46歳
二条御新造にて摂関家・清華家、細川昭元が蹴鞠をする。織田信長はそれを見物する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月21日 46歳
織田信長荒木村重を攻めるべく、京都を発ち山崎(山城国)に移り、同地に宿泊する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月22日 46歳
織田信長は、雨のため山崎(山城国)に逗留する。
信長が子・信雄に対し、私的に伊賀国に攻め入ったことを折檻する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月22日 46歳
荒木村重有岡城(摂津国)より脱出し、尼崎(摂津国)に移る。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 9月23日 46歳
織田信長は、雨のため山崎(山城国)に逗留する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月24日 46歳
織田信長荒木村重を攻めるべく、山崎(山城国)を発ち、古池田(摂津国)に着陣する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月27日 46歳
織田信長有岡城(摂津国)を囲む諸砦を見舞う。昆陽(摂津国)に在陣中の滝川一益のもとに逗留の後、塚口(摂津国)に在陣中の丹羽長秀のもとに赴き休息をとった後、古池田(摂津国)に戻る。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月28日 46歳
織田信長が古池田(摂津国)を発ち、茨木(摂津国)に立ち寄った後、帰洛する。
出典:『多聞院日記』同年10月6日条、『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月29日 46歳
天王寺にて、織田信長勢と大坂本願寺の一向一揆勢が戦う。
出典:『多聞院日記』同年10月6日条

天正7年 1579年 10月8日 46歳
戌刻(19-21時)、織田信長が二条御新造を発ち、安土城(近江国)に向かう。翌9日の日の出に安土城に到着する。
出典:『信長公記』巻12(12)「謀書の事」

天正7年 1579年 10月15日 46歳
早朝、荒木村重の籠る有岡城(摂津国)の城外のカワメ市場が焼ける。滝川一益が荒木家の足軽大将である星野・山脇・隠岐・宮脇を寝返らせ、織田勢を城中に引き入れる。
出典:『多聞院日記』同年月16日条、『信長公記』巻12(13)「伊丹城謀叛人の事」

天正7年 1579年 10月24日 46歳
明智光秀織田信長のいる安土城(近江国)に赴き、丹後国・丹波国の平定を報告する。
出典:『信長公記』巻12(13)「伊丹城謀叛人の事」

天正7年 1579年 10月29日 46歳
神保長城が織田信長に黒葦毛の馬を進上する。
出典:『信長公記』巻12(14)「氏政甲州表へ働の事」

天正7年 1579年 10月30日 46歳
宇喜多直家織田信長に赦免してもらうため、宇喜多基家を昆陽(摂津国)に在陣中の織田信忠のもとに遣わし、この日、基家が昆陽に到着する。基家は羽柴秀吉の執り成しにより、信忠に礼をする。
出典:『信長公記』巻12(14)「氏政甲州表へ働の事」

天正7年 1579年 11月3日 46歳
織田信長が上洛するため安土城(近江国)を発つ。信長は瀬田橋御茶屋に宿泊する。
出典:『信長公記』巻12(14)「氏政甲州表へ働の事」

天正7年 1579年 11月3日 46歳
二条御所(山城国)が竣工する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 11月4日 46歳
織田信長が上洛する。
出典:『信長公記』巻12(14)「氏政甲州表へ働の事」

天正7年 1579年 11月6日 46歳
織田信長が北野(山城国)にて鷹狩をする。
出典:『信長公記』巻12(14)「氏政甲州表へ働の事」

天正7年 1579年 11月8日 46歳
織田信長が東山から一乗寺(山城国)一帯にて鷹狩をする。
出典:『信長公記』巻12(14)「氏政甲州表へ働の事」

天正7年 1579年 11月9日 46歳
織田信長が一乗寺・修学院(山城国)辺りにて鷹狩をする。
出典:『信長公記』巻12(14)「氏政甲州表へ働の事」

天正7年 1579年 11月10日 46歳
織田信長が一乗寺・修学院(山城国)辺りにて鷹狩をする。
出典:『信長公記』巻12(14)「氏政甲州表へ働の事」

天正7年 1579年 11月16日 46歳
亥刻(21-23時)、織田信長が京都の居所を二条御新造から妙覚寺に移す。
出典:『信長公記』巻12(14)「氏政甲州表へ働の事」

天正7年 1579年 11月20日 46歳
荒木村重有岡城(摂津国)が開城し、織田信長に渡される。
出典:『多聞院日記』同年月22日条

天正7年 1579年 11月22日 46歳
織田信長が誠仁親王を猶子とし、二条御新造に住まわせる。この移徙に際し、近衛信基九条兼孝一条内基二条昭実鷹司信房が二条御新造に先入りする。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻12(16)「親王様、二条御新造へ行啓の事」

天正7年 1579年 11月27日 46歳
織田信長が北野(山城国)にて鷹狩をする。
出典:『信長公記』巻12(16)「親王様、二条御新造へ行啓の事」

天正7年 1579年 12月5日 46歳
織田信長荒木村重に加担し、有岡城(摂津国)に入城した高山友照を柴田勝家預かりとして北陸に遣わす。
出典:『信長公記』巻12(16)「親王様、二条御新造へ行啓の事」

天正7年 1579年 12月7日 46歳
森口城(河内国)が織田信長に帰参する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正7年 1579年 12月10日 46歳
織田信長山崎(山城国)に移る。
出典:『信長公記』巻12(17)「やわた八幡空造営の事」

天正7年 1579年 12月11日 46歳
織田信長が雨のため山崎(山城国)の宝積寺に逗留する。
出典:『信長公記』巻12(17)「やわた八幡空造営の事」

天正7年 1579年 12月12日 46歳
織田信長が雨のため山崎(山城国)の宝積寺に逗留する。
出典:『信長公記』巻12(17)「やわた八幡空造営の事」

天正7年 1579年 12月13日 46歳
辰刻(7-9時)、織田信長有岡城(摂津国)の人質衆の女房をはじめ600余人を家の追い入れ焼き殺す。検使は矢部家定
有岡城は信長の小姓衆により二十日番制で管理される。
出典:『多聞院日記』同年月14日条、『信長公記』巻12(18)「伊丹城相果だし御成敗の事」

天正7年 1579年 12月14日 46歳
織田信長山崎(山城国)より妙覚寺に移る。
出典:『信長公記』巻12(18)「伊丹城相果だし御成敗の事」

天正7年 1579年 12月16日 46歳
辰刻(7-9時)、織田信長荒木村重の妻子・兄弟を上京一条辻から室町通を通って六条河原まで引き回し、六条河原にて処刑する。奉行は不破光治前田利家佐々成政原長頼金森長近
出典:『信長公記』巻12(18)「伊丹城相果だし御成敗の事」

天正7年 1579年 12月19日 46歳
織田信長が京都を発ち、安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻12(18)「伊丹城相果だし御成敗の事」

天正8年 1580年 1月17日 47歳
申刻(15-17時)、三木城(播磨国)にて別所長治別所友之が切腹する。三木城が羽柴秀吉の手に落ちる。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」、『天正記』「播磨別所記」、『豊臣記』

天正8年 1580年 2月17日 47歳
松平信康の妻であった徳(織田信長の娘)が美濃国に帰ることになったため、徳川家康岡崎城(三河国)に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 2月18日 47歳
松平信康の妻であった徳(織田信長の娘)を美濃国まで送り届けるよう命を受けた松平家忠岡崎城(三河国)に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 2月20日 47歳
織田信長大坂本願寺を攻めるため上洛する。妙覚寺に宿泊する。
出典:『多聞院日記』同年月21日条、『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 2月20日 47歳
美濃国に帰ることになった松平信康の妻であった徳(織田信長の娘)を岡崎城(三河国)にて徳川家康が見送る。松平家忠が桶狭間(尾張国)まで送り届ける。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 2月24日 47歳
織田信長が一乗寺・修学院・松ヶ崎山(山城国)にて鷹狩をする。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 2月26日 47歳
織田信長が居所を本能寺に定める。普請を村井貞勝に命じる。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 2月27日 47歳
織田信長山崎(山城国)に移る。信長は津田信澄、塩川伯耆、丹羽長秀に花隈城(摂津国)攻めるべく当地に赴き、砦を築いて池田恒興元助輝政父子を入れるように命じる。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 2月28日 47歳
織田信長が雨のため山崎(山城国)に逗留する。信長のもとへ根来寺岩室坊が礼に訪れる。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 2月29日 47歳
織田信長山崎(山城国)の西山にて鷹狩をする。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 2月30日 47歳
織田信長山崎(山城国)の西山にて鷹狩をする。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 3月1日 47歳
織田信長が郡山(摂津国)に入る。天神馬場・大田路次にて鷹狩をする。
禁裏より信長と本願寺顕如の和睦のため、近衛前久勧修寺晴豊庭田重保が勅使として顕如のいる大坂本願寺に赴く。勅使に佐久間信盛松井友閑が添えられる。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 3月3日 47歳
織田信長有岡城(摂津国)の様子を見分する。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 3月7日 47歳
織田信長有岡城(摂津国)より山崎(山城国)に移る。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 3月8日 47歳
織田信長が上洛し妙覚寺に入る。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 3月10日 47歳
北条氏政織田信長に礼として、白鳥20、熨斗1箱、鮑300、煎海鼠1箱、江川酒3種2荷を贈る。使者は笠原越前守・間宮若狭守・原和泉守。佐久間信盛が披露する。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 3月13日 47歳
織田信長北条氏政の使者である笠原越前守・間宮若狭守に金銀100枚を贈る。使者は矢部家定
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 3月15日 47歳
織田信長が奥島(近江国)に赴き、鷹狩をする。長命寺に逗留する。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 3月16日 47歳
織田信長長命寺に逗留する。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 3月17日 47歳
織田信長長命寺に逗留する。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 3月18日 47歳
織田信長長命寺に逗留する。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 3月19日 47歳
織田信長長命寺より安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 3月21日 47歳
織田信長北条氏政への贈答品である虎皮20枚、縮緬300端、猩々皮15を北条家の使者の笠原越前守に渡す。
出典:『信長公記』巻13(2)「無辺の事」

天正8年 1580年 3月25日 47歳
織田信長が奥島(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻13(2)「無辺の事」

天正8年 1580年 3月28日 47歳
織田信長が鷹狩をする。安土城(近江国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻13(2)「無辺の事」

天正8年 1580年 閏3月6日 47歳
織田信長安土城(近江国)より天王寺に入る。
出典:『信長公記』巻13(3)「大坂退散御請け誓紙の事」

天正8年 1580年 閏3月9日 47歳
柴田勝家が加賀国に侵攻する。勝家は添川・手取川を渡り宮の腰に陣取る。野々市に籠る一向一揆勢を攻める。
出典:『信長公記』巻13(4)「能登・加賀両国、柴田一篇に申付くる事」

天正8年 1580年 閏3月16日 47歳
石清水八幡宮を参詣した多聞院英俊が織田信長の命によって造営が進められている同社の本殿、楼門を見物する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正8年 1580年 閏3月16日 47歳
織田信長安土城(近江国)の構の南の新道の北の田地を埋めキリシタンに屋敷地を与える。奉行は菅屋長頼堀秀政長谷川秀一
出典:『信長公記』巻13(4)「能登・加賀両国、柴田一篇に申付くる事」

天正8年 1580年 閏3月-日 47歳
織田信長安土城(近江国)の鳥打の下江を埋め町を立てる。西北海の口に船入を所々に掘る。また、「江堀」を埋め、稲葉刑部、高山重友、日根野六郎左衛門、日根野弥次右衛門、日根野半左衛門、日根野勘右衛門、日根野五右衛門、水野監物、中西権兵衛、平松助十郎、余呉久兵衛、野々村正成川尻秀隆に屋敷地を与える。
出典:『信長公記』巻13(4)「能登・加賀両国、柴田一篇に申付くる事」

天正8年 1580年 4月11日 47歳
織田信長が長光寺(近江国)にて鷹狩をする。
出典:『信長公記』巻13(4)「能登・加賀両国、柴田一篇に申付くる事」

天正8年 1580年 4月24日 47歳
織田信長が伊庭山(近江国)にて鷹狩をする。
出典:『信長公記』巻13(4)「能登・加賀両国、柴田一篇に申付くる事」

天正8年 1580年 5月5日 47歳
織田信長安土城(近江国)にて相撲を催す。織田家一門衆が見物する。
出典:『信長公記』巻13(5)「阿賀の寺内申付くるの事」

天正8年 1580年 5月17日 47歳
織田信長が国中の相撲取を召し出し、安土城(近江国)にて相撲を催す。御馬廻衆が見物する。良い相撲を取ったあら鹿、吉五、正林に米50石が下付される。
出典:『信長公記』巻13(5)「阿賀の寺内申付くるの事」

天正8年 1580年 6月24日 47歳
織田信長安土城(近江国)にて相撲を催す。織田家一門衆が見物する。
出典:『信長公記』巻13(5)「阿賀の寺内申付くるの事」

天正8年 1580年 6月26日 47歳
長宗我部元親明智光秀の執奏のもと織田信長に音信として鷹16連、砂糖3000斤を贈る。
出典:『信長公記』巻13(8)「因幡・伯耆両国に至って羽柴発向の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正8年 1580年 7月2日 47歳
本願寺顕如織田信長に礼をする。使者は藤井藤左衛門、八木駿河守、平井越後守。勅使の近衛前久勧修寺晴豊庭田重保が藤井等に付き添いをするため、織田信忠顕如からの礼物である太刀代銀子100枚を贈る。松井友閑佐久間信盛が披露。織田信長は本願寺の使者および勅使に対面せず。
出典:『信長公記』巻13(9)「大坂退散の事」

天正8年 1580年 8月2日 47歳
大坂本願寺に籠城を継続していた教如織田信長に同寺を明け渡す。勅使として近衛前久勧修寺晴豊庭田重保が、信長からの使者として松井友閑佐久間信盛矢部家定が大坂本願寺に赴く。教如は雑賀(紀伊国)に移る。この日の夜、大坂本願寺が焼ける。
出典:『多聞院日記』同年月5日条、『信長公記』巻13(9)「大坂退散の事」

天正8年 1580年 8月8日 47歳
織田信長が摂津国、河内国内の諸城の破却を進める。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正8年 1580年 8月12日 47歳
織田信長が、宇治(山城国)の橋を見物した後、大坂に赴く。当地にて、佐久間信盛信栄父子に折檻の条目を楠木正虎、松井友閑・中野又兵衛をもって伝え、遠国へ退出すべきよう命じる。
信長が大友宗麟島津義久の和睦を命じる。
出典:『信長公記』巻13(10)「宇治橋御見物の事」(11)「佐久間、林佐渡、丹羽右近、伊賀伊賀守の事」、『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正8年 1580年 8月17日 47歳
織田信長が大坂(摂津国)より京都に入る。林秀貞安藤守就丹羽氏勝に領内からの追放を命じる。
出典:『信長公記』巻13(10)「宇治橋御見物の事」(11)「佐久間、林佐渡、丹羽右近、伊賀伊賀守の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正8年 1580年 9月26日 47歳
織田信長が大和国の寺社・本所・諸寺・諸山・国衆に対し所領の指出を命じる。指出にあたっては起請文形式で滝川一益明智光秀宛で提出するように命じる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正8年 1580年 10月22日 47歳
大和国の寺社・本所・諸寺・諸山・国衆の織田信長への所領の指出の結果、興福寺領は19000石、大乗院領は750石、一乗院の寺領は1300石、東大寺領は1500石、多武峰領は8000石、法隆寺領は300石、薬師寺領は2000石とされる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正8年 1580年 11月7日 47歳
織田信長が、筒井順慶大和郡山城(大和国)に入城すべきこと、箸尾氏は順慶の与力とすること、大和国全ては順慶が支配することを命じる朱印状を発給する。
出典:『多聞院日記』同年月9日条

天正8年 1580年 11月17日 47歳
織田信長のもとに、羽柴秀吉の使者が到着し、宇喜多直家の織田家にへの降伏を報告する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正8年 1580年 11月20日 47歳
織田信長のもとに、柴田勝家の使者が到着し、加賀国の一向一揆勢の大将19人をはじめ多くの一向衆を討ち取ったことを報告する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正8年 1580年 11月25日 47歳
申刻(15-17時)、織田信長が河内国の郡代の草援肥後守、野尻氏を切腹させる。
出典:『多聞院日記』同年月26日条

天正8年 1580年 -月-日 47歳
孫・秀信が生まれる。
出典:-

天正9年 1581年 1月23日 48歳
織田信長が京都にて馬揃を催すにつき、明智光秀に差配を命じる。
出典:『信長公記』巻14(1)「御爆竹の事」、『立入左京亮入道隆佐記』

天正9年 1581年 2月14日 49歳
宇喜多直家が死去する。
出典:-

天正9年 1581年 2月20日 48歳
申刻(15-17時)、織田信長が上洛する。
出典:『多聞院日記』同年月21日条

天正9年 1581年 2月24日 48歳
柴田勝家柴田勝豊、柴田三左衛門尉が越前国より上洛し、織田信長に太刀(銘 国光)、馬代銀1000両、金300両、蝋燭1000挺、奉書紙1000束、綿1000把、絹500疋を進上する。信長は茶会にて勝家をもてなす。勝家は茶釜(銘 姥口)を所望し、信長手渡しで勝家に茶釜を賜う。
出典:『信長公記』巻14(1)「御爆竹の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正9年 1581年 2月28日 48歳
織田信長が京都にて馬揃を行う。正親町天皇が閲覧できるよう内裏の東に南北8町の馬場を、禁裏東門築地の外に行宮を設える。信長は、辰刻(7-9時)、本能寺を出立し、室町通を上って一条を東に曲がり馬場へと入場する。参列者は、一番に丹羽長秀・摂津衆・若狭衆・革島氏、二番に蜂屋頼隆・河内衆・和泉衆・根来寺の内衆の大ヶ塚・佐野衆、三番に明智光秀・大和衆・上山城衆、四番に村井作右衛門・根来衆・上山城衆、次いで連枝衆として織田信忠・美濃衆・尾張衆、北畠信雄・伊勢衆、織田信包織田信孝津田信澄織田長益、織田又十郎、織田勘七郎、中根、織田竹千代、織田周防、織田孫十郎、公家衆として近衛前久正親町実彦烏丸光宣・日野中納言・高倉右衛門佐、細川昭元、細川藤賢、伊勢兵庫頭、一色左京権大夫、小笠原、越前衆として柴田勝家・柴田勝豊・柴田三左衛門・不破光治前田利家金森長近原長頼
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻14(2)御馬揃への事

天正9年 1581年 3月9日 48歳
織田信長が和泉国の知行方を改めるため、堀秀政を遣わす。
出典:『信長公記』巻14(2)「御馬揃への事」

天正9年 1581年 3月10日 48歳
織田信長安土城(近江国)に帰城する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻14(2)御馬揃への事

天正9年 1581年 3月12日 48歳
佐々成政、神保長住が安土城(近江国)にいる織田信長のもとに鞍・鐙・轡・黒鎧を進上する。
出典:『信長公記』巻14(2)「御馬揃への事」

天正9年 1581年 3月15日 48歳
小井手城(越中国)を上杉景勝が攻めていることを聞いた織田信長が、不破光治前田利家原長頼金森長近柴田勝家にすぐに越前国へ帰国し救援するよう命じる。
出典:『信長公記』巻14(2)「御馬揃への事」

天正9年 1581年 3月28日 48歳
織田信長七尾城(能登国)の城代として菅屋長頼を遣わす。
出典:『信長公記』巻14(3)「高天神干殺し歴々討死の事」

天正9年 1581年 4月10日 48歳
織田信長が竹生島に参詣する。
出典:『信長公記』巻14(3)「高天神干殺し歴々討死の事」

天正9年 1581年 5月10日 48歳
織田信長の命により津田信澄蜂屋頼隆堀秀政松井友閑丹羽長秀の検分のもと槙尾寺を破却する。
出典:『信長公記』巻14(4)「和泉巻尾寺破滅の事」

天正9年 1581年 6月5日 48歳
北条氏政織田信長に馬3匹を贈る。取次は滝川一益
出典:『信長公記』巻14(4)「和泉巻尾寺破滅の事」

天正9年 1581年 6月27日 48歳
織田信長七尾城(能登国)城代の菅屋長頼に命じ、遊佐続光・遊佐弟・伊丹孫三郎を切腹させる。
出典:『信長公記』巻14(5)「能登国年寄共生害の事」

天正9年 1581年 7月6日 48歳
石黒成綱、石黒与左衛門、伊藤次右衛門、水巻采女佐が上洛中、織田信長の命を受けた丹羽長秀により殺害される。
出典:『信長公記』巻14(6)「因幡国取鳥城取詰めの事」

天正9年 1581年 7月15日 48歳
安土城天主と惣見寺にたくさんの提灯をつり、馬廻衆が道と琵琶湖に浮かべた船に松明をかかげる。山上が輝き、水面に映るさまを多くの人が見物する。
出典:『信長公記』巻14(6)「因幡国取鳥城取詰めの事」

天正9年 1581年 7月17日 48歳
丹羽長秀の居城・佐和山城(近江国)にて身柄を拘束されていた寺崎盛永・喜六郎父子が織田信長の命により切腹する。
出典:『信長公記』巻14(6)「因幡国取鳥城取詰めの事」

天正9年 1581年 7月20日 48歳
大宝寺義氏が織田信長に音信とし鷹・馬を贈る。
出典:『信長公記』巻14(6)「因幡国取鳥城取詰めの事」

天正9年 1581年 8月1日 48歳
織田信長安土城(近江国)にて馬揃を行う。
出典:『信長公記』巻14(7)「八月朔日御馬揃への事」

天正9年 1581年 8月6日 48歳
蘆名盛隆織田信長に音信として馬を贈る。
出典:『信長公記』巻14(7)「八月朔日御馬揃への事」

天正9年 1581年 8月14日 48歳
織田信長鳥取城(因幡国)攻囲中の羽柴秀吉に馬3匹を送る。使者は高山重友
出典:『信長公記』巻14(7)「八月朔日御馬揃への事」

天正9年 1581年 8月17日 48歳
織田信長荒木村重の残党を高野山が匿ったうえ、残党請取に赴いた織田家の使者を高野山が殺害したとして、高野聖数百名を殺害する。
出典:『信長公記』巻14(8)「高野聖御成敗の事」

天正9年 1581年 8月17日 48歳
織田信長前田利家に能登国 鹿島・羽咋・鳳至・珠洲の4郡を給付する。
出典:『信長公記』巻14(8)「高野聖御成敗の事」

天正9年 1581年 8月19日 48歳
佐久間信盛が十津川にて死去したと聞いた織田信長が、信盛の滞在していた高野山の宿坊の蔵に保管されていた信盛の所有物を差し押さえすべく使者を遣わす。しかし、使者は殺害されたため、諸国の高野聖を捕縛するという事件が起きる。23日に高野山攻めが行われると噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正9年 1581年 8月-日 48歳
織田信長七尾城(能登国)城代の菅屋長頼に命じ、能登国・越中国の城を破却する。
出典:『信長公記』巻14(9)「能登・越中城々破却の事」

天正9年 1581年 9月3日 48歳
織田信長が伊賀国攻めを命じる。甲賀口より堀秀政を大将に小姓衆・近江衆の丹羽長秀蒲生氏郷京極高次多賀常則・山崎源太左衛門・阿閉貞征、伊勢口より北畠信雄滝川一益、南伊賀へは宇多郡衆、西より畑口から筒井順慶、黒田へ福住が攻め込む。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻14(10)「伊賀国三介殿仰付けらるるの事」

天正9年 1581年 9月10日 48歳
伊賀国を攻めている織田信雄の軍勢が同国内の寺社を焼き討ちする。滝川一益堀秀政が佐野具(伊賀国)より出勢した伊賀国衆の足軽と戦う。
出典:『信長公記』巻14(10)「伊賀国三介殿仰付けらるるの事」

天正9年 1581年 9月11日 48歳
佐野具城(伊賀国)に北畠信雄が入城する。
出典:『信長公記』巻14(10)「伊賀国三介殿仰付けらるるの事」

天正9年 1581年 9月15日 48歳
筒井順慶の伊賀国攻めの攻め口の諸城20ヶ所余が降伏する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正9年 1581年 9月28日 48歳
伊賀国攻めにおける筒井勢の働きに不満の旨を伝える織田信長の朱印状が発給され、順慶が恐怖するとの噂が奈良にて流れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正9年 1581年 10月5日 48歳
大乗院尋憲安土城(近江国)にいる織田信長のもとに見舞いに訪れる。
出典:『多聞院日記』同年月8日条

天正9年 1581年 10月9日 48歳
織田信長が伊賀国を見物するため、織田信忠津田信澄をともない飯道寺に登る。
出典:『信長公記』巻14(11)「伊賀国信長御発向の事」

天正9年 1581年 10月10日 48歳
伊賀国見物のため織田信長信忠父子が同国赴く。信長はアラキノ宮(伊賀国)に滞在する。信長・信忠父子の御座所を滝川一益北畠信雄丹羽長秀堀秀政が設える。
出典:『多聞院日記』同年月13日条、『信長公記』巻14(11)「伊賀国信長御発向の事」

天正9年 1581年 10月11日 48歳
雨のため織田信長が伊賀国に逗留する。
出典:『信長公記』巻14(11)「伊賀国信長御発向の事」

天正9年 1581年 10月12日 48歳
織田信長安土城(近江国)に帰城する。
出典:『多聞院日記』同年月13日条

天正9年 1581年 12月3日 48歳
羽柴秀吉が野口孫五郎に織田信長が孫五郎の降伏を認めた旨を伝えるとともに、12月27・28日には安土城(近江国)に上り、年始の挨拶をする旨にようにと伝える。なお土産についてはで用意するようにとも述べる。
出典:天正9年12月14日付野口孫五郎宛書状(『豊臣秀吉文書集』1巻-364号)

天正9年 1581年 12月7日 48歳
大乗院領の大和国畑荘の還付および、同領の守護不入を認める朱印状を織田信長大乗院尋憲に発給する。
出典:『多聞院日記』同年月10日条

天正9年 1581年 12月20日 48歳
織田信長大乗院尋憲に炭10荷を贈ってくれたことへの礼状(18日付)を発給し、この日、尋憲のもとに届く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 1月5日 49歳
本願寺顕如安土城(近江国)にいる織田信長へ歳暮の礼として送った使者・平井越後が鷺森本願寺に戻ってくる。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 1月6日 49歳
織田信長が禁裏に初鯨を進上する。
出典:『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 1月8日 49歳
本願寺顕如安土城(近江国)にいる織田信長へ年始の礼として八木駿河を遣わす。
御使として下間仲孝、寺内若狭を安土(近江国)に遣わす。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 1月13日 49歳
大乗院尋憲織田信長のもとへ礼に赴くべく安土城(近江国)に向けて奈良を出立する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正10年 1582年 1月16日 49歳
熊野(紀伊国)にて佐久間信盛が死去する。
出典:『信長公記』巻15(2)「御爆竹の事」、『当代記』巻2同年月日条

天正10年 1582年 1月25日 49歳
織田信長が伊勢御師 上部大夫から不足分は勧進で補うので正遷宮料1000貫文を寄進してほしいという願いをうける。信長は、一昨年に石清水八幡宮の造営を命じた際、300貫文で構わないと八幡宮より申請があったが、結局1000貫文を要したことをうけ、上部大夫のいう1000貫文では不足となり勧進に応じる民に負担をかけるだろうから3000貫文を寄進すると上部大夫に伝える。
出典:『信長公記』巻15(3)伊勢太神空上遷空の事

天正10年 1582年 2月6日 49歳
織田信長本願寺顕如の警固として野々村正成を遣わす。
出典:『晴豊記』同年月日条

天正10年 1582年 2月7日 49歳
村井貞勝勧修寺晴豊織田信長が信濃国の半分を手に入れたと語る。
出典:『晴豊記』同年月日条

天正10年 1582年 2月9日 49歳
織田信長が信濃国出陣につき、筒井順慶を信濃国攻めに同伴すること、河内国衆は烏帽子山・高野山・雑賀衆に備えること、和泉国衆は紀伊国に遣わすこと、三好康長を四国に遣わすこと、摂津国は池田恒興が留守居としての残り、池田元助輝政兄弟、中川清秀は信濃国攻めに加わること、上山城衆は信濃国攻めに加わること、羽柴秀吉は中国地方の抑えとして残ること、細川藤孝忠興父子、一色五郎は丹後国に残ること、明智光秀は信濃国攻めに加わることを命じる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月28日 49歳
武田勝頼・武田信豊が上原(信濃国)の陣を払い、新府城(甲斐国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」

天正10年 1582年 3月1日 49歳
織田信忠が小笠原信嶺を案内役として貝沼(信濃国)に陣取る。信忠は仁科盛信の籠る高遠城(信濃国)の様子を検分する。
出典:『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」

天正10年 1582年 3月2日 49歳
織田信忠が仁科盛信の籠る高遠城(信濃国)を攻める。信忠は搦手口より、森長可・団忠正・毛利秀頼・川尻秀隆・小笠原信嶺は大手口より攻め入る。仁科盛信は応戦するも、敵わず戦死する。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」

天正10年 1582年 3月3日 49歳
織田信忠が上諏訪(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」

天正10年 1582年 3月5日 49歳
織田信長武田勝頼を攻めるべく、安土城(近江国)を出陣する。柏原(近江国)の成菩提院(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月6日 49歳
織田信長のもとに仁科盛信の首が届く。信長は岐阜城(美濃国)に入り、同城に宿泊。盛信の首を長良川の河原に架ける。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月7日 49歳
雨のため織田信長岐阜城(美濃国)に逗留する。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月8日 49歳
織田信長岐阜城(美濃国)より犬山城(尾張国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月9日 49歳
織田信長が金山(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月10日 49歳
織田信長が高野(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月11日 49歳
織田信長が岩村(美濃国)に移る。
織田信忠が甲斐国にて武田勝頼の所在を捜索し、所在地を突き止めた滝川一益が勝頼を包囲する。勝頼・信勝父子は天目山にて自害し、勝頼に随従していた長坂釣竿斎、秋山親久、小原下総守、小原丹後守、跡部尾張守、安部加賀守、土屋昌恒も自害する。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月13日 49歳
上杉景勝織田信長の攻撃を受けている武田勝頼に上条宜順斎を遣わす。
出典:(天正10年)3月13日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2306号・2307号)

天正10年 1582年 3月13日 49歳
織田信長が岩村(美濃国)より根羽(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月14日 49歳
織田信長が平谷(信濃国)を経由し浪合(信濃国)に移る。当地にて武田勝頼・信勝父子の首を検分する。信長は両名の首を飯田(信濃国)に運ぶよう矢部家定に命じる。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月15日 49歳
織田信長が浪合(信濃国)より飯田(信濃国)に移る。当地にて武田勝頼・信勝父子の首を晒す。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月16日 49歳
織田信長のもとに武田勝頼、武田信勝、武田信豊の首が届く。
出典:『多聞院日記』同年月23日条

天正10年 1582年 3月17日 49歳
織田信長が飯田(信濃国)より大嶋(信濃国)を経由して飯嶋(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(12)「武田典厩生害、下曽根忠節の事」

天正10年 1582年 3月18日 49歳
織田信長高遠城(信濃国)に移る。(『信』)
信濃国・甲斐国の侵攻のため霧カ城(美濃国)に在陣中とされる織田信長のもとに、本願寺顕如が音信として川那部右衛門を遣わす。(『鷺』)
出典:『鷺森日記』同年月日条、『信長公記』巻15(13)「中国表羽柴筑前守働きの事」

天正10年 1582年 3月19日 49歳
織田信長津田信澄菅屋長頼矢部家定堀秀政長谷川秀一福富秀勝、氏家行継、竹中重矩、原長頼蒲生氏郷細川忠興池田元助蜂屋頼隆、阿閉貞征、不破直光高山重友中川清秀明智光秀丹羽長秀筒井順慶等が諏訪の法花寺(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(14)「人数備への事」

天正10年 1582年 3月20日 49歳
木曽義昌織田信長のもとに礼に訪れる。馬2疋を進上する。
夜、穴山梅雪が信長のもとに礼に訪れる。馬を進上する。
小笠原信嶺が信長のもとに礼に訪れる。馬を進上する。信長は信嶺の功績を賞し、本領を安堵する。安堵を伝える使者は矢部家定森成利
出典:『信長公記』巻15(15)「木曽義政出仕の事」

天正10年 1582年 3月21日 49歳
北条氏政織田信長に馬、江川酒、白鳥等を贈る。使者は端山。取次は滝川一益
出典:『信長公記』巻15(15)「木曽義政出仕の事」

天正10年 1582年 3月22日 49歳
武田勝頼、武田信勝、武田信豊の首が京都に到着する。下御霊社に首をさらす。勧修寺晴豊が晒された首を見物する。
出典:『晴豊記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条

天正10年 1582年 3月23日 49歳
織田信長滝川一益に上野国および信濃国下二郡を給付する。
出典:『信長公記』巻15(16)「滝川左近、上野国拝領の事」

天正10年 1582年 3月24日 49歳
織田信長武田勝頼攻めに参陣した諸将に深志(信濃国)にて扶持米を与える。
出典:『信長公記』巻15(17)「諸卒に御扶持米下さるるの事」

天正10年 1582年 3月26日 49歳
北条氏政織田信長に馬の飼料として米1000俵を贈る。
出典:『信長公記』巻15(17)「諸卒に御扶持米下さるるの事」

天正10年 1582年 3月29日 49歳
織田信長が武田家の遺領の知行割を行う。甲斐国を川尻秀隆に、駿河国を徳川家康に、上野国一国・信濃国の小県郡・佐久郡を滝川一益に、信濃国の高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡を森長可に、信濃国の木曽谷・安曇郡・筑摩郡を木曽義昌に、信濃国の伊那郡を毛利秀頼に、信濃国の諏訪郡を穴山梅雪に、岩村(美濃国)を団忠正に、金山米田島(美濃国)は森成利に給付する
出典:『信長公記』巻15(19)「御国わりの事」

天正10年 1582年 4月2日 49歳
織田信長が諏訪(信濃国)より大ヶ原(甲斐国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(19)「御国わりの事」

天正10年 1582年 4月3日 49歳
織田信長が大ヶ原(甲斐国)を発ち、富士山を見物する。その後、新府城(甲斐国)の焼跡を見物し、甲府(甲斐国)に陣を据える。
出典:『信長公記』巻15(19)「御国わりの事」

天正10年 1582年 4月5日 49歳
本願寺顕如が音信として織田信長に遣わした川那部右衛門が信長に対面する。
出典:『鷺森日記』同年月20日条

天正10年 1582年 4月10日 49歳
織田信長が甲府(甲斐国)を発ち、左右口(甲斐国)に入り、当地に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(23)「信長公甲州より御帰陣の事」

天正10年 1582年 4月11日 49歳
織田信長が左右口(甲斐国)を発ち本栖(甲斐国)に入り、当地に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(23)「信長公甲州より御帰陣の事」

天正10年 1582年 4月12日 49歳
織田信長が本栖(甲斐国)を発ち大宮(駿河国)に入り、当地に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(23)「信長公甲州より御帰陣の事」

天正10年 1582年 4月13日 49歳
織田信長が本栖(甲斐国)を発ち、蒲原(駿河国)にて休息し、江尻城(駿河国)に入り、当地に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(23)「信長公甲州より御帰陣の事」

天正10年 1582年 4月14日 49歳
織田信長が江尻城(駿河国)を発ち、田中城(駿河国)に入り、当地に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(23)「信長公甲州より御帰陣の事」

天正10年 1582年 4月15日 49歳
織田信長田中城(駿河国)を発ち、掛川(遠江国)に入り、当地に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(23)「信長公甲州より御帰陣の事」

天正10年 1582年 4月16日 49歳
織田信長が掛川(遠江国)を発ち、徳川家康の居城・浜松城(遠江国)に宿泊する。家康は信長を饗応する。
出典:『信長公記』巻15(23)「信長公甲州より御帰陣の事」

天正10年 1582年 4月17日 49歳
織田信長浜松城(遠江国)を発ち、今切渡を通って吉田城(三河国)に入り、当地に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(23)「信長公甲州より御帰陣の事」

天正10年 1582年 4月18日 49歳
織田信長吉田城(三河国)を発ち、知立(三河国)に入り、当地に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(23)「信長公甲州より御帰陣の事」

天正10年 1582年 4月19日 49歳
織田信長が知立(三河国)を発ち、清須城(尾張国)に入り、当城に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(23)「信長公甲州より御帰陣の事」

天正10年 1582年 4月20日 49歳
織田信長清須城(尾張国)を発ち、岐阜城(美濃国)に入り、当城に宿泊する。
本願寺顕如織田信長に音信として遣わした川那部右衛門が鷺森本願寺に帰寺する。
八木駿河を安土城(近江国)に遣わす。
出典:『信長公記』巻15(23)「信長公甲州より御帰陣の事」、『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 4月21日 49歳
織田信長岐阜城(美濃国)を発つ。呂久渡で稲葉一鉄が、今須(美濃国)にて不破直光が、柏原(近江国)にて菅屋長頼が、佐和山城(近江国)にて丹羽長秀が、山崎(美濃国)にて山崎片家が信長に一献を進上する。その後、信長は安土城(近江国)に帰城し、開陣する。
出典:『信長公記』巻15(23)「信長公甲州より御帰陣の事」、『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 春月-日 49歳
丹羽長秀大坂城(摂津国)本丸を織田信長より預かる。
出典:『細川忠興軍功記』

天正10年 1582年 5月11日 49歳
神戸信孝が四国に渡海すべく、軍勢を率い住吉(摂津国)に入る。
出典:『信長公記』巻15(24)「阿波国神戸三七御拝領の事」

天正10年 1582年 5月15日 49歳
徳川家康穴山梅雪が礼として安土城(近江国)を訪れる。惣見寺に座敷を用意し、唐物・和物で飾りつけをしてもてなす。宿所は大宝坊。
出典:『鷺森日記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・18条、『信長公記』巻15(25)「家康公・穴山梅雪御上洛の事」、『川角太閤記』

天正10年 1582年 5月17日 49歳
織田信長高松城(備中国)を攻囲中の羽柴秀吉への加勢の先陣として、堀秀政を検使として、明智光秀細川忠興池田恒興、塩川吉大夫、高山重友中川清秀に出陣を命じる。
出典:『信長公記』巻15(26)「羽柴筑前守秀吉、備中国城々攻めらるるの事」

天正10年 1582年 5月20日 49歳
織田信長丹羽長秀堀秀政長谷川竹菅屋長頼徳川家康穴山梅雪の饗応を命じる。家康、信君、石川数正、酒井忠次等が饗応を受ける。
出典:『信長公記』巻15(27)「幸若大夫・梅若大夫の事」

天正10年 1582年 5月28日 49歳
織田信長が上洛する。
出典:『多聞院日記』同年6月1日条

天正10年 1582年 5月29日 49歳
織田信長が上洛し、本能寺に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(30)「信長公御上洛の事」

天正10年 1582年 6月1日 49歳
夜、明智光秀が重臣の明智秀満明智光忠、藤田行政、斎藤利三と談合し、織田信長を討つこと決意する。亀山城(丹波国)より出陣する。
出典:『信長公記』巻15(31)「明智日向守逆心の事」

天正10年 1582年 6月2日 49歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 10月15日 
羽柴秀吉大徳寺にて織田信長の葬儀を執り行う。葬列で秀吉は位牌と太刀を持つ。
出典:『天正記』「惟任謀叛記」

天正11年 1583年 9月17日 
池田元助が崇福寺(美濃国)に織田信長信忠父子の弔いとして122貫500文を寄進する。
出典:天正11年9月17日付池田元助書状(「崇福寺文書」)

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