人 物 史

直江兼続 なおえ かねつぐ
生 没 年永禄3年(1560)-元和5年(1619)12/19
出 身越後国上田荘幼 名与六
別 称樋口与六、重光
法 名-
戒 名達三全智居士
樋口兼豊
直江信綱[養父]
兄 弟 姉 妹直江兼続、大国実頼、樋口秀兼、きた(須田満胤の妻)、女(色部光長の妻)、女(篠井泰信の妻)
配 偶 者船(直江景綱の娘)
直江景明、松(本多政重の妻)、本庄長房[養子]、本多政重[養子]
官 位山城守
役 職-
城 郭与板城(越後国)、米沢城(出羽国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ直江兼続の関連文化財
直江兼続 年表
永禄3年 1560年 -月-日 1歳
直江兼続が越後国上田荘にて生まれる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 11歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 14歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正6年 1578年 3月13日 19歳
上杉謙信が虫気により死去する。
出典:『薬師堂墨書』・『高野山過去帳』(『上越市史』資料編3)、(天正6年)3月24日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1477号)

天正6年 1578年 3月-日 19歳
上杉景勝が養父・謙信の遺言と称し、春日山城(越後国)に入城する。
出典:(天正6年)3月24日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1477・1478・1479号)

天正6年 1578年 5月29日 19歳
養父・上杉謙信の死去につき、上杉景虎春日山城(越後国)に入城した上杉景勝に備えるため御館に入る。
出典:(天正6年)5月29日付上杉景虎書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1523号)

天正6年 1578年 6月8日 19歳
上杉景勝が、北条高広・景広父子に、武田信豊・高坂虎綱を通して武田家と和睦したこと、武田勢は景勝の指図によって動くことを伝える。
出典:(天正6年)6月8日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1528号)

天正6年 1578年 6月11日 19歳
上杉景勝が、上杉景虎の籠る御館に攻め入り、大場・居多ヶ浜にて景勝と景虎が戦う。景虎方の上杉景信が戦死する。
出典:(天正6年)6月12日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1542号)

天正6年 1578年 6月12日 19歳
上杉景勝が、上杉景虎の籠る御館に攻め入り、直嶺にて景勝と景虎が戦う。
出典:(天正6年)6月12日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1542号)

天正6年 1578年 6月12日 19歳
武田信豊が上杉景勝武田勝頼の海津(信濃国)着陣を伝える。
出典:(天正6年)6月24日付武田勝頼書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1559・1560号)

天正6年 1578年 6月24日 19歳
上杉景勝武田勝頼に対し入魂の旨を申し入れてきたことに対し勝頼も景勝に同様の関係を望むことを斎藤朝信・新発田長敦に伝える。
出典:(天正6年)6月12日付武田信豊書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1543号)

天正6年 1578年 6月29日 19歳
武田信豊が上杉景勝武田勝頼の着陣と路次普請を行っている旨を伝える。
出典:(天正6年)6月29日付武田信豊書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1569号)

天正6年 1578年 7月27日 19歳
大場口にて上杉景勝上杉景虎が戦う。
出典:(天正6年)7月28日付上杉景勝感状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1590・1591号)

天正6年 1578年 8月19日 19歳
武田勝頼上杉景勝に対し表裏無き旨を記した起請文を作成する。
出典:(天正6年)8月19日付武田勝頼起請文(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1612号)

天正6年 1578年 9月28日 19歳
大場口にて上杉景勝上杉景虎が戦う。景勝方として新発田重家・河田軍兵衛が景虎勢に攻め入る。
出典:(天正6年)9月28日付上杉景勝感状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1685号)

天正6年 1578年 10月24日 19歳
上杉景勝が御館に軍勢を遣わし上杉景虎と戦う。
出典:(天正6年)10月24日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1707号)

天正6年 1578年 11月18日 19歳
起請文を望む上杉景勝に対し、武田勝頼が起請文を作成し富永清右兵衛尉の目の前で血判したこと、あわせて景勝と関係を密にしたきくことを景勝に伝える。
出典:(天正6年)11月18日付武田勝頼書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1718号)

天正7年 1579年 1月16日 20歳
上杉景勝上杉景虎方の高津(越後国)を攻め落とし、軍勢を入れ置く。
出典:(天正7年)2月3日付新発田長敦等三名連署状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1753号)

天正7年 1579年 2月1日 20歳
上杉景勝が御館に軍勢を遣わし上杉景虎方の北条景広の陣所に攻め入る。
出典:(天正7年)2月3日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1751号)

天正7年 1579年 2月2日 20歳
上杉景勝が御館に軍勢を遣わし上杉景虎と戦う。景勝は御館の外構を焼き払う。
出典:(天正7年)2月3日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1751号)

天正7年 1579年 2月21日 20歳
2月1日の越後府中(御館)における上杉景勝の戦勝を祝す書状を武田勝頼が景勝に遣わす。
出典:(天正7年)2月21日付武田勝頼書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1771号)

天正7年 1579年 3月17日 20歳
上杉景勝上杉景虎が籠っていた御館を攻め、落とす。景虎は鮫尾城(越後国)に逃れる。
出典:(天正7年)3月19日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1796号)、(天正7年)3月24日付上杉景虎書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1800号)

天正7年 1579年 3月24日 20歳
上杉景勝上杉景虎の籠る鮫尾城(越後国)を攻める。景虎は切腹する。
出典:(天正7年)3月24日付上杉景虎書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1800号)

天正8年 1580年 8月6日 21歳
武田勝頼上杉景勝に栃尾城・三条城(越後国)の攻略と越後国静謐を祝す書状を発給する。
出典:(天正8年)8月6日付武田勝頼書状(『戦国遺文』武田氏編5巻-3395号、上杉家文書)

天正8年 1580年 9月6日 21歳
柴田勝家に圧迫されている加賀一向一揆の藤丸勝俊が、上杉景勝に越中国・加賀国への出馬を請う。
出典:(天正8年)9月6日付藤丸勝俊書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2039号)

天正8年 1580年 10月1日 21歳
上杉景勝が能庄に到着する。
出典:(天正8年)10月2日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2046号)

天正9年 1581年 3月24日 22歳
佐々成政が神通川・六道川を渡り、中田(越中国)に陣取る。小井手城(越中国)を攻めていた上杉景勝河田長親同城より撤退する。
長親が松倉城(越中国)にて死去する。
出典:『信長公記』巻14(2)「御馬揃への事」

天正9年 1581年 5月22日 22歳
5月20日に松倉城(越中国)に入城した上条宜順斎(政繁)が、黒金景信・楠川将綱・広居忠家とともに相談し越中の経営にあたることを樋口兼続に伝える。
出典:(天正9年)5月22日付上条宜順書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2129号)

天正9年 1581年 6月-日 22歳
この頃、新発田重家が上杉景勝に叛旗を翻す。
出典:(天正9年)6月12日付織田信長朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2145号)

天正9年 1581年 9月8日 22歳
窪に攻め入った佐々成政の攻撃を受けている瑞泉寺佐運が黒金景信上杉景勝の出馬を要請する。
出典:(天正9年)6月日付黒金景信等五名連署制札(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2153号)

天正9年 1581年 10月3日 22歳
上杉景勝が五箇山惣中に毎度防戦にて勝利を得ていることを賞すとともに10月下旬に景勝が出馬することを伝える。また、長延寺実了をもって武田家とも連携して軍事行動に及ぶことを伝える。
出典:(天正9年)10月3日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2193号)

天正9年 1581年 10月3日 22歳
上杉景勝より黒金景信に越中国の処置について報告を求められ、使者の富永越中に報告した旨を樋口兼続に書状にて伝える。
出典:(天正9年)10月3日付黒金景信書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2194号)

天正10年 1582年 2月10日 23歳
瑞泉寺が上杉家の要求を聞き入れたこと、飛騨国衆が昨年の冬から織田信長と手切れ状態であることから、上杉景勝から書状を発給してほしいこと、塩屋秋貞父子にも景勝の書状を発給してほしいこと、城尾(越中国)の斎藤信言が上杉家に寝返りたいとの旨を申し出ているためこちらにも景勝の書状を発給してほしいことを記した書状を黒金景信直江兼続に伝える。
出典:(天正10年)2月10日付黒金景信書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2272号)

天正10年 1582年 3月11日 23歳
織田信忠が甲斐国にて武田勝頼の所在を捜索し、所在地を突き止めた滝川一益が勝頼を包囲する。勝頼・信勝父子は天目山にて自害し、勝頼に随従していた長坂釣竿斎、秋山親久、小原下総守、小原丹後守、跡部尾張守、安部加賀守、土屋昌恒も自害する。
出典:『晴豊記』同年月22日条、『言経卿記』同年月20日条、『信長公記』巻15(10)「武田四郎父子生害の事」

天正10年 1582年 4月5日 23歳
森長可海津城(信濃国)に、稲葉貞通が城代として飯山城(信濃国)に在城していたところ、芋川親正が飯山城に攻め入る。これを受け、織田信忠が援軍として団忠正を遣わす。
出典:『信長公記』巻15(22)「信州川中嶋表、森勝蔵働きの事」

天正10年 1582年 4月6日 23歳
上杉景勝が飯山・長沼(信濃国)の守備を固めるため上条宜順斎を派遣することを斎藤朝信・小倉伊勢守・千坂景親に伝える。
出典:(天正10年)4月6日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2337号)

天正10年 1582年 4月7日 23歳
長沼(信濃国)にて森長可と芋川親正勢が戦い、長可が勝利する。長可の勝利により、稲葉貞通の守る飯山城(信濃国)を攻めていた芋川勢が攻囲を解く。
出典:『信長公記』巻15(22)「信州川中嶋表、森勝蔵働きの事」

天正10年 1582年 5月15日 23歳
上杉景勝が天神山台(越中国)に居陣する。
出典:(天正10年)5月15日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2380号)

天正10年 1582年 6月2日 23歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 7月12日 23歳
川中島(信濃国)にて上杉景勝北条氏直が対峙する。
出典:-

天正10年 1582年 6月27日 23歳
黒金景信が木曽に遣わした中間が6月26日に帰還したので、中間が見聞したことを、景信・桐沢具繁が直江兼続に報告する。
出典:(天正10年)6月27日付黒金景信・桐沢具繁連署状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2429号)

天正10年 1582年 8月3日 23歳
本庄繁長・色部長実・黒川が新発田重家と交戦する。
出典:(天正10年)8月25日付新発田重家書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2543号)

天正10年 1582年 8月25日 23歳
上杉景勝が五十公野に着陣する。
出典:(天正10年)8月26日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2545号)

天正10年 1582年 8月26日 23歳
上杉景勝が五十公野付近を放火する。
出典:(天正10年)8月26日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2545号)

天正10年 1582年 8月29日 23歳
上杉景勝安田に至り上野に着陣する。
出典:(天正10年)8月29日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2550号)

天正10年 1582年 11月21日 23歳
足利義昭が上条宜順斎(政繁)・須田満親に宛てて上杉景勝柴田勝家と和睦するよう命じる御内書を発給する。
出典:(天正10年)11月21日付足利義昭御内書(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2604・2605号号)

天正11年 1583年 3月19日 24歳
上杉景勝が越中国への出馬を江口氏に伝える。
出典:(天正11年)3月19日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2703号)

天正11年 1583年 4月24日 24歳
柴田勝家北之庄城(越前国)にて自害する。
出典:-

天正13年 1585年 7月11日 26歳
羽柴秀吉への関白宣下が行われる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正14年 1586年 5月20日 27歳
上杉景勝が上洛するため越後府内を出発。能生に宿泊する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 5月21日 27歳
上杉景勝が糸魚川に到着する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 5月22日 27歳
洪水のため上杉景勝は糸魚川に逗留する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 5月23日 27歳
上杉景勝が姫川を越え、一振に宿泊する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 5月24日 27歳
上杉景勝が黒辺川を越え、椿に野陣し、佐々成政へ使者を遣わす。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 5月25日 27歳
上杉景勝が西岩瀬(越中国)に宿泊する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 5月26日 27歳
洪水のため上杉景勝は西岩瀬(越中国)に逗留する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 5月27日 27歳
中田において中川光重が屋敷をしつらえ上杉景勝を饗応する。木船に到着する。前田孫二郎が景勝を迎える。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 5月28日 27歳
上杉景勝が倶利伽羅峠を越える。前田安勝が景勝を迎える。石田三成前田利家も森本近辺まで迎えにくる。利家の居城・小山城(金沢城)に到着する。利家は景勝のため酒宴を催す。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 5月29日 27歳
上杉景勝が小山(加賀国)を出立する。松任(加賀国)に茶屋が設けられており一献をうける。小松(加賀国)に到着し、村上義明の接待をうける。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月1日 27歳
上杉景勝が大聖寺(加賀国)に到着する。大聖寺城主・溝口秀勝の留守居が景勝をもてなす。宿は豊臣秀吉が下向時にしつらえたもの。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月2日 27歳
上杉景勝が大聖寺(加賀国)を出立し、金津において堀源介の振舞をうける。金津川、九頭竜川を越え、北之庄城(越前国)に到着。堀秀政の饗応を受ける。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月3日 27歳
上杉景勝が北之庄城(越前国)を出立し、麻生津にて長谷川秀一の振舞を受ける。府中(越前国)に到着し浄土宗寺院に宿泊する。府中の領主・木村重茲の出迎えは病のためなし。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月4日 27歳
上杉景勝が木之芽峠を越え敦賀(越前国)に到着する。敦賀城(越前国)城主・蜂屋頼隆の留守居による饗応をうける。河田摂津守を成敗する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月5日 27歳
上杉景勝が敦賀(越前国)に逗留する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月6日 27歳
上杉景勝が敦賀(越前国)を出立し、大溝(近江国)に到着する。大溝城(近江国)城主・生駒親正の饗応を受ける。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月7日 27歳
上杉景勝が大溝(近江国)を出立し、坂本(近江国)に宿泊予定のところ、石田三成の勧めにより、逢坂を越え京都の本圀寺に宿泊する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月8日 27歳
上杉景勝本圀寺に逗留する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月9日 27歳
上杉景勝本圀寺に逗留する。木曽義昌が景勝のもとに挨拶に訪れる。また、愛宕山(下坊カ)、近衛信輔の使者が訪れる。村上頼勝、溝口秀勝が音信として訪れる。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月10日 27歳
上杉景勝本圀寺に逗留する。景勝が百万遍に赴く。羽柴秀吉の使者として景勝のもとに石田三成がやってきていろいろと指南をする。備中屋一宗のもとを訪れる。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月11日 27歳
上杉景勝が木村清久の風呂の振舞を受ける。六角堂にて拍子の興行を見物する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月12日 27歳
上杉景勝大坂城(摂津国)に到着する。増田長盛の座敷に宿泊する。饗応を受ける。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月13日 27歳
上杉景勝が大坂(摂津国)にて休息する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月14日 27歳
上杉景勝羽柴秀吉に出仕する。拍子を見物。千利休が景勝を茶湯でもてなす。大坂城(摂津国)の天守閣、寝所、詰座敷を見物する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月15日 27歳
上杉景勝石田三成・木村清久の接待を受ける。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月16日 27歳
上杉景勝羽柴秀吉の茶湯に招かれる。直江兼続・千坂景親が茶室を見物する。晩、景勝は羽柴秀長に会い茶湯を受ける。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月17日 27歳
見物を提案され断るものの、見物が高野山参詣により中止となる。
上杉景勝直江兼続が千坂景親(景勝使者)・大石綱元(兼続使者)を、天満本願寺の本願寺顕如教如のもとに音信として遣わす。景勝はそれぞれに太刀1腰・馬1疋を、兼続は馬1疋を贈る。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)、『宇野主水日記』同年月日条

天正14年 1586年 6月18日 27歳
上杉景勝が大坂(摂津国)を発ち上洛する。石清水八幡宮に参詣する。瀧本坊にて振舞を受ける。夜遅く、京都(本圀寺カ)に到着する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月19日 27歳
六条(本圀寺カ)に逗留する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月22日 27歳
上杉景勝が参内する。後陽成天皇より天盃を下賜される。その後、羽柴秀吉に連れられ仙洞御所を見物する。夕方、六条(本圀寺カ)に帰る。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月24日 27歳
上杉景勝が越後国に帰国するため京都を出立する。堅田(近江国)に到着し、祥瑞寺に宿泊する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月25日 27歳
上杉景勝が堅田(近江国)を出立する。今津(近江国)に宿泊する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月26日 27歳
上杉景勝が今津(近江国)を出立し、敦賀(越前国)に到着する。蜂屋頼隆の饗応を受ける。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月27日 27歳
上杉景勝が敦賀(越前国)を出立する。鯖江(越前国)に宿泊する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月28日 27歳
上杉景勝が金津(越前国)に宿泊する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 6月29日 27歳
上杉景勝が小松(加賀国)に到着する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 7月1日 27歳
上杉景勝が小松(加賀国)を出立し、宮腰(加賀国)に到着する。夜、徳山五兵衛が訪れる。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 7月2日 27歳
上杉景勝が倶利伽羅峠を越え、木船(越中国)に宿泊する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 7月3日 27歳
上杉景勝が岩瀬(越中国)に到着する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 7月4日 27歳
上杉景勝が一振(越後国)に宿泊する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 7月5日 27歳
上杉景勝が能生(越後国)に到着する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正14年 1586年 7月6日 27歳
上杉景勝が府中(越後国)に到着する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

天正16年 1588年 3月12日 29歳
北野社の檜皮葺の費用として、里村紹巴が黄金2枚を、孝蔵主・勧修寺晴豊・帥局が黄金1枚を、直江兼続が米100石を、薄田若狭守が銀子2枚を、中大が銀子1枚を、曲直瀬道三が銭500疋を、心前・庵叱が銭300疋を、紹府・楚仙が銭200疋を、了喜・玄仍・正祐・小梅が銭100疋を、一欧軒が米1石、文閑が銀5文目を寄進する。
出典:天正16年3月12日付北野檜皮葺奉加帳(『北野天満宮史料 古記録』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

天正18年 1590年 12月28日 31歳
豊臣秀吉が関白職を甥・秀次に譲る。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

文禄1年 1592年 12月8日 33歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 37歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長2年 1597年 11月3日 38歳
午刻(11-13時)、直江兼続西笑承兌のもとを訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 12月23日 38歳
直江兼続が承兌に綿子10把を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長3年 1598年 8月18日 39歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長3年 1598年 9月16日 39歳
上杉景勝が上洛すべく、会津若松城(陸奥国)を発つ。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻8「長政記」

慶長4年 1599年 閏3月3日 40歳
前田利家が死去する。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年3月2日条

慶長5年 1600年 3月-日 41歳
徳川家康上杉景勝が不和となる。
出典:『当代記』巻3同年月条

慶長5年 1600年 6月16日 41歳
徳川家康大坂城(摂津国)を発し、伏見城(山城国)に到着する。織田有楽斎・長孝父子、山名禅高金森長近可重父子、山岡景友、池田輝政池田長吉福島正則高晴兄弟、浅野幸長黒田長政細川忠興藤堂高虎、有馬則頼・豊氏父子、筒井定次、徳永寿昌・昌重父子、生駒一正、田中吉政蜂須賀至鎮小出吉政、中村一栄、山内一豊堀尾吉晴・忠氏父子、一柳直盛、津田信成、津田小平次、富田信高、古田重勝、稲葉道通、古田重然、市橋長勝、九鬼守隆、桑山相模守、亀井茲矩、寺沢広高石川康長、天野雄光、奥平貞治、河村助左衛門、山城秀宗、佐藤信元、赤井五郎八、岡田助右衛門、丹羽氏次遠藤慶隆、西尾光教、中川忠勝、三好為三、大島光義、長谷川重成、兼松正吉三好房一船越景直、平野長重、池田光重、佐々顕政、平田若狭守、落合顕公、森可政、清水小八郎、松波秋徳、佐久間安政、佐久間勝之、祖父江法斎、鈴木重慶、溝口政一、堀田重国、戸川達安宇喜多詮家、野間秋弘、伊丹忠親、別所孫四郎、本田周防守、松倉重政、村越兵庫頭、神保相茂、秋山右近、野尻彦次郎、仙石式部少輔、分部光嘉、極楽院、水野河内守、佐々喜三郎、山岡修理亮、岡田少五郎、箸尾半左衛門が家康に従う。総勢55800。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 7月2日 41歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月13日 41歳
徳川家康榊原康政上杉景勝攻めの先陣を命じ、江戸城(武蔵国)を発たせる。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月19日 41歳
徳川秀忠上杉景勝攻めにつき江戸城(武蔵国)を発つ。先陣は榊原康政結城秀康松平忠吉、蒲生秀行、井伊直政本多忠勝松平忠明森忠政、仙石越前守、真田信幸小尾祐光小尾光重津金胤久、成田左衛門尉、石川玄蕃允、皆川広照、日根野徳次郎、多賀谷、山川民部、水谷左京が秀忠に供奉する。この日、宇都宮(下野国)に着陣する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻10「長政記」、『寛政重修諸家譜』巻第172「小尾祐光」の項、同「小尾光重」の項、同173「津金胤久」の項

慶長5年 1600年 7月20日 41歳
石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 7月21日 41歳
徳川家康上杉景勝攻めにつき江戸城(武蔵国)を発つ。鳩谷に宿泊する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月24日 41歳
伊達政宗が登坂勝乃の籠る白石城(陸奥国)を攻める。伊達勢は本丸以外を落とす。
出典:-

慶長5年 1600年 7月25日 41歳
登坂勝乃が伊達政宗に降伏し、白石城(陸奥国)を開城する。
出典:-

慶長5年 1600年 10月1日 41歳
石田三成小西行長安国寺恵瓊大坂城(摂津国)より京都に送られ、洛中にて引き回しのうえ、六条河原にて処刑される。3名の首は三条橋にて晒される。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻11「長政記」

慶長6年 1601年 7月1日 42歳
上杉景勝が上洛すべく、会津若松城(陸奥国)を発つ。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 7月24日 42歳
上杉景勝が上洛し、徳川家康に詫びをいれ所領を返上する。家康は景勝に米沢(出羽国)・陸奥国信夫郡を給付する。会津(陸奥国)は蒲生秀行に給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『関原始末記』

慶長6年 1601年 8月24日 42歳
徳川家康最上義光南部利直に、上杉景勝会津若松城(陸奥国)から米沢城(出羽国)への移封に応じなければ討伐するにようにと命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第210「南部利直」の項

慶長6年 1601年 8月-日 42歳
徳川家康上杉景勝会津若松城(陸奥国)120万石を改易し、米沢城(出羽国)30万石に減封する。
出典:『関原始末記』

慶長8年 1603年 2月12日 44歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 46歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長19年 1614年 9月18日 55歳
片桐且元が駿府(駿河国)より大坂城(摂津国)に戻る。且元は豊臣秀頼淀殿に、今後、徳川秀忠との不和を生じないよう、秀頼か淀殿のいずれかが江戸(武蔵)在府をするか、秀頼が大坂城を出て他国に国替えをしてはどうかと徳川家康より提案があったことを伝える。秀頼・淀殿はこの提案を不快とする。
出典:『駿府記』同年月25日条

慶長19年 1614年 9月25日 55歳
大坂(摂津国)にて豊臣秀頼の命により大野治長青木一重、石川貞政、薄田兼相渡辺糺木村重成、織田頼長等が、片桐且元を殺害せんとする。且元はこの計画を知り、自邸に籠居する。
且元の飛脚が駿府(駿河国)に到着する。その飛脚は、18日に且元が秀頼・淀/茶々に、徳川秀忠との関係悪化を回避するため、秀頼・淀殿のいずれかが江戸(武蔵国)に在府するか、秀頼が大坂城(摂津国)を出て国替えに応じるか徳川家康より提案があったことを伝えたが、秀頼・淀殿は不快の意を示したこと、その後、且元を殺害するとの密告があったため且元は出仕を控えていることを伝える。本多正純が家康に飛脚の報告内容を伝える。
出典:『駿府記』同年月日条・同年10月1日条

慶長19年 1614年 10月1日 55歳
板倉勝重よりの飛脚が駿府(駿河国)に到着する。勝重の書状には大坂(摂津国)にて豊臣秀頼の命により大野治長青木一重、石川貞政、薄田兼相渡辺糺木村重成、織田頼長等が、片桐且元を殺害せんとし、計画を知った且元が自邸に籠居したことを、本多正純板倉重昌徳川家康に報告する。
家康はこの事件に立腹し、大坂に向けて出陣することを近江国、伊勢国、美濃国、尾張国、三河国、遠江国に触れ、徳川秀忠にも伝える。
勝重よりの書状が、再度、駿府(駿河国)に到着し、織田頼長が、且元が駿府に赴いたならば、秀頼を大坂城(摂津国)より追い出し、織田常真を大将として籠城するつもりであると家康に報告する。
且元・貞隆兄弟が大坂城を退去し、居城・茨木城(摂津国)に入る。
出典:『片桐家秘記

慶長19年 1614年 10月4日 55歳
徳川秀忠大坂城(摂津国)の豊臣秀頼を攻めるべく、関東、陸奥に陣触を出す。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月5日 55歳
板倉勝重の飛脚が駿府(駿河国)に到着し、豊臣秀頼大坂城(摂津国)を整備し、牢人を召し抱え、籠城の準備をしていると、駿府城(駿河国)にいる徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月6日 55歳
板倉勝重の飛脚が駿府(駿河国)に到着し、勝重宛の織田有楽の書状を駿府城(駿河国)にいる徳川家康に届ける。有楽の書状には、片桐且元による家康との交渉が不調に終わったことを豊臣秀頼が折檻したため、且元・貞隆兄弟は茨木城(摂津国)に退くことになり、大坂城(摂津国)は大騒動となったが、長益・頼長父子は家康・秀忠父子に対する野心はない伝える。
江戸城(武蔵国)普請役を終えた細川忠利が箱根(相模国)にて大坂の騒動を聞きつけ、この日、駿府(駿河国)に到着する。忠利は、父・忠興が肥後国に在国しているので、家康・秀忠に随従し、大坂城攻めに先手を命じるようにと本多正純を介して家康に伝える。家康は忠利の申し出を神妙として、江戸に赴くよう指示する。
江戸城(武蔵国)普請役を終えた中川久盛が駿府(駿河国)に到着し、家康に対面する。家康は久盛に岡城(豊後国)に帰国し、軍勢を整え、指示を待つようにと伝える。
奥平信昌の飛脚が駿府(駿河国)に到着する。奥平忠政が10月2日に死去したことを、正純を通じて家康に伝える。家康は加納(美濃国)は、忠政の弟・松平忠明が率い、大坂に出陣し、父・信昌は愁嘆であろうから加納城(美濃国)を守備するようにと指示を出す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月7日 55歳
江戸城(武蔵国)普請役を終えた京極高知京極忠高森忠政田中忠政が駿府(駿河国)に到着する。駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康は4名に急ぎ領国に帰国し、軍勢を整え出陣の指示を待つようにと伝える。
片桐且元貞隆兄弟の使者として小島勝兵衛・梅津忠介が駿府(駿河国)に到着する。両使は本多正純を介し、且元・貞隆が大坂城(摂津国)より茨木城(摂津国)に退いたことを家康に報告する。家康は両使を召し出し、服・羽織を下賜したうえで、且元・貞隆へ茨木城への退出を神妙と書状をもって伝える。
大坂城攻めにあたり、家康が駿府城(駿河国)の留守居を松平紀伊守、三宅宗右衛門に命じる。
家康が彦坂光正に西国の早船を調べ櫓を取り上げるように命じる。
家康が沼津城(駿河国)の留守居を長野九左衛門に命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月8日 55歳
朝、徳川家康藤堂高虎大坂城(摂津国)攻めの先陣として、天王寺(摂津国)から攻め入るべく、紀伊国・美濃国・尾張国・伊勢国・遠江国・三河国の諸勢と大和国まで進むようにと命じる。
徳川秀忠の使者として土井利勝が駿府(駿河国)に到着する。利勝は、大坂城攻めにつき、家康が出陣するとのことだが、秀忠の意向としては家康は関東・江戸の仕置きをして欲しいとの思いがあり、再三、家康に翻意を促すが、家康は先ず上洛し、大坂城の状況をみてさしたることがなければ処置をした後、駿府に戻るが、豊臣秀頼が籠城するならば秀忠に同城を攻撃を指示するという。なお、その際は、秀忠に軍勢100000をもって陸奥の仕置きをした後、上洛するようにと伝える。加えて、江戸城(武蔵国)の留守居を松平忠輝蒲生忠郷奥平家昌最上家親鳥居忠政酒井重忠酒井忠利、内藤清次とするよう利勝に指示する。利勝は江戸(武蔵国)にむけすぐに駿府を発つ。
江戸城普請を終えた竹中重利が駿府に到着し、家康と対面する。家康は、重利が福島正則と知音なので、使者として赴くようにと伝える。家康が重門を通じて、このたび秀頼が織田長益大野治長木村重成、渡辺守の所為か、家康・秀忠父子に悪逆を構えていることについて、豊臣秀吉は正則を好み、故に正則は秀頼と疎むことはないが、家康・秀忠への秀頼の敵対は、秀頼本人の意思ではないにせよ、もはや互いに疑心暗鬼の状況であるから戦は避けられないので、福島勢は子・忠勝が率いて大坂に出陣し、正則は江戸に留まるようにと正則に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月10日 55歳
江戸城(武蔵国)の普請を終えた浅野長晟鍋島勝茂山内忠義蜂須賀至鎮小出吉英稲葉典通遠藤慶隆毛利高政が駿府(駿河国)に到着し、駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康は大坂城(摂津国)攻めにつき、領国に戻り軍勢を整え指示を待つように伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月11日 55歳
辰刻(7-9時)、大坂城(摂津国)攻めのため徳川頼宣駿府城(駿河国)より出陣する。安藤直次・水野重央等の数百騎が随従する。
巳刻(9-11時)、徳川家康が駿府城より出陣する。家康は道中に鷹狩をする。家康勢は、午刻(11-13時)、本多正純指揮のもと出陣する。申刻(15-17時)、家康は田中(駿河国)に到着する。
徳川家康勢:徳川家康[大将]、本多正純、石川忠総柳沢元吉小倉吉次[水野分長勢]
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『石川忠総家臣大坂陣覚書』、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 10月12日 55歳
申刻(15-17時)、徳川家康が掛川(遠江国)に到着する。夜、家康のもとに茨木城(摂津国)より大野治純と片桐且元の使者が到着する。家康は治純を召し出し、大坂城(摂津国)の様子を尋ねる。治純は、豊臣秀頼による籠城の準備は、織田有楽、織田頼長、木村重成渡辺糺大野治長等の秀頼側近が急に企てたことであると述べる。
京都(山城国)にいる板倉勝重より家康のもとに飛脚が到着する。飛脚は、10月6・7日に京都にいた牢人の内、長宗我部盛親後藤基次、仙石秀範、明石全登、松浦重政等の1000人余を秀頼が金銀にて召し抱え籠城しているとし、豊臣勢が大和国に攻め入り、宇治(山城国)・槙島(山城国)まで出て放火し、茨木城を攻めて且元・貞隆兄弟を討ち取るとの噂があると報告する。
秀頼が(和泉国)を攻めるというので、堺の町人が秀頼に帰服し、鉄砲・弾薬・武具を大坂城(摂津国)に運び入れる。堺政所の芝山小兵衛は、無勢につき堺を出て岸和田(和泉国)に退く。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月15日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月13日 55歳
徳川家康が中泉(遠江国)に到着する。道中、鷹狩をする。徳川秀忠より家康のもとへ板倉重宗が到着する。
福島正則の使者と竹中重利の書状が江戸(武蔵国)より家康のもとに到着する。正則より、豊臣秀頼大坂城(摂津国)で籠城準備をしていることについて、秀頼と淀殿の野心を批判し、秀頼近習が若輩故かとして、秀頼に書状をしたためたことを家康に伝える。正則の書状は本多正純が内容を確かめる。その書状には、方廣寺(山城国)のことについて、家康・秀忠に対し交戦姿勢を示すのは天魔の所業であるので、すぐに改心し、淀殿にいたっては家康・秀忠に詫び、江戸か駿府(駿河国)に在国し、秀頼の無事を確保するのが大切であると述べる。正則は江戸に妻子を置き、家康・秀忠に対し無二の忠節を誓っている。もし秀頼が改心しないのであれば、正則を始め天下の諸勢が大坂城に向かい、同城を攻め落とすのは間違いないから、よくよく考え、生きながらえるか自滅するかを思案するようにと記されていたとされる。
長崎(肥前国)より長谷川藤広の飛脚が家康のもとに到着する。9月24日にキリスト教徒100余人と高山重友内藤如庵、長崎のキリスト教徒を、船にて天川(マカオ)に遣わしたと報告する。
夜、黒田蔵人と安藤直次所従が喧嘩をする。
秀頼が槙島昭光を大将に軍勢300を(和泉国)に出す。片桐且元が加勢として軍勢200を堺に派遣する。秀頼と片桐勢が戦い、片桐勢は多羅尾半左衛門、牧治右衛門が戦死し、今井宗薫、今井宗呑が戦死したと噂される。且元勢は尼崎(摂津国)に退くが、秀頼勢が追撃し、7、8騎を討ち取る。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月16日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月14日 55歳
卯刻(5-7時)、徳川家康が中泉(遠江国)を発ち、道中を鷹狩をしながら、天龍川二瀬の舟橋を渡り、午刻(11-13時)に浜松(遠江国)に到着する。二瀬舟橋は大石十右衛門、豊島作右衛門が架ける。
京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。勝重よりは、大坂城(摂津国)の様子に変わりはないものの、豊臣秀頼が多くの牢人を召し抱えていることを注文に書き載せ報告する。秀頼は高野山(紀伊国)にいた真田信繁が黄金200枚・銀30貫にて召し抱えたこと、若原良長が播磨国の牢人衆を召し連れ大坂城に入城したこと、淀殿縁者の浅井井頼、根来衆300騎等、数多くの牢人衆が秀頼に召し抱えられたことを伝える。
徳川秀忠の使者として松平正勝が家康のもとに到着する。
江戸城(武蔵国)の普請を終えた加藤忠広が浜松にて家康に対面する。家康は忠広に急ぎ領国に戻り、軍勢を整え、肥後国を守り、指示を待つようにと伝える。また家康は忠広に雁2、肥後守を賜う。松平正久が忠広に伝える。
江戸城の普請を終えた脇坂安元が浜松にて家康に対面する。家康は安元にすぐに伊予国に戻り、大坂城に向けて出陣し、藤堂高虎に組するようにと伝える。
伯耆国の代官である伊丹・山田が家康に伯耆国の午年の物成銀150貫を進上する。
家康が本多正純を召し出し、本多忠政を始めとする伊勢国の軍勢を、淀・鳥羽(山城国)に進めるように指示する。
松平忠直の軍勢15000に早々、淀・橋本(山城国)に出陣するように家康が命じる。
徳川義俊名古屋城(尾張国)より出陣し、一宮(尾張国)に到着する。
前田利光金沢城(加賀国)を出陣する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月16日条・同年月18日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月15日 55歳
徳川家康吉田(三河国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。勝重は、10月12日に豊臣秀頼(和泉国)を攻めるというので、堺の町人が秀頼に帰服し、鉄砲・弾薬・武具を大坂城(摂津国)に運び入れたという。堺政所の芝山小兵衛は、無勢につき堺を出て岸和田(和泉国)に退いたという。
10月9日に、堺を出た町人の柏尾宗具が家康のいる吉田に到着する。家康は宗具を召し出す。宗具は大坂城の籠城の様子と、秀頼が堺を放火するとの噂があったので妻子を郷に隠し、家康の旗本に加わることを述べる。家康は宗具を称える。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月16日 55歳
徳川家康岡崎(三河国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。10月13日に豊臣秀頼が槙島昭光を大将に軍勢300を(和泉国)に出す。片桐且元が加勢として軍勢200を堺に派遣する。秀頼と片桐勢が戦い、片桐勢は多羅尾半左衛門、牧治右衛門が戦死し、今井宗薫、今井宗呑が戦死したと噂される。且元勢は尼崎(摂津国)に退くが、秀頼勢が追撃し、7、8騎を討ち取る。この報を受け、家康は上洛を急ぐ。
福島正則が家康に書状を送る。正則は江戸(武蔵国)にあり、妻子を江戸城(武蔵国)に置くという。
徳川秀忠の使者として成瀬正武が家康のもとに到着する。正武は、伊達政宗上杉景勝佐竹義宣が江戸に到着したので、秀忠が出陣したいと述べていることを伝える。家康は秀忠が準備ができ次第、出陣してもよいと返答する。
松平忠直坂本(近江国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月18日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月17日 55歳
未刻(13-15時)、徳川家康名古屋(尾張国)に到着する。古田重然、半井驢庵が家康を出迎え、家康は名古屋城(尾張国)追手門外で対面する。
徳川義俊が赤坂(美濃国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月18日 55歳
雨により徳川家康名古屋(尾張国)に逗留する。京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。飛脚は豊臣秀頼大坂城(摂津国)にて籠城の準備を進めていること、戦死したと噂されていた今井宗薫・宗呑父子は秀頼勢に捕縛されていたことを家康に報告する。
前田利光の飛脚が家康のもとに到着する。利光は10月14日に金沢城(加賀国)を出陣し、近々、京都に到着することを伝え、陣所の位置について家康の指示を乞う。家康は、淀・鳥羽(山城国)近辺を陣所とするように指示する。
松平忠直の飛脚が家康のもとに到着する。忠直勢が16日に坂本(近江国)に到着したことを報告するとともに陣所の位置について指示を乞う。家康は、西岡・東寺(教王護国寺)・九条・山崎(山城国)辺りを陣所とするように指示する。
徳川義俊が柏原(近江国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日・19日条

慶長19年 1614年 10月19日 55歳
午刻(11-13時)、徳川家康が岐阜(美濃国)に到着する。徳永昌重の飛脚が家康のもとに到着する。昌重より豊臣秀頼の披露状が家康のもとにもたらされる。秀頼は昌重に、片桐且元に不届きであったので、且元を折檻をしたところ、家康が立腹し出陣するまでに至ったのは思いがけないことであり、秀頼は家康・秀忠父子に野心はないことを伝えてほしいと伝える。この披露状の内容を本多正純が家康に伝えたところ、家康は、秀頼は若輩ゆえ織田有楽大野治長が謀をめぐらし、秀頼の意向と偽って、治長から前田利長に書状を送り、上洛して秀頼を補佐を依頼するとともに、兵粮として抱えている福島正則からの米30000石と秀頼蔵納の70000石を進退を委ねると伝えていることを、利長の死後、利光より報告を受けているので、秀頼方に家康・秀忠への敵対心があることは間違いないと述べる。
家康は正純をして、島津家久毛利宗瑞鍋島直茂黒田長政福島忠勝池田利隆池田忠継池田忠雄浅野長晟蜂須賀至鎮加藤嘉明森忠政田中忠政生駒正俊に軍勢を率い、大坂城(摂津国)に押し寄せるように命じる。
徳川義俊が永原(近江国)に着陣する。
本多忠政が枚方(河内国)に陣取る。
松平忠明等の美濃勢が淀(山城国)に陣取る。
三河国の諸勢が鳥羽(山城国)に陣取る。
藤堂高虎が大和路に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月20日 55歳
徳川家康柏原(近江国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着し、豊臣秀頼二条城(山城国)まで押し寄せ放火するとの噂があることを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月21日 55歳
徳川家康佐和山(近江国)に到着する。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 10月22日 55歳
徳川家康が永原(近江国)に到着する。京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)攻めのため京都に到着した先陣諸勢の兵粮米について、(和泉国)の南北町中より支出の旨、申し出がったことを報告する。
家康が竹中重利を召し出し、福島忠勝とともに安芸国・備後国に赴き軍勢を整え、大坂(摂津国)まで出陣するように指示する。また、備後国には鍛冶が多くいるので、鉄楯を生産するように指示する。
家康が大坂に居住し、この日、永原に到着した前庭を召し出し、豊臣秀頼の軍備の様子を尋ねる。前庭は万事が淀殿の意向で決まるので、配下は困惑していると伝える。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)に到着した軍勢を閲兵する。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 10月23日 55歳
卯刻(5-7時)、徳川家康が永原(近江国)を発ち、矢橋(近江国)より早船にて膳所(近江国)に到着する。船中、戸田氏鉄が家康に御膳を献じる。午刻(11-13時)、家康は二条城(山城国)に到着する。家康は、片桐孝利を召し出す。孝利はは、このたび大坂城(摂津国)で家康に別心を構えた者について報告する。
福島正則豊臣秀頼に送った使者が、二条城に戻ってくる。秀頼の正則への返書は無かったとされる。
家康が片桐且元藤堂高虎を召し出し、大坂城の堀の深さを尋ねるとともに、大坂城攻めの諸口の様子を、絵図を用いながら聞く。
徳川秀忠よりの使者として青山重長が家康のもとに到着する。家康は秀忠に出陣を指示する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 10月23日 55歳
徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。
江戸城の留守居として酒井重忠を置く。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項、同巻第161「青木信安」の項、同巻第169「米倉信継」の項、同巻第964「木内蕃正」の項

慶長19年 1614年 10月23日 55歳
豊臣秀頼二条城(山城国)近辺を焼き討ちすべく遣わした山伏60人の内、20人が捕縛される。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 10月23日 55歳
前田利光率いる軍勢20000、松平忠直率いる軍勢10000が下京(山城国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 10月24日 55歳
二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに、勅使として広橋兼勝、三条実條が赴く。
家康が大坂城(摂津国)攻めの先手の諸大名衆と対面する。
徳川秀忠の使者として水野忠元が家康のもとに到着する。秀忠の出馬を早く認めてもらうよう家康に伝えたところ、家康より伊達政宗上杉景勝佐竹義宣を先手として急ぎ出陣するように言い渡す。
秀忠が神奈川(武蔵国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月25日 55歳
未刻(13-15時)、山城国で大地震あり。
二条城(山城国)にて徳川家康藤堂高虎片桐且元を召し出し、大坂城(摂津国)包囲の先手を命じる。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)を発ち、宇治(山城国)に陣取る。
徳川秀忠が小田原(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 10月26日 55歳
二条城(山城国)にて徳川家康豊臣秀頼のもとにいた織田常真と対面する。常真は家康に内通しており、家康は知行を給付すると常真に伝える。
家康が池田利隆浅野長晟鍋島勝茂等の諸大名と対面する。理由は、利隆等が江戸城(武蔵国)の普請後、そのまま家康に軍列に加わったため金子を持ち合わせておらず軍備に不自由しているので、銀子の借用を後藤光次を介して家康に依頼する。家康は銀200貫目を貸し与える。
京極采女正が家康に対面し、奈良柿1000を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月27日 55歳
一乗院、喜多院が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。
宝性院、片桐貞隆が家康に対面する。
石川貞政、池田利隆が二条城奥ノ間にて家康と対面し、大坂・尼崎(摂津国)の絵図でもって軍陣を様子を説明する。
夜、徳川秀忠の飛脚が家康のもとに到着する。秀忠は23日に江戸城(武蔵国)を出陣し、24日には藤沢(相模国)に到着したことを報告する。家康は、数万の軍勢の移動であるので、ゆるゆると進軍するようにと伝える。
、五山衆が南禅寺金地院(山城国)にて諸家記録1本を3部ずつ写本を作成し、禁裏、江戸城、駿府城(駿河国)にそれぞれ保管するように命じ置く。担当は金地院崇伝林羅山
(和泉国)の南北町が家康に銀200枚を献上する。成瀬正成が家康に披露する。
秀忠勢が三島(伊豆国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月29日条

慶長19年 1614年 10月29日 55歳
徳川秀忠の使者として永井尚政二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。秀忠の軍勢が27日に三島(伊豆国)に到着したことを報告する。
夏に勘気を蒙った池田光重が、板倉勝重を介し、家康に大坂城(摂津国)攻めに先手に加わりたいと嘆願する。家康はその申し出を殊勝とし、有馬豊氏勢の先手を勤めるようと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月2日 55歳
吉田(三河国)より徳川秀忠の使者として内藤右衛門佐が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。右衛門佐は家康に秀忠が進軍を急いでおり、清水(駿河国)から掛川(遠江国)、吉田(三河国)と進軍したことを報告する。家康は大軍の移動を急がせていることに立腹し、そうしないようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月3日 55歳
大坂城(摂津国)の先陣の片桐且元が、同城を包囲したことを、二条城(山城国)にいる徳川家康に報告する。家康は、指示なく攻め込むことがないように且元に言い含める。
家康が大坂城攻め先陣が布陣する天王寺口に物見として島弥左衛門、本多藤四郎の遣わした物見が、夜、家康のもとに戻ってくる。物見からは道明寺(河内国)近所の小山に藤堂高虎が布陣しており、以下、諸勢の夫人を報告する。家康は城より遠いので、今少し城に陣を寄せるようにとし、松平清正石川忠総古田重治、徳永昌重を平野(河内国)まで進めさせる。
戌刻(19-21時)、伊達政宗の使者として山岡重長徳川秀忠のもとに到着する。重長は本多正信を介し、豊臣秀頼の使者として和久是安が秀頼黒印状を持参し、大坂城攻めにつき秀頼に味方するように依頼があったが、政宗は家康・秀忠の恩を忘れることはできないとし秀頼に同心できないととして、是安を捕縛したことを秀忠に伝える。秀忠は政宗の対応を称賛する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月5日 55歳
大坂城(摂津国)より薄田兼相が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退する。松平清正が追撃するも、兼相の撤退が早かったため、追撃を諦め、平野の焼け跡に陣所を構える。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「」「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月6日 55歳
未刻(13-15時)、松平清正の飛脚が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。清正より、11月5日に大坂城(摂津国)より薄田兼相が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退したので、追撃したが叶わなかったため、平野の焼け跡に陣所を構えたと家康に報告がある。
藤堂高虎浅野長晟が住吉(摂津国)に陣取ったと家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第90「花房正成」の項

慶長19年 1614年 11月7日 55歳
辰刻(7-9時)、池田忠継が吹田川を渡り、中島(摂津国)に陣取る。それを徳川家康に報告する。忠継は大和田川に陣取る。
未刻(13-15時)、有馬豊氏が中島に到着する。
近日中に家康が二条城(山城国)を出陣することが決まる。経路は龍田・法隆寺・郡山(大和国)を通り、住吉(摂津国)に陣取るとする。
蜂須賀至鎮が二条城にいる家康に対面する。家康は至鎮の早々の着陣を喜ぶ。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠継」の項

慶長19年 1614年 11月10日 55歳
徳川秀忠が永原(近江国)を出立する。膳所(近江国)にて戸田氏鉄が膳を献じる。大津・追分(近江国)にて公家衆・僧衆が秀忠を出迎える。追分にて徳川義俊徳川頼宣が秀忠を出迎え、対面する。その後、伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月15日 55歳
卯刻(5-7時)、徳川家康大坂城(摂津国)攻めに赴くべく、二条城(山城国)より出陣する。未刻(13-15時)、家康は木津(山城国)に到着するが、旅館狭小につき、急遽、奈良(大和国)まで進む。奈良奉行・中坊左近が膳を献上する。一乗院、大乗院、喜多院、春日社禰宜が出迎える。
秀忠が大坂城を攻めるべく伏見城(山城国)を出陣し枚方(河内国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月16日 55歳
徳川家康法隆寺阿弥陀院に陣取る。
卯刻(5-7時)、徳川秀忠が枚方(河内国)を発し、岡山(河内国)に陣取る。
秀忠の使者として永井尚政が枚方より家康のもとに到着する。秀忠が岡山に着陣したことを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月17日 55歳
徳川家康が住吉(摂津国)に陣取る。家康供奉衆がこの日より甲冑を着す。
住吉にて藤堂高虎浅野長晟蜂須賀至鎮前田利光松平忠直生駒正俊一柳直盛・直重父子、松平清正本多忠政・忠刻、古田重治、桑山元晴、脇坂安元池田忠雄等が家康に対面する。家康は高虎、利光を召し寄せ、大坂(摂津国)の絵図を見せ、攻め口を伝える。
徳川秀忠が平野(河内国)に陣取る。
夜、秀忠の使者として土井利勝が家康のもとを訪れる。明朝、先陣の様子を確認すべく天王寺・茶臼山辺りに赴くよう伝える。
佐竹義宣率いる軍勢1500が大坂(摂津国)に着陣し、玉造口に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第129「佐竹義宣」の項

慶長19年 1614年 11月18日 55歳
徳川家康が住吉(摂津国)より、徳川秀忠が平野(河内国)より茶臼山(摂津国)に赴く。父子は天王寺にて父子が面会する。家康は藤堂高虎本多正信を召し寄せ、大坂城(摂津国)攻めの談判をする。家康は城攻めに際し、付城の築城を命じる。茶臼山について、大坂城の惣構より27.28町のところにあるので、高虎に鉄砲30挺の配備を命じる。その後、家康は住吉に、秀忠は平野の陣所に戻る。
大坂城より明石全登が天王寺に向かって出撃し、藤堂高虎脇坂安元が鉄砲にて応戦する。
向井忠勝が新家(摂津国)に攻め入り、豊臣方の船50挺を奪う。忠勝は福島(摂津国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第103「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月25日 55歳
徳川家康秀忠父子が天王寺に向けて出陣する。
蜂須賀至鎮浅野長晟が穢多ヶ崎砦を攻め、同砦を落とす。石川忠総が博労ヶ淵砦を攻め、同砦を落とす。
至鎮、長晟、忠総は船場(摂津国)に陣取る。
出典:『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月19日 55歳
巳刻(9-11時)、徳川秀忠が住吉(摂津国)にいる徳川家康の陣所に赴き対面する。家康は、大坂の絵図を前に、本多正信本多正純藤堂高虎安藤直次成瀬正成を召し寄せ評定をする。その評定では、淀川の鳥養(摂津国)辺りで川の水を止め、天満口・船場口・天王寺口の四方より一気攻めることを決める。そこで、土俵20万を摂津国・河内国に出すよう命じる。
大野治房薄田兼相の兵が詰めている船場口の穢多ヶ島に、浅野長晟池田忠雄蜂須賀至鎮が攻め入り、大野・薄田勢を追い払う。3名は同地に付城を築く。
伊達政宗の使者・山岡重長が家康のもとを訪れる。家康は伊達勢に木津・今宮に陣取るように伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月25日 55歳
佐竹義宣率いる軍勢1500が京橋(摂津国)に布陣し、豊臣勢と鉄砲を撃ち合う。
徳川家康が、今福に付城を築くため、上杉景勝・義宣に対し、翌朝、同地に陣取る豊臣勢を追い払うようにと命じる。検使は屋代秀正、安藤正次、伊東政世。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

慶長19年 1614年 11月26日 55歳
上杉景勝佐竹義宣が今福に攻め入り、同地を占拠する。今福を守っていた矢野正倫、飯田家貞が戦死する。検使は屋代秀正、安藤正次、伊東政世。
玉造(摂津国)にて義宣が陣場普請をする。その普請の最中、豊臣勢が大坂城(摂津国)より出勢し、義宣家臣の渋江政光率いる佐竹勢と戦い、政光が豊臣勢を破る。
未刻(13-15時)、大坂城より木村重成後藤基次率いる豊臣勢3000が義宣の守る今福を攻めるべく、政光率いる佐竹勢が応戦する。佐竹勢は政光、小野崎通勝、高垣重久が戦死する。その後、重成・基次と義宣が戦う。途中、義宣劣勢につき、鴫野に布陣していた景勝(須田長義、水原親憲等)、榊原康勝が加勢する。重成・基次は大坂城に撤退する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項、同巻第129「佐竹義宣」の項

慶長19年 1614年 11月29日 55歳
朝、蜂須賀至鎮(蜂須賀勢:森氏純、森藤兵衛)、池田忠雄戸川達安花房正成石川忠総九鬼守隆が野田・福島(摂津国)に進軍し同地を守る豊臣勢を破る。豊臣勢は広瀬加左衛門、森長左衛門が戦死する。
守隆、向井忠勝が豊臣方の番船を押収する。豊臣勢は天満(摂津国)に逃れたとする。
天満・船場(摂津国)が焼ける。
徳川方の軍勢が大坂城(摂津国)の船場の惣構の堀際まで押し寄せる。また、大坂城の北に布陣する徳川方の軍勢が備前島近辺に、東に布陣する軍勢が森・河内近辺に押し寄せる。
家康が浅野長晟に博労ヶ淵(摂津国)に陣取るように命じる。使者として成瀬正成を遣わす。
家康が安藤直次を野田・福島に布陣する至鎮、忠雄、達安、正成のもとに遣わし、軍法の遵守を命じる。夜、直次は家康のもとに帰着し、野田、福島、博労ヶ淵の様子について報告する。また、忠雄、至鎮家中で功名のあったものを家康に報告する。家康は功名をあげた者に黄金・服を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条、同年12月4日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠雄」の項

慶長19年 1614年 11月30日 55歳
豊臣勢が船場町、天満町(摂津国)を焼き討ちする。本多正純成瀬正成安藤直次永井直勝が船場、天満に物見に赴き、申刻(15-17時)、徳川家康の陣所に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月3日 55歳
成瀬正成安藤直次が、徳川義俊徳川頼宣の陣所となる天王寺(摂津国)近辺を検分する。
徳川秀忠が平野(河内国)より岡山に陣を移すこととする。
織田有楽大野治長よりの和睦に関する書状を有楽家臣の村田吉蔵と治長家臣の米村権右衛門が、本多正純後藤光次のもとに到着する。
池田忠継森忠政を天満(摂津国)より船場(摂津国)に戻す。
徳川勢の先手が城より10町もしくは5、6町の近くまで接近する。井伊直孝勢は大坂城(摂津国)三ノ丸の堀近くに竹束を寄せる。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月4日 55歳
徳川家康が住吉(摂津国)より天王寺茶臼山に陣替えする。徳川秀忠が平野(河内国)より岡山に陣替えする。徳川義俊徳川頼宣天王寺(摂津国)に陣取る。義俊に成瀬正虎が随従する。
朝、松平忠直本多富正・本多成重が豊臣勢と鉄砲を撃ち合い、続けて大坂城(摂津国)に攻め上り城壁を突破しかけたところで、豊臣勢が出撃し忠直勢は多くの負傷者を出す。軍監が家康に報告し、家康は安藤直次を忠直のもとに遣わし、すぐに退くように命じる。
井伊直孝勢が大坂城の真田信繁の守る真田丸に攻め込む。真田勢の銃撃により井伊勢の多くが討ち取られる。徳川秀忠の命により井伊勢は撤退する。
未刻(13-15時)、家康が茶臼山に到着する。本多正純の先導のもと家康は陣所の普請の様子を検分する。
家康が富正、成重を召し、忠直の突出のことを問う。富正、成重は制止をしたが忠直が若いため突出したと述べるも、家康は富正、成重に責があると不満をあらわにする。
家康は藤堂高虎の陣所を検分する。大坂城より鉄砲による砲撃があるなか、家康は城近くまで見回りする。
夜、家康は住吉(摂津国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条、同年月日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月9日 55歳
藤堂高虎徳川家康大坂城(摂津国)惣攻めの評定をする。
山城忠元、滝川忠征が家康に長柄堤が完成し、河川の水が尼崎(摂津国)に流れ、天満川が浅くなったので、そのうち川が乾くとの報告をする。
青木一重の書状が家康に届く。本多正純が披露する。
家康が永井直勝、青木二郎右衛門を召し寄せ、今夜より諸勢に鬨の声をあげさせ、籠城している者の睡眠を妨げるように命じる。
家康が松平忠直の家老・山本内蔵助を召し出し、攻め口の陣場を言い渡す。
板倉勝重島津家久に大坂(摂津国)への参陣を催促する。
夜、徳川勢より鬨の声と鉄砲が放たれるが、鉄砲のつるべ撃ちを家康が禁止する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第108「島津島津家久(忠恒)」の項

慶長19年 1614年 12月11日 55歳
徳川家康が間宮新左衛門、島田直時、日向半兵衛を召し、銀山堀衆をもって大坂城(摂津国)の櫓を崩すように命じる。
藤堂高虎井伊直孝前田利光の陣場で堀をつくる。黒田長政が鉛3000斤を家康に献上する。
浅野長晟が家康に城に軍勢を近づけるにあたり堀を埋めるべきか否かを正純を通じて尋ねる。家康はしばし待つようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月13日 55歳
徳川家康中井正清に、大坂城(摂津国)総攻めの際に使用予定の熊手をつけた梯子の準備を命じる。あわせて大名一人につき梯子50本を配布するようにと家康は本多正純に指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日 55歳
徳川家康松平正久、牧野清兵衛、稲富重次に対し、鉄砲練達者数十人を選び、藤堂高虎松平忠直等の攻め口に赴き、小筒・大筒をもって大坂城(摂津国)の矢狭間・櫓に試し撃ちするよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日 55歳
徳川秀忠水野忠元、稲富重次をもって佐竹義宣の陣所の高所より石火矢(大砲)を大坂城(摂津国)に向けて放つ。
浅野長晟が攻め口としている船場の堀川を埋めようとしたところ、大坂城より石火矢が放たれる。砲弾は重さ5-6斤だとされる。家康はその砲弾を自身の陣所にもってこさせて検分する。玉が土俵に埋まらなかったことから、木鉄砲による射撃ではないかと推察する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月19日 55歳
徳川家康徳川秀忠父子と豊臣秀頼の間で和睦がなる。
家康が藤堂高虎仙石忠政と対面する。
家康が松平甲斐守、前田利光松平忠直加藤明成福島忠勝、松平河内守と対面する。
家康が南光坊天海と対面する。
家康が落馬して負傷した子・頼宣の祖父・正木観斎に摩沙円を送る。興安が担当する。
黒田忠長が家康・秀忠父子に対面する。忠長は病が癒えていなかった、それで死すことがあっても城攻めに加わることを述べる。忠長は家康に煙硝5000斤を献じる。井上之房、小河玄蕃允が忠長に供奉する。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『黒田家譜』巻14「長政記」、『菅氏世譜

慶長19年 1614年 12月24日 55歳
日の出前、茶臼山(摂津国)の徳川家康の本陣の小姓衆小屋5、6軒が焼失する。松平正久板倉重昌、加賀爪忠澄が本陣の門を堅守し、人の出入りを止める。
徳川秀忠は家康と対面し相談する。秀忠が退去後、本多正信土井利勝が家康のもとに残る。
織田有楽大野治長が人質の大野治徳、織田尚長を連れ家康に対面する。京極忠高も家康のもとに参上する。有楽・治長は服3領を、治徳・尚長は服2領を家康に献上する。有楽は十徳、治長は羽織袴を着する。その場に藤堂高虎本多正信が列席する。家康は有楽、治長に大坂城(摂津国)城中の堀・櫓の破却を早々に着手するように伝える。
巳刻(9-11時)、家康が諸大名を引見する。前田利光福島忠勝浅野長晟鍋島勝茂細川忠利寺沢広高池田利隆池田忠継池田忠雄森忠政有馬豊氏稲葉典通京極高知山内忠義堀尾忠晴加藤明成南部利直毛利秀就毛利秀元吉川広家福原広俊松平忠直、松平忠昌、松平信吉、榊原康勝本多忠朝本多忠政松平清正本多康紀松平忠利、水野勝成と対面する。
家康が南光坊天海金地院崇伝と対面し雑談する。
家康が天海の執り成しにより鷹匠・小栗忠蔵を赦免する。
秀忠が佐和山(近江国)を井伊直孝に給付する。その旨を秀忠が利勝を介し家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月25日 55歳
辰刻(7-9時)、徳川家康が茶臼山(摂津国)の陣所を発ち、申刻(15-17時)、二条城(山城国)に到着する。板倉勝重が迎える。茶臼山の陣所には本多正純成瀬正成安藤直次が残る。
徳川秀忠大坂城(摂津国)の堀・櫓破却を見届けるべく、岡山の陣所に残る。徳川義俊徳川頼宣も岡山に在陣する。
織田有楽大野治長、伊東長次が岡山に陣す秀忠のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月27日 55歳
岡山に在陣している徳川秀忠の使者として土井利勝二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)の総堀・櫓の破却のことを報告する。また在陣の諸大名の苦労を慮って、公役普請は3ヶ年免除するよう家康が秀忠に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月3日 56歳
午刻(11-13時)、徳川家康駿府城(駿河国)に帰城すべく二条城(山城国)を出立する。申刻(15-17時)、膳所(近江国)に到着する。膳所城(近江国)城主の戸田氏鉄が家康を饗応する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長20年 1615年 1月12日 56歳
徳川家康岡崎(三河国)に逗留する。
徳川秀忠の使者として佐久間政実、安藤正次が家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)二ノ丸の堀が意外に深く、土手の土で埋めても1/3にも満たなかったため、二ノ丸千貫櫓、織田有楽邸の家屋、西ノ丸、大野治長邸を破却し、かつ高所の土も入れて堀を埋めたことを報告する。
家康が正次到来につき、正次が軍監をつとめた鴫野の戦いについて見聞したことの報告を求める。正次は豊臣勢の鉄砲100が佐竹義宣陣所に発砲したこと、義宣・渋江政光、屋代、水原親憲の働きにより豊臣勢が退いたことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月19日 56歳
申刻(15-17時)、徳川秀忠が岡山の陣所より伏見城(山城国)に移る。大坂城(摂津国)の堀埋め普請が、まだ完了していないため、松平忠明本多忠政等の諸大名の軍勢は大坂に残す。目付として、本多正純安藤重信が大坂に残る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月28日 56歳
徳川秀忠二条城(山城国)を発ち、膳所(近江国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月30日条

慶長20年 1615年 4月10日 56歳
徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。
江戸城の留守居に酒井重忠を置く。
出典:『駿府記』同年月日・17日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項

慶長20年 1615年 4月21日 56歳
徳川秀忠伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月26日 56歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き、対面する。4日28日に大坂城(摂津国)に向けて出陣することが決まる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月27日 56歳
徳川家康の使者として本多正純伏見城(山城国)にいる徳川秀忠のもとに赴き、4月28日とされていた大坂城(摂津国)への出陣を延期すると伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月28日 56歳
豊臣秀頼勢10000が郡山・龍田・法隆寺(大和国)の近辺に出撃し、子刻(23-1時)放火する。法隆寺は火災を免れる。大和郡山城(大和国)に籠城していた筒井定慶は逃亡する。
申刻(15-17時)、大野治房・槙島昭光が豊臣勢を率い、(和泉国)、住吉(摂津国)等を放火する。住吉社(摂津国)は火災を免れる。
出典:『駿府記』同年月日・29日条

慶長20年 1615年 4月29日 56歳
浅野長晟が信達(和泉国)にて大野治長の家老・北村善大夫、大野弥五左衛門等30名ほどを捕縛する。
巳刻(9-11時)、柏野(和泉国)にて、大野治房・大野道犬・郡宗保・槙島昭光・塙直之・岡野大学が率いる豊臣勢3000が浅野長晟の陣取る信達(和泉国)に攻め寄せる。浅野勢は浅野忠知を先陣に応戦する。戦いは卯刻(5-7時)より午刻(11-13時)まで戦い、長晟が勝利する。浅野勢の上田宗箇亀田高俊、田胡助左衛門、浅野良重が豊臣勢を追撃し、直之、芦田作内、米田監物、横井治右衛門、山内権三郎等が戦死する。徳川家康は長晟の戦功を賞し感状を発給する。松平正久、秋元泰勝、後藤光次が家康の意を奉じる。
出典:元和3年10月14日付松浦俊重泉州樫井表戦争覚書(『浅野家文書』126号)、元和3年10月13日付金丸信盛泉州樫井戦争覚書(『浅野家文書』127号)、慶長20年4月30日付秋元泰朝他2名連署状(『浅野家文書』128号)、『駿府記』同年月日・30日条

慶長20年 1615年 5月1日 56歳
徳川家康が諸大名に対面し、5月3日に出陣することを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月3日 56歳
徳川家康徳川秀忠大坂城(摂津国)への出陣が予定されていたが5月5日に延引となる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月5日 56歳
巳刻(9-11時)、徳川家康二条城(山城国)より出陣する。
二条城留守居衆:松平定勝青木信安
家康が淀(山城国)にて細川忠興に会う。申刻(15-17時)、枚方・星田(河内国)に陣取り、宿泊する。
徳川秀忠伏見城(山城国)より出陣し、申刻(15-17時)、砂・星田(河内国)に陣取る。秀忠は家康と対面し徳川方諸勢の陣所について協議する。本多正信藤堂高虎土井利勝安藤重信がその協議に参加する。
小笠原秀政が久宝寺村(河内国)に陣取る。
井伊直孝が松原(河内国)に陣取る。
藤堂高虎勢が千塚に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第54「松平定勝」の項、同161「青木信安」の項、同188「小笠原秀政」の項

慶長20年 1615年 5月6日 56歳
八尾(河内国)にて藤堂高虎長宗我部盛親が戦う。
藤堂勢:藤堂高虎、藤堂新七郎[藤堂高虎勢](戦死)・藤堂高刑[藤堂高虎勢](戦死)・桑名吉成[藤堂高虎勢](戦死)。
長宗我部勢:長宗我部盛親。
巳刻(9-11時)、若江(河内国)にて井伊直孝木村重成・山口左馬允が戦い、直孝が勝利する。
徳川勢:井伊直孝、川手良列[井伊直孝勢](戦死)、庵原朝昌[井伊直孝勢]、福留政親[井伊直孝勢]。
豊臣勢:木村重成(戦死)、山口左馬允、内藤政勝(戦死)。
岩田にて榊原康勝と木村宗明が戦い、康勝が勝利する。
徳川勢:榊原康勝。
豊臣勢:木村宗明。
道明寺(河内国)にて水野勝成・松平忠明伊達政宗の徳川勢と後藤基次薄田兼相渡辺糺の豊臣勢が戦い、徳川勢が勝利する。
徳川勢:水野勝成、松平忠明、伊達政宗。
豊臣勢:後藤基次(戦死)、薄田兼相(戦死)、渡辺糺。
合戦後、徳川家康徳川秀忠は枚岡(河内国)に陣取る。7日の大坂城(摂津国)総攻めにつき、先陣を本多忠朝と定める。
出典:『駿府記』同年月日条、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項、同153「内藤政勝」の項

慶長20年 1615年 5月7日 56歳
寅刻(3-5時)、徳川秀忠が枚岡(河内国)を発ち、岡山に陣取る。
卯刻(5-7時)、徳川家康が枚岡を発ち茶臼山に陣取る。
巳刻(9-11時)、天王寺口(摂津国)にて家康・秀忠父子と毛利勝永・真田信繁長宗我部盛親・仙石秀範・大野治房・大野道犬、槙島昭光・堀田盛重・真野助宗・伊東長実・中島氏種・野々村雅春・青木一重速水守久等が率いる豊臣勢が戦い、徳川勢が勝利する。
徳川家康・秀忠勢:松平忠直酒井忠世酒井家次本多忠朝(戦死)、小笠原秀政(重傷。この日、久宝寺村(河内国)にて死去)、小笠原忠脩(戦死)、黒田長政加藤嘉明松平正久渥美友重[松平忠直勢]、駒井昌保[松平正久勢]、保科正光、保科正貞、安藤彦四郎(戦死)、松平助十郎(戦死)、古田左近(戦死)、野一色頼母(戦死)、神保長三郎(戦死)、奥田三郎右衛門(戦死)、小倉吉次小倉吉正柳沢元吉丹羽秀重[丹羽長重勢](戦死)。
豊臣秀頼勢:真田信繁(戦死)、大谷吉治(戦死)、石川康勝(戦死)、細川興秋、渡辺糺[自害]。
未刻(13-15時)、家康は茶臼山に戻る。秀忠も同地に合流し、その後、岡山に戻る。
豊臣秀頼大坂城(摂津国)の天守閣に火をかける。
大野治長の家老・米村権右衛門が茶臼山の家康のもとを訪れ、本多正純後藤光次を介し、豊臣秀頼淀殿の助命を嘆願し、受け入れられる場合、治長は切腹することを申し出る。家康は秀忠に申し入れをするように伝え、権右衛門は岡山の秀忠のもとを訪れるが、秀忠に拘束され、光次が権右衛門の身柄を預かる。
花房正成が徳川家の使者として秀頼のもとに赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『鍋島勝茂譜考補』(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)、『綿考輯録』巻19、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井忠世」の項、同65「酒井家次」の項、同90「花房正成」の項、同153「内藤政勝」の項、同157「駒井昌保」の項、同188「小笠原秀政」の項、同巻第189「小笠原忠真」、同189「小笠原忠脩」の項、同250「保科正光」の項、同250「保科正貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同398「小倉吉正」の項

慶長20年 1615年 5月8日 56歳
豊臣秀頼大坂城サキ島の堀西方にある唐物倉にて淀殿大野治長速水守久等とともに残り、徳川家に和を乞うが、井伊直孝安藤重信が唐物倉に発砲したため、徳川家に和睦の意なしと受け止めた秀頼らは自刃する。淀殿、大蔵卿局、右京大夫局、二位局(助命される)、饗庭局、宮内卿局、清韓、速水守久、速水出来、津川左近、大野治長、大野治徳、毛利勝永、毛利勘解由、毛利長右衛門、堀対馬守、武田左吉、氏家道喜、伊藤武蔵、土肥勝五郎、高橋半三郎、高橋三十郎、埴原三十郎、寺尾少右衛門、小室茂兵衛、土肥庄五郎、片岡十右衛門、加藤弥平太、森島長意、竹田永翁、小室義兵衛、中方将監、中方半兵衛、真田幸昌が秀頼と共に自害する。秀頼勢の将の首実検が行われ、松平忠直が、真田信繁、御宿政友、大野道犬の首を持参する。
申刻(15-17時)、徳川家康が茶臼山(摂津国)の陣所を出て、戌刻(19-21時)、二条城に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『鍋島勝茂譜考補』(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)、『綿考輯録』巻19

元和1年 1615年 7月13日 56歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和2年 1616年 4月17日 57歳
徳川家康が死去する。
出典:-

元和5年 1619年 12月19日 
直江兼続が死去する。
出典:-

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