人 物 史

寺内素休 てらうち そきゅう
生 没 年?-?
出 身-幼 名-
別 称-
法 名-
戒 名-
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兄 弟 姉 妹-
配 偶 者-
寺内順世
官 位織部佑
役 職-
城 郭-
参 考 文 献○金龍静『一向一揆論』(吉川弘文館、2004年。第4章「越中一向一揆考」p166。初出は『富山県史』通史編中世「蓮如教団の発展と一向一揆の展開」(富山県、1984年))
○中野等「豊臣政権の関東・奥羽仕置(続編)」(『九州文化史研究所紀要』58号、2015年)
関 連 デ ー タ-
寺内素休 年表
- -年 -月-日 
寺内素休が生まれる。
出典:-

天正8年? 1580?年 6月9日 
大坂本願寺籠城を継続する教如が、越中・加賀の門徒衆の非協力の状況を糺すため寺内素休と井上善五郎を勝興寺に遣わす。
出典:6月9日付教如書状(『越中真宗史料』一 中世「勝興寺文書」)

天正8年? 1580?年 7月2日 
横田重恒等が、6月9日に勝興寺に遣わされた寺内素休・井上善五郎に、大坂本願寺籠城(「大坂拘様」)を続ける教如の無事と、越中下向後の二人が大坂へ越中の情勢について報告がないため不審に思っていること、松倉城(越中国)に在番している河田長親に大坂本願寺籠城が困難であるため支援を依頼するように命じる。
出典:7月2日付横田重恒他連署状(金龍静『一向一揆論』(吉川弘文館、2004年)史料編-62号 「慈明寺文書」)

天正11年 1583年 -月-日 
羽柴秀吉上杉景勝と同盟を結ぶべく誓詞に血判を捺す際、寺内素休が見届け人となる。
出典:(天正11年付)上杉家条書案(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2657号)

天正11年 1583年 4月20日 
寺内素休羽柴秀吉の側で賤ケ岳の合戦を見分する。
出典:(天正11年付)上杉家条書案(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2657号)

天正11年 1583年 6月26日 
この頃迄に羽柴秀吉の使者として寺内素休上杉景勝に賤ケ岳の合戦の詳細を伝える。
出典:(天正11年)6月28日付羽柴秀吉書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2800号「上杉家文書」)

天正11年 1583年 8月18日 
寺内素休が越中国在番の上杉家家臣である桐沢具繁・黒金景信・須田満親・千坂景親に、上杉景勝教如からの音信をとりなしてもらうよう依頼する。また彼等に、寺内素休が越中在国期にお世話になったことの礼を述べる。
出典:(天正11年)8月18日付素休書状写(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2831号「景勝公諸士来書」十九)

天正17年 1589年 7月1日 
石田三成が津川城(越後国)に籠り伊達政宗に抗する金上盛実に対し、上杉景勝より支援をすること、鉄砲100挺・鉛・煙硝・硫黄を越後国に回漕したこと等を寺内素休・徳子・潜斎をして伝える。
出典:7月1日付素休・徳子・潜斎連署状(『会津若松史8 史料編1』「会津旧事雑考」所収「越後蒲原郡津川町文書」)

天正17年 1589年 7月12日 
石田三成が津川城(越後国)に籠る金上盛実に対し、兵粮を上杉景勝のところに届けたので近く盛実のもとに届くこと、500石を送ったことを寺内素休・浄源・徳子をして伝える。
出典:7月12日付素休・浄源・徳子連署状(『会津若松史8 史料編1』「会津旧事雑考」所収「越後蒲原郡津川町文書」)

天正17年 1589年 7月26日 
石田三成が津川城(越後国)に籠る金上盛実に対し、摺上原の合戦で父・盛備が戦死したことを賞すとともに、伊達政宗に従わず蘆名義広豊臣秀吉に忠節を尽していることを賞す。また、上杉景勝が支援するので頼るようにと伝えるとともに、豊臣家から兵粮・鉄砲・玉薬を送ったことを伝える。使者は寺内素休
出典:7月26日付石田三成書状写(『会津若松史8 史料編1』「会津旧事雑考」所収「越後蒲原郡津川町文書」)

- -年 -月-日 
寺内素休が死去する。
出典:-

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