城 郭 史

春日山城(越後国) かすがやまじょう
築 城 年-
築 城 者-
改 築 年-
改 築 者-
廃 城 年-
別 称-
現 所 在 地〒943-0802
新潟県上越市中屋敷他
史 料 地 名-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
リ ン ク長尾為景、長尾晴景、上杉謙信上杉景勝
春日山城(越後国) 年表
享禄3年 1530年 1月21日 
上杉謙信が生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 11月27日 
上杉景勝が生まれる。
出典:-

永禄4年 1561年 閏3月16日 
長尾景虎が山内上杉家の家督と関東管領職を相続する。名を上杉政虎に改める。
出典:-

永禄4年 1561年 9月10日 
川中島(信濃国)にて武田信玄上杉政虎が戦う。武田勢:武田信繁(戦死)、室住虎光(戦死)、山本晴幸(戦死)、初鹿野忠次(戦死)、油川信吉[戦死]、田沢正俊(戦死)、山高親之(信繁の首級奪還)。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第147「油川信吉」、同巻第150「田沢正俊」の項、同巻第160「山高親之」の項

永禄4年 1561年 12月-日 
上杉政虎足利義輝の偏諱を受け、輝虎と名を改める。
出典:-

元亀1年 1570年 4月25日 
北条三郎と清円院(長尾政景の娘)の婚儀が執り行われる。謙信は三郎に上杉景虎の名を与え、養子とする。
出典:(元亀1年)5月12日付北条氏康書状(『上杉家文書』巻1-609号)

元亀1年 1570年 12月-日 
上杉輝虎が不識庵謙信と称すようになる。
出典:-

天正3年 1575年 4月24日 
上杉謙信北条氏政の退治を祈願する願文を宝前に捧げる。
出典:天正3年4月24日付上杉謙信願文(「上杉家文書」『上越市史』資料編3-894号)

天正6年 1578年 3月13日 
上杉謙信が虫気により死去する。
出典:『薬師堂墨書』・『高野山過去帳』(『上越市史』資料編3)、(天正6年)3月24日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1477号)

天正6年 1578年 3月-日 
上杉景勝が養父・謙信の遺言と称し、春日山城(越後国)に入城する。
出典:(天正6年)3月24日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1477・1478・1479号)

天正6年 1578年 3月24日 
上杉景勝が石黒成綱・小島職鎮・神保氏張に、養父・謙信が3月13日に死去したこと、謙信遺言により景勝が春日山城(越後国)に入城したこと、成綱等とは今後も懇意としたいことを伝える。
出典:(天正6年)3月24日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1477・1478・1479号)

天正6年 1578年 6月11日 
上杉景勝が、上杉景虎の籠る御館に攻め入り、大場・居多ヶ浜にて景勝と景虎が戦う。景虎方の上杉景信が戦死する。
出典:(天正6年)6月12日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1542号)

天正6年 1578年 6月12日 
上杉景勝が、上杉景虎の籠る御館に攻め入り、直嶺にて景勝と景虎が戦う。
出典:(天正6年)6月12日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1542号)

天正6年 1578年 6月12日 
武田信豊が上杉景勝武田勝頼の海津(信濃国)着陣を伝える。
出典:(天正6年)6月24日付武田勝頼書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1559・1560号)

天正6年 1578年 7月27日 
大場口にて上杉景勝上杉景虎が戦う。
出典:(天正6年)7月28日付上杉景勝感状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1590・1591号)

天正6年 1578年 8月19日 
武田勝頼上杉景勝に対し表裏無き旨を記した起請文を作成する。
出典:(天正6年)8月19日付武田勝頼起請文(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1612号)

天正6年 1578年 9月28日 
大場口にて上杉景勝上杉景虎が戦う。景勝方として新発田重家・河田軍兵衛が景虎勢に攻め入る。
出典:(天正6年)9月28日付上杉景勝感状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1685号)

天正6年 1578年 10月24日 
上杉景勝が御館に軍勢を遣わし上杉景虎と戦う。
出典:(天正6年)10月24日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1707号)

天正7年 1579年 1月16日 
上杉景勝上杉景虎方の高津(越後国)を攻め落とし、軍勢を入れ置く。
出典:(天正7年)2月3日付新発田長敦等三名連署状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1753号)

天正7年 1579年 2月1日 
上杉景勝が御館に軍勢を遣わし上杉景虎方の北条景広の陣所に攻め入る。
出典:(天正7年)2月3日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1751号)

天正7年 1579年 2月2日 
上杉景勝が御館に軍勢を遣わし上杉景虎と戦う。景勝は御館の外構を焼き払う。
出典:(天正7年)2月3日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1751号)

天正7年 1579年 3月17日 
上杉景勝上杉景虎が籠っていた御館を攻め、落とす。景虎は鮫尾城(越後国)に逃れる。
出典:(天正7年)3月19日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1796号)、(天正7年)3月24日付上杉景虎書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1800号)

天正7年 1579年 3月24日 
上杉景勝上杉景虎の籠る鮫尾城(越後国)を攻める。景虎は切腹する。
出典:(天正7年)3月24日付上杉景虎書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1800号)

天正9年 1581年 6月-日 
この頃、新発田重家が上杉景勝に叛旗を翻す。
出典:(天正9年)6月12日付織田信長朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』2145号)

天正10年 1582年 8月9日 
上杉景勝春日山城(越後国)を出立する。
出典:(天正10年)8月18日付上杉景勝書状写(『元禄四年米沢藩御書集18』(上越市史中世史部会『上越市史叢書7 上杉家御書集成二』2002年)

天正11年 1583年 4月24日 
柴田勝家北之庄城(越前国)にて自害する。
出典:-

天正14年 1586年 6月14日 
上杉景勝羽柴秀吉に出仕する。拍子を見物。千利休が景勝を茶湯でもてなす。大坂城(摂津国)の天守閣、寝所、詰座敷を見物する。
出典:天正十四年上洛日記(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』3106号)

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