人 物 史

武田光和 たけだ みつかず
生 没 年文亀3年(1503)-天文9年(1540)6/9
出 身-幼 名-
別 称太郎、光貞
法 名-
戒 名-
武田元繁-
兄 弟 姉 妹武田光和
配 偶 者-
武田小太郎、武田小次郎、武田宗慶
官 位刑部少輔、安芸守
役 職-
城 郭佐東銀山城(安芸国)
参 考 文 献武田光和に関する参考文献
関 連 デ ー タ-
武田光和 年表
文亀3年 1503年 -月-日 1歳
武田光和が生まれる。
出典:-

永正1年 1504年 2月30日 2歳
「文亀」より「永正」に年号が改まる。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正14年 1517年 10月21日 15歳
父・元繁毛利元就の猿掛城を攻めるべく、熊谷元直、山中、一条、板垣、小河内、粟屋の軍勢1000を遣わし、同城近辺を放火する。元就が猿掛城を出て熊谷等の武田勢と戦い、武田勢を退ける。
出典:『陰徳太平記』巻3「猿掛麓合戦之事」

永正14年 1517年 10月22日 15歳
有田(安芸国)にて父・元繁毛利元就が戦い、元繁が戦死し、元就が勝利する。武田方は、熊谷元直が戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻3「有田合戦付元繁戦死之事」

大永1年 1521年 8月23日 19歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
出典:-

大永4年 1524年 5月20日 22歳
大内義興義隆父子が山口(周防国)を発ち、安芸国に攻め入る。義隆は陶興房とともに武田光和の居城・佐東銀山城(安芸国)を攻め、義興は草津・二保を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻5「大内勢取囲銀山桜尾ノ両城付次休蔵主ノ事」

大永4年 1524年 6月26日 22歳
大内義隆が陶興房、杉伯耆守、杉勘解由、杉豊後守、問田掃部助、問田紀伊守とともに武田光和の籠る佐東銀山城(安芸国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻5「大内勢取囲銀山桜尾ノ両城付次休蔵主ノ事」

大永4年 1524年 6月27日 22歳
大内義隆が陶興房、杉伯耆守、杉勘解由、杉豊後守、問田掃部助、問田紀伊守とともに武田光和の籠る佐東銀山城(安芸国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻5「大内勢取囲銀山桜尾ノ両城付次休蔵主ノ事」

大永4年 1524年 7月8日 22歳
尼子経久大内義興義隆父子の攻撃を受けている武田光和の籠る佐東銀山城(安芸国)を救援すべく、亀井安綱・牛尾幸清・馬田駿河守・浅山主殿助・広田助兵衛の軍勢5000遣わすとともに、毛利元就・吉川国経・宍戸・平賀隆宗・三吉・小早川等の軍勢4000とともに佐東銀山城を攻める大内勢に対峙する。
出典:『陰徳太平記』巻5「尼子勢銀山後詰付合戦之事」

大永4年 1524年 7月10日 22歳
亀井安綱・牛尾幸清・馬田駿河守・浅山主殿助・広田助兵衛の軍勢5000を先陣、平賀隆宗・宮・三吉・宍戸勢の2200を二陣、毛利元就・吉川国経・小早川・熊谷・香川・三須勢の1700を三陣とし、佐東銀山城(安芸国)を包囲する大内義隆勢を攻める。大内勢は陶安房守・問田掃部助・青景越後守の軍勢3000を先陣として、杉豊後守の軍勢1000、杉伯耆守・杉民部大輔・仁保・豊田等の軍勢5000、弘中三河守・狩野入道・冷泉判官・千寿・秋月・高橋等の軍勢5000、陶興房・深野・宮川・野上・江良の軍勢3000が応戦する。
出典:『陰徳太平記』巻5「尼子勢銀山後詰付合戦之事」

大永4年 1524年 8月5日 22歳
山内直通、宮下野守、杉原宮内少輔、三吉入道、吉川国経、毛利元就熊谷信直、香川美作守、香川式部少輔、三須筑前守等が、佐東銀山城(安芸国)を包囲する陶興房に夜襲をかけるが、興房が追い払う。
出典:『陰徳太平記』巻5「毛利元就夜討之事」

享禄1年 1528年 8月20日 26歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 30歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文2年 1533年 8月10日 31歳
武田光和熊谷信直を討つため、佐東銀山城(安芸国)より出陣し、伴五郎、香川光景、己斐直之、山県筑後守、飯田義武、山田重任、遠藤利之、福島義茂、温佳家行、久村繁安の軍勢1000と、武田家譜代衆の粟屋兵庫助、小河内大膳亮、小河内左京亮、板垣、青木、一条の軍勢800で信直の居城・三入高松城(安芸国)を攻める。横川(安芸国)にて信直は軍勢300をもって応戦し、武田勢を退ける。
出典:『陰徳太平記』巻8「芸州横川合戦ノ事」

天文9年 1540年 6月9日 38歳
武田光和が死去する。
出典:-

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