人 物 史

尼子経久 あまご つねひさ
生 没 年長禄2年(1458)11/20-天文10年(1541)11/13
出 身-幼 名-
別 称又四郎
法 名-
戒 名-
尼子清定真木朝親の娘
兄 弟 姉 妹尼子経久、尼子源四郎、尼子久幸
配 偶 者吉川経基の娘
尼子政久尼子国久塩冶興久
官 位伊予守、民部少輔
役 職出雲国守護代
城 郭月山富田城(出雲国)
参 考 文 献尼子経久に関する参考文献
関 連 デ ー タ尼子経久の関連文化財
尼子経久の家臣
尼子経久 年表
長禄2年 1458年 11月20日 1歳
尼子経久が生まれる。
出典:-

寛正1年 1460年 12月21日 3歳
「長禄」より「寛正」に年号が改まる。
出典:-

文正1年 1466年 2月28日 9歳
「寛正」より「文正」に年号が改まる。
出典:-

応仁1年 1467年 3月5日 10歳
「文正」より「応仁」に年号が改まる。
出典:-

文明1年 1469年 4月28日 12歳
「応仁」より「文明」に年号が改まる。
出典:-

文明18年 1486年 1月1日 29歳
尼子経久が塩冶掃部助の月山富田城(出雲国)を夜襲し、掃部助を討ち取って同城を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻2「尼子経久立身之事」

長享1年 1487年 7月20日 30歳
「文明」より「長享」に年号が改まる。
出典:-

延徳1年 1489年 8月21日 32歳
「長享」より「延徳」に年号が改まる。
出典:-

明応1年 1492年 7月19日 35歳
「延徳」より「明応」に年号が改まる。
出典:-

明応1年 1492年 -月-日 35歳
子・国久が生まれる。
出典:-

明応2年 1493年 -月-日 36歳
子・政久が生まれる。
*『陰徳太平記』巻4「尼子伊予守経久攻雲州阿与ノ城事」に政久の死去について記されているが、そこに享年26歳とあるため逆算してこの年を政久の生年とした。
出典:『陰徳太平記』巻4「尼子伊予守経久攻雲州阿与ノ城事」

明応6年 1497年 -月-日 40歳
子・塩冶興久が生まれる。
出典:-

文亀1年 1501年 2月29日 44歳
「明応」より「文亀」に年号が改まる。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正1年 1504年 2月30日 47歳
「文亀」より「永正」に年号が改まる。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正7年 1510年 -月-日 53歳
孫・誠久が生まれる。
出典:-

永正11年 1514年 2月12日 57歳
孫・晴久が生まれる。
出典:-

永正15年 1518年 8月-日 61歳
尼子経久が阿与城(出雲国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻4「尼子伊予守経久攻雲州阿与ノ城事」

永正15年 1518年 9月6日 61歳
阿与城(出雲国)を包囲中、子・政久が阿与宗的に射殺される。
出典:『陰徳太平記』巻4「尼子伊予守経久攻雲州阿与ノ城事」

永正15年 1518年 9月7日 61歳
尼子経久が阿与宗的の籠る阿与城(出雲国)を総攻めし、宗的を討ち取り、同城を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻4「尼子伊予守経久攻雲州阿与ノ城事」

大永1年 1521年 8月23日 64歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
出典:-

大永3年 1523年 6月13日 66歳
尼子経久の命により毛利元就・吉川元経が蔵田信房の籠る鏡山城(安芸国)を攻めさせる。検使は亀井安綱。
出典:『陰徳太平記』巻4「丹比元就被囲青屋ノ城事」、『老翁物語』

大永3年 1523年 6月27日 66歳
尼子経久毛利元就・吉川元経が大内家家臣・蔵田信房が在番する鏡山城(安芸国)を攻める。元就は経久許可のもと、城主・信房に対し、信房が切腹すれば妻子を助命すると述べ、信房は元就の提案を受け入れ切腹する。
出典:『陰徳太平記』巻4「丹比元就被囲青屋ノ城事」

大永3年 1523年 6月28日 66歳
鏡山城(安芸国)が開城する。
出典:『陰徳太平記』巻4「丹比元就被囲青屋ノ城事」

大永3年 1523年 7月5日 66歳
尼子経久が出雲国に帰国すべく、西条(安芸国)を発つ。
出典:『陰徳太平記』巻4「丹比元就被囲青屋ノ城事」

大永3年 1523年 7月14日 66歳
尼子経久が鏡山城(安芸国)に参戦した平賀弘保に久芳(安芸国)400貫、寺町(安芸国)で216貫150文の地を給付する。
出典:(大永3年)7月14日付尼子経久書状(『平賀家文書』61号)

大永3年 1523年 8月28日 66歳
毛利元就が毛利家家督として吉田郡山城(安芸国)に入城する。福原貞俊、桂広澄、志道広好、口羽、児玉、赤川が元就の入城に供奉する。
出典:『陰徳太平記』巻5「元就毛利家督之事」

大永4年 1524年 5月20日 67歳
大内義興義隆父子が山口(周防国)を発ち、安芸国に攻め入る。義隆は陶興房とともに武田光和の居城・佐東銀山城(安芸国)を攻め、義興は草津・二保を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻5「大内勢取囲銀山桜尾ノ両城付次休蔵主ノ事」

大永4年 1524年 6月26日 67歳
大内義隆が陶興房、杉伯耆守、杉勘解由、杉豊後守、問田掃部助、問田紀伊守とともに武田光和の籠る佐東銀山城(安芸国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻5「大内勢取囲銀山桜尾ノ両城付次休蔵主ノ事」

大永4年 1524年 6月27日 67歳
大内義隆が陶興房、杉伯耆守、杉勘解由、杉豊後守、問田掃部助、問田紀伊守とともに武田光和の籠る佐東銀山城(安芸国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻5「大内勢取囲銀山桜尾ノ両城付次休蔵主ノ事」

大永4年 1524年 7月8日 67歳
尼子経久大内義興義隆父子の攻撃を受けている武田光和の籠る佐東銀山城(安芸国)を救援すべく、亀井安綱・牛尾幸清・馬田駿河守・浅山主殿助・広田助兵衛の軍勢5000遣わすとともに、毛利元就・吉川国経・宍戸・平賀隆宗・三吉・小早川等の軍勢4000とともに佐東銀山城を攻める大内勢に対峙する。
出典:『陰徳太平記』巻5「尼子勢銀山後詰付合戦之事」

大永4年 1524年 7月10日 67歳
亀井安綱・牛尾幸清・馬田駿河守・浅山主殿助・広田助兵衛の軍勢5000を先陣、平賀隆宗・宮・三吉・宍戸勢の2200を二陣、毛利元就・吉川国経・小早川・熊谷・香川・三須勢の1700を三陣とし、佐東銀山城(安芸国)を包囲する大内義隆勢を攻める。大内勢は陶安房守・問田掃部助・青景越後守の軍勢3000を先陣として、杉豊後守の軍勢1000、杉伯耆守・杉民部大輔・仁保・豊田等の軍勢5000、弘中三河守・狩野入道・冷泉判官・千寿・秋月・高橋等の軍勢5000、陶興房・深野・宮川・野上・江良の軍勢3000が応戦する。
出典:『陰徳太平記』巻5「尼子勢銀山後詰付合戦之事」

大永4年 1524年 8月5日 67歳
山内直通、宮下野守、杉原宮内少輔、三吉入道、吉川国経、毛利元就熊谷信直、香川美作守、香川式部少輔、三須筑前守等が、佐東銀山城(安芸国)を包囲する陶興房に夜襲をかけるが、興房が追い払う。
出典:『陰徳太平記』巻5「毛利元就夜討之事」

大永6年 1526年 3月-日 69歳
大内義興が石見国に出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻6「大内義興石州発向付大内尼子合戦之事」

大永6年 1526年 12月5日 69歳
三隅兼隆が大内義興に降伏する。
出典:『陰徳太平記』巻6「大内義興石州発向付大内尼子合戦之事」

享禄1年 1528年 8月20日 71歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

享禄1年 1528年 12月20日 71歳
大内義興が死去する。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 75歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文1年 1532年 8月8日 75歳
尼子経久塩冶興久方の佐陀城(出雲国)を攻める。尼子国久が城攻めに加わる。
出典:『陰徳太平記』巻7「雲州佐陀ノ城没落ノ事」

天文3年 1534年 8月10日 77歳
子・塩冶興久が死去する。
出典:-

天文5年 1536年 12月17日 79歳
本願寺証如尼子経久にはじめて音信として太刀・馬代・織物1端・織色2端を贈る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 7月21日 81歳
京都にて尼子詮久の播磨侵攻により赤松晴政が高砂(播磨国)に没落したとの噂が流れる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文9年 1540年 8月10日 83歳
尼子詮久吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を攻めるべく、月山富田城(出雲国)を出陣する。一門衆として尼子久幸、尼子経貞、尼子国久尼子誠久尼子豊久尼子敬久が、国衆として小鴨氏、庄氏、三村氏、石川氏、細川氏、伊勢氏、山内氏、高野山氏、木梨氏、池上氏、三吉氏、宮氏、杉原氏、三沢為幸、三刀屋久祐、浅山、宍道、佐波隆連、本城常光、羽根氏、福屋隆兼、岡本正長、小笠原長徳、周布氏、祖式氏、吉川興経武田信実、尼子家家臣として亀井安綱、佐世清宗、河本隆任、牛尾幸清、湯原宗綱、川副常重、川副久盛、宇山久信、秋上綱平、中井久包、中井平蔵兵衛、高尾久友、黒正久澄、立原久光、三刀屋蔵人、森脇勝正、森脇清平、横道清高、多胡辰敬、古志吉信、熊野久家、熊野次郎、米原広綱、湯惟宗、湯家経、馬田慶信、山中氏、神西氏、広田氏、桜井氏、原氏、吉岡氏、疋田氏、遠藤氏、池田氏、相良氏、大西氏、本田氏、平野氏、津森氏、松田氏等が出陣する。総勢48000とされる。
出典:『陰徳太平記』巻10「尼子晴久吉田発向之事」

天文9年 1540年 9月4日 83歳
尼子詮久が多治比に陣取る。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 9月5日 83歳
尼子詮久が吉田上村(安芸国)に出勢し、家を放火する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 9月6日 83歳
尼子詮久毛利元就の居城・吉田郡山城(安芸国)の太郎丸および町屋等を放火する。
太郎丸にて尼子勢の川副常重、黒正兵衛、湯信濃守、広田宗意、桜井左衛門尉、馬田長兵衛、黒田采女等の軍勢4500と毛利勢の福原貞俊桂元澄、児玉就忠、粟屋元信、口羽通良、国司元相、坂新五郎左衛門、渡辺通、内藤、三戸、佐藤、飯田、麻原、桜井が戦い、毛利勢が勝利する。
坂にて尼子勢の湯原宗綱と毛利勢の援軍としてやってきた梨羽景盛・赤川左京亮、南方宮内少輔、秋山隼人、羽二藤兵衛、中村豊後守、波多野源兵衛、井上源五郎、井上源三郎、井上右衛門太夫、井上与三右衛門、山県弥三郎が戦い、弥三郎が宗綱を討ち取る。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」、『陰徳太平記』巻10「太郎丸並池内合戦付湯原弥次郎討死之事」

天文9年 1540年 9月12日 83歳
尼子詮久毛利元就の居城・吉田郡山城(安芸国)の大田口・広修寺縄手口・祇園縄手口を攻める。元就は応戦する。大田口にで大合戦が行われる。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」

天文9年 1540年 9月23日 83歳
尼子詮久が青山三塚山に陣替えする。毛利元就は尼子本陣の風越山を急襲する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 9月26日 83歳
尼子詮久が坂に陣取っていた杉元相・小早川興景を攻める。毛利元就は坂に赴き、尼子勢と闘う。尼子方の湯原宗綱が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 10月11日 83歳
尼子詮久が郷内にいつものごとく軍勢を遣わしたところ、毛利元就が出撃し、尼子勢を青山構まで追い払う。尼子方の三沢為幸が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 12月3日 83歳
陶隆房尼子詮久の攻撃を受けている吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を救援すべく、軍勢10000をもって山田中山に陣取る。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文9年 1540年 12月11日 83歳
宮崎・長尾(安芸国)にて尼子詮久方の南条・小鴨・吉川・高橋と毛利元就・宍戸勢が戦う。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 11月26日 83歳
尼子晴久の攻撃を受けている吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を救援するため、陶隆房を大将とする大内勢が山口(周防国)を出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文9年 1540年 -月-日 83歳
曾孫・義久が生まれる。
出典:-

天文10年 1541年 1月3日 84歳
尼子詮久吉田郡山城(安芸国)を攻める。相合口にて尼子勢と毛利元就が戦う。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文10年 1541年 1月11日 84歳
陶隆房が天神山に陣替えする。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」、『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文10年 1541年 1月13日 84歳
吉田郡山城(安芸国)に籠る毛利元就が、城攻めのため宮崎・長尾(安芸国)に陣を張る尼子詮久を攻める。元就の攻撃に、陶隆房も呼応し、詮久は敗れて出雲国に撤退する。この戦いで、隆房被官の深野興房・宮川興広が、尼子方は尼子久幸・三沢為幸・高尾豊前守が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」

天文10年 1541年 11月13日 84歳
尼子経久が死去する。
出典:-

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