人 物 史

大内義興 おおうち よしおき
生 没 年文明9年(1477)2/15-享禄1年(1528)12/20
出 身周防国幼 名亀童丸
別 称六郎
法 名-
戒 名凌雲寺殿傑叟義秀
大内政弘-
兄 弟 姉 妹大内義興、大内高弘、娘(大友義右の妻)、梵良彦明、娘、娘(吉見隆頼の妻)
配 偶 者内藤弘矩の娘
大内義隆
官 位左京大夫
役 職周防国守護、長門国守護、石見国守護、筑前国守護、安芸国守護、豊前国守護、山城国守護、管領代
城 郭-
参 考 文 献大内義興に関する参考文献
関 連 デ ー タ大内義興の関連文化財
大内義興の家臣
大内義興 年表
文明9年 1477年 2月15日 1歳
大内義興が生まれる。
出典:-

長享1年 1487年 7月20日 11歳
「文明」より「長享」に年号が改まる。
出典:-

延徳1年 1489年 8月21日 13歳
「長享」より「延徳」に年号が改まる。
出典:-

明応1年 1492年 7月19日 16歳
「延徳」より「明応」に年号が改まる。
出典:-

明応2年 1493年 4月22日 17歳
細川政元香厳院清晃を将軍に擁立する。
出典:『言国卿記』同年月日条

明応3年 1494年 12月27日 18歳
足利義澄が元服する。義澄が征夷大将軍となる。
出典:『厳助往年記』同年月日条

明応4年 1495年 9月18日 19歳
父・政弘が死去する。
出典:-

明応5年 1496年 6月1日 20歳
大内義興が上洛のため12日に周防国を発つと奈良(大和国)で噂される。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

文亀1年 1501年 2月29日 25歳
「明応」より「文亀」に年号が改まる。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正1年 1504年 2月30日 28歳
「文亀」より「永正」に年号が改まる。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正4年 1507年 11月15日 31歳
子・義隆が生まれる。
出典:-

永正5年 1508年 4月15日 32歳
夜、足利義澄が近江国に逃亡する。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正5年 1508年 5月1日 32歳
大内義興清水寺に大内勢の乱暴狼藉を禁じる禁制を発給する。
出典:永正5年4月1日付細川高国禁制(「成就院文書」)

永正5年 1508年 6月8日 32歳
足利義尹が上洛し吉良邸に入る。大内義興が供をする。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正5年 1508年 7月1日 32歳
足利義尹が正三位となり、征夷大将軍に再任される。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正8年 1511年 8月16日 35歳
足利義尹、細川高国大内義興が丹波国に逃れる。
出典:『厳助大僧正記』同年月条

永正8年 1511年 8月24日 35歳
船岡山(山城国)にて細川澄元大内義興が戦い、義興が勝利する。
出典:『厳助大僧正記』同年月条

永正8年 1511年 9月1日 35歳
足利義尹が上洛する。
出典:『厳助往年記』同年月条

永正10年 1513年 5月1日 37歳
足利義尹が甲賀(近江国)を発ち、園城寺に入る。
出典:『厳助往年記』同年月条

永正10年 1513年 5月-日 37歳
将軍 足利義稙を細川高国大内義興、畠山尚順、畠山義元が京都に迎える。
出典:『厳助大僧正記』同年5月1日条

永正15年 1518年 8月-日 42歳
大内義興が周防国に帰るべくを発つ。
出典:『厳助大僧正記』同年月条

大永1年 1521年 8月23日 45歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
出典:-

大永2年 1522年 8月20日 46歳
大内義興が、8月16日の壬生城(安芸国)攻めで首4つをあげた毛利元就の戦功を称える感状を発給する。
出典:同年月日付大内義興感状(『毛利家文書』1-209号)

大永3年 1523年 6月13日 47歳
尼子経久の命により毛利元就・吉川元経が蔵田信房の籠る鏡山城(安芸国)を攻めさせる。検使は亀井安綱。
出典:『陰徳太平記』巻4「丹比元就被囲青屋ノ城事」、『老翁物語』

大永3年 1523年 6月27日 47歳
尼子経久毛利元就・吉川元経が大内家家臣・蔵田信房が在番する鏡山城(安芸国)を攻める。元就は経久許可のもと、城主・信房に対し、信房が切腹すれば妻子を助命すると述べ、信房は元就の提案を受け入れ切腹する。
出典:『陰徳太平記』巻4「丹比元就被囲青屋ノ城事」

大永3年 1523年 6月28日 47歳
鏡山城(安芸国)が開城する。
出典:『陰徳太平記』巻4「丹比元就被囲青屋ノ城事」

大永3年 1523年 7月5日 47歳
尼子経久が出雲国に帰国すべく、西条(安芸国)を発つ。
出典:『陰徳太平記』巻4「丹比元就被囲青屋ノ城事」

大永3年 1523年 8月28日 47歳
毛利元就が毛利家家督として吉田郡山城(安芸国)に入城する。福原貞俊、桂広澄、志道広好、口羽、児玉、赤川が元就の入城に供奉する。
出典:『陰徳太平記』巻5「元就毛利家督之事」

大永4年 1524年 5月20日 48歳
大内義興義隆父子が山口(周防国)を発ち、安芸国に攻め入る。義隆は陶興房とともに武田光和の居城・佐東銀山城(安芸国)を攻め、義興は草津・二保を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻5「大内勢取囲銀山桜尾ノ両城付次休蔵主ノ事」

大永4年 1524年 6月26日 48歳
大内義隆が陶興房、杉伯耆守、杉勘解由、杉豊後守、問田掃部助、問田紀伊守とともに武田光和の籠る佐東銀山城(安芸国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻5「大内勢取囲銀山桜尾ノ両城付次休蔵主ノ事」

大永4年 1524年 6月27日 48歳
大内義隆が陶興房、杉伯耆守、杉勘解由、杉豊後守、問田掃部助、問田紀伊守とともに武田光和の籠る佐東銀山城(安芸国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻5「大内勢取囲銀山桜尾ノ両城付次休蔵主ノ事」

大永4年 1524年 7月8日 48歳
尼子経久大内義興義隆父子の攻撃を受けている武田光和の籠る佐東銀山城(安芸国)を救援すべく、亀井安綱・牛尾幸清・馬田駿河守・浅山主殿助・広田助兵衛の軍勢5000遣わすとともに、毛利元就・吉川国経・宍戸・平賀隆宗・三吉・小早川等の軍勢4000とともに佐東銀山城を攻める大内勢に対峙する。
出典:『陰徳太平記』巻5「尼子勢銀山後詰付合戦之事」

大永4年 1524年 7月10日 48歳
亀井安綱・牛尾幸清・馬田駿河守・浅山主殿助・広田助兵衛の軍勢5000を先陣、平賀隆宗・宮・三吉・宍戸勢の2200を二陣、毛利元就・吉川国経・小早川・熊谷・香川・三須勢の1700を三陣とし、佐東銀山城(安芸国)を包囲する大内義隆勢を攻める。大内勢は陶安房守・問田掃部助・青景越後守の軍勢3000を先陣として、杉豊後守の軍勢1000、杉伯耆守・杉民部大輔・仁保・豊田等の軍勢5000、弘中三河守・狩野入道・冷泉判官・千寿・秋月・高橋等の軍勢5000、陶興房・深野・宮川・野上・江良の軍勢3000が応戦する。
出典:『陰徳太平記』巻5「尼子勢銀山後詰付合戦之事」

大永4年 1524年 8月5日 48歳
山内直通、宮下野守、杉原宮内少輔、三吉入道、吉川国経、毛利元就熊谷信直、香川美作守、香川式部少輔、三須筑前守等が、佐東銀山城(安芸国)を包囲する陶興房に夜襲をかけるが、興房が追い払う。
出典:『陰徳太平記』巻5「毛利元就夜討之事」

大永5年 1525年 3月-日 49歳
大内義興が筑前国に出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻5「大内勢敗軍付義興筑前ノ国発向之事」

大永6年 1526年 3月-日 50歳
大内義興が石見国に出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻6「大内義興石州発向付大内尼子合戦之事」

大永6年 1526年 12月5日 50歳
三隅兼隆が大内義興に降伏する。
出典:『陰徳太平記』巻6「大内義興石州発向付大内尼子合戦之事」

享禄1年 1528年 8月20日 52歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

享禄1年 1528年 12月20日 52歳
大内義興が死去する。
出典:-

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