人 物 史

毛利就隆 もうり なりたか
生 没 年慶長7年(1602)9/3-延宝7年(1679)8/8
出 身-幼 名百助
別 称三次郎
法 名-
戒 名発性院殿忽生本然大居士
毛利輝元周(清泰院、児玉元良の娘)
兄 弟 姉 妹毛利秀就、竹(吉川広正の妻)、毛利就隆
配 偶 者松菊子(毛利秀元の娘)、禅海院(中川重政の娘)、性雲院
毛利千代松丸、毛利岩松丸、毛利千寿丸、毛利元次、毛利元賢、娘(岡部高成の妻)、娘(葉室頼孝の妻)、娘(京極高冬の妻)、娘(酒井忠国の妻)、娘(井上政蔽の妻)
官 位日向守
役 職-
城 郭徳山城(周防国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ史料にみえる毛利就隆の呼称
毛利就隆 年表
慶長7年 1602年 9月3日 1歳
毛利就隆が生まれる。
出典:-

慶長8年 1603年 2月12日 2歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 4歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長16年 1611年 9月29日 10歳
毛利就隆駿府城(駿河国)に居る徳川家康に謁し、銀100枚を、福原広俊が鞢10具を献上する。
亀井茲矩が家康に謁し、銀100枚、鉄砲1挺を献上する。
伊達政宗が鮭10箇を家康に献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 9月29日 10歳
毛利三次郎が駿府城(駿河国)に居る徳川家康に謁し、銀100枚を、福原広俊が鞢10具を献上する。三次郎は江戸(武蔵国)に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日 14歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和2年 1616年 4月17日 15歳
徳川家康が死去する。
出典:-

寛永1年 1624年 2月30日 23歳
「元和」より「寛永」に年号が改まる。
出典:-

寛永2年 1625年 4月27日 24歳
父・輝元が死去する。
出典:-

寛永9年 1632年 1月24日 31歳
徳川秀忠が死去する。
出典:-

正保1年 1644年 12月16日 43歳
「寛永」より「正保」に年号が改まる。
出典:-

慶安1年 1648年 2月15日 47歳
「正保」より「慶安」に年号が改まる。
出典:-

承応1年 1652年 9月18日 51歳
「慶安」より「承応」に年号が改まる。
出典:-

明暦1年 1655年 4月13日 54歳
「承応」より「明暦」に年号が改まる。
出典:-

万治1年 1658年 7月23日 57歳
「明暦」より「万治」に年号が改まる。
出典:-

寛文1年 1661年 4月25日 60歳
「万治」より「寛文」に年号が改まる。
出典:-

延宝1年 1673年 9月21日 72歳
「寛文」より「延宝」に年号が改まる。
出典:-

延宝7年 1679年 8月8日 78歳
毛利就隆が死去する。
出典:-

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