人 物 史

池田輝政 いけだ てるまさ
生 没 年永禄7年(1564)12/19-慶長18年(1613)1/25
出 身尾張国清須幼 名古新
別 称新吉、三左衛門、照政
法 名-
戒 名国清院泰叟玄高大居士
池田恒興善応院(荒尾善次の娘)
兄 弟 姉 妹池田元助、せん、池田輝政池田長吉池田長政、若政所、女(浅野幸長の妻)、女(織田勝正の妻)
配 偶 者糸(中川清秀の娘)、督(徳川家康の娘)
池田利隆池田忠継池田忠雄池田輝澄池田政綱池田輝興、娘(京極高広の妻)、振(伊達忠宗の妻)、池田政虎、池田輝高、池田利政
官 位武蔵守、侍従、右近衛少将、参議
役 職-
城 郭尼崎城(摂津国)、池尻城(美濃国)、大垣城(美濃国)、岐阜城(美濃国)、吉田城(三河国)、姫路城(播磨国)
参 考 文 献池田輝政に関する参考文献
○『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項
関 連 デ ー タ池田輝政の関連文化財
池田輝政の家臣
史料にみえる池田輝政の呼称
池田輝政 年表
永禄7年 1564年 12月19日 1歳
池田輝政が尾張国清州城にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項、『有斐録』「元」

元亀1年 1570年 4月23日 7歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 -月-日 7歳
弟・長吉が尾張国犬山にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第267「池田長吉」の項

天正1年 1573年 7月28日 10歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 8月20日 10歳
朝倉景鏡の裏切りにより賢松寺(越前国)にて朝倉義景が自害する。義景の首が龍門寺(越前国)にいる織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月27日 10歳
羽柴秀吉小谷城(近江国)京極丸を攻略し、浅井久政長政父子を分断する。秀吉は小丸に籠る久政を攻め、久政は切腹する。久政の首は織田信長の居る虎御前山に届けられる。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月28日 10歳
織田信長小谷城(近江国)京極丸に入る。
浅井長政は小谷城にて自害する。
浅井久政・長政父子の首を京都に送る。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)、『豊鑑』巻1

天正1年 1573年 9月7日 10歳
織田信長池田古新に木田小太郎跡職を譲与することを認める。
出典:天正1年9月7日付織田信長朱印状(『池田文書』)

天正3年 1575年 -月-日 12歳
弟・長政が尾張国犬山にて生まれる。
出典:-

天正6年 1578年 10月21日 15歳
荒木村重織田信長に謀反をするのではと信長に伝わるが、信長は村重が謀叛をする理由がないとしつつも、確認のため松井友閑明智光秀万見重元を村重のもとに遣わす。村重は信長に謀叛をするつもりはないと返答するが、信長に対し謀叛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月10日 15歳
織田信長荒木村重に与同した高槻城(摂津国)の高山重友を攻めるため、自身は安満(摂津国)の山手に陣取る。滝川一益明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆氏家直昌安藤守就稲葉一鉄を芥川、糠塚、太田、漁師川に布陣させ、太田郷の北山に砦の普請を命じる。織田信忠北畠信雄織田信包神戸信孝不破直光前田利家佐々成政原長頼金森長近、日根野備中守、日根野弥治右衛門を天神の馬場に布陣させ、天神山砦の普請を命じる。信長は重友を降伏させるため、重友がキリシタンであることから、重友が降伏し信長に忠節を誓えばキリスト教の布教を認めるが、抗戦を続ければキリスト教を断絶させるとして宣教師に佐久間信盛羽柴秀吉松井友閑大津長昌を添えて説得させる。重友は宣教師の説得に応じ降伏する。
出典:(天正6年)11月11日付羽柴秀吉書状(『姫路市史 史料編1』「黒田家文書」4号)、『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正6年 1578年 11月24日 15歳
茨木城(摂津国)に籠る荒木村重方の中川清秀が、古田重然福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成の勧めにより、同城にいる石田伊予、渡辺勘大夫を追い出し、織田信長に降伏する。
清秀の降伏により、信長は本願寺顕如との和睦を取り止める。
出典:『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『立入左京亮入道隆佐記』、『当代記』巻2同年月日条

天正6年 1578年 12月8日 15歳
織田信長荒木村重の籠る有岡城(摂津国)を攻める。攻め衆は、堀秀政万見重元菅屋長頼が奉行をつとめ、筒井順慶、平井久右衛門、中野又兵衛、芝山次大夫等が参戦する。ただし、村重は織田勢を退け、織田勢は重元、水野忠分等2000余名の戦死者を出す。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻11 荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事、『家忠日記』同年月12日条

天正6年 1578年 12月11日 15歳
織田信長有岡城(摂津国)の抑えとして付城の築城を命じ、古池田(摂津国)に移る。
塚口郷の砦に丹羽長秀蜂屋頼隆蒲生氏郷高山重友神戸信孝を、毛馬村の砦に織田信包滝川一益北畠信雄・武藤舜秀を、倉橋郷の砦に池田恒興元助池田古新を、原田郷の砦に中川清秀古田重然を、刀根山の砦に稲葉良通氏家直昌安藤守就・芥川を、郡山の砦に津田信澄を、古池田の砦に塩川伯耆を、加茂の砦に織田信忠を、高槻城(摂津国)に大津長昌・牧村長兵衛・生駒市左衛門・生駒三吉・湯浅甚介・猪子高就・村井作右衛門・武田左吉を、茨木城(摂津国)に福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成を置く。
播磨国に、羽柴秀吉佐久間信盛明智光秀筒井順慶を三田城(摂津国)に遣わす。
出典:『信長公記』巻11 同年月日条

天正7年 1579年 4月29日 16歳
織田信長有岡城(摂津国)への備えとして、塚口郷に丹羽長秀蜂屋頼隆蒲生氏郷を、塚口郷の東の田中に福富秀勝・山岡景佐・山城衆を、毛馬村に細川藤孝忠興・興元父子を、川端砦に池田恒興元助池田輝政父子を、四角屋敷に氏家直昌を、河原砦に稲葉貞通・芥川を、賀茂岸に塩川伯耆・安藤守就・伊賀七郎を、池上に織田信忠勢を、昆陽古城に滝川一益・武藤舜秀を、深田に高山重友を、倉橋に池田元助を定番として置く。
出典:『信長公記』巻12(2)「伊丹諸々取巻きの事」

天正7年 1579年 9月2日 16歳
荒木村重が5、6名を召し連れ、有岡城(摂津国)から尼崎(摂津国)に逃亡する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月12日 16歳
織田信忠有岡城(摂津国)攻めの軍勢の半分を割き、荒木村重が逃亡した尼崎(摂津国)に攻め入る。七松(摂津国)に砦を2ヶ所築くよう命じ、塩川伯耆・高山重友中川清秀・山岡景佐に各砦の定番を命じる。その後、信忠は昆陽(摂津国)に帰陣する。
出典:『信長公記』巻12(7)「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」

天正7年 1579年 9月21日 16歳
織田信長荒木村重を攻めるべく、京都を発ち山崎(山城国)に移り、同地に宿泊する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月22日 16歳
荒木村重有岡城(摂津国)より脱出し、尼崎(摂津国)に移る。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 9月24日 16歳
織田信長荒木村重を攻めるべく、山崎(山城国)を発ち、古池田(摂津国)に着陣する。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 9月27日 16歳
織田信長有岡城(摂津国)を囲む諸砦を見舞う。昆陽(摂津国)に在陣中の滝川一益のもとに逗留の後、塚口(摂津国)に在陣中の丹羽長秀のもとに赴き休息をとった後、古池田(摂津国)に戻る。
出典:『信長公記』巻12(10)「北畠中将殿御折檻状の事」

天正7年 1579年 10月15日 16歳
早朝、荒木村重の籠る有岡城(摂津国)の城外のカワメ市場が焼ける。滝川一益が荒木家の足軽大将である星野・山脇・隠岐・宮脇を寝返らせ、織田勢を城中に引き入れる。
出典:『多聞院日記』同年月16日条、『信長公記』巻12(13)「伊丹城謀叛人の事」

天正7年 1579年 11月20日 16歳
荒木村重有岡城(摂津国)が開城し、織田信長に渡される。
出典:『多聞院日記』同年月22日条

天正8年 1580年 2月27日 17歳
織田信長山崎(山城国)に移る。信長は津田信澄、塩川伯耆、丹羽長秀に花隈城(摂津国)攻めるべく当地に赴き、砦を築いて池田恒興元助輝政父子を入れるように命じる。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 閏3月2日 17歳
花隈城(摂津国)に籠城中の荒木村重勢が同城攻めのため池田恒興元助輝政が在番していた砦に攻め入る。恒興は荒木勢を退ける。
出典:『信長公記』巻13(2)「無辺の事」

天正9年 1581年 -月-日 18歳
弟・長吉豊臣秀吉の養子となり、羽柴を称す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第267「池田長吉」の項

天正10年 1582年 2月9日 19歳
織田信長が信濃国出陣につき、筒井順慶を信濃国攻めに同伴すること、河内国衆は烏帽子山・高野山・雑賀衆に備えること、和泉国衆は紀伊国に遣わすこと、三好康長を四国に遣わすこと、摂津国は池田恒興が留守居としての残り、池田元助輝政兄弟、中川清秀は信濃国攻めに加わること、上山城衆は信濃国攻めに加わること、羽柴秀吉は中国地方の抑えとして残ること、細川藤孝忠興父子、一色五郎は丹後国に残ること、明智光秀は信濃国攻めに加わることを命じる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 3月5日 19歳
織田信長武田勝頼を攻めるべく、安土城(近江国)を出陣する。柏原(近江国)の成菩提院(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月8日 19歳
織田信長岐阜城(美濃国)より犬山城(尾張国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月9日 19歳
織田信長が金山(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月10日 19歳
織田信長が高野(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月11日 19歳
織田信長が岩村(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月13日 19歳
織田信長が岩村(美濃国)より根羽(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月14日 19歳
織田信長が平谷(信濃国)を経由し浪合(信濃国)に移る。当地にて武田勝頼・信勝父子の首を検分する。信長は両名の首を飯田(信濃国)に運ぶよう矢部家定に命じる。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月15日 19歳
織田信長が浪合(信濃国)より飯田(信濃国)に移る。当地にて武田勝頼・信勝父子の首を晒す。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月17日 19歳
織田信長が飯田(信濃国)より大嶋(信濃国)を経由して飯嶋(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(12)「武田典厩生害、下曽根忠節の事」

天正10年 1582年 3月18日 19歳
織田信長高遠城(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(13)「中国表羽柴筑前守働きの事」

天正10年 1582年 3月19日 19歳
織田信長津田信澄菅屋長頼矢部家定堀秀政長谷川秀一福富秀勝、氏家行継、竹中重矩、原長頼蒲生氏郷細川忠興池田元助蜂屋頼隆、阿閉貞征、不破直光高山重友中川清秀明智光秀丹羽長秀筒井順慶等が諏訪の法花寺(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(14)「人数備への事」

天正10年 1582年 3月24日 19歳
織田信長武田勝頼攻めに参陣した諸将に深志(信濃国)にて扶持米を与える。
出典:『信長公記』巻15(17)「諸卒に御扶持米下さるるの事」

天正10年 1582年 6月2日 19歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正11年 1583年 4月24日 20歳
柴田勝家北之庄城(越前国)にて自害する。
出典:-

天正11年 1583年 5月-日 20歳
池田恒興大坂城(摂津国)より大垣城(美濃国)に、池田元助伊丹城(摂津国)より岐阜城(美濃国)に、池田輝政尼崎城(摂津国)より池尻城(美濃国)に移る。
出典:『池田氏家譜集成』

天正12年 1584年 4月9日 21歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

天正12年 1584年 -月-日 21歳
子・利隆が美濃国岐阜にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田利隆」の項

天正13年 1585年 3月26日 22歳
羽柴秀吉が太田左近の籠る太田城(紀伊国)を水攻めにすることとし、朝から城廻りに柵および堤防の普請を始める。この城攻めに羽柴秀吉勢として参加する。
出典:『太田水責記』、『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

天正13年 1585年 4月1日 22歳
羽柴秀吉が太田左近の籠る太田城(紀伊国)を水攻めにすべく、宮井・小倉井より注水を開始する。
出典:『太田水責記』

天正13年 1585年 4月9日 22歳
羽柴秀吉が太田左近の籠る太田城(紀伊国)を水攻めにしている最中、酉刻(17-19時)、宇喜多秀家持ち場の堤防が切れる。
出典:『太田水責記』

天正13年 1585年 4月22日 22歳
蜂須賀正勝、前野長康が起請文をもって、水攻め中の太田城(紀伊国)に籠る太田左近と和睦する。和睦の条件は、羽柴勢が51名戦死したため、太田城側も左近をはじめ主要の者51名の切腹を条件とする。
羽柴秀吉が鉄砲筒・腰刀を徴発する(原刀狩令)。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 7月11日 22歳
羽柴秀吉への関白宣下が行われる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正13年 1585年 8月8日 22歳
巳刻(9-11時)、佐々成政の対治として、羽柴秀吉が軍勢8000ばかりを率い京を発す。秀吉は坂本(近江国)に着陣する。
出典:『兼見卿記』・『宇野主水記』同年月日条

天正13年 1585年 8月-日 22歳
羽柴秀吉勢として越中国に織田信雄織田信包前田利家前田利長丹羽長重細川忠興金森長近蜂屋頼隆宮部継潤池田輝政稲葉貞通蒲生氏郷、木村定重、堀尾吉晴山内一豊加藤光泰九鬼嘉隆が陣取る。
出典:『四国御発向並北国御動座事』

天正15年 1587年 1月25日 24歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 24歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 24歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月10日 24歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 24歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 24歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 24歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 3月1日 24歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月29日 24歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 24歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 24歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 24歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 24歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 24歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 24歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 24歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 24歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 24歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 24歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月5日 24歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月6日 24歳
島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 5月8日 24歳
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月9日 24歳
豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)

天正16年 1588年 7月24日 25歳
毛利輝元小早川隆景吉川広家聚楽第(山城国)に登城し豊臣秀吉に謁す。輝元は太刀1腰・馬1疋(月毛)・鷹5連・白銀3000枚を、隆景は太刀1腰・白糸3折・白銀500枚を、広家は太刀1腰・馬1疋(粕毛)・白銀500枚を秀吉に進上する。奏者は前野長康。この場に聖護院道澄前田利家安国寺恵瓊細川忠興池田輝政島津義久立花宗茂、龍造寺政家、金森長近施薬院全宗蜂屋頼隆穂井田元清福原元俊口羽春良が列席する。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正17年 1589年 11月-日 26歳
豊臣秀吉が北条氏成敗につき陣立書を作成する。池田輝政は軍勢2800で出陣することが定められる。
出典:(天正17年)11月付豊臣秀吉小田原陣陣立書(『伊達家文書』1-487号)

天正18年 1590年 3月1日 27歳
豊臣秀吉北条氏政氏直父子を討伐するため京都を出陣する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正18年 1590年 4月1日 27歳
豊臣秀吉が箱根山(相模国)に陣取る。小田原城(相模国)を包囲する。豊臣勢:池田輝政
出典:(天正18年)4月1日付豊臣秀吉朱印状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』3351号「鳥垣文書」)

天正18年 1590年 9月-日 27歳
豊臣秀吉池田輝政を岐阜城(美濃国)から吉田城(三河国)に移し、152000石を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

天正18年 1590年 -月-日 27歳
子・政虎が生まれる。
出典:-

文禄1年 1592年 12月8日 29歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄3年 1594年 12月27日 31歳
徳川家康の娘・池田輝政に嫁ぐ。
出典:『言経卿記』同年月日条

文禄3年 1594年 -月-日 31歳
子・利政が生まれる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 33歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月18日 35歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 2月18日 36歳
子・忠継が山城国伏見にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠継」の項

慶長5年 1600年 6月16日 37歳
徳川家康大坂城(摂津国)を発し、伏見城(山城国)に到着する。織田有楽斎・長孝父子、山名禅高金森長近可重父子、山岡景友、池田輝政池田長吉福島正則高晴兄弟、浅野幸長黒田長政細川忠興藤堂高虎、有馬則頼・豊氏父子、筒井定次、徳永寿昌・昌重父子、生駒一正、田中吉政蜂須賀至鎮小出吉政、中村一栄、山内一豊堀尾吉晴・忠氏父子、一柳直盛、津田信成、津田小平次、富田信高、古田重勝、稲葉道通、古田重然、市橋長勝、九鬼守隆、桑山相模守、亀井茲矩、寺沢広高石川康長、天野雄光、奥平貞治、河村助左衛門、山城秀宗、佐藤信元、赤井五郎八、岡田助右衛門、丹羽氏次遠藤慶隆、西尾光教、中川忠勝、三好為三、大島光義、長谷川重成、兼松正吉三好房一船越景直、平野長重、池田光重、佐々顕政、平田若狭守、落合顕公、森可政、清水小八郎、松波秋徳、佐久間安政、佐久間勝之、祖父江法斎、鈴木重慶、溝口政一、堀田重国、戸川達安宇喜多詮家、野間秋弘、伊丹忠親、別所孫四郎、本田周防守、松倉重政、村越兵庫頭、神保相茂、秋山右近、野尻彦次郎、仙石式部少輔、分部光嘉、極楽院、水野河内守、佐々喜三郎、山岡修理亮、岡田少五郎、箸尾半左衛門が家康に従う。総勢55800。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 -月-日 37歳
徳川家康吉田城(三河国)にて池田輝政の饗応を受ける。夜、白須賀に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月2日 37歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 8月1日 37歳
池田輝政による石田三成討伐に賛同した浅野幸長池田輝政加藤嘉明黒田長政福島正則細川忠興清須城(尾張国)に向けて江戸城(武蔵国)を発す。井伊直政本多忠勝が目付として同じく江戸城を発つ。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 8月8日 37歳
細川忠興が、吉田(三河国)に到着する。池田輝政が忠興をもてなす。
出典:『細川忠興軍功記』

慶長5年 1600年 8月14日 37歳
浅野幸長池田輝政加藤嘉明黒田長政福島正則細川忠興井伊直政本多忠勝清須城(尾張国)に到着する。
出典:『関原始末記』、『黒田家記』巻10「長政記」

慶長5年 1600年 8月22日 37歳
浅野幸長が織田家家臣・木造左衛門佐と戦い、幸長が勝利する。
池田輝政が河向に在陣中、織田家家老・百々綱家が池田輝政勢を攻める。米野(美濃国)にて織田秀信勢と輝政・一柳直盛が戦い、輝政が勝利する。輝政は瑞龍寺口まで織田勢を追撃する。
織田秀信勢:飯沼長資(戦死)。
池田輝政勢:池田輝政、伊木忠次池田長吉(飯沼長資を討取る)。
出典:『関原始末記』、(慶長5年)8月24日付福島正則書状(『浅野家文書』114号)

慶長5年 1600年 8月23日 37歳
福島正則池田輝政細川忠興加藤嘉明浅野幸長山内一豊井伊直政本多忠勝等が織田秀信の籠る岐阜城(美濃国)を攻め、同城を落とす。
攻衆:井伊直政[惣奉行][瑞龍寺出丸]、本多忠勝[総奉行][瑞龍寺出丸]、福島正則[大手町口]、加藤嘉明[大手町口]、細川忠興[浄土口]、山内一豊[浄土口]、浅野幸長[瑞龍寺出丸]、池田輝政[長良川の城搦手](一番乗)、細川忠隆[細川忠興勢]、細川興秋[細川忠興勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]。
織田秀信勢:織田秀信[大将]。
出典:『関原始末記』、(慶長5年)8月24日付福島正則書状(『浅野家文書』114号)、『寛政重修諸家譜』巻第105「細川忠隆」、同105「細川興秋」の項、同263「池田利隆」の項、同267「池田長吉」の項、同773「加藤嘉明」の項

慶長5年 1600年 9月15日 37歳
関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、鈴木信光[徳川家康勢 御使番]、森可澄[徳川家康勢]、加藤正次[徳川家康勢]、酒依昌吉[徳川家康勢]、小倉吉正[水野重央勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同398「小倉吉次」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、同1156「鈴木信光」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜

慶長5年 1600年 9月16日 37歳
徳川家康が石田正継・正澄父子が留守居として籠城していた石田三成の居城・佐和山城(近江国)を攻める。池田輝政福島正則が城を攻囲する中、小早川秀秋が先陣をつとめ二ノ丸を落とす。井伊直政は水の手より攻める。夜、正継は降伏を願い出る。家康は石田一族の自害と引き換えに城兵の命を助けるとし、正継は承諾する。
徳川勢:徳川家康[大将]、小早川秀秋[先陣]、池田輝政、福島正則、脇坂安治。
石田勢:石田正継[大将]、石田正澄。
出典:『関原始末記』、『細川忠興軍功記』、『当代記』巻3同年月日条、『脇坂家伝記

慶長5年 1600年 9月17日 37歳
石田正継・正澄佐和山城(近江国)に火を放ち自害する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月19日 37歳
福島正則池田輝政浅野幸長が、徳川家康の命を受け、上洛し禁裏を警固する。また、洛中・洛外に三名連署の制札を発給する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月20日 37歳
池田輝政福島正則の連署をもって芦浦村への軍勢の狼藉、山林の伐採、放火刃傷質取を禁止する禁制を発給する。
出典:慶長5年9月20日付池田輝政・福島正則連署禁制(「芦浦観音寺文書」)

慶長5年 1600年 9月23日 37歳
大坂城(摂津国)西ノ丸に居た毛利輝元が木津(和泉国)に退く。西ノ丸を井伊直政本多忠勝福島正則池田輝政浅野幸長藤堂高虎が請け取る。
田中吉政警固のもと石田三成の身柄が大津(近江国)に居る徳川家康のもとへ引き渡される。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 10月-日 37歳
徳川家康池田輝政吉田城(三河国)より姫路城(播磨国)に移す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

慶長6年 1601年 1月-日 38歳
徳川家康池田輝政に飛騨肩衝茶入を賜う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

慶長6年 1601年 2月-日 38歳
徳川秀忠池田輝政邸を訪れる。輝政は飛騨肩衝茶入を用いて茶を点て、秀忠をもてなす。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

慶長7年 1602年 10月18日 39歳
子・忠雄が播磨国姫路にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠雄」の項

慶長8年 1603年 2月12日 40歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 3月25日 40歳
巳下刻(10時)、徳川家康が参内する。結城秀康細川忠興池田輝政京極高次福島正則、松平忠良、松平飛騨守、松平清直、松平家清本多正純本多康紀本多忠勝石川康通井伊直継本多康俊板倉勝重、本多藤四郎、渡辺守綱、山上弥四郎、島田直時、鵜殿善六、横田弥五左衛門、高木九助、近藤秀用竹中重義森可澄、三好助三郎、三好可正、佐々木勝九郎、近藤政成、松平一生、戸田采女、内藤正成秋元泰朝松平正綱近藤季用大久保忠総、酒井主水、永井直勝三浦重成米津正勝、中山信吉、柴田左近、成瀬正成安藤直次、榊原甚五兵衛、横田尹松、日下部宗好、長谷川久五郎、阿部忠吉、豊島信満、林忠政、花井勝右衛門、伊奈忠政、加藤吉左衛門、高木善三郎、朝比奈弥太郎、石川康次、鳥井九郎左衛門、里見忠重、都築与右衛門が供奉する。将軍宣下の礼として禁裏に銀子1000枚を進上する。午下刻(12時)退出する。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 4月-日 40歳
徳川家康が、池田忠継に備前国を給付したことを受け、父・輝政が江戸(武蔵国)に赴き礼をする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

慶長8年 1603年 7月28日 40歳
徳川秀忠の娘・千が豊臣秀頼のもとに入嫁する。千は伏見城(山城国)より船にて大坂城(摂津国)に向かう。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 11月10日 40歳
伊木忠次が死去する。
出典:-

慶長9年 1604年 4月29日 41歳
子・輝澄が播磨国姫路にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第266「池田輝澄」の項

慶長9年 1604年 8月23日 41歳
池田輝政福島正則森忠政徳川家康に近侍する。
放鷹の商売および隠匿を禁じる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長9年 1604年 -月-日 41歳
徳川家康が伏見(山城国)の池田輝政邸を訪れる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

慶長10年 1605年 4月16日 42歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長10年 1605年 5月-日 42歳
徳川秀忠池田輝政邸を訪れる。輝政は茶を点てて秀忠をもてなす。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

慶長10年 1605年 -月-日 42歳
子・政綱が生まれる。
出典:-

慶長12年 1607年 1月6日 44歳
池田輝政三宝院義演に節分の祈念を依頼する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長12年 1607年 7月20日 44歳
弟・長政が死去する。
出典:-

慶長14年 1609年 4月4日 46歳
孫・光政が備前国岡山にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田光政」の項、『有斐録』「元」

慶長15年 1610年 2月23日 47歳
徳川家康池田忠雄に淡路国を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠雄」の項

慶長16年 1611年 1月15日 48歳
子・輝興が播磨国姫路にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第266「池田輝興」の項

慶長17年 1612年 1月30日 49歳
池田輝政が御服5領を、池田忠継が大鷹1連を徳川家康に献上する。家康は輝政に鶴を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 6月16日 49歳
駿府城(駿河国)にて若原良長が徳川家康に謁見する。家康は良長に馬を、池田輝政に薬を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月22日 49歳
池田輝政が江戸(武蔵国)に赴く。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

慶長17年 1612年 8月23日 49歳
池田輝政江戸城(武蔵国)にて徳川秀忠に謁す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

慶長17年 1612年 9月3日 49歳
池田輝政が駿府(駿河国)に赴く。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

慶長17年 1612年 9月4日 49歳
徳川家康駿府城(駿河国)にて池田輝政山名禅高藤堂高虎に茶を賜う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

慶長18年 1613年 1月3日 50歳
駿府城(駿河国)にて三献の祝が行われる。徳川義利徳川頼宣、徳川頼房が参席する。前田利長上杉景勝毛利宗瑞池田輝政島津家久伊達政宗佐竹義宣蒲生忠郷・京極忠高・京極高知・南部利直最上義光森忠政・毛利秀就・細川忠利池田利隆浅野幸長蜂須賀至鎮福島正則黒田長政堀尾忠晴山内忠義田中忠政鍋島勝茂加藤嘉明生駒正俊の名代が徳川家康に太刀を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 1月24日 50歳
巳刻(9-11時)、池田輝政が中風を発症し、声を発せなくなる。
出典:『駿府記』同年月29日条

慶長18年 1613年 1月25日 50歳
申刻(15-17時)、池田輝政が姫路(播磨国)にて死去する。
出典:『駿府記』同年月29日条、『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

慶長18年 1613年 1月29日 
播磨国より駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに、池田輝政の死去を伝える使者が到着する。家康は聟である輝政の死を悲嘆する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 2月5日 
池田輝政の死去につき、徳川秀忠駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに土井利勝を遣わす。播磨国の仕置きについて議す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月27日 
播磨国仕置き(池田輝政死後の後処理)に赴いていた村越直吉安藤重信が駿府城(駿河国)に戻る。若原良長、中村正勝による領国経営が問題だったため、良長を罰す。正勝は病死する。
出典:『駿府記』同年月日条

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