人 物 史

徳川秀忠 とくがわ ひでただ
生 没 年天正7年(1579)4/7-寛永9年(1632)1/24
出 身遠江国浜松幼 名長松、長丸、竹千代
別 称-
法 名-
戒 名台徳院殿興蓮社徳誉入西大居士
徳川家康西郷局
兄 弟 姉 妹松平信康、亀、松平秀康徳川秀忠松平忠吉、振、武田信吉、松平忠輝徳川義直徳川頼宣徳川頼房
配 偶 者江(浅井長政の娘)
千(豊臣秀頼の妻、本多忠刻の妻)、珠、勝、長丸、初、徳川家光、徳川忠長、和、保科正之
官 位侍従、蔵人頭、武蔵守、右近衛権少将、参議、右近衛権中将、権中納言、権大納言、右近衛大将、内大臣、右大臣
役 職江戸幕府 征夷大将軍
城 郭江戸城(武蔵国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ徳川秀忠の関連文化財
徳川秀忠の家臣
徳川秀忠 年表
天正7年 1579年 4月7日 1歳
申刻(15-17時)、徳川秀忠が生まれる。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 9月15日 1歳
兄・松平信康が父・家康の命により二俣(遠江国)にて自害する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正11年 1583年 -月-日 5歳
浜松(遠江国)にて神尾守世徳川秀忠に仕える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第1043「神尾守世」の項

天正18年 1590年 1月14日 12歳
勧修寺光豊が上洛している徳川長丸に礼として太刀、折紙を贈る。
出典:『晴豊記』同年月日条

天正18年 1590年 1月16日 12歳
勧修寺晴豊徳川長丸に礼に赴き小袖1重を贈る。
出典:『晴豊記』同年月日条

天正18年 1590年 1月19日 12歳
徳川長丸勧修寺晴豊に綿50把を贈る。
出典:『晴豊記』同年月日条

文禄1年 1592年 12月8日 14歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄3年 1594年 -月-日 16歳
徳川家康秀忠父子の命により保科正貞が兄・正光の猶子となる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第250「保科正貞」の項

文禄4年 1595年 3月28日 17歳
豊臣秀吉聚楽第(山城国)の徳川家康邸を訪れる。家康は秀吉に銀3000枚、小袖100、綿1000把、八丈島500端、褶300端、太刀(光長)、腰物(光忠)、脇差(行光)、馬1疋(黒毛鞍置)を進上する。徳川秀忠は秀吉に銀500枚、小袖50、越後布100端、太刀1腰、馬1疋を進上する。
出典:『当代記』巻3 同年月日条

文禄4年 1595年 6月10日 17歳
甥・忠直が生まれる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 18歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長3年 1598年 8月19日 20歳
徳川秀忠江戸城(武蔵国)に赴くべく、伏見城(山城国)を出立する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻8「長政記」

慶長3年 1598年 9月2日 20歳
徳川秀忠江戸城(武蔵国)に到着する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻8「長政記」

慶長3年 1598年 -月-日 20歳
榊原康勝徳川家康秀忠父子に初めて拝謁する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

慶長4年 1599年 -月-日 21歳
荒川重世徳川秀忠に仕える。
出典:『『寛政重修諸家譜』巻第84「荒川重世」の項

慶長5年 1600年 6月16日 22歳
徳川家康大坂城(摂津国)を発し、伏見城(山城国)に到着する。織田有楽斎・長孝父子、山名禅高金森長近可重父子、山岡景友、池田輝政池田長吉福島正則高晴兄弟、浅野幸長黒田長政細川忠興藤堂高虎、有馬則頼・豊氏父子、筒井定次、徳永寿昌・昌重父子、生駒一正、田中吉政蜂須賀至鎮小出吉政、中村一栄、山内一豊堀尾吉晴・忠氏父子、一柳直盛、津田信成、津田小平次、富田信高、古田重勝、稲葉道通、古田重然、市橋長勝、九鬼守隆、桑山相模守、亀井茲矩、寺沢広高石川康長、天野雄光、奥平貞治、河村助左衛門、山城秀宗、佐藤信元、赤井五郎八、岡田助右衛門、丹羽氏次遠藤慶隆、西尾光教、中川忠勝、三好為三、大島光義、長谷川重成、兼松正吉三好房一船越景直、平野長重、池田光重、佐々顕政、平田若狭守、落合顕公、森可政、清水小八郎、松波秋徳、佐久間安政、佐久間勝之、祖父江法斎、鈴木重慶、溝口政一、堀田重国、戸川達安宇喜多詮家、野間秋弘、伊丹忠親、別所孫四郎、本田周防守、松倉重政、村越兵庫頭、神保相茂、秋山右近、野尻彦次郎、仙石式部少輔、分部光嘉、極楽院、水野河内守、佐々喜三郎、山岡修理亮、岡田少五郎、箸尾半左衛門が家康に従う。総勢55800。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 6月18日 22歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に向けて伏見城(山城国)を発す。巳刻(9-11時)には醍醐を通過する。大津城(近江国)にて京極高次の饗応を受け、夜、石部(近江国)に到着し宿泊する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻9「長政記」

慶長5年 1600年 7月2日 22歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月13日 22歳
徳川家康榊原康政上杉景勝攻めの先陣を命じ、江戸城(武蔵国)を発たせる。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月19日 22歳
徳川秀忠上杉景勝攻めにつき江戸城(武蔵国)を発つ。先陣は榊原康政結城秀康松平忠吉、蒲生秀行、井伊直政本多忠勝松平忠明森忠政、仙石越前守、真田信幸、成田左衛門尉、石川玄蕃允、皆川広照、日根野徳次郎、多賀谷、山川民部、水谷左京が秀忠に供奉する。この日、宇都宮(下野国)に着陣する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻10「長政記」

慶長5年 1600年 7月20日 22歳
小山(下野国)にて徳川家康上杉景勝征伐につき、宇都宮(下野国)に参集した大名衆と、畿内で石田三成等が家康に敵対ことについて議す。会議では家康が出馬し清須(尾張国)にて集まり、宮(尾張国)より桑名(伊勢国)に渡り、伊賀国、大和国を経由して大坂(摂津国)に軍勢を繰り出し、景勝の備えとして徳川秀忠を置くことに決す。
出典:『細川忠興軍功記』

慶長5年 1600年 7月21日 22歳
徳川家康上杉景勝攻めにつき江戸城(武蔵国)を発つ。鳩谷に宿泊する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『関原始末記』

慶長5年 1600年 8月21日 22歳
徳川秀忠細川光千代に偏諱を賜い、光千代は忠利と名乗る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川忠利」の項

慶長5年 1600年 8月23日 22歳
福島正則池田輝政細川忠興加藤嘉明浅野幸長山内一豊井伊直政本多忠勝等が織田秀信の籠る岐阜城(美濃国)を攻め、同城を落とす。
攻衆:井伊直政[惣奉行][瑞龍寺出丸]、本多忠勝[総奉行][瑞龍寺出丸]、福島正則[大手町口]、加藤嘉明[大手町口]、細川忠興[浄土口]、山内一豊[浄土口]、浅野幸長[瑞龍寺出丸]、池田輝政[長良川の城搦手](一番乗)、細川忠隆[細川忠興勢]、細川興秋[細川忠興勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]。
織田秀信勢:織田秀信[大将]。
出典:『関原始末記』、(慶長5年)8月24日付福島正則書状(『浅野家文書』114号)、『寛政重修諸家譜』巻第105「細川忠隆」、同105「細川興秋」の項、同263「池田利隆」の項、同267「池田長吉」の項、同773「加藤嘉明」の項

慶長5年 1600年 8月24日 22歳
徳川秀忠石田三成攻めに加わるべく宇都宮(下野国)を発す。榊原康政、酒井忠重、森忠政大久保忠隣、仙石越前守忠俊、上野筑後守、佐野修理大夫、本多正信真田信之石川康長、日根野吉重、牧野貞成等が従軍する。
出典:『関原始末記』、『黒田家記』巻10「長政記」

慶長5年 1600年 8月24日 22歳
徳川家康浅野長政に、子・秀忠の軍勢を信濃口に遣わしたので出陣を依頼する。
出典:同年月日付徳川家康書状

慶長5年 1600年 8月26日 22歳
徳川秀忠が高崎(上野国)に着陣する。
出典:(慶長5年)8月26日付徳川秀忠書状(東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号116)

慶長5年 1600年 9月1日 22歳
徳川家康が東海道より上方に向け江戸城(武蔵国)を発つ。徳川秀忠が東山道より上方に向け江戸城を発つ。
秀忠勢:榊原康政大久保忠隣本多正信酒井忠世酒井忠利酒井忠勝酒井家次本多忠政松平忠利、石川康長、牧野貞成、神尾守世青木信安真田信幸仙石秀久、日根野吉重、森忠政折井次忠(大久保忠隣勢)、柳沢信俊(大久保忠隣勢)、山高親重(大久保忠隣勢)、山寺信光。
江戸城の留守居として松平康元を置く。
出典:『関原始末記』、『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」、『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項、同166「折井次忠」の項

慶長5年 1600年 9月4日 22歳
徳川秀忠の軍勢が小諸城(信濃国)に到着する。
出典:『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」

慶長5年 1600年 9月5日 22歳
徳川秀忠真田昌幸の持ち城である砥石城(信濃国)を占拠し、真田信幸を入れ置く。
出典:(慶長5年)9月5日付徳川秀忠書状(『浅野家文書』112)

慶長5年 1600年 9月7日 22歳
徳川秀忠真田昌幸信繁父子の籠る上田城(信濃国)を攻めも、昌幸・信繁が秀忠勢を退ける。
徳川勢:榊原康政大久保忠隣本多正信酒井忠世酒井忠利酒井忠勝酒井家次本多忠政松平忠利神尾守世青木信安岩間正時折井次忠(大久保忠隣勢)、柳沢信俊(大久保忠隣勢)、山高親重(大久保忠隣勢)。
出典:『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」、『寛政重修諸家譜』巻第3「松平忠利」の項、同59「酒井忠世」の項、同61「酒井忠利」の項、同61「酒井忠勝」の項、同65「酒井家次」の項、同126「森忠政」の項、同160「山高親重」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次忠」の項、同964「岩間正時」の項、同1043「神尾守世」の項

慶長5年 1600年 9月20日 22歳
徳川秀忠が草津(近江国)に到着する。夜、大津城(近江国)に陣取っていた父・家康のもとに赴くが、すぐに草津に戻る。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月25日 22歳
徳川家康が大津(近江国)にて、子・秀忠と対面する。伏見城(山城国)に入る。
増田長盛の死罪を免じ、所領を没収する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月28日 22歳
徳川秀忠伏見城(山城国)を発し、大坂城(摂津国)に入り二ノ丸に居す。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月29日 22歳
摂関家、公家衆が大坂城(摂津国)にいる徳川家康秀忠父子のもとへ礼に訪れる。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 10月1日 22歳
石田三成小西行長安国寺恵瓊大坂城(摂津国)より京都に送られ、洛中にて引き回しのうえ、六条河原にて処刑される。3名の首は三条橋にて晒される。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻11「長政記」

慶長5年 1600年 11月16日 22歳
徳川秀忠大坂城(摂津国)を発し上洛する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『関原始末記』

慶長5年 1600年 11月18日 22歳
徳川秀忠松平忠吉が参内する。忠吉は後陽成天皇に太刀・馬代(銀100枚)を進上する。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条、『関原始末記』

慶長5年 1600年 11月28日 22歳
弟・義直大坂城(摂津国)西ノ丸にて生まれる。
出典:-

慶長6年 1601年 2月-日 23歳
徳川秀忠池田輝政邸を訪れる。輝政は飛騨肩衝茶入を用いて茶を点て、秀忠をもてなす。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

慶長6年 1601年 3月19日 23歳
徳川秀忠細川忠興千利休所持の尻膨茶入を下賜する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川忠興」の項

慶長6年 1601年 3月24日 23歳
徳川秀忠大坂城(摂津国)より伏見城(山城国)に移る。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『関原始末記』

慶長6年 1601年 3月28日 23歳
権大納言となる。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『関原始末記』

慶長6年 1601年 3月29日 23歳
徳川秀忠が参内する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『関原始末記』

慶長6年 1601年 4月10日 23歳
徳川秀忠江戸城(武蔵国)に帰城すべく、京都(山城国)を発つ。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 4月-日 23歳
徳川秀忠江戸城(武蔵国)に下向する
出典:『関原始末記』

慶長6年 1601年 9月-日 23歳
前田利光と徳川秀忠の息女の婚儀が行われる。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 閏11月2日 23歳
江戸(武蔵国)にて火災が起こる。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 3月7日 24歳
弟・頼宣が山城国伏見城にて生まれる。
出典:-

慶長8年 1603年 2月12日 25歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 -月-日 25歳
駒井昌保徳川秀忠に謁す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第157「駒井昌保」の項

慶長9年 1604年 5月1日 26歳
徳川秀忠黒田如水死去につき黒田長政に銀子200枚を贈る。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長9年 1604年 6月13日 26歳
徳川秀忠が参内する。松前慶広が供奉する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

慶長9年 1604年 7月17日 26歳
子・家光が生まれる。御篦刀役を酒井忠世がつとめる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井忠世」の項

慶長10年 1605年 2月24日 27歳
徳川秀忠が上洛するため江戸城(武蔵国)を発つ。板倉重宗が供奉する。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長10年 1605年 3月21日 27歳
徳川秀忠が伏見城(山城国)に到着する。秀忠上洛の前陣として榊原康政伊達政宗等の諸大名と秀忠勢の鉄砲600・槍400-500・騎馬徒歩立衆200-300が供奉する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長10年 1605年 3月22日 27歳
徳川秀忠伏見城(山城国)西ノ丸に入る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 3月29日 27歳
徳川秀忠が参内し、右大将宣下の礼をする。参内後、伏見城(山城国)に帰城する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 4月8日 27歳
徳川家康が上洛する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 4月10日 27歳
徳川家康が参内する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 27歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長10年 1605年 4月16日 27歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長10年 1605年 4月17日 27歳
徳川秀忠が上洛する。
出典:『義演准后日記』同年月18日条

慶長10年 1605年 4月26日 27歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下につき参内する。榊原康政康勝父子、酒井忠世板倉重宗が供奉する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康政」の項、同「榊原康勝」の項、同巻第59「酒井忠世」の項、同巻第81「板倉重宗」の項

慶長10年 1605年 5月10日 27歳
将軍・徳川秀忠の名代として松平忠輝大坂城(摂津国)に居る豊臣秀頼のもとに赴く。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 5月15日 27歳
徳川秀忠江戸城(武蔵国)に帰城すべく伏見城(山城国)を発つ。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長10年 1605年 5月-日 27歳
徳川秀忠池田輝政邸を訪れる。輝政は茶を点てて秀忠をもてなす。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

慶長10年 1605年 6月4日 27歳
徳川秀忠江戸城(武蔵国)に帰城する。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長10年 1605年 -月-日 27歳
榊原康政の娘を徳川秀忠の養女とする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

慶長10年 1605年 -月-日 27歳
徳川秀忠が榊原康政の娘を養女として池田利隆に嫁がせる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田利隆」の項

慶長11年 1606年 2月2日 28歳
小笠原忠脩忠真兄弟が徳川秀忠に前にて元服する。忠脩・忠真は秀忠の偏諱を賜い、忠脩は信濃守を、忠真は大学頭を称す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠真」の項、同巻第189「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠脩」の項

慶長11年 1606年 5月14日 28歳
榊原康政館林城(上野国)にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

慶長11年 1606年 9月23日 28歳
徳川秀忠黒田長政邸に赴く。江戸城(武蔵国)天守台の石垣普請の功を賞す。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長11年 1606年 -月-日 28歳
子・忠長江戸城(武蔵国)西ノ丸にて生まれる。
出典:-

慶長12年 1607年 3月5日 29歳
弟・松平忠吉が死去する。
出典:『義演准后日記』同年月14日条

慶長12年 1607年 4月29日 29歳
徳川秀忠松平定勝伏見城(山城国)城代とし、50000石を給付する。掛川城(遠江国)30000石は、定勝の子・定行に給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第54「松平定勝」の項

慶長12年 1607年 4月-日 29歳
徳川家康駿府城(駿河国)の普請を始める。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長12年 1607年 閏4月8日 29歳
兄・松平秀康が死去する。
出典:『義演准后日記』同年月14日条

慶長12年 1607年 閏4月26日 29歳
徳川家康徳川義直を甲府(甲斐国)より名古屋(尾張国)に転封する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「青木信安」の項

慶長12年 1607年 6月2日 29歳
徳川秀忠池田利隆に松平姓を賜う。利隆は武蔵守となる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田利隆」の項

慶長12年 1607年 7月3日 29歳
徳川家康駿府城(駿河国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長12年 1607年 8月13日 29歳
徳川秀忠小笠原忠真に刀(銘 左文字)を賜う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠真」の項

慶長13年 1608年 4月18日 30歳
池田忠継忠雄兄弟が徳川秀忠の前で元服する。秀忠の偏諱を受け、忠継、忠雄を名乗る。また秀忠は、刀(銘 正宗)を忠継に下賜する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠継」の項、同巻第265「池田忠雄」の項

慶長13年 1608年 8月-日 30歳
徳川秀忠延暦寺の寺領を5000石と定める判物を発給する。
出典:『東塔五谷堂舎並各坊世譜』「根本中堂」の項(『天台宗全書』)

慶長13年 1608年 11月-日 30歳
徳川家康伏見城(山城国)城代・松平定勝の所領を、伏見(山城国)近郊の地10000石と近江国志賀郡・高島郡の内にて40000石の地に替地する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第54「松平定勝」の項

慶長13年 1608年 -月-日 30歳
徳川秀忠が小笠原秀政の娘・千代を養女とし、細川忠利に嫁がせる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川忠利」の項

慶長14年 1609年 7月5日 31歳
徳川秀忠島津家久の琉球占領を賞す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津家久(忠恒)」の項

慶長14年 1609年 7月7日 31歳
徳川家康島津家久の琉球占領を賞し、家久の琉球領有を認める。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津家久(忠恒)」の項

慶長14年 1609年 12月26日 31歳
徳川秀忠小笠原秀政が和田倉邸を訪れる。秀忠は秀政に脇差(銘 広光)、小真壺を下賜する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項

慶長14年 1609年 12月-日 31歳
10月29日に死去した石川家成の遺領は、徳川家康秀忠の命により石川忠総が相続することになる。忠総は大垣(美濃国)に下向する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第118「石川忠総」の項

慶長14年 1609年 -月-日 31歳
細川興元が徳川秀忠に仕える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第106「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川興元」の項

慶長15年 1610年 2月16日 32歳
徳川秀忠松前慶広小出吉政、滝川一雄、猪子一時を招き茶湯を振る舞う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

慶長15年 1610年 8月28日 32歳
島津家久が尚寧をともない、江戸城(武蔵国)にいる徳川秀忠のもとに赴き、礼をする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津家久(忠恒)」の項

慶長15年 1610年 -月-日 32歳
徳川秀忠が細川興元に下野国芳賀郡内で10000石を給付し、興元は茂木(下野国)を居所とする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第106「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川興元」の項

慶長16年 1611年 6月24日 33歳
加藤清正が死去する。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長16年 1611年 8月4日 33歳
徳川秀忠の使者として安藤重信駿府城(駿河国)の徳川家康のもとを訪れ、加藤清正の遺領を、その子・虎之助に相続させてもよいか裁可を請う。家康は虎之助の遺領相続を認める。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 9月11日 33歳
松平忠直に嫁ぐ勝姫(徳川秀忠の娘)が駿府城(駿河国)に到着する。勝姫の供奉は土井利勝
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 9月18日 33歳
松平忠直に嫁ぐ勝姫(徳川秀忠の娘)が越前国に向かうべく駿府城(駿河国)を出立する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月4日 33歳
徳川秀忠が父・家康に生鮭を贈る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月5日 33歳
徳川秀忠駿府城(駿河国)に居る徳川家康のもとに使者として成瀬正武を遣わす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月14日 33歳
徳川家康が神奈川(武蔵国)に到着する。江戸城(武蔵国)より徳川秀忠が出向き雑談する。秀忠は江戸城に戻り、家康は神奈川にて宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月16日 33歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。江戸詰めの諸大名が家康を出迎える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月17日 33歳
徳川家康江戸城(武蔵国)の「新城」に赴き、徳川秀忠と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月20日 33歳
朝、徳川秀忠本多正純大久保長安安藤直次成瀬正成永井直勝松平正久後藤光次長谷川藤広に茶と鶴料理を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月21日 33歳
江戸城(武蔵国)の南庭にて能10番が催される。徳川家康徳川秀忠山科言緒冷泉為満舟橋秀賢等が見物する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月24日 33歳
徳川家康江戸城(武蔵国)の本城に赴く。大門にて徳川秀忠が出迎える。座席の縁上にて徳川竹千代・国松兄弟が家康の左右の手をとる。家康は江とも対面する。その後、埦飯が行われる。
本多正信が家康のもとを訪れ「天下政務」について雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月25日 33歳
徳川秀忠が茶壺(銘 鎮西)の口を切る。「数寄屋」にて、本多正信本多正純大久保長安安藤直次成瀬正成村越直吉永井直勝松平正久後藤光次長谷川藤広を召し、鶴料理と茶を振る舞う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月27日 33歳
徳川秀忠が金春太夫、下間仲之を召し出し、江戸城(武蔵国)にて能を催す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月5日 33歳
徳川家康が忍(武蔵国)の鷹場にて鷹狩をする。徳川秀忠が家康のもとに使者として土井利勝を遣わす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月6日 33歳
徳川秀忠が鴻巣(武蔵国)の鷹場にて鷹狩をする。忍(武蔵国)に居る徳川家康より成瀬正成安藤直次永井直勝松平正久後藤光次長谷川藤広が秀忠のもとに赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月9日 33歳
新田義重に征夷将軍贈官につき、新田(上野国)にて代々の菩提所を建立するにあたり、源誉存応、土井利勝成瀬正成が地形を視察に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月13日 33歳
朝、徳川家康が忍(武蔵国)を発ち、川越(武蔵国)に到着する。鴻巣(武蔵国)にて鷹狩をしていた徳川秀忠が川越に居る家康のもとに赴く。
秀忠が本多正純安藤直次永井直勝松平正久後藤光次長谷川藤広に黄金・馬・服を下賜する。
夜、源誉存応、成瀬正成土井利勝が上野国より川越にいる家康のもとに赴き、新田義重・義貞の菩提所について旧跡が存在したことを報告する。家康のそのことを喜ぶ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月14日 33歳
徳川家康が府中(武蔵国)に到着する。徳川秀忠江戸城(武蔵国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月16日 33歳
徳川家康が鷹狩をする。家康は神奈川(武蔵国)に宿泊する。暇乞いとして徳川秀忠が神奈川にいる家康のもとを訪れる。対面の後、秀忠は家康に鷹を贈る。秀忠は金蔵寺に宿泊する。
上杉景勝が神奈川にいる家康のもとを訪れ、綿子500挺、馬1疋を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月17日 33歳
大風のため徳川家康は予定していた鷹狩を中止し、神奈川(武蔵国)に逗留する。徳川秀忠も神奈川に留まり家康と雑談する。
本多正信が家康と雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月18日 33歳
徳川家康が鷹狩をする。家康は藤沢(相模国)に到着する。徳川秀忠江戸城(武蔵国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月24日 33歳
徳川秀忠の使者として土井利勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着し、家康の駿府城への無事の帰城を賀す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月23日 34歳
本多正純の与力・岡本大八が、有馬晴信に先年の黒船討ち取りの功により肥前国三郡の返付があるとして偽造した朱印状を渡すとともに、幕府老中への謝礼として白銀600枚を納めるようにと指示し、その白銀を横領したことについて、晴信からの疑義があり裁判が行われ、大八は無罪を主張するも、晴信が証拠となる文書を所持していたことから、大八の敗訴となり、大八も白状する。駿府町奉行の彦坂光正が大八を鞭打ちのうえ禁固する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月26日 34歳
駿府城(駿河国)にて田中忠政徳川家康に謁す。忠政は家康に銀子100枚、黒羅紗10間を献上する。
夜、家康が本多正純板倉勝重を召し、3月中旬に徳川秀忠と天下政務の相談をすることを伝える。
生駒正俊が駿府城に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月13日 34歳
徳川秀忠駿府城(駿河国)に居る徳川家康と天下政務について相談すべく、江戸城(武蔵国)を出立する。藤沢(相模国)に到着する。供奉は本多正信大久保忠隣酒井忠世土井利勝、青山忠成、山口重政神尾守世水野忠元、井上正就等。
出典:『駿府記』同年月日・17日条

慶長17年 1612年 3月14日 34歳
徳川秀忠小田原城(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月15日 34歳
徳川秀忠が三島(伊豆国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月16日 34歳
徳川秀忠が清水(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月17日 34歳
辰刻(7-9時)、徳川秀忠駿府城(駿河国)西丸に到着する。供奉は本多正信大久保忠隣酒井忠世土井利勝、青山忠成、山口重政神尾守世水野忠元井上正就等。午刻(11-13時)、秀忠が駿府城の本城に赴き、父・家康と雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月18日 34歳
禁獄中の岡本大八が有馬晴信について、長谷川藤広を殺害せんと企んでいると申告する。これにより、大八を牢より出し、大久保長安邸に移し、晴信の居る前で大八に晴信の企てについて述べさせる。晴信は閉口してしまい回答ができなかったため、晴信の身柄を拘束する。大八は再度牢に入れる。これにつき、晴信の所領は子・直純に与え、直純には国の仕置きのため帰国を許す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月19日 34歳
徳川秀忠駿府城(駿河国)本城に赴き、父・家康と雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月20日 34歳
駿府城(駿河国)にて徳川秀忠山名禅高と将棋を指す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月21日 34歳
徳川秀忠が加護鼻にて竹腰正信をして鉄砲を放たせる。
岡本大八を牢より出し、府内(駿河国)にて引き回しのうえ、安部川原にて火炙りの刑に処す。徳川家康板倉勝重を召し、キリスト教を禁教とし、京都における南蛮寺の破却を命じる。また、長谷川藤広に暇を与え長崎(肥前国)に赴かせる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月22日 34歳
駿府城(駿河国)にて徳川秀忠山名禅高と将棋を指す。
有馬晴信を甲斐国へ配流とする。大久保長安の監督下に置く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月23日 34歳
駿府城(駿河国)に滞在中の徳川秀忠の前で本因坊算砂と大橋宗桂が将棋を指し、算砂が勝利する。
松平摂津守、松平忠明、水野勝成、石川忠総、本多康俊が秀忠に謁すべく駿府城に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月28日 34歳
徳川秀忠義俊兄弟が駿府(駿河国)の藤堂高虎邸に赴く。高虎は能を催す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 4月2日 34歳
加藤忠広が父・清正の遺領相続につき、徳川家康に礼をすべく駿府城(駿河国)に到着する。忠広は家康に謁し、黄金100枚、服10領を進上する。
鍋島勝茂の所領が有馬晴信に給付されるとの噂があったが、それは岡本大八による虚説であったことがわかり、勝茂がそれを喜ぶ使者を家康に遣わし、黄金50枚・猩々皮30間を、鍋島直茂が家康に黄金10枚を献上する。
夜、徳川秀忠が家康のもとへ赴き対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 4月8日 34歳
徳川家康駿府城(駿河国)三ノ丸にて能を催す。徳川秀忠が見物する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 4月10日 34歳
徳川秀忠江戸城(武蔵国)に帰城すべく、駿府城(駿河国)本城に赴き父・家康に挨拶する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 4月19日 34歳
安藤重信徳川秀忠の使者として駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 5月4日 34歳
徳川秀忠の使者として神尾守世駿府城(駿河国)に居る徳川家康のもとに赴き、端午の節句として帷子5領を進上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 6月2日 34歳
江戸(武蔵国)の新開地の町割りが行われる。京都・堺の商人に屋敷を下賜する。後藤光次が奉行となる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 7月7日 34歳
七夕につき徳川秀忠の使者・水野忠元家康(駿河国)にいる父・家康のもとに到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 7月25日 34歳
明・ルソンに派遣していた商船26艘が長崎(肥前国)に到着する。白糸200000斤を積載する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月14日 34歳
駿府城(駿河国)にて徳川家康が一乗院を呼び茶湯を催す。日野唯心金地院崇伝藤堂高虎が相伴する。古田重然が駿府城に在府中だったことから、重然が茶を点てる。この頃、重然は「数奇之宗匠」で徳川秀忠の崇敬を厚かったとされる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月16日 34歳
徳川家康駿府城(駿河国)に在府中の一乗院の宿所に本多正純を遣わし、春日社の造替料として米20000石を寄進することを伝える。
2-zinbutu-20-tokugawa-hidetada.htmlの使者として井上正就が駿府城にいる家康のもとに到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月23日 34歳
池田輝政江戸城(武蔵国)にて徳川秀忠に謁す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

慶長17年 1612年 12月20日 34歳
徳川秀忠南部利直邸に赴く。秀忠は利直に時服50領、大純30巻、猩々緋の羅紗1枚、寝衣5領、白銀500枚を賜う。利直は秀忠に馬(鹿毛)1疋(鞍付)、黒馬1疋(唐織の馬衣付)、黄金50枚を献上する。秀忠は利直、八戸直政、北直継、桜庭直綱に茶を点てる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第210「南部利直」の項

慶長18年 1613年 1月1日 35歳
徳川秀忠の名代(酒井家次・大沢基宿)、松平忠直松平忠輝、松平和泉守、松平玄蕃頭、松平忠利水野忠元本多康俊本多康紀、戸田尊次、三好因幡守、戸川達安三好房一、松倉重政、水野重弘、桑山一直、本田一継、池田光重、堀直寄、滝川忠征、佐久間政実、市橋下総守、山城忠久、桑山貞晴、岡家俊、宮城豊盛、能勢頼次、近藤政成、徳永昌重、山岡景以、分部光信、朽木宣綱、川勝広綱、猪子一時、別所吉治が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に年始の礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 1月21日 35歳
黒田万徳丸徳川秀忠に謁す。秀忠は万徳に諱を賜い、万徳は忠長と称す。秀忠は忠長に太刀(銘 守家)・脇差(銘 国次)・鹿毛馬を下賜する。その返礼として、秀忠に黒田長政が銀1000両を、忠長が銀3000両を献上する。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長18年 1613年 1月25日 35歳
申刻(15-17時)、池田輝政が姫路(播磨国)にて死去する。
出典:『駿府記』同年月29日条、『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

慶長18年 1613年 1月28日 35歳
立花直次徳川家康徳川秀忠父子に謁す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第113「立花直次」の項

慶長18年 1613年 2月5日 35歳
池田輝政の死去につき、徳川秀忠駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに土井利勝を遣わす。播磨国の仕置きについて議す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 2月20日 35歳
黒田万徳丸が江戸(武蔵国)にて徳川秀忠より偏諱を賜り「忠長」と名乗る。忠長は礼として徳川家康に銀子300枚、父・長政は銀子100枚を進上する。家康は忠長に盃と太刀(銘 守家)・馬(鹿毛)を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 3月2日 35歳
徳川秀忠佐竹義宣邸に赴く。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「佐竹義宣」の項

慶長18年 1613年 3月15日 35歳
徳川家康秀忠父子が播磨国仕置きのため安藤重信村越直吉を播磨国に遣わす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月25日 35歳
大久保長安が死去する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月26日 35歳
板倉勝重駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ、京都のことについて報告する。
徳川秀忠の使者として土井利勝が江戸(武蔵国)に到着する。越前国の仕置きのためとされる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月27日 35歳
播磨国仕置き(池田輝政死後の後処理)に赴いていた村越直吉安藤重信が駿府城(駿河国)に戻る。若原良長、中村正勝による領国経営が問題だったため、良長を罰す。正勝は病死する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 6月7日 35歳
徳川家康徳川秀忠本多正純を遣わす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 6月13日 35歳
江戸(武蔵国)より本多正純駿府城(駿河国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 6月16日 35歳
徳川家康・秀忠が「諸公家諸法度」を定め、摂関家・伝奏に届けるよう板倉勝重に命じる。
池田輝政の遺領について徳川家康が裁定する。播磨国は池田玄隆に、備前国および播磨国宍粟郡・佐用郡・赤穂郡は池田忠継に給付することが決まる。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第263「池田利隆」の項、同巻第265「池田忠継」の項

慶長18年 1613年 8月5日 35歳
徳川秀忠の使者・土井利勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月22日 35歳
池田輝政の遺領相続につき、池田玄隆忠継兄弟が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。玄隆は銀300枚・太刀(銘 守家)を、忠継は銀200枚・太刀(銘 長光)を家康に献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月7日 35歳
徳川秀忠の重陽を祝す使者として神尾守世が駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月9日 35歳
徳川秀忠の重陽を祝す使者・神尾守世徳川家康に服5領を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月26日 35歳
徳川家康が藤沢(相模国)を発し、神奈川(武蔵国)に到着する。徳川秀忠が出迎える。旅館にて父子対面する。その後、秀忠のみ江戸城(武蔵国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月27日 35歳
未刻(13-15時)、徳川家康江戸城(「江戸新城」)(武蔵国)に到着する。諸大名が家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月28日 35歳
徳川秀忠江戸城(「江戸新城」)にいる徳川家康のもとに赴き対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月3日 35歳
江戸城(武蔵国)にて南光坊天海が論義する。題は「現世安穏後世善所」。徳川家康秀忠父子、諸大名、廓山、江戸誓願寺が聴聞する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月4日 35歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に南殿に赴く。近習衆が随従する。徳川秀忠が家康のもとを訪れ閑談する。秀忠が去った後、家康は本多正信本多正純父子を召し、閑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月8日 35歳
富田信高坂崎直盛を訴えた件につき、江戸城(武蔵国)南殿にて徳川家康秀忠父子が直盛勝訴の裁許を出す。
夜、浅野幸長の遺物として玉堂肩衝茶入・脇差(銘 吉光)・キネノオレ・古銅花入が家康に進上したことを本多正信が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月9日 35歳
南光坊天海江戸城(武蔵国)にて論議を行う。徳川家康秀忠父子が聴聞する。持戒、毀戒、威儀、具足、正見、邪見、利根、鈍根、等雨、法雨、煩悩、不断成仏、五逆罪滅について論じる。精義は天海、講師は法輪寺。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月18日 35歳
辰刻(7-9時)、徳川家康が復調により江戸城(武蔵国)本丸に赴く。本多正純成瀬正成安藤直次永井直勝松平正久後藤光次、医師衆、近習衆100名程が供奉する。
申刻(15-17時)、浅野長晟が江戸城(武蔵国)にいる家康の前に召し出され、兄・幸長の実子がいなかったため遺領を継ぐことが認められる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月19日 35歳
卯刻(5-7時)、江戸城(武蔵国)本丸にて、本多正純成瀬正成安藤直次永井直勝松平正久後藤光次林羅山に料理が振る舞われる。
巳刻(9-11時)、徳川秀忠が江戸城の新城に赴き、南光坊天海の論議を聴聞する。題は我功徳力、如来加持力、法界力、三具足をもって即身成仏となす。
夜、石川康長の日頃の不義が露見し、また大久保長安に縁座し所領没収となる。康長の所領没収につき、小笠原秀政松本城(信濃国)を請取のため、同城に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「小笠原秀政」の項

慶長18年 1613年 10月24日 35歳
徳川秀忠富田信高の所領を没収し、その身を鳥居忠政の岩城(陸奥国)に預ける。また、信高の与同した高橋元種の所領を没収し、その身を立花宗茂の棚倉(陸奥国)に預ける。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月25日 35歳
19日に所領没収となった石川康長に連座し、その弟の康勝・康次も所領没収となる。また、富田信高に連座し、佐々行政、佐々内記も所領没収となる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月-日 35歳
徳川秀忠小笠原秀政に30000石を加増し、飯田(信濃国)より松本(信濃国)に移封する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項

慶長18年 1613年 11月2日 35歳
卯刻(5-7時)、徳川秀忠が鷹狩をするため鴻巣(武蔵国)に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月20日 35歳
徳川家康が岩槻(武蔵国)を発ち、未刻(13-15時)、越谷(武蔵国)に到着する。
小山(下野国)より本多正純が越谷に到着する。
徳川秀忠が鴻巣(武蔵国)より江戸城(武蔵国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月23日 35歳
越谷(武蔵国)にいる徳川家康のもとに徳川秀忠の使者として神尾守世が赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 12月1日 35歳
江戸城(武蔵国)南御殿にて徳川家康徳川秀忠が対面する。諸大名が家康に礼をする。午刻(11-13時)、南光坊天海と仙波中院が家康の前で仏法について雑談する。その際、天海に仙波(武蔵国)近辺で500石を寄進することと中院に黄金10枚を贈ることを伝える。天海の退出後、源誉存応が家康のもとに出仕し、仏法について雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 12月2日 35歳
巳刻(9-11時)、徳川秀忠江戸城(武蔵国)新城に赴き、徳川家康と密談する。未刻(13-15時)、秀忠は江戸城本城に戻る。家康の駿府城(駿河国)帰還につき、供奉の物が秀忠に暇乞いをし、秀忠より黄金・呉服を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 12月3日 35歳
夜明けに徳川秀忠江戸城(武蔵国)新城に赴き、徳川家康に暇乞いをする。
辰刻(7-9時)、家康が江戸城を発つ。稲毛に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 12月7日 35歳
中原(相模国)にいる徳川家康のもとに徳川秀忠の使者として板倉重宗が到着し、肴を家康に進上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 12月13日 35歳
辰刻(7-9時)、徳川家康が、急遽、中原(相模国)を発ち、申刻(15-17時)、稲毛(武蔵国)に到着する。1月に土気(上総国)・東金(上総国)にて鷹狩をするためで、徳川秀忠が迎えとして、夜、小杉に赴き家康と対面する。対面後、秀忠は江戸城(武蔵国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 12月14日 35歳
午刻(11-13時)、徳川家康江戸城(武蔵国)「新城」に帰城する。徳川秀忠が家康と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 12月19日 35歳
徳川家康秀忠父子が、キリスト教徒を追放すべく、大久保忠隣に京都へ赴くよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 12月19日 35歳
卯刻(5-7時)、後陽成天皇の禁裏の移徙が行われる。
出典:『駿府記』同年月22日条

慶長18年 1613年 12月27日 35歳
細川忠興徳川秀忠のもとへ礼に赴く。
出典:『細川家記』13「忠興」7

慶長18年 1613年 12月28日 35歳
徳川家康が節分により越谷(武蔵国)より江戸城(武蔵国)に帰城する。徳川秀忠が対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 12月30日 35歳
諸大名が徳川秀忠に歳暮の礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条、『細川家記』13「忠興」7

慶長19年 1614年 1月1日 36歳
巳刻(9-11時)、徳川秀忠が父・家康のもとに礼に赴く。江戸城(武蔵国)南殿にて対面する。秀忠は太刀(銘 守家)・馬代銀100枚を家康に献上する。披露は大沢基宿。奥の座敷で酒宴が行われ、酌を松平正久が、御加を水野金十郎、陪膳を金森左兵衛・北見長五郎・内藤掃部助がつとめる。
出典:『駿府記』同年月日条、『細川家記』13「忠興」7

慶長19年 1614年 1月5日 36歳
徳川家康江戸城(武蔵国)本丸に赴く。祝儀の後、南殿に赴き、能3番が開催される。徳川国松が勤める。家康、徳川秀忠、女中衆が簾中より見物する。
出典:『駿府記』同年月日条、『細川家記』13「忠興」7

慶長19年 1614年 1月5日 36歳
大久保忠隣が京都(山城国)のキリスト教徒退治のため、小田原城(相模国)を発つ。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月7日 36歳
徳川家康が鷹狩のため葛西に赴く。徳川秀忠成瀬正武を遣わし家康に肴を進上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『細川家記』13「忠興」7

慶長19年 1614年 1月9日 36歳
徳川家康が東金(上総国)に赴く。道中、鷹狩をする。徳川秀忠の使者として水野忠元が家康のもとに到着し進物を献じる。
出典:『駿府記』同年月日条、『細川家記』13「忠興」7

慶長19年 1614年 1月17日 36歳
大久保忠隣が京都(山城国)に到着する。西京にある南蛮寺を焼き払い、四条にある南蛮寺は町中につき類火を恐れ、破却の後に火をつける。忠隣は京都の藤堂高虎邸に宿泊する。
出典:『当代記』同年月18日条

慶長19年 1614年 1月18日 36歳
申刻(15-17時)、徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。徳川秀忠が家康を出迎える。夜、家康が藤堂高虎を召し寄せ密談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月19日 36歳
徳川家康本多正信を召し寄せる。家康は大久保忠隣山口重政が家康・秀忠父子の許可を得ず、婚姻を結んだことを咎め、大久保教隆・幸信兄弟を追放し、安藤重信をして小田原城(相模国)を接収させ、忠隣家臣を城より追い出すよう正信の命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月21日 36歳
朝、安藤重信大久保忠隣小田原城(相模国)接収につき、江戸(武蔵国)を発つ。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月23日 36歳
徳川秀忠が中原にて鷹狩をする。
出典:『慈性日記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月24日 36歳
徳川家康が中原(相模国)を発し、未刻(13-15時)、小田原(相模国)に到着する。
夜、本多正信本多正純安藤直次土井利勝安藤重信連判状を大久保忠隣に発給する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月25日 36歳
未刻(13-15時)、徳川秀忠小田原城(相模国)に到着する。秀忠は小田原にいた父・家康と対面する。対面中に、本多正信藤堂高虎が加わり密談する。秀忠は小田原城二ノ丸に戻る。
26日の早朝より、小田原城を破却するように家康が命じる。それにより、江戸・駿府の諸卒が、早くも石垣を崩し、大門を破却する。家康は江戸・駿府の諸卒に対し勝手な行為をしないように命じる。
最上家親の飛脚が江戸(武蔵国)より小田原に到着し、18日に最上義光が死去したことを、正信を介し家康に報告する。これにより、家康は家親に領国へ帰国し、後処理をするよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月26日 36歳
前田利光より小田原(相模国)にいる徳川家康のもとに使者が到着する。利光より、高山重友内藤如庵をキリスト教徒により捕らえ、京都所司代の板倉勝重のもとに移送したこと、領内のキリスト教について宗旨替えしない者を記録し、家康の献上したことを、本多正信正純父子を介し家康に報告する。家康より、日本国内のキリスト教徒について、宗旨替えしない者については津軽(陸奥国)に流罪とすることを、正信・正純父子に命じ、両名がその触をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月27日 36歳
徳川家康が小田原(相模国)を発し、三島(伊豆国)に到着する。保田甚兵衛、島弥左衛門が、27日の家康の箱根山通行の安全を期すため、26日の夜より三島に駐留し往来の者を止める。
徳川秀忠よりの使者として成瀬正武が家康のもとに到着し、酒肴を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月30日 36歳
駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに徳川秀忠からの使者として土井利勝が到着する。本多正純と利勝が家康と密談する。
長谷川藤広が献上した砂糖20斤が駿府城に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月2日 36歳
徳川秀忠の催した茶会に細川忠興織田有楽斎金森可重が参会する。
出典:『細川家記』14「忠興」8

慶長19年 1614年 2月2日 36歳
徳川家康の命により、大久保忠隣が京都(山城国)より近江国内の所領に移る。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月20日 36歳
徳川秀忠の使者として土井利勝が駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月21日 36歳
徳川家康土井利勝を召し、本多正純とともに閑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月22日 36歳
徳川家康土井利勝を召し密談する。利勝は江戸(武蔵国)に向けて出立する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月1日 36歳
徳川秀忠の使者として水野忠元駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着し、上巳の祝儀を祝う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月29日 36歳
徳川秀忠の使者として土井利勝が駿府(駿河国)に到着する。
田中忠政駿府城(駿河国)の普請のため、駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月8日 36歳
江戸城(武蔵国)の普請につき根石を置く。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月20日 36歳
勅使の広橋兼勝・三条実條、藪宰相、日野、広橋兼賢、高倉が駿府城(駿河国)に登城し徳川家康に会う。勅使の意趣は、徳川秀忠の娘を入内すること、家康に太政大臣か准三后従一位に任官することを伝える。家康よりは、「公家中之法式」を糺すこと、諸公家の記録を書写し進上することを伝える。実條が『三代実録』を所持していることを家康に伝える。
曲直瀬玄朔が家康に謁す。
京都より家康のもとに飛脚が到着し、方廣寺大仏殿(山城国)の鐘鋳に唐金17000貫目余、鞴数132丁、桶4筋、鋳物師棟梁は山城国釜之座弥右衛門・同助左衛門、脇棟梁11人、諸国鋳物師3100余人、鐘の口9尺1寸5分、高1丈8寸、厚9寸だったことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月27日 36歳
徳川秀忠の使者として安藤重信が駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月28日 36歳
徳川秀忠の使者として安藤重信駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。20日の朝廷からの任官の申し出について、秀忠には異議がないことを家康に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 5月5日 36歳
徳川秀忠の使者として酒井忠世が駿府(駿河国)に到着する。秀忠の右大臣従一位の任官の礼のためという。日次が悪いとして忠世の出仕は8日とされる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 5月8日 36歳
徳川秀忠の使者として酒井忠世駿府城(駿河国)奥之常之御座にて徳川家康に銀3000枚・太刀(銘 光長)・馬(黒鹿毛)を献上する。本多正純、阿茶局が披露する。
忠世が家康に礼をする。蝋燭500挺・太刀・馬を献上する。家康は忠世に刀(銘 長光)を下賜する。忠世は江戸(武蔵国)に帰るべく駿府(駿河国)を発つ。
加藤忠広の名代として加藤正方が駿府城の礼をする。蒲生秀行の娘を秀忠の養女としたうえで忠広に嫁がせたことを謝し、緋繻子20、黒繻子20、服10領
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 6月4日 36歳
徳川秀忠の使者として成瀬正武駿府城(駿河国)にいる徳川家康に、諸大名による江戸城(武蔵国)の石垣を構築が半ば完成していること、雨により延引していること、諸国で洪水が起こり堤や橋が損壊していることを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 6月24日 36歳
松平忠輝の使者として吉田が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着し、高田城(越後国)普請の進捗状況を報告する。
徳川秀忠の使者として青山重政が家康のもとに到着し御内書を渡す。家康より江戸城(武蔵国)石垣普請のことを尋ねられ応答する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月3日 36歳
8月3日に方廣寺大仏殿の大仏開眼供養が行われ、導師は仁和寺門跡であるとの勅諚が出たことを、金地院崇伝徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月7日 36歳
徳川秀忠の使者・水野忠元が七夕の祝儀として駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに赴き帷子5領を進上する。家康より江戸城(武蔵国)普請のことを尋ねられる。
豊臣秀頼の使者として山口左馬允が家康のもとを訪れ、七夕の祝儀として黄金10枚を贈る。また左馬允からの進物として紫皮10枚・太刀・馬を家康に献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月8日 36歳
南光坊天海徳川家康方廣寺(山城国)の大仏開眼供養のことについて、仁和寺門跡が出仕することへの異論を訴える。家康は以心崇伝を介し片桐且元に、近年の事例ではなく聖武天皇や源頼朝の時代の例を調べるよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月13日 36歳
徳川秀忠の使者として土井利勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ、前田利長の隠居領である能登国160000石について、前田利光に給付すべきか否か相談する。家康は前田家家老の前田長種、水原新左衛門、奥村栄頼本多政重を呼び、利光の妻である珠に30000石を給付すること、利光は若年によりよくよく後見するようにと命じる。家老衆は感涙し退出する。家老衆はそれぞれ家康に加賀絹50疋を献上する。また、利長の遺物である脇差(銘 不動正宗)・刀(銘 備前三郎)を家康に献上する。本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月14日 36歳
徳川秀忠が父・家康に定家自筆『伊勢物語』を贈る。土井利勝が持参する。林羅山は家康に読み聞かせをする。この本は後土御門天皇の御物で、畠山義総三好長慶と伝わり、三好家没落後は堺(和泉国)にあったが、細川藤孝が入手し、松平忠吉が藤孝に所望して入手し、忠吉没後は秀忠に進上されたものとされている。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月18日 36歳
京都(山城国)の板倉勝重片桐且元より以心崇伝をもって駿府城(駿河国)にいる徳川家康方廣寺(山城国)の大仏開眼供養について報告がある。8月3日の朝、仁和寺門跡を導師とし、日中の供養は天台宗を左座とすること、鷹司が大仏殿に着座し、公家衆は堂内に着座することなどを伝える。なお、頼朝時代の開眼供養について、家康が『吾妻鑑』を読ませる。
多武峰(大和国)が崩れ、大織冠社檀が破損したこと、ただし藤原鎌足像は無事で他所に移したことを崇伝と竹林坊が家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月21日 36歳
飛鳥井中納言が徳川家康に『源氏物語』を講釈する。
駿府城(駿河国)数寄屋にて家康が近習4、5人と金地院崇伝板倉重昌を召し、方廣寺(山城国)の鐘の銘文が「関東不吉」であると述べたうえで、上棟式の日程についても吉日ではないとして立腹する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月24日 36歳
徳川秀忠の使者として成瀬正武が駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月25日 36歳
徳川秀忠の使者として成瀬正武駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月26日 36歳
南光坊天海徳川家康に天台血脈を伝授する。
片桐且元板倉勝重の書状が家康のもとに届く。内容は方廣寺大仏供養は8月3日、開眼供養は8月18日にするようにとの家康の指示だが、18日は豊国臨時祭のため3日に開眼供養を開催したいと豊臣秀頼が述べていたことを伝える。家康はこの返事として、大仏供養のことについて棟札の記載と鐘の銘文に立腹していることを伝え、頼朝時代には大仏開眼と堂供養は分けて実施しているので先例に倣うようにと本多正純金地院崇伝をして伝えさせる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月2日 36歳
中井正清駿府城(駿河国)にいる徳川家康方廣寺(山城国)の鐘の銘文を送る。銘文の筆者は東福寺(山城国)の清韓で、家康は「国家安康」の語をはじめ文章に不快感を示す。銘文の写しを作成し、徳川秀忠に送る。担当は林羅山
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月4日 36歳
中井正清より駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに方廣寺(山城国)大仏殿の棟札写しがもたらされる。棟札執筆者は照高院道勝。家康は棟札の文章に不快感を示す。鐘の銘文についても、奈良の大仏の鐘銘になぞらえるようにと伝えたのに異なっていたこと、また豊臣秀頼が京都(山城国)に赴くならば、供奉の者を諸大夫に任官すべきと伝えたが、諸大夫の任官だけして秀頼の京行きは中止となったことに不審の念を示す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月5日 36歳
片桐且元より駿府城(駿河国)にいる徳川家康方廣寺(山城国)大仏殿の鐘銘・棟札が到着する。4日に中井正清が提出したものと同文であることを確認する。家康は鐘銘の善悪を五山衆に問うべく、板倉重昌を京都(山城国)に遣わすこととする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月18日 36歳
板倉重昌が京都より駿府城(駿河国)の徳川家康のもとに戻る。方廣寺大仏殿梵鐘の銘文について五山碩学の長老7人の批判文を持参する。家康はその批判文を読んだうえで、南光坊天海以心崇伝林羅山を呼び、批判文より英叟清韓の文書の難点を指摘するよう命じる。
片桐且元が丸子寺に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月19日 36歳
片桐且元が駿府(駿河国)に到着する。
徳川家康方廣寺(山城国)鐘銘についての五山衆の批判文の写しを徳川秀忠に送る。林羅山が担当。
於大の13回忌として家康が銀100枚を増上寺(武蔵国)に送る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月28日 36歳
江戸(武蔵国)にて大風があり、城下の家屋や寺社が倒壊する。伊達政宗前田利光の屋敷が倒壊する。
山城国・河内国・近江国にて堤が崩れ、百姓は家を流され溺死するとされる。
徳川秀忠の使者として水野忠元駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面する。本多正純を交え、大坂城(摂津国)にて豊臣秀頼が牢人を召し抱えていることについて家康が立腹している件で密々の相談をする。
出典:『駿府記』同年月日条、同9月1日条、同9月4日条

慶長19年 1614年 8月30日 36歳
徳川家康の使者として本多正純徳川秀忠のもとに赴くべく、駿府(駿河国)を発つ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月7日 36歳
本多正純が江戸(武蔵国)より駿府(駿河国)に戻る。徳川家康片桐且元のもとに正純・金地院崇伝を遣わし、家康の意向として、豊臣秀頼から且元・片桐貞隆に知行給付するようすると伝える。断れば不義となることを且元兄弟に伝える。また、秀頼が家康・秀忠父子を調伏しているとの風説があることを伝える。大蔵卿局にも同じことを伝える。
舟橋秀賢の子が家康に継目の礼をする。秀賢の遺物である『三代実録』50巻を家康に献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月9日 36歳
巳刻(9-11時)、徳川家康駿府城(駿河国)御書院に赴く。公家衆が出仕する。
徳川秀忠が使者として神尾守世が家康に重陽の御服5領を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月9日 36歳
里見忠義徳川秀忠のもとに出仕をしようとしたところ、秀忠の命により安房国からの国替えと大久保忠職のもとで謹慎するよう命じられる。大久保忠隣の改易処分に連座したものとされる。館山城(安房国)の接収のため、本多忠朝、内藤政長等が遣わされることが決まる。秀忠は忠朝・政長に忠義の家臣が城の明け渡しを拒むようなら、家臣を殺害してもかまわないとし、従うならば鹿島(常陸国)に移ること認めると指示する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月14日 36歳
徳川秀忠の使者として土井利勝が駿府(駿河)に到着する。土井利勝が利勝の到着を密かに徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月16日 36歳
前田利光が駿府(駿河国)に到着する。午刻(11-13時)、駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに利光が礼をする。利光は黄金100枚・紅染絹200疋・白絹100疋を献上し、家康に対面する。家康は利光に太刀(銘 守家)・脇差(銘 長光)を賜う。本多正純が下賜物を伝達する。利光の家臣である奥村栄明奥村栄頼が家康と対面する。服を献上する。
夜、家康が利光に継目の朱印状を発給する。正純、土井利勝が利光のもとに持参する。
家康が利光に、17日朝に徳川秀忠のもとに戻るよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月18日 36歳
片桐且元が駿府(駿河国)より大坂城(摂津国)に戻る。且元は豊臣秀頼淀殿に、今後、徳川秀忠との不和を生じないよう、秀頼か淀殿のいずれかが江戸(武蔵)在府をするか、秀頼が大坂城を出て他国に国替えをしてはどうかと徳川家康より提案があったことを伝える。秀頼・淀殿はこの提案を不快とする。
出典:『駿府記』同年月25日条

慶長19年 1614年 9月20日 36歳
徳川家康が日善と対面する。
蒔田権佐が菓子を家康に献上する。
幸若小八郎が駿府城(駿河国)にて舞曲(文覚)を舞う。
江戸(武蔵国)より伊丹康勝・鎮目市左衛門が駿府(駿河国)に到着する。
大久保忠隣の娘婿・里見忠義が館山(安房国)より米子(伯耆国)に国替となる。本多忠朝・内藤政長が館山城(安房国)の請取に赴くこととなる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月23日 36歳
大坂城(摂津国)城内にて片桐且元貞隆兄弟を殺害するとの風聞があったため、且元・貞隆が登城を控える。
出典:『片桐家秘記』、『駿府記』同年月25日条

慶長19年 1614年 9月25日 36歳
大坂(摂津国)にて豊臣秀頼の命により大野治長青木一重、石川貞政、薄田兼相渡辺糺木村重成、織田頼長等が、片桐且元を殺害せんとする。且元はこの計画を知り、自邸に籠居する。
且元の飛脚が駿府(駿河国)に到着する。その飛脚は、18日に且元が秀頼・淀/茶々に、徳川秀忠との関係悪化を回避するため、秀頼・淀殿のいずれかが江戸(武蔵国)に在府するか、秀頼が大坂城(摂津国)を出て国替えに応じるか徳川家康より提案があったことを伝えたが、秀頼・淀殿は不快の意を示したこと、その後、且元を殺害するとの密告があったため且元は出仕を控えていることを伝える。本多正純が家康に飛脚の報告内容を伝える。
出典:『駿府記』同年月日条・同年10月1日条

慶長19年 1614年 10月1日 36歳
板倉勝重よりの飛脚が駿府(駿河国)に到着する。勝重の書状には大坂(摂津国)にて豊臣秀頼の命により大野治長青木一重、石川貞政、薄田兼相渡辺糺木村重成、織田頼長等が、片桐且元を殺害せんとし、計画を知った且元が自邸に籠居したことを、本多正純板倉重昌徳川家康に報告する。
家康はこの事件に立腹し、大坂に向けて出陣することを近江国、伊勢国、美濃国、尾張国、三河国、遠江国に触れ、徳川秀忠にも伝える。
勝重よりの書状が、再度、駿府(駿河国)に到着し、織田頼長が、且元が駿府に赴いたならば、秀頼を大坂城(摂津国)より追い出し、織田常真を大将として籠城するつもりであると家康に報告する。
且元・貞隆兄弟が大坂城を退去し、居城・茨木城(摂津国)に入る。
出典:『片桐家秘記

慶長19年 1614年 10月4日 36歳
徳川秀忠大坂城(摂津国)の豊臣秀頼を攻めるべく、関東、陸奥に陣触を出す。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月5日 36歳
板倉勝重の飛脚が駿府(駿河国)に到着し、豊臣秀頼大坂城(摂津国)を整備し、牢人を召し抱え、籠城の準備をしていると、駿府城(駿河国)にいる徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月6日 36歳
板倉勝重の飛脚が駿府(駿河国)に到着し、勝重宛の織田有楽の書状を駿府城(駿河国)にいる徳川家康に届ける。有楽の書状には、片桐且元による家康との交渉が不調に終わったことを豊臣秀頼が折檻したため、且元・貞隆兄弟は茨木城(摂津国)に退くことになり、大坂城(摂津国)は大騒動となったが、長益・頼長父子は家康・秀忠父子に対する野心はない伝える。
江戸城(武蔵国)普請役を終えた細川忠利が箱根(相模国)にて大坂の騒動を聞きつけ、この日、駿府(駿河国)に到着する。忠利は、父・忠興が肥後国に在国しているので、家康・秀忠に随従し、大坂城攻めに先手を命じるようにと本多正純を介して家康に伝える。家康は忠利の申し出を神妙として、江戸に赴くよう指示する。
江戸城(武蔵国)普請役を終えた中川久盛が駿府(駿河国)に到着し、家康に対面する。家康は久盛に岡城(豊後国)に帰国し、軍勢を整え、指示を待つようにと伝える。
奥平信昌の飛脚が駿府(駿河国)に到着する。奥平忠政が10月2日に死去したことを、正純を通じて家康に伝える。家康は加納(美濃国)は、忠政の弟・松平忠明が率い、大坂に出陣し、父・信昌は愁嘆であろうから加納城(美濃国)を守備するようにと指示を出す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月7日 36歳
江戸城(武蔵国)普請役を終えた京極高知京極忠高森忠政田中忠政が駿府(駿河国)に到着する。駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康は4名に急ぎ領国に帰国し、軍勢を整え出陣の指示を待つようにと伝える。
片桐且元貞隆兄弟の使者として小島勝兵衛・梅津忠介が駿府(駿河国)に到着する。両使は本多正純を介し、且元・貞隆が大坂城(摂津国)より茨木城(摂津国)に退いたことを家康に報告する。家康は両使を召し出し、服・羽織を下賜したうえで、且元・貞隆へ茨木城への退出を神妙と書状をもって伝える。
大坂城攻めにあたり、家康が駿府城(駿河国)の留守居を松平紀伊守、三宅宗右衛門に命じる。
家康が彦坂光正に西国の早船を調べ櫓を取り上げるように命じる。
家康が沼津城(駿河国)の留守居を長野九左衛門に命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月8日 36歳
朝、徳川家康藤堂高虎大坂城(摂津国)攻めの先陣として、天王寺(摂津国)から攻め入るべく、紀伊国・美濃国・尾張国・伊勢国・遠江国・三河国の諸勢と大和国まで進むようにと命じる。
徳川秀忠の使者として土井利勝が駿府(駿河国)に到着する。利勝は、大坂城攻めにつき、家康が出陣するとのことだが、秀忠の意向としては家康は関東・江戸の仕置きをして欲しいとの思いがあり、再三、家康に翻意を促すが、家康は先ず上洛し、大坂城の状況をみてさしたることがなければ処置をした後、駿府に戻るが、豊臣秀頼が籠城するならば秀忠に同城を攻撃を指示するという。なお、その際は、秀忠に軍勢100000をもって陸奥の仕置きをした後、上洛するようにと伝える。加えて、江戸城(武蔵国)の留守居を松平忠輝蒲生忠郷奥平家昌最上家親鳥居忠政酒井重忠酒井忠利、内藤清次とするよう利勝に指示する。利勝は江戸(武蔵国)にむけすぐに駿府を発つ。
江戸城普請を終えた竹中重利が駿府に到着し、家康と対面する。家康は、重利が福島正則と知音なので、使者として赴くようにと伝える。家康が重門を通じて、このたび秀頼が織田長益大野治長木村重成、渡辺守の所為か、家康・秀忠父子に悪逆を構えていることについて、豊臣秀吉は正則を好み、故に正則は秀頼と疎むことはないが、家康・秀忠への秀頼の敵対は、秀頼本人の意思ではないにせよ、もはや互いに疑心暗鬼の状況であるから戦は避けられないので、福島勢は子・忠勝が率いて大坂に出陣し、正則は江戸に留まるようにと正則に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月9日 36歳
最上家親が駿府(駿河国)に到着する。駿府城(駿河国)にいる徳川家康に継目の礼をする。銀500枚・綿500把・蝋燭1000挺・馬(鴇毛)・太刀(銘 正恒)と、父・義光の遺物として黄金100枚・脇差(銘 来国俊)を献上する。本多正純が披露する。家康は家親に大坂城(摂津国)攻めにつき、江戸城(武蔵国)の留守居をするように指示する。家親は江戸(武蔵国)に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月10日 36歳
江戸城(武蔵国)の普請を終えた浅野長晟鍋島勝茂山内忠義蜂須賀至鎮小出吉英稲葉典通遠藤慶隆毛利高政が駿府(駿河国)に到着し、駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康は大坂城(摂津国)攻めにつき、領国に戻り軍勢を整え指示を待つように伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月11日 36歳
辰刻(7-9時)、大坂城(摂津国)攻めのため徳川頼宣駿府城(駿河国)より出陣する。安藤直次・水野重央等の数百騎が随従する。
巳刻(9-11時)、徳川家康が駿府城より出陣する。家康は道中に鷹狩をする。家康勢は、午刻(11-13時)、本多正純指揮のもと出陣する。石川忠総が随従する。申刻(15-17時)、家康は田中(駿河国)に到着する。田中に到着した家康のもとに板倉勝重よりの飛脚が到着する。豊臣秀頼の籠城の様子について、金銀を取り出し、大坂(摂津国)近辺の米を買い入れ、武具を城内に入れ、惣構に壁を構築し、番匠を雇い入れ櫓に置いていると伝える。
彦坂光正が天龍川に架ける舟橋について、家康の通行以前に諸人の往来をしてもよいか家康に伺う。家康は諸人の往来は許すが、軍勢が渡った後は、他の軍勢の追撃を受けないよう舟橋を破却するようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『石川忠総家臣大坂陣覚書』、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 10月12日 36歳
申刻(15-17時)、徳川家康が掛川(遠江国)に到着する。夜、家康のもとに茨木城(摂津国)より大野治純と片桐且元の使者が到着する。家康は治純を召し出し、大坂城(摂津国)の様子を尋ねる。治純は、豊臣秀頼による籠城の準備は、織田有楽、織田頼長、木村重成渡辺糺大野治長等の秀頼側近が急に企てたことであると述べる。
京都(山城国)にいる板倉勝重より家康のもとに飛脚が到着する。飛脚は、10月6・7日に京都にいた牢人の内、長宗我部盛親後藤基次、仙石秀範、明石全登、松浦重政等の1000人余を秀頼が金銀にて召し抱え籠城しているとし、豊臣勢が大和国に攻め入り、宇治(山城国)・槙島(山城国)まで出て放火し、茨木城を攻めて且元・貞隆兄弟を討ち取るとの噂があると報告する。
秀頼が(和泉国)を攻めるというので、堺の町人が秀頼に帰服し、鉄砲・弾薬・武具を大坂城(摂津国)に運び入れる。堺政所の芝山小兵衛は、無勢につき堺を出て岸和田(和泉国)に退く。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月15日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月13日 36歳
徳川家康が中泉(遠江国)に到着する。道中、鷹狩をする。徳川秀忠より家康のもとへ板倉重宗が到着する。
福島正則の使者と竹中重利の書状が江戸(武蔵国)より家康のもとに到着する。正則より、豊臣秀頼大坂城(摂津国)で籠城準備をしていることについて、秀頼と淀殿の野心を批判し、秀頼近習が若輩故かとして、秀頼に書状をしたためたことを家康に伝える。正則の書状は本多正純が内容を確かめる。その書状には、方廣寺(山城国)のことについて、家康・秀忠に対し交戦姿勢を示すのは天魔の所業であるので、すぐに改心し、淀殿にいたっては家康・秀忠に詫び、江戸か駿府(駿河国)に在国し、秀頼の無事を確保するのが大切であると述べる。正則は江戸に妻子を置き、家康・秀忠に対し無二の忠節を誓っている。もし秀頼が改心しないのであれば、正則を始め天下の諸勢が大坂城に向かい、同城を攻め落とすのは間違いないから、よくよく考え、生きながらえるか自滅するかを思案するようにと記されていたとされる。
長崎(肥前国)より長谷川藤広の飛脚が家康のもとに到着する。9月24日にキリスト教徒100余人と高山重友内藤如庵、長崎のキリスト教徒を、船にて天川(マカオ)に遣わしたと報告する。
夜、黒田蔵人と安藤直次所従が喧嘩をする。
秀頼が槙島昭光を大将に軍勢300を(和泉国)に出す。片桐且元が加勢として軍勢200を堺に派遣する。秀頼と片桐勢が戦い、片桐勢は多羅尾半左衛門、牧治右衛門が戦死し、今井宗薫、今井宗呑が戦死したと噂される。且元勢は尼崎(摂津国)に退くが、秀頼勢が追撃し、7、8騎を討ち取る。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月16日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月14日 36歳
卯刻(5-7時)、徳川家康が中泉(遠江国)を発ち、道中を鷹狩をしながら、天龍川二瀬の舟橋を渡り、午刻(11-13時)に浜松(遠江国)に到着する。二瀬舟橋は大石十右衛門、豊島作右衛門が架ける。
京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。勝重よりは、大坂城(摂津国)の様子に変わりはないものの、豊臣秀頼が多くの牢人を召し抱えていることを注文に書き載せ報告する。秀頼は高野山(紀伊国)にいた真田信繁が黄金200枚・銀30貫にて召し抱えたこと、若原良長が播磨国の牢人衆を召し連れ大坂城に入城したこと、淀殿縁者の浅井井頼、根来衆300騎等、数多くの牢人衆が秀頼に召し抱えられたことを伝える。
徳川秀忠の使者として松平正勝が家康のもとに到着する。
江戸城(武蔵国)の普請を終えた加藤忠広が浜松にて家康に対面する。家康は忠広に急ぎ領国に戻り、軍勢を整え、肥後国を守り、指示を待つようにと伝える。また家康は忠広に雁2、肥後守を賜う。松平正久が忠広に伝える。
江戸城の普請を終えた脇坂安元が浜松にて家康に対面する。家康は安元にすぐに伊予国に戻り、大坂城に向けて出陣し、藤堂高虎に組するようにと伝える。
伯耆国の代官である伊丹・山田が家康に伯耆国の午年の物成銀150貫を進上する。
家康が本多正純を召し出し、本多忠政を始めとする伊勢国の軍勢を、淀・鳥羽(山城国)に進めるように指示する。
松平忠直の軍勢15000に早々、淀・橋本(山城国)に出陣するように家康が命じる。
徳川義俊名古屋城(尾張国)より出陣し、一宮(尾張国)に到着する。
前田利光金沢城(加賀国)を出陣する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月16日条・同年月18日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月15日 36歳
徳川家康吉田(三河国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。勝重は、10月12日に豊臣秀頼(和泉国)を攻めるというので、堺の町人が秀頼に帰服し、鉄砲・弾薬・武具を大坂城(摂津国)に運び入れたという。堺政所の芝山小兵衛は、無勢につき堺を出て岸和田(和泉国)に退いたという。
10月9日に、堺を出た町人の柏尾宗具が家康のいる吉田に到着する。家康は宗具を召し出す。宗具は大坂城の籠城の様子と、秀頼が堺を放火するとの噂があったので妻子を郷に隠し、家康の旗本に加わることを述べる。家康は宗具を称える。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月16日 36歳
徳川家康岡崎(三河国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。10月13日に豊臣秀頼が槙島昭光を大将に軍勢300を(和泉国)に出す。片桐且元が加勢として軍勢200を堺に派遣する。秀頼と片桐勢が戦い、片桐勢は多羅尾半左衛門、牧治右衛門が戦死し、今井宗薫、今井宗呑が戦死したと噂される。且元勢は尼崎(摂津国)に退くが、秀頼勢が追撃し、7、8騎を討ち取る。この報を受け、家康は上洛を急ぐ。
福島正則が家康に書状を送る。正則は江戸(武蔵国)にあり、妻子を江戸城(武蔵国)に置くという。
徳川秀忠の使者として成瀬正武が家康のもとに到着する。正武は、伊達政宗上杉景勝佐竹義宣が江戸に到着したので、秀忠が出陣したいと述べていることを伝える。家康は秀忠が準備ができ次第、出陣してもよいと返答する。
松平忠直坂本(近江国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月18日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月17日 36歳
未刻(13-15時)、徳川家康名古屋(尾張国)に到着する。古田重然、半井驢庵が家康を出迎え、家康は名古屋城(尾張国)追手門外で対面する。
徳川義俊が赤坂(美濃国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月18日 36歳
雨により徳川家康名古屋(尾張国)に逗留する。京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。飛脚は豊臣秀頼大坂城(摂津国)にて籠城の準備を進めていること、戦死したと噂されていた今井宗薫・宗呑父子は秀頼勢に捕縛されていたことを家康に報告する。
前田利光の飛脚が家康のもとに到着する。利光は10月14日に金沢城(加賀国)を出陣し、近々、京都に到着することを伝え、陣所の位置について家康の指示を乞う。家康は、淀・鳥羽(山城国)近辺を陣所とするように指示する。
松平忠直の飛脚が家康のもとに到着する。忠直勢が16日に坂本(近江国)に到着したことを報告するとともに陣所の位置について指示を乞う。家康は、西岡・東寺(教王護国寺)・九条・山崎(山城国)辺りを陣所とするように指示する。
徳川義俊が柏原(近江国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日・19日条

慶長19年 1614年 10月19日 36歳
午刻(11-13時)、徳川家康が岐阜(美濃国)に到着する。徳永昌重の飛脚が家康のもとに到着する。昌重より豊臣秀頼の披露状が家康のもとにもたらされる。秀頼は昌重に、片桐且元に不届きであったので、且元を折檻をしたところ、家康が立腹し出陣するまでに至ったのは思いがけないことであり、秀頼は家康・秀忠父子に野心はないことを伝えてほしいと伝える。この披露状の内容を本多正純が家康に伝えたところ、家康は、秀頼は若輩ゆえ織田有楽大野治長が謀をめぐらし、秀頼の意向と偽って、治長から前田利長に書状を送り、上洛して秀頼を補佐を依頼するとともに、兵粮として抱えている福島正則からの米30000石と秀頼蔵納の70000石を進退を委ねると伝えていることを、利長の死後、利光より報告を受けているので、秀頼方に家康・秀忠への敵対心があることは間違いないと述べる。
家康は正純をして、島津家久毛利宗瑞鍋島直茂黒田長政福島忠勝池田利隆池田忠継池田忠雄浅野長晟蜂須賀至鎮加藤嘉明森忠政田中忠政生駒正俊に軍勢を率い、大坂城(摂津国)に押し寄せるように命じる。
徳川義俊が永原(近江国)に着陣する。
本多忠政が枚方(河内国)に陣取る。
松平忠明等の美濃勢が淀(山城国)に陣取る。
三河国の諸勢が鳥羽(山城国)に陣取る。
藤堂高虎が大和路に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月20日 36歳
徳川家康柏原(近江国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着し、豊臣秀頼二条城(山城国)まで押し寄せ放火するとの噂があることを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月21日 36歳
徳川家康佐和山(近江国)に到着する。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 10月22日 36歳
徳川家康が永原(近江国)に到着する。京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)攻めのため京都に到着した先陣諸勢の兵粮米について、(和泉国)の南北町中より支出の旨、申し出がったことを報告する。
家康が竹中重利を召し出し、福島忠勝とともに安芸国・備後国に赴き軍勢を整え、大坂(摂津国)まで出陣するように指示する。また、備後国には鍛冶が多くいるので、鉄楯を生産するように指示する。
家康が大坂に居住し、この日、永原に到着した前庭を召し出し、豊臣秀頼の軍備の様子を尋ねる。前庭は万事が淀殿の意向で決まるので、配下は困惑していると伝える。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)に到着した軍勢を閲兵する。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 10月23日 36歳
卯刻(5-7時)、徳川家康が永原(近江国)を発ち、矢橋(近江国)より早船にて膳所(近江国)に到着する。船中、戸田氏鉄が家康に御膳を献じる。午刻(11-13時)、家康は二条城(山城国)に到着する。家康は、片桐孝利を召し出す。孝利はは、このたび大坂城(摂津国)で家康に別心を構えた者について報告する。
福島正則豊臣秀頼に送った使者が、二条城に戻ってくる。秀頼の正則への返書は無かったとされる。
家康が片桐且元藤堂高虎を召し出し、大坂城の堀の深さを尋ねるとともに、大坂城攻めの諸口の様子を、絵図を用いながら聞く。
徳川秀忠よりの使者として青山重長が家康のもとに到着する。家康は秀忠に出陣を指示する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 10月23日 36歳
徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。
供奉衆:酒井忠世青木信安野呂守景が随従する。
江戸城の留守居として酒井重忠を置く。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項、同161「青木信安」の項

慶長19年 1614年 10月23日 36歳
豊臣秀頼二条城(山城国)近辺を焼き討ちすべく遣わした山伏60人の内、20人が捕縛される。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 10月23日 36歳
前田利光率いる軍勢20000、松平忠直率いる軍勢10000が下京(山城国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 10月24日 36歳
二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに、勅使として広橋兼勝、三条実條が赴く。
家康が大坂城(摂津国)攻めの先手の諸大名衆と対面する。
徳川秀忠の使者として水野忠元が家康のもとに到着する。秀忠の出馬を早く認めてもらうよう家康に伝えたところ、家康より伊達政宗上杉景勝佐竹義宣を先手として急ぎ出陣するように言い渡す。
秀忠が神奈川(武蔵国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月25日 36歳
未刻(13-15時)、山城国で大地震あり。
二条城(山城国)にて徳川家康藤堂高虎片桐且元を召し出し、大坂城(摂津国)包囲の先手を命じる。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)を発ち、宇治(山城国)に陣取る。
徳川秀忠が小田原(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 10月26日 36歳
二条城(山城国)にて徳川家康豊臣秀頼のもとにいた織田常真と対面する。常真は家康に内通しており、家康は知行を給付すると常真に伝える。
家康が池田利隆浅野長晟鍋島勝茂等の諸大名と対面する。理由は、利隆等が江戸城(武蔵国)の普請後、そのまま家康に軍列に加わったため金子を持ち合わせておらず軍備に不自由しているので、銀子の借用を後藤光次を介して家康に依頼する。家康は銀200貫目を貸し与える。
京極采女正が家康に対面し、奈良柿1000を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月26日 36歳
徳川秀忠が三島(伊豆国)に到着する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月27日 36歳
一乗院、喜多院が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。
宝性院、片桐貞隆が家康に対面する。
石川貞政、池田利隆が二条城奥ノ間にて家康と対面し、大坂・尼崎(摂津国)の絵図でもって軍陣を様子を説明する。
夜、徳川秀忠の飛脚が家康のもとに到着する。秀忠は23日に江戸城(武蔵国)を出陣し、24日には藤沢(相模国)に到着したことを報告する。家康は、数万の軍勢の移動であるので、ゆるゆると進軍するようにと伝える。
、五山衆が南禅寺金地院(山城国)にて諸家記録1本を3部ずつ写本を作成し、禁裏、江戸城、駿府城(駿河国)にそれぞれ保管するように命じ置く。担当は金地院崇伝林羅山
(和泉国)の南北町が家康に銀200枚を献上する。成瀬正成が家康に披露する。
秀忠勢が三島(伊豆国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月29日条

慶長19年 1614年 10月27日 36歳
徳川秀忠が清水(駿河国)に到着する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月28日 36歳
徳川秀忠が掛川(遠江国)に到着する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月29日 36歳
徳川秀忠の使者として永井尚政二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。秀忠の軍勢が27日に三島(伊豆国)に到着したことを報告する。
夏に勘気を蒙った池田光重が、板倉勝重を介し、家康に大坂城(摂津国)攻めに先手に加わりたいと嘆願する。家康はその申し出を殊勝とし、有馬豊氏勢の先手を勤めるようと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月29日 36歳
徳川秀忠が吉田(三河国)に到着する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月1日 36歳
徳川秀忠が岡崎(三河国)に到着する。
出典:『当代記』同年月2日条

慶長19年 1614年 11月2日 36歳
吉田(三河国)より徳川秀忠の使者として内藤右衛門佐が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。右衛門佐は家康に秀忠が進軍を急いでおり、清水(駿河国)から掛川(遠江国)、吉田(三河国)と進軍したことを報告する。家康は大軍の移動を急がせていることに立腹し、そうしないようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月2日 36歳
徳川秀忠名古屋(尾張国)に到着する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月3日 36歳
大坂城(摂津国)の先陣の片桐且元が、同城を包囲したことを、二条城(山城国)にいる徳川家康に報告する。家康は、指示なく攻め込むことがないように且元に言い含める。
家康が大坂城攻め先陣が布陣する天王寺口に物見として島弥左衛門、本多藤四郎の遣わした物見が、夜、家康のもとに戻ってくる。物見からは道明寺(河内国)近所の小山に藤堂高虎が布陣しており、以下、諸勢の夫人を報告する。家康は城より遠いので、今少し城に陣を寄せるようにとし、松平清正石川忠総古田重治、徳永昌重を平野(河内国)まで進めさせる。
戌刻(19-21時)、伊達政宗の使者として山岡重長徳川秀忠のもとに到着する。重長は本多正信を介し、豊臣秀頼の使者として和久是安が秀頼黒印状を持参し、大坂城攻めにつき秀頼に味方するように依頼があったが、政宗は家康・秀忠の恩を忘れることはできないとし秀頼に同心できないととして、是安を捕縛したことを秀忠に伝える。秀忠は政宗の対応を称賛する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月3日 36歳
徳川秀忠が大垣(美濃国)に到着する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月4日 36歳
徳川秀忠が柏原(近江国)に到着する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月5日 36歳
大坂城(摂津国)より薄田兼相が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退する。松平清正が追撃するも、兼相の撤退が早かったため、追撃を諦め、平野の焼け跡に陣所を構える。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「」「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月5日 36歳
徳川秀忠が佐和山(近江国)に到着する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月6日 36歳
未刻(13-15時)、松平清正の飛脚が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。清正より、11月5日に大坂城(摂津国)より薄田兼相が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退したので、追撃したが叶わなかったため、平野の焼け跡に陣所を構えたと家康に報告がある。
藤堂高虎浅野長晟が住吉(摂津国)に陣取ったと家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第90「花房正成」の項

慶長19年 1614年 11月6日 36歳
徳川秀忠が永原(近江国)に到着する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月7日 36歳
辰刻(7-9時)、池田忠継が吹田川を渡り、中島(摂津国)に陣取る。それを徳川家康に報告する。忠継は大和田川に陣取る。
未刻(13-15時)、有馬豊氏が中島に到着する。
近日中に家康が二条城(山城国)を出陣することが決まる。経路は龍田・法隆寺・郡山(大和国)を通り、住吉(摂津国)に陣取るとする。
蜂須賀至鎮が二条城にいる家康に対面する。家康は至鎮の早々の着陣を喜ぶ。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠継」の項

慶長19年 1614年 11月9日 36歳
徳川秀忠が膳所(近江国)に到着する。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月10日 36歳
徳川秀忠が永原(近江国)を出立する。膳所(近江国)にて戸田氏鉄が膳を献じる。大津・追分(近江国)にて公家衆・僧衆が秀忠を出迎える。追分にて徳川義俊徳川頼宣が秀忠を出迎え、対面する。その後、伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月11日 36歳
午刻(11-13時)、徳川秀忠伏見城(山城国)より徳川家康のいる二条城(山城国)に赴き、奥御座間にて対面する。秀忠は家康に到着を待ってくれたことを謝す。
家康は本多正純成瀬正成安藤直次板倉勝重酒井忠世土井利勝安藤重信を召し出し、13日に大坂城(摂津国)に向かうべく、二条城を発つことを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月13日 36歳
徳川秀忠の使者として土井利勝伏見城(山城国)より二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き密談をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月15日 36歳
卯刻(5-7時)、徳川家康大坂城(摂津国)攻めに赴くべく、二条城(山城国)より出陣する。未刻(13-15時)、家康は木津(山城国)に到着するが、旅館狭小につき、急遽、奈良(大和国)まで進む。奈良奉行・中坊左近が膳を献上する。一乗院、大乗院、喜多院、春日社禰宜が出迎える。
秀忠が大坂城を攻めるべく伏見城(山城国)を出陣し枚方(河内国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月15日 36歳
南部利直が軍勢とともに伏見城(山城国)に到着し、徳川秀忠に謁す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第210「南部利直」の項

慶長19年 1614年 11月16日 36歳
徳川家康法隆寺阿弥陀院に陣取る。
卯刻(5-7時)、徳川秀忠が枚方(河内国)を発し、岡山(河内国)に陣取る。
秀忠の使者として永井尚政が枚方より家康のもとに到着する。秀忠が岡山に着陣したことを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月17日 36歳
徳川家康が住吉(摂津国)に陣取る。家康供奉衆がこの日より甲冑を着す。
住吉にて藤堂高虎浅野長晟蜂須賀至鎮前田利光松平忠直生駒正俊一柳直盛・直重父子、松平清正本多忠政・忠刻、古田重治、桑山元晴、脇坂安元池田忠雄等が家康に対面する。家康は高虎、利光を召し寄せ、大坂(摂津国)の絵図を見せ、攻め口を伝える。
徳川秀忠が平野(河内国)に陣取る。
夜、秀忠の使者として土井利勝が家康のもとを訪れる。明朝、先陣の様子を確認すべく天王寺・茶臼山辺りに赴くよう伝える。
佐竹義宣率いる軍勢1500が大坂(摂津国)に着陣し、玉造口に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第129「佐竹義宣」の項

慶長19年 1614年 11月18日 36歳
徳川家康が住吉(摂津国)より、徳川秀忠が平野(河内国)より茶臼山(摂津国)に赴く。父子は天王寺にて父子が面会する。家康は藤堂高虎本多正信を召し寄せ、大坂城(摂津国)攻めの談判をする。家康は城攻めに際し、付城の築城を命じる。茶臼山について、大坂城の惣構より27.28町のところにあるので、高虎に鉄砲30挺の配備を命じる。その後、家康は住吉に、秀忠は平野の陣所に戻る。
大坂城より明石全登が天王寺に向かって出撃し、藤堂高虎脇坂安元が鉄砲にて応戦する。
向井忠勝が新家(摂津国)に攻め入り、豊臣方の船50挺を奪う。忠勝は福島(摂津国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第103「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月25日 36歳
徳川家康秀忠父子が天王寺に向けて出陣する。
蜂須賀至鎮浅野長晟が穢多ヶ崎砦を攻め、同砦を落とす。石川忠総が博労ヶ淵砦を攻め、同砦を落とす。
至鎮、長晟、忠総は船場(摂津国)に陣取る。
出典:『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月19日 36歳
巳刻(9-11時)、徳川秀忠が住吉(摂津国)にいる徳川家康の陣所に赴き対面する。家康は、大坂の絵図を前に、本多正信本多正純藤堂高虎安藤直次成瀬正成を召し寄せ評定をする。その評定では、淀川の鳥養(摂津国)辺りで川の水を止め、天満口・船場口・天王寺口の四方より一気攻めることを決める。そこで、土俵20万を摂津国・河内国に出すよう命じる。
大野治房薄田兼相の兵が詰めている船場口の穢多ヶ島に、浅野長晟池田忠雄蜂須賀至鎮が攻め入り、大野・薄田勢を追い払う。3名は同地に付城を築く。
伊達政宗の使者・山岡重長が家康のもとを訪れる。家康は伊達勢に木津・今宮に陣取るように伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月21日 36歳
徳川秀忠の使者として土井利勝安藤重信徳川家康のもとを訪れる。家康は大坂近辺に付城を築くよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月25日 36歳
佐竹義宣率いる軍勢1500が京橋(摂津国)に布陣し、豊臣勢と鉄砲を撃ち合う。
徳川家康が、今福に付城を築くため、上杉景勝・義宣に対し、翌朝、同地に陣取る豊臣勢を追い払うようにと命じる。検使は屋代秀正、安藤正次、伊東政世。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

慶長19年 1614年 11月26日 36歳
上杉景勝佐竹義宣が今福に攻め入り、同地を占拠する。今福を守っていた矢野正倫、飯田家貞が戦死する。検使は屋代秀正、安藤正次、伊東政世。
玉造(摂津国)にて義宣が陣場普請をする。その普請の最中、豊臣勢が大坂城(摂津国)より出勢し、義宣家臣の渋江政光率いる佐竹勢と戦い、政光が豊臣勢を破る。
未刻(13-15時)、大坂城より木村重成後藤基次率いる豊臣勢3000が義宣の守る今福を攻めるべく、政光率いる佐竹勢が応戦する。佐竹勢は政光、小野崎通勝、高垣重久が戦死する。その後、重成・基次と義宣が戦う。途中、義宣劣勢につき、鴫野に布陣していた景勝(須田長義、水原親憲等)、榊原康勝が加勢する。重成・基次は大坂城に撤退する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項、同巻第129「佐竹義宣」の項

慶長19年 1614年 11月29日 36歳
朝、蜂須賀至鎮(蜂須賀勢:森氏純、森藤兵衛)、池田忠雄戸川達安花房正成石川忠総九鬼守隆が野田・福島(摂津国)に進軍し同地を守る豊臣勢を破る。豊臣勢は広瀬加左衛門、森長左衛門が戦死する。
守隆、向井忠勝が豊臣方の番船を押収する。豊臣勢は天満(摂津国)に逃れたとする。
天満・船場(摂津国)が焼ける。
徳川方の軍勢が大坂城(摂津国)の船場の惣構の堀際まで押し寄せる。また、大坂城の北に布陣する徳川方の軍勢が備前島近辺に、東に布陣する軍勢が森・河内近辺に押し寄せる。
家康が浅野長晟に博労ヶ淵(摂津国)に陣取るように命じる。使者として成瀬正成を遣わす。
家康が安藤直次を野田・福島に布陣する至鎮、忠雄、達安、正成のもとに遣わし、軍法の遵守を命じる。夜、直次は家康のもとに帰着し、野田、福島、博労ヶ淵の様子について報告する。また、忠雄、至鎮家中で功名のあったものを家康に報告する。家康は功名をあげた者に黄金・服を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条、同年12月4日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠雄」の項

慶長19年 1614年 11月30日 36歳
豊臣勢が船場町、天満町(摂津国)を焼き討ちする。本多正純成瀬正成安藤直次永井直勝が船場、天満に物見に赴き、申刻(15-17時)、徳川家康の陣所に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月1日 36歳
徳川秀忠の使者として本多正信土井利勝徳川家康のもとを訪れ密談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月2日 36歳
徳川家康が茶臼山(摂津国)に赴く。4日に当地へ陣を移すという。家康は単騎で大坂城(摂津国)近くまで赴き、敵勢の様子を確かめる。これを聞き、徳川秀忠が平野(河内国)より家康のもとに合流する。本多正信本多正純成瀬正成安藤直次のみ供をする。申刻(15-17時)、家康は住吉(摂津国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月2日 36歳
有馬直純が徳川家康に対面する。家康・秀忠高橋元種の旧領である延岡(日向国)60000石を直純に給付する。本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月3日 36歳
成瀬正成安藤直次が、徳川義俊徳川頼宣の陣所となる天王寺(摂津国)近辺を検分する。
徳川秀忠が平野(河内国)より岡山に陣を移すこととする。
織田有楽大野治長よりの和睦に関する書状を有楽家臣の村田吉蔵と治長家臣の米村権右衛門が、本多正純後藤光次のもとに到着する。
池田忠継森忠政を天満(摂津国)より船場(摂津国)に戻す。
徳川勢の先手が城より10町もしくは5、6町の近くまで接近する。井伊直孝勢は大坂城(摂津国)三ノ丸の堀近くに竹束を寄せる。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月3日 36歳
徳川秀忠の使者として土井利勝徳川家康のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月3日 36歳
徳川秀忠の本陣の陣屋普請を担当した阿部正次が、普請の最中、黄金30両、金具9塊、南鐐100両の入った小壺を発見する。壺は伊丹康勝が家康に報告する。家康は正次にその壺の中身を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月4日 36歳
徳川家康が住吉(摂津国)より天王寺茶臼山に陣替えする。徳川秀忠が平野(河内国)より岡山に陣替えする。徳川義俊徳川頼宣天王寺(摂津国)に陣取る。義俊に成瀬正虎が随従する。
朝、松平忠直本多富正・本多成重が豊臣勢と鉄砲を撃ち合い、続けて大坂城(摂津国)に攻め上り城壁を突破しかけたところで、豊臣勢が出撃し忠直勢は多くの負傷者を出す。軍監が家康に報告し、家康は安藤直次を忠直のもとに遣わし、すぐに退くように命じる。
井伊直孝勢が大坂城の真田信繁の守る真田丸に攻め込む。真田勢の銃撃により井伊勢の多くが討ち取られる。徳川秀忠の命により井伊勢は撤退する。
未刻(13-15時)、家康が茶臼山に到着する。本多正純の先導のもと家康は陣所の普請の様子を検分する。
家康が富正、成重を召し、忠直の突出のことを問う。富正、成重は制止をしたが忠直が若いため突出したと述べるも、家康は富正、成重に責があると不満をあらわにする。
家康は藤堂高虎の陣所を検分する。大坂城より鉄砲による砲撃があるなか、家康は城近くまで見回りする。
夜、家康は住吉(摂津国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条、同年月日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月5日 36歳
徳川秀忠の使者として土井利勝徳川家康のもとを訪れる。利勝から家康に、豊臣秀頼が秀忠に和睦の申し出があったことを伝える。秀忠はこれだけの軍勢を集めて大坂城を落とせず和睦したとあったら、後難となるので、日を定めて城に攻め入るべきと考えであることを利勝が家康に伝える。家康は、秀忠が憤慨する気持ちはわかるが、小敵と侮らず、また戦は戦わずして勝つことが良将といわれることもあるので、家康の命令に従うようにと利勝に伝える。利勝は岡山の陣所に戻る。秀忠は家康の言を聞き、家康は文武の道、天下無双の大将だが、大坂城攻めについては、なおざりで奇怪なことも多く不快に思う。秀忠の傍にいた本多正信が秀忠に憤りはもっともだが、家康の命には従うようにとなだめる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月6日 36歳
徳川家康が住吉(摂津国)より茶臼山(摂津国)に赴く。徳川秀忠も岡山より茶臼山に赴き、家康と合流し対談する。
藤堂高虎本多正信が家康と対面する。
夜、秀忠の使者として土井利勝が家康のもとを訪れ、家康と密談する。
成瀬正成安藤直次安藤重信が物見として大坂城(摂津国)の周囲を検分する。重信が秀忠のもとに帰還後、午刻(11-13時)に甲山で季節外れに蛙が大量発生し喰い合いする奇怪な場面に遭遇したことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月9日 36歳
藤堂高虎徳川家康大坂城(摂津国)惣攻めの評定をする。
山城忠元、滝川忠征が家康に長柄堤が完成し、河川の水が尼崎(摂津国)に流れ、天満川が浅くなったので、そのうち川が乾くとの報告をする。
青木一重の書状が家康に届く。本多正純が披露する。
家康が永井直勝、青木二郎右衛門を召し寄せ、今夜より諸勢に鬨の声をあげさせ、籠城している者の睡眠を妨げるように命じる。
家康が松平忠直の家老・山本内蔵助を召し出し、攻め口の陣場を言い渡す。
板倉勝重島津家久に大坂(摂津国)への参陣を催促する。
夜、徳川勢より鬨の声と鉄砲が放たれるが、鉄砲のつるべ撃ちを家康が禁止する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第108「島津島津家久(忠恒)」の項

慶長19年 1614年 12月10日 36歳
午刻(11-13時)、徳川秀忠藤堂高虎本多正信徳川家康のもとに赴き、徳川義俊徳川頼宣を交えて相談をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月11日 36歳
徳川家康が間宮新左衛門、島田直時、日向半兵衛を召し、銀山堀衆をもって大坂城(摂津国)の櫓を崩すように命じる。
藤堂高虎井伊直孝前田利光の陣場で堀をつくる。黒田長政が鉛3000斤を家康に献上する。
浅野長晟が家康に城に軍勢を近づけるにあたり堀を埋めるべきか否かを正純を通じて尋ねる。家康はしばし待つようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月13日 36歳
徳川秀忠の使者として土井利勝徳川家康のもとに到着する。大雨につきご機嫌うかがいをする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月13日 36歳
徳川家康中井正清に、大坂城(摂津国)総攻めの際に使用予定の熊手をつけた梯子の準備を命じる。あわせて大名一人につき梯子50本を配布するようにと家康は本多正純に指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月14日 36歳
徳川秀忠の使者として板倉重宗徳川家康のもとに到着する。大雨につきご機嫌うかがいをする。
阿茶局が見舞いとして家康の陣所である茶臼山に到着する。
藤堂高虎が家康と雑談する。
夜、南部利直が薫陸を家康に献上する。安藤直次、興安が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月15日 36歳
徳川秀忠の使者として安藤重信徳川家康のもとに到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日 36歳
徳川家康松平正久、牧野清兵衛、稲富重次に対し、鉄砲練達者数十人を選び、藤堂高虎松平忠直等の攻め口に赴き、小筒・大筒をもって大坂城(摂津国)の矢狭間・櫓に試し撃ちするよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日 36歳
巳刻(9-11時)、徳川秀忠徳川義俊徳川頼宣が岡山の陣所より徳川家康の陣所に赴く。その場に本多正信本多正純藤堂高虎も赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日 36歳
阿茶局が徳川家康徳川秀忠と密談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日 36歳
徳川家康松平忠直と対面する。本多正純土井利勝が取り次ぐ。忠直の成長を見て、徳川秀忠が忠直を重宝していることを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日 36歳
徳川秀忠水野忠元、稲富重次をもって佐竹義宣の陣所の高所より石火矢(大砲)を大坂城(摂津国)に向けて放つ。
浅野長晟が攻め口としている船場の堀川を埋めようとしたところ、大坂城より石火矢が放たれる。砲弾は重さ5-6斤だとされる。家康はその砲弾を自身の陣所にもってこさせて検分する。玉が土俵に埋まらなかったことから、木鉄砲による射撃ではないかと推察する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月18日 36歳
常高院が大坂城(摂津国)より出て、京極忠高の陣所に赴く。阿茶局、本多正純が忠高の陣所に赴き、申刻(15-17時)、阿茶局・正純が徳川家康のもとに戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月18日 36歳
夕方、徳川秀忠の使者として水野忠元徳川家康のもとに到着し、家康に開口魚を献じる。家康は鶴を秀忠に贈る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月19日 36歳
徳川家康徳川秀忠父子と豊臣秀頼の間で和睦がなる。
家康が藤堂高虎仙石忠政と対面する。
家康が松平甲斐守、前田利光松平忠直加藤明成福島忠勝、松平河内守と対面する。
家康が南光坊天海と対面する。
家康が落馬して負傷した子・頼宣の祖父・正木観斎に摩沙円を送る。興安が担当する。
黒田忠長が家康・秀忠父子に対面する。忠長は病が癒えていなかった、それで死すことがあっても城攻めに加わることを述べる。忠長は家康に煙硝5000斤を献じる。井上之房、小河玄蕃允が忠長に供奉する。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『黒田家譜』巻14「長政記」、『菅氏世譜

慶長19年 1614年 12月20日 36歳
徳川家康秀忠父子と豊臣秀頼の和睦につき、徳川勢・豊臣勢ともに鉄砲の撃ち合いを止める。双方、堀際の戦死者の遺体を回収する。
豊臣方の人質請取のため、後藤光次、寺田将監(本多正純家老)が大坂城(摂津国)に赴く。豊臣方は織田有楽の子と大野治長の幼児を人質として差し出すが、光次は治長の子息について幼児を出したことに激昂し、嫡子を差し出すように交渉する。治長は幼児を改め治徳を差し出す。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月21日 36歳
朝、徳川勢による大坂城(摂津国)の堀埋め立てが始まる。
出典:『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月24日 36歳
日の出前、茶臼山(摂津国)の徳川家康の本陣の小姓衆小屋5、6軒が焼失する。松平正久板倉重昌、加賀爪忠澄が本陣の門を堅守し、人の出入りを止める。
徳川秀忠は家康と対面し相談する。秀忠が退去後、本多正信土井利勝が家康のもとに残る。
織田有楽大野治長が人質の大野治徳、織田尚長を連れ家康に対面する。京極忠高も家康のもとに参上する。有楽・治長は服3領を、治徳・尚長は服2領を家康に献上する。有楽は十徳、治長は羽織袴を着する。その場に藤堂高虎本多正信が列席する。家康は有楽、治長に大坂城(摂津国)城中の堀・櫓の破却を早々に着手するように伝える。
巳刻(9-11時)、家康が諸大名を引見する。前田利光福島忠勝浅野長晟鍋島勝茂細川忠利寺沢広高池田利隆池田忠継池田忠雄森忠政有馬豊氏稲葉典通京極高知山内忠義堀尾忠晴加藤明成南部利直毛利秀就毛利秀元吉川広家福原広俊松平忠直、松平忠昌、松平信吉、榊原康勝本多忠朝本多忠政松平清正本多康紀松平忠利、水野勝成と対面する。
家康が南光坊天海金地院崇伝と対面し雑談する。
家康が天海の執り成しにより鷹匠・小栗忠蔵を赦免する。
秀忠が佐和山(近江国)を井伊直孝に給付する。その旨を秀忠が利勝を介し家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月25日 36歳
辰刻(7-9時)、徳川家康が茶臼山(摂津国)の陣所を発ち、申刻(15-17時)、二条城(山城国)に到着する。板倉勝重が迎える。茶臼山の陣所には本多正純成瀬正成安藤直次が残る。
徳川秀忠大坂城(摂津国)の堀・櫓破却を見届けるべく、岡山の陣所に残る。徳川義俊徳川頼宣も岡山に在陣する。
織田有楽大野治長、伊東長次が岡山に陣す秀忠のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月27日 36歳
岡山に在陣している徳川秀忠の使者として土井利勝二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)の総堀・櫓の破却のことを報告する。また在陣の諸大名の苦労を慮って、公役普請は3ヶ年免除するよう家康が秀忠に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月29日 36歳
徳川家康以心崇伝南光坊天海、信乗院、知恩院八宮、大覚寺門跡、一乗院、広橋大納言、三条大納言と対面する。
岡山の陣所にいる徳川秀忠の使者として伊丹康勝が徳川家康のもとに到着する。家康は兵粮を扶持することを伝える。
家康が富田信高の旧領である宇和島(伊予国)100000石を伊達秀宗に給付する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月2日 37歳
徳川秀忠が岡山の陣所の軍勢不足につき、松平忠明本多忠政を岡山の東に移す。
出典:『当代記』同年月日条、

慶長20年 1615年 1月3日 37歳
午刻(11-13時)、徳川家康駿府城(駿河国)に帰城すべく二条城(山城国)を出立する。申刻(15-17時)、膳所(近江国)に到着する。膳所城(近江国)城主の戸田氏鉄が家康を饗応する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長20年 1615年 1月8日 37歳
徳川家康名古屋(尾張国)に逗留する。卯刻(5-7時)、鷹狩に赴き、申刻(15-17時)に戻る。
徳川秀忠大坂城(摂津国)の堀埋め普請について、諸勢をもってあたるといえども、二ノ丸の堀の幅が40-60間、深さが3-4間があってすぐには完了しないことを家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月10日 37歳
徳川家康岡崎(三河国)に逗留する。鷹狩をする。
徳川秀忠の使者・永井尚政が家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)の堀埋めについて進捗状況を報告する。16・17日には大方堀埋めが完了することを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月12日 37歳
徳川家康岡崎(三河国)に逗留する。
徳川秀忠の使者として佐久間政実、安藤正次が家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)二ノ丸の堀が意外に深く、土手の土で埋めても1/3にも満たなかったため、二ノ丸千貫櫓、織田有楽邸の家屋、西ノ丸、大野治長邸を破却し、かつ高所の土も入れて堀を埋めたことを報告する。
家康が正次到来につき、正次が軍監をつとめた鴫野の戦いについて見聞したことの報告を求める。正次は豊臣勢の鉄砲100が佐竹義宣陣所に発砲したこと、義宣・渋江政光、屋代、水原親憲の働きにより豊臣勢が退いたことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月17日 37歳
徳川秀忠が佐竹家家臣の戸村義国、梅津憲忠、信太勝行、大塚資郷、黒澤道家を召し感状を下す。義国には刀・青江直次、憲忠には刀・信国、勝行・資郷・道家には時服2領・羽織1領を下賜される。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康勝」の項、『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

慶長20年 1615年 1月18日 37歳
岡山にいる徳川秀忠の使者として青山重政が徳川家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)二ノ丸までの堀埋め普請が完了し、本城のみ残ったことを報告する。秀忠は19日に伏見城(山城国)に移る予定であることを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月19日 37歳
申刻(15-17時)、徳川秀忠が岡山の陣所より伏見城(山城国)に移る。大坂城(摂津国)の堀埋め普請が、まだ完了していないため、松平忠明本多忠政等の諸大名の軍勢は大坂に残す。目付として、本多正純安藤重信が大坂に残る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月21日 37歳
徳川家康が鷹狩をする。
家康のもとに徳川秀忠の使者が到着する。秀忠の使者は、秀忠が19日に大坂(摂津国)より伏見城(山城国)に入ったこと、大坂城(摂津国)の堀埋め普請がおおよそ完了したことを家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月22日 37歳
徳川家康が鷹狩をする。
家康のもとに徳川秀忠の使者として成瀬正武が到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月24日 37歳
未刻(13-15時)、徳川秀忠伏見城(山城国)より二条城(山城国)に移る。参内する。
出典:『駿府記』同年月26日条

慶長20年 1615年 1月28日 37歳
徳川秀忠二条城(山城国)を発ち、膳所(近江国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月30日条

慶長19年 1614年 2月1日 36歳
徳川家康駿府城(駿河国)南殿に赴く。諸士が出仕する。
家康が土井利勝を召し徳川秀忠への返書を認めるととともに、密談する。利勝は江戸(武蔵国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月4日 37歳
徳川秀忠岡崎城(三河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月5日条

慶長20年 1615年 2月4日 37歳
寅刻(3-5時)、姉・が死去する。
出典:『駿府記』同年月8日条

慶長20年 1615年 2月6日 37歳
徳川秀忠浜松(遠江国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月7日 37歳
徳川秀忠が中泉(遠江国)に到着する。徳川家康、秀忠、本多正信本多正純で密談をする。後に、この密談に土井利勝が加わる。秀忠の退出後、家康は供奉の近習衆とひとりずつと対面する。対面した供奉衆は、酒井忠世土井利勝本多正信本多正重安藤重信水野忠元井上正就神尾守世、小山吉久、青山忠俊
午刻(11-13時)、秀忠が中泉を出立し、申刻(15-17時)、掛川(遠江国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月2日 37歳
徳川秀忠の使者として土井利勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れる。利勝は家康と密談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月15日 37歳
豊臣秀頼の使者として、青木一重駿府城(駿河国)南御殿にて徳川家康と対面する。秀頼の進物として金襴10巻と秀頼の書状を、一重の礼物として鷹のうちつき蒔絵10枚を家康に献上する。常光院、二位局、大蔵卿局、正永尼が淀殿の使者として家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月18日 37歳
徳川秀忠の使者として土井利勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ密談する。
奥平家よりの飛脚が家康のもとに到着し、奥平信昌の死去を伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月29日 37歳
徳川秀忠の使者として井上正就駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ密談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月5日 37歳
大野治長の使者が田中(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れる。使者は、豊臣秀頼淀殿が大坂からの国替を拒否していることを家康に伝える。家康はその返答を受け、どうしようもないことであると返答する。
家康のもとに伏見町奉行・長田喜兵衛の書状が到来する。永井直勝後藤光次が喜兵衛の書状の内容を家康に報告する。喜兵衛は大坂(摂津国)が殊の外物騒で、その影響は京都・伏見(山城国)にも及んでいると伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月6日 37歳
辰刻(7-9時)、徳川家康が中泉(遠江国)に到着する。徳川秀忠の使者として板倉重宗が家康のもとに到着する。重宗は家康の道中のご機嫌伺いのため遣わされる。家康は本多正純を通じて、伊勢国、美濃国、尾張国、三河国の諸大名に軍勢を、伏見・鳥羽(山城国)まで進めるよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月10日 37歳
徳川家康名古屋(尾張国)に到着する。名古屋にて家康は常光院、二位局、大蔵卿局、正永尼、青木一重と対面し、豊臣秀頼がいまだに牢人衆を追放せず召し抱えていることに憤っている旨を伝える。常光院、二位局はすぐに大坂に戻り、家康の意を伝えると返答する。大蔵卿、正永尼、一重は京都にて家康の上洛を待つ旨を伝える。これらの女中の動きについて、家康は後藤光次を通じて板倉勝重に伝える。
出典:『駿府記』同年月日・17日条

慶長20年 1615年 4月10日 37歳
徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。供奉衆:野呂守景。江戸城の留守居に酒井重忠を置く。
出典:『駿府記』同年月日・17日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同1153「野呂守景」の項

慶長20年 1615年 4月12日 37歳
浅野幸長の娘が熱田(尾張国)より徳川義俊のもとへ輿入れする。幸長の娘の供奉輿50、女中43名、長持300棹に及ぶとされる。幸長の娘は、義俊に銀子200枚・服10領を、義俊の母に銀子100枚・服10領を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月14日 37歳
徳川秀忠が清水(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月17日条

慶長20年 1615年 4月17日 37歳
徳川家康水口(近江国)に到着する。徳川秀忠の使者として成瀬正武が家康のもとに到着し、10日に秀忠が江戸城(武蔵国)を発ったこと、14日に清水(駿河国)に到着したこと、23・24日には京都(山城国)に到着するので、それまでは合戦を控え、秀忠には先陣を命じることを伝える。
安藤直次成瀬正成の飛脚が家康のもとに到着し、徳川頼宣勢は永原(近江国)に、徳川義俊勢は土山(近江国)に到着したことを伝える。
松平忠直勢が坂本(近江国)に陣取ったとの報告が家康のもとにもたらされる。家康は忠直勢に18日には西岡・向明神(山城国)辺りに進軍するよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月18日 37歳
徳川家康水口(近江国)を出立し、矢橋(近江国)、大津(近江国)、膳所(近江国)を経由する。大津から膳所の船中で、が家康に膳を献じる。午刻(11-13時)、船を下船する。山科(山城国)辺りで公家衆や京都の町衆が出迎え、未刻(13-15時)、二条城(山城国)に到着する。
徳川義俊徳川頼宣が京都に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月21日 37歳
徳川秀忠伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月22日 37歳
徳川秀忠伏見城(山城国)を発ち、二条城(山城国)にいる徳川家康と密談する。本多正信土井利勝本多正純が加わる。申刻(15-17時)、秀忠は伏見城に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月25日 37歳
徳川秀忠の使者として、土井利勝安藤重信二条城(山城国)にいる徳川家康のもとを訪れ密談する。家康は両名に4月26日に秀忠へ二条城を参るように言い渡す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月26日 37歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き、対面する。4日28日に大坂城(摂津国)に向けて出陣することが決まる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月27日 37歳
徳川家康の使者として本多正純伏見城(山城国)にいる徳川秀忠のもとに赴き、4月28日とされていた大坂城(摂津国)への出陣を延期すると伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月28日 37歳
豊臣秀頼勢10000が郡山・龍田・法隆寺(大和国)の近辺に出撃し、子刻(23-1時)放火する。法隆寺は火災を免れる。大和郡山城(大和国)に籠城していた筒井定慶は逃亡する。
申刻(15-17時)、大野治房・槙島昭光が豊臣勢を率い、(和泉国)、住吉(摂津国)等を放火する。住吉社(摂津国)は火災を免れる。
出典:『駿府記』同年月日・29日条

慶長20年 1615年 4月29日 37歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとを訪れ密談し、3日に京都より出陣することを決す。
出典:元和3年10月14日付松浦俊重泉州樫井表戦争覚書(『浅野家文書』126号)、元和3年10月13日付金丸信盛泉州樫井戦争覚書(『浅野家文書』127号)、慶長20年4月30日付秋元泰朝他2名連署状(『浅野家文書』128号)、『駿府記』同年月日・30日条

慶長20年 1615年 4月29日 37歳
浅野長晟が信達(和泉国)にて大野治長の家老・北村善大夫、大野弥五左衛門等30名ほどを捕縛する。
巳刻(9-11時)、柏野(和泉国)にて、大野治房・大野道犬・郡宗保・槙島昭光・塙直之・岡野大学が率いる豊臣勢3000が浅野長晟の陣取る信達(和泉国)に攻め寄せる。浅野勢は浅野忠知を先陣に応戦する。戦いは卯刻(5-7時)より午刻(11-13時)まで戦い、長晟が勝利する。浅野勢の上田宗箇亀田高俊、田胡助左衛門、浅野良重が豊臣勢を追撃し、直之、芦田作内、米田監物、横井治右衛門、山内権三郎等が戦死する。徳川家康は長晟の戦功を賞し感状を発給する。松平正久、秋元泰勝、後藤光次が家康の意を奉じる。
出典:元和3年10月14日付松浦俊重泉州樫井表戦争覚書(『浅野家文書』126号)、元和3年10月13日付金丸信盛泉州樫井戦争覚書(『浅野家文書』127号)、慶長20年4月30日付秋元泰朝他2名連署状(『浅野家文書』128号)、『駿府記』同年月日・30日条

慶長20年 1615年 5月1日 37歳
徳川家康が諸大名に対面し、5月3日に出陣することを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月1日 37歳
徳川秀忠が樫井合戦での浅野長晟の働きを賞す。
出典:同年月日付徳川秀忠黒印状(『浅野家文書』117号)

慶長20年 1615年 5月3日 37歳
徳川家康徳川秀忠大坂城(摂津国)への出陣が予定されていたが5月5日に延引となる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月5日 37歳
巳刻(9-11時)、徳川家康二条城(山城国)より出陣する。
二条城留守居衆:松平定勝青木信安
家康が淀(山城国)にて細川忠興に会う。申刻(15-17時)、枚方・星田(河内国)に陣取り、宿泊する。
徳川秀忠伏見城(山城国)より出陣し、申刻(15-17時)、砂・星田(河内国)に陣取る。秀忠は家康と対面し徳川方諸勢の陣所について協議する。本多正信藤堂高虎土井利勝安藤重信がその協議に参加する。
小笠原秀政が久宝寺村(河内国)に陣取る。
井伊直孝が松原(河内国)に陣取る。
藤堂高虎勢が千塚に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第54「松平定勝」の項、同161「青木信安」の項、同188「小笠原秀政」の項

慶長20年 1615年 5月6日 37歳
八尾(河内国)にて藤堂高虎長宗我部盛親が戦う。
藤堂勢:藤堂高虎、藤堂新七郎[藤堂高虎勢](戦死)・藤堂高刑[藤堂高虎勢](戦死)・桑名吉成[藤堂高虎勢](戦死)。
長宗我部勢:長宗我部盛親。
巳刻(9-11時)、若江(河内国)にて井伊直孝木村重成・山口左馬允が戦い、直孝が勝利する。
徳川勢:井伊直孝、川手良列[井伊直孝勢](戦死)、庵原朝昌[井伊直孝勢]、福留政親[井伊直孝勢]。
豊臣勢:木村重成(戦死)、山口左馬允、内藤政勝(戦死)。
岩田にて榊原康勝と木村宗明が戦い、康勝が勝利する。
徳川勢:榊原康勝。
豊臣勢:木村宗明。
道明寺(河内国)にて水野勝成・松平忠明伊達政宗の徳川勢と後藤基次薄田兼相渡辺糺の豊臣勢が戦い、徳川勢が勝利する。
徳川勢:水野勝成、松平忠明、伊達政宗。
豊臣勢:後藤基次(戦死)、薄田兼相(戦死)、渡辺糺。
合戦後、徳川家康徳川秀忠は枚岡(河内国)に陣取る。7日の大坂城(摂津国)総攻めにつき、先陣を本多忠朝と定める。
出典:『駿府記』同年月日条、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項、同153「内藤政勝」の項

慶長20年 1615年 5月7日 37歳
寅刻(3-5時)、徳川秀忠が枚岡(河内国)を発ち、岡山に陣取る。
卯刻(5-7時)、徳川家康が枚岡を発ち茶臼山に陣取る。
巳刻(9-11時)、天王寺口(摂津国)にて家康・秀忠父子と毛利勝永・真田信繁長宗我部盛親・仙石秀範・大野治房・大野道犬、槙島昭光・堀田盛重・真野助宗・伊東長実・中島氏種・野々村雅春・青木一重速水守久等が率いる豊臣勢が戦い、徳川勢が勝利する。
徳川家康・秀忠勢:松平忠直酒井忠世酒井家次本多忠朝(戦死)、小笠原秀政(重傷。この日、久宝寺村(河内国)にて死去)、小笠原忠脩(戦死)、黒田長政加藤嘉明松平正久渥美友重[松平忠直勢]、駒井昌保[松平正久勢]、保科正光、保科正貞、安藤彦四郎(戦死)、松平助十郎(戦死)、古田左近(戦死)、野一色頼母(戦死)、神保長三郎(戦死)、奥田三郎右衛門(戦死)。
豊臣秀頼勢:真田信繁(戦死)、大谷吉治(戦死)、石川康勝(戦死)、細川興秋、渡辺糺[自害]。
未刻(13-15時)、家康は茶臼山に戻る。秀忠も同地に合流し、その後、岡山に戻る。
豊臣秀頼大坂城(摂津国)の天守閣に火をかける。
大野治長の家老・米村権右衛門が茶臼山の家康のもとを訪れ、本多正純後藤光次を介し、豊臣秀頼淀殿の助命を嘆願し、受け入れられる場合、治長は切腹することを申し出る。家康は秀忠に申し入れをするように伝え、権右衛門は岡山の秀忠のもとを訪れるが、秀忠に拘束され、光次が権右衛門の身柄を預かる。
花房正成が徳川家の使者として秀頼のもとに赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『鍋島勝茂譜考補』(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)、『綿考輯録』巻19、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井忠世」の項、同65「酒井家次」の項、同90「花房正成」の項、同153「内藤政勝」の項、同157「駒井昌保」の項、同188「小笠原秀政」の項、同巻第189「小笠原忠真」、同189「小笠原忠脩」の項、同250「保科正光」の項、同250「保科正貞」の項

慶長20年 1615年 5月8日 37歳
豊臣秀頼大坂城サキ島の堀西方にある唐物倉にて淀殿大野治長速水守久等とともに残り、徳川家に和を乞うが、井伊直孝安藤重信が唐物倉に発砲したため、徳川家に和睦の意なしと受け止めた秀頼らは自刃する。淀殿、大蔵卿局、右京大夫局、二位局(助命される)、饗庭局、宮内卿局、清韓、速水守久、速水出来、津川左近、大野治長、大野治徳、毛利勝永、毛利勘解由、毛利長右衛門、堀対馬守、武田左吉、氏家道喜、伊藤武蔵、土肥勝五郎、高橋半三郎、高橋三十郎、埴原三十郎、寺尾少右衛門、小室茂兵衛、土肥庄五郎、片岡十右衛門、加藤弥平太、森島長意、竹田永翁、小室義兵衛、中方将監、中方半兵衛、真田幸昌が秀頼と共に自害する。秀頼勢の将の首実検が行われ、松平忠直が、真田信繁、御宿政友、大野道犬の首を持参する。
申刻(15-17時)、徳川家康が茶臼山(摂津国)の陣所を出て、戌刻(19-21時)、二条城に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『鍋島勝茂譜考補』(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)、『綿考輯録』巻19

慶長20年 1615年 5月9日 37歳
徳川秀忠が岡山の陣所を発ち、伏見城(山城国)に入る。大坂城(摂津国)に残されている金銀を調査するため安藤重信青山忠俊、阿部正次が大坂(摂津国)に残る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月11日 37歳
蜂須賀蓬庵の従者が、八幡(山城国)辺りにて長宗我部盛親を捕らえる。盛親は二条城(山城国)に移送され、同城の西門に捕縛された状態でさらされる。
午刻(11-13時)、徳川秀忠が二条城に赴き、徳川家康と密談する。申刻(15-17時)、秀忠は伏見城(山城国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月12日 37歳
徳川家康秀忠が豊臣勢の落人の追捕を諸代官・諸大名に命じる。
豊臣秀頼の娘(7歳)が京極忠高のもとを捜索したところ発見される。秀頼に男子がいることが判明し、捜索するように触れが回る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月14日 37歳
方々より豊臣勢の落人の首が600程、二条城(山城国)に届く。
豊臣秀頼のもとで大坂町奉行をつとめた水原石見守が二条城近辺にて潜伏しているとの訴えがあり、藤堂高虎が石見守の潜伏先に討手を差し向ける。石見守は応戦し、3人を斬るも討ち取られる。石見守の首は二条城の西門にさらされる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月15日 37歳
長宗我部盛親が一条(山城国)より大路(山城国)まで引き回されたうえ六条河原(山城国)にて処刑される。三条河原(山城国)にて首がさらされる。秀頼与同の者72名の首が粟田口(山城国)および東寺(山城国)近辺にてさらされる。
出典:『駿府記』同年月日条、『陰徳太平記』巻50「元親国内巡見付一宮之御事」

慶長20年 1615年 5月19日 37歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴く。家康は、近く駿府城(駿河国)">に帰城する旨を秀忠に伝えるが、秀忠は8月までは京都(山城国)に留まり、大坂城(摂津国)攻めの後処理を済ませるよう強く要請する。家康は秀忠の請いを受け入れ8月までは京都に滞在すると返答する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月21日 37歳
伏見(山城国)の農人橋に隠れていた豊臣国松が捕縛される。国松は「容貌美麗」だったとされる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月23日 37歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き、密談する。午刻(11-13時)、秀忠は伏見城(山城国)に戻る。
未刻(13-15時)、豊臣国松が六条河原(山城国)にて処刑される。国松の乳母の子・田中六左衛門も同時に処刑される。乳母は赦免される。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月24日 37歳
徳川家康後藤光次を召し出し、豊臣家より没収した金銀を調査するように命じる。光次は大坂(摂津国)に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月28日 37歳
徳川秀忠井伊直孝藤堂高虎を召し寄せ、5月6・日の戦いの勲功として、金銀の千枚吹および分銅2を賜い、知行地を給付することを直接伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 6月1日 37歳
午刻(11-13時)、江戸(武蔵国)にて大地震が起こり、家屋が倒壊する。
出典:『駿府記』同年月8日条

慶長20年 1615年 6月2日 37歳
安藤重信後藤光次が豊臣家の没収金28060枚、銀24000枚を京都に移送し、その量を徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 6月4日 37歳
徳川秀忠伏見城(山城国)にて咳病を患い、医師の診察を受ける。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 6月5日 37歳
島津家久徳川家康秀忠父子に謁す。家久は家康に礼として銀500枚、綾子50巻を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第108「島津家久(忠恒)」の項

慶長20年 1615年 6月7日 37歳
徳川秀忠の使者として土井利勝二条城(山城国)にいる徳川家康のもとを訪れる。秀忠の咳病が治癒したことを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 6月8日 37歳
徳川家康松平忠明を召し出し、大坂(摂津国)にて50000石を加増し、総じて100000石を給付する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 6月20日 37歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き密談をする。古田重然が所持していた勢高肩衝を家康は秀忠に遣わす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 6月22日 37歳
徳川秀忠佐竹義宣の旅亭に使者として安藤重信を遣わし、大坂冬の陣で速やかに兵を率い参陣したことを賞し、久保田城(出羽国)への帰国を許すとともに銀200貫目を下賜する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

慶長20年 1615年 6月28日 37歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴く。家康・秀忠は池田忠雄を召し出し、兄・忠継の遺領相続を認める。ただし、播磨国宍粟郡38000石は輝澄に、同国赤穂郡35000石は政綱に、同国佐用郡25000石は輝興に分与し、忠雄は備前国浅口郡・窪屋郡・下道郡・都宇郡の315000石を領し、淡路国は幕府に返上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第263「池田政綱」の項、同巻第265「池田忠雄」の項、同巻第266「池田輝澄」の項

慶長20年 1615年 6月29日 37歳
豊臣秀頼が所持していた刀(銘 骨喰吉光)を本阿弥光徳が探し出し、徳川家康に献上する。家康は光徳に下賜するも、光徳は徳川秀忠に献上する。秀忠は光徳に黄金10枚を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月2日 37歳
池田利隆忠雄兄弟が二条城(山城国)にいる徳川家康と対面する。本多正純が取り次ぐ。利隆・忠雄は、徳川秀忠の命により池田忠継の遺領である備前国を忠雄が拝領したことへの礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月3日 37歳
徳川秀忠蜂須賀至鎮淡路国を給付する。
秀忠が長谷川藤広を小豆島(讃岐国)の代官とする。(和泉国)と長崎(肥前国)を往来する船にとって要所であるため、藤広が代官となる。
秀忠が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに土井利勝、伊丹康勝を遣わす。利勝・康直は、漳州よりの船が紀伊国に着岸したため、浅野長晟が調査したところ砂糖を積載していたので、検使を遣わすべきか否かの判断を請う。後藤光次が家康に取り次いだところ、家康は自由に商売することを許すと返答する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月6日 37歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとを訪れる。奥之座にて閑談する。本多正信本多正純が同席する。
二条城前殿で真言論議が行われる。題は「十悪起不起、身三口四意三、同時起耶、各別耶」。宝性院、無量寿院、遍明院、正智院、金剛三昧院、如意輪寺、庵室、北室院が参加。講者は多聞院。家康、秀忠、徳川義俊徳川頼宣松平忠直伊達政宗前田利常京極忠高藤堂高虎、正信、日野唯心も参席する。
秀忠が南禅寺金地院末寺の真観寺(河内国)に1000石を給付する。
未刻(13-15時)、徳川秀忠伏見城(山城国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月8日 37歳
伏見城(山城国)にて、徳川秀忠が飛鳥井父子の蹴鞠を観覧する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月10日 37歳
本多忠政、忠刻、政朝が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。忠政の弟・忠朝が5月7日の天王寺・岡山の戦いで戦死したため、政朝が忠朝の娘・千代を娶り大多喜(上総国)50000石を相続するようにと徳川秀忠の命があり、その礼として家康にもとに赴く。本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月12日 37歳
徳川秀忠が溝口外記父子を改易する。
秀忠が大坂城(摂津国)に籠城していた北信景の京都での宿所だった肝煎を罪科に処す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月15日 37歳
徳川頼宣伏見城(山城国)にいる徳川秀忠のもとに赴き、対面する。未刻(13-15時)、頼宣は二条城(山城国)に戻る。徳川義俊は暑気により股に腫物ができていたため伏見城行きを取りやめる。
安藤重信が秀忠の使者として二条城(山城国)に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月16日 37歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとを訪れる。奥座にて閑談する。本多正信が参席する。未刻(13-15時)、秀忠は伏見城(山城国)に戻る。
松平忠輝松平忠直松平乗寿、譜代衆が家康のもとに出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月17日 37歳
徳川秀忠の使者として永井尚政二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き、大鱸1疋を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月21日 37歳
辰刻(7-9時)、徳川秀忠が施薬院宗伯の邸宅に入る。宗伯が秀忠に膳を献じる。徳川義俊徳川頼宣が秀忠とともに宗伯邸に入る。秀忠は宗伯に黄金10枚・帷子10領を賜う。広橋大納言、三条大納言が、院使の阿野実顕が秀忠のもとに参る。巳刻(9-11時)、秀忠が参内する、後水尾天皇に銀1000枚を献上する。秀忠に義俊、頼宣、松平忠直伊達政宗井伊直孝藤堂高虎、吉良義弥、酒井家次酒井忠世土井利勝安藤重信、本多正勝、本多忠純、青山忠俊、内藤清次、水野忠元井上正就、酒井忠正、鳥居讃岐守、神尾守世、青山幸成、松平清正本多忠政戸田氏鉄、飛鳥井、冷泉、六条、烏丸中納言、広橋弁、山科、難波、烏丸弁。
午下刻(12時)、秀忠は院参する、後陽成上皇に銀300枚・綿500把を、女院に銀100枚・綿300把を献上する。未刻(13-15時)、秀忠は宗伯邸に戻り、伏見城(山城国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月27日 37歳
二条城(山城国)にて徳川家康が舞楽を興行する。徳川秀忠徳川義俊徳川頼宣松平忠直前田利常伊達政宗松平忠輝島津家久毛利秀就毛利秀元田中忠政森忠政京極高知京極忠高池田利隆山内忠義浅野長晟藤堂高虎生駒正俊鍋島勝茂加藤明成稲葉典通有馬豊氏小笠原忠真等が出席する。5月7日の天王寺口の戦いで重傷を負った忠真は遅れて席入りしたが、家康が諸将に「わが鬼孫なり」と紹介し、興行が始まる。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「小笠原忠真」の項

慶長20年 1615年 7月1日 37歳
徳川家康二条城(山城国)にて能を催す。徳川秀忠が二条城に赴き、能に参会する。公家衆、大名衆も出仕。未刻(13-15時)、秀忠が伏見城(山城国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月2日 37歳
以心崇伝二条城(山城国)にいる徳川家康に武家諸法度の草案を見せる。家康は、伏見城(山城国)にいる徳川秀忠に見せるようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月3日 37歳
土井利勝二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き、武家諸法度のことについて相談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月4日 37歳
徳川秀忠の使者として水野忠元二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴く。鱸を進上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月7日 37歳
早朝、伏見城(山城国)にいる徳川秀忠のもとに諸大名が出仕する。秀忠は武家諸法度13ヶ条を諸大名の前で以心崇伝に読ませる。
伏見城にて能が催される。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月8日 37歳
伏見城(山城国)にて能が催される。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月9日 37歳
徳川家康二条城(山城国)前殿に出座する。家康は南光坊天海以心崇伝を召し、豊国神社(山城国)について破却したいところであるが、祭神である豊臣秀吉方廣寺大仏(山城国)の鎮守であるので、大仏殿の回廊裏に遷座を考えているが、どうかと尋ねる。天海・崇伝いずでも、家康の意図でしかるべしと返答する。そこで家康は、板倉勝重を召し寄せ、妙法院門跡を方廣寺住持とし1000石を加増する旨を伝える。照高院興意については、家康・秀忠父子の調伏祈祷をしていたので思うところはあるが、ひとまず聖護院に移すこととする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月10日 37歳
土井利勝二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴く。家康は7月27日に駿府城(駿河国)に向けて京都(山城国)を立つ予定であるが秀忠の京都出立はその前か後ろかを好きにすようと伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月11日 37歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き、奥座間にて対面する。本多正信本多正純が同席する。7月19日に秀忠は江戸城(武蔵国)に戻るべく京都(山城国)を発つと述べる。午刻(11-13時)、秀忠は伏見城(山城国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日 37歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日 37歳
伏見城(山城国)にて徳川秀忠が諸大名に暇を下す。
出典:『駿府記』同年月14日条

元和1年 1615年 7月17日 37歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き対面する。
家康は、公家諸法度を伝奏、二条昭実、三条実條、今出川晴季、公家衆に聞かせるべく広橋兼勝に読ませる。以心崇伝が同席する。
八条宮智仁が家康に礼をする。太刀・馬を贈る。
伏見宮邦清が家康に礼をする。小高檀紙10束を贈る。
九条忠栄が家康に礼をする。帷子・太刀・馬を贈る。
巳刻(9-11時)、能が催される。智仁、邦清、昭実、忠栄、一条、鷹司、近衛、晴季が参席し、七五三の饗応を受ける。織田常真日野唯心、両伝奏、花山院などの諸公家数十人、秀忠に供奉した武士は饗応を受ける。申下刻(16時)、秀忠は伏見城(山城国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月18日 37歳
加藤忠広二条城(山城国)にいる徳川家康に礼をする。銀300枚・帷子を献上する。
家康が松平忠直前田利常島津家久池田利隆山内忠義堀尾忠晴加藤明成などに暇を下す。ただし、田中忠政、稲葉修理は在京を命じる。忠直・利常には徳川秀忠より黄金200枚が、家久・利隆には銀1000枚が下賜される。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月19日 37歳
卯刻(5-7時)、徳川秀忠江戸城(武蔵国)に帰城すべく伏見城(山城国)を発つ。永原(近江国)に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

元和1年 1615年 8月5日 37歳
早朝、徳川家康が、守山・草津(近江国)で起こった松平忠輝による徳川秀忠の家臣の長坂、伊丹が理不尽に殺害された旨を伝え聞く。家康は本多正純に命じて事件の詳細を調査させるも噂しかないため、家康は近江代官の長野友秀、小野宗左衛門、観音寺を召し出し事件の顛末を聞くと、長坂・伊丹が忠輝の前に出たため「狼藉」といって切り殺されたという。
巳刻(9-11時)、家康が矢橋(近江国)より船に乗り、水口(近江国)に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月8日 37歳
徳川秀忠の使者として水野忠元駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに赴き、豊臣方の諸勢の捜索について返答する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月9日 37歳
朝、徳川秀忠の使者として水野忠元駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに赴き、重陽の服を進上する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月10日 37歳
越後に遣わしていた松平勝隆が駿府城(駿河国)にいる徳川家康松平忠輝徳川秀忠の御家人2名を殺害した件について報告する。忠輝は陣法を理解せず、あまつさえ腹を立てているとのことなので、秀忠より言って聞かすようにと家康は指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月17日 37歳
徳川秀忠の使者として神尾守世駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに訪れる。家康が鷹狩と称し関東に赴くことを謝すための使者。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月26日 37歳
徳川秀忠の使者として土井利勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ密談する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月9日 37歳
徳川家康が神奈川(武蔵国)に到着する。徳川秀忠が神奈川にて家康を出迎える。対面の後、秀忠は江戸城(武蔵国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月11日 37歳
徳川秀忠徳川家康のもとを訪れ閑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 11月2日 37歳
徳川秀忠が鷹狩のため鴻巣(武蔵国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 11月9日 37歳
徳川家康が忍(武蔵国)を発ち、岩槻(武蔵国)に到着する。
徳川秀忠が鴻巣(武蔵国)より江戸城(武蔵国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 11月16日 37歳
徳川家康が千葉(下総国)に到着する。徳川秀忠が船橋(下総国)に到着する。土井利勝の所領である佐倉(下総国)にて鹿狩りをする。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 11月17日 37歳
徳川家康が東金(上総国)に到着する。徳川秀忠が佐倉(下総国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 11月23日 37歳
徳川秀忠江戸城(武蔵国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 11月27日 37歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に帰城する。
本多正信が昨年の秋より患っていた病痾が回復する。家康は正信の復調を喜ぶ。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 11月28日 37歳
小笠原忠真徳川秀忠に、父・秀政の遺領相続を謝す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原忠真」の項

元和1年 1615年 12月3日 37歳
徳川家康が12月4日に駿府城(駿河国)に向けて江戸城(武蔵国)を発つという意向を示す。徳川秀忠が家康のもとに赴き閑談する。その席に本多正信が加わる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 12月4日 37歳
辰刻(7-9時)、徳川家康江戸城(武蔵国)を発つ。午刻(11-13時)、稲毛(武蔵国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 12月19日 37歳
徳川秀忠の節分の使者として土井利勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れる。泉頭(伊豆国)に隠居所の普請について、秀忠は自身の命令で進めることを家康に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 12月20日 37歳
徳川家康の泉頭(伊豆国)の隠居所の普請が始まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 12月25日 37歳
徳川秀忠の歳末の使者として神尾守世駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 12月29日 37歳
細川忠興江戸城(武蔵国)に赴き、徳川秀忠に謁す。
出典:『綿考輯録』巻20、『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川忠興」の項

元和2年 1616年 3月21日 38歳
島津家久駿府城(駿河国)にて徳川家康秀忠父子に謁す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津家久(忠恒)」の項

元和2年 1616年 4月17日 38歳
父・家康が死去する。
出典:-

元和2年 1616年 9月5日 38歳
徳川秀忠黒田長政に筑前国502416石を給付する判物を発給する。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

元和2年 1616年 -月-日 38歳
徳川秀忠酒井家次に50000石を給付し、高崎城(上野国)より高田城(越後国)に移す(総所領100000石)。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第65「酒井家次」の項

元和3年 1617年 2月21日 39歳
禁裏が徳川家康に東照大権現の神号を与える。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

元和3年 1617年 4月8日 39歳
久能山に安置されていた徳川家康の棺を日光東照社の廟塔に移す。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

元和3年 1617年 4月16日 39歳
久能山に安置されていた徳川家康の神体を日光東照社に移す。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

元和3年 1617年 5月8日 39歳
徳川秀忠佐竹義宣蜂須賀至鎮池田忠雄を召し膳をともにする。秀忠が3名に6月の上洛につき供奉するように命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

元和3年 1617年 6月28日 39歳
徳川秀忠膳所城(近江国)に宿泊する。
出典:『本光国師日記』同年月日条

元和3年 1617年 6月29日 39歳
徳川秀忠伏見城(山城国)に到着する。夜、南禅寺に赴き宿泊する。
出典:『本光国師日記』同年月日条

元和3年 1617年 6月30日 39歳
朝、徳川秀忠南禅寺より伏見城(山城国)に戻る。伝奏衆、昵近の公家衆が伏見城に居る秀忠のもとへ礼に赴く。
出典:『本光国師日記』同年月日条

元和3年 1617年 7月21日 39歳
朝、徳川秀忠伏見城(山城国)より参内する。その後、伏見城に戻る。
出典:『本光国師日記』同年月日条

元和3年 1617年 8月26日 39歳
徳川秀忠伏見城(山城国)二ノ丸にて朝鮮使節と対面する。
出典:『本光国師日記』同年月日条

元和3年 1617年 9月1日 39歳
徳川秀忠島津家久に松平姓を賜う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津家久(忠恒)」の項

元和3年 1617年 9月13日 39歳
徳川秀忠江戸城(武蔵国)に帰城すべく、伏見城(山城国)を発つ。
出典:『本光国師日記』同年月日条

元和3年 1617年 9月25日 39歳
後陽成上皇が崩御する。
出典:-

元和3年 1617年 -月-日 39歳
徳川秀忠松平定勝に伊勢国桑名郡・三重郡・員弁郡・朝明郡内で110000石を給付し、桑名城(伊勢国)城主とする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第54「松平定勝」の項

元和5年 1619年 6月23日 41歳
徳川秀忠福島正則の所領を没収したため、広島城(安芸国)の城引き取りのため永井直勝安藤重信加藤嘉明等が同城に赴く。
出典:『微妙公御夜話』、『寛政重修諸家譜』巻第773「加藤嘉明」の項

元和5年 1619年 7月25日 41歳
徳川秀忠が参内する。佐竹義宣が供奉する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

元和6年 1620年 1月27日 42歳
徳川秀忠が江戸神田の佐竹義宣邸を訪れる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

元和6年 1620年 11月27日 42歳
徳川秀忠立花宗茂に筑後国山門郡・三池郡・三潴郡・上妻郡・下妻郡内で109600石を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

元和6年 1620年 -月-日 42歳
徳川秀忠松平定勝に伊勢国長島7000石を給付し、長島城(伊勢国)を預ける。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第54「松平定勝」の項

元和6年 1620年 -月-日 42歳
板倉勝重が京都所司代の職を辞し、子・重宗が京都所司代となる。重宗は27000石を領す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

元和7年 1621年 10月14日 43歳
徳川秀忠上杉景勝伊達政宗佐竹義宣日野唯心に口切の茶を賜う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

元和7年 1621年 12月21日 43歳
細川六丸が徳川秀忠に拝謁する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川光尚」の項

元和8年 1622年 1月26日 44歳
松平忠良の娘が徳川秀忠の養女として黒田忠之に入嫁する。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

元和8年 1622年 12月27日 44歳
立花忠茂徳川秀忠の前で元服する。秀忠より偏諱を受け、忠茂と名乗る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花忠茂」

元和9年 1623年 閏8月28日 45歳
1614年に豊臣秀頼大坂城(摂津国)籠城のため召し抱えた者(牢人)を赦免したこと、またその者達の召し抱えを許すことを諸大名に通達する。
出典:同年月日付板倉重宗書状(『浅野家文書』)

元和9年 1623年 10月18日 45歳
徳川秀忠仁賀保挙誠が仁賀保(出羽国)10000石を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第205「仁賀保挙誠」の項

寛永1年 1624年 2月30日 46歳
「元和」より「寛永」に年号が改まる。
出典:-

寛永2年 1625年 10月23日 47歳
徳川秀忠油川信貞に武蔵国都築郡、上総国埴生郡、同国武射郡内で350石を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第147「油川信貞」の項

寛永2年 1625年 12月11日 47歳
徳川秀忠安西正重に350石を新たに給付する。正重は総じて850石を領す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第582「安西元重」の項

寛永3年 1626年 6月25日 48歳
徳川秀忠・家光父子が参内する。島津家久が供奉する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津家久(忠恒)」の項

寛永3年 1626年 8月11日 48歳
徳川秀忠が腫物を患った佐竹義宣に但馬国での湯治を勧める。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

寛永3年 1626年 8月29日 48歳
佐竹義宣二条城(山城国)に登場し、徳川秀忠の昇進を賀す。義宣は従四位上・中将に叙位・任官。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

寛永3年 1626年 9月15日 48歳
妻・が死去する。
出典:-

寛永4年 1627年 3月14日 49歳
徳川秀忠加藤嘉明に200000石を給付し、松山(伊予国)より会津(陸奥国)に移す。嘉明は総じて400000石を領する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第773「加藤嘉明」の項

寛永4年 1627年 9月16日 49歳
徳川秀忠江戸城(武蔵国)西ノ丸の数寄屋にて鍋島勝茂に茶を振る舞う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第823「鍋島勝茂」の項目

寛永6年 1629年 10月23日 51歳
徳川秀忠江戸城(武蔵国)新山里に池田輝澄を招き、茶を賜う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第266「池田輝澄」

寛永9年 1632年 1月24日 54歳
徳川秀忠が死去する。
出典:-

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