城 郭 史

駿府城(駿河国) すんぷじょう
築 城 年-
築 城 者-
改 築 年-
改 築 者-
廃 城 年-
別 称-
現 所 在 地〒402-0853
静岡県静岡市葵区駿府城公園1-1
史 料 地 名-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ駿府城(駿河国)の関連文化財
リ ン ク今川義元徳川家康中村一氏徳川頼宣
駿府城(駿河国) 年表
大永6年 1526年 6月13日 
今川氏親が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第94「今川氏親」の項

天文5年 1536年 6月10日 
梅岳承芳が玄広恵探の籠る花倉城(駿河国)を攻め、恵探は普門寺(駿河国)に逃れるも自害する。
出典:-

永禄3年 1560年 5月19日 
桶狭間にて織田信長今川義元を襲撃し、義元が戦死する。義元は毛利良勝が討ち取る。
織田信長勢:森可成前田利家
今川義元勢:松平宗次(戦死)、鈴木重村。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第16「松平宗次」の項、同126「森可成」の項、同1154「鈴木重村」の項

永禄6年 1563年 -月-日 
今川氏真への松平元康の人質として松平康俊駿府城(駿河国)に赴く。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第53「松平康俊」の項

天正7年 1579年 9月25日 
武田勝頼勢が府中(駿河国)に軍勢を移す。これにより徳川家康は井籠まで軍勢を引き上げる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月28日 
松平信一徳川家康に帰陣を勧め、家康は井籠より牧野城(遠江国)に引き上げることとする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月30日 
徳川家康牧野城(遠江国)に帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 10月1日 
徳川家康浜松城(遠江国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月26日 
浜松城(遠江国)に武田勝頼勢が高天神城(遠江国)に移ったとの報が入る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月27日 
松平家忠が見付(遠江国)に出陣する。武田勝頼勢が国安より撤退する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月28日 
武田勝頼勢が大井川を越え撤退する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月29日 
武田勝頼勢の撤退につき、徳川家康勢は浜松城(遠江国)に帰城することになり、その旨を本多重次が触れ廻る。松平家忠は見付(遠江国)に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正12年 1584年 4月9日 
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同1153「野呂守景」の項

天正14年 1586年 9月-日 
徳川家康駿府城(駿河国)を居城とする。板倉勝重を町奉行とする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉勝重」の項

天正18年 1590年 2月10日 
徳川家康豊臣秀吉小田原城(相模国)攻めにつき駿府城(駿河国)を出立し、賀島(駿河国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

慶長5年 1600年 6月25日 
徳川家康駿府城(駿河国)二ノ丸にて城主・中村一氏の名代・横田内膳の饗応を受ける。その後、輿に乗って訪れた一氏と対面し、一氏を労わる。夜、清見寺(駿河国)に宿泊する。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月17日 
中村一氏が死去する。
出典:-

慶長6年 1601年 2月-日 
徳川家康が内藤信成に駿府(駿河国)を給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長12年 1607年 4月-日 
徳川家康駿府城(駿河国)の普請を始める。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長12年 1607年 7月3日 
徳川家康駿府城(駿河国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長13年 1608年 -月-日 
徳川家康の執り成しにより、駿府城(駿河国)にて細川忠興と細川興元が和解する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第106「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川興元」の項

慶長15年 1610年 1月8日 
松前慶広駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに赴き、蝦夷国の鷹4連を献上する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

慶長15年 1610年 3月-日 
南部利直駿府城(駿河国)の居る徳川家康に謁す。家康は数寄屋にて利直に茶を振る舞い、道阿弥肩衝茶入を賜う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第210「南部利直」の項

慶長15年 1610年 8月6日 
島津家久が尚寧をともない、駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに赴き、礼をする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津家久(忠恒)」の項

慶長16年 1611年 8月4日 
徳川秀忠の使者として安藤重信駿府城(駿河国)の徳川家康のもとを訪れ、加藤清正の遺領を、その子・虎之助に相続させてもよいか裁可を請う。家康は虎之助の遺領相続を認める。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 8月14日 
徳川家康駿府城(駿河国)に新造した蔵に御物を納める。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 8月16日 
浅野長則(長重)、杉原長房、堀親良が江戸(武蔵国)より駿府城(駿河国)に居る徳川家康のもと赴く。家康は、長則の父・長政の遺領を3人に割譲し給付する。
駿府城の書院を造替することとし、畔柳寿学を奉行とする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 8月20日 
長崎所司 長谷川藤広駿府城(駿河国)に居る徳川家康のもとを訪れる。明、南蛮等の商船80余艘が訪れたことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 8月22日 
最上義光駿府城(駿河国)に居る徳川家康に菱喰を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 8月23日 
有馬晴信・直純父子が駿府城(駿河国)に居る徳川家康のもとを訪れ、晴信が巻物20を、直純が銀子50枚を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 8月24日 
加藤清正死去につき、江戸(武蔵国)に人質としていた加藤虎之助が清正の遺領相続により熊本城(肥後国)に下向途中の加藤虎之助が、駿府城(駿河国)に居る徳川家康のもとを訪れ、黄金50枚、銀100枚を献上する。
細川忠興が家康に暹羅国との交易で手に入れた象牙、白絹、孔雀、豹を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 9月11日 
松平忠直に嫁ぐ勝姫(徳川秀忠の娘)が駿府城(駿河国)に到着する。勝姫の供奉は土井利勝
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 9月14日 
日野唯心駿府城(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 9月18日 
松平忠直に嫁ぐ勝姫(徳川秀忠の娘)が越前国に向かうべく駿府城(駿河国)を出立する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 9月29日 
毛利就隆駿府城(駿河国)に居る徳川家康に謁し、銀100枚を、福原広俊が鞢10具を献上する。
亀井茲矩が家康に謁し、銀100枚、鉄砲1挺を献上する。
伊達政宗が鮭10箇を家康に献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 9月30日 
徳川頼宣駿府城(駿河国)二ノ丸の頼宣邸に藤堂高虎を招き饗応する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月1日 
山科言緒舟橋秀賢冷泉為満駿府城(駿河国)に到着し、徳川家康のもとを訪れる。3名は家康に謁し、秀賢が家康に諸家略系図、屏風1隻を献上する。
家康が舟橋秀賢、下間仲之を召す。仲之に銀30枚、被物1重を下賜する。
家康、日野唯心、秀賢、円光寺、金地院崇伝が京都の院内や和漢・古今について論じる。
家康が藤堂高虎に加藤虎之助の領国経営の後見を命じる。10月2日に高虎は肥後国出立することとなる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月2日 
駿府城(駿河国)にて山科言緒舟橋秀賢冷泉為満、円光寺、金地院崇伝徳川家康に召され饗食を賜う。
山岡修理が銀100枚を、山岡新太郎が羽織2領を家康に献上する。
岩本坊が西楽院遺物として三大部60巻を家康に進上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月3日 
所々の代官が納米の代価 金19000両を駿府城(駿河国)の「殿守御庫」に納める。
呂宋国に御書と進物として腰刀・脇刀各1柄を送る。長谷川左兵衛が担当。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月4日 
中井正清駿府城(駿府城)に居る徳川家康のもとに訪れ、前殿等造替を報告する。また、方廣寺大仏殿の大虹梁立てについて、容易に成し遂げることができることを家康に伝え、家康は喜悦する。
徳川秀忠が家康に生鮭を贈る。
片桐貞隆が御服3領・渋紙200張を、生駒正俊が紫皮100枚を家康に進上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月6日 
巳刻(9-11時)、徳川家康が鷹狩と称して関東の向かうべく駿府城(駿河国)を出立する。供奉は本多正純安藤直次成瀬正成村越直吉松平正久後藤光次。駿府八幡辺で鷹狩をする。家康は清水(駿河国)に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月23日 
徳川家康駿府城(駿河国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月24日 
日野唯心、円光寺が徳川家康のもとに出仕する。
徳川秀忠の使者として土井利勝駿府城(駿河国)にいる家康のもとを訪れ、家康の駿府城への無事の帰城を賀す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月26日 
徳川家康池田長吉が銀台子1飾・御服10領を、浅野氏重が御服5領を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月10日 
徳川家康が府中(駿河国)にて鷹狩をする。
織田有楽斎駿府城(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月14日 
朝、徳川家康駿府城(駿河国)の数寄屋にて織田有楽に茶を賜う。日野唯心山名禅高が相伴する。楢柴肩衝、朱衣肩衝、虚堂の掛物、古銅の花入で数寄屋を設える。花は家康が生け、茶は有楽斎が点てる。
その後、有楽が家康に黄金3枚、御服5領を献上する。
徳川義俊の疱瘡平癒を賀すとして豊臣秀頼が銀300枚、御服10領を義俊に贈る。使者は石川貞政。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月15日 
徳川家康が府中(駿河国)にて鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月16日 
徳川家康が府中(駿河国)にて鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月20日 
徳川家康が府中(駿河国)にて鷹狩をする。
駿府城(駿河国)にて城中の煤払いが行われる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月21日 
徳川家康が鷹狩をするため田中に赴く。
越後国の仕置きおよび甲斐国・武蔵国の所領見回りをしていた大久保長安駿府城(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月26日 
申刻(15-17時)、徳川家康が田中より駿府城(駿河国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月27日 
石川敦高が、越年のため駿府城(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 1月7日 
徳川家康吉良(三河国)にて鷹狩をするため駿府城(駿河国)を出立する。田中に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月11日 
徳川家康駿府城(駿河国)に帰城する。家康は府中(駿河国)にて鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月26日 
駿府城(駿河国)にて田中忠政徳川家康に謁す。忠政は家康に銀子100枚、黒羅紗10間を献上する。
夜、家康が本多正純板倉勝重を召し、3月中旬に徳川秀忠と天下政務の相談をすることを伝える。
生駒正俊が駿府城に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月27日 
徳川家康が府中(駿河国)近辺にて鷹狩をする。
伊達政宗が駿府城(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月28日 
駿府城(駿河国)にて伊達政宗が銀100枚・鮭塩引10箇を、生駒正俊が銀100枚・御服10領を徳川家康に献上する。同城の数寄屋にて家康が政宗・正俊に茶を賜う。日野唯心が相伴する。茶入は銘 投頭巾。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月29日 
徳川家康が鷹狩をする。
藤堂高虎が江戸(武蔵国)より駿府城(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月1日 
本因坊算砂、宗桂が江戸(武蔵国)より駿府城(駿河国)に到着する。
午刻(11-13時)、在駿府城の諸侍が総出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月3日 
在駿府城の諸侍が総出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月4日 
徳川家康が鷹狩をする。
土井利勝が江戸(武蔵国)より駿府城(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月5日 
土井利勝が江戸(武蔵国)に戻るべく、駿府城(駿河国)を発つ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月13日 
徳川秀忠駿府城(駿河国)に居る徳川家康と天下政務について相談すべく、江戸城(武蔵国)を出立する。藤沢(相模国)に到着する。供奉は本多正信大久保忠隣酒井忠世土井利勝、青山忠成、山口重政神尾守世水野忠元、井上正就等。
出典:『駿府記』同年月日・17日条

慶長17年 1612年 3月17日 
辰刻(7-9時)、徳川秀忠駿府城(駿河国)西丸に到着する。供奉は本多正信大久保忠隣酒井忠世土井利勝、青山忠成、山口重政神尾守世水野忠元井上正就等。午刻(11-13時)、秀忠が駿府城の本城に赴き、父・家康と雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月18日 
禁獄中の岡本大八が有馬晴信について、長谷川藤広を殺害せんと企んでいると申告する。これにより、大八を牢より出し、大久保長安邸に移し、晴信の居る前で大八に晴信の企てについて述べさせる。晴信は閉口してしまい回答ができなかったため、晴信の身柄を拘束する。大八は再度牢に入れる。これにつき、晴信の所領は子・直純に与え、直純には国の仕置きのため帰国を許す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月19日 
徳川秀忠駿府城(駿河国)本城に赴き、父・家康と雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月20日 
駿府城(駿河国)にて徳川秀忠山名禅高と将棋を指す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月21日 
徳川秀忠が加護鼻にて竹腰正信をして鉄砲を放たせる。
岡本大八を牢より出し、府内(駿河国)にて引き回しのうえ、安部川原にて火炙りの刑に処す。徳川家康板倉勝重を召し、キリスト教を禁教とし、京都における南蛮寺の破却を命じる。また、長谷川藤広に暇を与え長崎(肥前国)に赴かせる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月22日 
駿府城(駿河国)にて徳川秀忠山名禅高と将棋を指す。
有馬晴信を甲斐国へ配流とする。大久保長安の監督下に置く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月23日 
駿府城(駿河国)に滞在中の徳川秀忠の前で本因坊算砂と大橋宗桂が将棋を指し、算砂が勝利する。
松平摂津守、松平忠明、水野勝成、石川忠総、本多康俊が秀忠に謁すべく駿府城に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月25日 
徳川家康駿府城(駿河国)三ノ丸にて能を催す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月26日 
徳川家康駿府城(駿河国)の数寄屋にて茶会を催す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 4月2日 
加藤忠広が父・清正の遺領相続につき、徳川家康に礼をすべく駿府城(駿河国)に到着する。忠広は家康に謁し、黄金100枚、服10領を進上する。
鍋島勝茂の所領が有馬晴信に給付されるとの噂があったが、それは岡本大八による虚説であったことがわかり、勝茂がそれを喜ぶ使者を家康に遣わし、黄金50枚・猩々皮30間を、鍋島直茂が家康に黄金10枚を献上する。
夜、徳川秀忠が家康のもとへ赴き対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 4月8日 
徳川家康駿府城(駿河国)三ノ丸にて能を催す。徳川秀忠が見物する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 4月10日 
徳川秀忠江戸城(武蔵国)に帰城すべく、駿府城(駿河国)本城に赴き父・家康に挨拶する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 4月14日 
今川宗誾が駿府城(駿河国)に居る徳川家康のもとを訪れ、家康と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 4月19日 
南光坊天海駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れる。家康は天海が住持を務める喜多院(武蔵国)に300石を寄進する。
安藤重信徳川秀忠の使者として家康のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 4月22日 
徳川義俊駿府城(駿河国)三ノ丸にて能を催す。父・家康が見物する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 5月3日 
加藤貞泰が伯耆国より駿府城(駿河国)に到着する。徳川家康に銀30枚、白絹30疋を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 5月4日 
徳川秀忠の使者として神尾守世駿府城(駿河国)に居る徳川家康のもとに赴き、端午の節句として帷子5領を進上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 5月5日 
日野唯心水無瀬一斎土御門久脩飛鳥井雅庸冷泉為満舟橋秀賢駿府城(駿河国)に居る徳川家康と対面し雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 5月8日 
日野唯心水無瀬一斎土御門久脩飛鳥井雅庸冷泉為満舟橋秀賢駿府城(駿河国)に居る徳川家康に出仕する。
前田利長の使者が家康のもとに到着し、銀子1000枚、白絹100疋、白布100疋を献上する。
堀尾忠晴が家康に銀子300枚、単物5領、帷子5領、蚊帳1張を献上する。
村上忠勝が家康に銀子100枚、蝋100貫(10箱)を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 6月1日 
巳刻(9-11時)、日野唯心水無瀬一斎土御門久脩冷泉為満舟橋秀賢駿府城(駿河国)在府中の武士が徳川家康に出仕する。家康は各々に富士山の氷を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 6月14日 
加藤忠広が肥後国へ帰国の途次、駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに礼をする。家康は忠広に刀(銘 国次)、脇差(銘 国光)を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 6月16日 
駿府城(駿河国)にて若原良長が徳川家康に謁見する。家康は良長に馬を、池田輝政に薬を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 6月19日 
肥前国に帰国途中の寺沢広高五島盛利駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。広高は緞子5段を、盛利は黄段2巻を家康に献じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 6月20日 
森忠政駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。銀300枚、帷子10領、単物10領を献上する。
九鬼守隆が子の良隆・貞隆をともない家康に謁見する。良隆は太刀・馬・単物5領を、良隆は太刀・馬を家康に献上する。
金地院崇伝が家康のもとを訪れ、後陽成上皇の病について相談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 6月26日 
藤堂高虎が江戸(武蔵国)より駿府城(駿河国)にいる徳川家康に会う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 6月28日 
江戸(武蔵国)より讃岐国に帰国途中の生駒正俊駿府城(駿河国)にいる徳川家康に暇乞いをする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 6月29日 
徳川秀忠の使者・永井尚政駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ土用の酷暑見舞いをする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 7月4日 
島津家久の使者・伊勢貞昌が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ礼をする。緋緞子20端、伽羅3斤、沈香1箱を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 7月7日 
七夕につき徳川秀忠家康(駿河国)にいる父・家康のもとへ水野忠元を遣わし、この日、駿府城に到着する。
豊臣秀頼の使者・佐々孫平が駿府城にいる家康のもとに到着する。星節につき黄金10枚・単物・帷子を贈る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 7月28日 
駿府城(駿河国)にて徳川家康日野唯心山名禅高以心崇伝の参加のもと高野山多聞院による真言の法談が行われる。
藤堂高虎が駿府城にて能を催す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 7月30日 
シャム商船の船頭が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に緞子、緋羅、鮫皮等を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月1日 
安倍川が洪水により堤が決壊する。安西衆が薪・材木・俵でもって防ぐ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月4日 
ルソン商船の船頭・ルイスが駿府城(駿河国)にいる徳川家康に緞子、密2壺を献上する。
長崎(肥前国)より家康のもとに飛脚が到着する。飛脚は7月23日に黒船が長崎に着船し、白糸140000斤、緞子多数を積載していたことを、後藤光次を介し家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月12日 
駿府城(駿河国)にてオランダ船が平戸(肥前国)に到来したことが噂される。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月14日 
駿府城(駿河国)にて徳川家康が一乗院を呼び茶湯を催す。日野唯心金地院崇伝藤堂高虎が相伴する。古田重然が駿府城に在府中だったことから、重然が茶を点てる。この頃、重然は「数奇之宗匠」で徳川秀忠の崇敬を厚かったとされる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月15日 
駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに片桐且元が銀30枚・羽織1領・鳥子紙6束を、古田重然が紫皮20枚を、明の官人が薬数種を献上する。
松木紹哲と畔柳寿学が囲碁を指す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月16日 
徳川家康駿府城(駿河国)に在府中の一乗院の宿所に本多正純を遣わし、春日社の造替料として米20000石を寄進することを伝える。
2-zinbutu-20-tokugawa-hidetada.htmlの使者として井上正就が駿府城にいる家康のもとに到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月18日 
角倉素庵が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ紅糸・緋左紗綾・沈香・薬・縮・砂斑猫等を献上する。取次は後藤光次。素庵は安南国に商船を毎年派遣している者とされている。
片桐且元古田重然が江戸(武蔵国)に向けて駿府城を出立する。家康は且元、重然に薬を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月23日 
日野唯心山名豊国藤堂高虎金地院崇伝、玄陽坊が徳川家康に出仕する。
松浦隆信が駿府城(駿河国)にいる家康のもとに赴き、緞子5巻を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 12月15日 
徳川家康が関東での鷹狩から駿府城(駿河国)に帰城する。諸大名が江戸(武蔵国)にて越年するため家康に謁見する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 12月17日 
駿府城(駿河国)に居る徳川家康のもとに、京極高知が銀100枚・御服10領を、黒田長政が銀200枚・御服10領を、黒田万徳丸が綿200把・銀3000両を、有馬豊氏が銀50枚・御服2領を、稲葉典通が御服2領・銀50枚を、山崎家盛が御服2領・銀50枚、古田重治が御服・銀子を進上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長17年 1612年 12月18日 
徳川家康が諸大名に茶を振る舞う。日野輝資、山名禅高が同席する。両名の退席後、家康は黒田長政万徳丸父子を召し、酒盃を下賜す。黒田父子に万徳丸を右衛門佐に任ずことを告げる。また、家康は万徳に刀(銘 長光)・脇差(銘 岡本正宗)・真壺を下賜し、長政に鷹・馬を贈る。本多正純が取次。
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長17年 1612年 12月20日 
細川忠利駿府城(駿河国)にいる徳川家康に謁見する。忠利は家康に綿200把を献上する。
木下延俊が家康に謁見する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 12月26日 
藤堂高虎駿府城(駿河国)のいる徳川家康に出仕する。
島津家久が家康に泡盛(「焼酒」(「琉球酒))2壺・砂糖5桶を献上する。
石川忠総が家康に出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 12月27日 
豊臣秀頼が贈った鶴が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに届く。
三河国より松平和泉守、松平忠利水野忠元本多康紀、本多康俊、菅沼左近、丹羽氏信が家康のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 1月1日 
徳川秀忠の名代(酒井家次・大沢基宿)、松平忠直松平忠輝、松平和泉守、松平玄蕃頭、松平忠利水野忠元本多康俊本多康紀、戸田尊次、三好因幡守、戸川達安三好房一、松倉重政、水野重弘、桑山一直、本田一継、池田光重、堀直寄、滝川忠征、佐久間政実、市橋下総守、山城忠久、桑山貞晴、岡家俊、宮城豊盛、能勢頼次、近藤政成、徳永昌重、山岡景以、分部光信、朽木宣綱、川勝広綱、猪子一時、別所吉治が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に年始の礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 1月2日 
豊臣秀頼の名代・速水守久(取次・大沢基宿)、日野唯心水無瀬一斎山名禅高、畠山左近、土岐市正、西尾豊後守、遠藤慶隆竹中重門古田重治、稲葉方通、谷衛友、平野長泰、長谷川縫殿助、片桐且元片桐貞隆駿府城(駿河国)にいる徳川家康に年始の礼をする。
医者衆が家康に年始の礼をする。
宗義智の名代・柳川智永、京・堺・大坂・奈良・伏見の町人が家康に年始の礼をする。
夜、謡始が行われ、家康、徳川義利徳川頼宣、徳川頼房、唯心、禅高、永井直勝本多正純が出席する。観世大夫、梅若大夫に服2領が下付される。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 1月3日 
駿府城(駿河国)にて三献の祝が行われる。徳川義利徳川頼宣、徳川頼房が参席する。前田利長上杉景勝毛利宗瑞池田輝政島津家久伊達政宗佐竹義宣蒲生忠郷・京極忠高・京極高知・南部利直最上義光森忠政・毛利秀就・細川忠利池田利隆浅野幸長蜂須賀至鎮福島正則黒田長政堀尾忠晴山内忠義田中忠政鍋島勝茂加藤嘉明生駒正俊の名代が徳川家康に太刀を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 1月4日 
駿府町人が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に年始の礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 1月5日 
巳刻(9-11時)、徳川家康が鷹狩に赴く。未刻(13-15時)、駿府城(駿河国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 1月6日 
金地院崇伝駿府城(駿河国)にいる徳川家康に謁す。
増上寺観音国師の使僧・廓山上人、天台宗、真言宗、浄土宗、法華宗の諸僧が家康に礼をする。
伊勢内宮・下宮、諸社の社人が家康に礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 2月5日 
池田輝政の死去につき、徳川秀忠駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに土井利勝を遣わす。播磨国の仕置きについて議す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 3月5日 
駿府城(駿河国)の三ノ丸にて能が催される。徳川頼宣が能5番、徳川頼房が能2番、徳川義利が小鼓1番を勤める。徳川家康、亀、お万、日野唯心山名禅高藤堂高虎、天台宗の僧衆が見物する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 3月11日 
駿府城(駿河国)の三ノ丸にて能が催される。観世、金春、大蔵大夫、梅若大夫、藤堂高虎の小姓・喜之助、池田備後守、鈴木久右衛門、水無瀬一斎が勤める。
安藤重信が江戸(武蔵国)より駿府城(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 3月29日 
駿府城(駿河国)の三ノ丸にて能が催される。徳川頼宣が能2番、下間仲孝、金春、観世が勤める。
駿府城にいる徳川家康佐竹義宣が謁見する。
昨秋より江戸(武蔵国)にいた古田重然が家康に謁見する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 3月30日 
駿府城(駿河国)にいる徳川家康佐竹義宣が礼をする。義宣は家康に銀100枚・服10領を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月4日 
松平忠輝駿府城(駿河国)にいる父・家康に礼をする。忠輝は家康に銀100枚・服10領を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月5日 
駿府城(駿河国)にて能9番が行われる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月6日 
駿府城(駿河国)にて能が行われる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月10日 
伊達政宗駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。政宗は家康に銀100枚・服10領を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月12日 
徳川家康駿府城(駿河国)の数寄屋にて伊達政宗に茶を振る舞う。日野唯心山名豊国が相伴する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月13日 
前田利光が、娘・亀鶴の誕生につき駿府城(駿河国)にいる徳川家康に遣わした奥村易英が駿府(駿河国)に到着する。易英は家康に祝儀として銀100枚・服10領を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月18日 
駿府城(駿河国)にて能が行われる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月19日 
伊達政宗が暇により仙台城(陸奥国)に向けて駿府城(駿河城)を出立する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月20日 
駿府城(駿河国)にて真言新儀の論議が行われる。題は「自力他力」。参加者は智積院、長谷寺玄翁、明星院。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月26日 
板倉勝重駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ、京都のことについて報告する。
徳川秀忠の使者として土井利勝が江戸(武蔵国)に到着する。越前国の仕置きのためとされる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月27日 
播磨国仕置き(池田輝政死後の後処理)に赴いていた村越直吉安藤重信が駿府城(駿河国)に戻る。若原良長、中村正勝による領国経営が問題だったため、良長を罰す。正勝は病死する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 5月2日 
照高院道勝、三宝院義演駿府城(駿河国)に登城し、南殿にて徳川家康に対面する。
米津正勝の下代の不行儀により、正勝が阿波国に流罪となる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 5月4日 
公家衆が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに出仕し、南殿にて対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 5月5日 
公家衆・諸大名が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。
家康が照高院道勝と三宝院義演を召し、本山派・当山派の双方に出入りする山伏について裁定を下す。不動院(武蔵国)は追放と裁許がなされる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 5月20日 
前田利光駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。利光は家康に銀子500枚・綿500把・紅絹100疋・朽葉色絹100疋を献上する。利光の家臣・横山長知奥村栄明奥村栄頼が家康に礼をする。家康は利光、長知、栄明、栄頼と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 6月6日 
神龍院梵舜が駿府城(駿河国)に登城し、徳川家康に神道を伝授する。家康は梵舜に伝授の秘密を口外しないように伝える。その後、梵舜と金地院崇伝が仏法について雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 6月26日 
駿府城(駿河国)にて徳川家康森忠政と対面する。家康は忠政に青木一矩の肩衝茶入を下賜する。忠政は池田忠継の舅であるので、忠継を後見するようにと帰国を命じられる。
長崎(肥前国)より飛脚が駿府城に到着したと後藤光次が家康に取り次ぐ。
シャム国より木屋弥三右衛門が帰国したため、家康は弥三右衛門に対面し、同国のことについて尋ねる。弥三右衛門はシャム国には僧が多く、黄法衣を着ていたという。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 7月26日 
伏見城(山城国)に城番交替につき江戸(武蔵国)より伏見城に向かっている松平信吉、井伊直孝、渡辺大隅守、一色宮内少輔が駿府城(駿河国)にて徳川家康に対面する。その後、伏見城に向けて出立する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月3日 
徳川家康が長崎(肥前国)よりやってきた花火の名手と対面する。6日の夜に花火を打ち上げることになる。
家康が駿府城(駿河国)にてイギリス人と対面する。イギリス人は家康に猩々皮10間・弩1張・象眼入鉄砲2挺を贈る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月5日 
徳川秀忠の使者・土井利勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月6日 
惣検校60人程が大久保長安のところに出入りしていた件で、徳川家康が立腹していることを聞き、家康に詫びるため駿府(駿河国)を訪れる。
夜、花火名手の唐人が駿府城(駿河国)二ノ丸にて花火を打ち上げ、家康に見せる。徳川義利徳川頼宣徳川頼房も見物する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月8日 
土井利勝が江戸(武蔵国)に戻るべく駿府城(駿河国)を出立する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月11日 
南光坊天海が暇乞いのため駿府城(駿河国)に登城する。徳川家康が天海に論義を望む。家康は天海に薬を遣わす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月15日 
巳刻(9-11時)、源誉存応が報土寺(駿河国)に居す。徳川家康が報土寺に赴く。供は本多正純安藤直次成瀬正成村越直吉松平正久等100余名。家康は源誉存応の法問「一念弥陀仏即滅無量罪」を聴聞する。午刻(11-13時)、家康は駿府城(駿河国)に帰城する。その後、家康は南光坊天海邸のもとに赴き仏法について雑談する。夜、帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月17日 
源誉存応が駿府城(駿河国)に登城する。法問が行われる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月18日 
駿府城(駿河国)にて源誉存応による法問が行われる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月27日 
駿河国にて、卯刻(5-7時)より大風雨あり。駿府城(駿河国)近辺の武家邸宅・民屋が倒壊する。申刻(15-17時)、大風雨が止む。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月28日 
佐和山城(近江国)よりやってきた井伊直勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をするため駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月2日 
源誉存応が駿府城(駿河国)に登城する。徳川家康と仏法について密談する。しかし、家康の理解が得られず、天台宗を崇敬するという。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月3日 
片桐且元が駿府(駿河国)に到着する。駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面する、家康は且元に10000石を加増する。これは、豊臣秀頼が給付したものである、且元は家康に憚り、加増を受けなかったので、家康が給付したところ拝領したという。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月9日 
徳川秀忠の重陽を祝す使者・神尾守世徳川家康に服5領を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月17日 
巳刻(9-11時)、徳川家康が鷹狩りのため駿府城(駿河国)を出立する。清水に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月29日 
徳川家康善徳寺(駿河国)を発し、駿府城(駿河国)に到着する。徳川義利徳川頼宣徳川頼房兄弟が出迎える。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月30日 
駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに徳川秀忠からの使者として土井利勝が到着する。本多正純と利勝が家康と密談する。
長谷川藤広が献上した砂糖20斤が駿府城に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月2日 
浅野長晟が駿府(駿河国)に到着する。昨冬、浅野幸長の跡目相続の許可を得たことへの礼のためと、本多正純徳川家康に取り次ぐ。家康は3日に対面する旨、長晟に伝える。
大久保忠佐の居城である沼津城(駿河国)の破却を正純、安藤直次に命じる。この処置は、忠佐が大久保忠隣の叔父であるためという。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月3日 
浅野長晟駿府城(駿河国)に登城し、徳川家康に紀伊国拝領の礼として銀300枚、御服20領を進上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月8日 
寺沢広高駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月9日 
駿府城(駿河国)にて真言論議が行われる。講師は大楽院、多聞院、庵室院、遍照光院。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月10日 
徳川家康が鷹狩をする。徳川義利徳川頼宣徳川頼房が供奉する。申刻(15-17時)、駿府城(駿河国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月14日 
徳川家康駿府城(駿河国)南殿に出る。森忠政が銀200枚・服10領を、蜂須賀至鎮が銀100枚・服10領を、有馬豊氏が銀50枚・服5領を家康に献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月15日 
駿府城(駿河国)にて真言論議が行われる。講師は大楽院、多聞院、庵室院、遍照光院。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月18日 
駿府城(駿河国)にて真言論議が行われる。講師は大楽院、高室院、多聞院、庵室院、遍照光院。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月17日 
駿府城(駿河国)にいる徳川家康京極忠高が礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月21日 
徳川家康土井利勝を召し、本多正純とともに閑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月22日 
徳川家康土井利勝を召し密談する。利勝は江戸(武蔵国)に向けて出立する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月25日 
生駒正俊が駿府(駿河国)に到着する。正俊は駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに赴き銀100枚・服10領を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月1日 
徳川秀忠の使者として水野忠元駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着し、上巳の祝儀を祝う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月8日 
広橋兼勝、三条実條、広橋兼賢、藪宰相、高倉少将が駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面する。
黒田長政池田玄隆が家康に銀200枚・服10領を献上する。家康は長政・玄隆に暇を賜い、江戸(武蔵国)に向かう。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月14日 
駿府城(駿河国)にて法相宗論議、真言論議が行われる。広橋兼勝、三条実條、広橋兼賢、藪宰相、高倉少将、南光坊天海、月山寺、薬樹院、浄土宗僧、五山衆が聴聞する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月17日 
駿府城(駿河国)にて法相宗論議が行われる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月21日 
細川忠利駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。銀子・服を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月23日 
駿府城(駿河国)にて法相宗論議が行われる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月25日 
論議終了につき、徳川家康駿府城(駿河国)数寄屋にて一乗院、喜多院、東北院、阿弥陀院に茶を賜う。茶入れは銘大海。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月26日 
駿府城(駿河国)書院にて管弦の藪宰相、琴楽人3人による演奏が行われる。1番・千秋楽、2番・青海波、3番・陵王。奥之間にて振が演奏を聴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月29日 
徳川秀忠の使者として土井利勝が駿府(駿河国)に到着する。
田中忠政駿府城(駿河国)の普請のため、駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月30日 
田中忠政駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。銀200枚・黒羅紗を献上する。
池田忠継荒尾成利、福原清左衛門、石原市右衛門が家康に礼をする。それぞれ服2領を献上する。
家康と土井利勝が密談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月3日 
木下延俊駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。銀20枚・服を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月4日 
駿府城(駿河国)にて明星院による真言の論議が行われる。
加藤忠広が駿府城にいる徳川家康に礼をする。銀200枚・服10領・袷衣20領を献上する。忠広の郎従5名も家康と対面する。
間宮新左衛門、田辺十郎左衛門が佐渡国より駿府(駿河国)に到着する。銀1000貫目を持参する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月5日 
徳川家康が『群書治要』、『貞観政要』、『続日本紀』、『延喜式』を五山衆に渡し、公家・武家の法度に必要な箇所を抜き出すよう命じる。
西福寺長老が家康に『選択集』2巻を献上する。長老が家康に読みあげる。
総寺院が法華経二十八品歌二十八首を献上する。冷泉為満が読みあげる。
大村喜前が家康に礼をする。銀20枚・緞子5巻を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月6日 
松平忠直駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。銀200枚・綿300把を献上する。家康は忠直の家老である本多富正と丹下を召し、忠直若年つき後見をするよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月8日 
松平忠直駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。忠直は江戸(武蔵国)に赴くべく駿府(駿河国)を発つ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月14日 
駿府城(駿河国)三ノ丸にて能が行われる。五山長老衆、冷泉為満が見物する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月15日 
駿府城(駿河国)三ノ丸にて能が行われる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月21日 
駿府城(駿河国)三ノ丸にて能が行われる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月28日 
徳川秀忠の使者として安藤重信駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。20日の朝廷からの任官の申し出について、秀忠には異議がないことを家康に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 5月3日 
片桐且元駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 5月5日 
徳川秀忠の使者として酒井忠世が駿府(駿河国)に到着する。秀忠の右大臣従一位の任官の礼のためという。日次が悪いとして忠世の出仕は8日とされる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 5月8日 
徳川秀忠の使者として酒井忠世駿府城(駿河国)奥之常之御座にて徳川家康に銀3000枚・太刀(銘 光長)・馬(黒鹿毛)を献上する。本多正純、阿茶局が披露する。
忠世が家康に礼をする。蝋燭500挺・太刀・馬を献上する。家康は忠世に刀(銘 長光)を下賜する。忠世は江戸(武蔵国)に帰るべく駿府(駿河国)を発つ。
加藤忠広の名代として加藤正方が駿府城の礼をする。蒲生秀行の娘を秀忠の養女としたうえで忠広に嫁がせたことを謝し、緋繻子20、黒繻子20、服10領
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 5月10日 
京都(山城国)より板倉重宗駿府城(駿河国)に到着し、徳川家康と密談をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 5月20日 
駿府城(駿河国)にて徳川家康片桐且元が暇を下す。家康は豊臣秀頼に鷹を、且元に鷹・馬を賜う。
申刻(15-17時)、延暦寺(山城国)の正覚院、南光坊天海、五智院、泉福寺、恵光坊、西楽院、仏眼院、竹林坊、恵心院、行光坊、日増院、叡光院、東光院、学林坊が駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 5月21日 
徳川家康延暦寺(山城国)の正覚院、南光坊天海、五智院、泉福寺、恵光坊、西楽院、仏眼院、竹林坊、恵心院、行光坊、日増院、叡光院、東光院、学林坊と駿府城(駿河国)にて対面する。仏法について雑談をする。天台宗僧の退出後、奥ノ間にて南光坊天海が家康に血脈を相伝する。
家康が池田備後守の知行を没収する。
尼崎(摂津国)代官の池田越前守が家康に礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 5月22日 
天台宗僧が駿府城(駿河国)に登城する。南殿において、南光坊天海日吉大社の八王子・三宮で起こった珍事を語る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 5月29日 
徳川家康が五山僧に銀服を賜う。
里見忠義駿府城(駿河国)にいる家康に礼をする。銀100枚・単物・帷子を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 6月2日 
松平乗寿駿府城(駿河国)にいる徳川家康に継目の礼をする。銀50枚・帷子を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 6月4日 
徳川秀忠の使者として成瀬正武駿府城(駿河国)にいる徳川家康に、諸大名による江戸城(武蔵国)の石垣を構築が半ば完成していること、雨により延引していること、諸国で洪水が起こり堤や橋が損壊していることを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 6月16日 
巳刻(9-11時)、駿府城(駿河国)南殿にて嘉定が行われる。徳川家康徳川義利徳川頼宣徳川頼房日野唯心、伝長老、冷泉中納言、水無瀬一斎、大沢少将、山名禅高、佐々木中務少輔、畠山長門守、土岐左馬助、土岐市正、三好因幡守、三好房一、猪子内内匠助、本田若狭守、徳永左馬助、戸川達安、市橋下総守、堀直寄等が出席する。配膳は西尾丹後守。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 6月19日 
島津忠興が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。伽羅・太刀・馬を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月1日 
飛鳥井雅庸が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月7日 
徳川秀忠の使者・水野忠元が七夕の祝儀として駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに赴き帷子5領を進上する。家康より江戸城(武蔵国)普請のことを尋ねられる。
豊臣秀頼の使者として山口左馬允が家康のもとを訪れ、七夕の祝儀として黄金10枚を贈る。また左馬允からの進物として紫皮10枚・太刀・馬を家康に献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月10日 
飛鳥井中納言が江戸(武蔵国)より駿府(駿河国)に到着する。駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。飛鳥井は定家歌書を家康に見せ、歌道の雑談をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月14日 
駿府城(駿河国)城内の竹腰正信邸が焼失する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月19日 
島津家久の使者が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着し、染絹100疋・琉球酒2壺を献上する。
島津維新斎の使者が家康のもとに到着し、緋緞子20巻・香1箱を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月20日 
飛鳥井中納言が新歌撰写を家康に献上する。
谷衛友駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。江戸(武蔵国)詰めのため家康が衛友に暇を下す。本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月21日 
飛鳥井中納言が徳川家康に『源氏物語』を講釈する。
駿府城(駿河国)数寄屋にて家康が近習4、5人と金地院崇伝板倉重昌を召し、方廣寺(山城国)の鐘の銘文が「関東不吉」であると述べたうえで、上棟式の日程についても吉日ではないとして立腹する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月25日 
徳川秀忠の使者として成瀬正武駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月27日 
南光坊天海駿府城(駿河国)数寄屋にて徳川家康に天台法問の伝授をする。
成瀬正武が江戸(武蔵国)に帰るべく駿府(駿河国)を発つ。
家康が『晋書』、『玉海』、『朱子大全』、『大学衍義補』、『二程全書』、『文章弁礼』、『文章正宗』、『李白詩集』、『東莱南軒集』等の書籍30冊を江戸に送る。いずれも江戸の文庫に無い書籍で、林羅山が移送を担当する。
家康が佐野信吉の所領を改易する。信吉の兄・富田信高が勘気を蒙り所領改易となったことの連座とされる。信吉の身柄は小笠原秀政が預かる。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「小笠原秀政」の項

慶長19年 1614年 7月28日 
小笠原政信が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。帷子10領・銀100枚を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月1日 
駿府城(駿河国)にいる徳川家康が、南光坊天海、以心伝心、東大寺衆、日野唯心、飛鳥井雅庸、冷泉為満、唐橋と雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月3日 
徳川家康駿府城(駿河国)奥ノ間前の泉水について、島を築き池を掘って魚を放つように命じる。担当は諏訪部総右衛門。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月5日 
片桐且元より駿府城(駿河国)にいる徳川家康方廣寺(山城国)大仏殿の鐘銘・棟札が到着する。4日に中井正清が提出したものと同文であることを確認する。家康は鐘銘の善悪を五山衆に問うべく、板倉重昌を京都(山城国)に遣わすこととする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月8日 
板倉重昌が京都(山城国)に向けて駿府(駿河国)を出立する。
東大寺上生院が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面し、大仏の髪が傾いたので修復すべく、真柱を取り替え、諸国勧進をし、銅をもって鋳造することを訴える。家康はその訴えを承諾し、中井正清に修復工事を命じる。源頼朝が重源に遣わした自筆文書2通、『東大寺縁起』を上生院が家康に見せる。
小笠原秀政忠脩父子が家康に礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月9日 
駿府城(駿河国)にて天台論義が行われる。題は「法華入実者、阿含之但空歟、方等之弾呵による歟」。精義は南光坊天海、月山寺、真光寺、法輪寺、日増院、実泉院。
徳川家康が尊応・栄雅の奥書がある『定家古今集』、逍遥院・称名院筆の『三代集』を冷泉為満等の公家衆に見せる。為満は『定家古今集』をみて不審の念を持つ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月12日 
駿府城(駿河国)にて、徳川家康山名禅高に両吟連歌を命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月18日 
板倉重昌が京都より駿府城(駿河国)の徳川家康のもとに戻る。方廣寺大仏殿梵鐘の銘文について五山碩学の長老7人の批判文を持参する。家康はその批判文を読んだうえで、南光坊天海以心崇伝林羅山を呼び、批判文より英叟清韓の文書の難点を指摘するよう命じる。
片桐且元が丸子寺に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月24日 
長崎(肥前国)より長谷川忠兵衛、茶屋清次駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ、南蛮・唐人の商船が来航していることを報告する。家康より忠兵衛と清次にキリスト教徒追放のこと尋ねる。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月25日 
村上忠勝溝口宣勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康に謁見する。蝋燭を献上する。
木下熊之助が初めて家康に謁見する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月26日 
駿府城(駿河国)広間にて能が催される。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月27日 
駿府城(駿河国)にて天台論義が行われる。題は「法華ノ弥陀、観経弥陀と同体か別体か」。精義は南光坊天海、講師は月山寺、薬樹院、真光寺、法輪寺、日増院、東光坊、法泉院。
飛鳥井雅庸が江戸(武蔵国)に赴くべく駿府(駿河国)を発つ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月28日 
江戸(武蔵国)にて大風があり、城下の家屋や寺社が倒壊する。伊達政宗前田利光の屋敷が倒壊する。
山城国・河内国・近江国にて堤が崩れ、百姓は家を流され溺死するとされる。
徳川秀忠の使者として水野忠元駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面する。本多正純を交え、大坂城(摂津国)にて豊臣秀頼が牢人を召し抱えていることについて家康が立腹している件で密々の相談をする。
出典:『駿府記』同年月日条、同9月1日条、同9月4日条

慶長19年 1614年 8月30日 
徳川家康の使者として本多正純徳川秀忠のもとに赴くべく、駿府(駿河国)を発つ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月1日 
公家衆が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に出仕する。
家康がオランダ人に謁見する。オランダ人は白糸2丸、龍脳2斤、丁子2嚢、大木綿、緞子を献上する。ヤン・ヨーステンが家康に対面する。家康に虎子2匹を見せる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月3日 
駿府城(駿河国)三ノ丸にて能が催される。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月6日 
駿府(駿河国)にて大雨あり、丑刻(1-3時)には地震が起こる。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月6日 
駿府城(駿河国)にて真言論義が行われる。題は「他作自受、他人のなす善根を自身に受るか否か」。講師は宝性院・如意輪寺・釈迦文院・俊長坊・覚証院・覚俊坊。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月7日 
本多正純が江戸(武蔵国)より駿府(駿河国)に戻る。徳川家康片桐且元のもとに正純・金地院崇伝を遣わし、家康の意向として、豊臣秀頼から且元・片桐貞隆に知行給付するようすると伝える。断れば不義となることを且元兄弟に伝える。また、秀頼が家康・秀忠父子を調伏しているとの風説があることを伝える。大蔵卿局にも同じことを伝える。
舟橋秀賢の子が家康に継目の礼をする。秀賢の遺物である『三代実録』50巻を家康に献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月9日 
巳刻(9-11時)、徳川家康駿府城(駿河国)御書院に赴く。公家衆が出仕する。
徳川秀忠が使者として神尾守世が家康に重陽の御服5領を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月14日 
徳川秀忠の使者として土井利勝が駿府(駿河)に到着する。土井利勝が利勝の到着を密かに徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月15日 
駿府城(駿河国)数寄屋にて徳川家康南光坊天海と仏法の雑談をする。
諸侍が家康に出仕する。
幸若小八郎が江戸(武蔵国)より駿府(駿河国)に到着する。家康の前で舞曲を舞う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月16日 
前田利光が駿府(駿河国)に到着する。午刻(11-13時)、駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに利光が礼をする。利光は黄金100枚・紅染絹200疋・白絹100疋を献上し、家康に対面する。家康は利光に太刀(銘 守家)・脇差(銘 長光)を賜う。本多正純が下賜物を伝達する。利光の家臣である奥村栄明奥村栄頼が家康と対面する。服を献上する。
夜、家康が利光に継目の朱印状を発給する。正純、土井利勝が利光のもとに持参する。
家康が利光に、17日朝に徳川秀忠のもとに戻るよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月18日 
池田利隆が駿府(駿河国)に到着する。駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。普請の暇ができたため、播磨国に赴くべく家康に暇乞いをする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月18日 
片桐且元が駿府(駿河国)より大坂城(摂津国)に戻る。且元は豊臣秀頼淀殿に、今後、徳川秀忠との不和を生じないよう、秀頼か淀殿のいずれかが江戸(武蔵)在府をするか、秀頼が大坂城を出て他国に国替えをしてはどうかと徳川家康より提案があったことを伝える。秀頼・淀殿はこの提案を不快とする。
出典:『駿府記』同年月25日条

慶長19年 1614年 9月20日 
徳川家康が日善と対面する。
蒔田権佐が菓子を家康に献上する。
幸若小八郎が駿府城(駿河国)にて舞曲(文覚)を舞う。
江戸(武蔵国)より伊丹康勝・鎮目市左衛門が駿府(駿河国)に到着する。
大久保忠隣の娘婿・里見忠義が館山(安房国)より米子(伯耆国)に国替となる。本多忠朝・内藤政長が館山城(安房国)の請取に赴くこととなる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月25日 
大坂(摂津国)にて豊臣秀頼の命により大野治長青木一重、石川貞政、薄田兼相渡辺糺木村重成、織田頼長等が、片桐且元を殺害せんとする。且元はこの計画を知り、自邸に籠居する。
且元の飛脚が駿府(駿河国)に到着する。その飛脚は、18日に且元が秀頼・淀/茶々に、徳川秀忠との関係悪化を回避するため、秀頼・淀殿のいずれかが江戸(武蔵国)に在府するか、秀頼が大坂城(摂津国)を出て国替えに応じるか徳川家康より提案があったことを伝えたが、秀頼・淀殿は不快の意を示したこと、その後、且元を殺害するとの密告があったため且元は出仕を控えていることを伝える。本多正純が家康に飛脚の報告内容を伝える。
出典:『駿府記』同年月日条・同年10月1日条

慶長19年 1614年 10月1日 
板倉勝重よりの飛脚が駿府(駿河国)に到着する。勝重の書状には大坂(摂津国)にて豊臣秀頼の命により大野治長青木一重、石川貞政、薄田兼相渡辺糺木村重成、織田頼長等が、片桐且元を殺害せんとし、計画を知った且元が自邸に籠居したことを、本多正純板倉重昌徳川家康に報告する。
家康はこの事件に立腹し、大坂に向けて出陣することを近江国、伊勢国、美濃国、尾張国、三河国、遠江国に触れ、徳川秀忠にも伝える。
勝重よりの書状が、再度、駿府(駿河国)に到着し、織田頼長が、且元が駿府に赴いたならば、秀頼を大坂城(摂津国)より追い出し、織田常真を大将として籠城するつもりであると家康に報告する。
且元・貞隆兄弟が大坂城を退去し、居城・茨木城(摂津国)に入る。
出典:『片桐家秘記

慶長19年 1614年 10月4日 
徳川秀忠大坂城(摂津国)の豊臣秀頼を攻めるべく、関東、陸奥に陣触を出す。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月5日 
板倉勝重の飛脚が駿府(駿河国)に到着し、豊臣秀頼大坂城(摂津国)を整備し、牢人を召し抱え、籠城の準備をしていると、駿府城(駿河国)にいる徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月6日 
板倉勝重の飛脚が駿府(駿河国)に到着し、勝重宛の織田有楽の書状を駿府城(駿河国)にいる徳川家康に届ける。有楽の書状には、片桐且元による家康との交渉が不調に終わったことを豊臣秀頼が折檻したため、且元・貞隆兄弟は茨木城(摂津国)に退くことになり、大坂城(摂津国)は大騒動となったが、長益・頼長父子は家康・秀忠父子に対する野心はない伝える。
江戸城(武蔵国)普請役を終えた細川忠利が箱根(相模国)にて大坂の騒動を聞きつけ、この日、駿府(駿河国)に到着する。忠利は、父・忠興が肥後国に在国しているので、家康・秀忠に随従し、大坂城攻めに先手を命じるようにと本多正純を介して家康に伝える。家康は忠利の申し出を神妙として、江戸に赴くよう指示する。
江戸城(武蔵国)普請役を終えた中川久盛が駿府(駿河国)に到着し、家康に対面する。家康は久盛に岡城(豊後国)に帰国し、軍勢を整え、指示を待つようにと伝える。
奥平信昌の飛脚が駿府(駿河国)に到着する。奥平忠政が10月2日に死去したことを、正純を通じて家康に伝える。家康は加納(美濃国)は、忠政の弟・松平忠明が率い、大坂に出陣し、父・信昌は愁嘆であろうから加納城(美濃国)を守備するようにと指示を出す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月7日 
江戸城(武蔵国)普請役を終えた京極高知京極忠高森忠政田中忠政が駿府(駿河国)に到着する。駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康は4名に急ぎ領国に帰国し、軍勢を整え出陣の指示を待つようにと伝える。
片桐且元貞隆兄弟の使者として小島勝兵衛・梅津忠介が駿府(駿河国)に到着する。両使は本多正純を介し、且元・貞隆が大坂城(摂津国)より茨木城(摂津国)に退いたことを家康に報告する。家康は両使を召し出し、服・羽織を下賜したうえで、且元・貞隆へ茨木城への退出を神妙と書状をもって伝える。
大坂城攻めにあたり、家康が駿府城(駿河国)の留守居を松平紀伊守、三宅宗右衛門に命じる。
家康が彦坂光正に西国の早船を調べ櫓を取り上げるように命じる。
家康が沼津城(駿河国)の留守居を長野九左衛門に命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月8日 
朝、徳川家康藤堂高虎大坂城(摂津国)攻めの先陣として、天王寺(摂津国)から攻め入るべく、紀伊国・美濃国・尾張国・伊勢国・遠江国・三河国の諸勢と大和国まで進むようにと命じる。
徳川秀忠の使者として土井利勝が駿府(駿河国)に到着する。利勝は、大坂城攻めにつき、家康が出陣するとのことだが、秀忠の意向としては家康は関東・江戸の仕置きをして欲しいとの思いがあり、再三、家康に翻意を促すが、家康は先ず上洛し、大坂城の状況をみてさしたることがなければ処置をした後、駿府に戻るが、豊臣秀頼が籠城するならば秀忠に同城を攻撃を指示するという。なお、その際は、秀忠に軍勢100000をもって陸奥の仕置きをした後、上洛するようにと伝える。加えて、江戸城(武蔵国)の留守居を松平忠輝蒲生忠郷奥平家昌最上家親鳥居忠政酒井重忠酒井忠利、内藤清次とするよう利勝に指示する。利勝は江戸(武蔵国)にむけすぐに駿府を発つ。
江戸城普請を終えた竹中重利が駿府に到着し、家康と対面する。家康は、重利が福島正則と知音なので、使者として赴くようにと伝える。家康が重門を通じて、このたび秀頼が織田長益大野治長木村重成、渡辺守の所為か、家康・秀忠父子に悪逆を構えていることについて、豊臣秀吉は正則を好み、故に正則は秀頼と疎むことはないが、家康・秀忠への秀頼の敵対は、秀頼本人の意思ではないにせよ、もはや互いに疑心暗鬼の状況であるから戦は避けられないので、福島勢は子・忠勝が率いて大坂に出陣し、正則は江戸に留まるようにと正則に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月9日 
最上家親が駿府(駿河国)に到着する。駿府城(駿河国)にいる徳川家康に継目の礼をする。銀500枚・綿500把・蝋燭1000挺・馬(鴇毛)・太刀(銘 正恒)と、父・義光の遺物として黄金100枚・脇差(銘 来国俊)を献上する。本多正純が披露する。家康は家親に大坂城(摂津国)攻めにつき、江戸城(武蔵国)の留守居をするように指示する。家親は江戸(武蔵国)に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月10日 
江戸城(武蔵国)の普請を終えた浅野長晟鍋島勝茂山内忠義蜂須賀至鎮小出吉英稲葉典通遠藤慶隆毛利高政が駿府(駿河国)に到着し、駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康は大坂城(摂津国)攻めにつき、領国に戻り軍勢を整え指示を待つように伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月11日 
辰刻(7-9時)、大坂城(摂津国)攻めのため徳川頼宣駿府城(駿河国)より出陣する。安藤直次・水野重央等の数百騎が随従する。
巳刻(9-11時)、徳川家康が駿府城より出陣する。家康は道中に鷹狩をする。家康勢は、午刻(11-13時)、本多正純指揮のもと出陣する。石川忠総が随従する。申刻(15-17時)、家康は田中(駿河国)に到着する。田中に到着した家康のもとに板倉勝重よりの飛脚が到着する。豊臣秀頼の籠城の様子について、金銀を取り出し、大坂(摂津国)近辺の米を買い入れ、武具を城内に入れ、惣構に壁を構築し、番匠を雇い入れ櫓に置いていると伝える。
彦坂光正が天龍川に架ける舟橋について、家康の通行以前に諸人の往来をしてもよいか家康に伺う。家康は諸人の往来は許すが、軍勢が渡った後は、他の軍勢の追撃を受けないよう舟橋を破却するようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『石川忠総家臣大坂陣覚書』、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 10月12日 
申刻(15-17時)、徳川家康が掛川(遠江国)に到着する。夜、家康のもとに茨木城(摂津国)より大野治純と片桐且元の使者が到着する。家康は治純を召し出し、大坂城(摂津国)の様子を尋ねる。治純は、豊臣秀頼による籠城の準備は、織田有楽、織田頼長、木村重成渡辺糺大野治長等の秀頼側近が急に企てたことであると述べる。
京都(山城国)にいる板倉勝重より家康のもとに飛脚が到着する。飛脚は、10月6・7日に京都にいた牢人の内、長宗我部盛親後藤基次、仙石秀範、明石全登、松浦重政等の1000人余を秀頼が金銀にて召し抱え籠城しているとし、豊臣勢が大和国に攻め入り、宇治(山城国)・槙島(山城国)まで出て放火し、茨木城を攻めて且元・貞隆兄弟を討ち取るとの噂があると報告する。
秀頼が(和泉国)を攻めるというので、堺の町人が秀頼に帰服し、鉄砲・弾薬・武具を大坂城(摂津国)に運び入れる。堺政所の芝山小兵衛は、無勢につき堺を出て岸和田(和泉国)に退く。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月15日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月13日 
徳川家康が中泉(遠江国)に到着する。道中、鷹狩をする。徳川秀忠より家康のもとへ板倉重宗が到着する。
福島正則の使者と竹中重利の書状が江戸(武蔵国)より家康のもとに到着する。正則より、豊臣秀頼大坂城(摂津国)で籠城準備をしていることについて、秀頼と淀殿の野心を批判し、秀頼近習が若輩故かとして、秀頼に書状をしたためたことを家康に伝える。正則の書状は本多正純が内容を確かめる。その書状には、方廣寺(山城国)のことについて、家康・秀忠に対し交戦姿勢を示すのは天魔の所業であるので、すぐに改心し、淀殿にいたっては家康・秀忠に詫び、江戸か駿府(駿河国)に在国し、秀頼の無事を確保するのが大切であると述べる。正則は江戸に妻子を置き、家康・秀忠に対し無二の忠節を誓っている。もし秀頼が改心しないのであれば、正則を始め天下の諸勢が大坂城に向かい、同城を攻め落とすのは間違いないから、よくよく考え、生きながらえるか自滅するかを思案するようにと記されていたとされる。
長崎(肥前国)より長谷川藤広の飛脚が家康のもとに到着する。9月24日にキリスト教徒100余人と高山重友内藤如庵、長崎のキリスト教徒を、船にて天川(マカオ)に遣わしたと報告する。
夜、黒田蔵人と安藤直次所従が喧嘩をする。
秀頼が槙島昭光を大将に軍勢300を(和泉国)に出す。片桐且元が加勢として軍勢200を堺に派遣する。秀頼と片桐勢が戦い、片桐勢は多羅尾半左衛門、牧治右衛門が戦死し、今井宗薫、今井宗呑が戦死したと噂される。且元勢は尼崎(摂津国)に退くが、秀頼勢が追撃し、7、8騎を討ち取る。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月16日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月14日 
卯刻(5-7時)、徳川家康が中泉(遠江国)を発ち、道中を鷹狩をしながら、天龍川二瀬の舟橋を渡り、午刻(11-13時)に浜松(遠江国)に到着する。二瀬舟橋は大石十右衛門、豊島作右衛門が架ける。
京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。勝重よりは、大坂城(摂津国)の様子に変わりはないものの、豊臣秀頼が多くの牢人を召し抱えていることを注文に書き載せ報告する。秀頼は高野山(紀伊国)にいた真田信繁が黄金200枚・銀30貫にて召し抱えたこと、若原良長が播磨国の牢人衆を召し連れ大坂城に入城したこと、淀殿縁者の浅井井頼、根来衆300騎等、数多くの牢人衆が秀頼に召し抱えられたことを伝える。
徳川秀忠の使者として松平正勝が家康のもとに到着する。
江戸城(武蔵国)の普請を終えた加藤忠広が浜松にて家康に対面する。家康は忠広に急ぎ領国に戻り、軍勢を整え、肥後国を守り、指示を待つようにと伝える。また家康は忠広に雁2、肥後守を賜う。松平正久が忠広に伝える。
江戸城の普請を終えた脇坂安元が浜松にて家康に対面する。家康は安元にすぐに伊予国に戻り、大坂城に向けて出陣し、藤堂高虎に組するようにと伝える。
伯耆国の代官である伊丹・山田が家康に伯耆国の午年の物成銀150貫を進上する。
家康が本多正純を召し出し、本多忠政を始めとする伊勢国の軍勢を、淀・鳥羽(山城国)に進めるように指示する。
松平忠直の軍勢15000に早々、淀・橋本(山城国)に出陣するように家康が命じる。
徳川義俊名古屋城(尾張国)より出陣し、一宮(尾張国)に到着する。
前田利光金沢城(加賀国)を出陣する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月16日条・同年月18日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月15日 
徳川家康吉田(三河国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。勝重は、10月12日に豊臣秀頼(和泉国)を攻めるというので、堺の町人が秀頼に帰服し、鉄砲・弾薬・武具を大坂城(摂津国)に運び入れたという。堺政所の芝山小兵衛は、無勢につき堺を出て岸和田(和泉国)に退いたという。
10月9日に、堺を出た町人の柏尾宗具が家康のいる吉田に到着する。家康は宗具を召し出す。宗具は大坂城の籠城の様子と、秀頼が堺を放火するとの噂があったので妻子を郷に隠し、家康の旗本に加わることを述べる。家康は宗具を称える。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月16日 
徳川家康岡崎(三河国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。10月13日に豊臣秀頼が槙島昭光を大将に軍勢300を(和泉国)に出す。片桐且元が加勢として軍勢200を堺に派遣する。秀頼と片桐勢が戦い、片桐勢は多羅尾半左衛門、牧治右衛門が戦死し、今井宗薫、今井宗呑が戦死したと噂される。且元勢は尼崎(摂津国)に退くが、秀頼勢が追撃し、7、8騎を討ち取る。この報を受け、家康は上洛を急ぐ。
福島正則が家康に書状を送る。正則は江戸(武蔵国)にあり、妻子を江戸城(武蔵国)に置くという。
徳川秀忠の使者として成瀬正武が家康のもとに到着する。正武は、伊達政宗上杉景勝佐竹義宣が江戸に到着したので、秀忠が出陣したいと述べていることを伝える。家康は秀忠が準備ができ次第、出陣してもよいと返答する。
松平忠直坂本(近江国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月18日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月17日 
未刻(13-15時)、徳川家康名古屋(尾張国)に到着する。古田重然、半井驢庵が家康を出迎え、家康は名古屋城(尾張国)追手門外で対面する。
徳川義俊が赤坂(美濃国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月18日 
雨により徳川家康名古屋(尾張国)に逗留する。京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。飛脚は豊臣秀頼大坂城(摂津国)にて籠城の準備を進めていること、戦死したと噂されていた今井宗薫・宗呑父子は秀頼勢に捕縛されていたことを家康に報告する。
前田利光の飛脚が家康のもとに到着する。利光は10月14日に金沢城(加賀国)を出陣し、近々、京都に到着することを伝え、陣所の位置について家康の指示を乞う。家康は、淀・鳥羽(山城国)近辺を陣所とするように指示する。
松平忠直の飛脚が家康のもとに到着する。忠直勢が16日に坂本(近江国)に到着したことを報告するとともに陣所の位置について指示を乞う。家康は、西岡・東寺(教王護国寺)・九条・山崎(山城国)辺りを陣所とするように指示する。
徳川義俊が柏原(近江国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日・19日条

慶長19年 1614年 10月19日 
午刻(11-13時)、徳川家康が岐阜(美濃国)に到着する。徳永昌重の飛脚が家康のもとに到着する。昌重より豊臣秀頼の披露状が家康のもとにもたらされる。秀頼は昌重に、片桐且元に不届きであったので、且元を折檻をしたところ、家康が立腹し出陣するまでに至ったのは思いがけないことであり、秀頼は家康・秀忠父子に野心はないことを伝えてほしいと伝える。この披露状の内容を本多正純が家康に伝えたところ、家康は、秀頼は若輩ゆえ織田有楽大野治長が謀をめぐらし、秀頼の意向と偽って、治長から前田利長に書状を送り、上洛して秀頼を補佐を依頼するとともに、兵粮として抱えている福島正則からの米30000石と秀頼蔵納の70000石を進退を委ねると伝えていることを、利長の死後、利光より報告を受けているので、秀頼方に家康・秀忠への敵対心があることは間違いないと述べる。
家康は正純をして、島津家久毛利宗瑞鍋島直茂黒田長政福島忠勝池田利隆池田忠継池田忠雄浅野長晟蜂須賀至鎮加藤嘉明森忠政田中忠政生駒正俊に軍勢を率い、大坂城(摂津国)に押し寄せるように命じる。
徳川義俊が永原(近江国)に着陣する。
本多忠政が枚方(河内国)に陣取る。
松平忠明等の美濃勢が淀(山城国)に陣取る。
三河国の諸勢が鳥羽(山城国)に陣取る。
藤堂高虎が大和路に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月20日 
徳川家康柏原(近江国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着し、豊臣秀頼二条城(山城国)まで押し寄せ放火するとの噂があることを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月21日 
徳川家康佐和山(近江国)に到着する。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 10月22日 
徳川家康が永原(近江国)に到着する。京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)攻めのため京都に到着した先陣諸勢の兵粮米について、(和泉国)の南北町中より支出の旨、申し出がったことを報告する。
家康が竹中重利を召し出し、福島忠勝とともに安芸国・備後国に赴き軍勢を整え、大坂(摂津国)まで出陣するように指示する。また、備後国には鍛冶が多くいるので、鉄楯を生産するように指示する。
家康が大坂に居住し、この日、永原に到着した前庭を召し出し、豊臣秀頼の軍備の様子を尋ねる。前庭は万事が淀殿の意向で決まるので、配下は困惑していると伝える。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)に到着した軍勢を閲兵する。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 10月23日 
卯刻(5-7時)、徳川家康が永原(近江国)を発ち、矢橋(近江国)より早船にて膳所(近江国)に到着する。船中、戸田氏鉄が家康に御膳を献じる。午刻(11-13時)、家康は二条城(山城国)に到着する。家康は、片桐孝利を召し出す。孝利はは、このたび大坂城(摂津国)で家康に別心を構えた者について報告する。
福島正則豊臣秀頼に送った使者が、二条城に戻ってくる。秀頼の正則への返書は無かったとされる。
家康が片桐且元藤堂高虎を召し出し、大坂城の堀の深さを尋ねるとともに、大坂城攻めの諸口の様子を、絵図を用いながら聞く。
徳川秀忠よりの使者として青山重長が家康のもとに到着する。家康は秀忠に出陣を指示する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 10月23日 
徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。
供奉衆:酒井忠世青木信安野呂守景が随従する。
江戸城の留守居として酒井重忠を置く。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項、同161「青木信安」の項

慶長19年 1614年 10月23日 
豊臣秀頼二条城(山城国)近辺を焼き討ちすべく遣わした山伏60人の内、20人が捕縛される。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 10月23日 
前田利光率いる軍勢20000、松平忠直率いる軍勢10000が下京(山城国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 10月24日 
二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに、勅使として広橋兼勝、三条実條が赴く。
家康が大坂城(摂津国)攻めの先手の諸大名衆と対面する。
徳川秀忠の使者として水野忠元が家康のもとに到着する。秀忠の出馬を早く認めてもらうよう家康に伝えたところ、家康より伊達政宗上杉景勝佐竹義宣を先手として急ぎ出陣するように言い渡す。
秀忠が神奈川(武蔵国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月25日 
未刻(13-15時)、山城国で大地震あり。
二条城(山城国)にて徳川家康藤堂高虎片桐且元を召し出し、大坂城(摂津国)包囲の先手を命じる。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)を発ち、宇治(山城国)に陣取る。
徳川秀忠が小田原(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 10月26日 
二条城(山城国)にて徳川家康豊臣秀頼のもとにいた織田常真と対面する。常真は家康に内通しており、家康は知行を給付すると常真に伝える。
家康が池田利隆浅野長晟鍋島勝茂等の諸大名と対面する。理由は、利隆等が江戸城(武蔵国)の普請後、そのまま家康に軍列に加わったため金子を持ち合わせておらず軍備に不自由しているので、銀子の借用を後藤光次を介して家康に依頼する。家康は銀200貫目を貸し与える。
京極采女正が家康に対面し、奈良柿1000を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月27日 
一乗院、喜多院が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。
宝性院、片桐貞隆が家康に対面する。
石川貞政、池田利隆が二条城奥ノ間にて家康と対面し、大坂・尼崎(摂津国)の絵図でもって軍陣を様子を説明する。
夜、徳川秀忠の飛脚が家康のもとに到着する。秀忠は23日に江戸城(武蔵国)を出陣し、24日には藤沢(相模国)に到着したことを報告する。家康は、数万の軍勢の移動であるので、ゆるゆると進軍するようにと伝える。
、五山衆が南禅寺金地院(山城国)にて諸家記録1本を3部ずつ写本を作成し、禁裏、江戸城、駿府城(駿河国)にそれぞれ保管するように命じ置く。担当は金地院崇伝林羅山
(和泉国)の南北町が家康に銀200枚を献上する。成瀬正成が家康に披露する。
秀忠勢が三島(伊豆国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月29日条

慶長19年 1614年 10月29日 
徳川秀忠の使者として永井尚政二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。秀忠の軍勢が27日に三島(伊豆国)に到着したことを報告する。
夏に勘気を蒙った池田光重が、板倉勝重を介し、家康に大坂城(摂津国)攻めに先手に加わりたいと嘆願する。家康はその申し出を殊勝とし、有馬豊氏勢の先手を勤めるようと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月2日 
吉田(三河国)より徳川秀忠の使者として内藤右衛門佐が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。右衛門佐は家康に秀忠が進軍を急いでおり、清水(駿河国)から掛川(遠江国)、吉田(三河国)と進軍したことを報告する。家康は大軍の移動を急がせていることに立腹し、そうしないようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月3日 
大坂城(摂津国)の先陣の片桐且元が、同城を包囲したことを、二条城(山城国)にいる徳川家康に報告する。家康は、指示なく攻め込むことがないように且元に言い含める。
家康が大坂城攻め先陣が布陣する天王寺口に物見として島弥左衛門、本多藤四郎の遣わした物見が、夜、家康のもとに戻ってくる。物見からは道明寺(河内国)近所の小山に藤堂高虎が布陣しており、以下、諸勢の夫人を報告する。家康は城より遠いので、今少し城に陣を寄せるようにとし、松平清正石川忠総古田重治、徳永昌重を平野(河内国)まで進めさせる。
戌刻(19-21時)、伊達政宗の使者として山岡重長徳川秀忠のもとに到着する。重長は本多正信を介し、豊臣秀頼の使者として和久是安が秀頼黒印状を持参し、大坂城攻めにつき秀頼に味方するように依頼があったが、政宗は家康・秀忠の恩を忘れることはできないとし秀頼に同心できないととして、是安を捕縛したことを秀忠に伝える。秀忠は政宗の対応を称賛する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月5日 
大坂城(摂津国)より薄田兼相が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退する。松平清正が追撃するも、兼相の撤退が早かったため、追撃を諦め、平野の焼け跡に陣所を構える。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「」「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月6日 
未刻(13-15時)、松平清正の飛脚が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。清正より、11月5日に大坂城(摂津国)より薄田兼相が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退したので、追撃したが叶わなかったため、平野の焼け跡に陣所を構えたと家康に報告がある。
藤堂高虎浅野長晟が住吉(摂津国)に陣取ったと家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第90「花房正成」の項

慶長19年 1614年 11月7日 
辰刻(7-9時)、池田忠継が吹田川を渡り、中島(摂津国)に陣取る。それを徳川家康に報告する。忠継は大和田川に陣取る。
未刻(13-15時)、有馬豊氏が中島に到着する。
近日中に家康が二条城(山城国)を出陣することが決まる。経路は龍田・法隆寺・郡山(大和国)を通り、住吉(摂津国)に陣取るとする。
蜂須賀至鎮が二条城にいる家康に対面する。家康は至鎮の早々の着陣を喜ぶ。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠継」の項

慶長19年 1614年 11月10日 
徳川秀忠が永原(近江国)を出立する。膳所(近江国)にて戸田氏鉄が膳を献じる。大津・追分(近江国)にて公家衆・僧衆が秀忠を出迎える。追分にて徳川義俊徳川頼宣が秀忠を出迎え、対面する。その後、伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月15日 
卯刻(5-7時)、徳川家康大坂城(摂津国)攻めに赴くべく、二条城(山城国)より出陣する。未刻(13-15時)、家康は木津(山城国)に到着するが、旅館狭小につき、急遽、奈良(大和国)まで進む。奈良奉行・中坊左近が膳を献上する。一乗院、大乗院、喜多院、春日社禰宜が出迎える。
秀忠が大坂城を攻めるべく伏見城(山城国)を出陣し枚方(河内国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月16日 
徳川家康法隆寺阿弥陀院に陣取る。
卯刻(5-7時)、徳川秀忠が枚方(河内国)を発し、岡山(河内国)に陣取る。
秀忠の使者として永井尚政が枚方より家康のもとに到着する。秀忠が岡山に着陣したことを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月17日 
徳川家康が住吉(摂津国)に陣取る。家康供奉衆がこの日より甲冑を着す。
住吉にて藤堂高虎浅野長晟蜂須賀至鎮前田利光松平忠直生駒正俊一柳直盛・直重父子、松平清正本多忠政・忠刻、古田重治、桑山元晴、脇坂安元池田忠雄等が家康に対面する。家康は高虎、利光を召し寄せ、大坂(摂津国)の絵図を見せ、攻め口を伝える。
徳川秀忠が平野(河内国)に陣取る。
夜、秀忠の使者として土井利勝が家康のもとを訪れる。明朝、先陣の様子を確認すべく天王寺・茶臼山辺りに赴くよう伝える。
佐竹義宣率いる軍勢1500が大坂(摂津国)に着陣し、玉造口に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第129「佐竹義宣」の項

慶長19年 1614年 11月18日 
徳川家康が住吉(摂津国)より、徳川秀忠が平野(河内国)より茶臼山(摂津国)に赴く。父子は天王寺にて父子が面会する。家康は藤堂高虎本多正信を召し寄せ、大坂城(摂津国)攻めの談判をする。家康は城攻めに際し、付城の築城を命じる。茶臼山について、大坂城の惣構より27.28町のところにあるので、高虎に鉄砲30挺の配備を命じる。その後、家康は住吉に、秀忠は平野の陣所に戻る。
大坂城より明石全登が天王寺に向かって出撃し、藤堂高虎脇坂安元が鉄砲にて応戦する。
向井忠勝が新家(摂津国)に攻め入り、豊臣方の船50挺を奪う。忠勝は福島(摂津国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第103「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月25日 
徳川家康秀忠父子が天王寺に向けて出陣する。
蜂須賀至鎮浅野長晟が穢多ヶ崎砦を攻め、同砦を落とす。石川忠総が博労ヶ淵砦を攻め、同砦を落とす。
至鎮、長晟、忠総は船場(摂津国)に陣取る。
出典:『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月19日 
巳刻(9-11時)、徳川秀忠が住吉(摂津国)にいる徳川家康の陣所に赴き対面する。家康は、大坂の絵図を前に、本多正信本多正純藤堂高虎安藤直次成瀬正成を召し寄せ評定をする。その評定では、淀川の鳥養(摂津国)辺りで川の水を止め、天満口・船場口・天王寺口の四方より一気攻めることを決める。そこで、土俵20万を摂津国・河内国に出すよう命じる。
大野治房薄田兼相の兵が詰めている船場口の穢多ヶ島に、浅野長晟池田忠雄蜂須賀至鎮が攻め入り、大野・薄田勢を追い払う。3名は同地に付城を築く。
伊達政宗の使者・山岡重長が家康のもとを訪れる。家康は伊達勢に木津・今宮に陣取るように伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月26日 
上杉景勝佐竹義宣が今福に攻め入り、同地を占拠する。今福を守っていた矢野正倫、飯田家貞が戦死する。検使は屋代秀正、安藤正次、伊東政世。
玉造(摂津国)にて義宣が陣場普請をする。その普請の最中、豊臣勢が大坂城(摂津国)より出勢し、義宣家臣の渋江政光率いる佐竹勢と戦い、政光が豊臣勢を破る。
未刻(13-15時)、大坂城より木村重成後藤基次率いる豊臣勢3000が義宣の守る今福を攻めるべく、政光率いる佐竹勢が応戦する。佐竹勢は政光、小野崎通勝、高垣重久が戦死する。その後、重成・基次と義宣が戦う。途中、義宣劣勢につき、鴫野に布陣していた景勝(須田長義、水原親憲等)、榊原康勝が加勢する。重成・基次は大坂城に撤退する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項、同巻第129「佐竹義宣」の項

慶長19年 1614年 11月29日 
朝、蜂須賀至鎮(蜂須賀勢:森氏純、森藤兵衛)、池田忠雄戸川達安花房正成石川忠総九鬼守隆が野田・福島(摂津国)に進軍し同地を守る豊臣勢を破る。豊臣勢は広瀬加左衛門、森長左衛門が戦死する。
守隆、向井忠勝が豊臣方の番船を押収する。豊臣勢は天満(摂津国)に逃れたとする。
天満・船場(摂津国)が焼ける。
徳川方の軍勢が大坂城(摂津国)の船場の惣構の堀際まで押し寄せる。また、大坂城の北に布陣する徳川方の軍勢が備前島近辺に、東に布陣する軍勢が森・河内近辺に押し寄せる。
家康が浅野長晟に博労ヶ淵(摂津国)に陣取るように命じる。使者として成瀬正成を遣わす。
家康が安藤直次を野田・福島に布陣する至鎮、忠雄、達安、正成のもとに遣わし、軍法の遵守を命じる。夜、直次は家康のもとに帰着し、野田、福島、博労ヶ淵の様子について報告する。また、忠雄、至鎮家中で功名のあったものを家康に報告する。家康は功名をあげた者に黄金・服を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条、同年12月4日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠雄」の項

慶長19年 1614年 11月30日 
豊臣勢が船場町、天満町(摂津国)を焼き討ちする。本多正純成瀬正成安藤直次永井直勝が船場、天満に物見に赴き、申刻(15-17時)、徳川家康の陣所に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月3日 
成瀬正成安藤直次が、徳川義俊徳川頼宣の陣所となる天王寺(摂津国)近辺を検分する。
徳川秀忠が平野(河内国)より岡山に陣を移すこととする。
織田有楽大野治長よりの和睦に関する書状を有楽家臣の村田吉蔵と治長家臣の米村権右衛門が、本多正純後藤光次のもとに到着する。
池田忠継森忠政を天満(摂津国)より船場(摂津国)に戻す。
徳川勢の先手が城より10町もしくは5、6町の近くまで接近する。井伊直孝勢は大坂城(摂津国)三ノ丸の堀近くに竹束を寄せる。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月4日 
徳川家康が住吉(摂津国)より天王寺茶臼山に陣替えする。徳川秀忠が平野(河内国)より岡山に陣替えする。徳川義俊徳川頼宣天王寺(摂津国)に陣取る。義俊に成瀬正虎が随従する。
朝、松平忠直本多富正・本多成重が豊臣勢と鉄砲を撃ち合い、続けて大坂城(摂津国)に攻め上り城壁を突破しかけたところで、豊臣勢が出撃し忠直勢は多くの負傷者を出す。軍監が家康に報告し、家康は安藤直次を忠直のもとに遣わし、すぐに退くように命じる。
井伊直孝勢が大坂城の真田信繁の守る真田丸に攻め込む。真田勢の銃撃により井伊勢の多くが討ち取られる。徳川秀忠の命により井伊勢は撤退する。
未刻(13-15時)、家康が茶臼山に到着する。本多正純の先導のもと家康は陣所の普請の様子を検分する。
家康が富正、成重を召し、忠直の突出のことを問う。富正、成重は制止をしたが忠直が若いため突出したと述べるも、家康は富正、成重に責があると不満をあらわにする。
家康は藤堂高虎の陣所を検分する。大坂城より鉄砲による砲撃があるなか、家康は城近くまで見回りする。
夜、家康は住吉(摂津国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条、同年月日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月9日 
藤堂高虎徳川家康大坂城(摂津国)惣攻めの評定をする。
山城忠元、滝川忠征が家康に長柄堤が完成し、河川の水が尼崎(摂津国)に流れ、天満川が浅くなったので、そのうち川が乾くとの報告をする。
青木一重の書状が家康に届く。本多正純が披露する。
家康が永井直勝、青木二郎右衛門を召し寄せ、今夜より諸勢に鬨の声をあげさせ、籠城している者の睡眠を妨げるように命じる。
家康が松平忠直の家老・山本内蔵助を召し出し、攻め口の陣場を言い渡す。
板倉勝重島津家久に大坂(摂津国)への参陣を催促する。
夜、徳川勢より鬨の声と鉄砲が放たれるが、鉄砲のつるべ撃ちを家康が禁止する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第108「島津島津家久(忠恒)」の項

慶長19年 1614年 12月11日 
徳川家康が間宮新左衛門、島田直時、日向半兵衛を召し、銀山堀衆をもって大坂城(摂津国)の櫓を崩すように命じる。
藤堂高虎井伊直孝前田利光の陣場で堀をつくる。黒田長政が鉛3000斤を家康に献上する。
浅野長晟が家康に城に軍勢を近づけるにあたり堀を埋めるべきか否かを正純を通じて尋ねる。家康はしばし待つようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月13日 
徳川家康中井正清に、大坂城(摂津国)総攻めの際に使用予定の熊手をつけた梯子の準備を命じる。あわせて大名一人につき梯子50本を配布するようにと家康は本多正純に指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日 
徳川家康松平正久、牧野清兵衛、稲富重次に対し、鉄砲練達者数十人を選び、藤堂高虎松平忠直等の攻め口に赴き、小筒・大筒をもって大坂城(摂津国)の矢狭間・櫓に試し撃ちするよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日 
徳川秀忠水野忠元、稲富重次をもって佐竹義宣の陣所の高所より石火矢(大砲)を大坂城(摂津国)に向けて放つ。
浅野長晟が攻め口としている船場の堀川を埋めようとしたところ、大坂城より石火矢が放たれる。砲弾は重さ5-6斤だとされる。家康はその砲弾を自身の陣所にもってこさせて検分する。玉が土俵に埋まらなかったことから、木鉄砲による射撃ではないかと推察する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月19日 
徳川家康徳川秀忠父子と豊臣秀頼の間で和睦がなる。
家康が藤堂高虎仙石忠政と対面する。
家康が松平甲斐守、前田利光松平忠直加藤明成福島忠勝、松平河内守と対面する。
家康が南光坊天海と対面する。
家康が落馬して負傷した子・頼宣の祖父・正木観斎に摩沙円を送る。興安が担当する。
黒田忠長が家康・秀忠父子に対面する。忠長は病が癒えていなかった、それで死すことがあっても城攻めに加わることを述べる。忠長は家康に煙硝5000斤を献じる。井上之房、小河玄蕃允が忠長に供奉する。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『黒田家譜』巻14「長政記」、『菅氏世譜

慶長19年 1614年 12月24日 
日の出前、茶臼山(摂津国)の徳川家康の本陣の小姓衆小屋5、6軒が焼失する。松平正久板倉重昌、加賀爪忠澄が本陣の門を堅守し、人の出入りを止める。
徳川秀忠は家康と対面し相談する。秀忠が退去後、本多正信土井利勝が家康のもとに残る。
織田有楽大野治長が人質の大野治徳、織田尚長を連れ家康に対面する。京極忠高も家康のもとに参上する。有楽・治長は服3領を、治徳・尚長は服2領を家康に献上する。有楽は十徳、治長は羽織袴を着する。その場に藤堂高虎本多正信が列席する。家康は有楽、治長に大坂城(摂津国)城中の堀・櫓の破却を早々に着手するように伝える。
巳刻(9-11時)、家康が諸大名を引見する。前田利光福島忠勝浅野長晟鍋島勝茂細川忠利寺沢広高池田利隆池田忠継池田忠雄森忠政有馬豊氏稲葉典通京極高知山内忠義堀尾忠晴加藤明成南部利直毛利秀就毛利秀元吉川広家福原広俊松平忠直、松平忠昌、松平信吉、榊原康勝本多忠朝本多忠政松平清正本多康紀松平忠利、水野勝成と対面する。
家康が南光坊天海金地院崇伝と対面し雑談する。
家康が天海の執り成しにより鷹匠・小栗忠蔵を赦免する。
秀忠が佐和山(近江国)を井伊直孝に給付する。その旨を秀忠が利勝を介し家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月25日 
辰刻(7-9時)、徳川家康が茶臼山(摂津国)の陣所を発ち、申刻(15-17時)、二条城(山城国)に到着する。板倉勝重が迎える。茶臼山の陣所には本多正純成瀬正成安藤直次が残る。
徳川秀忠大坂城(摂津国)の堀・櫓破却を見届けるべく、岡山の陣所に残る。徳川義俊徳川頼宣も岡山に在陣する。
織田有楽大野治長、伊東長次が岡山に陣す秀忠のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月27日 
岡山に在陣している徳川秀忠の使者として土井利勝二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)の総堀・櫓の破却のことを報告する。また在陣の諸大名の苦労を慮って、公役普請は3ヶ年免除するよう家康が秀忠に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月3日 
午刻(11-13時)、徳川家康駿府城(駿河国)に帰城すべく二条城(山城国)を出立する。申刻(15-17時)、膳所(近江国)に到着する。膳所城(近江国)城主の戸田氏鉄が家康を饗応する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長20年 1615年 1月12日 
徳川家康岡崎(三河国)に逗留する。
徳川秀忠の使者として佐久間政実、安藤正次が家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)二ノ丸の堀が意外に深く、土手の土で埋めても1/3にも満たなかったため、二ノ丸千貫櫓、織田有楽邸の家屋、西ノ丸、大野治長邸を破却し、かつ高所の土も入れて堀を埋めたことを報告する。
家康が正次到来につき、正次が軍監をつとめた鴫野の戦いについて見聞したことの報告を求める。正次は豊臣勢の鉄砲100が佐竹義宣陣所に発砲したこと、義宣・渋江政光、屋代、水原親憲の働きにより豊臣勢が退いたことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月19日 
申刻(15-17時)、徳川秀忠が岡山の陣所より伏見城(山城国)に移る。大坂城(摂津国)の堀埋め普請が、まだ完了していないため、松平忠明本多忠政等の諸大名の軍勢は大坂に残す。目付として、本多正純安藤重信が大坂に残る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月28日 
徳川秀忠二条城(山城国)を発ち、膳所(近江国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月30日条

慶長19年 1614年 2月1日 
徳川家康駿府城(駿河国)南殿に赴く。諸士が出仕する。
家康が土井利勝を召し徳川秀忠への返書を認めるととともに、密談する。利勝は江戸(武蔵国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月14日 
午刻(11-13時)、徳川家康駿府城(駿河国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月20日 
長谷川藤広茶屋清次駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月26日 
織田有楽斎の家臣・村田吉蔵が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着する。吉蔵は有楽の大坂城(摂津国)よりの退去の許可を家康に求め、許可を得る。ただし、家康より徳川秀忠の意向を問うとの返答を受ける。
大坂冬の陣で江戸城(武蔵国)の留守居衆だった松平忠輝が駿府城にて家康と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月27日 
最上家親駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月28日 
池田家の飛脚が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着し、22日に池田忠継が死去したことを徳川家康に伝える。取次は本多正純。家康は驚き、愁傷する。家康は忠継の兄・池田利隆と忠継の舅・森忠政のもとに森可澄を遣わし、備前国の仕置きをするように命じる。
最上家親が家康に対面する。家親は蝋燭を献上する。家親の家老・坂上紀伊守が家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月29日 
村上忠勝溝口宣勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月1日 
徳川家康駿府城(駿河国)の南御殿に出座する。日野唯心等が出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月2日 
徳川秀忠の使者として土井利勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れる。利勝は家康と密談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月3日 
徳川家康駿府城(駿河国)の南御殿に出座する。日野唯心等が出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月15日 
豊臣秀頼の使者として、青木一重駿府城(駿河国)南御殿にて徳川家康と対面する。秀頼の進物として金襴10巻と秀頼の書状を、一重の礼物として鷹のうちつき蒔絵10枚を家康に献上する。常光院、二位局、大蔵卿局、正永尼が淀殿の使者として家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月16日 
京都より板倉重昌駿府城(駿河国)に戻る。京都・大坂の様子を徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月17日 
京都(山城国)より領国に帰国中の伊達政宗駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面する。政宗は太刀・馬を家康に献上する。家康は政宗に盃を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月18日 
徳川秀忠の使者として土井利勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ密談する。
奥平家よりの飛脚が家康のもとに到着し、奥平信昌の死去を伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月19日 
金地院崇伝林羅山駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康より収集の命があった書籍が、後に到着することを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月20日 
蜂須賀蓬庵駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月29日 
徳川秀忠の使者として井上正就駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ密談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月2日 
片桐且元駿府城(駿河国)のいる徳川家康と対面する。且元は駿府(駿河国)に居所を移す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月3日 
徳川家康が、4日に子・義俊と浅野幸長の娘の祝言に出席すべく、名古屋(尾張国)に向けて駿府城(駿河国)を出立する旨を示す。ただし名古屋行きは、豊臣秀頼が、牢人衆を追放せず、むしろ武勇の誉れ高き者を召し抱えているとの噂があり、名古屋からそのまま上洛するためとされる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月10日 
徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。供奉衆:野呂守景。江戸城の留守居に酒井重忠を置く。
出典:『駿府記』同年月日・17日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同1153「野呂守景」の項

慶長20年 1615年 4月18日 
徳川家康水口(近江国)を出立し、矢橋(近江国)、大津(近江国)、膳所(近江国)を経由する。大津から膳所の船中で、が家康に膳を献じる。午刻(11-13時)、船を下船する。山科(山城国)辺りで公家衆や京都の町衆が出迎え、未刻(13-15時)、二条城(山城国)に到着する。
徳川義俊徳川頼宣が京都に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月21日 
徳川秀忠伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月26日 
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き、対面する。4日28日に大坂城(摂津国)に向けて出陣することが決まる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月27日 
徳川家康の使者として本多正純伏見城(山城国)にいる徳川秀忠のもとに赴き、4月28日とされていた大坂城(摂津国)への出陣を延期すると伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月28日 
豊臣秀頼勢10000が郡山・龍田・法隆寺(大和国)の近辺に出撃し、子刻(23-1時)放火する。法隆寺は火災を免れる。大和郡山城(大和国)に籠城していた筒井定慶は逃亡する。
申刻(15-17時)、大野治房・槙島昭光が豊臣勢を率い、(和泉国)、住吉(摂津国)等を放火する。住吉社(摂津国)は火災を免れる。
出典:『駿府記』同年月日・29日条

慶長20年 1615年 4月29日 
浅野長晟が信達(和泉国)にて大野治長の家老・北村善大夫、大野弥五左衛門等30名ほどを捕縛する。
巳刻(9-11時)、柏野(和泉国)にて、大野治房・大野道犬・郡宗保・槙島昭光・塙直之・岡野大学が率いる豊臣勢3000が浅野長晟の陣取る信達(和泉国)に攻め寄せる。浅野勢は浅野忠知を先陣に応戦する。戦いは卯刻(5-7時)より午刻(11-13時)まで戦い、長晟が勝利する。浅野勢の上田宗箇亀田高俊、田胡助左衛門、浅野良重が豊臣勢を追撃し、直之、芦田作内、米田監物、横井治右衛門、山内権三郎等が戦死する。徳川家康は長晟の戦功を賞し感状を発給する。松平正久、秋元泰勝、後藤光次が家康の意を奉じる。
出典:元和3年10月14日付松浦俊重泉州樫井表戦争覚書(『浅野家文書』126号)、元和3年10月13日付金丸信盛泉州樫井戦争覚書(『浅野家文書』127号)、慶長20年4月30日付秋元泰朝他2名連署状(『浅野家文書』128号)、『駿府記』同年月日・30日条

慶長20年 1615年 5月5日 
巳刻(9-11時)、徳川家康二条城(山城国)より出陣する。
二条城留守居衆:松平定勝青木信安
家康が淀(山城国)にて細川忠興に会う。申刻(15-17時)、枚方・星田(河内国)に陣取り、宿泊する。
徳川秀忠伏見城(山城国)より出陣し、申刻(15-17時)、砂・星田(河内国)に陣取る。秀忠は家康と対面し徳川方諸勢の陣所について協議する。本多正信藤堂高虎土井利勝安藤重信がその協議に参加する。
小笠原秀政が久宝寺村(河内国)に陣取る。
井伊直孝が松原(河内国)に陣取る。
藤堂高虎勢が千塚に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』

慶長20年 1615年 5月6日 
八尾(河内国)にて藤堂高虎長宗我部盛親が戦う。
藤堂勢:藤堂高虎、藤堂新七郎[藤堂高虎勢](戦死)・藤堂高刑[藤堂高虎勢](戦死)・桑名吉成[藤堂高虎勢](戦死)。
長宗我部勢:長宗我部盛親。
巳刻(9-11時)、若江(河内国)にて井伊直孝木村重成・山口左馬允が戦い、直孝が勝利する。
徳川勢:井伊直孝、川手良列[井伊直孝勢](戦死)、庵原朝昌[井伊直孝勢]、福留政親[井伊直孝勢]。
豊臣勢:木村重成(戦死)、山口左馬允、内藤政勝(戦死)。
岩田にて榊原康勝と木村宗明が戦い、康勝が勝利する。
徳川勢:榊原康勝。
豊臣勢:木村宗明。
道明寺(河内国)にて水野勝成・松平忠明伊達政宗の徳川勢と後藤基次薄田兼相渡辺糺の豊臣勢が戦い、徳川勢が勝利する。
徳川勢:水野勝成、松平忠明、伊達政宗。
豊臣勢:後藤基次(戦死)、薄田兼相(戦死)、渡辺糺。
合戦後、徳川家康徳川秀忠は枚岡(河内国)に陣取る。7日の大坂城(摂津国)総攻めにつき、先陣を本多忠朝と定める。
出典:『駿府記』同年月日条、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長20年 1615年 5月8日 
豊臣秀頼大坂城サキ島の堀西方にある唐物倉にて淀殿大野治長速水守久等とともに残り、徳川家に和を乞うが、井伊直孝安藤重信が唐物倉に発砲したため、徳川家に和睦の意なしと受け止めた秀頼らは自刃する。淀殿、大蔵卿局、右京大夫局、二位局(助命される)、饗庭局、宮内卿局、清韓、速水守久、速水出来、津川左近、大野治長、大野治徳、毛利勝永、毛利勘解由、毛利長右衛門、堀対馬守、武田左吉、氏家道喜、伊藤武蔵、土肥勝五郎、高橋半三郎、高橋三十郎、埴原三十郎、寺尾少右衛門、小室茂兵衛、土肥庄五郎、片岡十右衛門、加藤弥平太、森島長意、竹田永翁、小室義兵衛、中方将監、中方半兵衛、真田幸昌が秀頼と共に自害する。秀頼勢の将の首実検が行われ、松平忠直が、真田信繁、御宿政友、大野道犬の首を持参する。
申刻(15-17時)、徳川家康が茶臼山(摂津国)の陣所を出て、戌刻(19-21時)、二条城に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』・『言緒卿記』同年月日条(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)

慶長20年 1615年 5月19日 
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴く。家康は、近く駿府城(駿河国)">に帰城する旨を秀忠に伝えるが、秀忠は8月までは京都(山城国)に留まり、大坂城(摂津国)攻めの後処理を済ませるよう強く要請する。家康は秀忠の請いを受け入れ8月までは京都に滞在すると返答する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月4日 
午刻(11-13時)、徳川家康駿府城(駿河国)に帰城すべく京都(山城国)を発つ。膳所(近江国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

元和1年 1615年 8月23日 
午刻(11-13時)、徳川家康駿府城(駿河国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

元和1年 1615年 9月7日 
九鬼守隆駿府城(駿河国)にいる徳川家康に黄金30枚を献上する。この黄金は大坂牢人の喜多十左衛門のものという。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月9日 
朝、徳川秀忠の使者として水野忠元駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに赴き、重陽の服を進上する。
徳川義俊が家康に自ら鉄砲にてしとめた白鳥を進上する。
家康が駿府城の南殿に出座する。諸士が出仕する。白鳥料理を日野唯心、大沢少将、畠山長門守、土岐左馬助、土岐市正、三好因幡守、猪子内匠頭、本田若狭守、堀直寄、市橋下総守に振る舞う。茶壺(銘 志賀)の口切を行い、茶を振る舞う。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月10日 
駿府城(駿河国)にいる徳川家康に、佐竹義宣が大鷹2連を、伊達政宗が大鷹1連を、最上家親が大鷹2連を献上する。本多正純安藤直次が披露する。
越後に遣わしていた松平勝隆が家康に松平忠輝徳川秀忠の御家人2名を殺害した件について報告する。忠輝は陣法を理解せず、あまつさえ腹を立てているとのことなので、秀忠より言って聞かすようにと家康は指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月15日 
諸士が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に出仕するが、家康の出座はなし。
細川忠興が服20を献上する。本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月17日 
不残が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康は不残に大蔵一覧を賜う。
徳川秀忠の使者として神尾守世が家康のもとに訪れる。家康が鷹狩と称し関東に赴くことを謝すための使者。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月18日 
徳川家康が鷹狩をする。巳刻(9-11時)、駿府城(駿河国)に帰城する。
徳川秀忠が家康に蛤2を贈る。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月22日 
名古屋(尾張国)より成瀬正成、志水忠宗が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月23日 
南光坊天海駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面し、数刻、仏法について雑談する。
夜、金森重頼が父・可重の死にともなう相続につき家康に礼をする。可重の遺物の刀(銘 国次)・脇差(銘 正宗)・茶壺・銀子200枚を献上する。重頼の弟も銀子10枚を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月25日 
南光坊天海駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面し、雑談する。
織田常真が家康に対面し、繻紾10巻を献上する。
井伊直孝が家康に服10領・銀子200枚を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月26日 
徳川秀忠の使者として土井利勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ密談する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月27日 
金地院崇伝南禅寺(山城国)より駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに出仕する。真観寺の住持でもある崇伝に家康は八尾(河内国)のことを問う。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月28日 
徳川家康が関東へ鷹狩に出るとして29日に駿府城(駿河国)を発つことを前触れする。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月29日 
午刻(11-13時)、徳川家康が関東での鷹狩のため、駿府城(駿河国)を発つ。本多正純松平正久、秋元泰勝、板倉重昌など100余人が供奉する。申刻(15-17時)、清水(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 11月28日 
徳川家康が12月4日に駿府城(駿河国)に向けて江戸城(武蔵国)を発つという意向を示す。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 12月3日 
徳川家康が12月4日に駿府城(駿河国)に向けて江戸城(武蔵国)を発つという意向を示す。徳川秀忠が家康のもとに赴き閑談する。その席に本多正信が加わる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 12月16日 
徳川家康善徳寺(駿河国)を発つ。清水(駿河国)にて徳川頼宣が家康を出迎える。申刻(15-17時)、駿府城(駿河国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 12月23日 
細川忠興駿府城(駿河国)に到着する。
出典:『綿考輯録』巻20

元和1年 1615年 12月24日 
細川忠興駿府城(駿河国)に居る徳川家康に謁す。家康は忠興の大坂の陣における軍功を賞し、脇差(銘 信国)を下賜するとともに、羽柴姓を改め細川姓に復すよう命じる。
出典:『綿考輯録』巻20、『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川忠興」の項

元和1年 1615年 12月25日 
徳川秀忠の歳末の使者として神尾守世駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和2年 1616年 3月3日 
佐竹義宣駿府城(駿河国)に到着する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

元和2年 1616年 3月5日 
佐竹義宣が病の徳川家康を見舞う。家康は義宣の大坂冬の陣における奮戦と、大坂夏の陣における遠国にもかかわらず速やかに出兵したことを賞す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

元和2年 1616年 3月19日 
島津家久駿府城(駿河国)に赴き、病の徳川家康を見舞う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津家久(忠恒)」の項

元和2年 1616年 3月21日 
島津家久駿府城(駿河国)にて徳川家康秀忠父子に謁す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津家久(忠恒)」の項

元和2年 1616年 4月17日 
徳川家康が死去する。
出典:-

元和3年 1617年 2月27日 
金地院崇伝駿府城(駿河国)に到着する。
出典:『本光国師日記』同年月日条

元和8年 1622年 10月14日 
松平康安駿府城(駿河国)定番となる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項

寛永10年 1633年 12月6日 
徳川家光の命により徳川忠長が切腹する。
出典:-

寛永12年 1635年 12月3日 
駿府城(駿河国)火災の事後処理に松平信綱が赴く。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第256「松平信綱」の項

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