人 物 史

徳川家康 とくがわ いえやす
生 没 年天文12年(1543)12/26-元和2年(1616)4/17
出 身三河国岡崎幼 名竹千代
別 称次郎三郎、松平元信、松平元康
法 名-
戒 名東照大権現安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士
松平広忠於大の方
兄 弟 姉 妹徳川家康、松平忠政、市場、松平康元[異父弟]、松平康俊[異父弟]、松平定勝[異父弟]
配 偶 者築山(今川義元の養女・瀬名)、朝日(豊臣秀吉の妹)、万(永見吉英の娘)、戸塚忠春の娘、秋山虎康の娘、鵜殿長持の娘、志水宗清の娘、正木邦時の娘、太田康資の娘、市川昌永の娘、三井吉正の娘、飯田直政の娘、長谷川藤直の娘、黒田直棟の娘、宮崎泰景の娘、青木一矩の娘、松平重吉の娘
松平信康、亀、松平秀康徳川秀忠松平忠吉、振、武田信吉、松平忠輝徳川義直徳川頼宣徳川頼房
官 位三河守、左京大夫、右近衛権少将、左近衛権中将、参議、権中納言、権大納言、内大臣、右大臣
役 職江戸幕府 征夷大将軍
城 郭岡崎城(三河国)、浜松城(遠江国)、江戸城(武蔵国)、駿府城(駿河国)
参 考 文 献徳川家康に関する参考文献
関 連 デ ー タ徳川家康の関連文化財
徳川家康の家臣
徳川家康 年表
天文12年 1543年 12月26日 1歳
徳川家康が生まれる。酒井正親が御胞刀役をつとめる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井正親」の項

天文13年 1544年 9月-日 2歳
松平広忠の妻・於大の方を水野信元の居城・刈谷城(三河国)に送り届ける。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井正親」の項

天文18年 1549年 3月6日 7歳
父・広忠が死去する。
出典:-

天文20年 1551年 3月3日 9歳
織田信秀が死去する。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 13歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月5日 16歳
徳川家康が鈴木重辰の籠る寺部城(三河国)を攻める。攻め衆石川家成
出典:『寛政重修諸家譜』巻第118「清和源氏 義時流 石川」「石川家成」の項

弘治4年 1558年 2月28日 16歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄1年 1558年 -月-日 16歳
松平康次、成瀬久次が徳川家康に近侍する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第16「松平康次」の項

永禄2年 1559年 3月6日 17歳
子・信康が生まれる。
出典:-

永禄3年 1560年 3月-日 18歳
松平元康が阿古居(尾張国)の久松俊勝邸に赴く。俊勝の子・康元康俊定勝が異父兄の元康に初めて謁す。元康は異父弟の3人を兄弟として遇し、松平を名乗るように言い渡す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項、同巻第54「松平定勝」の項

永禄3年 1560年 5月18日 18歳
今川義元勢が丸根砦(尾張国)を攻め、同砦を攻め落とす。
今川義元勢:松平正親(戦死)。
夜、松平元康大高城(尾張国)に兵粮を入れる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第26「松平正親」の項

永禄3年 1560年 5月19日 18歳
桶狭間にて織田信長今川義元を襲撃し、義元が戦死する。義元は毛利良勝が討ち取る。
織田信長勢:森可成前田利家
今川義元勢:松平宗次(戦死)、鈴木重村。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第16「松平宗次」の項、同126「森可成」の項、同1154「鈴木重村」の項

永禄3年 1560年 5月23日 18歳
徳川家康大高城(尾張国)より撤退する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平好景」の項

永禄3年 1560年 -月-日 18歳
榊原康政大樹寺にて徳川家康に謁し、以降、家康に近侍するようになる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

永禄4年 1561年 4月15日 19歳
善明堤(三河国)にて吉良義昭と松平好景伊忠が戦い、義昭が勝利する。松平好景、松平定清、松平好之、松平景行、板倉好重が戦死する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平好景」「松平定清」「松平好之」「松平景行」の項、同巻第81「板倉好重」の項

永禄4年 1561年 4月15日 19歳
善明堤(三河国)にて吉良義昭と松平好景伊忠が戦い、義昭が勝利する。松平好景勢として参加し、好景、松平定清、松平好之、松平景行、板倉好重が戦死する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平好景」「松平定清」「松平好之」「松平景行」の項、同巻第81「板倉好重」の項

永禄4年 1561年 -月-日 19歳
石ヶ瀬(尾張国)にて徳川家康と水野信元が戦う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第120「清和源氏 義時流 石川」「石川数正」の項

永禄5年 1562年 2月4日 20歳
徳川家康鵜殿長照の籠る上ノ郷城(三河国)を攻め、同城を攻め落とす。長照は戦死する。
出典:-

永禄6年 1563年 9月3日 21歳
三河国で一向一揆が蜂起し、徳川家康と争う。
出典:『大谷嫡流実記』「顕如」の項

永禄6年 1563年 -月-日 21歳
上野(三河国)にて徳川家康と一向一揆が戦う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

永禄6年 1563年 -月-日 21歳
今川氏真への松平元康の人質として松平康俊駿府城(駿河国)に赴く。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第53「松平康俊」の項

永禄7年 1564年 3月-日 22歳
徳川家康本願寺顕如が和睦する。
出典:『大谷嫡流実記』「顕如」の項

永禄7年 1564年 6月-日 22歳
松平元康小原鎮実の籠る吉田城(三河国)を攻める。
徳川勢:酒井忠次(先陣)、松平清宗(首級5)、松平家忠
今川勢:。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第21「松平清宗」の項、同23「松平家忠」の項、同65「酒井忠次」の項

永禄7年 1564年 6月22日 22歳
松平元康酒井忠次吉田城(三河国)城主とする。
元康が三河国内の国衆を二手に分け、忠次を東三河の国衆の旗頭に、石川家成を西三河の国衆の旗頭とする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第65「酒井忠次」の項

永禄7年 1564年 7月3日 22歳
松平元康が小笠原広重の寺部城(三河国)を安堵する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第191「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原広重」の項

永禄8年 1565年 -月-日 23歳
娘・が三河国にて生まれる。
出典:-

永禄11年 1568年 3月-日 26歳
徳川家康掛川城(遠江国)を攻める。先陣を松平一信、榊原康政がつとめる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

永禄12年 1569年 1月20日 27歳
天王山(遠江国)にて徳川家康今川氏真が戦う。
出典:『当代記』同年月日条

永禄12年 1569年 2月20日 27歳
徳川家康が、今川氏真の籠る掛川城(遠江国)を落とすべく、付城をかな丸山・二藤山・青田山に築く。
出典:『当代記』同年月日条

永禄13年 1570年 4月14日 28歳
足利義昭が御所竣工につき能を催す。織田信長徳川家康松永久秀三好義継が参会する。義昭は織田信長の位階をあげることを勧めるが信長は拒否する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

永禄13年 1570年 4月20日 28歳
織田信長朝倉義景の領国である越前国へ侵攻すべく、軍勢30000を率い京都を発ち、一条(山城)を東に出て坂本(近江国)を経由して和邇(近江国)に到着する。和邇・堅田に陣取る。武井夕庵松永久秀池田勝正(軍勢3000)が従軍する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」、『多聞院日記』同年月22日条、『当代記』同年月日条

永禄13年 1570年 4月21日 28歳
織田信長が田中城(近江国)に到着する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

永禄13年 1570年 4月22日 28歳
織田信長が熊川(若狭国)の松宮玄蕃の所に宿泊する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

元亀1年 1570年 4月23日 28歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月23日 28歳
織田信長が佐柿(若狭国)の粟津越中守の所に逗留する。
出典:『信長公記』巻3(3)「観世大夫、今春大夫立合に御能の事」

元亀1年 1570年 4月25日 28歳
織田信長が敦賀(越前国)に着陣し、手筒山城(越前国)を攻める。織田勢は森可隆が戦死する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」、『言継卿記』同年月27日条、『多聞院日記』同年月29日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第126「森可隆」の項

元亀1年 1570年 4月26日 28歳
金ヶ崎城(越前国)に籠城していた朝倉景恒織田信長に降伏する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」

元亀1年 1570年 4月29日 28歳
織田信長が越前国侵攻中のところ、義弟・浅井長政が信長を裏切り、朝倉義景に呼応する。美濃国への往還が不可能となった信長は若狭国西路を京都(山城国)に向かって逃走する。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 4月30日 28歳
越前国侵攻中の織田信長が、浅井長政の裏切りにより越前国を撤退し、下田(丹波国)を経由し、亥刻(21-23時)、10名程度で京都に入る。松永久秀等が供をする。
出典:『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年5月1日条、『継芥記』同年5月1日条、『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 5月3日 28歳
山科言継、松木、三条新少将、白川侍従、局務が織田信長のもとに赴く。取次は林秀貞
その後、言継等は徳川家康畠山高政松永久秀のもとに赴く。
次いで三好義継のもとに赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月26日 28歳
浅井久政長政父子が大寄山(近江国)に陣取る。織田信長が龍鼻(近江国)に陣取る。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月27日 28歳
徳川家康織田信長の陣取る龍鼻(近江国)に着陣する。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月28日 28歳
巳刻(9-11時)、姉川(近江国)にて織田信長徳川家康浅井長政朝倉義景が戦い信長・家康勢が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、坂井政尚坂井尚恒(戦死)、丹羽氏勝大島光義
徳川家康勢:徳川家康[大将]、酒井忠次[先鋒]、石川数正榊原康政松平信一松平忠正酒井重忠小栗忠政(銘 信国の槍で奮戦)、本多広孝、小笠原広重、野々山元政渥美友勝
浅井長政勢:浅井長政[大将]、遠藤直経(戦死)、藤堂高虎
朝倉勢:真柄直隆(戦死)、真柄直澄(戦死)、真柄隆基(戦死)。
戦後、信長が小谷城(近江国)の押さえとして木下秀吉を横山城(近江国)に置く。
出典:『言継卿記』同年月29日条、『信長公記』巻3(8)「あね川合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同45「小栗忠政」の項、同59「酒井重忠」の項、同65「酒井忠次」の項、同73「大島光義」の項、同85「丹羽氏勝」の項、同110「野々山元政」の項、同120「石川数正」の項、同191「小笠原広重」の項、同100「榊原康政」の項、同961「渥美友勝」の項、『藤堂家覚書

元亀2年 1571年 9月12日 29歳
織田信長延暦寺、和邇、堅田、坂本(近江国)を焼き討ちする。明智光秀を坂本(近江国)に置く。
出典:『信長公記』巻4(5)「叡山御退治の事」、『多聞院日記』同年月日条

元亀2年 1571年 10月3日 29歳
北条氏康が死去する。
出典:『早雲寺過去帳』

元亀3年 1572年 10月-日 30歳
徳川家康の命により松平清善が宇都山砦(遠江国)を守る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第21「松平清善」の項

元亀3年 1572年 10月27日 30歳
徳川家康松平清善に遠江国友長村内にて1000貫を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第21「松平清善」の項

元亀3年 1572年 11月-日 30歳
武田信玄が二俣城(遠江国)を包囲するとの報を受けた織田信長が、佐久間信盛、平手汎秀、水野信元を援軍として浜松城(遠江国)に遣わす。
出典:『信長公記』巻5(4)「身方が原合戦の事」

元亀3年 1572年 11月-日 30歳
武田信玄が、中根正照、松平康安、青木四郎兵衛の籠る二俣城(遠江国)を包囲する。
出典:『信長公記』巻5(4)「身方が原合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項

元亀3年 1572年 -月-日 30歳
武田信玄が二俣城(遠江国)を攻略する。
出典:『信長公記』巻5(4)「身方が原合戦の事」

元亀3年 1572年 -月-日 30歳
武田信玄が堀江城(遠江国)を攻める。
出典:『信長公記』巻5(4)「身方が原合戦の事」

元亀3年 1572年 12月22日 30歳
三方ヶ原(遠江国)にて武田信玄徳川家康が戦い、信玄が勝利する。
武田信玄勢:真田昌幸土屋昌続横手信俊[山県昌景勢]、山高信親(戦死)。
徳川家康勢:酒井忠次酒井正親榊原康政[先鋒]、小栗忠政鳥居忠広(戦死)・野々山元政(戦死)、石川正俊(戦死)、渥美友勝
織田勢:平手汎秀(戦死)。
浜松城(遠江国)留守居衆:石川家成、小笠原広重。
出典:『信長公記』巻5(4)「身方が原合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井忠次」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同118「石川家成」の項、同122「石川正俊」の項、同110「野々山元政」の項、同160「山高信親」の項、同163「柳沢信俊」の項、同191「小笠原広重」の項、同961「渥美友勝」の項

元亀4年 1573年 1月11日 31歳
武田信玄菅沼定盈松平忠正の守る野田城(三河国)を攻める。定盈・忠正は城兵の助命嘆願のため切腹することを信玄に申し出たところ、信玄は偽って定盈・忠正を許し、城を出てきたところをとらえ、信玄に仕えるように両名に言い渡す。定盈・忠正は信玄の申し出を拒否する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項

元亀4年 1573年 3月15日 31歳
武田信玄が、捕虜としていた菅沼定盈松平忠正を、徳川家康のもとに捕らえられていた山家三方衆の人質と交換することを家康に提案し、家康は受け入れる。広瀬川にて捕虜・人質の交換がなされる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項

元亀4年 1573年 4月12日 31歳
武田信玄が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第145「武田晴信」の項

天正1年 1573年 7月28日 31歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 8月20日 31歳
朝倉景鏡の裏切りにより賢松寺(越前国)にて朝倉義景が自害する。義景の首が龍門寺(越前国)にいる織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月28日 31歳
織田信長小谷城(近江国)京極丸に入る。
浅井長政は小谷城にて自害する。
浅井久政・長政父子の首を京都に送る。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)、『豊鑑』巻1

天正2年 1574年 2月8日 32歳
子・秀康が遠江国敷知郡宇布見村にて生まれる。
出典:-

天正2年 1574年 6月5日 32歳
武田勝頼高天神城(遠江国)を包囲中との報が織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻7(7)「高天神城小笠原与八郎謀叛の事」

天正2年 1574年 6月14日 32歳
高天神城(遠江国)の救援のため織田信長信忠父子が軍勢を率い岐阜城(美濃国)を発す。
出典:『信長公記』巻7(7)「高天神城小笠原与八郎謀叛の事」

天正2年 1574年 6月17日 32歳
高天神城(遠江国)救援のため出勢した織田信長酒井忠次の居城・吉田城(三河国)に入る。
出典:『信長公記』巻7(7)「高天神城小笠原与八郎謀叛の事」

天正2年 1574年 6月19日 32歳
織田信長が今切渡より高天神城(遠江国)に向かおうとする。
小笠原氏助が武田勝頼に内通し、武田城を高天神城に引き入れたことから、同城は勝頼が落とす。
高天神城の落城を知った信長は吉田城(三河国)に引き上げる。
出典:『信長公記』巻7(7)「高天神城小笠原与八郎謀叛の事」

天正3年 1575年 5月13日 33歳
遠江国に侵攻した武田勝頼に対するため、織田信長信忠とともに岐阜城(美濃国)を出陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月14日 33歳
織田信長岡崎(三河国)に着陣する。
出典:同年月15日付織田信長朱印状(「細川家文書」『増訂織田信長文書の研究 下巻』509号)、『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月15日 33歳
織田信長岡崎(三河国)に逗留する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月16日 33歳
織田信長が牛窪城(三河国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月17日 33歳
織田信長が牛窪城(三河国)に丸毛長照、福田三河守を置き、野田原(三河国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月18日 33歳
織田信長が極楽寺山(三河国)に陣取る。子・信忠は新御堂山(三河国)、徳川家康は高松山、滝川一益羽柴秀吉丹羽長秀は有海原に陣取る。家康、一益の陣所前に馬防の柵を設ける。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月20日 33歳
織田信長酒井忠次に信長馬廻の鉄砲衆500、金森長近、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門とともに、鳶之巣山(三河国)に回り長篠城(三河国)を包囲する武田勢を襲撃するよう命じる。戌刻(19-21時)、酒井忠次が鳶之巣山の武田勢に向けて出陣する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月21日 33歳
辰刻(3-5時)、長篠城(三河国)を包囲していた武田勝頼勢に、鳶ノ巣山(三河国)より酒井忠次が襲撃する。
酒井忠次勢:忠次、酒井家次松平家忠、松平康忠、松平伊忠(戦死)・松平家忠松平清宗小栗忠政[雨宮家次討取]。
武田勢:小山田昌行、雨宮家次(戦死)、屋代政長(戦死)、三枝昌貞(戦死)。
忠次の襲撃を受け、勝頼が前面に展開する織田信長徳川家康の軍勢に攻めかかるが、織田勢の鉄砲衆1000が、攻め寄せる武田勢を鉄砲にて悉く討ち取る。勝頼は鳳来寺方面に撤退する。『兼見卿記』には勝頼の敗北と「数千騎討死」が記される。
織田勢:佐々成政前田利家野々村正成福富秀勝塙直政大島光義
徳川勢:石川数正大久保忠世大久保忠佐大須賀康高鳥居元忠平岩親吉松平信一松平忠正松平康安松平康元酒井正親榊原康政本多忠勝渥美友勝岩瀬氏定(戦死)。
武田勢:馬場信春(戦死)、山県昌景(戦死)、土屋貞綱(戦死)、土屋昌続(戦死)、内藤昌豊(戦死)、油川信次(戦死)、小幡(戦死)、横田備中(戦死)、武田信実(戦死)、真田信綱(戦死)、真田昌幸、甘利藤蔵(戦死)、杉原日向(戦死)、名和宗安(戦死)、仁科(戦死)、高坂又八郎(戦死)、奥津(戦死)、岡辺(戦死)、恵光寺(戦死)、根津甚平(戦死)、和気善兵衛(戦死)、米倉重継(戦死)、青木信定(戦死)、横手信俊
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同29「松平伊忠」の項、同29「松平家忠」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井家次」の項、同73「大島光義」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同162「青木信定」の項、同163「柳沢信俊」の項、同169「米倉宗継」の項、同239「雨宮家次」の項、同237「屋代政長」の項、同963「岩瀬氏定」の項

天正3年 1575年 6月-日 33歳
徳川家康が光明城(遠江国)を攻める。本多忠勝榊原康政が先陣をつとめる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正3年 1575年 7月20日 33歳
徳川家康が諏訪原城(遠江国)を攻める。榊原康政が先陣をつとめる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正3年 1575年 8月24日 33歳
諏訪原城(遠江国)城主・今福丹波守が城を捨てて逃亡する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井正親」の項、同巻第100「榊原康政」の項

天正3年 1575年 12月27日 33歳
徳川家康が水野信元・信政父子を大樹寺(三河国)に呼び寄せ殺害する。平岩親吉が信元を斬る。
出典:-

天正5年 1577年 10月20日 35歳
武田勝頼が小山今城より大井川を越えて引き上げる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正5年 1577年 10月20日 35歳
武田勝頼が小山今城より大井川を越えて駿河国に引き上げる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正5年 1577年 10月21日 35歳
徳川家康勢が掛川(遠江国)より浜松(遠江国)に帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正5年 1577年 10月22日 35歳
徳川家康が馬伏塚より浜松(遠江国)に帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正5年 1577年 -月-日 35歳
孫・奥平家昌が生まれる。
出典:-

天正6年 1578年 3月7日 36歳
徳川家康掛川城(遠江国)に入る。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 3月9日 36歳
徳川家康が山中城(駿河国)を攻める。城攻めに榊原康政が参加する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正6年 1578年 3月9日 36歳
徳川家康田中城(駿河国)を攻める。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 3月13日 36歳
徳川家康が旗本をもって今城砦を攻める。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正6年 1578年 4月16日 36歳
松平信康岡崎城(三河国)を発し浜松城(遠江国)の父・家康のもとへ礼に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 8月19日 36歳
徳川家康による駿河国攻めに際し、三河国衆が浜松城(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 8月21日 36歳
徳川家康松平信康父子が小山(遠江国)に移る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 8月22日 36歳
徳川家康勢が駿河国に攻め入り、田中(駿河国)にて苅田をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 9月4日 36歳
徳川家康が西駿河より牧野(遠江国)に帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 9月5日 36歳
徳川家康松平家忠岡崎城(三河国)詰めは無用であると言い渡す。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 9月12日 36歳
徳川家康浜松城(遠江国)より岡崎城(三河国)に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 9月14日 36歳
徳川家康岡崎城(三河国)より浜松城(遠江国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 9月22日 36歳
徳川家康酒井忠次を通じて、国衆に岡崎城(三河国)詰めは無用であると言い渡す。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 9月25日 36歳
徳川家康より国衆に通達されていた国衆の岡崎城(三河国)詰め無用の件について、石川数正平岩親吉が、松平家忠に在所(深溝(三河国)に帰るよう伝える。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 10月24日 36歳
武田勝頼勢の出勢を聞き酒井忠次が25日までに浜松城(遠江国)に出陣するよう陣触れをする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 10月27日 36歳
松平信康が軍勢を率いて浜松城(遠江国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 10月28日 36歳
遠江国にて大地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 10月29日 36歳
武田勝頼勢が大井川を越えたとの報が牧野城(遠江国)より浜松城にもたらされる。徳川家康勢は見附(遠江国)まで出陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 10月29日 36歳
遠江国にて地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月1日 36歳
申刻(15-17時)、遠江国にて地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月2日 36歳
申刻(15-17時)、遠江国にて地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月2日 36歳
武田勝頼勢が、小山(遠江国)、相良(遠江国)方面に移る。松平信康は馬伏塚に布陣し、徳川諸勢は柴原に布陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月3日 36歳
酉刻(17-19時)、遠江国にて地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月3日 36歳
武田勝頼が、横須賀城(遠江国)の向かいまで軍勢を出す。徳川家康は横須賀城近くにて総勢で勝頼に備える。武田勢は高天神城(遠江国)に撤退する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月4日 36歳
夜、遠江国にて地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月4日 36歳
武田勝頼勢の物見が横須賀城(遠江国)に現れる。徳川家康は小笠に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月12日 36歳
武田勝頼勢が高天神城(遠江国)に引き上げる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月14日 36歳
武田勝頼勢が大井川を越えたとの注進が牧野城(遠江国)より掛川にいた松平家忠のもとに届く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月15日 36歳
武田勝頼勢が青島に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月17日 36歳
武田勝頼勢が島田に攻め入る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月19日 36歳
武田勝頼勢が島田より田中に引き上げる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月25日 36歳
武田勝頼が遠江国より引き上げる。
出典:『家忠日記』同年月30日条

天正6年 1578年 11月29日 36歳
申刻(15-17時)、遠江国にて地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 11月30日 36歳
松平家忠牧野城(遠江国)に鉄砲衆20名を置く。11月25日に武田勝頼が引き上げたので、徳川家康勢も浜松城(遠江国)に引き上げる。松平信康は三河国まで帰国する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正6年 1578年 12月2日 36歳
徳川家康岡崎城(三河国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 1月2日 37歳
徳川家康浜松城(遠江国)にて謡始を催す。松平家忠が参加する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正7年 1579年 1月11日 37歳
卯刻(5-7時)、三河国にて地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 1月19日 37歳
徳川家康岡崎城(三河国)に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 1月20日 37歳
徳川家康吉良(三河国)にて鷹狩をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 1月27日 37歳
徳川家康吉良(三河国)にて鷹狩をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 1月29日 37歳
徳川家康吉良(三河国)にて鷹狩をする。宇屋(三河国)にて松平家忠が酒宴を催す。家康は家忠に鷹狩で獲た雁を下賜する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正7年 1579年 2月11日 37歳
子刻(23-1時)、三河国にて地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 2月23日 37歳
浜松城(遠江国)の普請が行われる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 2月24日 37歳
浜松城(遠江国)の普請が行われる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 2月25日 37歳
浜松城(遠江国)の普請が行われる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 2月26日 37歳
浜松城(遠江国)の普請が行われる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 2月27日 37歳
浜松城(遠江国)の普請が行われる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 2月28日 37歳
浜松城(遠江国)の普請が行われる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 3月1日 37歳
浜松城(遠江国)の普請が行われる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 3月2日 37歳
浜松城(遠江国)の普請が行われる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 3月3日 37歳
浜松城(遠江国)の普請が行われる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 3月4日 37歳
浜松城(遠江国)の普請が行われる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 3月5日 37歳
浜松城(遠江国)の普請が行われる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 3月10日 37歳
浜松城(遠江国)の普請が行われる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 3月11日 37歳
浜松城(遠江国)の普請が行われる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 3月12日 37歳
浜松城(遠江国)の普請が終了する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月7日 37歳
申刻(15-17時)、子・秀忠が生まれる。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 4月23日 37歳
武田勝頼が江尻(駿河国)に出張ってきたとの報を受け、徳川家康石川数正を介し松平家忠に26日までに浜松城(遠江国)に参集するよう命じる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月25日 37歳
武田勝頼が高天神(遠江国)・国安に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月26日 37歳
夜、徳川家康浜松城(遠江国)より出陣し、馬伏塚(遠江国)に陣取る。松平信康吉田城(三河国)を発ち馬伏塚に陣取る。徳川勢の三河国衆は見付(遠江国)に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月27日 37歳
徳川家の三河国衆が袋井(遠江国)に陣取る。国安に陣取っていた武田勝頼勢は撤退する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月28日 37歳
松平家忠が河井市場(遠江国)に陣替えする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月29日 37歳
松平家忠徳川家康旗本衆のいる馬伏塚(遠江国)に赴く。武田勝頼勢は大井川を越え撤退したため、徳川勢は浜松城(遠江国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 4月30日 37歳
三河国衆の総勢が浜松城(遠江国)より三河国に帰国する。大将衆のみが浜松城に残る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 7月16日 37歳
徳川家康織田信長に馬を進上する。使者は酒井忠次。忠次・奥平信昌も信長に馬を進上する。
出典:『信長公記』巻12(5)「丹波国波多野兄弟張付の事」

天正7年 1579年 8月3日 37歳
徳川家康浜松城(遠江国)より岡崎城(三河国)に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 8月4日 37歳
岡崎城(三河国)にて徳川家康松平信康父子が談合する。その後、信康は大浜(三河国)に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 8月5日 37歳
徳川家康松平家忠に弓・鉄砲衆を連れて西尾(三河国)に赴くよう命じる。家康も岡崎城(三河国)より西尾に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 8月7日 37歳
徳川家康岡崎城(三河国)に戻る。岡崎城の本城城番として松平上野・榊原康政を、北端城の城番として松平家忠・松平玄蕃・鵜殿八郎三郎を置く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 8月9日 37歳
松平信康が大浜(三河国)より堀江城(遠江国)に移る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 8月10日 37歳
徳川家康が国衆に対して松平信康と音信を交わさないことを誓う起請文の提出を求める。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 8月12日 37歳
徳川家康(三河国)より(遠江国)に帰城する。岡崎城には留守居として本多重次を置く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 8月30日 37歳
申刻(15-17時)、三河国にて地震が起こる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月2日 37歳
徳川家康浜松城(遠江国)にて病を患う。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月15日 37歳
松平信康が父・家康の命により二俣(遠江国)にて自害する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正7年 1579年 9月18日 37歳
徳川家康勢が二山(駿河国)に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月19日 37歳
徳川家康家臣の牧野康成・掛川衆が向井正重の籠る持船城(駿河国)を攻め、同城を落とす。向井正重、向井政勝が戦死する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「清和源氏 義家流 足利支流 向井」「向井正重」の項・「向井政勝」の項

天正7年 1579年 9月25日 37歳
武田勝頼勢が府中(駿河国)に軍勢を移す。これにより徳川家康は井籠まで軍勢を引き上げる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月28日 37歳
松平信一徳川家康に帰陣を勧め、家康は井籠より牧野城(遠江国)に引き上げることとする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 9月30日 37歳
徳川家康牧野城(遠江国)に帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 10月1日 37歳
徳川家康浜松城(遠江国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 10月19日 37歳
徳川家康浜松城(遠江国)より出陣し掛川城(遠江国)に入る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 10月22日 37歳
卯刻(5-7時)、遠江国で地震が発生する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 10月24日 37歳
徳川家康掛川城(遠江国)より牧野城(遠江国)に入る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月1日 37歳
三河国衆が浜松城(遠江国)に参集する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月11日 37歳
徳川家康が掛川(遠江国)まで赴く。徳川勢は掛川諸郷に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月12日 37歳
徳川家康が馬伏塚(遠江国)に赴く。松平家忠は河合市場に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月13日 37歳
徳川家康勢が横須賀(遠江国)に陣替えする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月14日 37歳
酒井忠次がもろいに陣替えする。徳川家康は、鷹が病を患ったので浜松城(遠江国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月15日 37歳
徳川家康浜松城(遠江国)より馬伏塚(遠江国)の陣所に戻る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月20日 37歳
徳川家康が横須賀(遠江国)に出陣中の国衆に帰陣するよう本多信俊をもって触れ廻る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月24日 37歳
徳川家康松平家忠に蒼鷹を賜う。
酒井忠次が家忠に武田勝頼勢が田中(駿河国)にまで進んできたことを伝える。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正7年 1579年 11月26日 37歳
浜松城(遠江国)に武田勝頼勢が高天神城(遠江国)に移ったとの報が入る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月27日 37歳
松平家忠が見付(遠江国)に出陣する。武田勝頼勢が国安より撤退する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月28日 37歳
武田勝頼勢が大井川を越え撤退する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正7年 1579年 11月29日 37歳
武田勝頼勢の撤退につき、徳川家康勢は浜松城(遠江国)に帰城することになり、その旨を本多重次が触れ廻る。松平家忠は見付(遠江国)に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 1月16日 38歳
徳川家康岡崎城(三河国)に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 1月24日 38歳
徳川家康が西尾(三河国)にて鷹狩をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 1月27日 38歳
徳川家康が西尾(三河国)より岡崎城(三河国)に戻る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 2月17日 38歳
松平信康の妻であった徳(織田信長の娘)が美濃国に帰ることになったため、徳川家康岡崎城(三河国)に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 2月18日 38歳
松平信康の妻であった徳(織田信長の娘)を美濃国まで送り届けるよう命を受けた松平家忠岡崎城(三河国)に赴く。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 2月20日 38歳
美濃国に帰ることになった松平信康の妻であった徳(織田信長の娘)を岡崎城(三河国)にて徳川家康が見送る。松平家忠が桶狭間(尾張国)まで送り届ける。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 2月21日 38歳
徳川家康岡崎城(三河国)より浜松城(遠江国)に帰城する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 4月27日 38歳
徳川勢の三河衆が池田に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 5月1日 38歳
徳川家康が掛川(遠江国)まで出陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 5月2日 38歳
徳川勢が牧野城(遠江国)に入る。徳川勢の遠江衆が井籠に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 5月3日 38歳
徳川家康勢が田中に攻め入る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 5月4日 38歳
徳川家康勢が田中に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 5月5日 38歳
徳川家康が朝比奈信置の籠る持船城(駿河国)を攻める。徳川勢は石川数正勢が32人討ち取られるなど損害を出し、家康は掛川(遠江国)に撤退する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 6月10日 38歳
徳川家康が、高天神城(遠江国)を攻めるべく、浜松城(遠江国)を出陣し、横須賀(遠江国)に陣取る。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月17日 38歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が普請にあたっていた鹿鼻砦の終了する。家忠が同城の根小屋を放火する。板倉定重が戦死する。
出典:『家忠日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正8年 1580年 6月18日 38歳
高天神城(遠江国)を攻めていた徳川家康勢が青田刈をする。徳川勢の三河衆は浜松城(遠江国)まで帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 6月25日 38歳
徳川家康高天神城(遠江国)攻めで法度に背いた小姓・大須賀弥吉を切腹させる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月20日 38歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、徳川家康浜松城(遠江国)より出陣し、掛川(遠江国)に入る。徳川勢は掛川・山口(遠江国)に布陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月22日 38歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、松平家忠が小山(遠江国)方面にて刈田をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月23日 38歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、石川数正が田中(駿河国)方面にて刈田をする。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月24日 38歳
本多忠勝勢が小山城(遠江国)を攻める。忠勝は敵3人を討ち取る。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月25日 38歳
徳川家康勢が小山城(遠江国)を攻める。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月26日 38歳
徳川家康勢が掛川(遠江国)まで帰陣する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 7月27日 38歳
徳川家康勢が浜松城(遠江国)に帰城する。国衆に対し、陣番を怠ることがない旨を誓う起請文を提出させる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正8年 1580年 9月10日 38歳
子・松平忠吉が生まれる。
出典:-

天正8年 1580年 11月12日 38歳
高天神城(遠江国)攻めにつき、徳川家康織田信長に援軍を要請すべく松平家忠を遣わす。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正9年 1581年 1月3日 39歳
武田勝頼高天神城(遠江国)の後詰をするとの風説につき、織田信忠岐阜城(美濃国)を発し、軍勢を率い清須城(尾張国)に入る。
出典:『信長公記』巻14「武田四郎高天神城後巻き横須賀城番手の事」

天正9年 1581年 3月22日 39歳
徳川家康岡部元信の籠る高天神城(遠江国)を攻める。徳川勢が元信を討ち取り、家康は高天神城を落とす。
徳川家康勢:徳川家康[大将]、松平康元松平康次松平清宗松平康安小栗忠政、成瀬久次、渥美友勝、板倉定重(戦死)、岩瀬氏則(首級5)。
岡部元信勢:岡部元信[大将](戦死)。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第16「松平康次」の項、同21「松平清宗」の項、同26「松平康安」の項、同52「松平康元」の項、同81「板倉定重」の項、同961「渥美友勝」の項、同963「岩瀬氏則」の項

天正9年 1581年 3月25日 39歳
徳川家康高天神城(遠江国)を兵粮攻めにしているところ、城から逃亡者が出る。逃亡者に対し家康は攻撃を加え、本多忠勝は首級22を、榊原康政は首級40余をあげる。
出典:『信長公記』巻14(3)「高天神干殺し歴々討死の事」、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正10年 1582年 2月1日 40歳
木曽義昌織田信長に寝返る。義昌より人質として義昌の弟・上松義豊が送られ、菅屋長頼が義豊を預かる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月2日 40歳
木曽義昌の謀叛につき武田勝頼が武田信豊とともに新府城(甲斐国)より軍勢15000をもって出陣し、上原(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月3日 40歳
武田勝頼木曽義昌を攻めるとの報を受け、織田信長は、徳川家康に駿河口からの侵攻を、北条氏政に関東口からの侵攻を、金森長近に飛騨口からの侵攻を命じる。また、織田信忠森長可・団忠正を先陣として木曽口・岩村口より出勢させる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月14日 40歳
織田信忠が岩村(美濃国)に着陣する。
松尾城(信濃国)の小笠原信嶺が信忠に降伏する。
妻子口より森長可・団忠正が木曽峠、梨子野峠を越え飯田城(信濃国)を攻め、城主・保科正直を追い出す。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 3月11日 40歳
織田信忠が甲斐国にて武田勝頼の所在を捜索し、所在地を突き止めた滝川一益が勝頼を包囲する。勝頼・信勝父子は天目山にて自害し、勝頼に随従していた長坂釣竿斎、秋山親久、小原下総守、小原丹後守、跡部尾張守、安部加賀守、土屋昌恒も自害する。
出典:『晴豊記』同年月22日条、『言経卿記』同年月20日条、『信長公記』巻15(10)「武田四郎父子生害の事」

天正10年 1582年 3月29日 40歳
織田信長が武田家の遺領の知行割を行う。甲斐国を川尻秀隆に、駿河国を徳川家康に、上野国一国・信濃国の小県郡・佐久郡を滝川一益に、信濃国の高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡を森長可に、信濃国の木曽谷・安曇郡・筑摩郡を木曽義昌に、信濃国の伊那郡を毛利秀頼に、信濃国の諏訪郡を穴山梅雪に、岩村(美濃国)を団忠正に、金山米田島(美濃国)は森成利に給付する
出典:『信長公記』巻15(19)「御国わりの事」

天正10年 1582年 4月16日 40歳
織田信長が掛川(遠江国)を発ち、徳川家康の居城・浜松城(遠江国)に宿泊する。家康は信長を饗応する。
出典:『信長公記』巻15(23)「信長公甲州より御帰陣の事」

天正10年 1582年 4月17日 40歳
織田信長浜松城(遠江国)を発ち、今切渡を通って吉田城(三河国)に入り、当地に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(23)「信長公甲州より御帰陣の事」

天正10年 1582年 5月14日 40歳
徳川家康穴山梅雪が番場(近江国)に到着する。家康、梅雪のため丹羽長秀が番場に宿を設ける。
出典:『信長公記』巻15(25)「家康公・穴山梅雪御上洛の事」

天正10年 1582年 5月15日 40歳
徳川家康穴山梅雪が礼として安土城(近江国)を訪れる。惣見寺に座敷を用意し、唐物・和物で飾りつけをしてもてなす。宿所は大宝坊。
出典:『鷺森日記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日・18条、『信長公記』巻15(25)「家康公・穴山梅雪御上洛の事」、『川角太閤記』

天正10年 1582年 5月20日 40歳
織田信長丹羽長秀堀秀政長谷川竹菅屋長頼徳川家康穴山梅雪の饗応を命じる。家康、信君、石川数正、酒井忠次等が饗応を受ける。
出典:『信長公記』巻15(27)「幸若大夫・梅若大夫の事」

天正10年 1582年 5月21日 40歳
徳川家康が上洛する。長谷川竹が家康を案内する。大坂(摂津国)にて家康をもてなすため、津田信澄丹羽長秀が大坂に赴く。
出典:『鷺森日記』同年月日条、『信長公記』巻15(28)「家康公・穴山梅雪、奈良・堺御見物の事」

天正10年 1582年 5月29日 40歳
徳川家康穴山梅雪を見物する。
出典:『鷺森日記』同年月日条

天正10年 1582年 6月2日 40歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月2日 40歳
徳川家康(和泉国)を発ち、宇治田原(山城国)に到着する。渥美友重が供奉する。
出典:『石川忠総留書』、『寛政重修諸家譜』巻第961「渥美友重」の項

天正10年 1582年 6月3日 40歳
徳川家康が宇治田原(山城国)を発ち、小川(近江国)の多羅尾光俊邸に宿泊する。
出典:『石川忠総留書』

天正10年 1582年 6月4日 40歳
徳川家康が小川(近江国)を発ち、神山(近江国)、桜峠、丸柱(伊賀国)、柘植(伊賀国)、加太を経由し伊勢湾を渡航して三河国に帰還する。
出典:『石川忠総留書』

天正10年 1582年 6月18日 40歳
岩窪(甲斐国)にて、川尻秀隆が武田家旧臣の襲撃を受け、三井弥一郎に討ち取られる。
出典:-

天正10年 1582年 7月3日 40歳
徳川家康が甲斐国に向けて浜松城(遠江国)より出陣する。
徳川勢:松平康元
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項、同巻第52「松平康元」の項

天正10年 1582年 7月9日 40歳
徳川家康が府中(甲斐国)に到着する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

天正10年 1582年 7月24日 40歳
徳川家康が樫山(甲斐国)に陣取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第166「折井次昌」の項

天正10年 1582年 8月6日 40歳
北条氏直が武川衆を徳川家康より引き抜くべく、中沢縫殿右衛門・中沢新兵衛を折井次昌のもとに遣わすが、次昌は勧誘を拒み、縫殿右衛門・新兵衛を討ち取り、家康に献じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第166「折井次昌」の項

天正10年 1582年 8月10日 40歳
徳川家康鳥居元忠・水野勝成を古府に残し、新府(甲斐国)に陣を移す。大野村に松平清宗・三宅康貞を置く。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第21「松平清宗」の項

天正10年 1582年 8月12日 40歳
上口山(甲斐国)にて北条氏忠と鳥居元忠・水野勝成・松平清宗・三宅康貞が戦い、鳥居等が勝利する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第21「松平清宗」の項

天正10年 1582年 8月17日 40歳
徳川家康折井次昌に甲斐国折井・新奥・甘利・竹内・相良にて113貫400文の地を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第166「折井次昌」の項

天正10年 1582年 8月21日 40歳
田沢正忠徳川家康に仕える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第150「田沢正忠」の項

天正10年 1582年 8月27日 40歳
北条氏直方の豆生田砦を徳川家康勢の榊原康政大須賀康高が攻める。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正10年 1582年 10月24日 40歳
徳川家康が保科正直に伊奈郡(信濃国)の半分を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第250「保科正直」の項

天正10年 1582年 10月29日 40歳
徳川家康北条氏直が和睦する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正10年 1582年 12月9日 40歳
徳川家康田沢正忠が正忠の旧領の内、45貫文の地を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第150「田沢正忠」の項

天正11年 1583年 閏1月12日 41歳
滝川一益織田信孝徳川家康柴田勝家が一味して雪解けとともに畿内に攻め入ると奈良(大和国)にて噂される。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正11年 1583年 4月24日 41歳
柴田勝家北之庄城(越前国)にて自害する。
出典:-

天正11年 1583年 4月24日 41歳
徳川家康武田信俊に甲斐国松尾郷巨勢村内にて382貫800文の地を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第146「清和源氏 義光流 武田支流」「武田信俊」の項

天正11年 1583年 4月26日 41歳
徳川家康折井次忠に甲斐国有野・折井にて50貫文の地を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第166「折井次忠」の項

天正11年 1583年 5月-日 41歳
徳川家康羽柴秀吉に茶壺・初花を贈る。使者は石川数正
出典:『寛政重修諸家譜』巻第120「清和源氏 義時流 石川」「石川数正」の項

天正11年 1583年 7月3日 41歳
桜井松平の当主・家広が幼少につき、徳川家康は家臣・堀重純に朱印状を下し、家政の取り仕切りを命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平家広」の項

天正11年 1583年 -月-日 41歳
向井正綱徳川家康の命を受けた本多重次の説得に応じ家康に仕える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第103「向井正綱」の項

天正11年 1583年 -月-日 41歳
徳川家康の娘・北条氏直にもとに嫁ぐ。介添えは酒井忠次
出典:『寛政重修諸家譜』巻第65「酒井忠次」の項

天正12年 1584年 3月6日 42歳
織田信雄長島城(伊勢国)にて岡田重孝、津川義冬、浅井長時を殺害する。羽柴秀吉がこの件に立腹し、信雄に殺害理由を質す。
出典:『宇野主水記』同年月8日条、(天正12年)3月26日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集成』2-993号、「佐竹文書」)

天正12年 1584年 3月17日 42歳
酒井忠次が楽田(尾張国)・羽黒(尾張国)・五郎丸(尾張国)を放火する。忠次が森長可の守る五郎丸砦(尾張国)を攻め、同砦を落とす。
徳川勢:酒井忠次、奥平信昌
羽柴勢:森長可。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第65「酒井忠次」の項

天正12年 1584年 3月-日 42歳
羽柴秀吉徳川家康に備えるため佐和山城(近江国)にて軍勢が集まるのを待つ。
出典:『多聞院日記』同年月22日条

天正12年 1584年 4月7日 42歳
徳川家康領の三河国を襲撃すべく羽柴秀次池田勝入斎森長可堀秀政が楽田(尾張国)を出陣し小牧(尾張国)に陣取る。
出典:『豊鑑』巻2

天正12年 1584年 4月9日 42歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同1153「野呂守景」の項

天正12年 1584年 6月10日 42歳
羽柴秀吉が竹鼻城(尾張国)を攻め、落とす。同城に一柳直末、伊木長三を置く。
出典:『宇野主水記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条

天正12年 1584年 6月18日 42歳
織田信雄徳川家康滝川一益の守る蟹江城(尾張国)、前田長種の守る前田城(尾張国)、前田長俊の守る下市場城(尾張国)を包囲する。
出典:-

天正12年 1584年 6月22日 42歳
織田信雄徳川家康滝川一益の守る蟹江城(尾張国)を攻め、同城を落とす。
出典:-

天正12年 1584年 6月23日 42歳
石川数正が攻めていた前田長種の籠る前田城(尾張国)が開城する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第120「清和源氏 義時流 石川」「石川数正」の項

天正12年 1584年 7月-日 42歳
保科正直が徳川家康の異父妹・多劫を娶り、高遠城(信濃国)にて婚儀を行う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第250「保科正直」の項

天正12年 1584年 9月-日 42歳
諏訪頼忠、保科正直等が妻籠城(信濃国)を攻める。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第250「保科正直」の項

天正12年 1584年 10月16日 42歳
徳川家康浜松城(遠江国)に帰城する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正12年 1584年 10月-日 42歳
徳川家康が小牧山城(尾張国)より岡崎城(三河国)に撤退するにあたり、小牧山城の留守居として榊原康政を置く。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正12年 1584年 11月15日 42歳
徳川家康が尾張国より三河国に帰国する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正12年 1584年 12月22日 42歳
徳川家康の子・於義丸が羽柴秀吉の猶子となるため上洛する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正12年 1584年 12月26日 42歳
徳川家康の子・於義丸が羽柴秀吉の猶子となるため大坂城(摂津国)に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正12年 1584年 -月-日 42歳
徳川家康田沢正忠に甲斐国巨摩郡内で200貫を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第150「田沢正忠」の項

天正13年 1585年 閏8月2日 43歳
大久保忠世鳥居元忠が率いる徳川勢が真田昌幸の籠る上田城(信濃国)を攻める。国分寺(信濃国)にて徳川勢と真田勢が戦い、真田勢が勝利する。
徳川勢:保科正直、三枝守英折井次昌(大久保忠世勢)、青木信時(大久保忠世勢)、青木信安山高信直(大久保忠世勢)、山寺信昌(大久保忠世勢)、柳沢信俊(大久保忠世勢)、米倉忠継、米倉信継。
真田勢:成瀬甚右衛門(戦死)。
出典:(天正13年)閏8月13日付真田信幸書状(「恩田文書」)、『寛政重修諸家譜』巻第160「山高信直」の項、同161「青木信時」の項、同161「青木信安」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次昌」の項、同169「米倉忠継」の項、同250「保科正直」の項

天正13年 1585年 11月1月13日日 43歳
石川数正羽柴秀吉のもとに出奔する。出奔時、数正は松平近正に天野又左衛門を遣わし、秀吉方に加わるよう勧誘するが、近正は再度訪れた場合は切ると言って勧誘を拒絶する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第13「松平近正」の項

天正13年 1585年 11月23日 43歳
羽柴秀吉の使者として織田長益滝川雄利、土方久元が遣わされ、酒井忠次のもとから岡崎城(三河国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日白

天正13年 1585年 11月-日 43歳
岡崎城(三河国)城主の石川数正小笠原秀政が出奔し、大坂(摂津国)に至りて羽柴秀吉に仕える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第120「清和源氏 義時流 石川」「石川数正」の項、『同』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項

天正13年 1585年 12月3日 43歳
小笠原貞慶が保科正直の籠る高遠城(信濃国)を軍勢3000余で攻める。正直が貞慶を退ける。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第250「保科正直」の項

天正13年 1585年 12月14日 43歳
徳川家康高遠城(信濃国)にて小笠原貞慶を退けた保科正直に感状を発給するとともに刀(銘 包永)を下賜する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第250「保科正直」の項

天正14年 1586年 1月27日 44歳
織田信雄が、豊臣秀吉徳川家康の和睦を仲介すべく、岡崎(三河国)に赴き、家康と対面する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正14年 1586年 1月29日 44歳
徳川家康浜松城(遠江国)に帰城する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 3月9日 44歳
三島(伊豆国)にて徳川家康北条氏政が対面する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正14年 1586年 3月11日 44歳
沼津(駿河国)にて徳川家康北条氏政が対面する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正14年 1586年 4月23
-
徳川家康に嫁ぐことになった羽柴秀吉の妹・旭姫が大坂城(摂津国)を出立する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 5月14日 44歳
徳川家康に嫁ぐことになった羽柴秀吉の妹・旭が浜松城(遠江国)に到着する。旭の乗った輿を酒井重忠が請け取る。家康は旭を榊原康政邸に迎える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第100「榊原康政」の項

天正14年 1586年 5月27日 44歳
徳川家康の使者として榊原康政聚楽第(山城国)に赴き、家康の上洛を羽柴秀吉に伝える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正14年 1586年 9月-日 44歳
徳川家康駿府城(駿河国)を居城とする。板倉勝重を町奉行とする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉勝重」の項

天正14年 1586年 10月10日 44歳
徳川家康羽柴秀吉に臣従するため上洛するにあたり、秀吉が母・なかを家康のもとに人質として送る。ただしなかの下向理由は家康に嫁いだ旭姫に会うためとする。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 10月26日 44歳
徳川家康大坂城(摂津国)に到着する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 10月27日 44歳
徳川家康羽柴秀吉のもとを訪れ臣従の礼をする。金100枚、縮100端を贈る。
羽柴秀長邸にて興正寺顕尊に会う。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 10月28日 44歳
羽柴秀長邸にて、徳川家康をもてなす金春大夫の能が催される。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 10月30日 44歳
大坂滞在中の徳川家康が、本願寺顕如、教如、興正寺顕尊に音信として松平忠右衛門を遣わし、顕如に1腰、馬を、教如・顕尊に馬を贈る。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正14年 1586年 11月1日 44歳
徳川家康が上洛する。
出典:『宇野主水記』同年月日条

天正15年 1587年 1月25日 45歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 45歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 45歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月10日 45歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 45歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 45歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 45歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 3月1日 45歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月29日 45歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 45歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 45歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 45歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 45歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 45歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 45歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 45歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 45歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 45歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 45歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月5日 45歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月6日 45歳
島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 5月8日 45歳
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月9日 45歳
豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)

天正15年 1587年 10月15日 45歳
徳川家康酒井忠次邸に赴き、能を見物する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第65「酒井忠次」の項

天正16年 1588年 4月14日 46歳
後陽成天皇が聚楽第(山城国)に行幸する。秀吉の前駈(右列)に石田三成大谷吉継片桐且元が、前駈(左列)に増田長盛加藤嘉明が供をする。秀吉に続き、織田信包織田長益前田利家蒲生氏郷長宗我部元親蜂屋頼隆細川忠興が、鳳輦についで織田信雄徳川家康豊臣秀次豊臣秀長近衛信輔烏丸光宣持明院基孝東坊城盛長広橋兼勝が、近衛大将の左として鷹司信房が供奉する。
出典:『多聞院日記』同年5月4日条、『豊鑑』巻3

天正16年 1588年 4月16日 46歳
聚楽第(山城国)で行われた和歌会にて「縁たつ 松の葉ことに 此君の ちとせのかずを 契りてぞみる」と詠む。
出典:『豊鑑』巻3

天正16年 1588年 7月29日 46歳
毛利輝元小早川隆景吉川広家豊臣秀長邸に赴く。豊臣秀吉も秀長邸に赴き、聖護院道澄今出川晴季織田信雄勧修寺晴豊、中山親綱、日野輝資、徳川家康豊臣秀次宇喜多秀家上杉景勝蜂屋頼隆細川忠興島津義久、龍造寺政家、立花宗茂が相伴する。
出典:『陰徳太平記』巻75「毛利三家上洛付聚楽亭和歌会之事」

天正17年 1589年 3月17日 47歳
西笑承兌徳川家康のもとに礼に赴く。大久保忠隣にも礼に赴く。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

天正17年 1589年 8月13日 47歳
小笠原秀政豊臣秀吉の命により、登久(松平信康の娘)を娶る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項

天正17年 1589年 10月10日 47歳
豊臣秀吉が諸国に、来年3月、北条氏政を成敗するべく出陣するので、軍役として五畿内衆は半役、中国衆は4人役、四国以東尾張以西衆は6人役、北国は6人半役、遠江国・三河国・駿河国・甲斐国・信濃国は7人役を供出するようと命じる。
出典:小瀬甫庵『太閤記』巻第12「来春関東陣御軍役之事」

天正17年 1589年 11月17日 47歳
徳川家康武田信俊に甲斐国八代郡内にて2230俵の所務を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第146「武田信俊」の項

天正17年 1589年 11月-日 47歳
豊臣秀吉が北条氏成敗につき陣立書を作成する。徳川家康は天正18年2月1日に軍勢30000で出陣することが定められる。
出典:(天正17年)11月付豊臣秀吉小田原陣陣立書(『伊達家文書』1-487号)

天正17年 1589年 -月-日 47歳
徳川家康甲府城(甲斐国)に在番として柳沢信俊を置く。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第163「柳沢信俊」の項

天正18年 1590年 2月10日 48歳
徳川家康豊臣秀吉小田原城(相模国)攻めにつき駿府城(駿河国)を出立し、賀島(駿河国)に到着する。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正18年 1590年 3月1日 48歳
豊臣秀吉北条氏政氏直父子を討伐するため京都を出陣する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天正18年 1590年 4月2日 48歳
徳川家康が小田原(相模国)に着陣し、小田原城(相模国)の包囲に加わる。徳川勢:渥美友勝、保科正直、保科正光、青木信時柳沢信俊、山高信直、折井次昌
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「青木信時」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次昌」の項、同250「保科正直」の項、同250「保科正光」の項、同961「渥美友勝」の項

天正18年 1590年 4月5日 48歳
徳川家康小田原城(相模国)早川口に陣取った浅野幸長に当口の様子をうかがうとともに、攻撃は機を合わせるようにしようと伝える。
出典:(天正18年)4月5日付徳川家康書状(『浅野家文書』23号)

天正18年 1590年 5月20日 48歳
木村重茲浅野長政、岡本良勝、徳川家康勢の本多忠勝鳥居元忠平岩親吉が伊達房実の籠る岩槻城(武蔵国)を攻める。
豊臣勢:木村重茲、浅野長政、岡本良勝、本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉、駒井昌長渥美友重[平岩親吉勢]、武田信俊[平岩親吉勢]、下曽根信照[平岩親吉勢]、下曽根信正[平岩親吉勢]。
北条勢:伊達房実。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第157「駒井昌長」の項、同146「武田信俊」の項、同149「下曽根某(信照)」の項、同961「渥美友重」の項、同961「渥美半右衛門」の項

天正18年 1590年 5月21日 48歳
木村重茲浅野長政、岡本良勝、徳川家康勢の本多忠勝鳥居元忠平岩親吉が伊達房実の籠る岩槻城(武蔵国)を攻める。
豊臣勢:木村重茲、浅野長政、岡本良勝、本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉、駒井昌長渥美友重[平岩親吉勢]、武田信俊[平岩親吉勢]、下曽根信照[平岩親吉勢]、下曽根信正[平岩親吉勢]。
北条勢:伊達房実。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第157「駒井昌長」の項、同146「武田信俊」の項、同149「下曽根某(信照)」の項、同961「渥美友重」の項、同961「渥美半右衛門」の項

天正18年 1590年 5月22日 48歳
木村重茲浅野長政、岡本良勝、徳川家康勢の本多忠勝鳥居元忠平岩親吉が伊達房実の籠る岩槻城(武蔵国)を攻める。
豊臣勢:木村重茲、浅野長政、岡本良勝、本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉、駒井昌長渥美友重[平岩親吉勢]、武田信俊[平岩親吉勢]、下曽根信照[平岩親吉勢]、下曽根信正[平岩親吉勢]。
北条勢:伊達房実。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」、『寛政重修諸家譜』巻第157「駒井昌長」の項、同146「武田信俊」の項、同149「下曽根某(信照)」の項、同961「渥美友重」の項、同961「渥美半右衛門」の項

天正18年 1590年 6月5日 48歳
小田原城(相模国)に籠城中の成田氏長が徳川家康のもとに内々に使者を送り、豊臣秀吉との執り成しを願い出る。
出典:『天正日記』同年月日条

天正18年 1590年 6月6日 48歳
徳川家康が内藤清成に江戸(武蔵国)の視察を命じる。
出典:『天正日記』同年月日条

天正18年 1590年 7月6日 48歳
北条氏政氏直父子が豊臣秀吉に降伏する。脇坂安治片桐且元榊原康政小田原城(相模国)に赴き、城を請け取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 7月10日 48歳
徳川家康小田原城(相模国)に入城する。
出典:『天正日記』同年月日条

天正18年 1590年 7月12日 48歳
北条氏政北条氏照・笠原新六郎・大道寺政繁が切腹する。検使は榊原康政
出典:『太閤さま軍記のうち』、『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 7月13日 48歳
豊臣秀吉小田原城(相模国)に入城する。
秀吉が駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国への移封を拒否した織田信雄の所領を改易する。
秀吉が加藤光泰に甲斐国240000石を給付する。
出典:『小田原日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第774「加藤光泰」の項

天正18年 1590年 8月15日 48歳
徳川家康小田原城(相模国)に大久保忠世を入れる。
出典:『家忠日記』同年月日条

天正18年 1590年 8月-日 48歳
徳川家康榊原康政に上野国邑楽郡・勢田郡、下野国簗田郡の100000石を給付し、館林城(上野国)に置く。あわせて康政の与力として、村上弥右衛門、原田種正、竹内広茂、瀧見九郎兵衛、鈴木重則、安松宗光等を付す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」

天正18年 1590年 8月-日 48歳
徳川家康が近習・外様を五組に分け、その長を榊原康政井伊直政本多忠勝平岩親吉石川康通に補任する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

天正18年 1590年 9月10日 48歳
徳川家康が、小笠原秀政に下総国古河30000石を、松平定勝に下総国香取郡小南にて3000石を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「小笠原秀政」の項、同巻第54「松平定勝」の項

天正18年 1590年 12月28日 48歳
豊臣秀吉が関白職を甥・秀次に譲る。
出典:『黒田家譜』巻5「孝高記」

天正18年 1590年 -月-日 48歳
徳川家康松平家清に武蔵国児玉郡八幡山にて10000石を給付する。家清はこの内1000石を弟・清定に分与する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項

天正18年 1590年 -月-日 48歳
徳川家康松平康元に下総国葛飾郡内にて20000石を給付し、関宿城(下総国)城主とする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項

天正19年 1591年 閏1月22日 49歳
徳川家康が上洛する。
出典:『光豊公記』同年月23日条

天正19年 1591年 3月2日 49歳
豊臣秀吉徳川家康のもとを訪れる。
出典:『言経卿記』同年同月日条

天正19年 1591年 6月20日 49歳
豊臣秀吉が奥羽の一揆成敗のため豊臣秀次に出陣を命じる。
出典:-

天正19年 1591年 7月19日 49歳
九戸政実成敗のため徳川家康江戸城(武蔵国)より出陣する。岩槻(武蔵国)に到着する。
徳川勢:中島盛直、三枝守英柳沢信俊(大久保忠世勢)、折井次忠(大久保忠世勢)。
出典:『家忠日記』同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項、同160「山高信直」の項、同160「山高親重」の項、同161「青木信時」の項、同162「山寺信昌」の項、同162「山寺信光」の項、同163「柳沢信俊」の項、同166「折井次忠」の項、同201「中島盛直」の項

天正19年 1591年 7月27日 49歳
徳川家康が白河(陸奥国)に在陣中であること、大森(陸奥国)にて豊臣秀次を待つことを、蒲生氏郷浅野長政に伝える。
出典:(天正19年)7月27日付徳川家康書状(『浅野家文書』58号)

天正19年 1591年 8月18日 49歳
徳川家康岩出沢城(陸奥国)に入る。
徳川勢:井伊直政松平家清大久保忠世、中島盛直、三枝守英、山高信直(大久保忠世勢)、青木信時(大久保忠世勢)、山寺信昌(大久保忠世勢)、山寺信光(大久保忠世勢)、柳沢信俊(大久保忠世勢)。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第21「松平家清」の項、同160「山高信直」の項、同160「山高親重」の項、同161「青木信時」の項、同162「山寺信昌」の項、同162「山寺信光」の項、同163「柳沢信俊」の項、同201「中島盛直」の項、同1152「三枝守英」の項

天正19年 1591年 9月1日 49歳
豊臣秀次の命により、蒲生氏郷、秀次勢から堀尾吉晴徳川家康勢から井伊直政が九戸政実方の姉帯城、禰曽利城を攻め、落とす。
出典:(天正19年)9月14日付浅野長政書状写(『浅野家文書』61号)

天正19年 1591年 9月2日 49歳
豊臣秀次が九戸政実の籠る九戸城(陸奥国)を包囲し、堀際まで攻め寄せる。政実は秀次に降伏する。
出典:(天正19年)9月14日付浅野長政書状写(『浅野家文書』61号)

天正19年 1591年 -月-日 49歳
徳川家康松平康元に下総国内にて20000石を給付し、康元の所領は総じて40000石となる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項

天正19年 1591年 -月-日 49歳
徳川家康荒川重世に武蔵国都筑郡・橘樹郡内にて400石を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第84「荒川重世」の項

文禄1年 1592年 12月8日 50歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

文禄2年 1593年 1月7日 51歳
蠣崎慶広徳川家康に謁す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

文禄2年 1593年 10月5日 51歳
徳川家康が参内する。禁裏で行われた能で「千手」を舞う。
出典:『駒井日記』同年月日・7日条

文禄2年 1593年 10月6日 51歳
5日に禁裏で行われた能で「千手」を舞ったことにつき鳥目5貫が禁裏より下付される。
出典:『駒井日記』同年月8日条

文禄3年 1594年 4月15日 52歳
豊臣秀次聚楽第(山城国)において能を催す。織田信雄が「かんたん」「海士」を、徳川家康が「松風」を、前田利家が「杜若」を舞う。
出典:『駒井日記』同年月日条

文禄3年 1594年 12月27日 52歳
徳川家康の娘・池田輝政に嫁ぐ。
出典:『言経卿記』同年月日条

文禄3年 1594年 -月-日 52歳
徳川家康秀忠父子の命により保科正貞が兄・正光の猶子となる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第250「保科正貞」の項

文禄4年 1595年 3月28日 53歳
豊臣秀吉聚楽第(山城国)の徳川家康邸を訪れる。家康は秀吉に銀3000枚、小袖100、綿1000把、八丈島500端、褶300端、太刀(光長)、腰物(光忠)、脇差(行光)、馬1疋(黒毛鞍置)を進上する。徳川秀忠は秀吉に銀500枚、小袖50、越後布100端、太刀1腰、馬1疋を進上する。
出典:『当代記』巻3 同年月日条

文禄4年 1595年 6月10日 53歳
孫・忠直が生まれる。
出典:-

文禄4年 1595年 7月8日 53歳
豊臣秀吉が、謀叛の疑惑につき豊臣秀次高野山清巌寺に配流する。申刻(15-17時)、秀次が伏見城(山城国)を出立する。木下吉隆、羽田長門守、応其が秀次の供をする。秀次一行は玉水(山城国)に宿泊する。
夜、秀次の妻子が徳永寿昌邸に移され、前田玄以田中吉政が監視する。
出典:『太閤さま軍記のうち』、『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」、『当代記』巻3同年月日条

文禄4年 1595年 7月9日 53歳
豊臣秀次が玉水(山城国)を出立し、奈良(大和国)の中院の井上源五郎邸に宿泊する。秀次のもとに見舞いの使者が多く訪れたが、不要である旨の触れを出すよう駒井重勝、益田照従に命じる。
出典:『太閤記』巻17「前関白秀次公之事」

文禄4年 1595年 7月13日 53歳
豊臣秀次謀叛事件につき、連座した秀次家臣の処刑が行われる。秀次家臣の切腹に石田三成前田玄以増田長盛が検使として立ち会う。秀次謀叛事件に連座した服部一忠上杉景勝に、一柳直秀は徳川家康に、船越景直は遠流の刑に処される。
出典:『太閤さま軍記のうち』

文禄4年 1595年 7月15日 53歳
豊臣秀次高野山青巌寺にて切腹する。秀次家臣・木村重茲が秀次に連座し大門寺(摂津国)にて切腹する。
出典:『当代記』巻3 同年月日条

文禄4年 1595年 -月-日 53歳
森可澄徳川家康に仕える。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第127「森可澄」の項

文禄5年 1596年 4月6日 54歳
徳川家康教如のもとを訪れる。
出典:『言経卿記』同年月5日条

文禄5年 1596年 5月11日 54歳
内大臣となる。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条

慶長1年 1596年 10月27日 54歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 11月14日 54歳
服部正成が死去する。
出典:-

慶長2年 1597年 3月8日 55歳
前触れもなく豊臣秀吉徳川家康が花見として醍醐寺を訪れ、三宝院義演が仰天して迎える。馬場の桜、金剛輪院の桜を観た後、醍醐寺内に入り破損した塔婆を見た秀吉が、1500石を給付する旨を義演に伝える。ついで秀吉が菩提寺の糸桜を観た後、膳を用意し、秀吉・家康とともに詠歌を読む。その後、秀吉は上醍醐まで登り、帰路、馬場にて義演に石木を取ることを禁止する禁制を発給する旨を伝える。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長2年 1597年 3月17日 55歳
徳川家康教如のもとに茶湯に訪れる。
出典:『言経卿記』同年月日条

慶長2年 1597年 3月24日 55歳
午刻(11-13時)、西笑承兌徳川家康のもとに赴く。一欧軒に会う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 3月25日 55歳
伏見城(山城国)の御座敷にて徳川家康前田利家金森長近富田一白西笑承兌、御伽衆12、13人が参加する茶湯が行われる。家康が承兌に海雲1桶を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月3日 55歳
西笑承兌徳川家康のもとに赴く。昼食の振舞がある。承兌は織田有楽斎に会う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月7日 55歳
徳川家康西笑承兌が御牧景則の邸に赴く。斎をともにする。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月10日 55歳
西笑承兌徳川家康のもとに赴き、舞を聴き、昼食をとった後、対談し帰る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月20日 55歳
西笑承兌伏見城(山城国)に赴く。徳川家康前田利家に会う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月22日 55歳
西笑承兌徳川家康のもとに赴く。織田有楽斎、戸田勝成、津田信成に会い夕食をともにする。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 4月27日 55歳
豊臣秀吉が参内する。銀50枚、白鳥3、杉原10束、太刀を朝廷に進上する。徳川家康前田利家が供奉する。
出典:『義演准后日記』・『左大史孝亮記』同年月日条

慶長2年 1597年 5月22日 55歳
西笑承兌が伏見の徳川家康邸を訪れる。家康は有馬豊氏の饗応を受けることになっていたので承兌とともに赴く。家康は承兌に27日に相国寺へ赴くことを約す。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 5月26日 55歳
27日の徳川家康相国寺訪問が延期になる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 5月28日 55歳
徳川家康浅野長政有馬豊氏山名禅高相国寺を訪れる。家康より米10石が、長政より生絹帷2、晒帷3が、有馬豊氏より生絹帷1、晒1が、山名禅高より双樽、海苔が贈られる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 7月24日 55歳
ルソン国より使者が到来し、豊臣秀吉に黒象1双、銀盤・銀椀等16種を贈る。伏見城(山城国)内にてルソン国の使者をもてなすため能3番を催す。徳川家康上杉景勝前田利長が相伴する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月1日 55歳
西笑承兌伏見城(山城国)に出仕する。承兌のもとに徳川家康前田利家織田常真が訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月5日 55歳
バタン国への返書の草案を西笑承兌が作成し、豊臣秀吉に見せる。徳川家康が訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月9日 55歳
豊臣秀吉が、西笑承兌作成したバタン国への返書を確認のうえ、承兌に金印を捺させ長束正家に渡す。
朝鮮より注進がある。唐島に駐屯し豊臣軍の軍船を止めていた朝鮮軍に対し、小西行長藤堂高虎脇坂安治加藤嘉明島津忠恒島津義弘が唐島に夜襲をしかけ、数千人を討ち取るとともに船を焼く。この注進を受け、秀吉は朝鮮に出陣するとの意向を示す。徳川家康上杉景勝前田利家を呼び出す。利家は病のため召しに応じることができず。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 8月10日 55歳
西笑承兌徳川家康のもとを訪れる。『群書治要』第8巻を借用する。家康の前で同書を読む。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月17日 55歳
西笑承兌細川幽斎が訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 9月24日 55歳
早朝、大谷吉継邸に豊臣秀吉、象使、徳川家康富田一白織田有楽斎西笑承兌が訪れる。吉継は病のため、吉継の子・吉治が出迎える。吉継は数寄屋にて茶を振る舞う。ついで広間にて太刀、金鞍皆具、腰物、火緞子小袖20、銀子100枚、綿子100把を吉継が秀吉に進上する。午刻(11-13時)、御膳。本印坊と利元、秀吉と宗具の碁が行われる。晩におよび小漬の後、皆帰る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月1日 55歳
金森長近浅野長政織田有楽斎山名禅高徳川家康のもとを訪れる。晩、西笑承兌が訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月5日 55歳
浅野長政西笑承兌徳川家康のもとを訪れる。承兌と長政は碁を指し、飯をともにする。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月6日 55歳
京の御殿にて西笑承兌と会う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月8日 55歳
西笑承兌、有節瑞保が徳川家康のもとを訪れる。瑞保が家康に『論語』1部を贈る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月11日 55歳
徳川家康が上洛する。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月13日 55歳
午後、西笑承兌徳川家康のもとを訪れるが、家康は咳がひどく会えず。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月21日 55歳
午刻(11-13時)、西笑承兌が訪れる。承兌とともに有馬豊氏の口切の茶会に赴く。山名禅高も参加する。茶会は本膳1汁2菜、引物。茶は上極で薄茶。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 10月28日 55歳
伏見城(山城国)城中にて西笑承兌に会う。晩、京極高次、承兌が家康邸を訪れる。飯あり。そのついで上極の茶両種を喫す。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月12日 55歳
西笑承兌徳川家康のもとを訪れる。承兌が家康に『太平御覧』欠本25冊分を書写して贈る。承兌に夕飯を出す。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月13日 55歳
徳川家康京極高次のもとを訪れる。足利義昭が所持していた肩衝を、高次が豊臣秀吉より拝領されたのをうけ見物に赴く。茶会の後書院にて饂飩、飯あり。
豊臣秀吉より文梨小壺を賜う。また秀吉より台子茶の湯の認可を受ける。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 11月16日 55歳
午刻(11-13時)、西笑承兌徳川家康のもとを訪れる。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長2年 1597年 12月26日 55歳
徳川家康西笑承兌に立紋鉄色の服を贈る。大久保忠隣より使者があり会う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長3年 1598年 2月9日 56歳
徳川家康の娘・振が蒲生秀行に入嫁する。松平忠次が供奉する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第32「松平忠次」の項

慶長3年 1598年 3月20日 56歳
徳川家康三宝院義演に醍醐寺三宝院に咲く牡丹を所望する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長3年 1598年 4月4日 56歳
早朝、小早川秀秋大坂城(摂津国)を出立し、伏見城(山城国)に到着する。太田一吉、熊谷直盛、早川長政、垣見一直、福原長堯、毛利高政竹中重利が秀秋に供奉する。豊臣秀吉をはじめ徳川家康福島正則前田利家前田利長、青木一矩、京極高次伊達政宗上杉景勝最上義光細川忠興結城秀康が秀秋を迎える。
出典:『朝鮮記 乾』

慶長3年 1598年 8月18日 56歳
豊臣秀吉が死去する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長3年 1598年 8月19日 56歳
徳川秀忠江戸城(武蔵国)に赴くべく、伏見城(山城国)を出立する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻8「長政記」

慶長3年 1598年 12月10日 56歳
徳川家康教如のもとを訪れる。
出典:『言経卿記』同年月日条

慶長3年 1598年 12月18日 56歳
徳川家康前田玄以増田長盛を連れ新八幡(豊国神社)を訪れる。
出典:『北野社家日記』同年月日条

慶長3年 1598年 12月24日 56歳
徳川家康が「大仏之社」のことについて梵舜に尋ねる。
出典:『舜旧記』同年月日条

慶長3年 1598年 -月-日 56歳
榊原康勝徳川家康秀忠父子に初めて拝謁する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

慶長4年 1599年 1月3日 57歳
徳川家康が伏見(山城国)の島津義弘邸を訪れ、慶長の役で活躍した義弘・忠恒父子を労う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義弘」・「島津家久(忠恒)」の項

慶長4年 1599年 1月10日 57歳
豊臣秀頼伏見城(山城国)から大坂城(摂津国)に移る。徳川家康前田利家等が供奉する。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」

慶長4年 1599年 1月12日 57歳
徳川家康大坂城(摂津国)より伏見(山城国)の邸宅に戻る。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」

慶長4年 1599年 2月29日 57歳
前田利家が大坂(摂津国)より伏見(山城国)に赴き、徳川家康と対面する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 3月11日 57歳
徳川家康が伏見(山城国)より大坂(摂津国)で病に伏せる前田利家を見舞う。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 3月19日 57歳
徳川家康が伏見の向島(山城国)に仮居する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 3月26日 57歳
徳川家康が伏見の向島(山城国)に移る。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 閏3月3日 57歳
前田利家が死去する。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年3月2日条

慶長4年 1599年 閏3月7日 57歳
石田三成佐和山城(近江国)に隠居させられる。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 閏3月9日 57歳
徳川家康が、福島正則蜂須賀家政浅野長政石田三成佐和山城(近江国)に蟄居処分としたことを伝える。
出典:同年月日付徳川家康書状(『浅野家文書』110号)

慶長4年 1599年 閏3月10日 57歳
石田三成佐和山城(近江国)に隠居させられる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長4年 1599年 閏3月13日 57歳
午刻(11-13時)、徳川家康伏見城(山城国)に移る。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 8月14日 57歳
徳川家康が参内する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 9月7日 57歳
徳川家康大坂城(摂津国)の西ノ丸に入る。
出典:『慶長年中卜斎記』上之巻、『当代記』巻3同年月日条

慶長4年 1599年 9月11日 57歳
徳川家康伏見城(山城国)より大坂城(摂津国)西ノ丸に移る。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」

慶長4年 1599年 10月1日 57歳
徳川家康宇喜多秀家毛利輝元の連署でもって堀尾吉晴に府中(越前国)50000石が宛行われる。
出典:同年月日付徳川家康・宇喜多秀家・毛利輝元連署判物(「古文書集」)

慶長4年 1599年 月日 57歳
秋、伏見城(山城国)に在勤していた佐竹義宣上杉景勝毛利輝元前田利長が領国に帰国する。
出典:『当代記』巻3

慶長4年 1599年 11月7日 57歳
蠣崎慶広大坂城(摂津国)西ノ丸にて徳川家康に蠣崎家の系譜及び松前(蝦夷国)の地図を見せる。慶広は姓を松前に改める。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

慶長5年 1600年 2月10日 58歳
子・千若が死去する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長5年 1600年 2月25日 58歳
徳川家康が鷹狩に出る。
出典:『鹿苑日録』同年月日条

慶長5年 1600年 2月29日 58歳
島津龍伯島津忠恒が、徳川家康の家臣・山口直友に、伊集院忠真の島津家に対する謀叛は「遺恨深長」であるが、忠真の島津家への復帰を認める起請文を提出する。
出典:慶長5年2月29日付島津龍伯・忠恒連署起請文(『島津家文書』3-1466号)

慶長5年 1600年 3月-日 58歳
徳川家康上杉景勝が不和となる。
出典:『当代記』巻3同年月条

慶長5年 1600年 4月8日 58歳
毛利輝元宇喜多秀家徳川家康の連署をもって芦浦観音寺朝賢宛に観音寺知行分の芦浦村内420石が安堵される。
出典:慶長5年4月8日付徳川家康・宇喜多秀家・毛利輝元連署安堵状写(「芦浦観音寺文書」)

慶長5年 1600年 4月17日 58歳
徳川家康大坂城(摂津国)から伏見城(山城国)に入る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 4月19日 58歳
徳川家康が参内する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 4月22日 58歳
徳川家康大坂城(摂津国)に向けて出発する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 4月24日 58歳
徳川家康大坂城(摂津国)に下向する。
出典:『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史研究』)

慶長5年 1600年 6月6日 58歳
保科正直の娘・栄が徳川家康の養女として黒田長政に嫁ぐ。栄の輿は大坂城(摂津国)西ノ丸より出発し、本多忠勝村越直吉が付き従い、輿の受け取りは母里友信が担う。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」

慶長5年 1600年 6月16日 58歳
徳川家康大坂城(摂津国)を発し、伏見城(山城国)に到着する。織田有楽斎・長孝父子、山名禅高金森長近可重父子、山岡景友、池田輝政池田長吉福島正則高晴兄弟、浅野幸長黒田長政細川忠興藤堂高虎、有馬則頼・豊氏父子、筒井定次、徳永寿昌・昌重父子、生駒一正、田中吉政蜂須賀至鎮小出吉政、中村一栄、山内一豊堀尾吉晴・忠氏父子、一柳直盛、津田信成、津田小平次、富田信高、古田重勝、稲葉道通、古田重然、市橋長勝、九鬼守隆、桑山相模守、亀井茲矩、寺沢広高石川康長、天野雄光、奥平貞治、河村助左衛門、山城秀宗、佐藤信元、赤井五郎八、岡田助右衛門、丹羽氏次遠藤慶隆、西尾光教、中川忠勝、三好為三、大島光義、長谷川重成、兼松正吉三好房一船越景直、平野長重、池田光重、佐々顕政、平田若狭守、落合顕公、森可政、清水小八郎、松波秋徳、佐久間安政、佐久間勝之、祖父江法斎、鈴木重慶、溝口政一、堀田重国、戸川達安宇喜多詮家、野間秋弘、伊丹忠親、別所孫四郎、本田周防守、松倉重政、村越兵庫頭、神保相茂、秋山右近、野尻彦次郎、仙石式部少輔、分部光嘉、極楽院、水野河内守、佐々喜三郎、山岡修理亮、岡田少五郎、箸尾半左衛門が家康に従う。総勢55800。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 6月17日 58歳
教如伏見城(山城国)にいる徳川家康を見舞う。
家康が伏見城(山城国)の留守居として、鳥居元忠松平家忠内藤家長松平近正を置く。
出典:『御堂日記』(『真宗本廟(東本願寺)造営史』)、『寛政重修諸家譜』巻第29「松平家忠」の項

慶長5年 1600年 6月18日 58歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に向けて伏見城(山城国)を発す。巳刻(9-11時)には醍醐を通過する。大津城(近江国)にて京極高次の饗応を受け、夜、石部(近江国)に到着し宿泊する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻9「長政記」

慶長5年 1600年 -月-日 58歳
徳川家康が関地蔵に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 6月20日 58歳
徳川家康が四日市(伊勢国)より船に乗り佐久島(三河国)に到着する。同島にて田中吉政が家康を饗応する。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 -月-日 58歳
徳川家康吉田城(三河国)にて池田輝政の饗応を受ける。夜、白須賀に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 6月23日 58歳
徳川家康浜松城(遠江国)にて堀尾忠氏の饗応を受ける。夜、中泉(遠江国)に宿泊する。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 6月24日 58歳
徳川家康が中山にて昼食のもてなしを山内一豊より受ける。夜、島田に宿泊する。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 6月25日 58歳
徳川家康駿府城(駿河国)二ノ丸にて城主・中村一氏の名代・横田内膳の饗応を受ける。その後、輿に乗って訪れた一氏と対面し、一氏を労わる。夜、清見寺(駿河国)に宿泊する。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 6月29日 58歳
徳川家康が鎌倉(相模国)に到着する。
出典:『黒田家譜』巻9「長政記」

慶長5年 1600年 -月-日 58歳
徳川家康榊原康政に南蛮渡来の漢南の甲冑を下付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

慶長5年 1600年 7月1日 58歳
石田三成が蟄居中の佐和山城(近江国)を出て大坂城(摂津国)に入る。徳川家康に対し所業の悪さを詰問する13ヶ条からなる詰問状を石田三成前田玄以増田長盛長束正家の連署で発給する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月2日 58歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『黒田家譜』巻9「長政記」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月13日 58歳
徳川家康榊原康政上杉景勝攻めの先陣を命じ、江戸城(武蔵国)を発たせる。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月17日 58歳
毛利輝元大坂城(摂津国)西の丸に入る。徳川家康に対し所業の悪さを詰問する13ヶ条からなる詰問状を石田三成前田玄以増田長盛長束正家が連署で発給する。
増田長盛が伏見城(山城国)の留守居であった鳥居元忠に退城を促すが断られる。
出典:『義演准后日記』同年月18日条

慶長5年 1600年 7月19日 58歳
伏見城(山城国)に留守居として残した鳥居元忠が伏見の増田長盛邸、前田玄以邸を焼き払う。
子・秀忠上杉景勝攻めのため江戸城(武蔵国)を出陣し、宇都宮(下野国)に着陣する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『左大史孝亮記』同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻10「長政記」

慶長5年 1600年 7月20日 58歳
石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 7月20日 58歳
小山(下野国)にて徳川家康上杉景勝征伐につき、宇都宮(下野国)に参集した大名衆と、畿内で石田三成等が家康に敵対ことについて議す。会議では家康が出馬し清須(尾張国)にて集まり、宮(尾張国)より桑名(伊勢国)に渡り、伊賀国、大和国を経由して大坂(摂津国)に軍勢を繰り出し、景勝の備えとして徳川秀忠を置くことに決す。
出典:『細川忠興軍功記』

慶長5年 1600年 7月21日 58歳
徳川家康上杉景勝攻めにつき江戸城(武蔵国)を発つ。鳩谷に宿泊する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月22日 58歳
徳川家康が岩槻(武蔵国)に宿泊する。(『関』)
石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。(『左』)
出典:『関原始末記』、『左大史孝亮記』同年月日条

慶長5年 1600年 7月23日 58歳
徳川家康が古河(下総国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月24日 58歳
徳川家康が小山(下野国)に到着する。
石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月27日 58歳
石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。なかなか落城しないため、「大鉄砲」を用いる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 7月29日 58歳
石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。島津義弘が城を極楽橋より攻めるも、留守居の鳥居元忠に退けられる。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 7月30日 58歳
石田三成等が徳川家康家臣・鳥居元忠が籠る伏見城(山城国)を攻撃する。寅刻(3-5時)、松丸を落とす。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長5年 1600年 7月-日 58歳
小山(下野国)にて、堀尾忠氏が徳川家康に異心が無いこと示すため、家康近習のいずれかと忠氏の妹の婚姻を結ぶことを家康に請う。家康は忠氏の要請を受け、大久保忠総と忠氏の妹の婚姻を約す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第118「石川忠総」の項

慶長5年 1600年 8月1日 58歳
伏見城(山城国)が石田三成等の攻撃を受け落城する。鳥居元忠松平近正松平家忠内藤家長、岩間兵庫、上林竹庵が討死する。
徳川家康による石田三成討伐に賛同した浅野幸長池田輝政加藤嘉明黒田長政福島正則細川忠興清須城(尾張国)に向けて江戸城(武蔵国)を発す。井伊直政本多忠勝が目付として同じく江戸城を発つ。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史研究』)、『関原始末記』

慶長5年 1600年 8月3日 58歳
徳川家康に味方した前田利長が、三成方の山口宗永が籠る大聖寺城(加賀国)を攻め、城を落とす。
出典:『小松軍記』「利長攻大聖寺並長重後巻事」、『関原始末記』

慶長5年 1600年 8月8日 58歳
毛利輝元石田三成に与同したことについて、それが安国寺恵瓊一人の画策によるものであるとする吉川広家からの弁明を受けた徳川家康が、広家の説明を承知したことを仲介者である黒田長政に伝える。
出典:(慶長5年)8月8日付徳川家康書状(東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号145)

慶長5年 1600年 8月23日 58歳
福島正則池田輝政細川忠興加藤嘉明浅野幸長山内一豊井伊直政本多忠勝等が織田秀信の籠る岐阜城(美濃国)を攻め、同城を落とす。
攻衆:井伊直政[惣奉行][瑞龍寺出丸]、本多忠勝[総奉行][瑞龍寺出丸]、福島正則[大手町口]、加藤嘉明[大手町口]、細川忠興[浄土口]、山内一豊[浄土口]、浅野幸長[瑞龍寺出丸]、池田輝政[長良川の城搦手](一番乗)、細川忠隆[細川忠興勢]、細川興秋[細川忠興勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]。
織田秀信勢:織田秀信[大将]。
出典:『関原始末記』、(慶長5年)8月24日付福島正則書状(『浅野家文書』114号)、『寛政重修諸家譜』巻第105「細川忠隆」、同105「細川興秋」の項、同263「池田利隆」の項、同267「池田長吉」の項、同773「加藤嘉明」の項

慶長5年 1600年 8月24日 58歳
徳川家康浅野長政に、子・秀忠の軍勢を信濃口に遣わしたので出陣を依頼する。
出典:同年月日付徳川家康書状

慶長5年 1600年 -月-日 58歳
徳川家康の命により保科正光が堀尾忠氏に代り浜松城(遠江国)を守備する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第250「保科正光」の項

慶長5年 1600年 9月1日 58歳
徳川家康が東海道より上方に向け江戸城(武蔵国)を発つ。徳川秀忠が東山道より上方に向け江戸城を発つ。
秀忠勢:榊原康政大久保忠隣本多正信酒井忠世酒井忠利酒井忠勝酒井家次本多忠政松平忠利、石川康長、牧野貞成、神尾守世青木信安真田信幸仙石秀久、日根野吉重、森忠政折井次忠(大久保忠隣勢)、柳沢信俊(大久保忠隣勢)、山高親重(大久保忠隣勢)、山寺信光。
江戸城の留守居として松平康元を置く。
出典:『関原始末記』、『上田軍記』下「秀忠公上田城エ御発向之事」、『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項、同166「折井次忠」の項

慶長5年 1600年 9月2日 58歳
徳川家康が藤沢(相模国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月3日 58歳
徳川家康小田原城(相模国)に宿泊する。
京極高次石田三成方より家康方に寝返り大津城(近江国)に籠城する。
出典:(慶長5年)9月7日付徳川家康書状(東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号73)、『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月4日 58歳
徳川家康が三島(伊豆国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月5日 58歳
徳川家康が清見寺(駿河国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月6日 58歳
徳川家康が島田(遠江国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月7日 58歳
徳川家康が中泉(遠江国)に宿泊する。
出典:(慶長5年)9月7日付徳川家康書状(東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号73)、『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月8日 58歳
徳川家康が白須賀(遠江国)に宿泊する。加賀国、能登国、越中国の視察に赴いていた三枝守英が家康のもとに戻り、前田利長が家康方として二心が無い旨を報告する。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第1152「三枝守英」の項

慶長5年 1600年 9月9日 58歳
徳川家康岡崎城(三河国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月10日 58歳
徳川家康が熱田(尾張国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月11日 58歳
徳川家康清須城(尾張国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月12日 58歳
徳川家康清須城(尾張国)に逗留する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月13日 58歳
徳川家康清須城(尾張国)より岐阜城(美濃国)に移る。
出典:『関原始末記』、『細川忠興軍功記』

慶長5年 1600年 9月14日 58歳
徳川家康が赤坂(美濃国)に着陣する。岡山を本陣と定める。
京極高次の大津城(近江国)が落ちる。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月15日 58歳
関ヶ原の合戦で徳川家康石田三成が戦い、家康が勝利する。
家康が岡山に、三成が笹尾山に本陣を置く。黒田長政加藤嘉明細川忠興金森長近石田三成と、福島正則松平忠吉井伊直政宇喜多秀家小西行長と、藤堂高虎大谷吉継と戦い、池田輝政浅野幸長が南宮山の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親と対峙する。戦中、小早川秀秋が寝返り、大谷吉継勢を襲撃し、石田勢が総崩れとなる。三成は伊吹山方面に逃走する。島津義弘島津豊久は伊勢路からの撤退を企て、井伊直政の追撃を受けるも豊久が殿をつとめ、直政を鉄砲にて逆襲し負傷させ、戦場を離脱する。
徳川家康勢:徳川家康[総大将]、井伊直政、本多忠勝、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、金森長近、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、池田輝政、浅野幸長、酒井重忠[徳川家康勢]、松平定友[徳川家康勢]、松平康安[徳川家康勢]、小栗忠政[徳川家康勢]、花房職秀[徳川家康勢]、油川信貞[徳川家康勢]、三枝守英[徳川家康勢]、岩瀬氏与[徳川家康勢・使番]、鈴木重次[徳川家康勢]、森可澄[徳川家康勢]、黒田一成[黒田長政勢]、菅正利[黒田長政勢]、菅正辰[黒田長政勢]、藤堂高刑[藤堂高虎勢]、池田利隆[池田輝政勢]、池田長吉[池田輝政勢]、伊木忠次[池田輝政勢]、森可政[有馬則頼勢]。
石田三成勢:石田三成[総大将]、島津義弘、島津豊久(戦死)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継(戦死)、平塚為広(戦死)、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、川尻秀長(戦死)、島清興[石田三成勢](戦死)、大谷吉治[大谷吉継勢]、湯浅隆貞[大谷吉継勢](戦死)、福留政親[長宗我部盛親勢]。
出典:『関原始末記』、『寛政重修諸家譜』巻第26「松平康安」の項、同45「小栗忠政」の項、同54「松平定友」の項、同59「酒井重忠」の項、同89「花房職之」の項、同127「森可澄」の項、同147「油川信貞」の項、同963「岩瀬氏与」の項、同1154「鈴木重次」の項、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『菅氏世譜

慶長5年 1600年 9月16日 58歳
徳川家康が石田正継・正澄父子が留守居として籠城していた石田三成の居城・佐和山城(近江国)を攻める。池田輝政福島正則が城を攻囲する中、小早川秀秋が先陣をつとめ二ノ丸を落とす。井伊直政は水の手より攻める。夜、正継は降伏を願い出る。家康は石田一族の自害と引き換えに城兵の命を助けるとし、正継は承諾する。
徳川勢:徳川家康[大将]、小早川秀秋[先陣]、池田輝政、福島正則、脇坂安治。
石田勢:石田正継[大将]、石田正澄。
出典:『関原始末記』、『細川忠興軍功記』、『当代記』巻3同年月日条、『脇坂家伝記

慶長5年 1600年 9月17日 58歳
石田正継・正澄佐和山城(近江国)に火を放ち自害する。
徳川家康は午刻(11-13時)、永原(近江国)に着陣する。
家康は田中吉政に北近江へ赴き石田三成の捜索を命じる。
近藤登之助、伊奈図書、加藤源太郎に、日岡(山城国)に番所を拵え、家康方の軍勢が狼藉することがないよう監視を命じる。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月18日 58歳
徳川家康が八幡山(近江国)に陣取る。
出典:『関原始末記』、『細川忠興軍功記』、『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 9月19日 58歳
草津(近江国)に陣取る。関ヶ原の町人 林蔵人が捕らえた小西行長が家康のもとに引き渡される。行長を村越茂助に預ける。
家康の命を受け福島正則池田輝政浅野幸長が禁裏を警固する。また、洛中・洛外に三名連署の制札が各地に打たれる。洛中守護のため、奥平信昌板倉勝重、加藤喜左衛門、大久保長安を遣わす。
大垣城(美濃国)に籠城中の西軍の内、相良頼房、高橋元種秋月種長井伊直政を通じ家康に内通し、垣見一直、熊谷直盛、木村宗左衛門、木村伝蔵を討ち、大垣城が開城する。
出典:(慶長5年)9月19日付徳川家康朱印状(東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号252)、『関原始末記』、『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 9月20日 58歳
徳川家康が草津(近江国)を発し、大津城(近江国)に入る。大津城に入った家康のもとに教如が見舞いに訪れる。
子・秀忠が草津に到着する。夜、秀忠は大津城の家康のもとを訪れるが、すぐに草津に戻る。
出典:『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史研究』)、『関原始末記』、『当代記』巻3同年月日条

慶長5年 1600年 9月21日 58歳
毛利輝元増田長盛黒田長政井伊直政を介し徳川家康との和睦を請う。家康は和睦の申し出を受け入れる。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月-日 58歳
田中吉政の家臣が石田三成を捕縛する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月23日 58歳
大坂城(摂津国)西ノ丸に居た毛利輝元が木津(和泉国)に退く。西ノ丸を井伊直政本多忠勝福島正則池田輝政浅野幸長藤堂高虎が請け取る。
田中吉政警固のもと石田三成の身柄が大津(近江国)に居る徳川家康のもとへ引き渡される。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月25日 58歳
徳川家康が大津(近江国)にて、子・秀忠と対面する。伏見城(山城国)に入る。
増田長盛の死罪を免じ、所領を没収する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月27日 58歳
徳川家康が大津(近江国)を出て淀(山城国)に宿泊する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月28日 58歳
徳川家康が淀(山城国)を発し、申刻(15-17時)、大坂城(摂津国)西ノ丸に入る。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条、『関原始末記』

慶長5年 1600年 9月29日 58歳
摂関家、公家衆が大坂城(摂津国)にいる徳川家康秀忠父子のもとへ礼に訪れる。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 10月1日 58歳
石田三成小西行長安国寺恵瓊大坂城(摂津国)より京都に送られ、洛中にて引き回しのうえ、六条河原にて処刑される。3名の首は三条橋にて晒される。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条、『関原始末記』、『黒田家譜』巻11「長政記」

慶長5年 1600年 10月2日 58歳
石田三成小西行長安国寺恵瓊の首を三条橋にさらす。
出典:『左大史孝亮記』同年月日条

慶長5年 1600年 10月5日 58歳
徳川家康毛利輝元の領国について周防国・長門国以外の所領を没収する。
出典:『関原始末記』

慶長5年 1600年 10月-日 58歳
徳川家康池田輝政吉田城(三河国)より姫路城(播磨国)に移す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

慶長5年 1600年 11月2日 58歳
徳川家康細川忠興に丹後国の替地として豊前国、豊後国国東郡・速見郡内の旧領・杵築の390000石を給付する。忠興は中津城(豊前国)を居城とする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川忠興」の項

慶長5年 1600年 11月28日 58歳
子・義直大坂城(摂津国)西ノ丸にて生まれる。
出典:-

慶長5年 1600年 -月-日 58歳
徳川家康大久保忠総に石川を称すように命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第118「石川忠総」の項

慶長6年 1601年 1月-日 59歳
徳川家康池田輝政に飛騨肩衝茶入を賜う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

慶長6年 1601年 2月2日 59歳
徳川家康延暦寺に寺領3000石を寄進する。
出典:『東塔五谷堂舎並各坊世譜』「根本中堂」の項(『天台宗全書』)

慶長6年 1601年 2月-日 59歳
徳川家康井伊直政に佐和山(近江国)を給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 2月-日 59歳
徳川家康本多忠勝に桑名(伊勢国)を給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 2月-日 59歳
徳川家康松平忠吉に清須(尾張国)を給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 2月-日 59歳
徳川家康奥平信昌に加納(美濃国)を給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 2月-日 59歳
徳川家康石川家成に大垣(美濃国)を給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 2月-日 59歳
徳川家康が本多康重に岡崎(三河国)を給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 2月-日 59歳
徳川家康が内藤信成に駿府(駿河国)を給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 2月-日 59歳
徳川家康が天野康景に興国寺(駿河国)を給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 2月-日 59歳
徳川家康大久保忠佐に沼津(駿河国)を給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 2月-日 59歳
徳川家康本多康俊に吉良(三河国)を給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 2月-日 59歳
徳川家康が戸田一西に膳所(近江国)を給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 2月-日 59歳
徳川家康小笠原秀政に20000石を加増し、信濃国飯田50000石を給付する。秀政は信濃守となる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第188「清和源氏 義光流 小笠原」「小笠原秀政」の項

慶長6年 1601年 3月15日 59歳
徳川家康伏見城(山城国)に入る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長6年 1601年 3月23日 59歳
徳川家康徳川家康が大坂城(摂津国)より伏見城(山城国)に移る。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 4月15日 59歳
佐竹義重が上洛し、伏見城(山城国)にて徳川家康に謁す。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第129「佐竹義重」の項

慶長6年 1601年 6月1日 59歳
徳川家康が戸田一西に膳所(近江国)を給付する。
出典:『関原始末記』

慶長6年 1601年 7月24日 59歳
上杉景勝が上洛し、徳川家康に詫びをいれ所領を返上する。家康は景勝に米沢(出羽国)・陸奥国信夫郡を給付する。会津(陸奥国)は蒲生秀行に給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『関原始末記』

慶長6年 1601年 8月16日 59歳
徳川家康伏見城(山城国)より上京の屋敷に入る。
出典:『御堂日記』同年月日条(『真宗本廟(東本願寺)造営史研究』)

慶長6年 1601年 8月17日 59歳
教如伏見城(山城国)にいる徳川家康のもとを訪れ、16日の礼物のお礼を述べる。
出典:『御堂日記』(『真宗本廟(東本願寺)造営史』)

慶長6年 1601年 8月-日 59歳
徳川家康上杉景勝会津若松城(陸奥国)120万石を改易し、米沢城(出羽国)30万石に減封する。
出典:『関原始末記』

慶長6年 1601年 9月-日 59歳
徳川家康が近習衆12・13名に近江国内で知行を給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 9月-日 59歳
前田利光と徳川秀忠の息女の婚儀が行われる。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 10月12日 59歳
徳川家康が江戸(武蔵国)に下向すべく京都(山城国)を発す。永原(近江国)に宿泊する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 10月13日 59歳
徳川家康が永原(近江国)を発ち、佐和山(近江国)に宿泊する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 10月14日 59歳
徳川家康が佐和山(近江国)を発ち、大垣(美濃国)に宿泊する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 10月15日 59歳
徳川家康が大垣(美濃国)を発ち、岐阜(美濃国)に宿泊する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 10月16日 59歳
朝、徳川家康加納城(美濃国)の城地を検分する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 11月5日 59歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に帰城する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 閏11月2日 59歳
江戸(武蔵国)にて火災が起こる。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 閏11月9日 59歳
徳川家康が忍(武蔵国)・川越(武蔵国)にて鷹狩をすべく江戸城(武蔵国)を発つ。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 閏11月28日 59歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に帰城する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 12月4日 59歳
徳川家康が岩槻(武蔵国)にて鷹狩をする。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長6年 1601年 12月28日 59歳
徳川家康奥平家昌に100000石を給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 1月19日 60歳
徳川家康が上洛すべく江戸城(武蔵国)を発つ。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 2月1日 60歳
井伊直政が死去する。
出典:-

慶長7年 1602年 2月14日 60歳
徳川家康伏見城(山城国)に到着する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 2月19日 60歳
摂関家の九条兼孝一条内基二条昭実鷹司信房、門跡の妙法院常胤、三宝院義演、梶井宮承快、青蓮院尊純、随心院増考、伏見宮邦房の名代・庭田重定、覚深の名代・亮淳とともに徳川家康に礼に訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長7年 1602年 3月5日 60歳
伏見城(山城国)の徳川家康邸に舟橋秀賢が訪れ対面する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長7年 1602年 3月7日 60歳
子・頼宣が山城国伏見城にて生まれる。
出典:-

慶長7年 1602年 3月13日 60歳
徳川家康大坂城(摂津国)に赴き、豊臣秀頼に対面する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 3月15日 60歳
徳川家康伏見城(山城国)に戻る。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 4月11日 60歳
徳川家康が島津家の所領である薩摩国・大隅国・日向国諸県郡を安堵する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

慶長7年 1602年 4月28日 60歳
徳川家康が上洛する。
出典:『義演准后日記』同年5月1日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 5月1日 60歳
徳川家康が参内する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 5月2日 60歳
徳川家康が女院において猿楽を催す。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 5月4日 60歳
徳川家康が女院において猿楽を見物する。
家康は伏見城(山城国)に帰る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 5月7日 60歳
巳刻(9-11時)、前田玄以が死去する。
出典:『義演准后日記』同年月8日条

慶長7年 1602年 5月8日 60歳
徳川家康佐竹義宣榊原康政花房職之を上使として遣わし、義宣の常陸国・下野国・陸奥国の全所領を没収し出羽国にて所領を宛行う旨を伝える。
出典:『当代記』巻3同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第129「佐竹義宣」の項

慶長7年 1602年 5月12日 60歳
佐竹家の国替えについて、常陸国に在国中の佐竹義重のもとへ徳川家康が使者を遣わす。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 5月14日 60歳
佐竹義宣水戸城(常陸国)を徳川家康に明け渡す。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 5月21日 60歳
徳川家康佐竹義宣の知行をすべて没収するとの噂が流れる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 6月1日 60歳
伏見城(山城国)の普請が始まる。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 7月23日 60歳
徳川家康の母・於大の方の病気回復のための祈祷を命じる綸旨が発給される。
出典:『義演准后日記』同年月26日条

慶長7年 1602年 7月27日 60歳
徳川家康佐竹義宣に出羽国秋田郡・仙北郡を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

慶長7年 1602年 9月6日 60歳
徳川家康の母・於大の方の中陰が知恩院にて行われる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 9月20日 60歳
片桐且元が石山寺供養のことについて23日でよいか徳川家康に確認し許可を得る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 9月-日 60歳
徳川家康松平忠明に作手(三河国)を給付する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 10月2日 60歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に戻るべく伏見城(山城国)を発す。醍醐を通過した際、三宝院義演より菓子折1合を贈られ、輿より降りて礼をする。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 10月4日 60歳
徳川家康が四日市(伊勢国)より船に乗り、熱田(尾張国)に到着する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 11月26日 60歳
徳川家康が上洛するため江戸城(武蔵国)を発つ。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 12月4日 60歳
辰刻(7-9時)、方廣寺(山城国)の大仏殿内にて本尊の鋳造が行われるが、鋳造中の本尊より出火し、後光に引火して、大仏殿堂内にも火が回り、午刻(11-13時)、大仏殿が灰燼に帰す。この火災で照高院、鳥辺野の芝が焼ける。妙法院(山城国)、豊国神社(山城国)は災を免れる。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長7年 1602年 12月21日 60歳
徳川家康が熱田(尾張国)に到着する。
出典:『当代記』巻3同年月日条

慶長7年 1602年 12月28日 60歳
島津忠恒伏見城(山城国)に赴き、徳川家康に礼をする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義弘」・「島津家久(忠恒)」の項

慶長7年 1602年 冬月-日 60歳
松平康元が母・於大の方の死去につき関宿(下総国)に建立した弘経寺を、徳川家康が光岳寺と寺号を改める。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第52「松平康元」の項

慶長8年 1603年 1月10日 61歳
伏見城(山城国)の徳川家康邸に舟橋秀賢が年始の礼に訪れ対面する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 1月16日 61歳
伏見城(山城国)の徳川家康邸に多くの人が礼に訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 1月17日 61歳
伏見城(山城国)の徳川家康邸に諸門跡、諸寺院が礼に訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 1月21日 61歳
伏見城(山城国)の徳川家康邸に勅使として広橋兼勝が訪れる。兼勝が内々に家康に征夷大将軍への就任を打診する。家康は了承する。兼勝に小袖1重、黄金3枚を贈る。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 1月23日 61歳
伏見城(山城国)の徳川家康邸に舟橋秀賢が訪れ、申刻(15-17時)に対面し、碁を打つ。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 2月1日 61歳
伏見城(山城国)の徳川家康邸に舟橋秀賢が訪れ、未刻(13-15時)に対面する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 2月6日 61歳
徳川家康が、森忠政に美作国一国186500石余を給付し、津山城(美作国)城主として、子・松平忠輝に川中島(信濃国)を給付し、松代城(信濃国)城主とする。
出典:『海津城主次第』、『寛政重修諸家譜』巻第126「森忠政」の項、『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 2月12日 61歳
朝廷にて徳川家康の征夷大将軍就任および右大臣転任についての陣儀が行われる。家康を淳和奨学院別当、源氏長者、牛車兵杖等に宣下することに決まる。陣儀の上卿が伏見の家康邸に赴き、家康に征夷大将軍就任の旨を言い渡し、家康が征夷大将軍となる。
池田輝政が右近衛少将に、板倉勝重が従五位下・伊賀守に叙位・任官。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 3月21日 61歳
徳川家康二条城(山城国)に入る。
舟橋秀賢が訪れ、対面する。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 3月24日 61歳
夜、舟橋秀賢徳川家康のもとを訪れる。家康は秀賢に対面する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 3月25日 61歳
巳下刻(10時)、徳川家康が参内する。結城秀康細川忠興池田輝政京極高次福島正則、松平忠良、松平飛騨守、松平清直、松平家清本多正純本多康紀本多忠勝石川康通井伊直継本多康俊板倉勝重、本多藤四郎、渡辺守綱、山上弥四郎、島田直時、鵜殿善六、横田弥五左衛門、高木九助、近藤秀用竹中重義森可澄、三好助三郎、三好可正、佐々木勝九郎、近藤政成、松平一生、戸田采女、内藤正成秋元泰朝松平正綱近藤季用大久保忠総、酒井主水、永井直勝三浦重成米津正勝、中山信吉、柴田左近、成瀬正成安藤直次、榊原甚五兵衛、横田尹松、日下部宗好、長谷川久五郎、阿部忠吉、豊島信満、林忠政、花井勝右衛門、伊奈忠政、加藤吉左衛門、高木善三郎、朝比奈弥太郎、石川康次、鳥井九郎左衛門、里見忠重、都築与右衛門が供奉する。将軍宣下の礼として禁裏に銀子1000枚を進上する。午下刻(12時)退出する。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 3月25日 61歳
徳川家康森可澄に大和国添上郡・添下郡・山辺郡内にて1000石を給付する。可澄は総じて1500石を領す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第127「森可澄」の項

慶長8年 1603年 3月26日 61歳
舟橋秀賢徳川家康のもとを訪れる。家康は対面する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 3月27日 61歳
諸家が徳川家康のもとに礼に赴く。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 3月28日 61歳
午刻(11-13時)、舟橋秀賢徳川家康のもとを訪れる。家康は対面する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 3月29日 61歳
諸門跡が徳川家康のもとに礼に訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 4月2日 61歳
舟橋秀賢徳川家康のもとを訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 4月3日 61歳
舟橋秀賢徳川家康のもとを訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 4月4日 61歳
徳川家康が「新宅」において能を催す。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 4月6日 61歳
徳川家康が能を催す。山科言緒冷泉為満、四条隆昌、水無瀬氏成、烏丸光広が訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 4月7日 61歳
徳川家康が能を催す。日野資勝、猪熊教利、阿野実顕、烏丸光広、竹内孝治が訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 4月8日 61歳
舟橋秀賢徳川家康のもとを訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 4月11日 61歳
舟橋秀賢徳川家康のもとを訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 4月13日 61歳
舟橋秀賢徳川家康のもとを訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 4月14日 61歳
舟橋秀賢徳川家康のもとを訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 4月15日 61歳
舟橋秀賢徳川家康のもとを訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 4月16日 61歳
徳川家康伏見城(山城国)に帰る。
出典:『慶長日件録』同年月日条、『当代記』巻3同年月日条

慶長8年 1603年 5月5日 61歳
伏見城(山城国)の徳川家康邸に冷泉為満山科言緒、六条有広、四条隆忠、舟橋秀賢が礼に訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 5月26日 61歳
冷泉為満山科言緒舟橋秀賢徳川家康のもとを訪れ対面する。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長8年 1603年 8月14日 61歳
異父弟・松平康元が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻52「松平康元」の項

慶長8年 1603年 9月11日 61歳
子・武田信吉が死去する。
出典:-

慶長8年 1603年 10月25日 61歳
徳川家康立花宗茂を赦免し、宗茂に棚倉(陸奥国)10000石を給付する。
出典:『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

慶長8年 1603年 11月5日 61歳
徳川家康松平康次に三河国設楽郡内で460余石を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第16「松平康次」の項

慶長8年 1603年 11月25日 61歳
徳川家康榊原康政に在京料として近江国野洲郡・栗太郡・蒲生郡内で5000石を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

慶長9年 1604年 3月2日 62歳
徳川家康松前慶広に脇差(兼光)・時服5を下賜する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

慶長9年 1604年 7月17日 62歳
孫・家光が生まれる。御篦刀役を酒井忠世がつとめる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井忠世」の項

慶長9年 1604年 8月23日 62歳
池田輝政福島正則森忠政徳川家康に近侍する。
放鷹の商売および隠匿を禁じる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長9年 1604年 閏8月10日 62歳
勅使の広橋兼勝勧修寺光豊徳川家康のもとを訪れ、後陽成天皇が緞子10巻を、親王が焼物を家康に贈る。摂関家の関白・一条内基、前関白・二条昭実九条忠栄、鷹司信尚、門跡の照高院道澄、妙法院常胤、梶井宮最胤、随心院増孝、一乗院尊政が家康のもとに礼に訪れる。ついで堂上公家衆の大炊御門経頼、大炊御門頼国、烏丸光宣、万里小路充房、高倉永孝、飛鳥井雅庸、花山定好、西洞院時直が礼に訪れる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長9年 1604年 閏8月12日 62歳
ルソン国王よりの書簡に徳川家康が目を通す。通船を要求しており、金銀を貪るのが真意でないことが伝えられる。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長9年 1604年 閏8月14日 62歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に向けて京都を発す。
出典:『慶長日件録』同年月日条

慶長9年 1604年 -月-日 62歳
徳川家康が伏見(山城国)の池田輝政邸を訪れる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

慶長10年 1605年 1月9日 63歳
徳川家康が上洛するため江戸城(武蔵国)を発つ。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長10年 1605年 1月19日 63歳
徳川家康伏見城(山城国)に到着する。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長10年 1605年 2月19日 63歳
未刻(13-15時)、徳川家康が上洛し、伏見城(山城国)に入る。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 3月12日 63歳
公家・門跡が徳川家康のもとに年始の礼に赴く。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 3月16日 63歳
徳川秀忠が永原(近江国)に到着する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 3月21日 63歳
徳川秀忠が伏見城(山城国)に到着する。秀忠上洛の前陣として榊原康政伊達政宗等の諸大名と秀忠勢の鉄砲600・槍400-500・騎馬徒歩立衆200-300が供奉する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長10年 1605年 3月29日 63歳
徳川秀忠が参内し、右大将宣下の礼をする。参内後、伏見城(山城国)に帰城する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 4月8日 63歳
徳川家康が上洛する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 4月10日 63歳
徳川家康が参内する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 4月16日 63歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受ける。
板倉重宗が従五位下・周防守に叙位・任官。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉重宗」の項

慶長10年 1605年 4月17日 63歳
徳川秀忠が上洛する。
出典:『義演准后日記』同年月18日条

慶長10年 1605年 4月26日 63歳
徳川秀忠が征夷大将軍宣下につき参内する。榊原康政康勝父子、酒井忠世板倉重宗が供奉する。
出典:『義演准后日記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康政」の項、同「榊原康勝」の項、同巻第59「酒井忠世」の項、同巻第81「板倉重宗」の項

慶長10年 1605年 5月10日 63歳
将軍・徳川秀忠の名代として松平忠輝大坂城(摂津国)に居る豊臣秀頼のもとに赴く。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 5月18日 63歳
高源院(岡部長盛の娘・徳川家康の養女)が鍋島勝茂に嫁ぐ。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第823「鍋島勝茂」の項目

慶長10年 1605年 5月19日 63歳
鍋島直茂勝茂父子が高源院(岡部長盛の娘・徳川家康の養女)の勝茂への入嫁につき、伏見城(山城国)に登城し徳川家康のもとに礼に赴く。家康は勝茂に刀(銘 大和包永)、脇差(銘 来国光)を賜う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第823「鍋島勝茂」の項目

慶長10年 1605年 8月8日 63歳
督が8月11日に姫路(播磨国)に下向につき、三宝院義演に路次の安全祈願として銀子2枚を進上する。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長10年 1605年 9月15日 63歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に帰城すべく伏見城(山城国)を発つ。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長10年 1605年 9月-日 63歳
京都より江戸城(武蔵国)に帰城途上の徳川家康掛川城(遠江国)の松平定勝のもとを訪れる。その際、家康が定勝に対し、子・定行に島津忠恒の娘を、子・定綱に浅野長政の娘を娶るよう命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第54「松平定勝」の項

慶長10年 1605年 10月28日 63歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に帰城する。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長11年 1606年 5月14日 64歳
榊原康政館林城(上野国)にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第100「清和源氏 義家流 足利支流 榊原」「榊原康政」の項

慶長11年 1606年 6月17日 64歳
島津忠恒徳川家康より偏諱を受け、家久と名乗る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津家久(忠恒)」の項

慶長11年 1606年 -月-日 64歳
孫・忠長江戸城(武蔵国)西ノ丸にて生まれる。
出典:-

慶長12年 1607年 3月5日 65歳
子・松平忠吉が死去する。
出典:『義演准后日記』同年月14日条

慶長12年 1607年 4月29日 65歳
徳川秀忠松平定勝伏見城(山城国)城代とし、50000石を給付する。掛川城(遠江国)30000石は、定勝の子・定行に給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第54「松平定勝」の項

慶長12年 1607年 4月-日 65歳
徳川家康駿府城(駿河国)の普請を始める。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長12年 1607年 閏4月8日 65歳
子・松平秀康が死去する。
出典:『義演准后日記』同年月14日条

慶長12年 1607年 閏4月26日 65歳
徳川家康徳川義直を甲府(甲斐国)より名古屋(尾張国)に転封する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「青木信安」の項

慶長12年 1607年 7月3日 65歳
徳川家康駿府城(駿河国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長13年 1608年 11月-日 66歳
徳川家康伏見城(山城国)城代・松平定勝の所領を、伏見(山城国)近郊の地10000石と近江国志賀郡・高島郡の内にて40000石の地に替地する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第54「松平定勝」の項

慶長13年 1608年 -月-日 66歳
徳川家康の執り成しにより、駿府城(駿河国)にて細川忠興と細川興元が和解する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第106「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川興元」の項

慶長14年 1609年 9月7日 67歳
徳川家康板倉勝重に山城国相楽郡・綴喜郡・久世郡、近江国伊香郡内で9800石余を給付し、総じて16610石を領す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第81「板倉勝重」の項

慶長14年 1609年 12月-日 67歳
10月29日に死去した石川家成の遺領は、徳川家康秀忠の命により石川忠総が相続することになる。忠総は大垣(美濃国)に下向する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第118「石川忠総」の項

慶長15年 1610年 1月8日 68歳
松前慶広駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに赴き、蝦夷国の鷹4連を献上する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第154「松前慶広」の項

慶長15年 1610年 2月23日 68歳
徳川家康池田忠雄に淡路国を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠雄」の項

慶長15年 1610年 3月-日 68歳
南部利直駿府城(駿河国)の居る徳川家康に謁す。家康は数寄屋にて利直に茶を振る舞い、道阿弥肩衝茶入を賜う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第210「南部利直」の項

慶長15年 1610年 7月27日 68歳
徳川家康立花宗茂に赤楯(陸奥国)・上総国山辺郡内で20000石を加増する。
出典:『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

慶長15年 1610年 8月6日 68歳
島津家久が尚寧をともない、駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに赴き、礼をする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津家久(忠恒)」の項

慶長15年 1610年 10月18日 68歳
本多忠勝が死去する。
出典:-

慶長16年 1611年 3月27日 69歳
豊臣秀頼二条城(山城国)にて徳川家康と会見すべく、大坂城(摂津国)を発つ。
出典:(慶長16年)3月28日付細川忠興書状(○東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号285)、『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長16年 1611年 3月28日 69歳
二条城(山城国)にて徳川家康豊臣秀頼が会見する。
出典:(慶長16年)3月28日付細川忠興書状(○東京都江戸東京博物館他編『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展』(2015年)図版番号285)、『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長16年 1611年 6月24日 69歳
加藤清正が死去する。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長16年 1611年 8月4日 69歳
徳川秀忠の使者として安藤重信駿府城(駿河国)の徳川家康のもとを訪れ、加藤清正の遺領を、その子・虎之助に相続させてもよいか裁可を請う。家康は虎之助の遺領相続を認める。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 8月10日 69歳
徳川家康が板倉重昌を禁裏造営奉行に補す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 8月14日 69歳
徳川家康駿府城(駿河国)に新造した蔵に御物を納める。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 8月16日 69歳
浅野長則(長重)、杉原長房、堀親良が江戸(武蔵国)より駿府城(駿河国)に居る徳川家康のもと赴く。家康は、長則の父・長政の遺領を3人に割譲し給付する。
駿府城の書院を造替することとし、畔柳寿学を奉行とする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 8月20日 69歳
長崎所司 長谷川藤広駿府城(駿河国)に居る徳川家康のもとを訪れる。明、南蛮等の商船80余艘が訪れたことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 8月22日 69歳
最上義光駿府城(駿河国)に居る徳川家康に菱喰を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 8月23日 69歳
有馬晴信・直純父子が駿府城(駿河国)に居る徳川家康のもとを訪れ、晴信が巻物20を、直純が銀子50枚を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 8月24日 69歳
加藤清正死去につき、江戸(武蔵国)に人質としていた加藤虎之助が清正の遺領相続により熊本城(肥後国)に下向途中の加藤虎之助が、駿府城(駿河国)に居る徳川家康のもとを訪れ、黄金50枚、銀100枚を献上する。
細川忠興が家康に暹羅国との交易で手に入れた象牙、白絹、孔雀、豹を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 8月25日 69歳
徳川家康が医師各人に朝鮮人参1袋を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 8月26日 69歳
徳川家康駿府城(駿河国)西ノ丸にて神明膏薬を練る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 9月1日 69歳
徳川家康金地院崇伝を召し、雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 9月3日 69歳
佐久間政実が名古屋(尾張国)より駿府城(駿河国)に居る徳川家康のもとに赴き、名古屋城(尾張国)の普請指図を献じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 9月16日 69歳
神龍院梵舜が「藤氏系図」を徳川家康に進上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 9月19日 69歳
伊達政宗が大鷹を、浅野幸長が父・長政遺物の刀(銘 長光)・茶壺(銘 鎮西)を、最上家親が大鷹を徳川家康に進上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 9月22日 69歳
施薬院宗伯が駿府城(駿河国)に到着し、徳川家康、与安法印を本草について雑談する。
堀尾吉晴が遺物として金100枚、真壺を家康に献上する。
家康が畔柳寿学に江尻橋の改築を命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 9月23日 69歳
本多正信徳川家康に鮭を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 9月24日 69歳
徳川家康が府中(駿河国)近辺で鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 9月25日 69歳
駿府城(駿河国)の徳川家康のもとに板倉勝重より松茸1籠、紅柿2籠が届く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 9月26日 69歳
徳川家康徳川頼宣付の安藤直次、水野重央、彦坂光正に遠江国内にて所領を宛行う。
毛利宗瑞が梨5籠を、大久保忠隣が生鮭・干鮭を、間宮新左衛門が朝倉山椒3箱を家康に献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 9月27日 69歳
辰刻(7-9時)、徳川家康が駿府(駿河国)の藤堂高虎邸を訪れる。家康に徳川頼宣本多正純安藤直次成瀬正成村越直吉永井直勝松平正久、水野重央、西尾丹後守、竹腰正信、秋元泰勝、板倉重昌後藤光次長谷川藤広、浅井七平、大岡兵蔵、佐久間頼勝、日根野左京亮、高力河内守、北見長五郎、野尻万介等が供奉する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 9月28日 69歳
駿府(駿河国)の藤堂高虎邸にて能が催され、徳川家康が見物する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 9月29日 69歳
毛利就隆駿府城(駿河国)に居る徳川家康に謁し、銀100枚を、福原広俊が鞢10具を献上する。
亀井茲矩が家康に謁し、銀100枚、鉄砲1挺を献上する。
伊達政宗が鮭10箇を家康に献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月1日 69歳
山科言緒舟橋秀賢冷泉為満駿府城(駿河国)に到着し、徳川家康のもとを訪れる。3名は家康に謁し、秀賢が家康に諸家略系図、屏風1隻を献上する。
家康が舟橋秀賢、下間仲之を召す。仲之に銀30枚、被物1重を下賜する。
家康、日野唯心、秀賢、円光寺、金地院崇伝が京都の院内や和漢・古今について論じる。
家康が藤堂高虎に加藤虎之助の領国経営の後見を命じる。10月2日に高虎は肥後国出立することとなる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月2日 69歳
駿府城(駿河国)にて山科言緒舟橋秀賢冷泉為満、円光寺、金地院崇伝徳川家康に召され饗食を賜う。
山岡修理が銀100枚を、山岡新太郎が羽織2領を家康に献上する。
岩本坊が西楽院遺物として三大部60巻を家康に進上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月3日 69歳
所々の代官が納米の代価 金19000両を駿府城(駿河国)の「殿守御庫」に納める。
呂宋国に御書と進物として腰刀・脇刀各1柄を送る。長谷川左兵衛が担当。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月4日 69歳
中井正清駿府城(駿府城)に居る徳川家康のもとに訪れ、前殿等造替を報告する。また、方廣寺大仏殿の大虹梁立てについて、容易に成し遂げることができることを家康に伝え、家康は喜悦する。
徳川秀忠が家康に生鮭を贈る。
片桐貞隆が御服3領・渋紙200張を、生駒正俊が紫皮100枚を家康に進上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月5日 69歳
徳川秀忠駿府城(駿河国)に居る徳川家康のもとに使者として成瀬正武を遣わす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月6日 69歳
巳刻(9-11時)、徳川家康が鷹狩と称して関東の向かうべく駿府城(駿河国)を出立する。供奉は本多正純安藤直次成瀬正成村越直吉松平正久後藤光次。駿府八幡辺で鷹狩をする。
日野唯心に米50石、水無瀬一斎に米80石、山科言緒舟橋秀賢冷泉為満に黄金1枚・被物2領を家康が下賜する。
家康が狩野を召し、大内図・日本大社図を新たに作成するよう命じる。
家康は清水(駿河国)に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月7日 69歳
朝、徳川家康が清水(駿河国)を出立する。今泉の善応寺に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月8日 69歳
徳川家康が三島(伊豆国)に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月9日 69歳
徳川家康大久保忠隣を召し出し、忠隣の子・忠常の病の容態を訪ねる。本多正信が迎えとして家康のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月10日 69歳
徳川家康が中原(相模国)に宿泊する。徳川秀忠の命により安藤重信が家康の御膳を用意する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月11日 69歳
徳川家康が中原(相模国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月12日 69歳
徳川家康が相模川まで移動するが、雨により中原(相模国)に引き返し逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月13日 69歳
徳川家康が藤沢(相模国)に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月14日 69歳
徳川家康が神奈川(武蔵国)に到着する。江戸城(武蔵国)より徳川秀忠が出向き雑談する。秀忠は江戸城に戻り、家康は神奈川にて宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月15日 69歳
徳川家康が稲毛(武蔵国)に宿泊する。途中、鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月16日 69歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。江戸詰めの諸大名が家康を出迎える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月17日 69歳
徳川家康江戸城(武蔵国)の「新城」に赴き、徳川秀忠と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月18日 69歳
江戸(武蔵国)詰めの諸大名が徳川家康に対面しようと江戸城(武蔵国)に登城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月19日 69歳
江戸湾に白鳥が多く飛んでいるのを見た徳川家康が、鉄砲の名手を引き連れ船にて海上に出るが、波が高く鉄砲の狙いが定まらないため江戸城(武蔵国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月20日 69歳
徳川家康が源誉存応と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月21日 69歳
徳川家康が江戸(武蔵国)近辺にて鷹狩を行う。
江戸城(武蔵国)の南庭にて能10番が催される。家康、徳川秀忠山科言緒冷泉為満舟橋秀賢等が見物する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月22日 69歳
徳川家康が江戸(武蔵国)にて能を催す。家康は江をはじめ江戸(武蔵国)に人質として来ている諸大名の妻・子女を招く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月23日 69歳
徳川家康が江戸(武蔵国)近辺にて鷹狩を行う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月24日 69歳
徳川家康江戸城(武蔵国)の本城に赴く。大門にて徳川秀忠が出迎える。座席の縁上にて徳川竹千代・国松兄弟が家康の左右の手をとる。家康は江とも対面する。その後、埦飯が行われる。
本多正信が家康のもとを訪れ「天下政務」について雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月25日 69歳
徳川家康が増上寺に赴く。源誉存応に銀100枚、被物10領を贈る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月26日 69歳
徳川家康が戸田に鷹狩に赴く。安藤重信が諸事を差配する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 10月29日 69歳
徳川家康が川越(武蔵国)に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月1日 69歳
徳川家康が鷹狩をする。南光坊天海、仙波北院が家康に謁す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月2日 69歳
徳川家康が鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月3日 69歳
徳川家康が鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月5日 69歳
徳川家康が忍(武蔵国)の鷹場にて鷹狩をする。徳川秀忠が家康のもとに使者として土井利勝を遣わす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月6日 69歳
徳川秀忠が鴻巣(武蔵国)の鷹場にて鷹狩をする。忍(武蔵国)に居る徳川家康より成瀬正成安藤直次永井直勝松平正久後藤光次長谷川藤広が秀忠のもとに赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月7日 69歳
忍(武蔵国)にいる徳川家康のもとに源誉存応が訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月8日 69歳
徳川家康が忍(武蔵国)の鷹場にて鷹狩をする。が忍に居る家康のもとを訪れ、馬10匹・鷹10連を献上する。政宗は忍より江戸(武蔵国)に向かう。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月9日 69歳
新田義重に征夷将軍贈官につき、新田(上野国)にて代々の菩提所を建立するにあたり、源誉存応、土井利勝成瀬正成が地形を視察に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月10日 69歳
徳川家康が忍(武蔵国)にて鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月11日 69歳
徳川家康が忍(武蔵国)にて鷹狩をする。
夜、南部利直が家康に茶を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月12日 69歳
徳川家康が忍(武蔵国)にて鷹狩をする。駿府城(駿河国)にて、10日に徳川義俊が疱瘡を発症したとの報が家康のもとにもたらされる。家康は、明朝、駿府城へ帰還することを決める。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月13日 69歳
朝、徳川家康が忍(武蔵国)を発ち、川越(武蔵国)に到着する。鴻巣(武蔵国)にて鷹狩をしていた徳川秀忠が川越に居る家康のもとに赴く。
秀忠が本多正純安藤直次永井直勝松平正久後藤光次長谷川藤広に黄金・馬・服を下賜する。
夜、源誉存応、成瀬正成土井利勝が上野国より川越にいる家康のもとに赴き、新田義重・義貞の菩提所について旧跡が存在したことを報告する。家康のそのことを喜ぶ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月14日 69歳
徳川家康が府中(武蔵国)に到着する。徳川秀忠江戸城(武蔵国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月15日 69歳
徳川義俊の疱瘡治癒の報が徳川家康にもたらされる。安堵した家康は鷹狩を行うとして稲毛(武蔵国)に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月16日 69歳
徳川家康が鷹狩をする。家康は神奈川(武蔵国)に宿泊する。暇乞いとして徳川秀忠が神奈川にいる家康のもとを訪れる。対面の後、秀忠は家康に鷹を贈る。秀忠は金蔵寺に宿泊する。
上杉景勝が神奈川にいる家康のもとを訪れ、綿子500挺、馬1疋を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月17日 69歳
大風のため徳川家康は予定していた鷹狩を中止し、神奈川(武蔵国)に逗留する。徳川秀忠も神奈川に留まり家康と雑談する。
本多正信が家康と雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月18日 69歳
徳川家康が鷹狩をする。家康は藤沢(相模国)に到着する。徳川秀忠江戸城(武蔵国)に帰城する。
夜、玄恵が家康と対面し、仏法について雑談する。家康は増上寺上葺料として銀100枚を玄恵に下賜する。
家康が鎌倉荘厳院と対面する。荘厳院所持の『保暦間記』を閲覧する。
佐竹義宣が藤沢(相模国)にいる家康のもとを訪れ、蝋燭1000挺を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月19日 69歳
徳川家康が鷹狩をする。家康は中原(相模国)に到着する。
鎌倉荘厳院が『保暦間記』を家康の前で読む。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月20日 69歳
徳川家康が鷹狩をする。家康は小田原城(相模国)に到着する。小田原城主・大久保忠隣は子・忠常の死去につき、憚って家康との対面を遠慮する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月21日 69歳
徳川家康が三島(伊豆国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月22日 69歳
徳川家康が鷹狩をする。家康は今泉(駿河国)に到着する。
家康のもとに伏見(山城国)より飛脚が到来し、17日の未刻(13-15時)、伏見町の家1000余軒が火災により焼失したと家康に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月23日 69歳
徳川家康駿府城(駿河国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月24日 69歳
日野唯心、円光寺が徳川家康のもとに出仕する。
徳川秀忠の使者として土井利勝駿府城(駿河国)にいる家康のもとを訪れ、家康の駿府城への無事の帰城を賀す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月26日 69歳
徳川家康池田長吉が銀台子1飾・御服10領を、浅野氏重が御服5領を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月28日 69歳
徳川家康が明国の商船の商売地を長崎(肥前国)に一元化する。長谷川藤広がその許可書を発行することとする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月29日 69歳
角倉素庵駿府城(駿河国)に居る徳川家康のものを訪れる。与一は方廣寺大仏殿の瓦葺きが成ったこと、父・了以とともに、淀(山城国)・鳥羽(山城国)の船が三条橋まで乗り入れることができるよう鴨川を開削したこと、この開削により禁裏造営時に材木の搬入ができるようになったことを家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 11月30日 69歳
伊達政宗徳川家康に初鱈を献上する。取次は後藤光次
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月1日 69歳
徳川家康が府中(駿河国)にて鷹狩をする。その折、水を張っている田地をみつけ、彦坂光正・畔柳寿学・松下浄慶に命じて、当該田地の名主10余名を捕縛する。その理由は、毎年、収穫後の田地には水を張らないように触れをだしているにもかかわらず、その触れを破ったためであるという。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月2日 69歳
徳川義俊の疱瘡平癒を祝す豊臣秀頼の直書が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに届く。
家康が在駿府の諸侍に関東での鷹狩で得た白鳥を振る舞う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月4日 69歳
徳川家康が府中(駿河国)にて鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月7日 69歳
徳川家康寺沢広高が銀50枚・緞子10巻を、寺沢忠晴が銀50枚を献上する。
本多康紀が家督相続後、初めて家康に謁す。
家康が安藤重信を召し、明年、江戸(武蔵国)の船入の普請を中国・九州の諸大名に命じるよう伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月8日 69歳
徳川家康が鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月10日 69歳
徳川家康が府中(駿河国)にて鷹狩をする。
織田有楽斎駿府城(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月11日 69歳
徳川家康が鷹狩をする。
夜、有馬直純が家康に謁し、綾子10巻を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月12日 69歳
夜、徳川家康が幸若大夫を召し出し舞曲を催す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月14日 69歳
朝、徳川家康駿府城(駿河国)の数寄屋にて織田有楽に茶を賜う。日野唯心山名禅高が相伴する。楢柴肩衝、朱衣肩衝、虚堂の掛物、古銅の花入で数寄屋を設える。花は家康が生け、茶は有楽斎が点てる。
その後、有楽が家康に黄金3枚、御服5領を献上する。
徳川義俊の疱瘡平癒を賀すとして豊臣秀頼が銀300枚、御服10領を義俊に贈る。使者は石川貞政。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月15日 69歳
徳川家康が府中(駿河国)にて鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月16日 69歳
徳川家康が府中(駿河国)にて鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月18日 69歳
徳川家康が鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月20日 69歳
徳川家康が府中(駿河国)にて鷹狩をする。
駿府城(駿河国)にて城中の煤払いが行われる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月21日 69歳
徳川家康が鷹狩をするため田中に赴く。
越後国の仕置きおよび甲斐国・武蔵国の所領見回りをしていた大久保長安駿府城(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月25日 69歳
鷹狩のため田中に逗留中の徳川家康のもとに板倉勝重、米津田清右衛門が訪れ、山城国の検地が終わったことを報告する。
出典:『駿府記』同年月26日条

慶長16年 1611年 12月26日 69歳
申刻(15-17時)、徳川家康が田中より駿府城(駿河国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長16年 1611年 12月30日 69歳
平岩親吉名古屋城(尾張国)二ノ丸にて死去する。
出典:『当代記』慶長17年1月4日条

慶長17年 1612年 1月7日 70歳
徳川家康吉良(三河国)にて鷹狩をするため駿府城(駿河国)を出立する。田中に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 1月8日 70歳
徳川家康が相良(遠江国)に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 1月9日 70歳
徳川家康が横須賀(遠江国)に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 1月10日 70歳
徳川家康が中泉(遠江国)に宿泊する。徳川秀忠へ礼を終えて上洛途中の織田有楽が家康のもとへ礼に訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 1月11日 70歳
徳川家康が中泉(遠江国)にて鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 1月12日 70歳
徳川家康が浜名(遠江国)に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 1月13日 70歳
徳川家康吉田(三河国)に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 1月14日 70歳
徳川家康吉良(三河国)に到着する。家康が西尾城(三河国)城主・松平康俊に銀100枚を下賜する。
夜、加藤忠広の後見役として肥後国に赴いていた藤堂高虎が家康のもとを訪れる。肥後国地図を家康に見せる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 1月16日 70歳
徳川家康吉良(三河国)にて鷹狩をする。
京極忠高が家康のもとを訪れ、御服・嘉肴を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 1月17日 70歳
徳川家康吉良(三河国)にて鷹狩をする。後陽成上皇に鷹狩で狩った鶴を進上する。伝奏の広橋兼勝勧修寺光豊に雁3羽を贈る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 1月18日 70歳
徳川家康吉良(三河国)にて鷹狩をする。鶴を豊臣秀頼に贈る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 1月20日 70歳
徳川家康岡崎城(三河国)に到着する。家康が岡崎城主・本多康紀に銀子100枚を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 1月21日 70歳
徳川家康が鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 1月22日 70歳
徳川家康が後水尾天皇に鶴を進上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 1月23日 70歳
徳川家康が鷹狩をする。成瀬正成竹腰正信が家康のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 1月24日 70歳
前田利光が徳川家康に御服20領を献上する。家康は利光に鶴を遣わす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 1月25日 70歳
徳川家康が鷹狩をする。森忠政が家康に緞子・袴を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 1月26日 70歳
徳川家康大樹寺に参詣する。大樹寺住持に銀子50枚を下賜する。次いで、父・広忠の菩提所・正応寺に参詣する。院主に銀子50枚を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 1月27日 70歳
徳川家康名古屋(尾張国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 1月28日 70歳
徳川家康名古屋城(尾張国)の屋敷普請、堀普請を命じる。
浅野幸長が使者をもって家康に御服5領を献上する。家康は幸長に鶴を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 1月29日 70歳
徳川家康岡崎城(三河国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 1月30日 70歳
池田輝政が御服5領を、池田忠継が大鷹1連を徳川家康に献上する。家康は輝政に鶴を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月1日 70歳
雨のため徳川家康岡崎城(三河国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月2日 70歳
雨のため徳川家康岡崎城(三河国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月3日 70歳
徳川家康が境川にて鹿狩りをする。浜松(遠江国)にて宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月4日 70歳
徳川家康が中泉(遠江国)に到着する。江戸(武蔵国)より徳川秀忠の使者として成瀬正武が使者として家康のもとに訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月6日 70歳
徳川家康が鷹狩りをする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月9日 70歳
徳川家康が掛川(遠江国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月10日 70歳
徳川家康一行が、連日の大雨により大井川が水増し渡川が困難につき、金谷、伊呂宇と経由し、浅瀬をみつけ渡川する。田中に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月11日 70歳
徳川家康駿府城(駿河国)に帰城する。家康は府中(駿河国)にて鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月12日 70歳
江戸(武蔵国)より徳川秀忠の使者として神尾守世徳川家康のもとに訪れる。
家康が日野唯心、円光寺、以心崇伝に膳を賜い、雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月16日 70歳
成瀬正成竹腰正信名古屋(尾張国)より駿府城(駿河国)のいる徳川家康のもとに訪れる。
安藤重信江戸城(武蔵国)の船入の図面を持参し、家康に見せ、意見を伺う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月17日 70歳
江戸(武蔵国)より徳川秀忠の使者として水野忠元駿府城(駿河国)に到着する。徳川鶴千代の疱瘡の容態を尋ねる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月21日 70歳
徳川家康が府中(駿河国)近辺にて鷹狩をする。
家康が板倉勝重永井直勝を召し、高野山に隠居している観世黒雪の赦免を伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月23日 70歳
本多正純の与力・岡本大八が、有馬晴信に先年の黒船討ち取りの功により肥前国三郡の返付があるとして偽造した朱印状を渡すとともに、幕府老中への謝礼として白銀600枚を納めるようにと指示し、その白銀を横領したことについて、晴信からの疑義があり裁判が行われ、大八は無罪を主張するも、晴信が証拠となる文書を所持していたことから、大八の敗訴となり、大八も白状する。駿府町奉行の彦坂光正が大八を鞭打ちのうえ禁固する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月26日 70歳
駿府城(駿河国)にて田中忠政徳川家康に謁す。忠政は家康に銀子100枚、黒羅紗10間を献上する。
夜、家康が本多正純板倉勝重を召し、3月中旬に徳川秀忠と天下政務の相談をすることを伝える。
生駒正俊が駿府城に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月27日 70歳
徳川家康が府中(駿河国)近辺にて鷹狩をする。
伊達政宗が駿府城(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月28日 70歳
駿府城(駿河国)にて伊達政宗が銀100枚・鮭塩引10箇を、生駒正俊が銀100枚・御服10領を徳川家康に献上する。同城の数寄屋にて家康が政宗・正俊に茶を賜う。日野唯心が相伴する。茶入は銘 投頭巾。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 2月29日 70歳
徳川家康が鷹狩をする。
藤堂高虎が江戸(武蔵国)より駿府城(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月1日 70歳
本因坊算砂、宗桂が江戸(武蔵国)より駿府城(駿河国)に到着する。
午刻(11-13時)、在駿府城の諸侍が総出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月2日 70歳
徳川家康が鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月3日 70歳
在駿府城の諸侍が総出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月4日 70歳
徳川家康が鷹狩をする。
土井利勝が江戸(武蔵国)より駿府城(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月13日 70歳
徳川秀忠駿府城(駿河国)に居る徳川家康と天下政務について相談すべく、江戸城(武蔵国)を出立する。藤沢(相模国)に到着する。供奉は本多正信大久保忠隣酒井忠世土井利勝、青山忠成、山口重政神尾守世水野忠元、井上正就等。
出典:『駿府記』同年月日・17日条

慶長17年 1612年 3月17日 70歳
辰刻(7-9時)、徳川秀忠駿府城(駿河国)西丸に到着する。供奉は本多正信大久保忠隣酒井忠世土井利勝、青山忠成、山口重政神尾守世水野忠元井上正就等。午刻(11-13時)、秀忠が駿府城の本城に赴き、父・家康と雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月18日 70歳
禁獄中の岡本大八が有馬晴信について、長谷川藤広を殺害せんと企んでいると申告する。これにより、大八を牢より出し、大久保長安邸に移し、晴信の居る前で大八に晴信の企てについて述べさせる。晴信は閉口してしまい回答ができなかったため、晴信の身柄を拘束する。大八は再度牢に入れる。これにつき、晴信の所領は子・直純に与え、直純には国の仕置きのため帰国を許す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月19日 70歳
徳川秀忠駿府城(駿河国)本城に赴き、父・家康と雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月21日 70歳
徳川秀忠が加護鼻にて竹腰正信をして鉄砲を放たせる。
岡本大八を牢より出し、府内(駿河国)にて引き回しのうえ、安部川原にて火炙りの刑に処す。徳川家康板倉勝重を召し、キリスト教を禁教とし、京都における南蛮寺の破却を命じる。また、長谷川藤広に暇を与え長崎(肥前国)に赴かせる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月22日 70歳
駿府城(駿河国)にて徳川秀忠山名禅高と将棋を指す。
有馬晴信を甲斐国へ配流とする。大久保長安の監督下に置く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月25日 70歳
徳川家康駿府城(駿河国)三ノ丸にて能を催す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 3月26日 70歳
徳川家康駿府城(駿河国)の数寄屋にて茶会を催す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 4月2日 70歳
加藤忠広が父・清正の遺領相続につき、徳川家康に礼をすべく駿府城(駿河国)に到着する。忠広は家康に謁し、黄金100枚、服10領を進上する。
鍋島勝茂の所領が有馬晴信に給付されるとの噂があったが、それは岡本大八による虚説であったことがわかり、勝茂がそれを喜ぶ使者を家康に遣わし、黄金50枚・猩々皮30間を、鍋島直茂が家康に黄金10枚を献上する。
夜、徳川秀忠が家康のもとへ赴き対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 4月3日 70歳
徳川家康興福寺の宝蔵に入った盗人の逮捕を板倉勝重に命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 4月8日 70歳
徳川家康駿府城(駿河国)三ノ丸にて能を催す。徳川秀忠が見物する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 4月10日 70歳
徳川秀忠江戸城(武蔵国)に帰城すべく、駿府城(駿河国)本城に赴き父・家康に挨拶する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 4月14日 70歳
今川宗誾が駿府城(駿河国)に居る徳川家康のもとを訪れ、家康と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 4月19日 70歳
南光坊天海駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れる。家康は天海が住持を務める喜多院(武蔵国)に300石を寄進する。
安藤重信徳川秀忠の使者として家康のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 4月22日 70歳
徳川義俊駿府城(駿河国)三ノ丸にて能を催す。父・家康が見物する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 5月3日 70歳
加藤貞泰が伯耆国より駿府城(駿河国)に到着する。徳川家康に銀30枚、白絹30疋を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 5月4日 70歳
徳川秀忠の使者として神尾守世駿府城(駿河国)に居る徳川家康のもとに赴き、端午の節句として帷子5領を進上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 5月5日 70歳
日野唯心水無瀬一斎土御門久脩飛鳥井雅庸冷泉為満舟橋秀賢駿府城(駿河国)に居る徳川家康と対面し雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 5月8日 70歳
日野唯心水無瀬一斎土御門久脩飛鳥井雅庸冷泉為満舟橋秀賢駿府城(駿河国)に居る徳川家康に出仕する。
前田利長の使者が家康のもとに到着し、銀子1000枚、白絹100疋、白布100疋を献上する。
堀尾忠晴が家康に銀子300枚、単物5領、帷子5領、蚊帳1張を献上する。
村上忠勝が家康に銀子100枚、蝋100貫(10箱)を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 5月15日 70歳
板倉勝重米津正勝が京都に戻るべく徳川家康に暇乞いをして駿府城(駿河国)を発つ。
娘聟・蒲生秀行の病を聞きつけた家康が、薬を贈るべく牧野清兵衛を会津(陸奥国)に遣わす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 6月1日 70歳
巳刻(9-11時)、日野唯心水無瀬一斎土御門久脩冷泉為満舟橋秀賢駿府城(駿河国)在府中の武士が徳川家康に出仕する。家康は各々に富士山の氷を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 6月14日 70歳
加藤忠広が肥後国へ帰国の途次、駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに礼をする。家康は忠広に刀(銘 国次)、脇差(銘 国光)を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 6月16日 70歳
駿府城(駿河国)にて若原良長が徳川家康に謁見する。家康は良長に馬を、池田輝政に薬を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 6月19日 70歳
肥前国に帰国途中の寺沢広高五島盛利駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。広高は緞子5段を、盛利は黄段2巻を家康に献じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 6月20日 70歳
森忠政駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。銀300枚、帷子10領、単物10領を献上する。
九鬼守隆が子の良隆・貞隆をともない家康に謁見する。良隆は太刀・馬・単物5領を、良隆は太刀・馬を家康に献上する。
金地院崇伝が家康のもとを訪れ、後陽成上皇の病について相談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 6月26日 70歳
藤堂高虎が江戸(武蔵国)より駿府城(駿河国)にいる徳川家康に会う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 6月28日 70歳
江戸(武蔵国)より讃岐国に帰国途中の生駒正俊駿府城(駿河国)にいる徳川家康に暇乞いをする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 6月29日 70歳
徳川秀忠の使者・永井尚政駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ土用の酷暑見舞いをする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 7月4日 70歳
島津家久の使者・伊勢貞昌が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ礼をする。緋緞子20端、伽羅3斤、沈香1箱を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 7月7日 70歳
七夕につき徳川秀忠家康(駿河国)にいる父・家康のもとへ水野忠元を遣わし、この日、駿府城に到着する。
豊臣秀頼の使者・佐々孫平が駿府城にいる家康のもとに到着する。星節につき黄金10枚・単物・帷子を贈る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 7月25日 70歳
明・ルソンに派遣していた商船26艘が長崎(肥前国)に到着する。白糸200000斤を積載する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 7月28日 70歳
駿府城(駿河国)にて徳川家康日野唯心山名禅高以心崇伝の参加のもと高野山多聞院による真言の法談が行われる。
藤堂高虎が駿府城にて能を催す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 7月30日 70歳
シャム商船の船頭が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に緞子、緋羅、鮫皮等を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月1日 70歳
安倍川が洪水により堤が決壊する。安西衆が薪・材木・俵でもって防ぐ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月4日 70歳
ルソン商船の船頭・ルイスが駿府城(駿河国)にいる徳川家康に緞子、密2壺を献上する。
長崎(肥前国)より家康のもとに飛脚が到着する。飛脚は7月23日に黒船が長崎に着船し、白糸140000斤、緞子多数を積載していたことを、後藤光次を介し家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月12日 70歳
駿府城(駿河国)にてオランダ船が平戸(肥前国)に到来したことが噂される。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月14日 70歳
駿府城(駿河国)にて徳川家康が一乗院を呼び茶湯を催す。日野唯心金地院崇伝藤堂高虎が相伴する。古田重然が駿府城に在府中だったことから、重然が茶を点てる。この頃、重然は「数奇之宗匠」で徳川秀忠の崇敬を厚かったとされる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月15日 70歳
駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに片桐且元が銀30枚・羽織1領・鳥子紙6束を、古田重然が紫皮20枚を、明の官人が薬数種を献上する。
松木紹哲と畔柳寿学が囲碁を指す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月16日 70歳
徳川家康駿府城(駿河国)に在府中の一乗院の宿所に本多正純を遣わし、春日社の造替料として米20000石を寄進することを伝える。
2-zinbutu-20-tokugawa-hidetada.htmlの使者として井上正就が駿府城にいる家康のもとに到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月18日 70歳
角倉素庵が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ紅糸・緋左紗綾・沈香・薬・縮・砂斑猫等を献上する。取次は後藤光次。素庵は安南国に商船を毎年派遣している者とされている。
片桐且元古田重然が江戸(武蔵国)に向けて駿府城を出立する。家康は且元、重然に薬を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月21日 70歳
徳川家康が日野輝資、山名禅高藤堂高虎、三好因幡守、三好房一、本多一継、池田光重に料理と茶を振る舞う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 8月23日 70歳
日野唯心山名豊国藤堂高虎金地院崇伝、玄陽坊が徳川家康に出仕する。
松浦隆信が駿府城(駿河国)にいる家康のもとに赴き、緞子5巻を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 12月15日 70歳
徳川家康が関東での鷹狩から駿府城(駿河国)に帰城する。諸大名が江戸(武蔵国)にて越年するため家康に謁見する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 12月17日 70歳
駿府城(駿河国)に居る徳川家康のもとに、京極高知が銀100枚・御服10領を、黒田長政が銀200枚・御服10領を、黒田万徳丸が綿200把・銀3000両を、有馬豊氏が銀50枚・御服2領を、稲葉典通が御服2領・銀50枚を、山崎家盛が御服2領・銀50枚、古田重治が御服・銀子を進上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長17年 1612年 12月18日 70歳
徳川家康が諸大名に茶を振る舞う。日野輝資、山名禅高が同席する。両名の退席後、家康は黒田長政万徳丸父子を召し、酒盃を下賜す。黒田父子に万徳丸を右衛門佐に任ずことを告げる。また、家康は万徳に刀(銘 長光)・脇差(銘 岡本正宗)・真壺を下賜し、長政に鷹・馬を贈る。本多正純が取次。
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長17年 1612年 12月20日 70歳
細川忠利駿府城(駿河国)にいる徳川家康に謁見する。忠利は家康に綿200把を献上する。
木下延俊が家康に謁見する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 12月26日 70歳
藤堂高虎駿府城(駿河国)のいる徳川家康に出仕する。
島津家久が家康に泡盛(「焼酒」(「琉球酒))2壺・砂糖5桶を献上する。
石川忠総が家康に出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長17年 1612年 12月27日 70歳
豊臣秀頼が贈った鶴が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに届く。
三河国より松平和泉守、松平忠利水野忠元本多康紀、本多康俊、菅沼左近、丹羽氏信が家康のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 1月1日 71歳
徳川秀忠の名代(酒井家次・大沢基宿)、松平忠直松平忠輝、松平和泉守、松平玄蕃頭、松平忠利水野忠元本多康俊本多康紀、戸田尊次、三好因幡守、戸川達安三好房一、松倉重政、水野重弘、桑山一直、本田一継、池田光重、堀直寄、滝川忠征、佐久間政実、市橋下総守、山城忠久、桑山貞晴、岡家俊、宮城豊盛、能勢頼次、近藤政成、徳永昌重、山岡景以、分部光信、朽木宣綱、川勝広綱、猪子一時、別所吉治が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に年始の礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 1月2日 71歳
豊臣秀頼の名代・速水守久(取次・大沢基宿)、日野唯心水無瀬一斎山名禅高、畠山左近、土岐市正、西尾豊後守、遠藤慶隆竹中重門古田重治、稲葉方通、谷衛友、平野長泰、長谷川縫殿助、片桐且元片桐貞隆駿府城(駿河国)にいる徳川家康に年始の礼をする。
医者衆が家康に年始の礼をする。
宗義智の名代・柳川智永、京・堺・大坂・奈良・伏見の町人が家康に年始の礼をする。
夜、謡始が行われ、家康、徳川義利徳川頼宣、徳川頼房、唯心、禅高、永井直勝本多正純が出席する。観世大夫、梅若大夫に服2領が下付される。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 1月3日 71歳
駿府城(駿河国)にて三献の祝が行われる。徳川義利徳川頼宣、徳川頼房が参席する。前田利長上杉景勝毛利宗瑞池田輝政島津家久伊達政宗佐竹義宣蒲生忠郷・京極忠高・京極高知・南部利直最上義光森忠政・毛利秀就・細川忠利池田利隆浅野幸長蜂須賀至鎮福島正則黒田長政堀尾忠晴山内忠義田中忠政鍋島勝茂加藤嘉明生駒正俊の名代が徳川家康に太刀を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 1月4日 71歳
駿府町人が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に年始の礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 1月5日 71歳
巳刻(9-11時)、徳川家康が鷹狩に赴く。未刻(13-15時)、駿府城(駿河国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 1月6日 71歳
金地院崇伝駿府城(駿河国)にいる徳川家康に謁す。
増上寺観音国師の使僧・廓山上人、天台宗、真言宗、浄土宗、法華宗の諸僧が家康に礼をする。
伊勢内宮・下宮、諸社の社人が家康に礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 1月25日 71歳
申刻(15-17時)、池田輝政が姫路(播磨国)にて死去する。
出典:『駿府記』同年月29日条、『寛政重修諸家譜』巻第263「池田輝政」の項

慶長18年 1613年 1月28日 71歳
立花直次徳川家康徳川秀忠父子に謁す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第113「立花直次」の項

慶長18年 1613年 1月29日 71歳
播磨国より駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに、池田輝政の死去を伝える使者が到着する。家康は聟である輝政の死を悲嘆する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 2月5日 71歳
池田輝政の死去につき、徳川秀忠駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに土井利勝を遣わす。播磨国の仕置きについて議す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 3月5日 71歳
駿府城(駿河国)の三ノ丸にて能が催される。徳川頼宣が能5番、徳川頼房が能2番、徳川義利が小鼓1番を勤める。徳川家康、亀、お万、日野唯心山名禅高藤堂高虎、天台宗の僧衆が見物する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 3月11日 71歳
駿府城(駿河国)の三ノ丸にて能が催される。観世、金春、大蔵大夫、梅若大夫、藤堂高虎の小姓・喜之助、池田備後守、鈴木久右衛門、水無瀬一斎が勤める。
安藤重信が江戸(武蔵国)より駿府城(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 3月15日 71歳
徳川家康秀忠父子が播磨国仕置きのため安藤重信村越直吉を播磨国に遣わす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月20日 71歳
徳川家康善徳寺(駿河国)を発し、三島(伊豆国)に到着する。大久保忠隣が三島にて家康を出迎える。浮島原にて伊豆銀山の者が大久保長安の悪名について家康に進言する。家康は長安が生きているうちに報告せず、死後になって報告することを叱責する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 3月29日 71歳
駿府城(駿河国)の三ノ丸にて能が催される。徳川頼宣が能2番、下間仲孝、金春、観世が勤める。
駿府城にいる徳川家康佐竹義宣が謁見する。
昨秋より江戸(武蔵国)にいた古田重然が家康に謁見する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 3月30日 71歳
駿府城(駿河国)にいる徳川家康佐竹義宣が礼をする。義宣は家康に銀100枚・服10領を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月4日 71歳
松平忠輝駿府城(駿河国)にいる父・家康に礼をする。忠輝は家康に銀100枚・服10領を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月10日 71歳
伊達政宗駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。政宗は家康に銀100枚・服10領を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月12日 71歳
徳川家康駿府城(駿河国)の数寄屋にて伊達政宗に茶を振る舞う。日野唯心山名豊国が相伴する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月13日 71歳
前田利光が、娘・亀鶴の誕生につき駿府城(駿河国)にいる徳川家康に遣わした奥村易英が駿府(駿河国)に到着する。易英は家康に祝儀として銀100枚・服10領を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月20日 71歳
駿府城(駿河国)にて真言新儀の論議が行われる。題は「自力他力」。参加者は智積院、長谷寺玄翁、明星院。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月25日 71歳
大久保長安が死去する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月26日 71歳
板倉勝重駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ、京都のことについて報告する。
徳川秀忠の使者として土井利勝が江戸(武蔵国)に到着する。越前国の仕置きのためとされる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月27日 71歳
播磨国仕置き(池田輝政死後の後処理)に赴いていた村越直吉安藤重信が駿府城(駿河国)に戻る。若原良長、中村正勝による領国経営が問題だったため、良長を罰す。正勝は病死する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 5月2日 71歳
照高院道勝、三宝院義演駿府城(駿河国)に登城し、南殿にて徳川家康に対面する。
米津正勝の下代の不行儀により、正勝が阿波国に流罪となる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 5月4日 71歳
公家衆が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに出仕し、南殿にて対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 5月5日 71歳
公家衆・諸大名が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。
家康が照高院道勝と三宝院義演を召し、本山派・当山派の双方に出入りする山伏について裁定を下す。不動院(武蔵国)は追放と裁許がなされる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 5月6日 71歳
徳川家康大久保長安死後の財産について、長安の下代を召し出し調査をしたところ、過分の横領が発覚し、家康は大いに立腹する。家康は諸国にある長安の「賊宝」調査の触れを出すようにと命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 5月19日 71歳
徳川家康本多富正に越前国の仕置きを命じ、朱印状も発給する。富正は越前国に帰国する。
家康が大久保長安の下代すべてを捕らえ大名預かりとする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 5月20日 71歳
前田利光駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。利光は家康に銀子500枚・綿500把・紅絹100疋・朽葉色絹100疋を献上する。利光の家臣・横山長知奥村栄明奥村栄頼が家康に礼をする。家康は利光、長知、栄明、栄頼と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 6月5日 71歳
長谷川藤広が長崎(肥前国)にシャム船2艘、イギリス船1艘、漳州船6船が着岸したことを徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 6月6日 71歳
神龍院梵舜が駿府城(駿河国)に登城し、徳川家康に神道を伝授する。家康は梵舜に伝授の秘密を口外しないように伝える。その後、梵舜と金地院崇伝が仏法について雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 6月7日 71歳
徳川家康徳川秀忠本多正純を遣わす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 6月13日 71歳
江戸(武蔵国)より本多正純駿府城(駿河国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 6月16日 71歳
徳川家康・秀忠が「諸公家諸法度」を定め、摂関家・伝奏に届けるよう板倉勝重に命じる。
池田輝政の遺領について徳川家康が裁定する。播磨国は池田玄隆に、備前国および播磨国宍粟郡・佐用郡・赤穂郡は池田忠継に給付することが決まる。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第263「池田利隆」の項、同巻第265「池田忠継」の項

慶長18年 1613年 6月24日 71歳
徳川家康の召しに応じた森忠政が駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 6月26日 71歳
駿府城(駿河国)にて徳川家康森忠政と対面する。家康は忠政に青木一矩の肩衝茶入を下賜する。忠政は池田忠継の舅であるので、忠継を後見するようにと帰国を命じられる。
長崎(肥前国)より飛脚が駿府城に到着したと後藤光次が家康に取り次ぐ。
シャム国より木屋弥三右衛門が帰国したため、家康は弥三右衛門に対面し、同国のことについて尋ねる。弥三右衛門はシャム国には僧が多く、黄法衣を着ていたという。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 7月7日 71歳
浅間において能7番が行われる。徳川家康義利頼宣頼房が見物する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 7月9日 71歳
徳川家康大久保長安の子・藤十郎、外記、権之佐、雲十郎、内膳とその他播磨国・越後国にて預け置かれている子息に切腹を命じる。預け先の諸大名に切腹を命じるよう伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 7月26日 71歳
伏見城(山城国)に城番交替につき江戸(武蔵国)より伏見城に向かっている松平信吉、井伊直孝、渡辺大隅守、一色宮内少輔が駿府城(駿河国)にて徳川家康に対面する。その後、伏見城に向けて出立する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月3日 71歳
徳川家康が長崎(肥前国)よりやってきた花火の名手と対面する。6日の夜に花火を打ち上げることになる。
家康が駿府城(駿河国)にてイギリス人と対面する。イギリス人は家康に猩々皮10間・弩1張・象眼入鉄砲2挺を贈る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月5日 71歳
徳川秀忠の使者・土井利勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月6日 71歳
惣検校60人程が大久保長安のところに出入りしていた件で、徳川家康が立腹していることを聞き、家康に詫びるため駿府(駿河国)を訪れる。
夜、花火名手の唐人が駿府城(駿河国)二ノ丸にて花火を打ち上げ、家康に見せる。徳川義利徳川頼宣徳川頼房も見物する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月11日 71歳
南光坊天海が暇乞いのため駿府城(駿河国)に登城する。徳川家康が天海に論義を望む。家康は天海に薬を遣わす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月15日 71歳
巳刻(9-11時)、源誉存応が報土寺(駿河国)に居す。徳川家康が報土寺に赴く。供は本多正純安藤直次成瀬正成村越直吉松平正久等100余名。家康は源誉存応の法問「一念弥陀仏即滅無量罪」を聴聞する。午刻(11-13時)、家康は駿府城(駿河国)に帰城する。その後、家康は南光坊天海邸のもとに赴き仏法について雑談する。夜、帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月17日 71歳
源誉存応が駿府城(駿河国)に登城する。法問が行われる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月18日 71歳
駿府城(駿河国)にて源誉存応による法問が行われる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月27日 71歳
駿河国にて、卯刻(5-7時)より大風雨あり。駿府城(駿河国)近辺の武家邸宅・民屋が倒壊する。申刻(15-17時)、大風雨が止む。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月28日 71歳
佐和山城(近江国)よりやってきた井伊直勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をするため駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 8月22日 71歳
池田輝政の遺領相続につき、池田玄隆忠継兄弟が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。玄隆は銀300枚・太刀(銘 守家)を、忠継は銀200枚・太刀(銘 長光)を家康に献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月2日 71歳
源誉存応が駿府城(駿河国)に登城する。徳川家康と仏法について密談する。しかし、家康の理解が得られず、天台宗を崇敬するという。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月3日 71歳
片桐且元が駿府(駿河国)に到着する。駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面する、家康は且元に10000石を加増する。これは、豊臣秀頼が給付したものである、且元は家康に憚り、加増を受けなかったので、家康が給付したところ拝領したという。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月9日 71歳
徳川秀忠の重陽を祝す使者・神尾守世徳川家康に服5領を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月16日 71歳
大久保長安に出入りしていた検校よりの詫び言について、松平正久後藤光次徳川家康に取り次ぐ。家康は検校を赦免する。家康の小姓・河内梅千世は盲目となったため、梅千世を検校にするようにと家康が命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月17日 71歳
巳刻(9-11時)、徳川家康が鷹狩りのため駿府城(駿河国)を出立する。清水に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月18日 71歳
徳川家康善徳寺(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月19日 71歳
徳川家康が降雨のため善徳寺(駿河国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月21日 71歳
徳川家康小田原城(相模国)に到着する。徳川秀忠の命にて、本多正信、加藤助右衛門が家康を出迎える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月22日 71歳
徳川家康小田原城(相模国)を発し、中原(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月23日 71歳
徳川家康が中原(相模国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月24日 71歳
徳川家康が中原(相模国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月25日 71歳
徳川家康が中原(相模国)を発し、藤沢(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月26日 71歳
徳川家康が藤沢(相模国)を発し、神奈川(武蔵国)に到着する。徳川秀忠が出迎える。旅館にて父子対面する。その後、秀忠のみ江戸城(武蔵国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月27日 71歳
未刻(13-15時)、徳川家康江戸城(「江戸新城」)(武蔵国)に到着する。諸大名が家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 9月28日 71歳
徳川秀忠江戸城(「江戸新城」)にいる徳川家康のもとに赴き対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月1日 71歳
江戸城(武蔵国)にいる徳川家康に諸大名が礼をする。増上寺の源誉存応が家康のもとに出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月2日 71歳
卯刻(5-7時)、徳川家康が葛西にて鷹狩をする。申刻(15-17時)、江戸城(武蔵国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月3日 71歳
江戸城(武蔵国)にて南光坊天海が論義する。題は「現世安穏後世善所」。徳川家康秀忠父子、諸大名、廓山、江戸誓願寺が聴聞する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月4日 71歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に南殿に赴く。近習衆が随従する。徳川秀忠が家康のもとを訪れ閑談する。秀忠が去った後、家康は本多正信本多正純父子を召し、閑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月6日 71歳
南部利直江戸城(武蔵国)の居る徳川家康に謁す。白根山より産出の黄金を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第210「南部利直」の項

慶長18年 1613年 10月8日 71歳
富田信高坂崎直盛を訴えた件につき、江戸城(武蔵国)南殿にて徳川家康秀忠父子が直盛勝訴の裁許を出す。
夜、浅野幸長の遺物として玉堂肩衝茶入・脇差(銘 吉光)・キネノオレ・古銅花入が家康に進上したことを本多正信が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月9日 71歳
南光坊天海江戸城(武蔵国)にて論議を行う。徳川家康秀忠父子が聴聞する。持戒、毀戒、威儀、具足、正見、邪見、利根、鈍根、等雨、法雨、煩悩、不断成仏、五逆罪滅について論じる。精義は天海、講師は法輪寺。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月10日 71歳
辰刻(7-9時)の徳川家康江戸城(武蔵国)本丸お成りが、家康の体調不良により延期となる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月18日 71歳
辰刻(7-9時)、徳川家康が復調により江戸城(武蔵国)本丸に赴く。本多正純成瀬正成安藤直次永井直勝松平正久後藤光次、医師衆、近習衆100名程が供奉する。
申刻(15-17時)、浅野長晟が江戸城(武蔵国)にいる家康の前に召し出され、兄・幸長の実子がいなかったため遺領を継ぐことが認められる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月20日 71歳
卯刻(5-7時)、徳川家康が鷹狩のため戸田に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月21日 71歳
卯刻(5-7時)、徳川家康が鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月23日 71歳
徳川家康が川越(武蔵国)に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月26日 71歳
川越(武蔵国)の旅館にいる徳川家康藤堂高虎を召し閑談する。
富田信高の宇和島(伊予国)100000石を改易する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月27日 71歳
徳川家康松平正久に命じて岩槻(武蔵国)にて白鳥33羽を捕る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月29日 71歳
巳刻(9-11時)、仙波にて南光坊天海が論議をする。2-zinbutu-20-tokugawa-ieyasu.htmlが参詣する。申刻(15-17時)、論義が終わり、家康は川越(武蔵国)の旅館に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 10月30日 71歳
徳川家康が川越(武蔵国)より忍(武蔵国)に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月4日 71歳
徳川家康が鷹狩をする。
酉刻(17-19時)、家康は忍御殿に論議を聴聞する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月9日 71歳
佐野信吉徳川家康に謁見する。信吉の兄・富田信高は改易されたが、信吉は誤ったことはないとして許される。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月10日 71歳
徳川家康が鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月11日 71歳
徳川家康が鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月12日 71歳
徳川家康が鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月13日 71歳
徳川家康が鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月14日 71歳
徳川家康が鷹狩をする。17日に岩槻(武蔵国)に移動する旨を明らかにする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月15日 71歳
徳川家康が体調不良のため鷹狩を中止する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月16日 71歳
徳川家康が体調不良により、17日に予定していた岩槻(武蔵国)への移動を延期する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月17日 71歳
徳川家康が体調復調により鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月18日 71歳
徳川家康が鷹狩をする。その道中、百姓が代官・深津八九郎を訴えたので、双方を召し出し裁判を行ったところ、八九郎の専横が明るみになったため、八九郎の代官職を罷免し、高木九助・小栗庄右衛門・遠藤豊九郎・天野彦右衛門に代官を命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月19日 71歳
卯刻(5-7時)、徳川家康が忍(武蔵国)を発す。道中、鷹狩をする。申刻(15-17時)、岩槻(武蔵国)に到着する。岩槻城(武蔵国)城主の高力忠房が家康を出迎える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月20日 71歳
徳川家康が岩槻(武蔵国)を発ち、未刻(13-15時)、越谷(武蔵国)に到着する。
小山(下野国)より本多正純が越谷に到着する。
徳川秀忠が鴻巣(武蔵国)より江戸城(武蔵国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月21日 71歳
徳川家康が鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月23日 71歳
越谷(武蔵国)にいる徳川家康のもとに徳川秀忠の使者として神尾守世が赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月24日 71歳
越谷(武蔵国)近辺の百姓が、徳川家康に鷹場にて代官を訴える。夜、代官と百姓を呼び寄せ裁判をしたところ百姓に非があったため百姓側の棟梁6人を捕らえる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月25日 71歳
徳川家康が鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月26日 71歳
越谷(武蔵国)にて徳川家康が鷹狩をする。27日、葛西に移ることを表明する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月27日 71歳
卯刻(5-7時)、徳川家康が越谷(武蔵国)を発つ。鷹狩をする。申刻(15-17時)、葛西に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月28日 71歳
徳川家康が鷹狩をする。29日に江戸城(武蔵国)に帰城する旨を表明する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 11月29日 71歳
卯刻(5-7時)、徳川家康が葛西を発つ。道中、鷹狩をする。未刻(13-15時)、江戸城(武蔵国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 12月1日 71歳
江戸城(武蔵国)南御殿にて徳川家康徳川秀忠が対面する。諸大名が家康に礼をする。午刻(11-13時)、南光坊天海と仙波中院が家康の前で仏法について雑談する。その際、天海に仙波(武蔵国)近辺で500石を寄進することと中院に黄金10枚を贈ることを伝える。天海の退出後、源誉存応が家康のもとに出仕し、仏法について雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 12月2日 71歳
巳刻(9-11時)、徳川秀忠江戸城(武蔵国)新城に赴き、徳川家康と密談する。未刻(13-15時)、秀忠は江戸城本城に戻る。家康の駿府城(駿河国)帰還につき、供奉の物が秀忠に暇乞いをし、秀忠より黄金・呉服を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 12月3日 71歳
夜明けに徳川秀忠江戸城(武蔵国)新城に赴き、徳川家康に暇乞いをする。
辰刻(7-9時)、家康が江戸城を発つ。稲毛に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 12月5日 71歳
徳川家康が鷹狩より戻る。
夜、本多正信が家康への暇乞いとして江戸(武蔵国)より稲毛に赴く。
来春の諸大名普請にあたり、金森可重については、名古屋城(尾張国)の普請を引き受けているので、諸大名普請からは除外するようにと家康が指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 12月6日 71歳
徳川家康が中原(相模国)に到着する。
板倉勝重よりの飛脚が家康のもとに到着し、堺政所の細川喜三郎の死去が伝えられる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 12月7日 71歳
中原(相模国)にいる徳川家康のもとに徳川秀忠の使者として板倉重宗が到着し、肴を家康に進上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 12月13日 71歳
辰刻(7-9時)、徳川家康が、急遽、中原(相模国)を発ち、申刻(15-17時)、稲毛(武蔵国)に到着する。1月に土気(上総国)・東金(上総国)にて鷹狩をするためで、徳川秀忠が迎えとして、夜、小杉に赴き家康と対面する。対面後、秀忠は江戸城(武蔵国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 12月14日 71歳
午刻(11-13時)、徳川家康江戸城(武蔵国)「新城」に帰城する。徳川秀忠が家康と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 12月19日 71歳
徳川家康秀忠父子が、キリスト教徒を追放すべく、大久保忠隣に京都へ赴くよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 12月19日 71歳
卯刻(5-7時)、後陽成天皇の禁裏の移徙が行われる。
出典:『駿府記』同年月22日条

慶長18年 1613年 12月25日 71歳
徳川家康が越谷(武蔵国)にて鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 12月28日 71歳
徳川家康が節分により越谷(武蔵国)より江戸城(武蔵国)に帰城する。徳川秀忠が対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長18年 1613年 12月29日 71歳
徳川家康のもとに赴き、歳暮の礼として織田有楽斎が銀50枚・小袖5領を、細川忠興が銀300枚・小袖10領を、鍋島勝茂が銀300枚・小袖10領を、山内忠義が銀200枚・小袖10領を、堀尾忠晴が銀100枚・小袖5領を進上する。奥平忠政、松平忠明、石川主殿助、本多美濃守、松平和泉守、本多康紀、松平主殿助が家康に進物を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『細川家記』13「忠興」7

慶長19年 1614年 1月1日 72歳
巳刻(9-11時)、徳川秀忠が父・家康のもとに礼に赴く。江戸城(武蔵国)南殿にて対面する。秀忠は太刀(銘 守家)・馬代銀100枚を家康に献上する。披露は大沢基宿。奥の座敷で酒宴が行われ、酌を松平正久が、御加を水野金十郎、陪膳を金森左兵衛・北見長五郎・内藤掃部助がつとめる。
出典:『駿府記』同年月日条、『細川家記』13「忠興」7

慶長19年 1614年 1月5日 72歳
徳川家康江戸城(武蔵国)本丸に赴く。祝儀の後、南殿に赴き、能3番が開催される。徳川国松が勤める。家康、徳川秀忠、女中衆が簾中より見物する。
出典:『駿府記』同年月日条、『細川家記』13「忠興」7

慶長19年 1614年 1月5日 72歳
大久保忠隣が京都(山城国)のキリスト教徒退治のため、小田原城(相模国)を発つ。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月6日 72歳
源誉存応徳川家康に礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条、『細川家記』13「忠興」7

慶長19年 1614年 1月7日 72歳
徳川家康が鷹狩のため葛西に赴く。徳川秀忠成瀬正武を遣わし家康に肴を進上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『細川家記』13「忠興」7

慶長19年 1614年 1月8日 72歳
徳川家康が千葉(下総国)に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、『細川家記』13「忠興」7

慶長19年 1614年 1月9日 72歳
徳川家康が東金(上総国)に赴く。道中、鷹狩をする。徳川秀忠の使者として水野忠元が家康のもとに到着し進物を献じる。
出典:『駿府記』同年月日条、『細川家記』13「忠興」7

慶長19年 1614年 1月10日 72歳
徳川家康が東金(上総国)にて鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月11日 72歳
徳川家康が東金(上総国)にて鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月12日 72歳
徳川家康が東金(上総国)にて鷹狩をする。家康は14日に江戸城(武蔵国)に帰城する旨を表明する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月14日 72歳
雨により徳川家康江戸城(武蔵国)帰城は延期となる。
村越直吉が死去する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月15日 72歳
徳川家康が鷹狩をする。鷹場近くに知行地を有す本多忠朝が酒肴を家康に献じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月16日 72歳
卯刻(5-7時)、徳川家康が東金(上総国)を発し、申刻(15-17時)、千葉(下総国)に到着する。家康が村越直吉の死を知り、大いに悲しむ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月17日 72歳
徳川家康が千葉(下総国)を発す。未刻(13-15時)、葛西に到着する。道中、鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月17日 72歳
大久保忠隣が京都(山城国)に到着する。西京にある南蛮寺を焼き払い、四条にある南蛮寺は町中につき類火を恐れ、破却の後に火をつける。忠隣は京都の藤堂高虎邸に宿泊する。
出典:『当代記』同年月18日条

慶長19年 1614年 1月18日 72歳
申刻(15-17時)、徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。徳川秀忠が家康を出迎える。夜、家康が藤堂高虎を召し寄せ密談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月19日 72歳
徳川家康本多正信を召し寄せる。家康は大久保忠隣山口重政が家康・秀忠父子の許可を得ず、婚姻を結んだことを咎め、大久保教隆・幸信兄弟を追放し、安藤重信をして小田原城(相模国)を接収させ、忠隣家臣を城より追い出すよう正信の命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月20日 72歳
天台論議が行われる。精義は南光坊天海、講師は法輪寺。
徳川家康細川忠興に鷹2連を、鍋島勝茂に鷹1連を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月21日 72歳
巳刻(9-11時)、徳川家康江戸城(武蔵国)を発し、申刻(15-17時)、神奈川(武蔵国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月21日 72歳
朝、安藤重信大久保忠隣小田原城(相模国)接収につき、江戸(武蔵国)を発つ。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月22日 72歳
巳刻(9-11時)、徳川家康が神奈川(武蔵国)を発し、藤沢(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月23日 72歳
巳刻(9-11時)、徳川家康が藤沢(相模国)を発し、中原(相模国)の旅館に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月24日 72歳
徳川家康が中原(相模国)を発し、未刻(13-15時)、小田原(相模国)に到着する。
夜、本多正信本多正純安藤直次土井利勝安藤重信連判状を大久保忠隣に発給する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月25日 72歳
未刻(13-15時)、徳川秀忠小田原城(相模国)に到着する。秀忠は小田原にいた父・家康と対面する。対面中に、本多正信藤堂高虎が加わり密談する。秀忠は小田原城二ノ丸に戻る。
26日の早朝より、小田原城を破却するように家康が命じる。それにより、江戸・駿府の諸卒が、早くも石垣を崩し、大門を破却する。家康は江戸・駿府の諸卒に対し勝手な行為をしないように命じる。
最上家親の飛脚が江戸(武蔵国)より小田原に到着し、18日に最上義光が死去したことを、正信を介し家康に報告する。これにより、家康は家親に領国へ帰国し、後処理をするよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月26日 72歳
前田利光より小田原(相模国)にいる徳川家康のもとに使者が到着する。利光より、高山重友内藤如庵をキリスト教徒により捕らえ、京都所司代の板倉勝重のもとに移送したこと、領内のキリスト教について宗旨替えしない者を記録し、家康の献上したことを、本多正信正純父子を介し家康に報告する。家康より、日本国内のキリスト教徒について、宗旨替えしない者については津軽(陸奥国)に流罪とすることを、正信・正純父子に命じ、両名がその触をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月27日 72歳
徳川家康が小田原(相模国)を発し、三島(伊豆国)に到着する。保田甚兵衛、島弥左衛門が、27日の家康の箱根山通行の安全を期すため、26日の夜より三島に駐留し往来の者を止める。
徳川秀忠よりの使者として成瀬正武が家康のもとに到着し、酒肴を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月28日 72歳
徳川家康が三島(伊豆国)を発し、善徳寺(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月29日 72歳
徳川家康善徳寺(駿河国)を発し、駿府城(駿河国)に到着する。徳川義利徳川頼宣徳川頼房兄弟が出迎える。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 1月30日 72歳
駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに徳川秀忠からの使者として土井利勝が到着する。本多正純と利勝が家康と密談する。
長谷川藤広が献上した砂糖20斤が駿府城に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月2日 72歳
浅野長晟が駿府(駿河国)に到着する。昨冬、浅野幸長の跡目相続の許可を得たことへの礼のためと、本多正純徳川家康に取り次ぐ。家康は3日に対面する旨、長晟に伝える。
大久保忠佐の居城である沼津城(駿河国)の破却を正純、安藤直次に命じる。この処置は、忠佐が大久保忠隣の叔父であるためという。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月2日 72歳
徳川家康の命により、大久保忠隣が京都(山城国)より近江国内の所領に移る。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月3日 72歳
浅野長晟駿府城(駿河国)に登城し、徳川家康に紀伊国拝領の礼として銀300枚、御服20領を進上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月8日 72歳
寺沢広高駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月10日 72歳
徳川家康が鷹狩をする。徳川義利徳川頼宣徳川頼房が供奉する。申刻(15-17時)、駿府城(駿河国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月14日 72歳
徳川家康駿府城(駿河国)南殿に出る。森忠政が銀200枚・服10領を、蜂須賀至鎮が銀100枚・服10領を、有馬豊氏が銀50枚・服5領を家康に献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月17日 72歳
駿府城(駿河国)にいる徳川家康京極忠高が礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月19日 72歳
佐竹義宣徳川家康に領内の銀山より出た南鐐銀200貫目・砂金1000両を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月21日 72歳
徳川家康土井利勝を召し、本多正純とともに閑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月22日 72歳
徳川家康土井利勝を召し密談する。利勝は江戸(武蔵国)に向けて出立する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月25日 72歳
生駒正俊が駿府(駿河国)に到着する。正俊は駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに赴き銀100枚・服10領を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月1日 72歳
徳川秀忠の使者として水野忠元駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着し、上巳の祝儀を祝う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月5日 72歳
徳川家康の召しに応じた一乗院、北院が駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月6日 72歳
南禅寺、天龍寺慈済院、相国寺慈照院、鹿苑院、建仁寺常光院紹益、両足院、東福寺不二庵、龍眼庵、南昌院が徳川家康の召しにより、駿府(駿河国)に到着する。
広橋兼勝、広橋兼賢、三条実條、藪宰相、高倉少将が駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月8日 72歳
広橋兼勝、三条実條、広橋兼賢、藪宰相、高倉少将が駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面する。
黒田長政池田玄隆が家康に銀200枚・服10領を献上する。家康は長政・玄隆に暇を賜い、江戸(武蔵国)に向かう。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月8日 72歳
徳川秀忠佐野信吉の唐沢山城(下野国)を破却する。信吉は江戸(武蔵国)詰めを言い渡される。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月12日 72歳
浅間にて能が催される。徳川家康が見物に赴き、徳川義利徳川頼宣徳川頼房、近習衆が供奉する。一乗院、北院、南光坊天海、月山寺、薬樹院、宝亀院、大楽院、明王院、五山衆が見物する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月14日 72歳
駿府城(駿河国)にて法相宗論議、真言論議が行われる。広橋兼勝、三条実條、広橋兼賢、藪宰相、高倉少将、南光坊天海、月山寺、薬樹院、浄土宗僧、五山衆が聴聞する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月17日 72歳
駿府城(駿河国)にて法相宗論議が行われる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月21日 72歳
細川忠利駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。銀子・服を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月25日 72歳
論議終了につき、徳川家康駿府城(駿河国)数寄屋にて一乗院、喜多院、東北院、阿弥陀院に茶を賜う。茶入れは銘大海。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月26日 72歳
駿府城(駿河国)書院にて管弦の藪宰相、琴楽人3人による演奏が行われる。1番・千秋楽、2番・青海波、3番・陵王。奥之間にて振が演奏を聴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 3月27日 72歳
良正院駿府城(駿河国)にいる父・徳川家康のもとを訪れる。義子の池田利隆が播磨国を、実子の池田忠継が備前国を領しているが、利隆により備前国が奪われるのではないかと思い、国替えを希望すべく家康のともとに赴く。
出典:『当代記』同年月日条、

慶長19年 1614年 3月30日 72歳
田中忠政駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。銀200枚・黒羅紗を献上する。
池田忠継荒尾成利、福原清左衛門、石原市右衛門が家康に礼をする。それぞれ服2領を献上する。
家康と土井利勝が密談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月3日 72歳
木下延俊駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。銀20枚・服を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月4日 72歳
駿府城(駿河国)にて明星院による真言の論議が行われる。
加藤忠広が駿府城にいる徳川家康に礼をする。銀200枚・服10領・袷衣20領を献上する。忠広の郎従5名も家康と対面する。
間宮新左衛門、田辺十郎左衛門が佐渡国より駿府(駿河国)に到着する。銀1000貫目を持参する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月5日 72歳
徳川家康が『群書治要』、『貞観政要』、『続日本紀』、『延喜式』を五山衆に渡し、公家・武家の法度に必要な箇所を抜き出すよう命じる。
西福寺長老が家康に『選択集』2巻を献上する。長老が家康に読みあげる。
総寺院が法華経二十八品歌二十八首を献上する。冷泉為満が読みあげる。
大村喜前が家康に礼をする。銀20枚・緞子5巻を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月6日 72歳
松平忠直駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。銀200枚・綿300把を献上する。家康は忠直の家老である本多富正と丹下を召し、忠直若年つき後見をするよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月8日 72歳
松平忠直駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。忠直は江戸(武蔵国)に赴くべく駿府(駿河国)を発つ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月14日 72歳
駿府城(駿河国)三ノ丸にて能が行われる。五山長老衆、冷泉為満が見物する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月15日 72歳
駿府城(駿河国)三ノ丸にて能が行われる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月19日 72歳
板倉勝重の飛脚が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着する。16日に方廣寺大仏殿(山城国)の鐘鋳が行われたことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月20日 72歳
勅使の広橋兼勝・三条実條、藪宰相、日野、広橋兼賢、高倉が駿府城(駿河国)に登城し徳川家康に会う。勅使の意趣は、徳川秀忠の娘を入内すること、家康に太政大臣か准三后従一位に任官することを伝える。家康よりは、「公家中之法式」を糺すこと、諸公家の記録を書写し進上することを伝える。実條が『三代実録』を所持していることを家康に伝える。
曲直瀬玄朔が家康に謁す。
京都より家康のもとに飛脚が到着し、方廣寺大仏殿(山城国)の鐘鋳に唐金17000貫目余、鞴数132丁、桶4筋、鋳物師棟梁は山城国釜之座弥右衛門・同助左衛門、脇棟梁11人、諸国鋳物師3100余人、鐘の口9尺1寸5分、高1丈8寸、厚9寸だったことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月21日 72歳
駿府城(駿河国)三ノ丸にて能が行われる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月22日 72歳
細川忠興が江戸(武蔵国)に詰めるべきところ、病により暇を得ていたことについて、徳川家康に対面する。忠興は家康に袷衣10領・緞子20巻を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 4月28日 72歳
徳川秀忠の使者として安藤重信駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。20日の朝廷からの任官の申し出について、秀忠には異議がないことを家康に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 5月3日 72歳
片桐且元駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 5月5日 72歳
徳川秀忠の使者として酒井忠世が駿府(駿河国)に到着する。秀忠の右大臣従一位の任官の礼のためという。日次が悪いとして忠世の出仕は8日とされる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 5月8日 72歳
徳川秀忠の使者として酒井忠世駿府城(駿河国)奥之常之御座にて徳川家康に銀3000枚・太刀(銘 光長)・馬(黒鹿毛)を献上する。本多正純、阿茶局が披露する。
忠世が家康に礼をする。蝋燭500挺・太刀・馬を献上する。家康は忠世に刀(銘 長光)を下賜する。忠世は江戸(武蔵国)に帰るべく駿府(駿河国)を発つ。
加藤忠広の名代として加藤正方が駿府城の礼をする。蒲生秀行の娘を秀忠の養女としたうえで忠広に嫁がせたことを謝し、緋繻子20、黒繻子20、服10領
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 5月10日 72歳
京都(山城国)より板倉重宗駿府城(駿河国)に到着し、徳川家康と密談をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 5月19日 72歳
加藤明成駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに礼をする。3年間、腫物のため伊予国に3年間居住し、家康の礼が遅れる。明成は銀100・綿200把・袷衣10領を家康に献上する。本多正純が家康に披露する。この間、加藤嘉明は江戸(武蔵国)に在府する。
板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。五畿内で大雨があり洪水が起こり、賀茂川の堤防が切れ、町家に流れる。また、瀬田橋の板が傾き落ちる。板倉重昌がその旨を家康に伝える。瀬田橋の修復を家康は命じる。
前田利長が死去した旨が家康に伝えられる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 5月20日 72歳
駿府城(駿河国)にて徳川家康片桐且元が暇を下す。家康は豊臣秀頼に鷹を、且元に鷹・馬を賜う。
申刻(15-17時)、延暦寺(山城国)の正覚院、南光坊天海、五智院、泉福寺、恵光坊、西楽院、仏眼院、竹林坊、恵心院、行光坊、日増院、叡光院、東光院、学林坊が駿府(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 5月21日 72歳
徳川家康延暦寺(山城国)の正覚院、南光坊天海、五智院、泉福寺、恵光坊、西楽院、仏眼院、竹林坊、恵心院、行光坊、日増院、叡光院、東光院、学林坊と駿府城(駿河国)にて対面する。仏法について雑談をする。天台宗僧の退出後、奥ノ間にて南光坊天海が家康に血脈を相伝する。
家康が池田備後守の知行を没収する。
尼崎(摂津国)代官の池田越前守が家康に礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 5月24日 72歳
南光坊天海駿府城(駿河国)に出仕し、徳川家康に日光山麓にて銅が産出したことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 5月29日 72歳
徳川家康が五山僧に銀服を賜う。
里見忠義駿府城(駿河国)にいる家康に礼をする。銀100枚・単物・帷子を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 6月2日 72歳
松平乗寿駿府城(駿河国)にいる徳川家康に継目の礼をする。銀50枚・帷子を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 6月4日 72歳
徳川秀忠の使者として成瀬正武駿府城(駿河国)にいる徳川家康に、諸大名による江戸城(武蔵国)の石垣を構築が半ば完成していること、雨により延引していること、諸国で洪水が起こり堤や橋が損壊していることを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 6月12日 72歳
庭田宰相が江戸(武蔵国)より駿府(駿河国)に到着する。
下間頼孝が江戸に赴くべく、駿府を発つ。頼孝は駿府にあって能の勤仕をしていたので、徳川家康が金子10枚・綿100把を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 6月16日 72歳
巳刻(9-11時)、駿府城(駿河国)南殿にて嘉定が行われる。徳川家康徳川義利徳川頼宣徳川頼房日野唯心、伝長老、冷泉中納言、水無瀬一斎、大沢少将、山名禅高、佐々木中務少輔、畠山長門守、土岐左馬助、土岐市正、三好因幡守、三好房一、猪子内内匠助、本田若狭守、徳永左馬助、戸川達安、市橋下総守、堀直寄等が出席する。配膳は西尾丹後守。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 6月18日 72歳
徳川家康松浦隆信江戸城(武蔵国)普請と平戸(肥前国)領内のキリスト教徒の改宗を命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 6月19日 72歳
島津忠興が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。伽羅・太刀・馬を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 6月22日 72歳
片桐貞隆大野治長駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。貞隆、治長は江戸(武蔵国)に赴くべく駿府(駿河国)を発つ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 6月24日 72歳
松平忠輝の使者として吉田が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着し、高田城(越後国)普請の進捗状況を報告する。
徳川秀忠の使者として青山重政が家康のもとに到着し御内書を渡す。家康より江戸城(武蔵国)石垣普請のことを尋ねられ応答する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 6月-日 72歳
徳川家康の命により池田忠継森忠政の娘が婚約する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠継」の項

慶長19年 1614年 7月1日 72歳
飛鳥井雅庸が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月3日 72歳
8月3日に方廣寺大仏殿の大仏開眼供養が行われ、導師は仁和寺門跡であるとの勅諚が出たことを、金地院崇伝徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月7日 72歳
徳川秀忠の使者・水野忠元が七夕の祝儀として駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに赴き帷子5領を進上する。家康より江戸城(武蔵国)普請のことを尋ねられる。
豊臣秀頼の使者として山口左馬允が家康のもとを訪れ、七夕の祝儀として黄金10枚を贈る。また左馬允からの進物として紫皮10枚・太刀・馬を家康に献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月8日 72歳
南光坊天海徳川家康方廣寺(山城国)の大仏開眼供養のことについて、仁和寺門跡が出仕することへの異論を訴える。家康は以心崇伝を介し片桐且元に、近年の事例ではなく聖武天皇や源頼朝の時代の例を調べるよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月9日 72歳
徳川家康が飛鳥井家系図と歌道宗匠日記を閲覧する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月10日 72歳
飛鳥井中納言が江戸(武蔵国)より駿府(駿河国)に到着する。駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。飛鳥井は定家歌書を家康に見せ、歌道の雑談をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月13日 72歳
徳川秀忠の使者として土井利勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ、前田利長の隠居領である能登国160000石について、前田利光に給付すべきか否か相談する。家康は前田家家老の前田長種、水原新左衛門、奥村栄頼本多政重を呼び、利光の妻である珠に30000石を給付すること、利光は若年によりよくよく後見するようにと命じる。家老衆は感涙し退出する。家老衆はそれぞれ家康に加賀絹50疋を献上する。また、利長の遺物である脇差(銘 不動正宗)・刀(銘 備前三郎)を家康に献上する。本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月14日 72歳
徳川秀忠が父・家康に定家自筆『伊勢物語』を贈る。土井利勝が持参する。林羅山は家康に読み聞かせをする。この本は後土御門天皇の御物で、畠山義総三好長慶と伝わり、三好家没落後は堺(和泉国)にあったが、細川藤孝が入手し、松平忠吉が藤孝に所望して入手し、忠吉没後は秀忠に進上されたものとされている。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月15日 72歳
徳川家康日野唯心、飛鳥井、冷泉に定家自筆『伊勢物語』を見せる。
土井利勝が江戸(武蔵国)に戻るべく駿府(駿河国)を発つ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月16日 72歳
冷泉為満駿府城(駿河国)にいる徳川家康に定家自筆『三十六歌撰』1冊を見せる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月17日 72歳
午刻(11-13時)、駿府(駿河国)にて風雨があり、夜、風が強くなる。
仙石忠政駿府城(駿河国)にいる徳川家康に父・秀久死去につき、継目の礼をする。銀100枚・絹50疋・帷子・単物10領、秀久遺物として金100枚・脇差(銘 長光)・茶壺を献上する。本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月18日 72歳
京都(山城国)の板倉勝重片桐且元より以心崇伝をもって駿府城(駿河国)にいる徳川家康方廣寺(山城国)の大仏開眼供養について報告がある。8月3日の朝、仁和寺門跡を導師とし、日中の供養は天台宗を左座とすること、鷹司が大仏殿に着座し、公家衆は堂内に着座することなどを伝える。なお、頼朝時代の開眼供養について、家康が『吾妻鑑』を読ませる。
多武峰(大和国)が崩れ、大織冠社檀が破損したこと、ただし藤原鎌足像は無事で他所に移したことを崇伝と竹林坊が家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月19日 72歳
島津家久の使者が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着し、染絹100疋・琉球酒2壺を献上する。
島津維新斎の使者が家康のもとに到着し、緋緞子20巻・香1箱を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月20日 72歳
飛鳥井中納言が新歌撰写を家康に献上する。
谷衛友駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。江戸(武蔵国)詰めのため家康が衛友に暇を下す。本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月21日 72歳
飛鳥井中納言が徳川家康に『源氏物語』を講釈する。
駿府城(駿河国)数寄屋にて家康が近習4、5人と金地院崇伝板倉重昌を召し、方廣寺(山城国)の鐘の銘文が「関東不吉」であると述べたうえで、上棟式の日程についても吉日ではないとして立腹する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月25日 72歳
徳川秀忠の使者として成瀬正武駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月26日 72歳
南光坊天海徳川家康に天台血脈を伝授する。
片桐且元板倉勝重の書状が家康のもとに届く。内容は方廣寺大仏供養は8月3日、開眼供養は8月18日にするようにとの家康の指示だが、18日は豊国臨時祭のため3日に開眼供養を開催したいと豊臣秀頼が述べていたことを伝える。家康はこの返事として、大仏供養のことについて棟札の記載と鐘の銘文に立腹していることを伝え、頼朝時代には大仏開眼と堂供養は分けて実施しているので先例に倣うようにと本多正純金地院崇伝をして伝えさせる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 7月27日 72歳
南光坊天海駿府城(駿河国)数寄屋にて徳川家康に天台法問の伝授をする。
成瀬正武が江戸(武蔵国)に帰るべく駿府(駿河国)を発つ。
家康が『晋書』、『玉海』、『朱子大全』、『大学衍義補』、『二程全書』、『文章弁礼』、『文章正宗』、『李白詩集』、『東莱南軒集』等の書籍30冊を江戸に送る。いずれも江戸の文庫に無い書籍で、林羅山が移送を担当する。
家康が佐野信吉の所領を改易する。信吉の兄・富田信高が勘気を蒙り所領改易となったことの連座とされる。信吉の身柄は小笠原秀政が預かる。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「小笠原秀政」の項

慶長19年 1614年 7月28日 72歳
小笠原政信が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。帷子10領・銀100枚を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月1日 72歳
駿府城(駿河国)にいる徳川家康が、南光坊天海、以心伝心、東大寺衆、日野唯心、飛鳥井雅庸、冷泉為満、唐橋と雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月2日 72歳
中井正清駿府城(駿河国)にいる徳川家康方廣寺(山城国)の鐘の銘文を送る。銘文の筆者は東福寺(山城国)の清韓で、家康は「国家安康」の語をはじめ文章に不快感を示す。銘文の写しを作成し、徳川秀忠に送る。担当は林羅山
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月3日 72歳
徳川家康駿府城(駿河国)奥ノ間前の泉水について、島を築き池を掘って魚を放つように命じる。担当は諏訪部総右衛門。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月4日 72歳
中井正清より駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに方廣寺(山城国)大仏殿の棟札写しがもたらされる。棟札執筆者は照高院道勝。家康は棟札の文章に不快感を示す。鐘の銘文についても、奈良の大仏の鐘銘になぞらえるようにと伝えたのに異なっていたこと、また豊臣秀頼が京都(山城国)に赴くならば、供奉の者を諸大夫に任官すべきと伝えたが、諸大夫の任官だけして秀頼の京行きは中止となったことに不審の念を示す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月5日 72歳
片桐且元より駿府城(駿河国)にいる徳川家康方廣寺(山城国)大仏殿の鐘銘・棟札が到着する。4日に中井正清が提出したものと同文であることを確認する。家康は鐘銘の善悪を五山衆に問うべく、板倉重昌を京都(山城国)に遣わすこととする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月7日 72歳
徳川家康が山崎宗鑑自筆『二十一代集』を日野唯心、飛鳥井雅庸、冷泉為満に見せる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月8日 72歳
板倉重昌が京都(山城国)に向けて駿府(駿河国)を出立する。
東大寺上生院が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面し、大仏の髪が傾いたので修復すべく、真柱を取り替え、諸国勧進をし、銅をもって鋳造することを訴える。家康はその訴えを承諾し、中井正清に修復工事を命じる。源頼朝が重源に遣わした自筆文書2通、『東大寺縁起』を上生院が家康に見せる。
小笠原秀政忠脩父子が家康に礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月9日 72歳
駿府城(駿河国)にて天台論義が行われる。題は「法華入実者、阿含之但空歟、方等之弾呵による歟」。精義は南光坊天海、月山寺、真光寺、法輪寺、日増院、実泉院。
徳川家康が尊応・栄雅の奥書がある『定家古今集』、逍遥院・称名院筆の『三代集』を冷泉為満等の公家衆に見せる。為満は『定家古今集』をみて不審の念を持つ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月11日 72歳
南光坊天海徳川家康に天台仏法の奥儀を述べる。
畔柳寿学が家康に4尺ある鯛に似た大魚を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月12日 72歳
駿府城(駿河国)にて、徳川家康山名禅高に両吟連歌を命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月13日 72歳
徳川家康が南蛮人の黒船の船頭と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月17日 72歳
徳川家康中井正清より提出された興福寺(大和国)南大門、法隆寺(大和国)の御持堂・聖霊院・法華堂の棟札写4通を見て、各棟札には大工名が入っているのに、方廣寺(山城国)大仏殿の棟札にはそれがないとして立腹する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月18日 72歳
板倉重昌が京都より駿府城(駿河国)の徳川家康のもとに戻る。方廣寺大仏殿梵鐘の銘文について五山碩学の長老7人の批判文を持参する。家康はその批判文を読んだうえで、南光坊天海以心崇伝林羅山を呼び、批判文より英叟清韓の文書の難点を指摘するよう命じる。
片桐且元が丸子寺に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月19日 72歳
片桐且元が駿府(駿河国)に到着する。
徳川家康方廣寺(山城国)鐘銘についての五山衆の批判文の写しを徳川秀忠に送る。林羅山が担当。
於大の13回忌として家康が銀100枚を増上寺(武蔵国)に送る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月20日 72歳
徳川家康以心崇伝本多正純方廣寺(山城国)に棟札・鐘銘がどこで食い違ったのか、また豊臣秀頼が多くの牢人を召し抱えていることについて不審の念を述べる。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月24日 72歳
長崎(肥前国)より長谷川忠兵衛、茶屋清次駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ、南蛮・唐人の商船が来航していることを報告する。家康より忠兵衛と清次にキリスト教徒追放のこと尋ねる。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月25日 72歳
村上忠勝溝口宣勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康に謁見する。蝋燭を献上する。
木下熊之助が初めて家康に謁見する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月27日 72歳
駿府城(駿河国)にて天台論義が行われる。題は「法華ノ弥陀、観経弥陀と同体か別体か」。精義は南光坊天海、講師は月山寺、薬樹院、真光寺、法輪寺、日増院、東光坊、法泉院。
飛鳥井雅庸が江戸(武蔵国)に赴くべく駿府(駿河国)を発つ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 8月28日 72歳
江戸(武蔵国)にて大風があり、城下の家屋や寺社が倒壊する。伊達政宗前田利光の屋敷が倒壊する。
山城国・河内国・近江国にて堤が崩れ、百姓は家を流され溺死するとされる。
徳川秀忠の使者として水野忠元駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面する。本多正純を交え、大坂城(摂津国)にて豊臣秀頼が牢人を召し抱えていることについて家康が立腹している件で密々の相談をする。
出典:『駿府記』同年月日条、同9月1日条、同9月4日条

慶長19年 1614年 8月30日 72歳
徳川家康の使者として本多正純徳川秀忠のもとに赴くべく、駿府(駿河国)を発つ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月1日 72歳
公家衆が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に出仕する。
家康がオランダ人に謁見する。オランダ人は白糸2丸、龍脳2斤、丁子2嚢、大木綿、緞子を献上する。ヤン・ヨーステンが家康に対面する。家康に虎子2匹を見せる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月4日 72歳
徳川家康が地謡役者に米20石を下賜する。担当は永井直勝
駿府城(駿河国)にて天台論義が行われる。題は「提婆権者か実者か」。精義は天海、講師は法輪寺・月山寺・真光寺・日増院・東光坊・法泉院・観音院。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月7日 72歳
本多正純が江戸(武蔵国)より駿府(駿河国)に戻る。徳川家康片桐且元のもとに正純・金地院崇伝を遣わし、家康の意向として、豊臣秀頼から且元・片桐貞隆に知行給付するようすると伝える。断れば不義となることを且元兄弟に伝える。また、秀頼が家康・秀忠父子を調伏しているとの風説があることを伝える。大蔵卿局にも同じことを伝える。
舟橋秀賢の子が家康に継目の礼をする。秀賢の遺物である『三代実録』50巻を家康に献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月8日 72歳
徳川家康南光坊天海以心崇伝、宝性院、飛鳥井雅庸、冷泉為満に重陽の御服2領ずつを賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月9日 72歳
巳刻(9-11時)、徳川家康駿府城(駿河国)御書院に赴く。公家衆が出仕する。
徳川秀忠が使者として神尾守世が家康に重陽の御服5領を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月11日 72歳
徳川家康片桐且元大蔵卿局淀殿への伝達事項を伝える。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月13日 72歳
徳川家康が飛鳥井雅庸に暇を遣わす。銀30枚・綿200把を雅庸に賜う。
東大寺大仏殿(大和国)の修造について、上性院・清凉院が勧進の不足分の供出を家康に請う。家康は不足分の供出に応じる。
原胤信が関東より駿府(駿河国)に身柄を移送される。胤信は両手指を切り落とされ、額に焼印が入った状態で、キリスト教徒につき召し抱える者は許されざる者であると記した制札を添えて放逐される。担当は彦坂光正
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月14日 72歳
徳川秀忠の使者として土井利勝が駿府(駿河)に到着する。土井利勝が利勝の到着を密かに徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月15日 72歳
駿府城(駿河国)数寄屋にて徳川家康南光坊天海と仏法の雑談をする。
諸侍が家康に出仕する。
幸若小八郎が江戸(武蔵国)より駿府(駿河国)に到着する。家康の前で舞曲を舞う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月16日 72歳
前田利光が駿府(駿河国)に到着する。午刻(11-13時)、駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに利光が礼をする。利光は黄金100枚・紅染絹200疋・白絹100疋を献上し、家康に対面する。家康は利光に太刀(銘 守家)・脇差(銘 長光)を賜う。本多正純が下賜物を伝達する。利光の家臣である奥村栄明奥村栄頼が家康と対面する。服を献上する。
夜、家康が利光に継目の朱印状を発給する。正純、土井利勝が利光のもとに持参する。
家康が利光に、17日朝に徳川秀忠のもとに戻るよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月18日 72歳
池田利隆が駿府(駿河国)に到着する。駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。普請の暇ができたため、播磨国に赴くべく家康に暇乞いをする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月18日 72歳
片桐且元が駿府(駿河国)より大坂城(摂津国)に戻る。且元は豊臣秀頼淀殿に、今後、徳川秀忠との不和を生じないよう、秀頼か淀殿のいずれかが江戸(武蔵)在府をするか、秀頼が大坂城を出て他国に国替えをしてはどうかと徳川家康より提案があったことを伝える。秀頼・淀殿はこの提案を不快とする。
出典:『駿府記』同年月25日条

慶長19年 1614年 9月19日 72歳
徳川家康板倉重昌に深津(三河国)で1500石を給付する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月20日 72歳
徳川家康が日善と対面する。
蒔田権佐が菓子を家康に献上する。
幸若小八郎が駿府城(駿河国)にて舞曲(文覚)を舞う。
江戸(武蔵国)より伊丹康勝・鎮目市左衛門が駿府(駿河国)に到着する。
大久保忠隣の娘婿・里見忠義が館山(安房国)より米子(伯耆国)に国替となる。本多忠朝・内藤政長が館山城(安房国)の請取に赴くこととなる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 9月23日 72歳
大坂城(摂津国)城内にて片桐且元貞隆兄弟を殺害するとの風聞があったため、且元・貞隆が登城を控える。
出典:『片桐家秘記』、『駿府記』同年月25日条

慶長19年 1614年 9月25日 72歳
大坂(摂津国)にて豊臣秀頼の命により大野治長青木一重、石川貞政、薄田兼相渡辺糺木村重成、織田頼長等が、片桐且元を殺害せんとする。且元はこの計画を知り、自邸に籠居する。
且元の飛脚が駿府(駿河国)に到着する。その飛脚は、18日に且元が秀頼・淀/茶々に、徳川秀忠との関係悪化を回避するため、秀頼・淀殿のいずれかが江戸(武蔵国)に在府するか、秀頼が大坂城(摂津国)を出て国替えに応じるか徳川家康より提案があったことを伝えたが、秀頼・淀殿は不快の意を示したこと、その後、且元を殺害するとの密告があったため且元は出仕を控えていることを伝える。本多正純が家康に飛脚の報告内容を伝える。
出典:『駿府記』同年月日条・同年10月1日条

慶長19年 1614年 10月1日 72歳
板倉勝重よりの飛脚が駿府(駿河国)に到着する。勝重の書状には大坂(摂津国)にて豊臣秀頼の命により大野治長青木一重、石川貞政、薄田兼相渡辺糺木村重成、織田頼長等が、片桐且元を殺害せんとし、計画を知った且元が自邸に籠居したことを、本多正純板倉重昌徳川家康に報告する。
家康はこの事件に立腹し、大坂に向けて出陣することを近江国、伊勢国、美濃国、尾張国、三河国、遠江国に触れ、徳川秀忠にも伝える。
勝重よりの書状が、再度、駿府(駿河国)に到着し、織田頼長が、且元が駿府に赴いたならば、秀頼を大坂城(摂津国)より追い出し、織田常真を大将として籠城するつもりであると家康に報告する。
且元・貞隆兄弟が大坂城を退去し、居城・茨木城(摂津国)に入る。
出典:『片桐家秘記

慶長19年 1614年 10月4日 72歳
徳川秀忠大坂城(摂津国)の豊臣秀頼を攻めるべく、関東、陸奥に陣触を出す。
出典:『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月5日 72歳
板倉勝重の飛脚が駿府(駿河国)に到着し、豊臣秀頼大坂城(摂津国)を整備し、牢人を召し抱え、籠城の準備をしていると、駿府城(駿河国)にいる徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月6日 72歳
板倉勝重の飛脚が駿府(駿河国)に到着し、勝重宛の織田有楽の書状を駿府城(駿河国)にいる徳川家康に届ける。有楽の書状には、片桐且元による家康との交渉が不調に終わったことを豊臣秀頼が折檻したため、且元・貞隆兄弟は茨木城(摂津国)に退くことになり、大坂城(摂津国)は大騒動となったが、長益・頼長父子は家康・秀忠父子に対する野心はない伝える。
江戸城(武蔵国)普請役を終えた細川忠利が箱根(相模国)にて大坂の騒動を聞きつけ、この日、駿府(駿河国)に到着する。忠利は、父・忠興が肥後国に在国しているので、家康・秀忠に随従し、大坂城攻めに先手を命じるようにと本多正純を介して家康に伝える。家康は忠利の申し出を神妙として、江戸に赴くよう指示する。
江戸城(武蔵国)普請役を終えた中川久盛が駿府(駿河国)に到着し、家康に対面する。家康は久盛に岡城(豊後国)に帰国し、軍勢を整え、指示を待つようにと伝える。
奥平信昌の飛脚が駿府(駿河国)に到着する。奥平忠政が10月2日に死去したことを、正純を通じて家康に伝える。家康は加納(美濃国)は、忠政の弟・松平忠明が率い、大坂に出陣し、父・信昌は愁嘆であろうから加納城(美濃国)を守備するようにと指示を出す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月7日 72歳
江戸城(武蔵国)普請役を終えた京極高知京極忠高森忠政田中忠政が駿府(駿河国)に到着する。駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康は4名に急ぎ領国に帰国し、軍勢を整え出陣の指示を待つようにと伝える。
片桐且元貞隆兄弟の使者として小島勝兵衛・梅津忠介が駿府(駿河国)に到着する。両使は本多正純を介し、且元・貞隆が大坂城(摂津国)より茨木城(摂津国)に退いたことを家康に報告する。家康は両使を召し出し、服・羽織を下賜したうえで、且元・貞隆へ茨木城への退出を神妙と書状をもって伝える。
大坂城攻めにあたり、家康が駿府城(駿河国)の留守居を松平紀伊守、三宅宗右衛門に命じる。
家康が彦坂光正に西国の早船を調べ櫓を取り上げるように命じる。
家康が沼津城(駿河国)の留守居を長野九左衛門に命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月8日 72歳
朝、徳川家康藤堂高虎大坂城(摂津国)攻めの先陣として、天王寺(摂津国)から攻め入るべく、紀伊国・美濃国・尾張国・伊勢国・遠江国・三河国の諸勢と大和国まで進むようにと命じる。
徳川秀忠の使者として土井利勝が駿府(駿河国)に到着する。利勝は、大坂城攻めにつき、家康が出陣するとのことだが、秀忠の意向としては家康は関東・江戸の仕置きをして欲しいとの思いがあり、再三、家康に翻意を促すが、家康は先ず上洛し、大坂城の状況をみてさしたることがなければ処置をした後、駿府に戻るが、豊臣秀頼が籠城するならば秀忠に同城を攻撃を指示するという。なお、その際は、秀忠に軍勢100000をもって陸奥の仕置きをした後、上洛するようにと伝える。加えて、江戸城(武蔵国)の留守居を松平忠輝蒲生忠郷奥平家昌最上家親鳥居忠政酒井重忠酒井忠利、内藤清次とするよう利勝に指示する。利勝は江戸(武蔵国)にむけすぐに駿府を発つ。
江戸城普請を終えた竹中重利が駿府に到着し、家康と対面する。家康は、重利が福島正則と知音なので、使者として赴くようにと伝える。家康が重門を通じて、このたび秀頼が織田長益大野治長木村重成、渡辺守の所為か、家康・秀忠父子に悪逆を構えていることについて、豊臣秀吉は正則を好み、故に正則は秀頼と疎むことはないが、家康・秀忠への秀頼の敵対は、秀頼本人の意思ではないにせよ、もはや互いに疑心暗鬼の状況であるから戦は避けられないので、福島勢は子・忠勝が率いて大坂に出陣し、正則は江戸に留まるようにと正則に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月9日 72歳
最上家親が駿府(駿河国)に到着する。駿府城(駿河国)にいる徳川家康に継目の礼をする。銀500枚・綿500把・蝋燭1000挺・馬(鴇毛)・太刀(銘 正恒)と、父・義光の遺物として黄金100枚・脇差(銘 来国俊)を献上する。本多正純が披露する。家康は家親に大坂城(摂津国)攻めにつき、江戸城(武蔵国)の留守居をするように指示する。家親は江戸(武蔵国)に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月10日 72歳
江戸城(武蔵国)の普請を終えた浅野長晟鍋島勝茂山内忠義蜂須賀至鎮小出吉英稲葉典通遠藤慶隆毛利高政が駿府(駿河国)に到着し、駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康は大坂城(摂津国)攻めにつき、領国に戻り軍勢を整え指示を待つように伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月10日 72歳
孫・奥平家昌宇都宮城(下野国)にて死去する。
出典:-

慶長19年 1614年 10月11日 72歳
辰刻(7-9時)、大坂城(摂津国)攻めのため徳川頼宣駿府城(駿河国)より出陣する。安藤直次・水野重央等の数百騎が随従する。
巳刻(9-11時)、徳川家康が駿府城より出陣する。家康は道中に鷹狩をする。家康勢は、午刻(11-13時)、本多正純指揮のもと出陣する。石川忠総が随従する。申刻(15-17時)、家康は田中(駿河国)に到着する。田中に到着した家康のもとに板倉勝重よりの飛脚が到着する。豊臣秀頼の籠城の様子について、金銀を取り出し、大坂(摂津国)近辺の米を買い入れ、武具を城内に入れ、惣構に壁を構築し、番匠を雇い入れ櫓に置いていると伝える。
彦坂光正が天龍川に架ける舟橋について、家康の通行以前に諸人の往来をしてもよいか家康に伺う。家康は諸人の往来は許すが、軍勢が渡った後は、他の軍勢の追撃を受けないよう舟橋を破却するようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『石川忠総家臣大坂陣覚書』、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 10月12日 72歳
申刻(15-17時)、徳川家康が掛川(遠江国)に到着する。夜、家康のもとに茨木城(摂津国)より大野治純と片桐且元の使者が到着する。家康は治純を召し出し、大坂城(摂津国)の様子を尋ねる。治純は、豊臣秀頼による籠城の準備は、織田有楽、織田頼長、木村重成渡辺糺大野治長等の秀頼側近が急に企てたことであると述べる。
京都(山城国)にいる板倉勝重より家康のもとに飛脚が到着する。飛脚は、10月6・7日に京都にいた牢人の内、長宗我部盛親後藤基次、仙石秀範、明石全登、松浦重政等の1000人余を秀頼が金銀にて召し抱え籠城しているとし、豊臣勢が大和国に攻め入り、宇治(山城国)・槙島(山城国)まで出て放火し、茨木城を攻めて且元・貞隆兄弟を討ち取るとの噂があると報告する。
秀頼が(和泉国)を攻めるというので、堺の町人が秀頼に帰服し、鉄砲・弾薬・武具を大坂城(摂津国)に運び入れる。堺政所の芝山小兵衛は、無勢につき堺を出て岸和田(和泉国)に退く。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月15日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月13日 72歳
徳川家康が中泉(遠江国)に到着する。道中、鷹狩をする。徳川秀忠より家康のもとへ板倉重宗が到着する。
福島正則の使者と竹中重利の書状が江戸(武蔵国)より家康のもとに到着する。正則より、豊臣秀頼大坂城(摂津国)で籠城準備をしていることについて、秀頼と淀殿の野心を批判し、秀頼近習が若輩故かとして、秀頼に書状をしたためたことを家康に伝える。正則の書状は本多正純が内容を確かめる。その書状には、方廣寺(山城国)のことについて、家康・秀忠に対し交戦姿勢を示すのは天魔の所業であるので、すぐに改心し、淀殿にいたっては家康・秀忠に詫び、江戸か駿府(駿河国)に在国し、秀頼の無事を確保するのが大切であると述べる。正則は江戸に妻子を置き、家康・秀忠に対し無二の忠節を誓っている。もし秀頼が改心しないのであれば、正則を始め天下の諸勢が大坂城に向かい、同城を攻め落とすのは間違いないから、よくよく考え、生きながらえるか自滅するかを思案するようにと記されていたとされる。
長崎(肥前国)より長谷川藤広の飛脚が家康のもとに到着する。9月24日にキリスト教徒100余人と高山重友内藤如庵、長崎のキリスト教徒を、船にて天川(マカオ)に遣わしたと報告する。
夜、黒田蔵人と安藤直次所従が喧嘩をする。
秀頼が槙島昭光を大将に軍勢300を(和泉国)に出す。片桐且元が加勢として軍勢200を堺に派遣する。秀頼と片桐勢が戦い、片桐勢は多羅尾半左衛門、牧治右衛門が戦死し、今井宗薫、今井宗呑が戦死したと噂される。且元勢は尼崎(摂津国)に退くが、秀頼勢が追撃し、7、8騎を討ち取る。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月16日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月14日 72歳
卯刻(5-7時)、徳川家康が中泉(遠江国)を発ち、道中を鷹狩をしながら、天龍川二瀬の舟橋を渡り、午刻(11-13時)に浜松(遠江国)に到着する。二瀬舟橋は大石十右衛門、豊島作右衛門が架ける。
京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。勝重よりは、大坂城(摂津国)の様子に変わりはないものの、豊臣秀頼が多くの牢人を召し抱えていることを注文に書き載せ報告する。秀頼は高野山(紀伊国)にいた真田信繁が黄金200枚・銀30貫にて召し抱えたこと、若原良長が播磨国の牢人衆を召し連れ大坂城に入城したこと、淀殿縁者の浅井井頼、根来衆300騎等、数多くの牢人衆が秀頼に召し抱えられたことを伝える。
徳川秀忠の使者として松平正勝が家康のもとに到着する。
江戸城(武蔵国)の普請を終えた加藤忠広が浜松にて家康に対面する。家康は忠広に急ぎ領国に戻り、軍勢を整え、肥後国を守り、指示を待つようにと伝える。また家康は忠広に雁2、肥後守を賜う。松平正久が忠広に伝える。
江戸城の普請を終えた脇坂安元が浜松にて家康に対面する。家康は安元にすぐに伊予国に戻り、大坂城に向けて出陣し、藤堂高虎に組するようにと伝える。
伯耆国の代官である伊丹・山田が家康に伯耆国の午年の物成銀150貫を進上する。
家康が本多正純を召し出し、本多忠政を始めとする伊勢国の軍勢を、淀・鳥羽(山城国)に進めるように指示する。
松平忠直の軍勢15000に早々、淀・橋本(山城国)に出陣するように家康が命じる。
徳川義俊名古屋城(尾張国)より出陣し、一宮(尾張国)に到着する。
前田利光金沢城(加賀国)を出陣する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月16日条・同年月18日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月15日 72歳
徳川家康吉田(三河国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。勝重は、10月12日に豊臣秀頼(和泉国)を攻めるというので、堺の町人が秀頼に帰服し、鉄砲・弾薬・武具を大坂城(摂津国)に運び入れたという。堺政所の芝山小兵衛は、無勢につき堺を出て岸和田(和泉国)に退いたという。
10月9日に、堺を出た町人の柏尾宗具が家康のいる吉田に到着する。家康は宗具を召し出す。宗具は大坂城の籠城の様子と、秀頼が堺を放火するとの噂があったので妻子を郷に隠し、家康の旗本に加わることを述べる。家康は宗具を称える。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月16日 72歳
徳川家康岡崎(三河国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。10月13日に豊臣秀頼が槙島昭光を大将に軍勢300を(和泉国)に出す。片桐且元が加勢として軍勢200を堺に派遣する。秀頼と片桐勢が戦い、片桐勢は多羅尾半左衛門、牧治右衛門が戦死し、今井宗薫、今井宗呑が戦死したと噂される。且元勢は尼崎(摂津国)に退くが、秀頼勢が追撃し、7、8騎を討ち取る。この報を受け、家康は上洛を急ぐ。
福島正則が家康に書状を送る。正則は江戸(武蔵国)にあり、妻子を江戸城(武蔵国)に置くという。
徳川秀忠の使者として成瀬正武が家康のもとに到着する。正武は、伊達政宗上杉景勝佐竹義宣が江戸に到着したので、秀忠が出陣したいと述べていることを伝える。家康は秀忠が準備ができ次第、出陣してもよいと返答する。
松平忠直坂本(近江国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月18日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月17日 72歳
未刻(13-15時)、徳川家康名古屋(尾張国)に到着する。古田重然、半井驢庵が家康を出迎え、家康は名古屋城(尾張国)追手門外で対面する。
徳川義俊が赤坂(美濃国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月18日 72歳
雨により徳川家康名古屋(尾張国)に逗留する。京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。飛脚は豊臣秀頼大坂城(摂津国)にて籠城の準備を進めていること、戦死したと噂されていた今井宗薫・宗呑父子は秀頼勢に捕縛されていたことを家康に報告する。
前田利光の飛脚が家康のもとに到着する。利光は10月14日に金沢城(加賀国)を出陣し、近々、京都に到着することを伝え、陣所の位置について家康の指示を乞う。家康は、淀・鳥羽(山城国)近辺を陣所とするように指示する。
松平忠直の飛脚が家康のもとに到着する。忠直勢が16日に坂本(近江国)に到着したことを報告するとともに陣所の位置について指示を乞う。家康は、西岡・東寺(教王護国寺)・九条・山崎(山城国)辺りを陣所とするように指示する。
徳川義俊が柏原(近江国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日・19日条

慶長19年 1614年 10月19日 72歳
午刻(11-13時)、徳川家康が岐阜(美濃国)に到着する。徳永昌重の飛脚が家康のもとに到着する。昌重より豊臣秀頼の披露状が家康のもとにもたらされる。秀頼は昌重に、片桐且元に不届きであったので、且元を折檻をしたところ、家康が立腹し出陣するまでに至ったのは思いがけないことであり、秀頼は家康・秀忠父子に野心はないことを伝えてほしいと伝える。この披露状の内容を本多正純が家康に伝えたところ、家康は、秀頼は若輩ゆえ織田有楽大野治長が謀をめぐらし、秀頼の意向と偽って、治長から前田利長に書状を送り、上洛して秀頼を補佐を依頼するとともに、兵粮として抱えている福島正則からの米30000石と秀頼蔵納の70000石を進退を委ねると伝えていることを、利長の死後、利光より報告を受けているので、秀頼方に家康・秀忠への敵対心があることは間違いないと述べる。
家康は正純をして、島津家久毛利宗瑞鍋島直茂黒田長政福島忠勝池田利隆池田忠継池田忠雄浅野長晟蜂須賀至鎮加藤嘉明森忠政田中忠政生駒正俊に軍勢を率い、大坂城(摂津国)に押し寄せるように命じる。
徳川義俊が永原(近江国)に着陣する。
本多忠政が枚方(河内国)に陣取る。
松平忠明等の美濃勢が淀(山城国)に陣取る。
三河国の諸勢が鳥羽(山城国)に陣取る。
藤堂高虎が大和路に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月20日 72歳
徳川家康柏原(近江国)に到着する。板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着し、豊臣秀頼二条城(山城国)まで押し寄せ放火するとの噂があることを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月21日 72歳
徳川家康佐和山(近江国)に到着する。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 10月22日 72歳
徳川家康が永原(近江国)に到着する。京都(山城国)より板倉勝重の飛脚が家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)攻めのため京都に到着した先陣諸勢の兵粮米について、(和泉国)の南北町中より支出の旨、申し出がったことを報告する。
家康が竹中重利を召し出し、福島忠勝とともに安芸国・備後国に赴き軍勢を整え、大坂(摂津国)まで出陣するように指示する。また、備後国には鍛冶が多くいるので、鉄楯を生産するように指示する。
家康が大坂に居住し、この日、永原に到着した前庭を召し出し、豊臣秀頼の軍備の様子を尋ねる。前庭は万事が淀殿の意向で決まるので、配下は困惑していると伝える。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)に到着した軍勢を閲兵する。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 10月23日 72歳
卯刻(5-7時)、徳川家康が永原(近江国)を発ち、矢橋(近江国)より早船にて膳所(近江国)に到着する。船中、戸田氏鉄が家康に御膳を献じる。午刻(11-13時)、家康は二条城(山城国)に到着する。家康は、片桐孝利を召し出す。孝利はは、このたび大坂城(摂津国)で家康に別心を構えた者について報告する。
福島正則豊臣秀頼に送った使者が、二条城に戻ってくる。秀頼の正則への返書は無かったとされる。
家康が片桐且元藤堂高虎を召し出し、大坂城の堀の深さを尋ねるとともに、大坂城攻めの諸口の様子を、絵図を用いながら聞く。
徳川秀忠よりの使者として青山重長が家康のもとに到着する。家康は秀忠に出陣を指示する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 10月23日 72歳
徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。
供奉衆:酒井忠世青木信安野呂守景が随従する。
江戸城の留守居として酒井重忠を置く。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項、同161「青木信安」の項

慶長19年 1614年 10月23日 72歳
豊臣秀頼二条城(山城国)近辺を焼き討ちすべく遣わした山伏60人の内、20人が捕縛される。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 10月23日 72歳
前田利光率いる軍勢20000、松平忠直率いる軍勢10000が下京(山城国)に着陣する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同「酒井忠世」の項

慶長19年 1614年 10月24日 72歳
二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに、勅使として広橋兼勝、三条実條が赴く。
家康が大坂城(摂津国)攻めの先手の諸大名衆と対面する。
徳川秀忠の使者として水野忠元が家康のもとに到着する。秀忠の出馬を早く認めてもらうよう家康に伝えたところ、家康より伊達政宗上杉景勝佐竹義宣を先手として急ぎ出陣するように言い渡す。
秀忠が神奈川(武蔵国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月25日 72歳
未刻(13-15時)、山城国で大地震あり。
二条城(山城国)にて徳川家康藤堂高虎片桐且元を召し出し、大坂城(摂津国)包囲の先手を命じる。
井伊直孝勢が伏見城(山城国)を発ち、宇治(山城国)に陣取る。
徳川秀忠が小田原(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 10月26日 72歳
二条城(山城国)にて徳川家康豊臣秀頼のもとにいた織田常真と対面する。常真は家康に内通しており、家康は知行を給付すると常真に伝える。
家康が池田利隆浅野長晟鍋島勝茂等の諸大名と対面する。理由は、利隆等が江戸城(武蔵国)の普請後、そのまま家康に軍列に加わったため金子を持ち合わせておらず軍備に不自由しているので、銀子の借用を後藤光次を介して家康に依頼する。家康は銀200貫目を貸し与える。
京極采女正が家康に対面し、奈良柿1000を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月27日 72歳
一乗院、喜多院が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。
宝性院、片桐貞隆が家康に対面する。
石川貞政、池田利隆が二条城奥ノ間にて家康と対面し、大坂・尼崎(摂津国)の絵図でもって軍陣を様子を説明する。
夜、徳川秀忠の飛脚が家康のもとに到着する。秀忠は23日に江戸城(武蔵国)を出陣し、24日には藤沢(相模国)に到着したことを報告する。家康は、数万の軍勢の移動であるので、ゆるゆると進軍するようにと伝える。
、五山衆が南禅寺金地院(山城国)にて諸家記録1本を3部ずつ写本を作成し、禁裏、江戸城、駿府城(駿河国)にそれぞれ保管するように命じ置く。担当は金地院崇伝林羅山
(和泉国)の南北町が家康に銀200枚を献上する。成瀬正成が家康に披露する。
秀忠勢が三島(伊豆国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月29日条

慶長19年 1614年 10月28日 72歳
三宝院義演、大乗院、本願寺門跡、鉄山、松岳が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 10月29日 72歳
徳川秀忠の使者として永井尚政二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。秀忠の軍勢が27日に三島(伊豆国)に到着したことを報告する。
夏に勘気を蒙った池田光重が、板倉勝重を介し、家康に大坂城(摂津国)攻めに先手に加わりたいと嘆願する。家康はその申し出を殊勝とし、有馬豊氏勢の先手を勤めるようと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月1日 72歳
八条宮智仁親王、二条昭実九条忠栄、妙法院宮、梶井宮、勧修寺宮、隨心院が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。
日蓮衆21ヶ寺の住持が家康と対面する。
池田忠継有馬豊氏が家康と対面する。
上京下京(山城国)が家康に銀1000両を献上する。
島津家久の使者が家康のもとに到着する。家久からは、豊臣秀頼の使者として長崎往来商人の高屋七郎兵衛が家久のもとを訪れ、秀頼黒印状・脇差(銘 正宗)を持参し、家康による大坂城(摂津国)攻めで秀頼に味方するようにとの依頼があったが、家久は関ヶ原の後、家康のおかげで本領安堵を受けているので秀頼に味方することはできないしと、脇差を返却し、使者は商人だったため殺さずに帰したことを報告する。この件は、本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月2日 72歳
吉田(三河国)より徳川秀忠の使者として内藤右衛門佐が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。右衛門佐は家康に秀忠が進軍を急いでおり、清水(駿河国)から掛川(遠江国)、吉田(三河国)と進軍したことを報告する。家康は大軍の移動を急がせていることに立腹し、そうしないようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月3日 72歳
大坂城(摂津国)の先陣の片桐且元が、同城を包囲したことを、二条城(山城国)にいる徳川家康に報告する。家康は、指示なく攻め込むことがないように且元に言い含める。
家康が大坂城攻め先陣が布陣する天王寺口に物見として島弥左衛門、本多藤四郎の遣わした物見が、夜、家康のもとに戻ってくる。物見からは道明寺(河内国)近所の小山に藤堂高虎が布陣しており、以下、諸勢の夫人を報告する。家康は城より遠いので、今少し城に陣を寄せるようにとし、松平清正石川忠総古田重治、徳永昌重を平野(河内国)まで進めさせる。
戌刻(19-21時)、伊達政宗の使者として山岡重長徳川秀忠のもとに到着する。重長は本多正信を介し、豊臣秀頼の使者として和久是安が秀頼黒印状を持参し、大坂城攻めにつき秀頼に味方するように依頼があったが、政宗は家康・秀忠の恩を忘れることはできないとし秀頼に同心できないととして、是安を捕縛したことを秀忠に伝える。秀忠は政宗の対応を称賛する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月4日 72歳
徳川家康二条城(山城国)南御殿に出る。近衛、一条兼遐が家康に対面する。公家衆が家康に礼をする。公家衆のうち数人が出仕しなかったことについて、本多正純板倉勝重を呼び出し立腹したことを伝える。
夜、片桐且元が大坂(摂津国)の絵図を家康に献じる。家康は正純、勝重、安藤直次成瀬正成を呼び出し、大坂の絵図を見せるとともに、中井正清に大坂近辺の絵図の作成を命じる。
家康は10月28日より大坂城(摂津国)より退城した者の口上を後藤光次に報告させる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月5日 72歳
大坂城(摂津国)攻めの先陣より、使番の横田尹松、佐久間政実、初鹿野信昌が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに戻り、先陣が住吉(摂津国)まで進軍したことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「」「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月5日 72歳
大坂城(摂津国)より薄田兼相が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退する。松平清正が追撃するも、兼相の撤退が早かったため、追撃を諦め、平野の焼け跡に陣所を構える。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「」「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月5日 72歳
先陣の藤堂高虎勢が乱暴・狼藉・放火をしたと聞き、徳川家康は立腹し、止めるよう指示する。
本多忠政が枚方(河内国)に陣取る。忠政は乱暴・狼藉を禁止する禁制を発給する。それを聞き、家康は称賛する。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「」「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月5日 72歳
徳川家康片桐且元 を召し出し、大坂城攻めの手立てを伝えるとして、本多正純を遣わす。
家康が且元家臣の日比半右衛門に服2領を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条・同年月6日条、『寛政重修諸家譜』巻第103「」「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月6日 72歳
未刻(13-15時)、松平清正の飛脚が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。清正より、11月5日に大坂城(摂津国)より薄田兼相が大将として平野(河内国)に討ち入り、同地を放火して城に撤退したので、追撃したが叶わなかったため、平野の焼け跡に陣所を構えたと家康に報告がある。
藤堂高虎浅野長晟が住吉(摂津国)に陣取ったと家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第90「花房正成」の項

慶長19年 1614年 11月6日 72歳
加藤明成徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月6日 72歳
毛利宗瑞の使者として宍戸元続徳川家康に愛面する。ともに本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月7日 72歳
辰刻(7-9時)、池田忠継が吹田川を渡り、中島(摂津国)に陣取る。それを徳川家康に報告する。忠継は大和田川に陣取る。
未刻(13-15時)、有馬豊氏が中島に到着する。
近日中に家康が二条城(山城国)を出陣することが決まる。経路は龍田・法隆寺・郡山(大和国)を通り、住吉(摂津国)に陣取るとする。
蜂須賀至鎮が二条城にいる家康に対面する。家康は至鎮の早々の着陣を喜ぶ。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠継」の項

慶長19年 1614年 11月8日 72歳
南光坊天海二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。薬樹院・竹林坊が家康に出仕する。日野唯心金地院崇伝、公家衆が家康のもとに出仕する。
家康が園城寺(近江国)寺僧、法泉院、光浄院を召し出し、崇伝をもって、本覚坊から訴えのあった照高院道勝による関東調伏の件を尋ねる。園城寺僧は本覚坊は不義僧で、最近は大徳寺(山城国)を徘徊しており、照高院道勝と園城寺僧と関係が悪く、ゆえにこの訴えのような虚説を述べているという。以前、園城寺は聖護院・実相院・円満院の三門跡で管理していたが、豊臣秀吉の命により聖護院一人による管理となったため、近年は照高院道勝と園城寺の関係は悪い。したがって照高院道勝と園城寺が一体となって関東調伏をすることはありえないと回答する。この回答をうけ、本覚坊を呼び出し反論がないか確かめるようにと家康は指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月9日 72歳
徳川家康南光坊天海金地院崇伝を召し出し雑談する。諸家記録の写本を作成する件で、『日本後紀』、『弘仁貞観格式』、『類聚国史』、『類聚三代格』は仙洞御所に所蔵されているのか家康が問う。天海は仙洞御所所蔵h本の書写してもよいとの許可を得たことをを報告する。林羅山は『扶桑略記』を閲覧し、平将門・藤原純友の謀反が詳しく記載されていたことを話す。
達磨寺(摂津国)に制札を下付する。担当は本多正純
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月10日 72歳
徳川秀忠が永原(近江国)を出立する。膳所(近江国)にて戸田氏鉄が膳を献じる。大津・追分(近江国)にて公家衆・僧衆が秀忠を出迎える。追分にて徳川義俊徳川頼宣が秀忠を出迎え、対面する。その後、伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月10日 72歳
後陽成上皇が徳川家康に『類聚三代格』6巻、聖武天皇より後一条天皇までの年代略11巻、『類聚国史』2巻、『古語拾遺』、『名法要集』、『神皇系図』を南光坊天海を院使として渡す。夜、家康はそれらの書物を林羅山に読ませる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月11日 72歳
午刻(11-13時)、徳川秀忠伏見城(山城国)より徳川家康のいる二条城(山城国)に赴き、奥御座間にて対面する。秀忠は家康に到着を待ってくれたことを謝す。
家康は本多正純成瀬正成安藤直次板倉勝重酒井忠世土井利勝安藤重信を召し出し、13日に大坂城(摂津国)に向かうべく、二条城を発つことを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月11日 72歳
徳川家康松平忠利・伊奈忠政に神崎の鳥養辺りの堤防を崩し、河川の水を決壊させるように命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月11日 72歳
申刻(15-17時)、伊達政宗徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月11日 72歳
豊臣秀頼に捕縛されていた今井宗薫・宗呑父子が、同城より脱出し、徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月12日 72歳
上杉景勝佐竹義宣二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月条

慶長19年 1614年 11月12日 72歳
夜、天海以心崇伝徳川家康に出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月条

慶長19年 1614年 11月12日 72歳
13日に予定されていた徳川家康の出陣が、13日は南行きが「悪日」のため、15日に延期となる。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月条

慶長19年 1614年 11月13日 72歳
徳川秀忠の使者として土井利勝伏見城(山城国)より二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き密談をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月13日 72歳
申刻(15-17時)、徳川家康二条城(山城国)の南殿に赴く。細川興元、新庄直定・直好父子、土方雄重等と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月13日 72歳
徳川家康が大坂(摂津国)に遣わした物見の横田尹松、山城忠久が、夜、家康のもとに戻る。大坂城(摂津国)攻めの天王寺(摂津国)方面の先陣が城より14・15町のところまで押し寄せていることを報告する。家康は、秀忠の命が出る以前に攻め込むことを堅く禁止する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月14日 72歳
朝、本多正信が永原(近江国)より伏見城(山城国)に到着する。その後、正信は二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴く。正信は関東・東北の徳川方諸勢が品川(武蔵国)にいることを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月15日 72歳
卯刻(5-7時)、徳川家康大坂城(摂津国)攻めに赴くべく、二条城(山城国)より出陣する。未刻(13-15時)、家康は木津(山城国)に到着するが、旅館狭小につき、急遽、奈良(大和国)まで進む。奈良奉行・中坊左近が膳を献上する。一乗院、大乗院、喜多院、春日社禰宜が出迎える。
秀忠が大坂城を攻めるべく伏見城(山城国)を出陣し枚方(河内国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月16日 72歳
徳川家康法隆寺阿弥陀院に陣取る。
卯刻(5-7時)、徳川秀忠が枚方(河内国)を発し、岡山(河内国)に陣取る。
秀忠の使者として永井尚政が枚方より家康のもとに到着する。秀忠が岡山に着陣したことを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月17日 72歳
徳川家康が住吉(摂津国)に陣取る。家康供奉衆がこの日より甲冑を着す。
住吉にて藤堂高虎浅野長晟蜂須賀至鎮前田利光松平忠直生駒正俊一柳直盛・直重父子、松平清正本多忠政・忠刻、古田重治、桑山元晴、脇坂安元池田忠雄等が家康に対面する。家康は高虎、利光を召し寄せ、大坂(摂津国)の絵図を見せ、攻め口を伝える。
徳川秀忠が平野(河内国)に陣取る。
夜、秀忠の使者として土井利勝が家康のもとを訪れる。明朝、先陣の様子を確認すべく天王寺・茶臼山辺りに赴くよう伝える。
佐竹義宣率いる軍勢1500が大坂(摂津国)に着陣し、玉造口に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第129「佐竹義宣」の項

慶長19年 1614年 11月18日 72歳
徳川家康が住吉(摂津国)より、徳川秀忠が平野(河内国)より茶臼山(摂津国)に赴く。父子は天王寺にて父子が面会する。家康は藤堂高虎本多正信を召し寄せ、大坂城(摂津国)攻めの談判をする。家康は城攻めに際し、付城の築城を命じる。茶臼山について、大坂城の惣構より27.28町のところにあるので、高虎に鉄砲30挺の配備を命じる。その後、家康は住吉に、秀忠は平野の陣所に戻る。
大坂城より明石全登が天王寺に向かって出撃し、藤堂高虎脇坂安元が鉄砲にて応戦する。
向井忠勝が新家(摂津国)に攻め入り、豊臣方の船50挺を奪う。忠勝は福島(摂津国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第103「向井忠勝」の項

慶長19年 1614年 11月25日 72歳
徳川家康秀忠父子が天王寺に向けて出陣する。
蜂須賀至鎮浅野長晟が穢多ヶ崎砦を攻め、同砦を落とす。石川忠総が博労ヶ淵砦を攻め、同砦を落とす。
至鎮、長晟、忠総は船場(摂津国)に陣取る。
出典:『佐久間軍記』

慶長19年 1614年 11月19日 72歳
巳刻(9-11時)、徳川秀忠が住吉(摂津国)にいる徳川家康の陣所に赴き対面する。家康は、大坂の絵図を前に、本多正信本多正純藤堂高虎安藤直次成瀬正成を召し寄せ評定をする。その評定では、淀川の鳥養(摂津国)辺りで川の水を止め、天満口・船場口・天王寺口の四方より一気攻めることを決める。そこで、土俵20万を摂津国・河内国に出すよう命じる。
大野治房薄田兼相の兵が詰めている船場口の穢多ヶ島に、浅野長晟池田忠雄蜂須賀至鎮が攻め入り、大野・薄田勢を追い払う。3名は同地に付城を築く。
伊達政宗の使者・山岡重長が家康のもとを訪れる。家康は伊達勢に木津・今宮に陣取るように伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月21日 72歳
徳川秀忠の使者として土井利勝安藤重信徳川家康のもとを訪れる。家康は大坂近辺に付城を築くよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月22日 72歳
豊臣秀頼の使者として塩江甚助が、秀頼の書状を携え池田利隆の陣所に赴き、秀頼に与同するように伝える。利隆は甚助を捕縛し、住吉(摂津国)にいる徳川家康のもとに送る。この件を本多正純が家康に披露する。家康は、どの大名に秀頼の書状が遣わされたのか究明するよう甚助への尋問を指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月23日 72歳
大野治長の使者が池田忠雄のもとに使者を遣わし、諸大名は豊臣秀頼と内々に通じているので、忠雄も秀頼に味方するようにと伝える。また、忠雄の所領である淡路国の百姓が秀頼に通じ一揆を起こすことになっていると忠雄の家老のもとに豊臣方の使者が訪れる。忠雄は治長の使者等を捕らえ、住吉(摂津国)にいる徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月23日 72歳
徳川家康伊達政宗京極高知京極忠高山内忠義堀尾忠晴池田忠雄蜂須賀至鎮藤堂高虎を召し出す。政宗についてはしばし留め、船場口のことについて話し合う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月23日 72歳
日野唯心以心崇伝徳川家康と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月25日 72歳
佐竹義宣率いる軍勢1500が京橋(摂津国)に布陣し、豊臣勢と鉄砲を撃ち合う。
徳川家康が、今福に付城を築くため、上杉景勝・義宣に対し、翌朝、同地に陣取る豊臣勢を追い払うようにと命じる。検使は屋代秀正、安藤正次、伊東政世。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

慶長19年 1614年 11月26日 72歳
上杉景勝佐竹義宣が今福に攻め入り、同地を占拠する。今福を守っていた矢野正倫、飯田家貞が戦死する。検使は屋代秀正、安藤正次、伊東政世。
玉造(摂津国)にて義宣が陣場普請をする。その普請の最中、豊臣勢が大坂城(摂津国)より出勢し、義宣家臣の渋江政光率いる佐竹勢と戦い、政光が豊臣勢を破る。
未刻(13-15時)、大坂城より木村重成後藤基次率いる豊臣勢3000が義宣の守る今福を攻めるべく、政光率いる佐竹勢が応戦する。佐竹勢は政光、小野崎通勝、高垣重久が戦死する。その後、重成・基次と義宣が戦う。途中、義宣劣勢につき、鴫野に布陣していた景勝(須田長義、水原親憲等)、榊原康勝が加勢する。重成・基次は大坂城に撤退する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項、同巻第129「佐竹義宣」の項

慶長19年 1614年 11月29日 72歳
朝、蜂須賀至鎮(蜂須賀勢:森氏純、森藤兵衛)、池田忠雄戸川達安花房正成石川忠総九鬼守隆が野田・福島(摂津国)に進軍し同地を守る豊臣勢を破る。豊臣勢は広瀬加左衛門、森長左衛門が戦死する。
守隆、向井忠勝が豊臣方の番船を押収する。豊臣勢は天満(摂津国)に逃れたとする。
天満・船場(摂津国)が焼ける。
徳川方の軍勢が大坂城(摂津国)の船場の惣構の堀際まで押し寄せる。また、大坂城の北に布陣する徳川方の軍勢が備前島近辺に、東に布陣する軍勢が森・河内近辺に押し寄せる。
家康が浅野長晟に博労ヶ淵(摂津国)に陣取るように命じる。使者として成瀬正成を遣わす。
家康が安藤直次を野田・福島に布陣する至鎮、忠雄、達安、正成のもとに遣わし、軍法の遵守を命じる。夜、直次は家康のもとに帰着し、野田、福島、博労ヶ淵の様子について報告する。また、忠雄、至鎮家中で功名のあったものを家康に報告する。家康は功名をあげた者に黄金・服を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条、同年12月4日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『寛政重修諸家譜』巻第265「池田忠雄」の項

慶長19年 1614年 11月29日 72歳
勅使の広橋兼勝、三条実條が住吉(摂津国)にいる徳川家康に対面する。勅使に日野唯心、飛鳥井雅庸、以心伝心も同行する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月29日 72歳
伊達忠宗徳川家康に対面する。本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月29日 72歳
福島忠勝、忠勝の家老・尾関正勝、忠勝後見人・竹中重利徳川家康に対面する。忠勝は豊臣秀頼より書状があったことを本多正純を介し伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月29日 72歳
島津家久の使者・伊集院半右衛門が徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月29日 72歳
山口直友徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 11月30日 72歳
豊臣勢が船場町、天満町(摂津国)を焼き討ちする。本多正純成瀬正成安藤直次永井直勝が船場、天満に物見に赴き、申刻(15-17時)、徳川家康の陣所に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月1日 72歳
徳川秀忠の使者として本多正信土井利勝徳川家康のもとを訪れ密談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月1日 72歳
仙石忠政が徳川家康と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月1日 72歳
廓山が徳川家康と対面し浄土宗について雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月1日 72歳
日野唯心金地院崇伝池田利隆池田忠継森忠政有馬豊氏が諸勢が天満(摂津国)に入ったことを徳川家康に報告する。物見の服部権太、島弥左衛門が池田勢等が天満に入ったことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月1日 72歳
捕虜となった豊臣勢の者が徳川家康後藤基次が鉄砲にあたり負傷したため、大坂城(摂津国)城内の士気が落ちていること、大野治長が自宅を自焼したことを述べる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月1日 72歳
豊臣勢が高麗橋を焼き落そうとしたため、石川忠総がそれを阻止しようと高麗橋に進軍し鉄砲を撃ち合う。これをきいた徳川家康は佐久間政実、山城忠久を遣わし、制止を試みるも戦闘は停止しなかったため、永井直勝が、再度、忠総に加勢すべきか停戦を促すか家康に尋ねたところ、命令のない攻撃は禁止すると応え、加賀爪忠澄を忠総のもとに遣わし、忠総の攻撃を止める。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月1日 72歳
夕方、徳川家康が4日に茶臼山に陣取ること、この布陣につき船場(摂津国)の破損した町屋を陣屋に転用するよう中井正清に指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月2日 72歳
徳川家康が茶臼山(摂津国)に赴く。4日に当地へ陣を移すという。家康は単騎で大坂城(摂津国)近くまで赴き、敵勢の様子を確かめる。これを聞き、徳川秀忠が平野(河内国)より家康のもとに合流する。本多正信本多正純成瀬正成安藤直次のみ供をする。申刻(15-17時)、家康は住吉(摂津国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月2日 72歳
夜、本多忠政徳川家康のもとに赴き、忠政と松平清正の陣所が定まっていないので、本多正純を介して家康の意向を問う。家康はまだ定まっていないと返答する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月2日 72歳
徳川家康松平正久に大坂城の周囲を一回りするよう命じる。夜、正久は帰参し、船場・天満・備前島・瀑布・今市・青屋口・玉造口・榎並の諸攻口の状況を家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月2日 72歳
南部利直徳川家康に対面する。11月15日に伏見城(山城国)にて秀忠に対面したおりは、国元より軍勢が到着しておらず、改めての礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月2日 72歳
浅野長則が徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月2日 72歳
有馬直純が徳川家康に対面する。家康・秀忠高橋元種の旧領である延岡(日向国)60000石を直純に給付する。本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月3日 72歳
成瀬正成安藤直次が、徳川義俊徳川頼宣の陣所となる天王寺(摂津国)近辺を検分する。
徳川秀忠が平野(河内国)より岡山に陣を移すこととする。
織田有楽大野治長よりの和睦に関する書状を有楽家臣の村田吉蔵と治長家臣の米村権右衛門が、本多正純後藤光次のもとに到着する。
池田忠継森忠政を天満(摂津国)より船場(摂津国)に戻す。
徳川勢の先手が城より10町もしくは5、6町の近くまで接近する。井伊直孝勢は大坂城(摂津国)三ノ丸の堀近くに竹束を寄せる。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月3日 72歳
細川忠利徳川家康に対面する。本多正純が取り次ぐ。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月3日 72歳
小出吉英・吉親父子が徳川家康に対面する。家康は瀑布郷に堤を築くよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月3日 72歳
徳川秀忠の使者として土井利勝徳川家康のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月3日 72歳
中井正清が茶臼山(摂津国)の陣屋は4日屋根の葺き替えを行うことを徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月4日 72歳
徳川家康が住吉(摂津国)より天王寺茶臼山に陣替えする。徳川秀忠が平野(河内国)より岡山に陣替えする。徳川義俊徳川頼宣天王寺(摂津国)に陣取る。義俊に成瀬正虎が随従する。
朝、松平忠直本多富正・本多成重が豊臣勢と鉄砲を撃ち合い、続けて大坂城(摂津国)に攻め上り城壁を突破しかけたところで、豊臣勢が出撃し忠直勢は多くの負傷者を出す。軍監が家康に報告し、家康は安藤直次を忠直のもとに遣わし、すぐに退くように命じる。
井伊直孝勢が大坂城の真田信繁の守る真田丸に攻め込む。真田勢の銃撃により井伊勢の多くが討ち取られる。徳川秀忠の命により井伊勢は撤退する。
未刻(13-15時)、家康が茶臼山に到着する。本多正純の先導のもと家康は陣所の普請の様子を検分する。
家康が富正、成重を召し、忠直の突出のことを問う。富正、成重は制止をしたが忠直が若いため突出したと述べるも、家康は富正、成重に責があると不満をあらわにする。
家康は藤堂高虎の陣所を検分する。大坂城より鉄砲による砲撃があるなか、家康は城近くまで見回りする。
夜、家康は住吉(摂津国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条、同年月日付浅野長晟書状(『浅野家文書』205号)、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月4日 72歳
徳川家康が奥北山、熊野の山夫が年貢を抑留し、一揆を企てているので、当地の代官に命じ人質をとるように命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月4日 72歳
徳川家康が大坂城籠城の者の妻子が奈良(摂津国)にいるので捕縛するよう中坊左近、小堀政一に命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月4日 72歳
夜、金地院崇伝、廓山が家康に対面する。総攻めの日取り書を崇伝が読みあげる。5日、廓山は奈良に戻るとされる。廓山は、家康の命により、昨冬より浄土宗でありながら唯識論を学んでいるという。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月5日 72歳
酒井家次、松平忠良、仙石忠政が徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月5日 72歳
六条有慶、冷泉為満山科言緒徳川家康に対面する。金地院崇伝が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月5日 72歳
池田忠雄蜂須賀至鎮徳川家康に対面する。家康は陣地に土手を築き、竹手束を用意して、兵が負傷しないように城に近づくようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月5日 72歳
九鬼守隆が家康に対面する。家康は海上にて敵船を暴く働きを賞す。また、大坂城(摂津国)より脱出した者がいるかどうかを兵船をもって監視するように指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月5日 72歳
徳川家康が高野山文殊院応昌を呼び出す。趣旨は、内山先達、吉野大峰五鬼のひとつ菩鬼名助が大坂城に籠城しているため、熊野(紀伊国)の民が北山にて蜂起するとの噂があり、代官を派遣して鎮圧したが、山伏の峰入が途絶してしまっているので復興するように指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月5日 72歳
松平正久が大垣衆が製作した弓火矢2筋を徳川家康のもとに持参する。飛距離が4町あるという。家康は自ら試し撃ちする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月5日 72歳
奈良(大和国)の函人・岩井与左衛門が甲冑を徳川家康に進上する。その甲冑に対し、稲富重次が小筒3文目5分玉を放ったところ、甲冑は貫通しなかったという。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月5日 72歳
徳川家康が物見として横田尹松、間宮権左衛門を船場、天満(摂津国)に遣わす。尹松、権左衛門は、家康が先手鉄砲衆に対し、一人として惜しいので、城攻めの際は、土手等を築くようにと伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月5日 72歳
伊達政宗の使者として山岡重長が家康のもとを訪れる。重長は家康に鉄砲を預かりたいと申し出る。家康は弓火矢2挺、大筒30挺(玉目50目)を貸し与える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月5日 72歳
伊達政宗徳川家康に対面する。家康は政宗に良き場所に陣場を設けたと述べる。政宗は家康に木津攻めを命じられたが、船場(摂津国)を落とした時、政宗が一騎にて見回りし、すぐに鉄砲400-500を大坂城下船場方面の堀角、生駒正俊の陣地左に遣わしたという。家康は政宗に総攻めにつき梯子を多数用意するよう命じたので、それで城の壁や石垣を登るようにと伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月5日 72歳
徳川家康が石川宗林と対面する。宗林は羽織を献上する。宗林は関ヶ原の戦い以後、牢人となって京都を徘徊していたが、このたび大坂城に籠城しなかったため対面を果たす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月5日 72歳
徳川秀忠の使者として土井利勝徳川家康のもとを訪れる。利勝から家康に、豊臣秀頼が秀忠に和睦の申し出があったことを伝える。秀忠はこれだけの軍勢を集めて大坂城を落とせず和睦したとあったら、後難となるので、日を定めて城に攻め入るべきと考えであることを利勝が家康に伝える。家康は、秀忠が憤慨する気持ちはわかるが、小敵と侮らず、また戦は戦わずして勝つことが良将といわれることもあるので、家康の命令に従うようにと利勝に伝える。利勝は岡山の陣所に戻る。秀忠は家康の言を聞き、家康は文武の道、天下無双の大将だが、大坂城攻めについては、なおざりで奇怪なことも多く不快に思う。秀忠の傍にいた本多正信が秀忠に憤りはもっともだが、家康の命には従うようにとなだめる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月6日 72歳
徳川家康が住吉(摂津国)より茶臼山(摂津国)に赴く。徳川秀忠も岡山より茶臼山に赴き、家康と合流し対談する。
藤堂高虎本多正信が家康と対面する。
夜、秀忠の使者として土井利勝が家康のもとを訪れ、家康と密談する。
成瀬正成安藤直次安藤重信が物見として大坂城(摂津国)の周囲を検分する。重信が秀忠のもとに帰還後、午刻(11-13時)に甲山で季節外れに蛙が大量発生し喰い合いする奇怪な場面に遭遇したことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月7日 72歳
夕方、徳川家康が天満(摂津国)に陣取る本多忠朝に城に接近するよう命じるが、忠朝は当地が川深く、惣攻めの際に陣所よりの出撃が難しいと反論し、家康は不快をあらわす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月7日 72歳
寺沢広高徳川家康と対面する。近日中に石火矢を届けることを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月7日 72歳
秋田実季徳川家康と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月7日 72歳
南光坊天海、薬樹院が徳川家康と対面する。6日に安藤重信が目にした蛙合戦について、蛙が北と南に分かれて戦っており、北の蛙が多く死傷していたのを受け、北は大坂城(摂津国)、南は家康・秀忠の本陣であるので、豊臣方が負けるだろうと雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月8日 72歳
池田利隆池田忠継脇坂安元徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月8日 72歳
本多正信土井利勝藤堂高虎徳川家康と対面し雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月8日 72歳
佐久間久右衛門、佐久間源六が徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月8日 72歳
五山僧衆が徳川家康に対面する。金地院崇伝が取り次ぐ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月8日 72歳
浅野長晟山内忠義、山内政豊が徳川家康に対面する。本多正純が、7日に大坂城(摂津国)より長晟の陣所に矢文があったことを報告する。その内容は、城内では和睦の話が出ているが、牢人衆が承知していないというもの。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月8日 72歳
浅野長重が徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月8日 72歳
堺商人・長崎の者が徳川家康に進物を捧げる。長谷川藤広が取り次ぐ。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月8日 72歳
南部利直徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月8日 72歳
菊亭少将が徳川家康に対面し、羽織を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月8日 72歳
大坂城(摂津国)より織田有楽大野治長の返状が徳川家康のもとに届く。本多正純後藤光次が密かに家康に披露する。長益使者は村田吉蔵、治長使者は米村権右衛門。牢人衆の宥免があるか、秀頼の国替えがどこを希望しているか、開城の条件などを協議する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月9日 72歳
藤堂高虎徳川家康大坂城(摂津国)惣攻めの評定をする。
山城忠元、滝川忠征が家康に長柄堤が完成し、河川の水が尼崎(摂津国)に流れ、天満川が浅くなったので、そのうち川が乾くとの報告をする。
青木一重の書状が家康に届く。本多正純が披露する。
家康が永井直勝、青木二郎右衛門を召し寄せ、今夜より諸勢に鬨の声をあげさせ、籠城している者の睡眠を妨げるように命じる。
家康が松平忠直の家老・山本内蔵助を召し出し、攻め口の陣場を言い渡す。
板倉勝重島津家久に大坂(摂津国)への参陣を催促する。
夜、徳川勢より鬨の声と鉄砲が放たれるが、鉄砲のつるべ撃ちを家康が禁止する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第108「島津島津家久(忠恒)」の項

慶長19年 1614年 12月9日 72歳
後陽成上皇が徳川家康に薫物1包を贈る。南光坊天海が持参する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第108「島津島津家久(忠恒)」の項

慶長19年 1614年 12月10日 72歳
午刻(11-13時)、徳川秀忠藤堂高虎本多正信徳川家康のもとに赴き、徳川義俊徳川頼宣を交えて相談をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月10日 72歳
毛利宗瑞吉川広家福原広俊を連れて徳川家康に対面し、子・秀就を引き立ててくれていることに礼をいう。本多正純が取次。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月10日 72歳
京都町衆が徳川家康に鉛1000斤を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月10日 72歳
以心崇伝徳川家康に日取書物を読む。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月10日 72歳
伊奈忠政、北見五郎左衛門が徳川家康に堰、川堤の完成を報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月10日 72歳
夜、徳川家康大坂城(摂津国)の諸口に向けて守将の姓名を入れた矢文を放ち降伏すれば赦免することを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月11日 72歳
徳川家康が間宮新左衛門、島田直時、日向半兵衛を召し、銀山堀衆をもって大坂城(摂津国)の櫓を崩すように命じる。
藤堂高虎井伊直孝前田利光の陣場で堀をつくる。黒田長政が鉛3000斤を家康に献上する。
浅野長晟が家康に城に軍勢を近づけるにあたり堀を埋めるべきか否かを正純を通じて尋ねる。家康はしばし待つようにと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月11日 72歳
伊達政宗徳川家康に対面する。本多正純が取次。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月11日 72歳
藤堂高虎徳川家康に対面し密談をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月11日 72歳
伊豆山・箱根山・三島社(伊豆国)の社僧・神主が徳川家康に巻数を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長19年 1614年 12月11日 72歳
北野社松梅院、里村昌琢が家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長19年 1614年 12月11日 72歳
本願寺准如の使者として下間仲孝徳川家康にもとに赴き小屏風を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

慶長19年 1614年 12月12日 72歳
徳川家康が天満(摂津国)より備前島に視察に赴く。未刻(13-15時)に戻る。
未刻(13-15時)、大坂城(摂津国)に籠城中の織田有楽大野治長より家康のもとに書状が届く。後藤光次が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月13日 72歳
徳川秀忠の使者として土井利勝徳川家康のもとに到着する。大雨につきご機嫌うかがいをする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月13日 72歳
徳川家康中井正清に、大坂城(摂津国)総攻めの際に使用予定の熊手をつけた梯子の準備を命じる。あわせて大名一人につき梯子50本を配布するようにと家康は本多正純に指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月13日 72歳
徳川家康浅野長晟山内忠義に船場の堀川に舟橋を架橋するように命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月14日 72歳
徳川秀忠の使者として板倉重宗徳川家康のもとに到着する。大雨につきご機嫌うかがいをする。
阿茶局が見舞いとして家康の陣所である茶臼山に到着する。
藤堂高虎が家康と雑談する。
夜、南部利直が薫陸を家康に献上する。安藤直次、興安が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月15日 72歳
徳川義俊徳川頼宣徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月15日 72歳
徳川家康後藤光次豊臣秀頼との和睦のことを問う。光次は、大坂城(摂津国)の城内におていは淀殿が最終決定権を有しており、女性ゆえか、万事急がない様子だと回答する。また、返事を引き延ばそうとしているのではないかとの意見も提示する。なお光次は、淀殿を江戸(武蔵国)に人質として置くこと、秀頼が抱えた牢人衆に知行を与えるべく加増するかどうかを尋ねる。家康は牢人衆召し抱えのための加増は考えていないと返事する。また、返事が遅いのは、大坂城攻め衆を疲れさせる狙いや城内に壁や堀を整えるため、占いによると来年は秀頼にとって吉年だからではないかとする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月15日 72歳
徳川秀忠の使者として安藤重信徳川家康のもとに到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日 72歳
八条宮智仁親王・伏見宮邦清親王・二条昭実の使者が徳川家康のもとに到着する。家康に毛氈・酒・菓等を献じる。西尾丹波守が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日 72歳
仁和寺宮・梶井宮・青蓮院宮の使者が徳川家康のもとに到着し、酒・菓・餅を献じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日 72歳
徳川家康が清凉院と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日 72歳
徳川家康が高台寺と対面する。高台寺は蜜柑を献じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日 72歳
徳川家康松平正久、牧野清兵衛、稲富重次に対し、鉄砲練達者数十人を選び、藤堂高虎松平忠直等の攻め口に赴き、小筒・大筒をもって大坂城(摂津国)の矢狭間・櫓に試し撃ちするよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日 72歳
巳刻(9-11時)、徳川秀忠徳川義俊徳川頼宣が岡山の陣所より徳川家康の陣所に赴く。その場に本多正信本多正純藤堂高虎も赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日 72歳
阿茶局が徳川家康徳川秀忠と密談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日 72歳
徳川家康が松平丹波守、松平周防守、加藤明成と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月16日 72歳
徳川家康南光坊天海金地院崇伝と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日 72歳
蜂須賀至鎮の使者が徳川家康のもとに到着し、16日の深夜、豊臣方の大将として塙直之が本町橋の至鎮の陣所を夜襲したので至鎮は応戦し、直之を退けたことを報告する。家康は状況把握のため板倉重昌を遣わす。午刻(11-13時)、至鎮は家康に対面し、至鎮に感状を、稲田示植植次父子に感状・腰刀を、その他のものに服・黄金を下賜する。また博労ヶ淵の戦いで戦功のあった森甚大夫、森藤兵衛、広瀬加左衛門、森長左衛門等10人にも黄金・服を下賜する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日 72歳
藤堂高虎徳川家康と合戦の時は陣屋に留守居を置き、後陣が狼藉をしないようにすべきと雑談していたところ、高虎の後陣である徳川義俊勢の成瀬正成が反論し、先陣が入城の時には後陣は堀際にて旗を立て様子を伺っており狼藉することはないと述べる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日 72歳
徳川家康松平忠直と対面する。本多正純土井利勝が取り次ぐ。忠直の成長を見て、徳川秀忠が忠直を重宝していることを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日 72歳
徳川家康伊達政宗と対面する。徳川勢の仕寄の図をみながら雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日 72歳
片桐且元が咳病を患う。徳川家康が且元のもとに興安を遣わす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日 72歳
加藤忠広徳川家康に八代蜜柑5箱を献じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日 72歳
徳川秀忠水野忠元、稲富重次をもって佐竹義宣の陣所の高所より石火矢(大砲)を大坂城(摂津国)に向けて放つ。
浅野長晟が攻め口としている船場の堀川を埋めようとしたところ、大坂城より石火矢が放たれる。砲弾は重さ5-6斤だとされる。家康はその砲弾を自身の陣所にもってこさせて検分する。玉が土俵に埋まらなかったことから、木鉄砲による射撃ではないかと推察する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月17日 72歳
勅使の広橋兼勝・三条実條が徳川家康のもとに到着する。寒天につき家康が上洛するか、和睦するかを尋ねるもので、日野唯心以心崇伝を介し家康に問う。家康は上洛せず在陣し、和睦はしないと返答する。和睦をしない理由は、もし和睦が成立しなかった場合、「天子命」が軽んぜられることになるためとする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月18日 72歳
常高院が大坂城(摂津国)より出て、京極忠高の陣所に赴く。阿茶局、本多正純が忠高の陣所に赴き、申刻(15-17時)、阿茶局・正純が徳川家康のもとに戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月18日 72歳
徳川家康榊原康勝に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月18日 72歳
夕方、徳川秀忠の使者として水野忠元徳川家康のもとに到着し、家康に開口魚を献じる。家康は鶴を秀忠に贈る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月18日 72歳
安藤重信が河堤の築料について徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月19日 72歳
徳川家康徳川秀忠父子と豊臣秀頼の間で和睦がなる。
家康が藤堂高虎仙石忠政と対面する。
家康が松平甲斐守、前田利光松平忠直加藤明成福島忠勝、松平河内守と対面する。
家康が南光坊天海と対面する。
家康が落馬して負傷した子・頼宣の祖父・正木観斎に摩沙円を送る。興安が担当する。
黒田忠長が家康・秀忠父子に対面する。忠長は病が癒えていなかった、それで死すことがあっても城攻めに加わることを述べる。忠長は家康に煙硝5000斤を献じる。井上之房、小河玄蕃允が忠長に供奉する。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『黒田家譜』巻14「長政記」、『菅氏世譜

慶長19年 1614年 12月20日 72歳
徳川家康秀忠父子と豊臣秀頼の和睦につき、徳川勢・豊臣勢ともに鉄砲の撃ち合いを止める。双方、堀際の戦死者の遺体を回収する。
豊臣方の人質請取のため、後藤光次、寺田将監(本多正純家老)が大坂城(摂津国)に赴く。豊臣方は織田有楽の子と大野治長の幼児を人質として差し出すが、光次は治長の子息について幼児を出したことに激昂し、嫡子を差し出すように交渉する。治長は幼児を改め治徳を差し出す。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月21日 72歳
朝、徳川勢による大坂城(摂津国)の堀埋め立てが始まる。
出典:『福富半右衛門親政法名浄安覚書

慶長19年 1614年 12月23日 72歳
以心崇伝日野唯心徳川家康のもとに赴く。崇伝・唯心は、公家の諸記録の書写の件で、古今礼儀式法に誤りがあれば報告するようにと家康が公家衆に尋ねた件で、公家からの誤りの指摘はなかったことを家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月24日 72歳
日の出前、茶臼山(摂津国)の徳川家康の本陣の小姓衆小屋5、6軒が焼失する。松平正久板倉重昌、加賀爪忠澄が本陣の門を堅守し、人の出入りを止める。
徳川秀忠は家康と対面し相談する。秀忠が退去後、本多正信土井利勝が家康のもとに残る。
織田有楽大野治長が人質の大野治徳、織田尚長を連れ家康に対面する。京極忠高も家康のもとに参上する。有楽・治長は服3領を、治徳・尚長は服2領を家康に献上する。有楽は十徳、治長は羽織袴を着する。その場に藤堂高虎本多正信が列席する。家康は有楽、治長に大坂城(摂津国)城中の堀・櫓の破却を早々に着手するように伝える。
巳刻(9-11時)、家康が諸大名を引見する。前田利光福島忠勝浅野長晟鍋島勝茂細川忠利寺沢広高池田利隆池田忠継池田忠雄森忠政有馬豊氏稲葉典通京極高知山内忠義堀尾忠晴加藤明成南部利直毛利秀就毛利秀元吉川広家福原広俊松平忠直、松平忠昌、松平信吉、榊原康勝本多忠朝本多忠政松平清正本多康紀松平忠利、水野勝成と対面する。
家康が南光坊天海金地院崇伝と対面し雑談する。
家康が天海の執り成しにより鷹匠・小栗忠蔵を赦免する。
秀忠が佐和山(近江国)を井伊直孝に給付する。その旨を秀忠が利勝を介し家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月25日 72歳
辰刻(7-9時)、徳川家康が茶臼山(摂津国)の陣所を発ち、申刻(15-17時)、二条城(山城国)に到着する。板倉勝重が迎える。茶臼山の陣所には本多正純成瀬正成安藤直次が残る。
徳川秀忠大坂城(摂津国)の堀・櫓破却を見届けるべく、岡山の陣所に残る。徳川義俊徳川頼宣も岡山に在陣する。
織田有楽大野治長、伊東長次が岡山に陣す秀忠のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月26日 72歳
金地院崇伝林羅山徳川家康に命じられていた記録の内、旧事紀、古事記、続日本紀、文徳実録、三代実録、江次第、明月記、続文粋、菅家文集、西宮記、釈日本紀、内裡式、山槐記、類聚三代格等を献じる。
夕方、片桐且元が家康に対面する。板倉勝重が同席する。
家康が廓山と仏法について雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月27日 72歳
岡山に在陣している徳川秀忠の使者として土井利勝二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)の総堀・櫓の破却のことを報告する。また在陣の諸大名の苦労を慮って、公役普請は3ヶ年免除するよう家康が秀忠に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月27日 72歳
徳川家康以心崇伝、清林と対面する。
本多成重が家康に鱈を献上する。
家康が28日に参内するこをと板倉勝重に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 12月29日 72歳
徳川家康以心崇伝南光坊天海、信乗院、知恩院八宮、大覚寺門跡、一乗院、広橋大納言、三条大納言と対面する。
岡山の陣所にいる徳川秀忠の使者として伊丹康勝が徳川家康のもとに到着する。家康は兵粮を扶持することを伝える。
家康が富田信高の旧領である宇和島(伊予国)100000石を伊達秀宗に給付する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月1日 73歳
伊東長実徳川家康に礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月3日 73歳
午刻(11-13時)、徳川家康駿府城(駿河国)に帰城すべく二条城(山城国)を出立する。申刻(15-17時)、膳所(近江国)に到着する。膳所城(近江国)城主の戸田氏鉄が家康を饗応する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』

慶長20年 1615年 1月4日 73歳
辰刻(7-9時)、徳川家康が船に乗り膳所(近江国)を出立する。松平正久、興安、後藤光次が同船する。矢橋(近江国)にて上陸し、申刻(15-17時)、水口(近江国)に到着する。代官の長野内蔵允が家康を饗応する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月5日 73歳
卯刻(5-7時)、徳川家康水口(近江国)を出立する。申刻(15-17時)、亀山(伊勢国)に到着する。伊勢亀山城(伊勢国)城主の松平忠明大坂城(摂津国)の堀・櫓破却につき不在のため、留守居の者が家康を饗応する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月6日 73歳
辰刻(7-9時)、徳川家康が亀山(伊勢国)を出立する。道中、山のしげる箇所があったため、家康は日向半兵衛、島田直時に命じ鉄砲衆200人を山に入れ敵がいないか探索させる。申刻(15-17時)、桑名(伊勢国)に到着する。桑名城(伊勢国)城主の本多忠政大坂城(摂津国)の堀・櫓破却につき不在のため、留守居の者が家康を饗応する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月7日 73歳
卯刻(5-7時)、徳川家康桑名(伊勢国)より船に乗る。道中、鷹狩をして、申刻(15-17時)、名古屋(尾張国)に到着する。名古屋城(尾張国)城主の徳川義俊大坂城(摂津国)の堀・櫓破却につき不在のため、留守居の藤田民部少輔、原右衛門が家康を饗応する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月8日 73歳
徳川家康名古屋(尾張国)に逗留する。卯刻(5-7時)、鷹狩に赴き、申刻(15-17時)に戻る。
徳川秀忠大坂城(摂津国)の堀埋め普請について、諸勢をもってあたるといえども、二ノ丸の堀の幅が40-60間、深さが3-4間があってすぐには完了しないことを家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月9日 73歳
辰刻(7-9時)、徳川家康名古屋(尾張国)を出立する。道中を鷹狩をする。申刻(15-17時)、岡崎(三河国)に到着する。岡崎城(三河国)城主の本多康紀大坂城(摂津国)の堀・櫓破却につき不在のため、留守居の者が家康を饗応する。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月10日 73歳
徳川家康岡崎(三河国)に逗留する。鷹狩をする。
徳川秀忠の使者・永井尚政が家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)の堀埋めについて進捗状況を報告する。16・17日には大方堀埋めが完了することを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月11日 73歳
徳川家康岡崎(三河国)に逗留する。鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月12日 73歳
徳川家康岡崎(三河国)に逗留する。
徳川秀忠の使者として佐久間政実、安藤正次が家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)二ノ丸の堀が意外に深く、土手の土で埋めても1/3にも満たなかったため、二ノ丸千貫櫓、織田有楽邸の家屋、西ノ丸、大野治長邸を破却し、かつ高所の土も入れて堀を埋めたことを報告する。
家康が正次到来につき、正次が軍監をつとめた鴫野の戦いについて見聞したことの報告を求める。正次は豊臣勢の鉄砲100が佐竹義宣陣所に発砲したこと、義宣・渋江政光、屋代、水原親憲の働きにより豊臣勢が退いたことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月13日 73歳
徳川家康岡崎(三河国)に逗留する。鷹狩をする。
最上家親の使者として坂上紀伊守が家康のもとに到着する。家親の進物として白鳥2羽、黒馬1匹、最上漬蓼1桶を、紀伊守の進物として子籠鮭10尺を家康に献上する。家康は紀伊守を召し寄せ、家親は律儀につき安心して江戸城(武蔵国)の留守居を任せられると紀伊守に述べる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月14日 73歳
徳川家康岡崎(三河国)に逗留する。鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月15日 73歳
徳川家康岡崎(三河国)に逗留する。鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月18日 73歳
岡山にいる徳川秀忠の使者として青山重政が徳川家康のもとに到着する。大坂城(摂津国)二ノ丸までの堀埋め普請が完了し、本城のみ残ったことを報告する。秀忠は19日に伏見城(山城国)に移る予定であることを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月19日 73歳
徳川家康吉良(三河国)にて鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月19日 73歳
申刻(15-17時)、徳川秀忠が岡山の陣所より伏見城(山城国)に移る。大坂城(摂津国)の堀埋め普請が、まだ完了していないため、松平忠明本多忠政等の諸大名の軍勢は大坂に残す。目付として、本多正純安藤重信が大坂に残る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月20日 73歳
徳川家康が鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月21日 73歳
徳川家康が鷹狩をする。
家康のもとに徳川秀忠の使者が到着する。秀忠の使者は、秀忠が19日に大坂(摂津国)より伏見城(山城国)に入ったこと、大坂城(摂津国)の堀埋め普請がおおよそ完了したことを家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月22日 73歳
徳川家康が鷹狩をする。
家康のもとに徳川秀忠の使者として成瀬正武が到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月23日 73歳
徳川家康のもとに豊臣秀頼の使者として吉田玄蕃允が到着する。秀頼より小夜着物3、蒲団3、蒔絵枕、紅梅枕掛を、大野治長より羽二重10疋を、玄蕃允より鷹緒10筋を家康に献じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月24日 73歳
徳川家康のもとに、大坂(摂津国)より安藤直次が到着する。家康は直次に大坂城(摂津国)の堀埋め普請のことを問う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月25日 73歳
徳川家康が鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月26日 73歳
徳川家康のもとに板倉勝重の飛脚が到着する。24日に徳川秀忠伏見城(山城国)より二条城(山城国)に移ったこと、参内したことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月27日 73歳
徳川家康吉田(三河国)に到着する。道中、鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月28日 73歳
徳川家康吉田(三河国)に逗留する。道中、鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月28日 73歳
徳川秀忠二条城(山城国)を発ち、膳所(近江国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月30日条

慶長20年 1615年 1月29日 73歳
徳川家康浜松(遠江国)に到着する。道中、鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 1月30日 73歳
未刻(13-15時)、徳川家康が中泉(遠江国)に到着する。
板倉勝重の飛脚が、家康のもとに到着し、が疱瘡を患ったことを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月1日 73歳
徳川家康が中泉(遠江国)に逗留する。家康のもとに本多正純が大坂(摂津国)より到着する。正純は大坂城(摂津国)の二ノ丸、三ノ丸、堀、門、櫓を悉く崩し埋めたことを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長19年 1614年 2月1日 72歳
徳川家康駿府城(駿河国)南殿に赴く。諸士が出仕する。
家康が土井利勝を召し徳川秀忠への返書を認めるととともに、密談する。利勝は江戸(武蔵国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月3日 73歳
徳川家康が中泉(遠江国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月4日 73歳
寅刻(3-5時)、娘・が死去する。
出典:『駿府記』同年月8日条

慶長20年 1615年 2月5日 73歳
徳川秀忠の使者として井上正就が中泉(遠江国)にいる徳川家康のもとに到着する。正就は、秀忠が4日に岡崎城(三河国)に到着したこと、7日には中泉に到着予定なので対面を望んでいることを伝える。本多正純が家康に披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月7日 73歳
徳川秀忠が中泉(遠江国)に到着する。徳川家康、秀忠、本多正信本多正純で密談をする。後に、この密談に土井利勝が加わる。秀忠の退出後、家康は供奉の近習衆とひとりずつと対面する。対面した供奉衆は、酒井忠世土井利勝本多正信本多正重安藤重信水野忠元井上正就神尾守世、小山吉久、青山忠俊
午刻(11-13時)、秀忠が中泉を出立し、申刻(15-17時)、掛川(遠江国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月8日 73歳
板倉勝重の飛脚が中泉(遠江国)にいる徳川家康のもとに到着し、2月4日の寅刻(3-5時)にが死去したことを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月9日 73歳
徳川家康が中泉(遠江国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月10日 73歳
徳川家康が相良(遠江国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月11日 73歳
徳川家康が雨のため相良(遠江国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月12日 73歳
徳川家康が田中(駿河国)に到着する。田中代官の彦坂光正が家康を饗応する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月13日 73歳
徳川家康が田中(駿河国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月14日 73歳
午刻(11-13時)、徳川家康駿府城(駿河国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月18日 73歳
徳川家康が2月4日に亡くなった娘・の弔いとして、秋元泰勝を播磨国に遣わす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月20日 73歳
長谷川藤広茶屋清次駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月26日 73歳
織田有楽斎の家臣・村田吉蔵が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着する。吉蔵は有楽の大坂城(摂津国)よりの退去の許可を家康に求め、許可を得る。ただし、家康より徳川秀忠の意向を問うとの返答を受ける。
大坂冬の陣で江戸城(武蔵国)の留守居衆だった松平忠輝が駿府城にて家康と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月27日 73歳
最上家親駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月28日 73歳
池田家の飛脚が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに到着し、22日に池田忠継が死去したことを徳川家康に伝える。取次は本多正純。家康は驚き、愁傷する。家康は忠継の兄・池田利隆と忠継の舅・森忠政のもとに森可澄を遣わし、備前国の仕置きをするように命じる。
最上家親が家康に対面する。家親は蝋燭を献上する。家親の家老・坂上紀伊守が家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 2月29日 73歳
村上忠勝溝口宣勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月1日 73歳
徳川家康駿府城(駿河国)の南御殿に出座する。日野唯心等が出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月2日 73歳
徳川秀忠の使者として土井利勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れる。利勝は家康と密談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月3日 73歳
徳川家康駿府城(駿河国)の南御殿に出座する。日野唯心等が出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月14日 73歳
徳川家康の使者として阿茶局、本多正純が、駿府(駿河国)滞在中の常光院等のもとに遣わされ、15日に駿府城(駿河国)に登城するように伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月15日 73歳
豊臣秀頼の使者として、青木一重駿府城(駿河国)南御殿にて徳川家康と対面する。秀頼の進物として金襴10巻と秀頼の書状を、一重の礼物として鷹のうちつき蒔絵10枚を家康に献上する。常光院、二位局、大蔵卿局、正永尼が淀殿の使者として家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月16日 73歳
京都より板倉重昌駿府城(駿河国)に戻る。京都・大坂の様子を徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月17日 73歳
京都(山城国)より領国に帰国中の伊達政宗駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面する。政宗は太刀・馬を家康に献上する。家康は政宗に盃を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月18日 73歳
徳川秀忠の使者として土井利勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ密談する。
奥平家よりの飛脚が家康のもとに到着し、奥平信昌の死去を伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月19日 73歳
金地院崇伝林羅山駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康より収集の命があった書籍が、後に到着することを報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月20日 73歳
蜂須賀蓬庵駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 3月29日 73歳
徳川秀忠の使者として井上正就駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ密談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月2日 73歳
片桐且元駿府城(駿河国)のいる徳川家康と対面する。且元は駿府(駿河国)に居所を移す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月3日 73歳
徳川家康が、4日に子・義俊と浅野幸長の娘の祝言に出席すべく、名古屋(尾張国)に向けて駿府城(駿河国)を出立する旨を示す。ただし名古屋行きは、豊臣秀頼が、牢人衆を追放せず、むしろ武勇の誉れ高き者を召し抱えているとの噂があり、名古屋からそのまま上洛するためとされる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月4日 73歳
午刻(11-13時)、徳川家康が名古屋(尾張国)に向けて駿府城(駿河国)を出立する。申刻(15-17時)、田中(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月5日 73歳
大野治長の使者が田中(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れる。使者は、豊臣秀頼淀殿が大坂からの国替を拒否していることを家康に伝える。家康はその返答を受け、どうしようもないことであると返答する。
家康のもとに伏見町奉行・長田喜兵衛の書状が到来する。永井直勝後藤光次が喜兵衛の書状の内容を家康に報告する。喜兵衛は大坂(摂津国)が殊の外物騒で、その影響は京都・伏見(山城国)にも及んでいると伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月6日 73歳
辰刻(7-9時)、徳川家康が中泉(遠江国)に到着する。徳川秀忠の使者として板倉重宗が家康のもとに到着する。重宗は家康の道中のご機嫌伺いのため遣わされる。家康は本多正純を通じて、伊勢国、美濃国、尾張国、三河国の諸大名に軍勢を、伏見・鳥羽(山城国)まで進めるよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月7日 73歳
徳川家康浜松(遠江国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月8日 73歳
徳川家康が吉田(三河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月9日 73歳
徳川家康が岡崎(三河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月10日 73歳
徳川家康名古屋(尾張国)に到着する。名古屋にて家康は常光院、二位局、大蔵卿局、正永尼、青木一重と対面し、豊臣秀頼がいまだに牢人衆を追放せず召し抱えていることに憤っている旨を伝える。常光院、二位局はすぐに大坂に戻り、家康の意を伝えると返答する。大蔵卿、正永尼、一重は京都にて家康の上洛を待つ旨を伝える。これらの女中の動きについて、家康は後藤光次を通じて板倉勝重に伝える。
出典:『駿府記』同年月日・17日条

慶長20年 1615年 4月10日 73歳
徳川秀忠豊臣秀頼の籠る大坂城(摂津国)を攻めるべく、江戸城(武蔵国)より出陣する。供奉衆:野呂守景。江戸城の留守居に酒井重忠を置く。
出典:『駿府記』同年月日・17日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同1153「野呂守景」の項

慶長20年 1615年 4月12日 73歳
浅野幸長の娘が熱田(尾張国)より徳川義俊のもとへ輿入れする。幸長の娘の供奉輿50、女中43名、長持300棹に及ぶとされる。幸長の娘は、義俊に銀子200枚・服10領を、義俊の母に銀子100枚・服10領を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月13日 73歳
織田有楽・尚長父子が名古屋(尾張国)にいる徳川家康のもとを訪れる。長益・尚長は、豊臣秀頼の軍勢の状況について、牢人衆を三手に分け、大野治長後藤基次で一手を、木村重成渡辺糺真田信繁明石全登で一手を、大野治房長宗我部盛親・毛利勝永・仙石秀範で一手をなしていることを伝える。
家康は、14日の昼には桑名(伊勢国)に赴くことを事前に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月14日 73歳
雨のため徳川家康桑名(伊勢国)行きは延期となる。
家康は、子・徳川義俊の祝言につき、名古屋城(尾張国)の本丸に赴き、祝う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月15日 73歳
巳刻(9-11時)、徳川家康名古屋城(尾張国)を出立する。佐屋(尾張国)にて船に乗り、申刻(15-17時)、桑名(伊勢国)に到着する。
夜、本多忠朝が家康に対面する。忠朝は徳川秀忠勢の先手として上洛する。
出典:『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月16日 73歳
徳川家康が亀山(伊勢国)に到着する。家康のもとに板倉勝重の飛脚が到着し、大坂(摂津国)の情勢について、12日に豊臣秀頼が牢人へ金銀を配り、武具の用意を命じた報告する。
徳川義俊名古屋城(尾張国)を発し、桑名(伊勢国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月17日 73歳
徳川家康水口(近江国)に到着する。徳川秀忠の使者として成瀬正武が家康のもとに到着し、10日に秀忠が江戸城(武蔵国)を発ったこと、14日に清水(駿河国)に到着したこと、23・24日には京都(山城国)に到着するので、それまでは合戦を控え、秀忠には先陣を命じることを伝える。
安藤直次成瀬正成の飛脚が家康のもとに到着し、徳川頼宣勢は永原(近江国)に、徳川義俊勢は土山(近江国)に到着したことを伝える。
松平忠直勢が坂本(近江国)に陣取ったとの報告が家康のもとにもたらされる。家康は忠直勢に18日には西岡・向明神(山城国)辺りに進軍するよう命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月18日 73歳
徳川家康水口(近江国)を出立し、矢橋(近江国)、大津(近江国)、膳所(近江国)を経由する。大津から膳所の船中で、が家康に膳を献じる。午刻(11-13時)、船を下船する。山科(山城国)辺りで公家衆や京都の町衆が出迎え、未刻(13-15時)、二条城(山城国)に到着する。
徳川義俊徳川頼宣が京都に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月19日 73歳
徳川家康が大野治純を召し、治純の兄・治長が4月12日に負傷したことについて、怪我の軽重や犯人を調査し、犯人が判明した罪科に処すことを言い含めたうえで大坂(摂津国)へ赴かせる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月21日 73歳
徳川秀忠伏見城(山城国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月22日 73歳
徳川秀忠伏見城(山城国)を発ち、二条城(山城国)にいる徳川家康と密談する。本多正信土井利勝本多正純が加わる。申刻(15-17時)、秀忠は伏見城に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月24日 73歳
徳川家康が、豊臣秀頼淀殿への使者として常光院、二位局を遣わし、三ヶ条の書付を遣わす。また、大蔵卿局、正永尼に大坂城(摂津国)に戻るよう命じ、両名は、朝、大坂に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月25日 73歳
徳川秀忠の使者として、土井利勝安藤重信二条城(山城国)にいる徳川家康のもとを訪れ密談する。家康は両名に4月26日に秀忠へ二条城を参るように言い渡す。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月26日 73歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き、対面する。4日28日に大坂城(摂津国)に向けて出陣することが決まる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月27日 73歳
徳川家康の使者として本多正純伏見城(山城国)にいる徳川秀忠のもとに赴き、4月28日とされていた大坂城(摂津国)への出陣を延期すると伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 4月28日 73歳
豊臣秀頼勢10000が郡山・龍田・法隆寺(大和国)の近辺に出撃し、子刻(23-1時)放火する。法隆寺は火災を免れる。大和郡山城(大和国)に籠城していた筒井定慶は逃亡する。
申刻(15-17時)、大野治房・槙島昭光が豊臣勢を率い、(和泉国)、住吉(摂津国)等を放火する。住吉社(摂津国)は火災を免れる。
出典:『駿府記』同年月日・29日条

慶長20年 1615年 4月29日 73歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとを訪れ密談し、3日に京都より出陣することを決す。
出典:元和3年10月14日付松浦俊重泉州樫井表戦争覚書(『浅野家文書』126号)、元和3年10月13日付金丸信盛泉州樫井戦争覚書(『浅野家文書』127号)、慶長20年4月30日付秋元泰朝他2名連署状(『浅野家文書』128号)、『駿府記』同年月日・30日条

慶長20年 1615年 4月29日 73歳
浅野長晟が信達(和泉国)にて大野治長の家老・北村善大夫、大野弥五左衛門等30名ほどを捕縛する。
巳刻(9-11時)、柏野(和泉国)にて、大野治房・大野道犬・郡宗保・槙島昭光・塙直之・岡野大学が率いる豊臣勢3000が浅野長晟の陣取る信達(和泉国)に攻め寄せる。浅野勢は浅野忠知を先陣に応戦する。戦いは卯刻(5-7時)より午刻(11-13時)まで戦い、長晟が勝利する。浅野勢の上田宗箇亀田高俊、田胡助左衛門、浅野良重が豊臣勢を追撃し、直之、芦田作内、米田監物、横井治右衛門、山内権三郎等が戦死する。徳川家康は長晟の戦功を賞し感状を発給する。松平正久、秋元泰勝、後藤光次が家康の意を奉じる。
出典:元和3年10月14日付松浦俊重泉州樫井表戦争覚書(『浅野家文書』126号)、元和3年10月13日付金丸信盛泉州樫井戦争覚書(『浅野家文書』127号)、慶長20年4月30日付秋元泰朝他2名連署状(『浅野家文書』128号)、『駿府記』同年月日・30日条

慶長20年 1615年 4月30日 73歳
徳川家康が樫井合戦での浅野長晟の働きを賞す。
出典:同年月日付徳川家康黒印状(『浅野家文書』118号)

慶長20年 1615年 5月1日 73歳
徳川家康が諸大名に対面し、5月3日に出陣することを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月2日 73歳
浅野長晟の使者が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着し、4月29日の柏野(和泉国)の合戦の絵図・記録および大野弥五左衛門の首を進上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月3日 73歳
徳川家康徳川秀忠大坂城(摂津国)への出陣が予定されていたが5月5日に延引となる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月5日 73歳
巳刻(9-11時)、徳川家康二条城(山城国)より出陣する。
二条城留守居衆:松平定勝青木信安
家康が淀(山城国)にて細川忠興に会う。申刻(15-17時)、枚方・星田(河内国)に陣取り、宿泊する。
徳川秀忠伏見城(山城国)より出陣し、申刻(15-17時)、砂・星田(河内国)に陣取る。秀忠は家康と対面し徳川方諸勢の陣所について協議する。本多正信藤堂高虎土井利勝安藤重信がその協議に参加する。
小笠原秀政が久宝寺村(河内国)に陣取る。
井伊直孝が松原(河内国)に陣取る。
藤堂高虎勢が千塚に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『綿考輯録』巻19、『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』巻第54「松平定勝」の項、同161「青木信安」の項、同188「小笠原秀政」の項

慶長20年 1615年 5月6日 73歳
八尾(河内国)にて藤堂高虎長宗我部盛親が戦う。
藤堂勢:藤堂高虎、藤堂新七郎[藤堂高虎勢](戦死)・藤堂高刑[藤堂高虎勢](戦死)・桑名吉成[藤堂高虎勢](戦死)。
長宗我部勢:長宗我部盛親。
巳刻(9-11時)、若江(河内国)にて井伊直孝木村重成・山口左馬允が戦い、直孝が勝利する。
徳川勢:井伊直孝、川手良列[井伊直孝勢](戦死)、庵原朝昌[井伊直孝勢]、福留政親[井伊直孝勢]。
豊臣勢:木村重成(戦死)、山口左馬允、内藤政勝(戦死)。
岩田にて榊原康勝と木村宗明が戦い、康勝が勝利する。
徳川勢:榊原康勝。
豊臣勢:木村宗明。
道明寺(河内国)にて水野勝成・松平忠明伊達政宗の徳川勢と後藤基次薄田兼相渡辺糺の豊臣勢が戦い、徳川勢が勝利する。
徳川勢:水野勝成、松平忠明、伊達政宗。
豊臣勢:後藤基次(戦死)、薄田兼相(戦死)、渡辺糺。
合戦後、徳川家康徳川秀忠は枚岡(河内国)に陣取る。7日の大坂城(摂津国)総攻めにつき、先陣を本多忠朝と定める。
出典:『駿府記』同年月日条、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『寛政重修諸家譜』巻第100「榊原康勝」の項、同153「内藤政勝」の項

慶長20年 1615年 5月7日 73歳
寅刻(3-5時)、徳川秀忠が枚岡(河内国)を発ち、岡山に陣取る。
卯刻(5-7時)、徳川家康が枚岡を発ち茶臼山に陣取る。
巳刻(9-11時)、天王寺口(摂津国)にて家康・秀忠父子と毛利勝永・真田信繁長宗我部盛親・仙石秀範・大野治房・大野道犬、槙島昭光・堀田盛重・真野助宗・伊東長実・中島氏種・野々村雅春・青木一重速水守久等が率いる豊臣勢が戦い、徳川勢が勝利する。
徳川家康・秀忠勢:松平忠直酒井忠世酒井家次本多忠朝(戦死)、小笠原秀政(重傷。この日、久宝寺村(河内国)にて死去)、小笠原忠脩(戦死)、黒田長政加藤嘉明松平正久渥美友重[松平忠直勢]、駒井昌保[松平正久勢]、保科正光、保科正貞、安藤彦四郎(戦死)、松平助十郎(戦死)、古田左近(戦死)、野一色頼母(戦死)、神保長三郎(戦死)、奥田三郎右衛門(戦死)。
豊臣秀頼勢:真田信繁(戦死)、大谷吉治(戦死)、石川康勝(戦死)、細川興秋、渡辺糺[自害]。
未刻(13-15時)、家康は茶臼山に戻る。秀忠も同地に合流し、その後、岡山に戻る。
豊臣秀頼大坂城(摂津国)の天守閣に火をかける。
大野治長の家老・米村権右衛門が茶臼山の家康のもとを訪れ、本多正純後藤光次を介し、豊臣秀頼淀殿の助命を嘆願し、受け入れられる場合、治長は切腹することを申し出る。家康は秀忠に申し入れをするように伝え、権右衛門は岡山の秀忠のもとを訪れるが、秀忠に拘束され、光次が権右衛門の身柄を預かる。
花房正成が徳川家の使者として秀頼のもとに赴く。
出典:『駿府記』同年月日条、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、『鍋島勝茂譜考補』(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)、『綿考輯録』巻19、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井忠世」の項、同65「酒井家次」の項、同90「花房正成」の項、同153「内藤政勝」の項、同157「駒井昌保」の項、同188「小笠原秀政」の項、同巻第189「小笠原忠真」、同189「小笠原忠脩」の項、同250「保科正光」の項、同250「保科正貞」の項

慶長20年 1615年 5月8日 73歳
豊臣秀頼大坂城サキ島の堀西方にある唐物倉にて淀殿大野治長速水守久等とともに残り、徳川家に和を乞うが、井伊直孝安藤重信が唐物倉に発砲したため、徳川家に和睦の意なしと受け止めた秀頼らは自刃する。淀殿、大蔵卿局、右京大夫局、二位局(助命される)、饗庭局、宮内卿局、清韓、速水守久、速水出来、津川左近、大野治長、大野治徳、毛利勝永、毛利勘解由、毛利長右衛門、堀対馬守、武田左吉、氏家道喜、伊藤武蔵、土肥勝五郎、高橋半三郎、高橋三十郎、埴原三十郎、寺尾少右衛門、小室茂兵衛、土肥庄五郎、片岡十右衛門、加藤弥平太、森島長意、竹田永翁、小室義兵衛、中方将監、中方半兵衛、真田幸昌が秀頼と共に自害する。秀頼勢の将の首実検が行われ、松平忠直が、真田信繁、御宿政友、大野道犬の首を持参する。
申刻(15-17時)、徳川家康が茶臼山(摂津国)の陣所を出て、戌刻(19-21時)、二条城に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『本光国師日記』同年月日条、『福富半右衛門親政法名浄安覚書』、「薩藩旧記雑録後編」(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編 2006年)、『佐久間軍記』、『鍋島勝茂譜考補』(『大阪市史』史料編 第五巻 大坂城編(2006年)、『綿考輯録』巻19

慶長20年 1615年 5月9日 73歳
徳川秀忠が岡山の陣所を発ち、伏見城(山城国)に入る。大坂城(摂津国)に残されている金銀を調査するため安藤重信青山忠俊、阿部正次が大坂(摂津国)に残る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月10日 73歳
浅野長晟蜂須賀至鎮生駒正俊二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。家康は長晟の信達(和泉国)での戦いを賞し、とりわけ、上田宗箇亀田高俊、田胡助左衛門の働きを称える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月11日 73歳
蜂須賀蓬庵の従者が、八幡(山城国)辺りにて長宗我部盛親を捕らえる。盛親は二条城(山城国)に移送され、同城の西門に捕縛された状態でさらされる。
午刻(11-13時)、徳川秀忠が二条城に赴き、徳川家康と密談する。申刻(15-17時)、秀忠は伏見城(山城国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月12日 73歳
徳川家康秀忠が豊臣勢の落人の追捕を諸代官・諸大名に命じる。
豊臣秀頼の娘(7歳)が京極忠高のもとを捜索したところ発見される。秀頼に男子がいることが判明し、捜索するように触れが回る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月13日 73歳
中川久盛寺沢広高二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。両名とも、大坂城(摂津国)攻めに間に合わなかったことについて無念の旨を家康に述べる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月14日 73歳
方々より豊臣勢の落人の首が600程、二条城(山城国)に届く。
豊臣秀頼のもとで大坂町奉行をつとめた水原石見守が二条城近辺にて潜伏しているとの訴えがあり、藤堂高虎が石見守の潜伏先に討手を差し向ける。石見守は応戦し、3人を斬るも討ち取られる。石見守の首は二条城の西門にさらされる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月15日 73歳
長宗我部盛親が一条(山城国)より大路(山城国)まで引き回されたうえ六条河原(山城国)にて処刑される。三条河原(山城国)にて首がさらされる。秀頼与同の者72名の首が粟田口(山城国)および東寺(山城国)近辺にてさらされる。
出典:『駿府記』同年月日条、『陰徳太平記』巻50「元親国内巡見付一宮之御事」

慶長20年 1615年 5月19日 73歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴く。家康は、近く駿府城(駿河国)">に帰城する旨を秀忠に伝えるが、秀忠は8月までは京都(山城国)に留まり、大坂城(摂津国)攻めの後処理を済ませるよう強く要請する。家康は秀忠の請いを受け入れ8月までは京都に滞在すると返答する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月20日 73歳
大野道犬が方廣寺大仏殿あたりで捕縛される。
浅野長晟が紀伊国伊都郡に隠れていた真田信繁の妻を捕らえ二条城(山城国)に移送する。信繁妻は豊臣秀頼より信繁に与えられた黄金57枚と脇差(銘 来国俊)を所持しており、長晟はそれらを徳川家康に進上するが、家康はそれを長晟に賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月21日 73歳
伏見(山城国)の農人橋に隠れていた豊臣国松が捕縛される。国松は「容貌美麗」だったとされる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月23日 73歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き、密談する。午刻(11-13時)、秀忠は伏見城(山城国)に戻る。
未刻(13-15時)、豊臣国松が六条河原(山城国)にて処刑される。国松の乳母の子・田中六左衛門も同時に処刑される。乳母は赦免される。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 5月24日 73歳
徳川家康後藤光次を召し出し、豊臣家より没収した金銀を調査するように命じる。光次は大坂(摂津国)に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 6月1日 73歳
午刻(11-13時)、江戸(武蔵国)にて大地震が起こり、家屋が倒壊する。
出典:『駿府記』同年月8日条

慶長20年 1615年 6月2日 73歳
安藤重信後藤光次が豊臣家の没収金28060枚、銀24000枚を京都に移送し、その量を徳川家康に報告する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 6月5日 73歳
島津家久徳川家康秀忠父子に謁す。家久は家康に礼として銀500枚、綾子50巻を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第108「島津家久(忠恒)」の項

慶長20年 1615年 6月7日 73歳
徳川秀忠の使者として土井利勝二条城(山城国)にいる徳川家康のもとを訪れる。秀忠の咳病が治癒したことを伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 6月8日 73歳
最上家親の飛脚が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに到着し、6月1日に江戸(武蔵国)にて大地震があり、家屋が倒壊したことを伝える。
家康が松平忠明を召し出し、大坂(摂津国)にて50000石を加増し、総じて100000石を給付する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 6月15日 73歳
巳刻(9-11時)、徳川家康が参内する。後水尾天皇に銀100枚・綿200把を、女院に綿100把・銀50枚を、長橋局に銀20枚・綿30把を進上する。午刻(11-13時)、家康は院参する。後陽成上皇に銀50枚・綿100把を進上する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 6月16日 73歳
嘉定につき諸大名が徳川家康のもとに参る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 6月20日 73歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き密談をする。古田重然が所持していた勢高肩衝を家康は秀忠に遣わす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 6月27日 73歳
大野道犬が長谷川藤広をして(和泉国)に移送される。4月28日の堺の焼失は道犬の放火によるものであるため、堺にて処刑せよとの徳川家康の命が出る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 6月28日 73歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴く。家康・秀忠は池田忠雄を召し出し、兄・忠継の遺領相続を認める。ただし、播磨国宍粟郡38000石は輝澄に、同国赤穂郡35000石は政綱に、同国佐用郡25000石は輝興に分与し、忠雄は備前国浅口郡・窪屋郡・下道郡・都宇郡の315000石を領し、淡路国は幕府に返上する。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第263「池田政綱」の項、同巻第265「池田忠雄」の項、同巻第266「池田輝澄」の項

慶長20年 1615年 6月29日 73歳
豊臣秀頼が所持していた刀(銘 骨喰吉光)を本阿弥光徳が探し出し、徳川家康に献上する。家康は光徳に下賜するも、光徳は徳川秀忠に献上する。秀忠は光徳に黄金10枚を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 6月30日 73歳
徳川家康二条城(山城国)の前殿に出座する。金地院崇伝南光坊天海、智積院、勧学院が侍る。林羅山が駿府(駿河国)より持参した新板大蔵経を見物する。文字の鮮明さを皆が称える。印刷した125部の1部ずつを諸寺に配布するよう家康が命じる。
天海が天台宗以外の僧が紫衣を着するのを禁じ、僧正にも任じないようにすべきと家康に進言する。これを聞き多聞院が、家康にそのようなことを進言するのは控えるべきとし、すでに空海が紫衣を着しており、また高野山、東寺、醍醐寺の僧は僧正に任じられた僧がすでにおり、昔からそれが続いていると反論する。天海がその反論に口を閉ざす。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月2日 73歳
池田利隆忠雄兄弟が二条城(山城国)にいる徳川家康と対面する。本多正純が取り次ぐ。利隆・忠雄は、徳川秀忠の命により池田忠継の遺領である備前国を忠雄が拝領したことへの礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月3日 73歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに土井利勝、伊丹康直を遣わす。利勝・康直は、漳州よりの船が紀伊国に着岸したため、浅野長晟が調査したところ砂糖を積載していたので、検使を遣わすべきか否かの判断を請う。後藤光次が家康に取り次いだところ、家康は自由に商売することを許すと返答する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月4日 73歳
蜂須賀至鎮二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。家康は至鎮に冬の陣以来、身命を惜しまず無二の忠節を尽くしたことを賞す。至鎮は、徳川秀忠の命により淡路国を拝領したこと、身に余る厚恩であると返答する。至鎮の淡路国拝領は、淡路国を領していた池田忠雄が備前国を相続することになったため、また忠雄の舅が至鎮だったことによる。
細川忠興が家康に領国帰国につき暇乞いをする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月6日 73歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとを訪れる。奥之座にて閑談する。本多正信本多正純が同席する。
二条城前殿で真言論議が行われる。題は「十悪起不起、身三口四意三、同時起耶、各別耶」。宝性院、無量寿院、遍明院、正智院、金剛三昧院、如意輪寺、庵室、北室院が参加。講者は多聞院。家康、秀忠、徳川義俊徳川頼宣松平忠直伊達政宗前田利常京極忠高藤堂高虎、正信、日野唯心も参席する。
未刻(13-15時)、徳川秀忠伏見城(山城国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月8日 73歳
廓山が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。浄土宗法度の案を持参する。家康は廓山に大蔵一覧を1部賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月9日 73歳
徳川家康二条城(山城国)の前殿に出座する。家康は織田有楽に対面し、大坂城(摂津国)攻めで失われてしまった茶入の形を問う。
金地院崇伝が久遠寺(甲斐国)より取り寄せた『本朝文粋』2部について、それを五山僧に書写させていたが、第1巻に不足のところがあったためが、林羅山が京都(山城国)にて同書を探し出し、久遠山本を補う。家康は羅山の働きを賞す。
松浦肥前守が高麗鴇を家康に献上する。
松本(信濃国)の山より銀・鉛が産出したとの報告が家康にもたらされる。家康は領主に採掘を命じる。担当は松平正久、伊丹康勝。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月10日 73歳
本多忠政、忠刻、政朝が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。忠政の弟・忠朝が5月7日の天王寺・岡山の戦いで戦死したため、政朝が忠朝の娘・千代を娶り大多喜(上総国)50000石を相続するようにと徳川秀忠の命があり、その礼として家康にもとに赴く。本多正純が披露する。
松平忠輝・松平忠昌が家康に対面する。
松浦久信が、父・鎮信の遺物の刀1腰と銀200枚を家康に献上する。正純が披露する。
徳川義俊が暑気患いのため、成瀬正成と興安が家康にその旨を報告したところ、家康は六和湯を義俊のために調進する、義俊はやや回復する。
片桐貞隆が伽羅1折を家康に献上する。
島津家久が鉄砲薬袋・火縄10筋を家康に献上する。火縄は薩摩国所産の唐竹をもとに綱にしたものという。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月15日 73歳
徳川家康二条城(山城国)の南殿に出座する。諸侍、公家衆が家康に出仕する。
松平忠輝が家康に対面する。
南光坊天海金地院崇伝、その他の天台宗僧、真言宗僧が家康に対面する。
法隆寺阿弥陀院の遺物である唯識論、諸疏等の書籍1箱を中井正清が崇伝を介し家康に見せる。
織田常真が家康に礼をする。
徳川頼宣伏見城(山城国)にいる徳川秀忠のもとに赴き、対面する。未刻(13-15時)、頼宣は二条城に戻る。徳川義俊は暑気により股に腫物ができていたため伏見城行きを取りやめる。
安藤重信が秀忠の使者として二条城(山城国)に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月16日 73歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとを訪れる。奥座にて閑談する。本多正信が参席する。未刻(13-15時)、秀忠は伏見城(山城国)に戻る。
松平忠輝松平忠直松平乗寿、譜代衆が家康のもとに出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月17日 73歳
二条城(山城国)にて浄土法問が行われる。題は「難易二道」。源誉存応、呑龍、了的、廓山、長流、理益など12名が参加する。一乗院、青蓮院、大乗院、公家衆、伊達政宗藤堂高虎黒田忠之池田利隆、冷泉中納言が見物する。
徳川家康大坂城(摂津国)攻めの際、逃亡した者をひとりずつ召し出し、どこにいたかを尋ねる。尋問を受けた者は申し開きをする。
徳川秀忠の使者として永井尚政が二条城にいる家康のもとに赴き、大鱸1疋を献上する。
家康が7月13日に改元すること伝奏に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月18日 73歳
井伊直孝二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに礼に赴く。16日に徳川秀忠が直孝を侍従に任じることを約したことへの礼という。家康は大坂城(摂津国)攻めにおける直孝の武功を賞し、佐和山(近江国)近辺にて長浜領50000石を加増し、加えて金銀分銅を賜う。
二条城にて家康が諸士に対面する。
金地院崇伝天海、竹林坊が家康のもとを訪れ、仏法について雑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月19日 73歳
松平定勝伊達政宗藤堂高虎二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに出仕する。
松平忠直前田利常大坂城(摂津国)攻め軍功により参議に、藤堂高虎は四位に叙されることになる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月20日 73歳
蜂須賀蓬庵二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。本多正純が取次。蓬庵が刀・脇差を家康に献上する。松平正久が受け取る。家康は蓬庵の早々の上洛を称す。蓬庵は、子・蜂須賀至鎮よりすぐに上洛して礼をするようにといわれていたが、阿波国は波が高く渡海が延引したと述べる。また、淡路国の拝領につき、由緒のある国を得て厚恩余りある旨を述べる。家康は至鎮の大坂城(摂津国)攻めでの忠節を賞すとともに、嫡孫聟でもあるので公達と同じ扱いであることを述べる。蓬庵は感涙を抑えて退出する。
松平忠直が参議任官の礼のため、家康のもとを訪れる。忠直家臣の本多成重が飛騨守になることが決まる。
伊達政宗前田利常藤堂高虎が家康のもとを訪れ官位昇進の礼をする。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月22日 73歳
伝奏が二条城(山城国)にいる徳川家康のもとを訪れ、閏6月21日の徳川秀忠の参内について礼をする。家康は後水尾天皇に『本朝文粋』1部を伝奏を介し進上する。
島津兵庫頭の使者が家康のもとを訪れ、緞子10巻を献上する。島津家久が家康に対面する。
片桐孝利が家康に礼をする。銀300枚、父・且元の遺物の刀・脇差・茶壺を献上する。本多正純が取次。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月23日 73歳
二条城(山城国)にて真言論義が行われる。題は「十悪同時断歟、漸々断歟」。講師は遍明院。宝性院、無量寿院、如意輪寺、性智院、金剛三昧院、多聞院、庵室、北室院、釈迦門院が参加する。
伊達政宗が定家自筆古今集を徳川家康にみせる。冷泉為満日野唯心もその場に居合わせる。政宗は唯心を通じて、家康が所望するならば進上すると家康に伝えるが、家康は「玩弄之慰」みにせよとして政宗に返却する。
織田信包の遺跡相続について、訴えをおこしていた子・信重の非を、相続した信則が訴える。この件につき、分部光信、長野友秀が信則を支持する旨を述べる。家康は信包の遺言があるので、信重の訴えを理がないとして退ける。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月25日 73歳
二条城(山城国)にて天台論議が行われる。題は「戒定恵三学備て即身成仏歟、戒法はかりにて成仏歟」。講師は実報院、精義は恵心院。
東寺宝護院が『果宝無尽蔵』を家康のもとに持参する。以心崇伝が取り次ぐ。
南光坊天海が家康に天台法問を伝授する。
家康が福島高晴の居城・宇陀城(大和国)の破却を小堀政一、中坊左近に命じる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月26日 73歳
二条城(山城国)にて真言論議が行われる。題は「肉身を指て即身成仏歟、肉身不捨成仏歟」。講師は高室院。
浅野長晟徳川家康に対面する。
喜連川頼氏が家康に礼をする。家康は座を立ち、頼氏に蔀を渡す。
伯耆国に隠匿していた仙石秀範の子息(11歳)が捕縛され、大路を引き回しのうえ、六条河原(山城国)にて処刑される。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月27日 73歳
二条城(山城国)にて徳川家康が舞楽を興行する。徳川秀忠徳川義俊徳川頼宣松平忠直前田利常伊達政宗松平忠輝島津家久毛利秀就毛利秀元田中忠政森忠政京極高知京極忠高池田利隆山内忠義浅野長晟藤堂高虎生駒正俊鍋島勝茂加藤明成稲葉典通有馬豊氏小笠原忠真等が出席する。5月7日の天王寺口の戦いで重傷を負った忠真は遅れて席入りしたが、家康が諸将に「わが鬼孫なり」と紹介し、興行が始まる。
出典:『駿府記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第188「小笠原忠真」の項

慶長20年 1615年 閏6月28日 73歳
源誉存応二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに出仕する。閏6月29日に関東へ戻るので暇乞いをする。
了的、廓山が彦坂元正の赦免を願い出るが、家康は退ける。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 閏6月29日 73歳
本多正純成瀬正成安藤直次二条城(山城国)にいる徳川家康のもとで織田信重と織田信則の訴訟について家康の意向を問う。家康は信重の主張は認められないとして信重の所領没収を命じる。
黒船が日本に着岸したとの報告が長崎(肥前国)より家康のもとにもたらされる。後藤光次が家康に伝える。
夜、古田重然の従者・宗喜を車の上に磔にして大道にて引き回したうえで牢に入れる。理由は、家康の出陣につき、島津家久が豊臣家に一味し一揆を起こしたと偽り事を言いふらし、京都(山城国)の放火を企てたため、4月28日に定まっていた家康の出陣が5月5日に延期となったためとされる。この事件について、板倉勝重が宗喜を捕らえ、拷問したとされる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月1日 73歳
徳川家康二条城(山城国)にて能を催す。徳川秀忠が二条城に赴き、能に参会する。公家衆、大名衆も出仕。未刻(13-15時)、秀忠が伏見城(山城国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月2日 73歳
以心崇伝二条城(山城国)にいる徳川家康に武家諸法度の草案を見せる。家康は、伏見城(山城国)にいる徳川秀忠に見せるようにと指示する。
南光坊天海が家康のもとに出仕し、天台之法問を家康に伝授する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月3日 73歳
土井利勝二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き、武家諸法度のことについて相談する。
真言論議が行われる。題は「清浄行者不入涅槃、破戒比丘不堕地獄」。講師は宝性院。無量寿院、遍明院、多聞院が参加する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月4日 73歳
二条城(山城国)にて天台論議が行われる。題は「三葉示同」。講師は月山寺。正覚院、南光坊天海、陽成院、恵心院、竹林房、法輪寺、恵光坊等。
徳川秀忠の使者として水野忠元が家康のもとに赴く。鱸を進上する。
家康が梅若大夫を召し出し、能装束1縮を賜う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月5日 73歳
徳川家康二条城(山城国)の南殿に出座する。源氏物語抄を公家衆に配分する。家康は仮名を付すようにと日野唯心、三条、飛鳥井、冷泉父子、烏丸に命じる。
土井利勝が家康のもとに赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月6日 73歳
二条城(山城国)にて真言論議が行われる。
松平清正大坂城(摂津国)東北櫓の跡を掘り起こしたところ黄金43枚、竹流し金数十、金盆、金炉、金箸、金壺の諸器を発見する。清正は松平正久後藤光次を介して徳川家康に進上する。この金器は淀殿の玩弄品であるとされる。家康は秀忠のいる伏見(山城国)に持参するようにと伝え、清正に下賜することとなる。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月7日 73歳
早朝、伏見城(山城国)にいる徳川秀忠のもとに諸大名が出仕する。秀忠は武家諸法度13ヶ条を諸大名の前で以心崇伝に読ませる。
伏見城にて能が催される。
二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに南光坊天海日野唯心が出仕する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月8日 73歳
永平寺(越前国)の長老が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月9日 73歳
徳川家康二条城(山城国)前殿に出座する。家康は南光坊天海以心崇伝を召し、豊国神社(山城国)について破却したいところであるが、祭神である豊臣秀吉方廣寺大仏(山城国)の鎮守であるので、大仏殿の回廊裏に遷座を考えているが、どうかと尋ねる。天海・崇伝いずでも、家康の意図でしかるべしと返答する。そこで家康は、板倉勝重を召し寄せ、妙法院門跡を方廣寺住持とし1000石を加増する旨を伝える。照高院興意については、家康・秀忠父子の調伏祈祷をしていたので思うところはあるが、ひとまず聖護院に移すこととする。
冷泉為満が家康のもとに赴く。家康は為満に源氏物語の奥入について問う。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月10日 73歳
土井利勝二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴く。家康は7月27日に駿府城(駿河国)に向けて京都(山城国)を立つ予定であるが秀忠の京都出立はその前か後ろかを好きにすようと伝える。
家康が以心崇伝、多聞院を召し出し、高野山(紀伊国)に悪僧がおり、宝性院の什物を隠匿しているとの噂があるので捜索するようにと命じる。
家康が板倉勝重を召し出し、朝廷のことについて、関白には関白の役、弁には弁の役がありそれぞれ奏すようにし、決して伝奏を介さなければならないということがないようにせよと指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月11日 73歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き、奥座間にて対面する。本多正信本多正純が同席する。7月19日に秀忠は江戸城(武蔵国)に戻るべく京都(山城国)を発つと述べる。午刻(11-13時)、秀忠は伏見城(山城国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

慶長20年 1615年 7月12日 73歳
総持寺(能登国)が二条城(山城国)にいる徳川家康と対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月13日 73歳
「慶長」より「元和」に年号が改まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月15日 73歳
二条城(山城国)にて徳川家康京極高知京極忠高鍋島勝茂島津家久などに暇を下す。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月16日 73歳
黒田忠長二条城(山城国)にて徳川家康に暇乞いをする。
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

元和1年 1615年 7月17日 73歳
徳川秀忠二条城(山城国)にいる徳川家康のもとに赴き対面する。
家康は、公家諸法度を伝奏、二条昭実、三条実條、今出川晴季、公家衆に聞かせるべく広橋兼勝に読ませる。以心崇伝が同席する。
八条宮智仁が家康に礼をする。太刀・馬を贈る。
伏見宮邦清が家康に礼をする。小高檀紙10束を贈る。
九条忠栄が家康に礼をする。帷子・太刀・馬を贈る。
巳刻(9-11時)、能が催される。智仁、邦清、昭実、忠栄、一条、鷹司、近衛、晴季が参席し、七五三の饗応を受ける。織田常真日野唯心、両伝奏、花山院などの諸公家数十人、秀忠に供奉した武士は饗応を受ける。申下刻(16時)、秀忠は伏見城(山城国)に戻る。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月18日 73歳
加藤忠広二条城(山城国)にいる徳川家康に礼をする。銀300枚・帷子を献上する。
家康が松平忠直前田利常島津家久池田利隆山内忠義堀尾忠晴加藤明成などに暇を下す。ただし、田中忠政、稲葉修理は在京を命じる。忠直・利常には徳川秀忠より黄金200枚が、家久・利隆には銀1000枚が下賜される。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月19日 73歳
卯刻(5-7時)、徳川秀忠江戸城(武蔵国)に帰城すべく伏見城(山城国)を発つ。永原(近江国)に宿泊する。
智積院を照高院寺屋敷に移す。妙法院を方廣寺(山城国)住持とするための処置とされる。妙法院には300石を新たに給付する。
中院通勝が二条城(山城国)にいる徳川家康に礼をする。以心崇伝日野唯心冷泉為満が取り成す。
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

元和1年 1615年 7月20日 73歳
徳川家康が中院通勝に『源氏物語』初音巻を読ませる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月21日 73歳
徳川家康二条城(山城国)にて能を催す。高台院、公家衆、女房衆が参席する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月22日 73歳
徳川家康二条城(山城国)にて能を催す。本多康俊が舞台を提供する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月23日 73歳
松平忠直二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。
井伊直孝佐和山(近江国)より家康のもとを訪れ対面する。
家康が織田常真福島高晴跡地の宇陀(大和国)30000石と関東にて20000石のあわせて50000石を給付する。
二条城にて天台論議が行われる。題は「人天小善」。精義は南光坊天海、講師は恵心院。薬樹院、真光寺、喜見坊、月山寺、竹林坊、法輪寺、日増院、恵光院、法泉院が参加する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月24日 73歳
宝亀院が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。宝性院の遺跡について家康に勘気を蒙ったが、宝亀院の申し開きにより許される。家康よりますます仏法に励むよう言い渡される。
家康が五山碩学料を給付する。保長老、藤長老が家康に対面する。五山、大徳寺(山城国)、妙心寺(山城国)、永平寺、総持寺、新義真言、古儀真言、浄土宗の法度を家康が言い渡す。以心崇伝が担当する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月25日 73歳
伊藤修理が二条城(山城国)にいる徳川家康に対面する。家康は修理に暇を下す。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月26日 73歳
二条城(山城国)にて真言論議が行われる。題は「西方非西方」。講師は宝性院。宝亀院、無量寿院、遍明院、正智院、多聞院、庵室が参加する。
徳川家康が三条鋳物師に鐘数十を鋳造する。諸寺に寄進するためという。
家康が松平忠直加藤忠広に暇を下す。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月28日 73歳
徳川家康二条城(山城国)の前殿に出座する。公家衆が出仕する。松平定勝田中忠政が対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 7月29日 73歳
徳川家康二条城(山城国)の数寄屋にて中院通勝に『源氏物語』箒木巻を読ませる。金地院崇伝冷泉為満が同席する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月1日 73歳
徳川家康二条城(山城国)南殿に出座する。二条昭実、近衛、八条宮智仁、伏見宮邦清、鷹司、一条、九条忠栄が礼をする。その後、妙法院、梶井宮、曼殊院、一乗院、三宝院、青蓮院、大乗院、隨心院が礼をする。ついで公家衆が礼をする。信乗院が礼をする。
家康が南蛮人に対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月2日 73歳
二条城(山城国)の数寄屋にて徳川家康が中院通勝に『源氏物語』箒木巻を読ませる。
家康が大徳寺(山城国)の長老・天叔、松岳、玉室を召し出し、仏教のことをひとりずつ問う。南光坊天海金地院崇伝が同席する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月3日 73歳
徳川家康が8月4日に駿府城(駿河国)に向けて京都(山城国)を出発する旨を伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月4日 73歳
午刻(11-13時)、徳川家康駿府城(駿河国)に帰城すべく京都(山城国)を発つ。膳所(近江国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

元和1年 1615年 8月5日 73歳
早朝、徳川家康が、守山・草津(近江国)で起こった松平忠輝による徳川秀忠の家臣の長坂、伊丹が理不尽に殺害された旨を伝え聞く。家康は本多正純に命じて事件の詳細を調査させるも噂しかないため、家康は近江代官の長野友秀、小野宗左衛門、観音寺を召し出し事件の顛末を聞くと、長坂・伊丹が忠輝の前に出たため「狼藉」といって切り殺されたという。
巳刻(9-11時)、家康が矢橋(近江国)より船に乗り、水口(近江国)に宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月6日 73歳
徳川家康が雨のため水口(近江国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月8日 73歳
徳川家康が雨のため水口(近江国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月9日 73歳
卯刻(5-7時)、徳川家康水口(近江国)を発ち、亀山(伊勢国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月10日 73歳
未明、徳川家康が亀山(伊勢国)を発つ。昼、四日市(伊勢国)にて水谷九左衛門が家康に膳を献じる。四日市より船に乗り、申刻(15-17時)、名古屋(尾張国)に到着する。家康を迎えるため徳川義俊が船を出す。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月11日 73歳
徳川家康名古屋(尾張国)に逗留する。家康は子・義俊に美濃国内で30000石を新たに給付する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月12日 73歳
徳川家康が雨のため名古屋(尾張国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月13日 73歳
巳刻(9-11時)、徳川家康名古屋(尾張国)を発つ。岡崎(三河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月14日 73歳
徳川家康が吉田(三河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月15日 73歳
徳川家康が中泉(遠江国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月16日 73歳
徳川家康が中泉(遠江国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月17日 73歳
徳川家康が雨により中泉(遠江国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月18日 73歳
徳川家康が雨により中泉(遠江国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月19日 73歳
徳川家康が中泉(遠江国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月20日 73歳
徳川家康が掛川(遠江国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月21日 73歳
徳川家康が田中(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月22日 73歳
徳川家康が田中(駿河国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 8月23日 73歳
午刻(11-13時)、徳川家康駿府城(駿河国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条、『黒田家譜』巻14「長政記」

元和1年 1615年 8月24日 73歳
徳川家康豊臣秀頼与同の者について、発見次第、札を入れて知らせるようにと指示する。松平正綱板倉重昌、秋元泰勝が奉行する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月7日 73歳
九鬼守隆駿府城(駿河国)にいる徳川家康に黄金30枚を献上する。この黄金は大坂牢人の喜多十左衛門のものという。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月8日 73歳
徳川秀忠の使者として水野忠元駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに赴き、豊臣方の諸勢の捜索について返答する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月9日 73歳
朝、徳川秀忠の使者として水野忠元駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに赴き、重陽の服を進上する。
徳川義俊が家康に自ら鉄砲にてしとめた白鳥を進上する。
家康が駿府城の南殿に出座する。諸士が出仕する。白鳥料理を日野唯心、大沢少将、畠山長門守、土岐左馬助、土岐市正、三好因幡守、猪子内匠頭、本田若狭守、堀直寄、市橋下総守に振る舞う。茶壺(銘 志賀)の口切を行い、茶を振る舞う。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月10日 73歳
駿府城(駿河国)にいる徳川家康に、佐竹義宣が大鷹2連を、伊達政宗が大鷹1連を、最上家親が大鷹2連を献上する。本多正純安藤直次が披露する。
越後に遣わしていた松平勝隆が家康に松平忠輝徳川秀忠の御家人2名を殺害した件について報告する。忠輝は陣法を理解せず、あまつさえ腹を立てているとのことなので、秀忠より言って聞かすようにと家康は指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月14日 73歳
早朝、徳川家康が鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月15日 73歳
諸士が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に出仕するが、家康の出座はなし。
細川忠興が服20を献上する。本多正純が披露する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月17日 73歳
不残が駿府城(駿河国)にいる徳川家康に対面する。家康は不残に大蔵一覧を賜う。
徳川秀忠の使者として神尾守世が家康のもとに訪れる。家康が鷹狩と称し関東に赴くことを謝すための使者。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月18日 73歳
徳川家康が鷹狩をする。巳刻(9-11時)、駿府城(駿河国)に帰城する。
徳川秀忠が家康に蛤2を贈る。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月19日 73歳
徳川家康が鷹狩で得た鶴の料理を日野唯心に振る舞う。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月21日 73歳
早朝、徳川家康が鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月22日 73歳
名古屋(尾張国)より成瀬正成、志水忠宗が駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ対面する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月23日 73歳
南光坊天海駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面し、数刻、仏法について雑談する。
夜、金森重頼が父・可重の死にともなう相続につき家康に礼をする。可重の遺物の刀(銘 国次)・脇差(銘 正宗)・茶壺・銀子200枚を献上する。重頼の弟も銀子10枚を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月25日 73歳
南光坊天海駿府城(駿河国)にいる徳川家康と対面し、雑談する。
織田常真が家康に対面し、繻紾10巻を献上する。
井伊直孝が家康に服10領・銀子200枚を献上する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月26日 73歳
徳川秀忠の使者として土井利勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れ密談する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月27日 73歳
金地院崇伝南禅寺(山城国)より駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとに出仕する。真観寺の住持でもある崇伝に家康は八尾(河内国)のことを問う。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月28日 73歳
徳川家康が関東へ鷹狩に出るとして29日に駿府城(駿河国)を発つことを前触れする。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 9月29日 73歳
午刻(11-13時)、徳川家康が関東での鷹狩のため、駿府城(駿河国)を発つ。本多正純松平正久、秋元泰勝、板倉重昌など100余人が供奉する。申刻(15-17時)、清水(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月1日 73歳
未刻(13-15時)、徳川家康善徳寺(駿河国)に到着する。道中、鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月2日 73歳
徳川家康善徳寺(駿河国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月3日 73歳
徳川家康が三島(伊豆国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月4日 73歳
徳川家康が小田原(相模国)に到着する。箱根(伊豆国)にて安藤重信、近藤秀用が家康を出迎える。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月5日 73歳
徳川家康が中原(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月6日 73歳
徳川家康が中原(相模国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月7日 73歳
徳川家康が中原(相模国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月8日 73歳
徳川家康が藤沢(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月9日 73歳
徳川家康が神奈川(武蔵国)に到着する。徳川秀忠が神奈川にて家康を出迎える。対面の後、秀忠は江戸城(武蔵国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月10日 73歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に到着する。諸大名が路次にて出迎える。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月11日 73歳
徳川秀忠徳川家康のもとを訪れ閑談する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月15日 73歳
徳川家康江戸城(武蔵国)の本丸に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月20日 73歳
徳川家康が10月21日に戸田(武蔵国)にて鷹狩りをすると前もって述べる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月21日 73歳
卯刻(5-7時)、徳川家康江戸城(武蔵国)を発ち、戸田(武蔵国)にて宿泊する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月25日 73歳
卯刻(5-7時)、徳川家康が戸田(武蔵国)を発ち、未刻(13-15時)、川越(武蔵国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 10月晦日 73歳
卯刻(5-7時)、徳川家康が川越(武蔵国)を発ち、未刻(13-15時)、忍(武蔵国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 11月9日 73歳
徳川家康が忍(武蔵国)を発ち、岩槻(武蔵国)に到着する。
徳川秀忠が鴻巣(武蔵国)より江戸城(武蔵国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 11月10日 73歳
徳川家康が越谷(武蔵国)に赴く。鷹狩を予定していたが水が溜まっており取りやめる。越谷の代官は家康の勘気を蒙る。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 11月15日 73歳
徳川家康が越谷(武蔵国)を発ち、葛西に赴く。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 11月16日 73歳
徳川家康が千葉(下総国)に到着する。徳川秀忠が船橋(下総国)に到着する。土井利勝の所領である佐倉(下総国)にて鹿狩りをする。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 11月17日 73歳
徳川家康が東金(上総国)に到着する。徳川秀忠が佐倉(下総国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 11月25日 73歳
徳川家康が東金(上総国)を発ち、未刻(13-15時)、船橋(下総国)に到着する。丑刻(1-3時)、船橋で火災があり、町は焼失するが、家康の旅館は火災を免れる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 11月26日 73歳
徳川家康が葛西に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 11月27日 73歳
徳川家康江戸城(武蔵国)に帰城する。
本多正信が昨年の秋より患っていた病痾が回復する。家康は正信の復調を喜ぶ。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 11月28日 73歳
徳川家康が12月4日に駿府城(駿河国)に向けて江戸城(武蔵国)を発つという意向を示す。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 11月29日 73歳
徳川家康が三島(伊豆国)近辺に隠居所を見繕うよう指示する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 12月3日 73歳
徳川家康が12月4日に駿府城(駿河国)に向けて江戸城(武蔵国)を発つという意向を示す。徳川秀忠が家康のもとに赴き閑談する。その席に本多正信が加わる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 12月4日 73歳
辰刻(7-9時)、徳川家康江戸城(武蔵国)を発つ。午刻(11-13時)、稲毛(武蔵国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 12月5日 73歳
徳川家康が稲毛(武蔵国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 12月6日 73歳
徳川家康が稲毛(武蔵国)を発つ。辰刻(7-9時)より雪が降り、供の者が路次にて4、5人凍死する。未刻(13-15時)、中原(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 12月7日 73歳
徳川家康が中原(相模国)にて鷹狩をする。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 12月8日 73歳
徳川家康が中原(相模国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 12月9日 73歳
徳川家康が中原(相模国)に逗留する。家康が小人頭の稲垣権右衛門を誅殺する。理由は鷹狩につき鷹を負傷させたことによるという。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 12月12日 73歳
徳川家康が雪のため中原(相模国)に逗留する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 12月13日 73歳
徳川家康が中原(相模国)を発ち、小田原(相模国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 12月14日 73歳
徳川家康が三島(伊豆国)に到着する。12月15日は吉日であるため隠居所地の選定を行う意向を示す。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 12月15日 73歳
辰刻(7-9時)、徳川家康が三島(伊豆国)を発ち、泉頭(伊豆国)が勝地であるので、隠居所とする意向を示す。来春に移るという。未刻(13-15時)、善徳寺(駿河国)に到着する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 12月16日 73歳
徳川家康善徳寺(駿河国)を発つ。清水(駿河国)にて徳川頼宣が家康を出迎える。申刻(15-17時)、駿府城(駿河国)に帰城する。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 12月19日 73歳
徳川秀忠の節分の使者として土井利勝駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れる。泉頭(伊豆国)に隠居所の普請について、秀忠は自身の命令で進めることを家康に伝える。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 12月20日 73歳
徳川家康の泉頭(伊豆国)の隠居所の普請が始まる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和1年 1615年 12月24日 73歳
細川忠興駿府城(駿河国)に居る徳川家康に謁す。家康は忠興の大坂の陣における軍功を賞し、脇差(銘 信国)を下賜するとともに、羽柴姓を改め細川姓に復すよう命じる。
出典:『綿考輯録』巻20、『寛政重修諸家譜』巻第105「清和源氏 義家流 足利庶流 細川」「細川忠興」の項

元和1年 1615年 12月25日 73歳
徳川秀忠の歳末の使者として神尾守世駿府城(駿河国)にいる徳川家康のもとを訪れる。
出典:『駿府記』同年月日条

元和2年 1616年 3月5日 74歳
佐竹義宣が病の徳川家康を見舞う。家康は義宣の大坂冬の陣における奮戦と、大坂夏の陣における遠国にもかかわらず速やかに出兵したことを賞す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第129「清和源氏 義家流 佐竹」「佐竹義宣」の項

元和2年 1616年 3月19日 74歳
島津家久駿府城(駿河国)に赴き、病の徳川家康を見舞う。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津家久(忠恒)」の項

元和2年 1616年 3月21日 74歳
島津家久駿府城(駿河国)にて徳川家康秀忠父子に謁す。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津家久(忠恒)」の項

元和2年 1616年 4月4日 74歳
徳川家康石川忠総を召し寄せ、徳川秀忠に仕えること、大久保忠為を召し新田開発をするよう命じる。
家康が佐竹義宣に遺物として牧谿筆豊干の画を賜う。使者は島田直時
出典:『寛政重修諸家譜』巻第118「石川忠総」の項、同巻第129「佐竹義宣」の項

元和2年 1616年 4月17日 74歳
徳川家康が死去する。
出典:-

元和2年 1616年 4月17日 74歳
徳川家康が死去する。
出典:-

元和3年 1617年 2月21日 
禁裏が徳川家康に東照大権現の神号を与える。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

元和3年 1617年 4月8日 
久能山に安置されていた徳川家康の棺を日光東照社の廟塔に移す。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

元和3年 1617年 4月16日 
久能山に安置されていた徳川家康の神体を日光東照社に移す。
出典:『黒田家譜』巻14「長政記」

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