承保1年 1074年 8月23日 |
「延久」より「承保」に年号が改まる。 |
出典:- |
承保4年 1077年 10月6日 |
六角堂の町が焼失する。ただし、観音宝殿は火災を免れる。 |
出典:『扶桑略記』同年月日条 |
承暦1年 1077年 11月17日 |
「承保」より「承暦」に年号が改まる。 |
出典:- |
永保1年 1081年 2月10日 |
「承暦」より「永保」に年号が改まる。 |
出典:- |
応徳1年 1084年 2月7日 |
「永保」より「応徳」に年号が改まる。 |
出典:- |
寛治1年 1087年 4月7日 |
「応徳」より「寛治」に年号が改まる。 |
出典:- |
寛治1年 1087年 12月26日 |
清原武衡・家衡を討伐した旨を朝廷に報告する。 |
出典:『百練抄』『中右記』同年月日条 |
寛治3年 1089年 10月13日 |
摂政 藤原師実が長谷寺に参詣し、新造した丈六四天王木像の供養を行う。講師を律師 隆禅がつとめる。 |
出典:『扶桑略記』同年月日条 |
寛治5年 1091年 6月11日 |
源義家とその弟・源義綱が合戦するとの噂が流れたため、関所の守備を堅くする。 |
出典:『百練抄』同年月日条、『後二条師通記』同年月日条 |
寛治5年 1091年 6月12日 |
五畿七道に宣旨を発し、源義家の随兵が入京すること及び諸国百姓が義家に田畠の公験を寄進することを止める。 |
出典:『百練抄』同年月日条 |
寛治6年 1092年 5月5日 |
源義家が立荘した諸国荘園が停止される。 |
出典:『後二条師通記』同年月日条 |
寛治8年 1094年 11月13日 |
長谷寺が焼失する。 |
出典:『中右記』同年月日条 |
嘉保1年 1094年 12月15日 |
「寛治」より「嘉保」に年号が改まる。 |
出典:- |
永長1年 1096年 -月-日 |
平忠盛が生まれる。 |
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永長1年 1096年 12月17日 |
「嘉保」より「永長」に年号が改まる。 |
出典:- |
承徳1年 1097年 11月21日 |
「永長」より「承徳」に年号が改まる。 |
出典:- |
承徳2年 1098年 10月23日 |
源義家の院への昇殿が許される。この頃、義家は「天下第一武勇之士」と評される。世間では義家の昇殿を不快に思ったようであるが、誰も口に出して批判することはなかったという。 |
出典:『中右記』同年月日条 |
康和1年 1099年 8月28日 |
「承徳」より「康和」に年号が改まる。 |
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長治1年 1104年 -月-日 |
源頼政が生まれる。 |
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長治1年 1104年 2月10日 |
「康和」より「長治」に年号が改まる。 |
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嘉承1年 1106年 4月9日 |
「長治」より「嘉承」に年号が改まる。 |
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嘉承1年 1106年 7月4日 |
源義家が死去する。 |
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嘉承3年 1108年 2月4日 |
安倍宗任が死去する。 |
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天仁1年 1108年 8月3日 |
「嘉承」より「天仁」に年号が改まる。 |
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天永1年 1110年 7月13日 |
「天仁」より「天永」に年号が改まる。 |
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永久1年 1113年 7月13日 |
「天永」より「永久」に年号が改まる。 |
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永久2年 1114年 -月-日 |
新田義重が生まれる。 |
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元永1年 1118年 -月-日 |
平清盛が生まれる。 |
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元永1年 1118年 4月3日 |
「永久」より「元永」に年号が改まる。 |
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元永1年 1118年 5月24日 |
千葉常胤が生まれる。 |
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