人 物 史

平清盛 たいらのきよもり
生 没 年元治1年(1118)-治承5年(1181)閏2/4
出 身山城国京都幼 名-
別 称-
法 名浄海
戒 名-
平忠盛白河院女房
兄 弟 姉 妹平清盛、平家盛、平経盛、平教盛、平頼盛、平忠度
配 偶 者高階基章の娘、平時子
平重盛、平基盛、平宗盛平知盛、平徳子、平盛子、平重衡、平維俊、平知度、平清房、平完子
官 位左兵衛佐、兵衛佐、安芸守、中務大輔、播磨守、太宰大弐、参議、検非違使別当、近江権守、右衛門尉、権中納言、兵部卿、権大納言、東宮大夫、内大臣、太政大臣
役 職-
城 郭-
参 考 文 献平清盛に関する参考文献
関 連 デ ー タ平清盛の関連文化財
平清盛 年表
元永1年 1118年 -月-日 1歳
平清盛が生まれる。
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元永1年 1118年 4月3日 1歳
「永久」より「元永」に年号が改まる。
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保安1年 1120年 4月10日 3歳
「元永」より「保安」に年号が改まる。
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天治1年 1124年 4月3日 7歳
「保安」より「天治」に年号が改まる。
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大治1年 1126年 1月22日 9歳
「天治」より「大治」に年号が改まる。
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大治3年 1128年 -月-日 11歳
弟・教盛が生まれる。
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天承1年 1131年 1月29日 14歳
「大治」より「天承」に年号が改まる。
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長承1年 1132年 8月11日 15歳
「天承」より「長承」に年号が改まる。
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保延1年 1135年 4月27日 18歳
「長承」より「保延」に年号が改まる。
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保延4年 1138年 -月-日 21歳
子・重盛が生まれる。
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永治1年 1141年 7月10日 24歳
「保延」より「永治」に年号が改まる。
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康治1年 1142年 4月28日 25歳
「永治」より「康治」に年号が改まる。
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天養1年 1144年 2月23日 27歳
「康治」より「天養」に年号が改まる。
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天養1年 1144年 -月-日 27歳
弟・忠度が生まれる。
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久安1年 1145年 7月22日 28歳
「天養」より「久安」に年号が改まる。
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久安3年 1147年 -月-日 30歳
子・が生まれる。
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仁平1年 1151年 1月26日 34歳
「久安」より「仁平」に年号が改まる。
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仁平2年 1152年 -月-日 35歳
子・知盛が生まれる。
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仁平3年 1153年 1月15日 36歳
父・忠盛が死去する。
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久寿1年 1154年 10月28日 37歳
「仁平」より「久寿」に年号が改まる。
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保元1年 1156年 4月27日 39歳
「久寿」より「保元」に年号が改まる。
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保元2年 1157年 -月-日 40歳
子・重衡が生まれる。
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保元3年 1158年 -月-日 41歳
孫・維盛が生まれる。
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平治1年 1159年 4月20日 42歳
「保元」より「平治」に年号が改まる。
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平治2年 1160年 1月3日 43歳
野間(尾張国)にて長田忠致が自邸に匿っていた源義朝、鎌田政清を殺害する。
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永暦1年 1160年 1月10日 43歳
「平治」より「永暦」に年号が改まる。
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永暦1年 1160年 3月11日 43歳
平清盛源頼朝を伊豆国に流す。
出典:『吾妻鏡』治承4年4月27日条

応保1年 1161年 9月4日 44歳
「永暦」より「応保」に年号が改まる。
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長寛1年 1163年 3月29日 46歳
「応保」より「長寛」に年号が改まる。
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永万1年 1165年 6月5日 48歳
「長寛」より「永万」に年号が改まる。
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仁安1年 1166年 8月27日 49歳
「永万」より「仁安」に年号が改まる。
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嘉応1年 1169年 4月8日 52歳
「仁安」より「嘉応」に年号が改まる。
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嘉応1年 1169年 -月-日 52歳
孫・敦盛が生まれる。
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承安1年 1171年 4月21日 54歳
「嘉応」より「承安」に年号が改まる。
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安元1年 1175年 7月28日 58歳
「承安」より「安元」に年号が改まる。
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治承1年 1177年 8月4日 60歳
「安元」より「治承」に年号が改まる。
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治承3年 1179年 閏7月29日 62歳
子・重盛が死去する。
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治承4年 1180年 4月9日 63歳
源頼政が、平清盛を討つため、子・源仲綱を以仁王のもとに遣わし、平家討滅の企てに誘う。以仁王はその企てにのり令旨を源氏に下す。源頼朝への令旨は源行家に託し遣わす。
出典:『吾妻鏡』同年月日条

治承4年 1180年 4月27日 63歳
以仁王の令旨が北条館(伊豆国)にいる源頼朝のもとに届く。
出典:『吾妻鏡』同年月日条

治承4年 1180年 5月15日 63歳
以仁王の平家追討の令旨が平氏に露見。以仁王を土佐国に配流する宣旨が下る。検非違使の源兼綱・源光長が以仁王のいる高倉御所に派遣される。事前に追捕の動きを知った源頼政以仁王にその旨を伝える。以仁王は高倉御所から逃れ三井寺に向かう。高倉御所では長谷部信連が検非違使と交戦し光長の郎党5、6名が負傷する。
出典:『吾妻鏡』同年月日条・5月19日条

治承4年 1180年 5月16日 63歳
以仁王のいた高倉御所が検非違使によって包囲される。検非違使の勢は建物の天井を破り、板敷を外すなどして以仁王を捜索するが見当たらず。以仁王の子息が八条院にいたので平頼盛が精兵を率い八条御所に向かい以仁王子息を生捕り六波羅に帰還する。
出典:『吾妻鏡』同年月日条

治承4年 1180年 5月19日 63歳
以仁王三井寺衆徒の援助を受け、同寺法輪院に御所を構える。
源頼政が近衛河原の自邸を自焼し、一族郎党を引き連れ三井寺に向かい以仁王と合流する。
出典:『吾妻鏡』同年月日条

治承4年 1180年 5月21日 63歳
5月23日に平宗盛・平頼盛・平教盛・平知盛平維盛・平資盛・平清経・平重衡を大将として園城寺を攻めることが勅定により決定する。
出典:『玉海』同年月日条

治承4年 1180年 5月23日 63歳
三井寺衆徒が城を構え、堀を深くするなど防備を固める。また平家追討について以仁王と三井寺衆徒が詮議する。
出典:『吾妻鏡』同年月日条

治承4年 1180年 5月26日 63歳
以仁王源頼政が籠る三井寺に兵が集まらなかったため、両人は南都を頼むべく三井寺を出る。平知盛平維盛以仁王源頼政を追撃し、宇治(山城国)にて合戦となり、光明山鳥居前にて以仁王源頼政が戦死する。頼政の首はさらされるが、本人ではないとの噂が流れる。
出典:『吾妻鏡』同年月日条

治承4年 1180年 12月11日 63歳
平清盛の命により、平重衡園城寺を焼き討ちする。
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治承4年 1180年 12月28日 63歳
平重衡が奈良(大和国)を放火し、興福寺東大寺が類火に遭い、東大寺大仏殿および大仏も焼失する。
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治承5年 1181年 閏2月4日 64歳
平清盛が死去する。
出典:-

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