寺 院 史

本 尊十一面観音
創 建奈良時代
開 基道明
山 号豊山
宗 派真言宗 豊山派
別 称初瀬寺、泊瀬寺、豊山寺
関連宗教施設-
現 所 在 地〒633-0112
奈良県桜井市初瀬731-1
旧 所 在 地-
史 料 地 名-
イ メ ー ジ-
参 考 文 献○『長谷寺編年資料』(総本山長谷寺、1974年)
○森末義彰「長谷寺の炎上とその復興」(『中世の社寺と芸術』所収)
関 連 デ ー タ-
リ ン ク-
長谷寺(大和国) 年表
天慶7年 944年 1月9日 
長谷寺が焼失する
出典:『日本紀略』『扶桑略記』『帝王編年記』同年月日条

永延1年 987年 10月17日 
円融法皇が長谷寺に参詣する。
出典:『百錬抄』同年月日条

正暦2年 991年 2月3日 
長谷寺が焼失する。
出典:『興福寺略年代記』同年月日条

正暦2年 991年 10月15日 
皇太后詮子が長谷寺に参詣する。
出典:『扶桑略記』同年月日条

長和1年 1012年 3月14日 
藤原頼通・藤原兼隆・源頼定が長谷寺に参詣する。
出典:『御堂関白記』同年月日条

万寿1年 1024年 11月16日 
藤原道長が長谷寺に参詣する。
出典:『小右記』同年月日条

万寿2年 1025年 1月27日 
長谷寺が焼失する。
出典:『興福寺略年代記』同年月日条

永承7年 1052年 8月25日 
長谷寺が焼失する。観音像も灰燼に帰す。
出典:『扶桑略記』『百錬抄』同年月日条

天喜2年 1054年 8月11日 
長谷寺にて供養が行われる。導師は明尊、読師は長守。
出典:『扶桑略記』同年月日条

延久2年 1070年 -月-日 
「興福寺大和国雑役免坪付帳」に長谷寺免田5町ないし10町と記載される。
出典:興福寺大和国雑役免坪付帳(『平安遺文』4639号・4640号)

寛治3年 1089年 10月13日 
摂政 藤原師実が長谷寺に参詣し、新造した丈六四天王木像の供養を行う。講師を律師 隆禅がつとめる。
出典:『扶桑略記』同年月日条

寛治8年 1094年 11月13日 
長谷寺が焼失する。
出典:『中右記』同年月日条

承安2年 1172年 3月4日 
藤原基房が長谷寺に参詣する。
出典:『百錬抄』同年月日条

建保7年 1219年 閏2月15日 
長谷寺が焼失する。
出典:『百錬抄』同年月日条

建保7年 1219年 3月15日 
三輪(大和国)より長谷寺の御衣木(みそぎ・神仏の像を造る時に用いる木材)を取り寄せる。
出典:「建保度長谷寺再建記録」(『弘安三年長谷寺建立秘記」所収。『長谷寺編年資料』より引用)

建保7年 1219年 3月17日 
快慶が長谷寺二丈六尺十一面観音造仏に必要な諸道具を注進する。
出典:「建保度長谷寺再建記録」(『弘安三年長谷寺建立秘記」所収。『長谷寺編年資料』より引用)

承久1年 1219年 4月17日 
浄衣にて長谷寺の十一面観音像の釿始。仏師は快慶。
出典:「建保度長谷寺再建記録」(『弘安三年長谷寺建立秘記」所収。『長谷寺編年資料』より引用)

承久1年 1219年 5月1日 
勧進聖 定阿弥陀仏と五師 珍乗が長谷寺の十一面観音像の宝座を清める。
出典:「建保度長谷寺再建記録」(『弘安三年長谷寺建立秘記」所収。『長谷寺編年資料』より引用)

承久1年 1219年 6月14日 
長谷寺の大鐘の龍頭、片裏金鼓2口、鉢4具、仏座器1具、仏供鉢8口を鋳物師・丹治比則俊が鋳る。
出典:「建保度長谷寺再建記録」(『弘安三年長谷寺建立秘記」所収。『長谷寺編年資料』より引用)

承久1年 1219年 6月18日 
長谷寺で曼荼羅供を修す。
出典:「建保度長谷寺再建記録」(『弘安三年長谷寺建立秘記」所収。『長谷寺編年資料』より引用)

承久1年 1219年 8月23日 
長谷寺の十一面観音像に塗を施す。塗師は橘宗国。
出典:「建保度長谷寺再建記録」(『弘安三年長谷寺建立秘記」所収。『長谷寺編年資料』より引用)

承久1年 1219年 8月25日 
仏師7名、番匠5人で長谷寺の十一面観音像の後光を作成する。
出典:「建保度長谷寺再建記録」(『弘安三年長谷寺建立秘記」所収。『長谷寺編年資料』より引用)

承久1年 1219年 10月28日 
長谷寺の十一面観音像に開眼を施す。
出典:「建保度長谷寺再建記録」(『弘安三年長谷寺建立秘記」所収。『長谷寺編年資料』より引用)

承久1年 1219年 11月5日 
長谷寺の御堂手釿始。大工は東大寺大工・成行と国清。鍛冶は寺大工行宗と奈良清弘。
出典:「建保度長谷寺再建記録」(『弘安三年長谷寺建立秘記」所収。『長谷寺編年資料』より引用)

承久1年 1219年 11月18日 
長谷寺の御堂棟上。
出典:「建保度長谷寺再建記録」(『弘安三年長谷寺建立秘記」所収。『長谷寺編年資料』より引用)

嘉禄2年 1226年 10月22日 
長谷寺再建につき供養会を執り行う。諸人参詣する。
出典:『百錬抄』同年月日条)

延応1年 1239年 3月19日 
九条道家が長谷寺に参詣する。
出典:『百錬抄』同年月日条)

仁治3年 1242年 4月3日 
叡尊が長谷寺において104人に菩薩戒を授ける。
出典:『感身学正記』上 同年月日条)

弘安3年 1280年 3月15日 
火災により長谷寺の鎮守拝殿、薬師堂、社壇3所、十三重塔、鐘楼、廻廊、観音堂、観音堂本尊、食堂、僧坊4・5ヶ所が焼失する。
出典:『弘安三年長谷寺建立秘記』(『長谷寺編年資料』より引用)

弘安3年 1280年 3月16日 
長谷寺の正殿の仮屋の造営を始める。大工は吉宗。
出典:『弘安三年長谷寺建立秘記』(『長谷寺編年資料』より引用)

弘安3年 1280年 3月24日 
往生院長老・過阿弥陀仏を長谷寺の大勧進とする。
出典:『弘安三年長谷寺建立秘記』(『長谷寺編年資料』より引用)

弘安3年 1280年 4月8日 
長谷寺の正殿の仮屋が完成する。
出典:『弘安三年長谷寺建立秘記』(『長谷寺編年資料』より引用)

弘安3年 1280年 6月3日 
長谷寺の礼堂下屋の柱立を始める。
出典:『弘安三年長谷寺建立秘記』(『長谷寺編年資料』より引用)

弘安3年 1280年 6月9日 
鎮守三所本宮仮屋遷宮。長谷寺の全寺僧・宮人が供奉する。問答講・神楽が行われる。
出典:『弘安三年長谷寺建立秘記』(『長谷寺編年資料』より引用)

弘安3年 1280年 6月10日 
頂上仏小面等が正堂仮屋の宝座に移る。長谷寺の全ての者が供奉。不断供花・法華経読誦・昼夜朝暮の勤行が正殿仮屋で行われる。
出典:『弘安三年長谷寺建立秘記』(『長谷寺編年資料』より引用)

弘安3年 1280年 6月12日 
長谷寺の本尊の手釿始。仏所は正堂東縁に設けられる。大仏師は運実、仏師は堪康・慶秀。
出典:『弘安三年長谷寺建立秘記』(『長谷寺編年資料』より引用)

弘安3年 1280年 7月18日 
長谷寺の本尊の開眼として曼荼羅供を修す。
出典:『弘安三年長谷寺建立秘記』(『長谷寺編年資料』より引用)

弘安4年 1281年 8月4日 
長谷寺の鎮守滝蔵三所の手釿始。大工は国光(供4名)と寺大工吉宗(供14名)。鍛冶は宗友。
出典:『弘安三年長谷寺建立秘記』(『長谷寺編年資料』より引用)

弘安4年 1281年 8月28日 
長谷寺の鎮守滝蔵三所の棟上。
出典:『弘安三年長谷寺建立秘記』(『長谷寺編年資料』より引用)

弘安4年 1281年 9月-日 
長谷寺の鎮守滝蔵三所の造営がなる。
出典:『弘安三年長谷寺建立秘記』(『長谷寺編年資料』より引用)

弘安4年 1281年 11月11日 
長谷寺の鐘を鋳る。長さ5尺、口3尺3寸、口厚3寸3分。大工は藤井友頼、引頭は葛木友包。
出典:『弘安三年長谷寺建立秘記』(『長谷寺編年資料』より引用)

永仁3年 1295年 11月24日 
後深草法皇が長谷寺に参詣する。
出典:『興福寺略年代記』同年月日条

正安4年 1302年 7月8日 
大雨大風により長谷寺の坊舎が流失する。
出典:『興福寺略年代記』同年月日条

正和5年 1316年 6月7日 
長谷寺で十三重塔供養が行われる。
出典:『尋尊大僧正記』同年月日条

貞和2年 1346年 3月18日 
長谷寺舞台の供養が行われる。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

永和1年・天授1年 1375年 8月18日 
長谷寺で開帳が行われる。
出典:『興福寺略年代記』同年月日条

応永10年 1403年 4月5日 
孝円が長谷寺に参詣する。
出典:『寺院細々引付』同年月日条

応永10年 1403年 5月6日 
足利義満長谷寺に参詣する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

応永13年 1406年 10月25日 
足利義満が伊勢参宮への帰路、長谷路を通過することをうけ長谷寺が開帳を行う。
出典:『荒暦』同年月日条(『長谷寺編年資料』より引用)

正長2年 1429年 2月4日 
長谷寺において興福寺坊人と伊賀守護・仁木氏が合戦する。宇多土一揆の大将・榛原が討死、仁木氏も膝口を負傷する。
出典:『満済准后日記』同年2月5・6・9日条

永享3年 1431年 3月17日 
長谷寺舞台供養が行われる。導師は経覚、読師は実意。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

永享3年 1431年 5月2日 
貞成親王が禁裏より長谷寺縁起絵3巻を貸し下される。
出典:『看聞御記』同年月日条

永享4年 1432年 3月17日 
長谷寺舞台の供養が行われる。導師は長谷寺寺務。
出典:『大乗院日記目録』『看聞御記』同年月日条

永享6年 1434年 6月20日 
経覚が、夜に長谷寺登廊の燈籠に明りを灯すよう命じる。
出典:『満済准后日記』同年月日条

永享11年 1439年 3月27日 
長谷寺宿屋の柴中にいた柚坊・経蔵坊が越智維通を殺害する。
出典:『大乗院日記目録』同年月日条

享徳3年 1454年 3月10日 
日野重子が長谷寺に参詣する。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

享徳4年 1455年 4月-日 
中原康富が依頼された長谷寺縁起絵3巻の点検のため浄南院に赴く。
出典:『康富記』同年月日条

康正2年 1456年 2月5日 
長谷寺舞台供養につき尋尊は奉加帳に判を捺す。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

康正2年 1456年 3月14日 
長谷寺舞台供養につき開帳を認める綸旨が尋尊に発給される。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

康正2年 1456年 3月15日 
長谷寺舞台供養につき開帳を認める綸旨が勧進聖本願に発給される。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

康正2年 1456年 4月25日 
長谷寺舞台供養が行われる。導師は尋尊。読師は兼雅。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

康正2年 1456年 5月5日 
長谷寺において小五月会が行われる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

康正3年 1457年 2月28日 
上総荘のことにつき大乗院と一乗院の間で相論が発生。大乗院より長谷寺執行へ人勢を率い上洛するよう命令が下る。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

康正3年 1457年 5月11日 
長谷寺より尋尊に雑紙100束が送られる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

康正3年 1457年 6月17日 
長谷寺菩薩院にて蓮華会が行われる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

康正3年 1457年 7月7日 
長谷寺より尋尊に索餅・小樽1が送られる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

康正3年 1457年 7月19日 
長谷寺より尋尊に例年の通り瓜10合が送られる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

康正3年 1457年 8月1日 
八朔として長谷寺より尋尊に索餅1・酒1筒5升が送られる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

康正3年 1457年 8月23日 
尋尊が長谷寺奉行および河口荘奉行に清賢を補任する。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

康正3年 1457年 8月23日 
清賢が長谷寺奉行および河口荘奉行の補任を請ける。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

長禄1年 1457年 10月18日 
長谷寺で八講が行われる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

長禄1年 1457年 12月5日 
藤井国長を長谷寺大工職に、門跡大工・小法太郎を欠員が出た場合の長谷寺大工職に補任する。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

長禄1年 1457年 12月24日 
長谷寺より尋尊に恒例の炭8荷の内5荷が送られる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

長禄1年 1457年 12月28日 
長谷寺より尋尊に炭2荷が送られる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

長禄2年 1458年 2月14日 
尋尊が長谷寺に参詣し、長楽寺に宿す。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

長禄2年 1458年 5月12日 
長谷寺の橋本坊が炎上する。その際、焼失した橋本坊より瓶子屋が雑物を取り隠し置く。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

長禄2年 1458年 6月18日 
長谷寺で蓮華会が行われる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

長禄2年 1458年 10月21日 
尋尊が長谷寺の一向宗について坊主は召し取り、一向宗の者は家の中にいようが悉く捕縛するようにと執行に命じる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

長禄3年 1459年 2月3日 
長谷寺観音堂修理につき、銅細工ことについて、職人の手配を長谷寺より尋尊に依頼する。これに対し尋尊は、以前は大乗院座中の新次郎入道が銅細工にあたっていたが、新次郎入道死後は新次郎入道の子息が座中に入っていないため、座中のものから出すと返事する。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

長禄3年 1459年 2月6日 
長谷寺で修正会が行われる。銅細工の職人のことについて、長谷寺は新次郎を用いたいと申し出るが、尋尊は新次郎が大乗院座中の者ではないとしてその申し出を退け、座中の者を採用すべき旨を伝える。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

長禄3年 1459年 2月16日 
昨年、喧嘩により罪科に処せられた長谷寺大門坊延照を尋尊が赦免する。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

長禄3年 1459年 3月2日 
2/16に赦免された長谷寺大門坊延照が尋尊に礼物100疋を進上する。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

長禄3年 1459年 6月15日 
長谷寺開帳を許可する綸旨が発給される。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年8月16日条

長禄3年 1459年 8月12日 
幕府より長谷寺へ甲乙人乱入を禁止する制札が発給される。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条・8月16日条

長禄3年 1459年 8月15日 
尋尊が長谷寺奉加帳に花押を捺す。また将軍および諸大名も長谷寺奉加帳に花押を捺す。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条・8月16日条

長禄3年 1459年 8月16日 
長谷寺開帳の綸旨および8月12日付幕府制札を願阿弥代官が尋尊のもとに持参する。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

長禄3年 1459年 8月18日 
長谷寺にて開帳が行われる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

長禄3年 1459年 8月18日 
長谷寺で開帳が行われる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

長禄4年 1460年 1月3日 
長谷寺大門坊末子宗円が長谷寺東勝院宗快を介して所司入座を尋尊に請う。尋尊は問題なしとして奉行・清賢にそのように処置するように命じる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

長禄4年 1460年 2月12日 
開帳銭50貫文を支払うよう尋尊が長谷寺に命じる。観音堂銅細工について、昨年の2月6日に大乗院座中の職人を使うべき旨を長谷寺に伝えたが、その後返信がないため、再度、座中の者を用いるべき旨を長谷寺執行に命じる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

長禄4年 1460年 2月18日 
長谷寺執行が開帳銭50貫文について、2月・3月中に支払うべき旨を文書にて尋尊に伝える。銅細工の職人ついては、大乗院座中の者を用いる旨を伝える。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

長禄4年 1460年 9月30日 
細川勝元畠山義就討伐につき長谷寺衆徒に軍勢催促状を発給する。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年閏9月8日条

長禄4年 1460年 閏9月9日 
長谷寺細川勝元の軍勢催促に応じる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

寛正3年 1462年 3月18日 
長谷寺大聖を閉帳する(開帳は4年に及ぶ)。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年3月晦日条

寛正3年 1462年 4月6日 
長谷寺勧進聖が尋尊に奉加を募る。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

寛正3年 1462年 4月18日 
長谷寺勧進聖が奈良の僧坊・在家で勧進を実施。勧進聖のガイドとして興福寺定使を加える。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

寛正3年 1462年 6月12日 
長谷寺瓦葺大工職について、元林院に住す孫六が代々継承してきたことを行実が尋尊の報告。尋尊は孫六の長谷寺瓦葺大工職を安堵し、清賢が長谷寺執行に補任状を発給する。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

寛正3年 1462年 12月28日 
尋尊が長谷寺の桧皮を借用するため50貫文を。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

寛正5年 1464年 8月22日 
長谷寺観音堂の上葺が完成する。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年8月28日条

寛正5年 1464年 8月28日 
長谷寺観音堂上葺の竣工を祝し執行坊において長谷寺勧進聖梵阿弥が饗応の猿楽を催す。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

文正1年 1466年 6月-日 
長谷寺登廊勧進を奈良(大和国)にて実施することが噂される。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年6月28日条

応仁2年 1468年 8月7日 
長谷寺御堂供養会が行われる。導師は尋尊。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年6月28日条

文明1年 1469年 8月2日 
長谷寺が焼失。本長谷寺・三重塔・護摩堂・真言堂・中門堂・舟倉・一切経蔵・松金剛院・二王堂・吉祥院・釜節・食堂・客坊と惣堂24宇・在家120間が焼亡する。観音堂・十三重塔・地蔵堂・新宮・鎮守は残る。火元は共絵坊という。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条、『経覚私要鈔』同年8月3・5日条、『興福寺略年代記』同年8月3日条

文明4年 1472年 12月21日 
長谷寺惣門および両側の在家が焼失する。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

文明7年 1475年 10月15日 
一条兼良が長谷寺に参詣する。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

文明8年 1476年 3月18日 
長谷寺で開帳が行われる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

文明8年 1476年 5月15日 
尋尊と一条兼良が長谷寺に参詣する。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

文明11年 1479年 4月-日 
長谷寺舞台供養が行われる。
出典:「長谷寺舞台供養」

文明12年 1480年 3月30日 
長谷寺にて万部経勧進を文明13年に実施予定であることを長谷寺勧進聖が尋尊に伺いを立てる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

文明13年 1481年 1月22日 
奈良(大和国)にて長谷寺の勧進が行われる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

文明16年 1484年 2月18日 
勧進聖の企画で、住吉(3/2から)・吉野(3/16から)・長谷寺(3/24~4/4)巡回万部経法会が開催されると尋尊のもとに伝わる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

文明16年 1484年 3月24日 
長谷寺万部経法会(3/24-4/4)
長谷寺で勧進聖主催による万部経法会が始まる。4月4日まで開催し、多くの人が参詣し散銭(賽銭)だけで600貫文集まる。そのうち100貫文は経所作事費用にあてられ、500貫文は経衆に布施として配分される。諸国からの奉加銭については勧進聖(玄空?)個人の収入となる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年4月4日条・4月6日条

文明16年 1484年 7月24日 
長谷寺の勧進聖が高札を立て、十万部経勧進の開催を告知。8月10日に長谷寺礼堂において十万部経勧進が実施される。
出典:『大乗院寺社雑事記』8月13日条

明応4年 1495年 11月22日 
長谷寺で火災が発生する。観音堂・観音堂本尊・十三重塔・新宮・鐘楼・愛染堂・登廊・潅頂堂・本堂・三重塔・一切経蔵・炎魔堂・公坊が焼失する。二王堂・食堂・客坊は焼失を免れる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 1月18日 
尋尊のもとに東坊城和長が草案した長谷寺勧進帳が到来する。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 2月18日 
尋尊が長谷寺観音像の差図作成を大輔法眼清賢に命じる。高野紙7帖を貼り継ぎ、上下3丈8尺5寸、横1丈5尺の紙に描かせる。また、長谷寺使節として東照院・経蔵坊がやってきて、1.仏師の件、2.釿始の件、3.御衣木加治の件、4.執行進退の件について尋尊に問い合わせる。使節には清賢の代官である泰弘が対応する。返答として1については椿井舜覚とすること、2については建治の例をもとに4月17日が吉日であること、3については先例に従い導師は内山上乗院僧正とすること、4については先に五師を補任したので問題がなければそのままとすることを返答する。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 2月25日 
長谷寺観音像の差図が完成する。高野紙430枚を、上下に43枚ずつ、横に10枚ずつ貼り継ぎ、高さ3丈8尺5寸、横1丈5尺、本尊の像高2丈6尺となる。差図を描いた大輔法眼に100疋(1貫)を尋尊が下行する。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 2月28日 
長谷寺新宮の遷座が行われる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月29日条

明応5年 1496年 閏2月9日 
長谷寺の観音像の差図を長谷寺に入れる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 閏2月13日 
長谷寺への奉加として禁裏より金香合と銀盆が贈られる。
出典:『御湯殿上の日記』同年月日条、『実隆公記』同年同月15日条

明応5年 1496年 3月7日 
長谷寺鐘鋳のことについて唐金500貫文目とする。鑢1丁方に100貫文目としあわせて5丁とする。大工は5人でそれぞれの大工に10名の手下がいるという。大工の構成は三輪荘内より器用の者2人、下田より1人、河内国我孫子丹南より1人、伊賀施主から1人という。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 3月8日 
長谷寺にいる番匠41名について、それを6番に編成する。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 3月17日 
長谷寺観音像眉間の玉眼について、建保の例は2寸周尺、弘安の例は2寸1分金尺で小面は9分という。今回は弘安の例を採用することに定める。鐘鋳については三輪荘の衛門三郎を加えることにし、他国の鋳物師は採用せず、大和国の鋳物師のみで行うことにする。ちなみに三輪荘・下田の鋳物師は大乗院門跡の寄人である。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 3月18日 
長谷寺より使節が尋尊のもとを訪れ観音像差図の御礼として樽2荷1種を贈る。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 3月19日 
長谷寺番匠について両座結番とする。一番は奈良方大工職・権大工職に奈良大工15名の内から3名を付ける。二番?は長谷寺大工職・権大工職に長谷寺大工41人から5人を付ける。仏師については京都の覚蔵と南都の春慶が棟梁職を望む。御衣木加治の導師については上乗院僧正とし、尋尊から依頼し、長谷寺としてはそれを了解するようにと尋尊が伝える。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 3月27日 
長谷寺縁起が三条西実隆のもとに送られ、実隆はそれを禁裏に進上する。
出典:『実隆公記』同年月日条

明応5年 1496年 4月5日 
長谷寺鐘鋳が行われる。鐘の高さは5尺、口径は3尺3寸という。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 4月11日 
4月5日に鋳造した長谷寺の鐘を初めて打つ。とても良い音色であったという。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 4月21日 
長谷寺奉行に泰弘を加える。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 4月28日 
長谷寺造営が遅延していることについて尋尊が叱咤する。遅延の理由は近江よりやってくるはずの御衣木が到着していないこと、また仏師が定まっていないためという。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応5年 1496年 5月7日 
長谷寺縁起を三条西実隆が校合する。
出典:『実隆公記』同年月日条

明応5年 1496年 5月30日 
長谷寺十三重塔の勧進聖が尋尊と一乗院の御判を請う。また、長谷寺勧進聖の玄空・行善が勧進をするにあたり綸旨を請う。これは長谷寺満山の意思でもあるという。
出典:『実隆公記』同年月日条

明応5年 1496年 6月1日 
長谷寺勧進聖(玄空・行善カ)が京上する。
出典:『実隆公記』同年月日条

明応5年 1496年 7月3日 
長谷寺より使節として東勝院・経蔵坊が尋尊のもとを訪れる。趣は仏師について初瀬住の仏所1名、七条仏所(西)1名、椿井 舜覚法眼の以上3人のうちから棟梁にしたき旨を願い出る。
出典:『実隆公記』同年月日条

明応5年 1496年 7月4日 
長谷寺の仏師につい、て尋尊により、初瀬住の仏所1名、七条仏所(西)1名、椿井舜覚法眼のうち舜覚を棟梁とすることが決まる。
出典:『実隆公記』同年月日条

明応5年 1496年 7月21日 
御衣木の校合が24日に行われることになり、それ以前に仏師・春慶を向かわせるようにと尋尊が長谷寺に命じる。
出典:『実隆公記』同年月日条

明応5年 1496年 7月24日 
長谷寺の御衣木校合が行われる。
出典:『実隆公記』同年月日条

明応5年 1496年 7月25日 
長谷寺造営につき玄空・行順の諸国勧進を認める長谷寺検校宛の綸旨が尋尊のもとに到来する。尋尊はこの綸旨を長谷寺に送る。
出典:『実隆公記』同年月日条

明応5年 1496年 8月4日 
長谷寺の御衣木加治につき上乗院僧正に導師を依頼するが、上乗院僧正に不相応であるとして断られる。
出典:『実隆公記』同年月日条

明応6年 1497年 2月11日 
細川成春が長谷寺に参詣する。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月12日条

明応6年 1497年 3月4日 
山城国宇治郡山科竹鼻の住僧・梵興が久米多寺の一切経を長谷寺の勧進聖・玄空の勧めにより長谷寺に寄進する。
出典:「寄進記」(『長谷寺編年資料』より引用)

明応6年 1497年 4月18日 
長谷寺の勧進聖 玄空が越前国で勧進活動をするにあたり、越前国守護の朝倉氏へ玄空の長谷寺勧進活動を認めてもらい、かつ便宜をはかってもらえるよう尋尊が朝倉氏へ書状を送る。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応6年 1497年 9月27日 
三条西実隆が議定所において長谷寺縁起を読む。
出典:『実隆公記』同年月日条

明応7年 1498年 11月22日 
長谷寺観音の開眼が行われる。導師は重実。
出典:『続史愚抄』同年月日条

明応8年 1499年 2月25日 
長谷寺勧進聖 玄空が、北陸地域のことに詳しく、長谷寺勧進で「越中御所」足利義材のもとへ交渉に赴く十穀僧を連れて尋尊のもとを訪れる。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

明応8年 1499年 3月1日 
奈良(大和国)町内で行う長谷寺勧進に長谷寺勧進聖 玄空配下の聖善阿弥を新たに加える。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条

永正11年 1514年 8月17日 
実暁(興福寺光明院)が長谷寺に参詣する。
出典:『権官中雑々記』同年月日条

永正17年 1520年 -月-日 
長谷寺勧進聖・長春が月舟寿桂のもとを訪れ号を求める。月舟は長春に月谷の号を与える。長春は諸州を巡ること20年の行人で、日頃は日向・大隅・薩摩を遊歴しているという。
出典:『日下一木集』(『長谷寺編年資料より引用)

天文5年 1536年 6月29日 
火災により長谷寺が焼失する。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

天文9年 1540年 12月10日 
長谷寺の補陀落渡海の十穀に上人号を賜う。
出典:『御湯殿上の日記』同年月日条

天文11年 1542年 3月13日 
北畠晴具の妻と子息2名、随従300名が長谷寺に参詣するため奈良(大和国)に到着し笠坊に宿泊する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正11年 1583年 2月21日 
本願寺顕如が奈良(大和国)を発ち、三輪神社、長谷寺に参詣する。この頃の長谷寺は在家2・3町続き、左右に旅宿などをする町屋が200軒連なっているという。また観音堂は半作という。顕如は今井(大和国)に赴き宿泊する。
出典:『顕如上人雑記』同年月日条

文禄4年 1595年 4月13日 
専誉が長谷寺において潅頂を修す。
出典:『多聞院日記』同年月日条

文禄5年 1596年 4月5日 
興福寺一乗院にて本尊の開帳が行われる。長谷寺(大和国)にて本尊の開帳が行われる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

慶長7年 1602年 1月23日 
長谷寺の中性院専誉が三宝院義演のもとにやってきて杉原10帖を贈る。根来寺を再興すること伝える。
出典:『義演准后日記』同年月日条

慶長18年 1613年 4月20日 
駿府城(駿河国)にて真言新儀の論議が行われる。題は「自力他力」。参加者は智積院、長谷寺玄翁、明星院。
出典:『駿府記』同年月日条

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