人 物 史

島津忠良 しまづ ただよし
生 没 年明応1年(1492)9/23-永禄11年(1568)12/13
出 身-幼 名菊三郎
別 称三郎左衛門尉、具谷軒、日新斎、伊作忠良
法 名-
戒 名梅岳寺殿、日新寺殿、梅岳常潤在家菩薩
島津善久
島津運久[養父]
常盤(新納是久の娘)
兄 弟 姉 妹女(吉田位清の妻)、女(島津昌久の妻)、女(島津忠将の妻)、女(佐多忠成の妻)、島津忠良、島津忠貞、野間喜庵
配 偶 者島津重久の娘、上木貞時の娘
娘(肝付兼続の妻)、娘(樺山善久の妻)、島津貴久島津忠将、娘(肝付兼盛の妻)、島津尚久、娘
官 位相模守
役 職-
城 郭田布施城(薩摩国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
島津忠良 年表
和暦 西暦 年齢 事項 出典
明応1年14929231島津忠良が生まれる。-
文亀1年150122910「明応」より「文亀」に年号が改まる。『厳助往年記』同年月日条
永正1年150423013「文亀」より「永正」に年号が改まる。『厳助往年記』同年月日条
永正11年15145523子・貴久が薩摩国阿多郡田布施城にて生まれる。『寛政重修諸家譜』巻第108「島津貴久」の項
永正17年1520--29子・忠将が生まれる。
『寛政重修諸家譜』巻第109「島津忠将」の項に記載されている没年・享年より逆算。
『寛政重修諸家譜』巻第109「島津忠将」の項
大永1年152182330「永正」より「大永」に年号が改まる。-
大永6年1526111835島津勝久島津貴久を養子とする。『寛政重修諸家譜』巻第108「島津貴久」の項
大永6年1526112735島津貴久が島津宗家の家督を相続し、清水城(薩摩国)に入城する。『寛政重修諸家譜』巻第108「島津貴久」の項
享禄1年152882037「大永」より「享禄」に年号が改まる。-
天文1年153272941「享禄」より「天文」に年号が改まる。-
天文2年15332942孫・義久が薩摩国阿多郡伊作城にて生まれる。『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義久」の項
天文4年153572344孫・義弘が薩摩国阿多郡伊作城にて生まれる。『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義弘」の項
天文6年153771046孫・歳久が生まれる。-
天文16年1547--56孫・家久が生まれる。-
天文19年155062059孫・以久が薩摩国永吉にて生まれる。『寛政重修諸家譜』巻第109「島津以久」の項
天文23年155482963蒲生範清、菱刈隆秋、渋谷氏が肝付兼演が籠る加治木城(大隅国)を攻める。『島津国史』
天文23年155491063島津貴久義久父子が加治木城(大隅国)救援のため、軍勢を率い、吉田城(薩摩国)に入る。『島津国史』
天文23年155491263島津貴久が岩剣城(大隅国)を攻めるべく、島津義久を総大将として加治衆、山田衆、加世田衆、阿多衆、田布施衆、伊集院衆、吉田衆、市来衆を副えて遣わす。義久勢は日当比良に到着する。供奉勢:伊集院忠朗、本田紋六、梶原新兵衛、瀬戸口藤兵衛。
夜、貴久は谷山衆、鹿児島衆、伊作衆、川辺衆、喜入衆を率いて日当比良に到着する。供奉勢:川上上野介。
吉田城(薩摩国)には吉田衆、知覧衆、高橋衆、永吉衆を置く。
『岩剣合戦日記』同年月日条
天文23年155491363辰刻(7-9時)、島津貴久が川辺衆、鹿児島衆を脇元(大隅国)に遣わし放火する。岩剣城(大隅国)より祁答院良重勢が城より出て戦う。島津勢:島津義久島津義弘島津歳久、梅北宮内左衛門、宅間与八左衛門。『岩剣合戦日記』同年月日条
天文23年155491463未刻(13-15時)、島津忠将が船にて脇元(大隅国)を打ち廻り、祁答院勢を鉄砲にて打ち払う。戌刻(19-21時)、鹿児島衆が星原(大隅国)を砲化する。夜、吉田衆が帖佐(大隅国)の人家を放火する。『岩剣合戦日記』同年月日条
天文23年155491763未刻(13-15時)、焼山(大隅国)に陣取る祁答院勢を島津勢が追い払う。帖佐(大隅国)より岩剣城(大隅国)救援のため祁答院勢が同城麓まで進出し、島津勢と矢戦をする。帖佐の祁答院勢が撤退する。夜、島津義弘が谷山衆、鹿児島衆、下大隅衆を率いて白銀坂(大隅国)の島津勢本陣に到着する。『岩剣合戦日記』同年月日条
天文23年155491863島津義弘率いる大隅衆が帖佐(大隅国)の別府川に船50艘で攻め寄せる。鹿児島の船50艘が脇元(大隅国)に到着する。別府川に赴いた大隅衆が脇元に合流する。その際、脇元にて祁答院勢と大隅衆が遭遇したため、島津忠将が鉄砲にて祁答院勢を追い払う。『岩剣合戦日記』同年月日条、『島津国史』
天文23年155492063島津義弘が脇元(大隅国)に伏兵を置き、軍勢の一部を岩剣城(大隅国)に遣わし、祁答院良重勢を脇元まで引き付けたところで伏兵を挟撃し、祁答院勢を破る。『岩剣合戦日記』同年月日条、『島津国史』
天文23年155492063島津忠良が日当比良に赴き、兵を募る。『岩剣合戦日記』同年月日条、『島津国史』
天文23年155492163白金坂(大隅国)に在陣の島津勢が脇元(大隅国)にある祁答院良重の船10艘を押収する。『岩剣合戦日記』同年月日条、『島津国史』
天文23年155492263祁答院良重が軍勢300を焼山(大隅国)に遣わし防塁の構築を試みるが、島津勢が応戦し、良重勢は撤退する。島津勢が脇元にて稲を刈り取る。『岩剣合戦日記』同年月日条、『島津国史』
天文23年155492463日当比良に在陣していた島津忠良が鹿児島(薩摩国)に帰還する。『島津国史』
天文23年155492563島津貴久が白銀坂(大隅国)の島津勢本陣を訪れる。島津義久内城(薩摩国)に一旦帰宅すべく、白銀坂の本陣を出立する。『岩剣合戦日記』同年月日条
天文23年155492663未刻(13-15時)、島津義久内城(薩摩国)より白銀坂(大隅国)の島津勢本陣に戻る。
義久が軍勢を星原(大隅国)に出したところ、岩剣城(大隅国)も星原に軍勢を出したため、矢戦が行われる。帖佐(大隅国)より祁答院勢が岩剣城に向けて出勢するが、すぐに撤退する。
島津勢が祁答院勢のいる焼山(大隅国)に矢戦を仕掛け、鉄砲にて2、3人を射殺す。
『岩剣合戦日記』同年月日条
天文23年155493063島津貴久島津義久と祁答院良重・蒲生範清が星原(大隅国)にて戦い、貴久・義久が勝利する。『岩剣合戦日記』同年月日条
天文23年155410163島津貴久が、10月2日に岩剣城(大隅国)を攻めることを味方に伝える。夜、島津尚久が城近くに軍勢を率い潜む。『岩剣合戦日記』同年月日条
天文23年155410263島津義久が祁答院良重の籠る岩剣城(大隅国)を攻める。蒲生範清が岩剣城救援のため軍勢2000を率い岩剣城に迫るが、白銀坂(大隅国)に陣取る島津貴久が応戦し、貴久が勝利する。岩剣城に籠城していた祁答院勢は城を脱出し逃亡する。
島津貴久勢:島津貴久(大将)、島津義久、島津義弘、島津歳久。
祁答院・蒲生勢:蒲生範清、祁答院良重、祁答院重経(戦死)。
『岩剣合戦日記』同年月日条
天文23年155410363島津貴久義久父子が岩剣城(大隅国)に入城する。貴久は岩剣城攻めに参加した将兵に酒を振る舞う。『岩剣合戦日記』同年月日条
天文23年155410663島津忠良が鹿児島(薩摩国)より岩剣城(大隅国)の城下に到着する。『岩剣合戦日記』同年月日条
天文23年155410763島津義久島津義弘内城(薩摩国)に帰城する。『岩剣合戦日記』同年月日条
天文23年1554101363島津貴久が岩剣城(大隅国)攻めに軍勢を開陣する。貴久は脇元(大隅国)より内城(薩摩国)に帰城する。『岩剣合戦日記』同年月日条、『島津国史』
天文23年1554101763島津義久島津義弘が岩剣城(大隅国)に在番する。島津忠良内城(薩摩国)に帰城する。『岩剣合戦日記』同年月日条、『島津国史』
弘治1年1555102364「天文」より「弘治」に年号が改まる。-
弘治4年155822867「弘治」より「永禄」に年号が改まる。-
永禄4年156171270廻城(大隅国)にて島津義久と肝付兼続が戦う。島津忠将が戦死する。『寛政重修諸家譜』巻第109「島津忠将」の項
永禄11年1568121377島津忠良が加世田(薩摩国)にて死去する。島津義久追悼和歌(『島津家文書』3-1419)
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