和暦 |
西暦 |
月 |
日 |
年齢 |
事項 |
出典 |
明応1年 | 1492 | 9 | 23 | 1 | 島津忠良が生まれる。 | - |
文亀1年 | 1501 | 2 | 29 | 10 | 「明応」より「文亀」に年号が改まる。 | 『厳助往年記』同年月日条 |
永正1年 | 1504 | 2 | 30 | 13 | 「文亀」より「永正」に年号が改まる。 | 『厳助往年記』同年月日条 |
永正11年 | 1514 | 5 | 5 | 23 | 子・貴久が薩摩国阿多郡田布施城にて生まれる。 | 『寛政重修諸家譜』巻第108「島津貴久」の項 |
永正17年 | 1520 | - | - | 29 | 子・忠将が生まれる。 『寛政重修諸家譜』巻第109「島津忠将」の項に記載されている没年・享年より逆算。 | 『寛政重修諸家譜』巻第109「島津忠将」の項 |
大永1年 | 1521 | 8 | 23 | 30 | 「永正」より「大永」に年号が改まる。 | - |
大永6年 | 1526 | 11 | 18 | 35 | 島津勝久が島津貴久を養子とする。 | 『寛政重修諸家譜』巻第108「島津貴久」の項 |
大永6年 | 1526 | 11 | 27 | 35 | 島津貴久が島津宗家の家督を相続し、清水城(薩摩国)に入城する。 | 『寛政重修諸家譜』巻第108「島津貴久」の項 |
享禄1年 | 1528 | 8 | 20 | 37 | 「大永」より「享禄」に年号が改まる。 | - |
天文1年 | 1532 | 7 | 29 | 41 | 「享禄」より「天文」に年号が改まる。 | - |
天文2年 | 1533 | 2 | 9 | 42 | 孫・義久が薩摩国阿多郡伊作城にて生まれる。 | 『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義久」の項 |
天文4年 | 1535 | 7 | 23 | 44 | 孫・義弘が薩摩国阿多郡伊作城にて生まれる。 | 『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義弘」の項 |
天文6年 | 1537 | 7 | 10 | 46 | 孫・歳久が生まれる。 | - |
天文16年 | 1547 | - | - | 56 | 孫・家久が生まれる。 | - |
天文19年 | 1550 | 6 | 20 | 59 | 孫・以久が薩摩国永吉にて生まれる。 | 『寛政重修諸家譜』巻第109「島津以久」の項 |
天文23年 | 1554 | 8 | 29 | 63 | 蒲生範清、菱刈隆秋、渋谷氏が肝付兼演が籠る加治木城(大隅国)を攻める。 | 『島津国史』 |
天文23年 | 1554 | 9 | 10 | 63 | 島津貴久・義久父子が加治木城(大隅国)救援のため、軍勢を率い、吉田城(薩摩国)に入る。 | 『島津国史』 |
天文23年 | 1554 | 9 | 12 | 63 | 島津貴久が岩剣城(大隅国)を攻めるべく、島津義久を総大将として加治衆、山田衆、加世田衆、阿多衆、田布施衆、伊集院衆、吉田衆、市来衆を副えて遣わす。義久勢は日当比良に到着する。供奉勢:伊集院忠朗、本田紋六、梶原新兵衛、瀬戸口藤兵衛。 夜、貴久は谷山衆、鹿児島衆、伊作衆、川辺衆、喜入衆を率いて日当比良に到着する。供奉勢:川上上野介。 吉田城(薩摩国)には吉田衆、知覧衆、高橋衆、永吉衆を置く。 | 『岩剣合戦日記』同年月日条 |
天文23年 | 1554 | 9 | 13 | 63 | 辰刻(7-9時)、島津貴久が川辺衆、鹿児島衆を脇元(大隅国)に遣わし放火する。岩剣城(大隅国)より祁答院良重勢が城より出て戦う。島津勢:島津義久、島津義弘、島津歳久、梅北宮内左衛門、宅間与八左衛門。 | 『岩剣合戦日記』同年月日条 |
天文23年 | 1554 | 9 | 14 | 63 | 未刻(13-15時)、島津忠将が船にて脇元(大隅国)を打ち廻り、祁答院勢を鉄砲にて打ち払う。戌刻(19-21時)、鹿児島衆が星原(大隅国)を砲化する。夜、吉田衆が帖佐(大隅国)の人家を放火する。 | 『岩剣合戦日記』同年月日条 |
天文23年 | 1554 | 9 | 17 | 63 | 未刻(13-15時)、焼山(大隅国)に陣取る祁答院勢を島津勢が追い払う。帖佐(大隅国)より岩剣城(大隅国)救援のため祁答院勢が同城麓まで進出し、島津勢と矢戦をする。帖佐の祁答院勢が撤退する。夜、島津義弘が谷山衆、鹿児島衆、下大隅衆を率いて白銀坂(大隅国)の島津勢本陣に到着する。 | 『岩剣合戦日記』同年月日条 |
天文23年 | 1554 | 9 | 18 | 63 | 島津義弘率いる大隅衆が帖佐(大隅国)の別府川に船50艘で攻め寄せる。鹿児島の船50艘が脇元(大隅国)に到着する。別府川に赴いた大隅衆が脇元に合流する。その際、脇元にて祁答院勢と大隅衆が遭遇したため、島津忠将が鉄砲にて祁答院勢を追い払う。 | 『岩剣合戦日記』同年月日条、『島津国史』 |
天文23年 | 1554 | 9 | 20 | 63 | 島津義弘が脇元(大隅国)に伏兵を置き、軍勢の一部を岩剣城(大隅国)に遣わし、祁答院良重勢を脇元まで引き付けたところで伏兵を挟撃し、祁答院勢を破る。 | 『岩剣合戦日記』同年月日条、『島津国史』 |
天文23年 | 1554 | 9 | 20 | 63 | 島津忠良が日当比良に赴き、兵を募る。 | 『岩剣合戦日記』同年月日条、『島津国史』 |
天文23年 | 1554 | 9 | 21 | 63 | 白金坂(大隅国)に在陣の島津勢が脇元(大隅国)にある祁答院良重の船10艘を押収する。 | 『岩剣合戦日記』同年月日条、『島津国史』 |
天文23年 | 1554 | 9 | 22 | 63 | 祁答院良重が軍勢300を焼山(大隅国)に遣わし防塁の構築を試みるが、島津勢が応戦し、良重勢は撤退する。島津勢が脇元にて稲を刈り取る。 | 『岩剣合戦日記』同年月日条、『島津国史』 |
天文23年 | 1554 | 9 | 24 | 63 | 日当比良に在陣していた島津忠良が鹿児島(薩摩国)に帰還する。 | 『島津国史』 |
天文23年 | 1554 | 9 | 25 | 63 | 島津貴久が白銀坂(大隅国)の島津勢本陣を訪れる。島津義久が内城(薩摩国)に一旦帰宅すべく、白銀坂の本陣を出立する。 | 『岩剣合戦日記』同年月日条 |
天文23年 | 1554 | 9 | 26 | 63 | 未刻(13-15時)、島津義久が内城(薩摩国)より白銀坂(大隅国)の島津勢本陣に戻る。 義久が軍勢を星原(大隅国)に出したところ、岩剣城(大隅国)も星原に軍勢を出したため、矢戦が行われる。帖佐(大隅国)より祁答院勢が岩剣城に向けて出勢するが、すぐに撤退する。 島津勢が祁答院勢のいる焼山(大隅国)に矢戦を仕掛け、鉄砲にて2、3人を射殺す。 | 『岩剣合戦日記』同年月日条 |
天文23年 | 1554 | 9 | 30 | 63 | 島津貴久・島津義久と祁答院良重・蒲生範清が星原(大隅国)にて戦い、貴久・義久が勝利する。 | 『岩剣合戦日記』同年月日条 |
天文23年 | 1554 | 10 | 1 | 63 | 島津貴久が、10月2日に岩剣城(大隅国)を攻めることを味方に伝える。夜、島津尚久が城近くに軍勢を率い潜む。 | 『岩剣合戦日記』同年月日条 |
天文23年 | 1554 | 10 | 2 | 63 | 島津義久が祁答院良重の籠る岩剣城(大隅国)を攻める。蒲生範清が岩剣城救援のため軍勢2000を率い岩剣城に迫るが、白銀坂(大隅国)に陣取る島津貴久が応戦し、貴久が勝利する。岩剣城に籠城していた祁答院勢は城を脱出し逃亡する。 島津貴久勢:島津貴久(大将)、島津義久、島津義弘、島津歳久。 祁答院・蒲生勢:蒲生範清、祁答院良重、祁答院重経(戦死)。 | 『岩剣合戦日記』同年月日条 |
天文23年 | 1554 | 10 | 3 | 63 | 島津貴久・義久父子が岩剣城(大隅国)に入城する。貴久は岩剣城攻めに参加した将兵に酒を振る舞う。 | 『岩剣合戦日記』同年月日条 |
天文23年 | 1554 | 10 | 6 | 63 | 島津忠良が鹿児島(薩摩国)より岩剣城(大隅国)の城下に到着する。 | 『岩剣合戦日記』同年月日条 |
天文23年 | 1554 | 10 | 7 | 63 | 島津義久、島津義弘が内城(薩摩国)に帰城する。 | 『岩剣合戦日記』同年月日条 |
天文23年 | 1554 | 10 | 13 | 63 | 島津貴久が岩剣城(大隅国)攻めに軍勢を開陣する。貴久は脇元(大隅国)より内城(薩摩国)に帰城する。 | 『岩剣合戦日記』同年月日条、『島津国史』 |
天文23年 | 1554 | 10 | 17 | 63 | 島津義久、島津義弘が岩剣城(大隅国)に在番する。島津忠良が内城(薩摩国)に帰城する。 | 『岩剣合戦日記』同年月日条、『島津国史』 |
弘治1年 | 1555 | 10 | 23 | 64 | 「天文」より「弘治」に年号が改まる。 | - |
弘治4年 | 1558 | 2 | 28 | 67 | 「弘治」より「永禄」に年号が改まる。 | - |
永禄4年 | 1561 | 7 | 12 | 70 | 廻城(大隅国)にて島津義久と肝付兼続が戦う。島津忠将が戦死する。 | 『寛政重修諸家譜』巻第109「島津忠将」の項 |
永禄11年 | 1568 | 12 | 13 | 77 | 島津忠良が加世田(薩摩国)にて死去する。 | 島津義久追悼和歌(『島津家文書』3-1419) |