人 物 史

島津貴久 しまづ たかひさ
生 没 年永正11年(1514)5/5-元亀2年(1571)6/23
出 身薩摩国阿多郡田布施城幼 名虎寿丸
別 称又三郎、三郎左衛門尉
法 名伯囿
戒 名大忠良等
島津忠良
島津勝久[養父]
島津重久の娘
兄 弟 姉 妹女(肝付兼続の妻)、女(樺山善久の妻)、島津貴久島津忠将、女(肝付兼盛の妻)、島津尚久、女
配 偶 者入来院重聡の娘、肝付兼盛の娘
島津義久島津義弘島津歳久島津家久
官 位修理大夫、陸奥守
役 職薩摩国守護、大隅国守護、日向国守護
城 郭清水城(薩摩国)、田布施城(薩摩国)、伊作城(薩摩国)、伊集院城(薩摩国)、内城(薩摩国)
参 考 文 献○『寛政重修家譜』巻第108「清和源氏 為義流 島津」「島津貴久」
関 連 デ ー タ-
島津貴久 年表
永正11年 1514年 5月5日 1歳
島津貴久が薩摩国阿多郡田布施城にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津貴久」の項

永正17年 1520年 -月-日 7歳
弟・忠将が生まれる。
『寛政重修諸家譜』巻第109「島津忠将」の項に記載されている没年・享年より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第109「島津忠将」の項

大永1年 1521年 8月23日 8歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
出典:-

大永6年 1526年 11月18日 13歳
島津勝久島津貴久を養子とする。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津貴久」の項

大永6年 1526年 11月27日 13歳
島津貴久が島津宗家の家督を相続し、清水城(薩摩国)に入城する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津貴久」の項

大永7年 1527年 -月-日 14歳
島津貴久が清水城(薩摩国)より田布施城(薩摩国)に移る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津貴久」の項

享禄1年 1528年 8月20日 15歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 19歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文2年 1533年 2月9日 20歳
子・義久が薩摩国阿多郡伊作城にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義久」の項

天文4年 1535年 7月23日 22歳
子・義弘が薩摩国阿多郡伊作城にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義弘」の項

天文6年 1537年 7月10日 24歳
子・歳久が生まれる。
出典:-

天文14年 1545年 -月-日 32歳
島津貴久が伊作城(薩摩国)より伊集院城(薩摩国)に移る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津貴久」の項

天文16年 1547年 -月-日 34歳
子・家久が生まれる。
出典:-

天文19年 1550年 6月20日 37歳
甥・以久が薩摩国永吉にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第109「島津以久」の項

天文19年 1550年 -月-日 37歳
島津貴久が伊集院城(薩摩国)より内城(薩摩国)に移る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津貴久」の項

天文21年 1552年 6月21日 39歳
島津貴久が従五位下・修理大夫に叙位・任官。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津貴久」の項

天文23年 1554年 8月29日 41歳
蒲生範清、菱刈隆秋、渋谷氏が肝付兼演が籠る加治木城(大隅国)を攻める。
出典:『島津国史』

天文23年 1554年 9月10日 41歳
島津貴久義久父子が加治木城(大隅国)救援のため、軍勢を率い、吉田城(薩摩国)に入る。
出典:『島津国史』

天文23年 1554年 9月12日 41歳
島津貴久が岩剣城(大隅国)を攻めるべく、島津義久を総大将として加治衆、山田衆、加世田衆、阿多衆、田布施衆、伊集院衆、吉田衆、市来衆を副えて遣わす。義久勢は日当比良に到着する。供奉勢:伊集院忠朗、本田紋六、梶原新兵衛、瀬戸口藤兵衛。
夜、貴久は谷山衆、鹿児島衆、伊作衆、川辺衆、喜入衆を率いて日当比良に到着する。供奉勢:川上上野介。
吉田城(薩摩国)には吉田衆、知覧衆、高橋衆、永吉衆を置く。
出典:『岩剣合戦日記』同年月日条

天文23年 1554年 9月13日 41歳
辰刻(7-9時)、島津貴久が川辺衆、鹿児島衆を脇元(大隅国)に遣わし放火する。岩剣城(大隅国)より祁答院良重勢が城より出て戦う。島津勢:島津義久島津義弘島津歳久、梅北宮内左衛門、宅間与八左衛門。
出典:『岩剣合戦日記』同年月日条

天文23年 1554年 9月14日 41歳
未刻(13-15時)、島津忠将が船にて脇元(大隅国)を打ち廻り、祁答院勢を鉄砲にて打ち払う。戌刻(19-21時)、鹿児島衆が星原(大隅国)を砲化する。夜、吉田衆が帖佐(大隅国)の人家を放火する。
出典:『岩剣合戦日記』同年月日条

天文23年 1554年 9月17日 41歳
未刻(13-15時)、焼山(大隅国)に陣取る祁答院勢を島津勢が追い払う。帖佐(大隅国)より岩剣城(大隅国)救援のため祁答院勢が同城麓まで進出し、島津勢と矢戦をする。帖佐の祁答院勢が撤退する。夜、島津義弘が谷山衆、鹿児島衆、下大隅衆を率いて白銀坂(大隅国)の島津勢本陣に到着する。
出典:『岩剣合戦日記』同年月日条

天文23年 1554年 9月18日 41歳
島津義弘率いる大隅衆が帖佐(大隅国)の別府川に船50艘で攻め寄せる。鹿児島の船50艘が脇元(大隅国)に到着する。別府川に赴いた大隅衆が脇元に合流する。その際、脇元にて祁答院勢と大隅衆が遭遇したため、島津忠将が鉄砲にて祁答院勢を追い払う。
出典:『岩剣合戦日記』同年月日条、『島津国史』

天文23年 1554年 9月20日 41歳
島津義弘が脇元(大隅国)に伏兵を置き、軍勢の一部を岩剣城(大隅国)に遣わし、祁答院良重勢を脇元まで引き付けたところで伏兵を挟撃し、祁答院勢を破る。
出典:『岩剣合戦日記』同年月日条、『島津国史』

天文23年 1554年 9月20日 41歳
島津忠良が日当比良に赴き、兵を募る。
出典:『岩剣合戦日記』同年月日条、『島津国史』

天文23年 1554年 9月21日 41歳
白金坂(大隅国)に在陣の島津勢が脇元(大隅国)にある祁答院良重の船10艘を押収する。
出典:『岩剣合戦日記』同年月日条、『島津国史』

天文23年 1554年 9月22日 41歳
祁答院良重が軍勢300を焼山(大隅国)に遣わし防塁の構築を試みるが、島津勢が応戦し、良重勢は撤退する。島津勢が脇元にて稲を刈り取る。
出典:『岩剣合戦日記』同年月日条、『島津国史』

天文23年 1554年 9月24日 41歳
日当比良に在陣していた島津忠良が鹿児島(薩摩国)に帰還する。
出典:『島津国史』

天文23年 1554年 9月25日 41歳
島津貴久が白銀坂(大隅国)の島津勢本陣を訪れる。島津義久内城(薩摩国)に一旦帰宅すべく、白銀坂の本陣を出立する。
出典:『岩剣合戦日記』同年月日条

天文23年 1554年 9月26日 41歳
未刻(13-15時)、島津義久内城(薩摩国)より白銀坂(大隅国)の島津勢本陣に戻る。
義久が軍勢を星原(大隅国)に出したところ、岩剣城(大隅国)も星原に軍勢を出したため、矢戦が行われる。帖佐(大隅国)より祁答院勢が岩剣城に向けて出勢するが、すぐに撤退する。
島津勢が祁答院勢のいる焼山(大隅国)に矢戦を仕掛け、鉄砲にて2、3人を射殺す。
出典:『岩剣合戦日記』同年月日条

天文23年 1554年 9月30日 41歳
島津貴久島津義久と祁答院良重・蒲生範清が星原(大隅国)にて戦い、貴久・義久が勝利する。
出典:『岩剣合戦日記』同年月日条

天文23年 1554年 10月1日 41歳
島津貴久が、10月2日に岩剣城(大隅国)を攻めることを味方に伝える。夜、島津尚久が城近くに軍勢を率い潜む。
出典:『岩剣合戦日記』同年月日条

天文23年 1554年 10月2日 41歳
島津義久が祁答院良重の籠る岩剣城(大隅国)を攻める。蒲生範清が岩剣城救援のため軍勢2000を率い岩剣城に迫るが、白銀坂(大隅国)に陣取る島津貴久が応戦し、貴久が勝利する。岩剣城に籠城していた祁答院勢は城を脱出し逃亡する。
島津貴久勢:島津貴久(大将)、島津義久、島津義弘、島津歳久。
祁答院・蒲生勢:蒲生範清、祁答院良重、祁答院重経(戦死)。
出典:『岩剣合戦日記』同年月日条

天文23年 1554年 10月3日 41歳
島津貴久義久父子が岩剣城(大隅国)に入城する。貴久は岩剣城攻めに参加した将兵に酒を振る舞う。
出典:『岩剣合戦日記』同年月日条

天文23年 1554年 10月6日 41歳
島津忠良が鹿児島(薩摩国)より岩剣城(大隅国)の城下に到着する。
出典:『岩剣合戦日記』同年月日条

天文23年 1554年 10月7日 41歳
島津義久島津義弘内城(薩摩国)に帰城する。
出典:『岩剣合戦日記』同年月日条

天文23年 1554年 10月12日 41歳
申刻(15-17時)、島津貴久が岩剣大明神に参詣する。
出典:『岩剣合戦日記』同年月日条

天文23年 1554年 10月13日 41歳
島津貴久が岩剣城(大隅国)攻めに軍勢を開陣する。貴久は脇元(大隅国)より内城(薩摩国)に帰城する。
出典:『岩剣合戦日記』同年月日条、『島津国史』

天文23年 1554年 10月17日 41歳
島津義久島津義弘が岩剣城(大隅国)に在番する。島津忠良内城(薩摩国)に帰城する。
出典:『岩剣合戦日記』同年月日条、『島津国史』

弘治1年 1555年 10月23日 42歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 45歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄3年 1560年 6月2日 47歳
足利義輝島津貴久伊東義祐に紛争を停止するよう命じる。
出典:(永禄3年)6月2日付足利義輝御内書(『島津家文書』1-86号)

永禄4年 1561年 7月12日 48歳
廻城(大隅国)にて島津義久と肝付兼続が戦う。島津忠将が戦死する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第109「島津忠将」の項

永禄7年 1564年 3月14日 51歳
島津貴久が陸奥守に任官。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津貴久」の項

永禄8年 1565年 5月19日 52歳
午初点(11時)、松永久通ら三好勢10000が御所(春日殿)にいた足利義輝を襲撃する。義輝は応戦するが戦死する。義輝とともに討死した者は、周嵩、慶寿院、畠山九郎、大館岩石、上野兵部少輔、上野与八郎、摂津いと、細川宮内少輔、一色淡路守、一色又三郎、彦部雅楽頭、彦部孫四郎、荒川治部少輔、武田左兵衛尉、進士晴舎、進士主馬頭、沼田上野介、杉原晴盛、朝日新三郎、結城主膳正、有馬源次郎、治部三郎左衛門、福阿弥、台阿、松阿、林阿、慶阿、疋田孫四郎、二宮弥三郎、大弐、谷口民部丞、小林左京亮(慶寿院内者)、西面左馬允(慶寿院内者)、松井新二郎(慶寿院内者)、高木右近(慶寿院内者)、森田新左衛門尉(慶寿院内者)、竹阿(慶寿院内者)、金(慶寿院内者)、蔵首座(周嵩内者)、河端兵部丞(周嵩内者)、木村小四郎(周嵩内者)、飯田左橘右兵衛尉(春日局内者)、松原小三郎(春日局内者)、粟津甚三郎(春日局内者)、林与五郎(春日局内者)、西川新左衛門尉(春日局内者)、中井助左衛門尉(春日局内者)、畑(内者)、村田弥介(杉原内者)、八田十右衛門尉(杉原内者)、高橋(進士内者)、一河など。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 2月-日 53歳
島津貴久が子・義久に家督を譲る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津貴久」・「島津義久」の項

永禄11年 1568年 12月13日 55歳
実父・忠良が加世田(薩摩国)にて死去する。
出典:島津義久追悼和歌(『島津家文書』3-1419)

元亀1年 1570年 4月23日 57歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 6月11日 57歳
孫・豊久が生まれる。
出典:-

元亀2年 1571年 6月23日 58歳
島津貴久が薩摩国にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津貴久」の項

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