人 物 史

島津家久(中務大輔) しまづ いえひさ
生 没 年天文16年(1547)-天正15年(1587)6/5
出 身-幼 名-
別 称又七郎
法 名梅天
戒 名長策梅天大禅定門
島津貴久本多親康の娘
兄 弟 姉 妹島津義久島津義弘島津歳久島津家久
配 偶 者樺山善久の娘
島津豊久、島津忠仍、娘(禰寝重張の妻)、宗鉄(島津久信の妻、相良頼安の妻)
官 位中務少輔
役 職-
城 郭佐土原城(日向国)
参 考 文 献国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第1輯 刊本
関 連 デ ー タ史料にみえる島津家久(中務大輔)の呼称
島津家久(中務大輔)の関連文化財
島津家久 年表
天文16年 1547年 -月-日 1歳
島津家久が生まれる。
出典:-

天文19年 1550年 6月20日 4歳
従兄弟・以久が薩摩国永吉にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第109「島津以久」の項

弘治1年 1555年 10月23日 9歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 12歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄4年 1561年 7月12日 15歳
廻城(大隅国)にて島津義久と肝付兼続が戦う。島津忠将が戦死する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第109「島津忠将」の項

永禄9年 1566年 2月-日 20歳
島津貴久が子・義久に家督を譲る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津貴久」・「島津義久」の項

永禄11年 1568年 12月13日 22歳
祖父・忠良が加世田(薩摩国)にて死去する。
出典:島津義久追悼和歌(『島津家文書』3-1419)

元亀1年 1570年 4月23日 24歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 6月11日 24歳
子・豊久が生まれる。
出典:-

元亀2年 1571年 6月23日 25歳
父・貴久が薩摩国にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津貴久」の項

元亀3年 1572年 5月4日 26歳
木崎原(日向国)にて伊東祐安と島津義弘が戦い、義弘が勝利する。祐安は戦死する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義弘」の項

天正1年 1573年 7月28日 27歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正3年 1575年 2月7日 29歳
島津家久が兄・義久の薩摩国・大隅国・日向国統一を神慮によるものとして伊勢神宮、愛宕山等の諸仏諸神のもとに参詣すべく、義久のもとに赴き暇乞いをする。
出典:『中書家久公上京日記』(九州史料刊行会編(『九州史料叢書 近世初頭九州紀行集』所収)

天正3年 1575年 2月8日 29歳
島津家久が伊勢神宮、愛宕山等に参詣すべく、串木野に戻り諸準備をする。
出典:『中書家久公上京日記』(九州史料刊行会編(『九州史料叢書 近世初頭九州紀行集』所収)

天正3年 1575年 2月20日 29歳
島津家久が伊勢神宮、愛宕山等に参詣すべく串木野より出立する。
出典:『中書家久公上京日記』(九州史料刊行会編(『九州史料叢書 近世初頭九州紀行集』所収)

天正3年 1575年 2月21日 29歳
巳刻(9-11時)、島津家久がくみさきを出立し、阿久根に到着する。
出典:『中書家久公上京日記』(九州史料刊行会編(『九州史料叢書 近世初頭九州紀行集』所収)

天正3年 1575年 2月22日 29歳
島津家久が島津義虎と酒宴をする。
出典:『中書家久公上京日記』(九州史料刊行会編(『九州史料叢書 近世初頭九州紀行集』所収)

天正3年 1575年 2月23日 29歳
夜、島津家久が田ノ浦に到着する。
出典:『中書家久公上京日記』(九州史料刊行会編(『九州史料叢書 近世初頭九州紀行集』所収)

天正3年 1575年 2月24日 29歳
酉刻(17-19時)、島津家久が田ノ浦より出航する。
出典:『中書家久公上京日記』(九州史料刊行会編(『九州史料叢書 近世初頭九州紀行集』所収)

天正3年 1575年 2月25日 29歳
早朝、島津家久が松橋(肥後国)に到着する。それより陸路にて移動し、舞江、川尻にて関銭を払う。広瀬孫三郎所にて宿泊する。
出典:『中書家久公上京日記』(九州史料刊行会編(『九州史料叢書 近世初頭九州紀行集』所収)

天正3年 1575年 4月17日 29歳
島津家久愛宕山に参詣。長床坊に宿泊する。
出典:『中書家久公御上京日記』同年月日条

天正3年 1575年 4月20日 29歳
島津家久北野社に参詣する。
出典:『中書家久公御上京日記』同年月日条

天正5年 1577年 12月11日 31歳
佐土原(日向国)にて島津義久伊東義祐が戦い、義久が勝利する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義久」の項

天正6年 1578年 10月-日 32歳
大友義鎮が丹生島城(豊後国)を発ち、無鹿(日向国)に陣取る。当地にて領国内の諸勢が集まるのを待つ。
出典:『豊薩軍記』巻2「高城合戦並島津義久霊夢之事」

天正6年 1578年 10月-日 32歳
大友義鎮が御門(日向国)に柴田礼能、柴田五右衛門、山田匡徳の軍勢1200を、坪矢城に斎藤内記兵衛、塩手佐助、胡麻津留新助の軍勢1300を、高城(日向国)に佐伯惟教、佐伯惟真、佐伯鎮忠、田北鎮周、田原紹忍、田原親貫、臼杵統景の軍勢38000を遣わす。
出典:『豊薩軍記』巻2「高城合戦並島津義久霊夢之事」

天正6年 1578年 10月10日 32歳
高城(日向国)に向かった佐伯惟教、佐伯惟真、佐伯鎮忠、田北鎮周、田原紹忍、田原親貫、臼杵統景の軍勢38000が名貫川を渡り名貫原に陣取る。
出典:『豊薩軍記』巻2「高城合戦並島津義久霊夢之事」

天正6年 1578年 10月11日 32歳
佐伯惟教、佐伯惟真、佐伯鎮忠、田北鎮周、田原紹忍、田原親貫、臼杵統景の軍勢38000が島津家家臣・山田有信の籠る高城(日向国)を包囲する。
出典:『豊薩軍記』巻2「高城合戦並島津義久霊夢之事」

天正6年 1578年 11月-日 32歳
島津義久が大友勢に攻められている高城(日向国)の山田有信を救援すべく、領内の15-60歳の者を動員し、内城(薩摩国)を軍勢40000にて発ち、佐土原(日向国)に着陣し、同地を本陣とする。
出典:『豊薩軍記』巻2「義久佐土原著陣並大友方軍評定之事」

天正7年 1579年 -月-日 33歳
島津家久佐土原城(日向国)に入部する。
出典:『島津家代々軍記』

天正8年 1580年 8月12日 34歳
織田信長が、大友宗麟島津義久の和睦を命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正10年 1582年 6月2日 36歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正12年 1584年 3月24日 38歳
沖田畷(肥前国)にて、龍造寺隆信島津家久が戦い、隆信は戦死し、家久が勝利する。川上忠堅が隆信を討ち取る。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正13年 1585年 8月5日 39歳
島津領内にて羽柴秀吉勢が四国に渡海し、長宗我部元親の退治と、その後の九州攻めが噂される。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正13年 1585年 8月8日 39歳
島津家久が上井覚兼に伊地知某を遣わす。伝えた内容は、大友義統一が阿蘇惟光と通じ、三田井親武・甲斐宗摂に鎧・兜を送り、義統自身は県に到着していると伝える。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正13年 1585年 10月2日 39歳
羽柴秀吉島津義久に東国の平定を伝え、九州における義久の紛争停止を求め、要請に応じない場合は成敗する旨を伝える。
出典:(天正13年)10月2日付羽柴秀吉書状(『島津家文書』1-344号)

天正14年 1586年 1月29日 40歳
上井覚兼が佐土原城(日向国)に赴き疱瘡を患う島津家久を見舞う。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正14年 1586年 2月19日 40歳
島津義久が川上久隅、町田久倍、平田光宗、本田親貞、伊集院久治、上原尚近、鎌田政心、川田義朗、稲富長辰、上井覚兼を召し、豊後国攻めについて談合する。義久は、先日、豊後国攻めを決定したが、4月迄に筑前国・肥前国の国衆より人質が取れないならば、雨季に突入し、大河の多い肥後口・日向口からの侵攻は困難なことから、豊後国侵攻は秋に延期すべきではないかと重臣に諮る。上井覚兼は入田宗和からの豊後国内の情勢を伝え、豊後国侵攻を主張するが、他の重臣は義久の意向を尊重するとして、豊後国侵攻の延期が決定する。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正14年 1586年 6月6日 40歳
島津義久が豊後国攻めにつき、弟・義弘と談合する。義弘は7月28日までに豊後国攻めを開始することが神慮に叶っており、8月に延期となると良くないことを主張する。
出典:『上井覚兼日記』同年月7日条

天正14年 1586年 6月7日 40歳
島津義久が豊後国攻めにつき、弟・義弘島津忠長、川上久隅、伊集院忠棟、町田久倍、平田光宗、本田親貞、伊集院久治、上原尚近、上井覚兼、白浜重政、本多正親、税所篤和、三原重隆、木脇祐充、遠矢良時、吉利久金、比志島義基を召し、談合する。談合の結果、義久、親貞、覚兼、光宗は日向口より、義弘、忠長、忠棟は肥後口より豊後国に攻め入ることが決定する。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正14年 1586年 6月14日 40歳
島津家久が穆佐(日向国)に到着する。上井覚兼が家久に7日の豊後国攻め談合のことを伝える。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正14年 1586年 7月13日 40歳
高橋紹運が籠る岩屋城(筑前国)を攻めるため、島津忠長伊集院忠棟が率いる島津勢が太宰府観世音寺に陣取る。龍造寺政家、秋月種実高橋元種等が城を包囲する。
出典:『高橋紹運記』34「薩摩衆並九州の大軍岩屋へ寄来る事」

天正14年 1586年 7月14日 40歳
島津忠長伊集院忠棟が率いる島津勢が高橋紹運が籠る岩屋城(筑前国)を攻める。
出典:『高橋紹運記』34「薩摩衆並九州の大軍岩屋へ寄来る事」

天正14年 1586年 7月27日 40歳
寅刻(3-5時)、島津忠長伊集院忠棟が率いる島津勢が高橋紹運の籠る岩屋城(筑前国)を攻め、未刻(13-15時)に島津勢が城内の高橋勢を悉く討つ。紹運は自害する。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条、『黒田家譜』巻3「孝高記」、『高橋紹運記』35「岩屋城中役所配之事」、『寛政重修諸家譜』巻第113「高橋鎮種」の項目

天正14年 1586年 7月29日 40歳
島津忠長伊集院忠棟が率いる島津勢が立花宗茂の籠る立花山城(筑前国)を攻めるべく、岩屋城(筑前国)を出立する。
出典:『上井覚兼日記』同年月日条

天正14年 1586年 10月2日 40歳
羽柴秀吉島津義久に諸大名との停戦を命じ、従わない場合は成敗すると伝える。
出典:『黒田家譜』巻3「孝高記」

天正14年 1586年 12月7日 40歳
島津家久が利光宗魚の籠る鶴賀城(豊後国)を攻める。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月8日 40歳
島津家久が利光宗魚の籠る鶴賀城(豊後国)を攻める。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月9日 40歳
島津家久が利光宗魚の籠る鶴賀城(豊後国)を攻める。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月10日 40歳
島津家久が利光宗魚の籠る鶴賀城(豊後国)を攻め、城が落ちる。宗魚は戦死する。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正14年 1586年 12月12日 40歳
戸次川の戦いで島津家久仙石秀久長宗我部元親・十河存保が戦い、家久が勝利する。存保、長宗我部信親が戦死する。
出典:『南海通紀』巻18「長宗我部元親十河存保豊州戦記」

天正15年 1587年 1月25日 41歳
島津義久成敗につき、宇喜多秀家(軍勢15000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 2月1日 41歳
島津義久成敗につき、宮部継潤・南条元続・亀井玆矩・荒木重堅・垣屋光成(総勢4000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月5日 41歳
島津義久成敗につき、前野長康(軍勢2000)、明石左近(軍勢800)、斎村政広(軍勢800)、別所宗(軍勢400)、福島正則(軍勢1200)、中川秀政(軍勢3000)、高山重友(軍勢1300)、細川忠興(軍勢3000)が豊臣勢の先勢として出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月10日 41歳
島津義久成敗につき、豊臣秀長(軍勢15500)、筒井定次(軍勢1500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月15日 41歳
島津義久成敗につき、豊臣秀勝(軍勢5000)、丹羽長重(軍勢500)、生駒親正(軍勢800)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月20日 41歳
島津義久成敗につき、前田利長(軍勢3000)、長谷川秀一(軍勢1700)、堀秀政(軍勢3000)、木村重玆(軍勢1000)、青山宗勝(軍勢300)、村上頼勝(軍勢1000)、溝口秀勝(軍勢700)、山田喜左衛門(軍勢130)、太田一吉(軍勢100)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 2月25日 41歳
島津義久成敗につき、蒲生氏郷(軍勢1700)、織田信重(軍勢1300)、九鬼嘉隆(軍船)、岡本良勝(軍勢150)、池田輝政(軍勢1000)、森忠政(軍勢1000)、稲葉典通(軍勢500)が出陣する。
出典:『当代記』巻2同年月日条

天正15年 1587年 3月1日 41歳
島津義久成敗につき、豊臣秀吉(軍勢86750)が京都(山城国)より出陣する。蜂屋頼隆(軍勢500)、水野忠重(軍勢200)、石川数正(軍勢500)、佐々成政(軍勢500)、斯波義康(軍勢400)、市橋長勝(軍勢150)、生駒親清(軍勢150)、有馬則頼(軍勢150)、矢部家定(軍勢100)、稲葉重通(軍勢200)、三田左太郎(軍勢100)、津田盛月(軍勢500)、滝川益重(軍勢350)、牧村利貞(軍勢500)、瀬田正忠(軍勢120)、池田知正(軍勢90)、古田重然(軍勢130)、稲葉方通(軍勢100)、柘植与一(軍勢120)、浅野長政(軍勢1200)、木下勝俊(軍勢1000)、山崎片家(軍勢160)、戸田勝隆(軍勢160)、戸田勝成(軍勢750)、長谷川勘兵衛(軍勢75)、富田信広(軍勢500)、早川長政(軍勢150)、津田重長(軍勢120)、寺西是成(軍勢200)、大塩与一郎(軍勢150)、片桐且元糟屋武則(軍勢150)、池田長吉(軍勢400)、川尻秀長(軍勢120)、加藤清正(軍勢170)、古田重勝(軍勢150)、間島氏勝(軍勢100)、丸毛兼利(軍勢100)、佐藤方政(軍勢150)、生駒仙(軍勢170)、青木一重(軍勢150)、奥山盛昭(軍勢500)が供奉する。京都に留守居として豊臣秀次を置く。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 3月29日 41歳
豊臣秀吉小倉(豊前国)に移る。小倉にて軍勢を二手に分け薩摩国に攻め入ることに決す。一手は秀吉を大将として畿内・北国・美濃・伊勢の軍勢100000で筑前・筑後・肥後を経由し、もう一手は豊臣秀長を大将に毛利輝元吉川元長小早川隆景宇喜多秀家黒田孝高宮部継潤・亀井茲矩・蜂須賀家政長宗我部元親・尾藤知宣・来島通総・黒川・平岡・法花津・大友義統の軍勢80000で豊後・日向を経由し薩摩に攻め込むこととする。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『蒲生氏郷記』

天正15年 1587年 4月1日 41歳
豊臣秀勝前田利長蒲生氏郷率いる豊臣勢が秋月家家臣の隈江越中守・芥田悪六兵衛の籠る岩石城(豊前国)を攻め、同城を落とす。
豊臣勢:豊臣秀勝[大将]、前田利長、蒲生氏郷[先陣](首級120(甲付93))、蒲生郷成[蒲生氏郷勢](一番槍)。
秋月勢:隈江越中守、芥田悪六兵衛。
この城攻めをみた大隈城(筑前国)の秋月勢は古処山城(筑前国)に撤退したため、豊臣秀吉は大隈城に入城する。
出典:『蒲生氏郷記』、『黒田家譜』巻4「孝高記」、『清正記』巻1

天正15年 1587年 4月2日 41歳
豊臣秀吉が大隈城(筑前国)を発ち秋月(筑前国)に向かう。大隈城には早川長政を置く。秀吉に敵対した秋月種実は、岩石城(豊前国)が一日で攻め落とされたのを受け、剃髪して法衣を着用し、茶入(銘 楢柴)を持参し、子・種長とともに芥田(筑前国)に滞在中の秀吉のもとに赴き、降伏する。秀吉は種実の降伏の申し出を受け入れる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」

天正15年 1587年 4月4日 41歳
豊臣秀吉秋月種実の居城・荒平山城(筑前国)に入る。生駒親正が荒平山城を預かる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 41歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月11日 41歳
豊臣秀吉が南関城(肥後国)に移る。
立花統虎が豊臣勢の先陣を命じられる。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」、『寛政重修家譜』巻第112「清和源氏 為義流 立花」「立花宗茂」

天正15年 1587年 4月13日 41歳
豊臣秀吉が高瀬(肥後国)に到着する。城久基が秀吉に降伏する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月16日 41歳
豊臣秀吉熊本城(肥後国)に入城する。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月17日 41歳
宮部継潤が守る根白坂砦(日向国)を島津家久が攻める。豊臣秀長が救援に赴き、麾下の藤堂高虎宇喜多秀家勢の戸川達安が島津家久勢に攻め入り、秀長全軍も後詰したため、秀長が勝利する。
出典:『藤堂家覚書』

天正15年 1587年 4月19日 41歳
豊臣秀吉宇土城(肥後国)に入城する。熊本城(肥後国)に富田知信を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月21日 41歳
豊臣秀吉八代城(肥後国)に入城する。宇土城(肥後国)に加藤清正を置く。
出典:『黒田家譜』巻4「孝高記」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 4月28日 41歳
加藤嘉明脇坂安治九鬼嘉隆が平佐城(薩摩国)を攻める。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第773「加藤嘉明」の項

天正15年 1587年 5月5日 41歳
豊臣秀吉が太平寺(薩摩国)に到着する。
出典:『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月6日 41歳
島津義久が太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに赴くべく、内城(薩摩国)を発つ。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」

天正15年 1587年 5月8日 41歳
太平寺(薩摩国高城郡水引)に在陣中の豊臣秀吉のもとに剃髪した島津義久が赴き、義久が秀吉に降伏する。
出典:『寛政重修諸家譜』108「島津」、『南海通紀』巻18「羽柴公御進発記」

天正15年 1587年 5月9日 41歳
豊臣秀吉島津義久に薩摩一国を宛行う。
出典:天正15年5月9日付豊臣秀吉判物(『島津家文書』1-345号)

天正15年 1587年 6月5日 41歳
島津家久が死去する。
出典:-

元和1年 1615年 7月18日 
加藤忠広二条城(山城国)にいる徳川家康に礼をする。銀300枚・帷子を献上する。
家康が松平忠直前田利常島津家久池田利隆山内忠義堀尾忠晴加藤明成などに暇を下す。ただし、田中忠政、稲葉修理は在京を命じる。忠直・利常には徳川秀忠より黄金200枚が、家久・利隆には銀1000枚が下賜される。
出典:『駿府記』同年月日条

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