人 物 史

松平家広 まつだいら いえひろ
生 没 年天正5年(1577)-慶長6年(1601)6/14
出 身-幼 名亀千代
別 称桜井松平
法 名-
戒 名西照院運誉林月道曜
松平忠正多劫(久松俊勝の娘)
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者-
-
官 位内膳正
役 職-
城 郭松山城(武蔵国)
参 考 文 献○『寛政重修諸家譜』巻第5「松平家広」の項
関 連 デ ー タ松平家広の関連文化財
松平家広 年表
天正5年 1577年 -月-日 1歳
松平家広が生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平家広」の項

天正5年 1577年 閏7月20日 1歳
父・忠正が死去する。家広は幼少につき、叔父・忠吉が忠正の嫁・多劫を娶り、家督を相続する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」「松平家広」の項

天正10年 1582年 6月24日 6歳
叔父・忠吉が死去する。家督は家広が相続する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠吉」「松平家広」の項

天正11年 1583年 7月3日 7歳
桜井松平の当主・家広が幼少につき、徳川家康は家臣・堀重純に朱印状を下し、家政の取り仕切りを命じる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平家広」の項

天正12年 1584年 4月9日 8歳
酒井忠次が楽田(尾張国)・羽黒(尾張国)・五郎丸(尾張国)を放火する。忠次が森長可の守る五郎丸砦(尾張国)を攻め、同砦を落とす。この戦いに松平家広は酒井忠次勢として参加し、羽黒にて長可の家臣・井戸次兵衛等を討ち取る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第65「酒井忠次」の項、同巻第5「松平家広」の項

天正18年 1590年 -月-日 14歳
徳川家康松平家広に松山(武蔵国)10000石を給付する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平家広」の項

天正19年 1591年 7月-日 15歳
九戸政実成敗につき、中新田城(陸奥国)に松平家広が在番する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平家広」の項

文禄1年 1592年 12月8日 16歳
「天正」より「文禄」に年号が改まる。
出典:-

慶長1年 1596年 10月27日 20歳
「文禄」より「慶長」に元号が改まる。
出典:-

慶長6年 1601年 6月14日 25歳
松平家広が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平家広」の項

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