人 物 史

松平忠正 まつだいら ただまさ
生 没 年天文13年(1544)-天正5年(1577)閏7/20
出 身-幼 名-
別 称桜井松平、与一
法 名道春
戒 名-
松平家次-
兄 弟 姉 妹松平忠正松平忠吉、松平忠広、女(菅沼定盈の妻)、女(竹田定加の妻)
配 偶 者多劫(久松俊勝の娘)
松平家広
官 位-
役 職-
城 郭-
参 考 文 献○『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項
関 連 デ ー タ-
松平忠正 年表
天文13年 1544年 -月-日 1歳
松平忠正が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項

弘治1年 1555年 10月23日 12歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 15歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄2年 1559年 -月-日 16歳
弟・忠吉が生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠吉」の項の没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠吉」の項

永禄12年 1569年 3月5日 26歳
徳川家康掛川城(遠江国)を攻める。この城攻めに徳川勢として参加する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項

元亀1年 1570年 4月23日 27歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 6月26日 27歳
浅井久政長政父子が大寄山(近江国)に陣取る。織田信長が龍鼻(近江国)に陣取る。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月27日 27歳
徳川家康織田信長の陣取る龍鼻(近江国)に着陣する。
出典:『当代記』同年月日条

元亀1年 1570年 6月28日 27歳
巳刻(9-11時)、姉川(近江国)にて織田信長徳川家康浅井長政朝倉義景が戦い信長・家康勢が勝利する。
織田信長勢:織田信長[大将]、坂井政尚坂井尚恒(戦死)、丹羽氏勝大島光義
徳川家康勢:徳川家康[大将]、酒井忠次[先鋒]、石川数正榊原康政松平信一松平忠正酒井重忠小栗忠政(銘 信国の槍で奮戦)、本多広孝、天野康景、小笠原広重、野々山元政渥美友勝加藤正次
浅井長政勢:浅井長政[大将]、遠藤直経(戦死)、藤堂高虎
朝倉勢:真柄直隆(戦死)、真柄直澄(戦死)、真柄隆基(戦死)。
戦後、信長が小谷城(近江国)の押さえとして木下秀吉を横山城(近江国)に置く。
出典:『言継卿記』同年月29日条、『信長公記』巻3(8)「あね川合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同45「小栗忠政」の項、同59「酒井重忠」の項、同65「酒井忠次」の項、同73「大島光義」の項、同85「丹羽氏勝」の項、同110「野々山元政」の項、同120「石川数正」の項、同191「小笠原広重」の項、同100「榊原康政」の項、同777「加藤正次」の項、同961「渥美友勝」の項、『藤堂家覚書

元亀4年 1573年 1月11日 30歳
武田信玄菅沼定盈松平忠正の守る野田城(三河国)を攻める。定盈・忠正は城兵の助命嘆願のため切腹することを信玄に申し出たところ、信玄は偽って定盈・忠正を許し、城を出てきたところをとらえ、信玄に仕えるように両名に言い渡す。定盈・忠正は信玄の申し出を拒否する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項

元亀4年 1573年 3月15日 30歳
武田信玄が、捕虜としていた菅沼定盈松平忠正を、徳川家康のもとに捕らえられていた山家三方衆の人質と交換することを家康に提案し、家康は受け入れる。広瀬川にて捕虜・人質の交換がなされる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項

天正1年 1573年 7月28日 30歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正3年 1575年 5月20日 32歳
織田信長酒井忠次に信長馬廻の鉄砲衆500、金森長近、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門とともに、鳶之巣山(三河国)に回り長篠城(三河国)を包囲する武田勢を襲撃するよう命じる。戌刻(19-21時)、酒井忠次が鳶之巣山の武田勢に向けて出陣する。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」

天正3年 1575年 5月21日 32歳
辰刻(3-5時)、長篠城(三河国)を包囲していた武田勝頼勢に、鳶ノ巣山(三河国)より酒井忠次が襲撃する。
酒井忠次勢:忠次、酒井家次松平家忠、松平康忠、松平伊忠(戦死)・松平家忠松平清宗小栗忠政[雨宮家次討取]。
武田勢:小山田昌行、雨宮家次(戦死)、屋代政長(戦死)、三枝昌貞(戦死)。
忠次の襲撃を受け、勝頼が前面に展開する織田信長徳川家康の軍勢に攻めかかるが、織田勢の鉄砲衆1000が、攻め寄せる武田勢を鉄砲にて悉く討ち取る。勝頼は鳳来寺方面に撤退する。『兼見卿記』には勝頼の敗北と「数千騎討死」が記される。
織田勢:佐々成政前田利家野々村正成福富秀勝塙直政大島光義
徳川勢:石川数正大久保忠世大久保忠佐大須賀康高鳥居元忠平岩親吉松平信一松平忠正松平康安松平康元酒井正親榊原康政本多忠勝渥美友勝岩瀬氏定(戦死)、加藤正次
武田勢:馬場信春(戦死)、山県昌景(戦死)、土屋貞綱(戦死)、土屋昌続(戦死)、内藤昌豊(戦死)、油川信次(戦死)、小幡(戦死)、横田備中(戦死)、武田信実(戦死)、真田信綱(戦死)、真田昌幸、甘利藤蔵(戦死)、杉原日向(戦死)、名和宗安(戦死)、仁科(戦死)、高坂又八郎(戦死)、奥津(戦死)、岡辺(戦死)、恵光寺(戦死)、根津甚平(戦死)、和気善兵衛(戦死)、米倉重継(戦死)、青木信定(戦死)、横手信俊津金胤時(戦死)、跡部久直(戦死)、酒依昌光(戦死)。
出典:『信長公記』巻8(4)「三州長篠御合戦の事」、『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」の項、同7「松平信一」の項、同23「松平家忠」の項、同26「松平康安」の項、同29「松平伊忠」の項、同29「松平家忠」の項、同45「小栗忠政」の項、同52「松平康元」の項、同59「酒井正親」の項、同65「酒井家次」の項、同73「大島光義」の項、同87「土屋昌次」の項、同100「榊原康政」の項、同162「青木信定」の項、同163「柳沢信俊」の項、同169「米倉宗継」の項、同173「津金胤時」の項、同173「跡部久直」の項、同239「雨宮家次」の項、同237「屋代政長」の項、同777「加藤正次」の項、同963「岩瀬氏定」の項

天正5年 1577年 -月-日 34歳
子・家広が生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平家広」の項

天正5年 1577年 閏7月20日 34歳
松平忠正が死去する。忠正の子・家広が幼少につき、忠吉が忠正の嫁・多劫を娶り、家督を相続する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第5「松平忠正」「松平家広」の項

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