人 物 史

森長可 もり ながよし
生 没 年永禄1年(1558)-天正12年(1584)4/9
出 身尾張国蓮台幼 名-
別 称勝蔵、勝三、長一
法 名-
戒 名鉄開秀公大禅定門、霊光院殿慧徳長栄日勝大居士
森可成えい(妙向尼)(林通安の娘)
兄 弟 姉 妹女(関成政の妻)、森可隆、女(青木秀重の妻)、森長可、女(木下勝俊の妻)、森成利、森長隆、森長氏、森忠政
配 偶 者せん(池田恒興の娘)、加木屋正次の娘
森玄蕃、おこう
官 位武蔵守
役 職-
城 郭金山城(美濃国)、海津城(信濃国)
参 考 文 献国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重修諸家譜 第1輯 刊本
関 連 デ ー タ森長可の関連文化財
森長可 年表
永禄1年 1558年 -月-日 1歳
森長可尾張国蓮台にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第126「森長一」の項

弘治4年 1558年 2月28日 1歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄8年 1565年 -月-日 8歳
弟・成利美濃国金山にて生まれる。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第126「森長定」の項

元亀1年 1570年 4月23日 13歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月25日 13歳
織田信長が敦賀(越前国)に着陣し、手筒山城(越前国)を攻める。織田勢は森可隆が戦死する。
出典:『信長公記』巻3(4)「越前手筒山攻落されの事」、『言継卿記』同年月27日条、『多聞院日記』同年月29日条、『当代記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第126「森可隆」の項

元亀1年 1570年 9月19日 13歳
父・可成浅井長政・朝倉景健と坂本(近江国)にて戦い戦死する。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀1年 1570年 -月-日 13歳
弟・忠政美濃国金山にて生まれる。
*『寛政重修諸家譜』巻第126「森忠政」の項にみえる没年・享年記載より逆算。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第126「森忠政」の項

天正1年 1573年 7月28日 16歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正2年 1574年 7月14日 17歳
織田信長願証寺(長島)を東の市江、西の香取、中筋の早尾の三方より攻める。市江口には子・信忠を大将として、織田信包、津田半左衛門、津田又十郎、津田市介、津田孫十郎、斎藤利治、簗田左衛門太郎、森長可、坂井越中守、池田恒興長谷川与次、山田三左衛門、梶原平次、和田新介、中嶋豊後守、関小十郎右衛門、佐藤六左衛門、市橋伝左衛門、塚本小大膳を付ける。香取口には佐久間信盛柴田勝家稲葉一鉄稲葉貞通蜂屋頼隆を置き、松之木の渡を守る一向一揆勢を攻める。信長は早尾口より、木下秀長、浅井新八、丹羽長秀氏家直昌安藤守就、飯沼勘平、不破光治不破直光丸毛長照、丸毛三郎兵衛、佐々成政、市橋長利、前田利家、中条将監、川尻秀隆、津田大隅守、飯尾隠岐守を先陣として小木江で防戦する一向一揆勢を攻める。また篠橋より出撃した一向一揆勢を破る。前ヶ州、海老江島、加路戸島、いくいら島を焼き払う。五明に野陣する。
出典:『信長公記』巻7(9)「河内長嶋一篇に仰付けらるるの事」

天正5年 1577年 5月-日 20歳
森蘭丸・坊丸・力丸兄弟が織田信長の近習となる。
出典:『兼山記』

天正10年 1582年 2月1日 25歳
木曽義昌織田信長に寝返る。義昌より人質として義昌の弟・上松義豊が送られ、菅屋長頼が義豊を預かる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月2日 25歳
木曽義昌の謀叛につき武田勝頼が武田信豊とともに新府城(甲斐国)より軍勢15000をもって出陣し、上原(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月3日 25歳
武田勝頼木曽義昌を攻めるとの報を受け、織田信長は、徳川家康に駿河口からの侵攻を、北条氏政に関東口からの侵攻を、金森長近に飛騨口からの侵攻を命じる。また、織田信忠森長可団忠正を先陣として木曽口・岩村口より出勢させる。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月12日 25歳
織田信忠岐阜城(美濃国)を出陣し土田(美濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月13日 25歳
織田信忠が高野(美濃国)に着陣する。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月14日 25歳
織田信忠が岩村(美濃国)に着陣する。
松尾城(信濃国)の小笠原信嶺が信忠に降伏する。
妻子口より森長可団忠正が木曽峠、梨子野峠を越え飯田城(信濃国)を攻め、城主・保科正直を追い出す。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月15日 25歳
森長可が市田(信濃国)に入る。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月16日 25歳
鳥居峠にて今福筑前守と苗木久兵衛が戦う。
出典:『信長公記』巻15(5)「木曽義政忠節の事」

天正10年 1582年 2月28日 25歳
武田勝頼・武田信豊が上原(信濃国)の陣を払い、新府城(甲斐国)に帰城する。
出典:『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」

天正10年 1582年 3月1日 25歳
織田信忠が小笠原信嶺を案内役として貝沼(信濃国)に陣取る。信忠は仁科盛信の籠る高遠城(信濃国)の様子を検分する。
出典:『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」

天正10年 1582年 3月2日 25歳
織田信忠が仁科盛信の籠る高遠城(信濃国)を攻める。信忠は搦手口より、森長可団忠正・毛利秀頼・川尻秀隆・小笠原信嶺は大手口より攻め入る。仁科盛信は応戦するも、敵わず戦死する。
出典:『多聞院日記』同年月12日条、『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」

天正10年 1582年 3月3日 25歳
織田信忠が上諏訪(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(6)「信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事」

天正10年 1582年 3月5日 25歳
織田信長武田勝頼を攻めるべく、安土城(近江国)を出陣する。柏原(近江国)の成菩提院(近江国)に宿泊する。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月7日 25歳
織田信忠が上諏訪(信濃国)より甲府(甲斐国)に入る。一条信龍邸に陣を据える。信忠は一条信龍、清野美作守、朝比奈摂津守、諏訪越中守、武田上総介、今福筑前守、小山田出羽守、正用軒、海野龍宝に切腹を命じる。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月8日 25歳
織田信長岐阜城(美濃国)より犬山城(尾張国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月9日 25歳
織田信長が金山(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月10日 25歳
織田信長が高野(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月11日 25歳
織田信忠が甲斐国にて武田勝頼の所在を捜索し、所在地を突き止めた滝川一益が勝頼を包囲する。勝頼・信勝父子は天目山にて自害し、勝頼に随従していた長坂釣竿斎、秋山親久、小原下総守、小原丹後守、跡部尾張守、安部加賀守、土屋昌恒も自害する。
出典:『晴豊記』同年月22日条、『言経卿記』同年月20日条、『信長公記』巻15(10)「武田四郎父子生害の事」

天正10年 1582年 3月11日 25歳
織田信長が岩村(美濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(9)「信長公御乱入の事」

天正10年 1582年 3月13日 25歳
織田信長が岩村(美濃国)より根羽(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月14日 25歳
織田信長が平谷(信濃国)を経由し浪合(信濃国)に移る。当地にて武田勝頼・信勝父子の首を検分する。信長は両名の首を飯田(信濃国)に運ぶよう矢部家定に命じる。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月15日 25歳
織田信長が浪合(信濃国)より飯田(信濃国)に移る。当地にて武田勝頼・信勝父子の首を晒す。
出典:『信長公記』巻15(11)「越中富山の城、神保越中居城謀叛の事」

天正10年 1582年 3月17日 25歳
織田信長が飯田(信濃国)より大嶋(信濃国)を経由して飯嶋(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(12)「武田典厩生害、下曽根忠節の事」

天正10年 1582年 3月18日 25歳
織田信長高遠城(信濃国)に移る。
出典:『信長公記』巻15(13)「中国表羽柴筑前守働きの事」

天正10年 1582年 3月19日 25歳
織田信長津田信澄菅屋長頼矢部家定堀秀政長谷川秀一福富秀勝、氏家行継、竹中重矩、原長頼蒲生氏郷細川忠興池田元助蜂屋頼隆、阿閉貞征、不破直光高山重友中川清秀明智光秀丹羽長秀筒井順慶等が諏訪の法花寺(信濃国)に陣取る。
出典:『信長公記』巻15(14)「人数備への事」

天正10年 1582年 3月24日 25歳
織田信長武田勝頼攻めに参陣した諸将に深志(信濃国)にて扶持米を与える。
出典:『信長公記』巻15(17)「諸卒に御扶持米下さるるの事」

天正10年 1582年 3月29日 25歳
織田信長が武田家の遺領の知行割を行う。甲斐国を川尻秀隆に、駿河国を徳川家康に、上野国一国・信濃国の小県郡・佐久郡を滝川一益に、信濃国の高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡を森長可に、信濃国の木曽谷・安曇郡・筑摩郡を木曽義昌に、信濃国の伊那郡を毛利秀頼に、信濃国の諏訪郡を穴山梅雪に、岩村(美濃国)を団忠正に、金山米田島(美濃国)は森成利に給付する
出典:『信長公記』巻15(19)「御国わりの事」

天正10年 1582年 4月5日 25歳
森長可海津城(信濃国)に、稲葉貞通が城代として飯山城(信濃国)に在城していたところ、芋川親正が飯山城に攻め入る。これを受け、織田信忠が援軍として団忠正を遣わす。
出典:『信長公記』巻15(22)「信州川中嶋表、森勝蔵働きの事」

天正10年 1582年 4月7日 25歳
長沼(信濃国)にて森長可と芋川親正勢が戦い、長可が勝利する。長可の勝利により、稲葉貞通の守る飯山城(信濃国)を攻めていた芋川勢が攻囲を解く。
出典:『信長公記』巻15(22)「信州川中嶋表、森勝蔵働きの事」

天正10年 1582年 6月2日 25歳
本能寺に宿泊中の織田信長を、早朝、明智光秀が襲撃する。信長は自害する。また、光秀は二条殿に籠城する織田信忠とその小姓勢を討ち取る。
信長勢:森成利(戦死)、福富秀勝(戦死)、野々村正成(戦死)。
信忠勢:村井貞勝(戦死)、菅屋長頼(戦死)、織田信房(戦死)、団忠正(戦死)。
出典:『多聞院日記』同年月日・3日条

天正10年 1582年 6月11日 25歳
森長可兼山城(美濃国)に入るべく、海津城(信濃国)を出立する。千曲川にて長可と小幡備中・春日周防が戦い、長可が勝利する。
出典:『兼山記』

天正12年 1584年 3月13日 27歳
池田元助森長可犬山城(尾張国)を攻め、落とす。
出典:(天正12年)3月26日付羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集成』2-993号、「佐竹文書」)

天正12年 1584年 3月17日 27歳
酒井忠次が楽田(尾張国)・羽黒(尾張国)・五郎丸(尾張国)を放火する。忠次が森長可の守る五郎丸砦(尾張国)を攻め、同砦を落とす。
徳川勢:酒井忠次、奥平信昌
羽柴勢:森長可。
出典:『当代記』巻2同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第65「酒井忠次」の項

天正12年 1584年 4月7日 27歳
徳川家康領の三河国を襲撃すべく羽柴秀次池田勝入斎森長可堀秀政が楽田(尾張国)を出陣し小牧(尾張国)に陣取る。
出典:『豊鑑』巻2

天正12年 1584年 4月9日 27歳
池田勝入斎池田元助森長可丹羽氏重の籠る岩崎城(尾張国)を攻め、同城を落とす。氏重は戦死する。
小牧・長久手にて、織田信雄徳川家康羽柴秀次・勝入斎・元助・長可・堀秀政を襲撃する。秀次勢は敗走し、勝入斎・元助・長可が戦死する。
羽柴秀次勢:秀次、恒興(戦死)、元助(戦死)、長可(戦死)、秀政。
徳川家康勢:榊原康政大須賀康高、本多康重、丹羽氏次酒井重忠永井直勝(池田勝入斎討取)、渥美友重(首級2)、駒井昌長折井次昌[岡本彦次郎討取]、野呂守景、秋鹿朝矩(戦死)、加藤正次酒井忠次[小牧山本陣留守居衆]、石川数正[小牧山本陣留守居衆]
勝入斎戦死の報を受け、豊臣秀吉は楽田(尾張国)を出撃するも、信雄・家康勢は小幡要害に籠ったため、楽田に引き返す。
出典:『豊鑑』巻2、『宇野主水記』同年月日条、『寛政重修諸家譜』巻第59「酒井重忠」の項、同巻第85「丹羽氏次」の項、同巻第100「榊原康政」の項、同巻第157「駒井昌長」の項、同961「渥美友重」の項、同777「加藤正次」の項、同965「秋鹿朝矩」の項、同1153「野呂守景」の項

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