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人 物 史
以仁王
もちひとおう
生 没 年
仁平1年(1151)-治承4年(1180)5/26
在 位
-
名
-
父
後白河天皇
母
藤原成子
兄 弟 姉 妹
-
配 偶 者
八条院女房、藤原 忠成の娘、八条院三位局、殷富門院治部卿局
子
北陸宮、道尊、真性、道性、仁誉、三条宮
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
以仁王 年表
仁平1年 1151年 -月-日 1歳
以仁王
が生まれる。
出典:-
仁平1年 1151年 1月26日 1歳
「久安」より「仁平」に年号が改まる。
出典:-
久寿1年 1154年 10月28日 4歳
「仁平」より「久寿」に年号が改まる。
出典:-
保元1年 1156年 4月27日 6歳
「久寿」より「保元」に年号が改まる。
出典:-
平治1年 1159年 4月20日 9歳
「保元」より「平治」に年号が改まる。
出典:-
永暦1年 1160年 1月10日 10歳
「平治」より「永暦」に年号が改まる。
出典:-
応保1年 1161年 9月4日 11歳
「永暦」より「応保」に年号が改まる。
出典:-
長寛1年 1163年 3月29日 13歳
「応保」より「長寛」に年号が改まる。
出典:-
永万1年 1165年 6月5日 15歳
「長寛」より「永万」に年号が改まる。
出典:-
仁安1年 1166年 8月27日 16歳
「永万」より「仁安」に年号が改まる。
出典:-
嘉応1年 1169年 4月8日 19歳
「仁安」より「嘉応」に年号が改まる。
出典:-
承安1年 1171年 4月21日 21歳
「嘉応」より「承安」に年号が改まる。
出典:-
安元1年 1175年 7月28日 25歳
「承安」より「安元」に年号が改まる。
出典:-
治承1年 1177年 8月4日 27歳
「安元」より「治承」に年号が改まる。
出典:-
治承4年 1180年 4月9日 30歳
源頼政
が、
平清盛
を討つため、子・源仲綱を
以仁王
のもとに遣わし、平家討滅の企てに誘う。
以仁王
はその企てにのり令旨を源氏に下す。
源頼朝
への令旨は源行家に託し遣わす。
出典:『吾妻鏡』同年月日条
治承4年 1180年 4月27日 30歳
以仁王
の令旨が北条館(伊豆国)にいる
源頼朝
のもとに届く。
出典:『吾妻鏡』同年月日条
治承4年 1180年 5月15日 30歳
以仁王
の平家追討の令旨が平氏に露見。
以仁王
を土佐国に配流する宣旨が下る。検非違使の源兼綱・源光長が
以仁王
のいる高倉御所に派遣される。事前に追捕の動きを知った
源頼政
は
以仁王
にその旨を伝える。
以仁王
は高倉御所から逃れ
三井寺
に向かう。高倉御所では長谷部信連が検非違使と交戦し光長の郎党5、6名が負傷する。
出典:『吾妻鏡』同年月日条・5月19日条
治承4年 1180年 5月16日 30歳
以仁王
のいた高倉御所が検非違使によって包囲される。検非違使の勢は建物の天井を破り、板敷を外すなどして
以仁王
を捜索するが見当たらず。
以仁王
の子息が八条院にいたので平頼盛が精兵を率い八条御所に向かい
以仁王
子息を生捕り六波羅に帰還する。
出典:『吾妻鏡』同年月日条
治承4年 1180年 5月19日 30歳
以仁王
は
三井寺
衆徒の援助を受け、同寺法輪院に御所を構える。
源頼政
が近衛河原の自邸を自焼し、一族郎党を引き連れ三井寺に向かい
以仁王
と合流する。
出典:『吾妻鏡』同年月日条
治承4年 1180年 5月21日 30歳
5月23日に
平宗盛
・平頼盛・平教盛・
平知盛
・
平維盛
・平資盛・平清経・
平重衡
を大将として
園城寺
を攻めることが勅定により決定する。
出典:『玉海』同年月日条
治承4年 1180年 5月23日 30歳
三井寺
衆徒が城を構え、堀を深くするなど防備を固める。また平家追討について
以仁王
と三井寺衆徒が詮議する。
出典:『吾妻鏡』同年月日条
治承4年 1180年 5月26日 30歳
以仁王
、
源頼政
が籠る
三井寺
に兵が集まらなかったため、両人は南都を頼むべく三井寺を出る。
平知盛
、
平維盛
が
以仁王
・
源頼政
を追撃し、宇治(山城国)にて合戦となり、光明山鳥居前にて
以仁王
、
源頼政
が戦死する。頼政の首はさらされるが、本人ではないとの噂が流れる。
出典:『吾妻鏡』同年月日条
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