人 物 史

以仁王 もちひとおう
生 没 年仁平1年(1151)-治承4年(1180)5/26
在 位-
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後白河天皇藤原成子
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者八条院女房、藤原 忠成の娘、八条院三位局、殷富門院治部卿局
北陸宮、道尊、真性、道性、仁誉、三条宮
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
以仁王 年表
和暦 西暦 年齢 事項 出典
仁平1年1151--1以仁王が生まれる。-
治承4年11804930源頼政が、平清盛を討つため、子・源仲綱を以仁王のもとに遣わし、平家討滅の企てに誘う。以仁王はその企てにのり令旨を源氏に下す。源頼朝への令旨は源行家に託し遣わす。『吾妻鏡』同年月日条
治承4年118042730以仁王の令旨が北条館(伊豆国)にいる源頼朝のもとに届く。『吾妻鏡』同年月日条
治承4年118051530以仁王の平家追討の令旨が平氏に露見。以仁王を土佐国に配流する宣旨が下る。検非違使の源兼綱・源光長が以仁王のいる高倉御所に派遣される。事前に追捕の動きを知った源頼政以仁王にその旨を伝える。以仁王は高倉御所から逃れ三井寺に向かう。高倉御所では長谷部信連が検非違使と交戦し光長の郎党5、6名が負傷する。『吾妻鏡』同年月日条・5月19日条
治承4年118051630以仁王のいた高倉御所が検非違使によって包囲される。検非違使の勢は建物の天井を破り、板敷を外すなどして以仁王を捜索するが見当たらず。以仁王の子息が八条院にいたので平頼盛が精兵を率い八条御所に向かい以仁王子息を生捕り六波羅に帰還する。『吾妻鏡』同年月日条
治承4年118051930以仁王三井寺衆徒の援助を受け、同寺法輪院に御所を構える。
源頼政が近衛河原の自邸を自焼し、一族郎党を引き連れ三井寺に向かい以仁王と合流する。
『吾妻鏡』同年月日条
治承4年1180521305月23日に平宗盛・平頼盛・平教盛・平知盛平維盛・平資盛・平清経・平重衡を大将として園城寺を攻めることが勅定により決定する。『玉海』同年月日条
治承4年118052330三井寺衆徒が城を構え、堀を深くするなど防備を固める。また平家追討について以仁王と三井寺衆徒が詮議する。『吾妻鏡』同年月日条
治承4年118052630以仁王源頼政が籠る三井寺に兵が集まらなかったため、両人は南都を頼むべく三井寺を出る。平知盛平維盛以仁王源頼政を追撃し、宇治(山城国)にて合戦となり、光明山鳥居前にて以仁王源頼政が戦死する。頼政の首はさらされるが、本人ではないとの噂が流れる。『吾妻鏡』同年月日条
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