人 物 史

平維盛 たいらのこれもり
生 没 年保元3年(1158)-寿永3年(1184)3/28
出 身山城国京都幼 名-
別 称惟盛
法 名浄円
戒 名千手院殿前三位中将義山貞公大居士
平重盛-
兄 弟 姉 妹平維盛、平資盛、平清経、平有盛、平師盛、平忠房、平宗実
配 偶 者藤原成親の娘
平高清
官 位蔵人頭、右近衛権中将
役 職-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ平維盛の関連文化財
平維盛 年表
保元3年 1158年 -月-日 1歳
平維盛が生まれる。
出典:-

平治1年 1159年 4月20日 2歳
「保元」より「平治」に年号が改まる。
出典:-

永暦1年 1160年 1月10日 3歳
「平治」より「永暦」に年号が改まる。
出典:-

応保1年 1161年 9月4日 4歳
「永暦」より「応保」に年号が改まる。
出典:-

長寛1年 1163年 3月29日 6歳
「応保」より「長寛」に年号が改まる。
出典:-

永万1年 1165年 6月5日 8歳
「長寛」より「永万」に年号が改まる。
出典:-

仁安1年 1166年 8月27日 9歳
「永万」より「仁安」に年号が改まる。
出典:-

嘉応1年 1169年 4月8日 12歳
「仁安」より「嘉応」に年号が改まる。
出典:-

承安1年 1171年 4月21日 14歳
「嘉応」より「承安」に年号が改まる。
出典:-

安元1年 1175年 7月28日 18歳
「承安」より「安元」に年号が改まる。
出典:-

治承1年 1177年 8月4日 20歳
「安元」より「治承」に年号が改まる。
出典:-

治承3年 1179年 閏7月29日 22歳
父・重盛が死去する。
出典:-

治承4年 1180年 5月15日 23歳
以仁王の平家追討の令旨が平氏に露見。以仁王を土佐国に配流する宣旨が下る。検非違使の源兼綱・源光長が以仁王のいる高倉御所に派遣される。事前に追捕の動きを知った源頼政以仁王にその旨を伝える。以仁王は高倉御所から逃れ三井寺に向かう。高倉御所では長谷部信連が検非違使と交戦し光長の郎党5、6名が負傷する。
出典:『吾妻鏡』同年月日条・5月19日条

治承4年 1180年 5月16日 23歳
以仁王のいた高倉御所が検非違使によって包囲される。検非違使の勢は建物の天井を破り、板敷を外すなどして以仁王を捜索するが見当たらず。以仁王の子息が八条院にいたので平頼盛が精兵を率い八条御所に向かい以仁王子息を生捕り六波羅に帰還する。
出典:『吾妻鏡』同年月日条

治承4年 1180年 5月19日 23歳
以仁王三井寺衆徒の援助を受け、同寺法輪院に御所を構える。
源頼政が近衛河原の自邸を自焼し、一族郎党を引き連れ三井寺に向かい以仁王と合流する。
出典:『吾妻鏡』同年月日条

治承4年 1180年 5月21日 23歳
5月23日に平宗盛・平頼盛・平教盛・平知盛平維盛・平資盛・平清経・平重衡を大将として園城寺を攻めることが勅定により決定する。
出典:『玉海』同年月日条

治承4年 1180年 5月26日 23歳
以仁王源頼政が籠る三井寺に兵が集まらなかったため、両人は南都を頼むべく三井寺を出る。平知盛平維盛以仁王源頼政を追撃し、宇治(山城国)にて合戦となり、光明山鳥居前にて以仁王源頼政が戦死する。頼政の首はさらされるが、本人ではないとの噂が流れる。
出典:『吾妻鏡』同年月日条

治承5年 1181年 閏2月4日 24歳
祖父・清盛が死去する。
出典:-

養和1年 1181年 7月14日 24歳
「治承」より「養和」に年号が改まる。
出典:-

寿永1年 1182年 5月27日 25歳
「養和」より「寿永」に年号が改まる。
源頼朝は「治承」年号を復して用いる。
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寿永2年 1183年 5月13日 26歳
俱利伽羅峠にて平維盛源義仲が戦い、義仲が勝利する。平惟時が戦死する。
出典:『北条九代記』上

寿永2年 1183年 7月25日 26歳
源義仲延暦寺に陣取る。 平宗盛は安徳天皇を連れ西国に逃れる。
出典:『北条九代記』上

寿永3年・治承8年 1184年 2月4日 27歳
平宗盛等が一谷(摂津国)に城を構え軍勢を集める。
出典:-

寿永3年・治承8年 1184年 2月7日 27歳
一ノ谷(摂津国)にて源範頼・源義経平宗盛平知盛が戦い、範頼・義経が勝利する。平忠度平経正平敦盛が戦死する。
出典:-

寿永3年 1184年 3月28日 27歳
平維盛が死去する。
出典:-

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