人 物 史

平宗盛 たいらのむねもり
生 没 年久安3年(1147)-元暦2年(1185)6/21
出 身-幼 名-
別 称屋島大臣
法 名-
戒 名-
平清盛平時子
兄 弟 姉 妹平重盛、平基盛、平宗盛平知盛、平徳子、平盛子、平重衡、平維俊、平知度、平清房、平完子
配 偶 者平清子
平清宗、平能宗、某、某、娘(平通盛の妻)
官 位内大臣
役 職-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ平宗盛の関連文化財
平宗盛 年表
久安3年 1147年 -月-日 1歳
平宗盛が生まれる。
出典:-

仁平1年 1151年 1月26日 5歳
「久安」より「仁平」に年号が改まる。
出典:-

仁平2年 1152年 -月-日 6歳
弟・知盛が生まれる。
出典:-

仁平3年 1153年 1月15日 7歳
祖父・忠盛が死去する。
出典:-

久寿1年 1154年 10月28日 8歳
「仁平」より「久寿」に年号が改まる。
出典:-

保元1年 1156年 4月27日 10歳
「久寿」より「保元」に年号が改まる。
出典:-

保元2年 1157年 -月-日 11歳
弟・重衡が生まれる。
出典:-

平治1年 1159年 4月20日 13歳
「保元」より「平治」に年号が改まる。
出典:-

永暦1年 1160年 1月10日 14歳
「平治」より「永暦」に年号が改まる。
出典:-

永暦1年 1160年 3月11日 14歳
平清盛源頼朝を伊豆国に流す。
出典:『吾妻鏡』治承4年4月27日条

応保1年 1161年 9月4日 15歳
「永暦」より「応保」に年号が改まる。
出典:-

長寛1年 1163年 3月29日 17歳
「応保」より「長寛」に年号が改まる。
出典:-

永万1年 1165年 6月5日 19歳
「長寛」より「永万」に年号が改まる。
出典:-

仁安1年 1166年 8月27日 20歳
「永万」より「仁安」に年号が改まる。
出典:-

嘉応1年 1169年 4月8日 23歳
「仁安」より「嘉応」に年号が改まる。
出典:-

承安1年 1171年 4月21日 25歳
「嘉応」より「承安」に年号が改まる。
出典:-

安元1年 1175年 7月28日 29歳
「承安」より「安元」に年号が改まる。
出典:-

治承1年 1177年 8月4日 31歳
「安元」より「治承」に年号が改まる。
出典:-

治承3年 1179年 閏7月29日 33歳
兄・重盛が死去する。
出典:-

治承4年 1180年 3月17日 34歳
園城寺僧徒が延暦寺興福寺とともに鳥羽法皇、高倉上皇をさらうとの風聞があったため、平宗盛・平通盛・平経正が鳥羽殿を平知盛が高倉上皇の御所を警固する。
出典:『玉海』同年月日条

治承4年 1180年 5月15日 34歳
以仁王の平家追討の令旨が平氏に露見。以仁王を土佐国に配流する宣旨が下る。検非違使の源兼綱・源光長が以仁王のいる高倉御所に派遣される。事前に追捕の動きを知った源頼政以仁王にその旨を伝える。以仁王は高倉御所から逃れ三井寺に向かう。高倉御所では長谷部信連が検非違使と交戦し光長の郎党5、6名が負傷する。
出典:『吾妻鏡』同年月日条・5月19日条

治承4年 1180年 5月16日 34歳
以仁王のいた高倉御所が検非違使によって包囲される。検非違使の勢は建物の天井を破り、板敷を外すなどして以仁王を捜索するが見当たらず。以仁王の子息が八条院にいたので平頼盛が精兵を率い八条御所に向かい以仁王子息を生捕り六波羅に帰還する。
出典:『吾妻鏡』同年月日条

治承4年 1180年 5月19日 34歳
以仁王三井寺衆徒の援助を受け、同寺法輪院に御所を構える。
源頼政が近衛河原の自邸を自焼し、一族郎党を引き連れ三井寺に向かい以仁王と合流する。
出典:『吾妻鏡』同年月日条

治承4年 1180年 5月21日 34歳
5月23日に平宗盛・平頼盛・平教盛・平知盛平維盛・平資盛・平清経・平重衡を大将として園城寺を攻めることが勅定により決定する。
出典:『玉海』同年月日条

治承4年 1180年 5月26日 34歳
以仁王源頼政が籠る三井寺に兵が集まらなかったため、両人は南都を頼むべく三井寺を出る。平知盛平維盛以仁王源頼政を追撃し、宇治(山城国)にて合戦となり、光明山鳥居前にて以仁王源頼政が戦死する。頼政の首はさらされるが、本人ではないとの噂が流れる。
出典:『吾妻鏡』同年月日条

治承4年 1180年 12月11日 34歳
平清盛の命により、平重衡園城寺を焼き討ちする。
出典:-

治承5年 1181年 閏2月4日 35歳
父・清盛が死去する。
出典:-

養和1年 1181年 7月14日 35歳
「治承」より「養和」に年号が改まる。
出典:-

寿永1年 1182年 5月27日 36歳
「養和」より「寿永」に年号が改まる。
源頼朝は「治承」年号を復して用いる。
出典:-

寿永2年 1183年 5月13日 37歳
俱利伽羅峠にて平維盛源義仲が戦い、義仲が勝利する。平惟時が戦死する。
出典:『北条九代記』上

寿永2年 1183年 7月25日 37歳
源義仲延暦寺に陣取る。 平宗盛は安徳天皇を連れ西国に逃れる。
出典:『北条九代記』上

寿永3年・治承8年 1184年 1月21日 38歳
粟津(近江国)にて源範頼・源義経源義仲が戦い、義仲は戦死する。
出典:-

寿永3年・治承8年 1184年 2月4日 38歳
平宗盛等が一谷(摂津国)に城を構え軍勢を集める。
出典:-

寿永3年・治承8年 1184年 2月7日 38歳
一ノ谷(摂津国)にて源範頼・源義経平宗盛平知盛が戦い、範頼・義経が勝利する。平忠度平経正平敦盛が戦死する。
出典:-

寿永3年 1184年 3月28日 38歳
甥・維盛が死去する。
出典:-

元暦1年 1184年 4月16日 38歳
源頼朝が「治承」より「元暦」に年号を改める。
平宗盛は「寿永」年号を継続して用いる。
出典:-

寿永4年 1185年 3月24日 39歳
壇ノ浦にて源義経平宗盛が戦い、義経が勝利する。安徳天皇は平時子とともに入水自殺する。平教盛、平経盛、平知盛、平忠房、平行盛、平有盛も入水し死去する。宗盛、平清宗、平信忠は源氏勢に捕らえられる。
出典:『北条九代記』上

元暦2年 1185年 6月21日 39歳
篠原宿(近江国)にて源義経平宗盛を処刑する。
出典:-

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