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園城寺 三井寺(近江国)
おんじょうじ みいでら
本 尊
-
創 建
-
開 基
-
山 号
-
宗 派
天台宗
別 称
-
関連宗教施設
-
現 所 在 地
〒520-0036
滋賀県大津市園城寺町246
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旧 所 在 地
-
史 料 地 名
-
イ メ ー ジ
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
リ ン ク
-
園城寺 三井寺(近江国) 年表
治承4年 1180年 3月17日
園城寺
僧徒が
延暦寺
・
興福寺
とともに鳥羽法皇、高倉上皇をさらうとの風聞があったため、
平宗盛
・平通盛・
平経正
が鳥羽殿を
平知盛
が高倉上皇の御所を警固する。
出典:『玉海』同年月日条
治承4年 1180年 5月15日
以仁王
の平家追討の令旨が平氏に露見。
以仁王
を土佐国に配流する宣旨が下る。検非違使の源兼綱・源光長が
以仁王
のいる高倉御所に派遣される。事前に追捕の動きを知った
源頼政
は
以仁王
にその旨を伝える。
以仁王
は高倉御所から逃れ
三井寺
に向かう。高倉御所では長谷部信連が検非違使と交戦し光長の郎党5、6名が負傷する。
出典:『吾妻鏡』同年月日条・5月19日条
治承4年 1180年 5月16日
以仁王
のいた高倉御所が検非違使によって包囲される。検非違使の勢は建物の天井を破り、板敷を外すなどして
以仁王
を捜索するが見当たらず。
以仁王
の子息が八条院にいたので平頼盛が精兵を率い八条御所に向かい
以仁王
子息を生捕り六波羅に帰還する。
出典:『吾妻鏡』同年月日条
治承4年 1180年 5月19日
以仁王
は
三井寺
衆徒の援助を受け、同寺法輪院に御所を構える。
源頼政
が近衛河原の自邸を自焼し、一族郎党を引き連れ三井寺に向かい
以仁王
と合流する。
出典:『吾妻鏡』同年月日条
治承4年 1180年 5月21日
5月23日に
平宗盛
・平頼盛・平教盛・
平知盛
・
平維盛
・平資盛・平清経・
平重衡
を大将として
園城寺
を攻めることが勅定により決定する。
出典:『玉海』同年月日条
治承4年 1180年 5月23日
三井寺
衆徒が城を構え、堀を深くするなど防備を固める。また平家追討について
以仁王
と三井寺衆徒が詮議する。
出典:『吾妻鏡』同年月日条
治承4年 1180年 5月26日
以仁王
、
源頼政
が籠る
三井寺
に兵が集まらなかったため、両人は南都を頼むべく三井寺を出る。
平知盛
、
平維盛
が
以仁王
・
源頼政
を追撃し、宇治(山城国)にて合戦となり、光明山鳥居前にて
以仁王
、
源頼政
が戦死する。頼政の首はさらされるが、本人ではないとの噂が流れる。
出典:『吾妻鏡』同年月日条
治承4年 1180年 12月11日
平清盛
の命により、
平重衡
が
園城寺
を焼き討ちする。
出典:-
弘安10年 1287年 -月-日
園城寺
浄花坊の住僧・証賢が園城寺を出て、
花開院
に隠遁する。
出典:『真如堂縁起』
文保3年 1319年 4月25日
4/18、
園城寺
に勅使が派遣され供養が行われたことに立腹した
延暦寺
は園城寺に向かい
大津
(近江国)の在家や園城寺内の堂舎・仏閣・僧坊を一宇も残さず焼き払う。
出典:『文保三年記』同年月日条
文保3年 1319年 5月1日
園城寺
の大鐘を御室戸に運ぶのを聞きつけた
延暦寺
が、それを阻止しようと襲撃する。攻撃を加えた延暦寺僧のうち疵を負った者もあり、また西塔讃岐竪者は武士によって討たれたという。
出典:『文保三年記』同年月日条
永正10年 1513年 5月1日
足利義尹が甲賀(近江国)を発ち、
園城寺
に入る。
出典:『厳助往年記』同年月条
永禄1年 1558年 6月4日
足利義輝
・
細川晴元
の軍勢15000(『厳助大僧正記』。『言継卿記』では5000人)が如意嶽(山城国)に攻め入り、柵を設ける。鹿ヶ谷(山城国)を放火する。
三好長慶
勢と矢合わせをする。義輝・晴元は園城寺の上に城を構える。
出典:『言継卿記』『厳助大僧正記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条
永禄11年 1568年 9月23日
織田信長
が
園城寺
に出陣する。先陣が山科七郷(山城国)に陣取ると噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条
元亀1年 1570年 11月30日
朝倉勢の籠る堅田(近江国)を攻めを終えた
織田信長
に対し、
足利義昭
が
朝倉義景
との和睦を勧めるため
園城寺
に赴く。
出典:『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」
元亀3年 1572年 5月8日
足利義昭
が
園城寺
の光浄院暹慶(山岡景友)を上山城守護職に補任する。
出典:『兼見卿記』同年月日条
天正3年 1575年 11月5日
吉田兼見が
近衛信尹
のもとを訪れる。
聖護院道澄
が近所のいたので、以前、
三井寺
の灌頂の壇を見物させてもらったことへの礼として兼見とともに赴く。
出典:『兼見卿記』同年月日条
慶長19年 1614年 11月6日
中井正清
が園城寺本覚坊からの訴えとして、照高院道勝ほか園城寺僧7名が関東調伏の法を
豊臣秀頼
からの依頼として行っていると、
二条城
(山城国)にいる
徳川家康
に訴える。家康は不快の念を示し、
板倉勝重
に命じて7名の僧を呼び出し尋問する庸命じる。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 11月8日
南光坊天海
が
二条城
(山城国)にいる
徳川家康
に対面する。薬樹院・竹林坊が家康に出仕する。
日野唯心
、
金地院崇伝
、公家衆が家康のもとに出仕する。
家康が
園城寺
(近江国)寺僧、法泉院、光浄院を召し出し、崇伝をもって、本覚坊から訴えのあった照高院道勝による関東調伏の件を尋ねる。園城寺僧は本覚坊は不義僧で、最近は
大徳寺
(山城国)を徘徊しており、照高院道勝と園城寺僧と関係が悪く、ゆえにこの訴えのような虚説を述べているという。以前、園城寺は聖護院・実相院・円満院の三門跡で管理していたが、
豊臣秀吉
の命により聖護院一人による管理となったため、近年は照高院道勝と園城寺の関係は悪い。したがって照高院道勝と園城寺が一体となって関東調伏をすることはありえないと回答する。この回答をうけ、本覚坊を呼び出し反論がないか確かめるようにと家康は指示する。
出典:『駿府記』同年月日条
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