人 物 史

尼子国久 あまご くにひさ
生 没 年明応1年(1492)-天文23年(1554)11/1
出 身-幼 名-
別 称孫四郎
法 名-
戒 名-
尼子経久-
兄 弟 姉 妹尼子政久尼子国久塩冶興久
配 偶 者多胡忠重の娘
尼子誠久尼子豊久尼子敬久
官 位紀伊守、刑部少輔
役 職-
城 郭-
参 考 文 献尼子国久に関する参考文献
関 連 デ ー タ尼子国久の関連文化財
尼子国久 年表
明応1年 1492年 -月-日 1歳
尼子国久が生まれる。
出典:-

明応1年 1492年 7月19日 1歳
「延徳」より「明応」に年号が改まる。
出典:-

明応6年 1497年 -月-日 6歳
弟・塩冶興久が生まれる。
出典:-

文亀1年 1501年 2月29日 10歳
「明応」より「文亀」に年号が改まる。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正1年 1504年 2月30日 13歳
「文亀」より「永正」に年号が改まる。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正7年 1510年 -月-日 19歳
子・誠久が生まれる。
出典:-

永正11年 1514年 2月12日 23歳
甥・晴久が生まれる。
出典:-

永正15年 1518年 8月-日 27歳
尼子経久が阿与城(出雲国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻4「尼子伊予守経久攻雲州阿与ノ城事」

永正15年 1518年 9月6日 27歳
阿与城(出雲国)攻めの最中、兄・政久が阿与宗的に射殺される。
出典:『陰徳太平記』巻4「尼子伊予守経久攻雲州阿与ノ城事」

永正15年 1518年 9月7日 27歳
尼子経久が阿与宗的の籠る阿与城(出雲国)を総攻めし、宗的を討ち取り、同城を落とす。この総攻めに尼子国久塩冶興久、亀井安綱、牛尾幸清、宇山久兼、横道、森脇、川等が参加する。
出典:『陰徳太平記』巻4「尼子伊予守経久攻雲州阿与ノ城事」

大永1年 1521年 8月23日 30歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
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享禄1年 1528年 8月20日 37歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
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享禄1年 1528年 12月20日 37歳
大内義興が死去する。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 41歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
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天文1年 1532年 8月8日 41歳
尼子経久塩冶興久方の佐陀城(出雲国)を攻める。尼子国久が城攻めに加わる。
出典:『陰徳太平記』巻7「雲州佐陀ノ城没落ノ事」

天文3年 1534年 8月10日 43歳
弟・塩冶興久が死去する。
出典:-

天文9年 1540年 8月10日 49歳
尼子詮久吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を攻めるべく、月山富田城(出雲国)を出陣する。一門衆として尼子久幸、尼子経貞、尼子国久尼子誠久尼子豊久尼子敬久が、国衆として小鴨氏、庄氏、三村氏、石川氏、細川氏、伊勢氏、山内氏、高野山氏、木梨氏、池上氏、三吉氏、宮氏、杉原氏、三沢為幸、三刀屋久祐、浅山、宍道、佐波隆連、本城常光、羽根氏、福屋隆兼、岡本正長、小笠原長徳、周布氏、祖式氏、吉川興経武田信実、尼子家家臣として亀井安綱、佐世清宗、河本隆任、牛尾幸清、湯原宗綱、川副常重、川副久盛、宇山久信、秋上綱平、中井久包、中井平蔵兵衛、高尾久友、黒正久澄、立原久光、三刀屋蔵人、森脇勝正、森脇清平、横道清高、多胡辰敬、古志吉信、熊野久家、熊野次郎、米原広綱、湯惟宗、湯家経、馬田慶信、山中氏、神西氏、広田氏、桜井氏、原氏、吉岡氏、疋田氏、遠藤氏、池田氏、相良氏、大西氏、本田氏、平野氏、津森氏、松田氏等が出陣する。総勢48000とされる。
出典:『陰徳太平記』巻10「尼子晴久吉田発向之事」

天文9年 1540年 9月4日 49歳
尼子詮久が多治比に陣取る。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 9月5日 49歳
尼子詮久が吉田上村(安芸国)に出勢し、家を放火する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 9月6日 49歳
尼子詮久毛利元就の居城・吉田郡山城(安芸国)の太郎丸および町屋等を放火する。
太郎丸にて尼子勢の川副常重、黒正兵衛、湯信濃守、広田宗意、桜井左衛門尉、馬田長兵衛、黒田采女等の軍勢4500と毛利勢の福原貞俊桂元澄、児玉就忠、粟屋元信、口羽通良、国司元相、坂新五郎左衛門、渡辺通、内藤、三戸、佐藤、飯田、麻原、桜井が戦い、毛利勢が勝利する。
坂にて尼子勢の湯原宗綱と毛利勢の援軍としてやってきた梨羽景盛・赤川左京亮、南方宮内少輔、秋山隼人、羽二藤兵衛、中村豊後守、波多野源兵衛、井上源五郎、井上源三郎、井上右衛門太夫、井上与三右衛門、山県弥三郎が戦い、弥三郎が宗綱を討ち取る。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」、『陰徳太平記』巻10「太郎丸並池内合戦付湯原弥次郎討死之事」

天文9年 1540年 9月9日 49歳
尼子勢の本城常光、赤穴幸清、湯家経が後小路を攻める。遣分にて毛利勢の渡辺通、門田宮内少輔、三田能登守、山県筑後守、天野紀伊守、井上与三右衛門、井上新三郎、児玉三郎右衛門、三戸小三郎、赤川十郎左衛門、庄原木工頭、志道源三、渡辺新右衛門、児玉左衛門太郎、二宮則阿弥、飛落小次郎等が応戦する。
出典:『陰徳太平記』巻10「遣分合戦之事」

天文9年 1540年 9月12日 49歳
尼子詮久毛利元就の居城・吉田郡山城(安芸国)の大田口・広修寺縄手口・祇園縄手口を攻める。元就は応戦する。大田口にで大合戦が行われる。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」

天文9年 1540年 9月23日 49歳
尼子詮久が青山三塚山に陣替えする。毛利元就は尼子本陣の風越山を急襲する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 9月26日 49歳
尼子詮久が坂に陣取っていた杉元相・小早川興景を攻める。毛利元就は坂に赴き、尼子勢と闘う。尼子方の湯原宗綱が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 10月11日 49歳
尼子詮久が郷内にいつものごとく軍勢を遣わしたところ、毛利元就が出撃し、尼子勢を青山構まで追い払う。尼子方の三沢為幸が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 12月3日 49歳
陶隆房尼子詮久の攻撃を受けている吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を救援すべく、軍勢10000をもって山田中山に陣取る。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文9年 1540年 12月11日 49歳
宮崎・長尾(安芸国)にて尼子詮久方の南条・小鴨・吉川・高橋と毛利元就・宍戸勢が戦う。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 11月26日 49歳
尼子晴久の攻撃を受けている吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を救援するため、陶隆房を大将とする大内勢が山口(周防国)を出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文10年 1541年 1月3日 50歳
尼子詮久吉田郡山城(安芸国)を攻める。相合口にて尼子勢と毛利元就が戦う。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文10年 1541年 1月11日 50歳
陶隆房が天神山に陣替えする。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」、『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文10年 1541年 1月13日 50歳
吉田郡山城(安芸国)に籠る毛利元就が、城攻めのため宮崎・長尾(安芸国)に陣を張る尼子詮久を攻める。元就の攻撃に、陶隆房も呼応し、詮久は敗れて出雲国に撤退する。この戦いで、隆房被官の深野興房・宮川興広が、尼子方は尼子久幸・三沢為幸・高尾豊前守が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」

天文10年 1541年 11月13日 50歳
父・経久が死去する。
出典:-

天文12年 1543年 7月3日 52歳
尼子晴久が石見国に侵攻する。
出典:『陰徳太平記』巻14「尼子晴久石州発向之事」

天文12年 1543年 7月14日 52歳
尼子晴久が秋上三郎左衛門、立原備前守、森脇長門守を先陣として久利城(石見国)を攻め、同城を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻14「尼子晴久石州発向之事」

天文13年 1544年 7月26日 53歳
尼子国久誠久敬久父子、亀井安綱、牛尾幸清、平野又右衛門、神西三郎左衛門、池田、川副、宇山、松田、村井、熊野率いる尼子勢7000の攻撃を受けた三吉広隆を救援すべく、毛利元就が粟屋信賢、粟屋太郎左衛門、井上就信、福原貞俊、児玉就忠、長屋吉親を三吉(備後国)に遣わす。
出典:『陰徳太平記』巻14「備後国府野合戦之事」

天文13年 1544年 7月28日 53歳
国府野(備後国)にて尼子国久誠久敬久父子率いる尼子勢と三吉広隆及び福原貞俊・児玉就忠率いる毛利勢が戦い、国久が勝利する。
出典:『陰徳太平記』巻14「備後国府野合戦之事」

天文13年 1544年 10月-日 53歳
尼子国久誠久敬久父子、川副久盛、森脇長門守率いる尼子勢5000が小早川繁平の高山城(安芸国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻15「尼子国久父子備作働キ之事」

天文13年 1544年 11月-日 53歳
尼子国久誠久敬久父子、川副久盛、森脇長門守率いる尼子勢5000が高田(美作国)・篠茨(美作国)・井王山(美作国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻15「尼子国久父子備作働キ之事」

天文15年 1546年 6月28日 55歳
橋津川(伯耆国)にて尼子国久豊久父子と武田国信・行松正盛・長田重直・南条元清・小森久綱が戦い、国久が勝利する。尼子勢は豊久が、武田等勢は国信が戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻第11「橋津川合戦付尼子兵部太輔戦死並武田山城守最後之事」

天文20年 1551年 9月1日 60歳
大内義隆陶隆房の謀叛にあい大寧寺にて自害する。
出典:『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『厳助大僧正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻19「義隆卿自害並大寧寺炎焼之事」

天文21年 1552年 5月-日 61歳
泉(備後国)にて毛利元就尼子晴久が戦う。この戦いに尼子勢として参加する。
出典:『陰徳太平記』巻21「備後国泉合戦之事」

天文22年 1553年 3月-日 62歳
尼子晴久が美作国に向けて出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻22「尼子晴久作州働付高田合戦並真木射大蛇事」

天文22年 1553年 5月13日 62歳
高田(美作国)にて尼子晴久浦上宗景が戦う。
出典:『陰徳太平記』巻22「尼子晴久作州働付高田合戦並真木射大蛇事」

天文22年 1553年 5月22日 62歳
高田(美作国)にて尼子晴久浦上宗景が戦い、晴久が勝利する。宗景は天神山城(備前国)に撤退する。この戦いに尼子勢として参加する。
出典:『陰徳太平記』巻22「尼子晴久作州働付高田合戦並真木射大蛇事」

天文23年 1554年 11月1日 63歳
尼子晴久尼子国久誠久父子の殺害を命じ、国久は月山富田城(出雲国)登城中に討たれ、誠久は館にて自害する。
出典:-

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