人 物 史

尼子晴久 あまご はるひさ
生 没 年永正11年(1514)2/12-永禄3年(1560)12/24
出 身-幼 名-
別 称三郎四郎、三郎、詮久
法 名-
戒 名-
尼子政久-
兄 弟 姉 妹尼子千代童子、尼子晴久
配 偶 者尼子国久の娘
尼子義久、尼子倫久、尼子秀久
官 位民部少輔、修理大夫
役 職室町幕府 相伴衆
出雲国守護
城 郭月山富田城(出雲国)
参 考 文 献尼子晴久に関する参考文献
関 連 デ ー タ尼子晴久の家臣
尼子晴久の関連文化財
尼子晴久 年表
永正11年 1514年 2月12日 1歳
尼子晴久が生まれる。
出典:-

永正15年 1518年 9月6日 5歳
阿与城(出雲国)攻めの最中、父・政久が阿与宗的に射殺される。
出典:『陰徳太平記』巻4「尼子伊予守経久攻雲州阿与ノ城事」

大永1年 1521年 8月23日 8歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
出典:-

享禄1年 1528年 8月20日 15歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

享禄1年 1528年 12月20日 15歳
大内義興が死去する。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 19歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文3年 1534年 8月10日 21歳
叔父・塩冶興久が死去する。
出典:-

天文7年 1538年 9月4日 25歳
揖斐光親本願寺証如へ送った書状が証如のもとに届く。尼子詮久が播磨国へ攻め入ることを知らせる。また、美濃国がいまだ統一されていない状況であることを伝え、近日中に軍事行動を起こすので、その際に真宗門徒が味方となるように命令を下してくれれば祝着であると伝える。
出典:『天文日記』同年月日条

天文9年 1540年 8月10日 27歳
尼子詮久吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を攻めるべく、月山富田城(出雲国)を出陣する。一門衆として尼子久幸、尼子経貞、尼子国久尼子誠久尼子豊久尼子敬久が、国衆として小鴨氏、庄氏、三村氏、石川氏、細川氏、伊勢氏、山内氏、高野山氏、木梨氏、池上氏、三吉氏、宮氏、杉原氏、三沢為幸、三刀屋久祐、浅山、宍道、佐波隆連、本城常光、羽根氏、福屋隆兼、岡本正長、小笠原長徳、周布氏、祖式氏、吉川興経武田信実、尼子家家臣として亀井安綱、佐世清宗、河本隆任、牛尾幸清、湯原宗綱、川副常重、川副久盛、宇山久信、秋上綱平、中井久包、中井平蔵兵衛、高尾久友、黒正久澄、立原久光、三刀屋蔵人、森脇勝正、森脇清平、横道清高、多胡辰敬、古志吉信、熊野久家、熊野次郎、米原広綱、湯惟宗、湯家経、馬田慶信、山中氏、神西氏、広田氏、桜井氏、原氏、吉岡氏、疋田氏、遠藤氏、池田氏、相良氏、大西氏、本田氏、平野氏、津森氏、松田氏等が出陣する。総勢48000とされる。
出典:『陰徳太平記』巻10「尼子晴久吉田発向之事」

天文9年 1540年 9月4日 27歳
尼子詮久が多治比に陣取る。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 9月5日 27歳
尼子詮久が吉田上村(安芸国)に出勢し、家を放火する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 9月6日 27歳
尼子詮久毛利元就の居城・吉田郡山城(安芸国)の太郎丸および町屋等を放火する。
太郎丸にて尼子勢の川副常重、黒正兵衛、湯信濃守、広田宗意、桜井左衛門尉、馬田長兵衛、黒田采女等の軍勢4500と毛利勢の福原貞俊桂元澄、児玉就忠、粟屋元信、口羽通良、国司元相、坂新五郎左衛門、渡辺通、内藤、三戸、佐藤、飯田、麻原、桜井が戦い、毛利勢が勝利する。
坂にて尼子勢の湯原宗綱と毛利勢の援軍としてやってきた梨羽景盛・赤川左京亮、南方宮内少輔、秋山隼人、羽二藤兵衛、中村豊後守、波多野源兵衛、井上源五郎、井上源三郎、井上右衛門太夫、井上与三右衛門、山県弥三郎が戦い、弥三郎が宗綱を討ち取る。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」、『陰徳太平記』巻10「太郎丸並池内合戦付湯原弥次郎討死之事」

天文9年 1540年 9月9日 27歳
尼子勢の本城常光、赤穴幸清、湯家経が後小路を攻める。遣分にて毛利勢の渡辺通、門田宮内少輔、三田能登守、山県筑後守、天野紀伊守、井上与三右衛門、井上新三郎、児玉三郎右衛門、三戸小三郎、赤川十郎左衛門、庄原木工頭、志道源三、渡辺新右衛門、児玉左衛門太郎、二宮則阿弥、飛落小次郎等が応戦する。
出典:『陰徳太平記』巻10「遣分合戦之事」

天文9年 1540年 9月12日 27歳
尼子詮久毛利元就の居城・吉田郡山城(安芸国)の大田口・広修寺縄手口・祇園縄手口を攻める。元就は応戦する。大田口にで大合戦が行われる。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」

天文9年 1540年 9月23日 27歳
尼子詮久が青山三塚山に陣替えする。毛利元就は尼子本陣の風越山を急襲する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 9月26日 27歳
尼子詮久が坂に陣取っていた杉元相・小早川興景を攻める。毛利元就は坂に赴き、尼子勢と闘う。尼子方の湯原宗綱が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 10月11日 27歳
尼子詮久が郷内にいつものごとく軍勢を遣わしたところ、毛利元就が出撃し、尼子勢を青山構まで追い払う。尼子方の三沢為幸が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 12月3日 27歳
陶隆房尼子詮久の攻撃を受けている吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を救援すべく、軍勢10000をもって山田中山に陣取る。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文9年 1540年 12月11日 27歳
宮崎・長尾(安芸国)にて尼子詮久方の南条・小鴨・吉川・高橋と毛利元就・宍戸勢が戦う。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文9年 1540年 11月26日 27歳
尼子晴久の攻撃を受けている吉田郡山城(安芸国)の毛利元就を救援するため、陶隆房を大将とする大内勢が山口(周防国)を出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文9年 1540年 -月-日 27歳
子・義久が生まれる。
出典:-

天文10年 1541年 1月3日 28歳
尼子詮久吉田郡山城(安芸国)を攻める。相合口にて尼子勢と毛利元就が戦う。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)

天文10年 1541年 1月11日 28歳
陶隆房が天神山に陣替えする。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」、『陰徳太平記』巻12「大内勢後詰付宮崎合戦之事」

天文10年 1541年 1月13日 28歳
吉田郡山城(安芸国)に籠る毛利元就が、城攻めのため宮崎・長尾(安芸国)に陣を張る尼子詮久を攻める。元就の攻撃に、陶隆房も呼応し、詮久は敗れて出雲国に撤退する。この戦いで、隆房被官の深野興房・宮川興広が、尼子方は尼子久幸・三沢為幸・高尾豊前守が戦死する。
出典:毛利元就郡山籠城日記(『毛利家文書』1-286号)、『江濃記』「尼子合戦之事」

天文10年 1541年 4月5日 28歳
大内義隆が友田興藤の籠る桜尾城(安芸国)を攻め、同城を落とす。
出典:『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文10年 1541年 5月-日 28歳
大内義隆方の毛利元就が武田信重の籠る佐東銀山城(安芸国)を攻め、同城を落とす。信重は自害する。
出典:『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文10年 1541年 11月13日 28歳
祖父・経久が死去する。
出典:-

天文11年 1542年 1月12日 29歳
大内義隆月山富田城(出雲国)の尼子晴久を攻めるべく、山口(周防国)を出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻13「尼子経久逝去並ニ大内義隆雲州発向之事」

天文11年 1542年 2月-日 29歳
大内義隆尼子晴久を攻めるべく出雲国に向けて出陣する。陶隆房、内藤興盛、毛利元就等が参加する。新庄西禅寺に大内勢が陣取る。
出典:『江濃記』「京極生害之事」、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文11年 1542年 3月-日 29歳
大内義隆勢が出羽二山に陣取る。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文11年 1542年 3月-日 29歳
大内義隆赤穴城(出雲国)を攻め、同城を落とす。
出典:『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文11年 1542年 7月18日 29歳
毛利元就がつが東に陣取る。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文11年 1542年 7月19日 29歳
大内義隆勢の陶隆房・内藤興盛等が赤穴光清の赤穴城(出雲国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻13「尼子経久逝去並ニ大内義隆雲州発向之事」

天文11年 1542年 7月23日 29歳
大内義隆勢が赤穴光清の籠る赤穴城(出雲国)を包囲する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文11年 1542年 7月27日 29歳
大内義隆勢が赤穴光清の籠る赤穴城(出雲国)を攻め、同城を落とす。光清は戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻13「尼子経久逝去並ニ大内義隆雲州発向之事」、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文12年 1543年 1月21日 29歳
大内義隆が畦地山(出雲国)に本陣を置く。
出典:『陰徳太平記』巻13「富田菅谷蓮池合戦之事」

天文12年 1543年 2月12日 30歳
大内義隆が椋羅木山(出雲国)に本陣を移し、陶隆房が経塚(出雲国)に陣を置く。
出典:『陰徳太平記』巻13「富田菅谷蓮池合戦之事」

天文12年 1543年 5月7日 30歳
大内義隆が椋羅木山(出雲国)の本陣を払い、湯谷より船にて山口(周防国)に撤退せんとする。義隆の養子・晴持が海路にて周防国に帰国する最中、船が転覆して溺死する。
出典:『陰徳太平記』巻14「大内義隆朝臣殿軍付晴持最後之事」、『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)

天文12年 1543年 5月9日 30歳
鳶巣川(出雲国)にて尼子晴久勢と小早川正平が戦い、正平が戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻第14「小早川正平討死之事」

天文12年 1543年 7月3日 30歳
尼子晴久が石見国に侵攻する。
出典:『陰徳太平記』巻14「尼子晴久石州発向之事」

天文12年 1543年 7月14日 30歳
尼子晴久が秋上三郎左衛門、立原備前守、森脇長門守を先陣として久利城(石見国)を攻め、同城を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻14「尼子晴久石州発向之事」

天文13年 1544年 7月26日 31歳
尼子国久誠久敬久父子、亀井安綱、牛尾幸清、平野又右衛門、神西三郎左衛門、池田、川副、宇山、松田、村井、熊野率いる尼子勢7000の攻撃を受けた三吉広隆を救援すべく、毛利元就が粟屋信賢、粟屋太郎左衛門、井上就信、福原貞俊、児玉就忠、長屋吉親を三吉(備後国)に遣わす。
出典:『陰徳太平記』巻14「備後国府野合戦之事」

天文13年 1544年 7月28日 31歳
国府野(備後国)にて尼子国久誠久敬久父子率いる尼子勢と三吉広隆及び福原貞俊・児玉就忠率いる毛利勢が戦い、国久が勝利する。
出典:『陰徳太平記』巻14「備後国府野合戦之事」

天文13年 1544年 10月-日 31歳
尼子国久誠久敬久父子、川副久盛、森脇長門守率いる尼子勢5000が小早川繁平の高山城(安芸国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻15「尼子国久父子備作働キ之事」

天文13年 1544年 11月-日 31歳
尼子国久誠久敬久父子、川副久盛、森脇長門守率いる尼子勢5000が高田(美作国)・篠茨(美作国)・井王山(美作国)を攻める。
出典:『陰徳太平記』巻15「尼子国久父子備作働キ之事」

天文15年 1546年 6月28日 33歳
橋津川(伯耆国)にて尼子国久豊久父子と武田国信・行松正盛・長田重直・南条元清・小森久綱が戦い、国久が勝利する。尼子勢は豊久が、武田等勢は国信が戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻第11「橋津川合戦付尼子兵部太輔戦死並武田山城守最後之事」

天文20年 1551年 9月1日 38歳
大内義隆陶隆房の謀叛にあい大寧寺にて自害する。
出典:『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『厳助大僧正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻19「義隆卿自害並大寧寺炎焼之事」

天文21年 1552年 5月20日 39歳
毛利元就が江田隆貫の旗返城(備後国)を攻めるため涌木に陣取る。
尼子晴久が隆貫を救援すべく涌木に布陣する毛利勢に対峙す。
出典:『陰徳太平記』巻21「備後国泉合戦之事」

天文21年 1552年 5月-日 39歳
泉(備後国)にて毛利元就尼子晴久が戦う。
出典:『陰徳太平記』巻21「備後国泉合戦之事」

天文21年 1552年 6月5日 39歳
尼子晴久が釜棟より山内に陣所を移す。
出典:『陰徳太平記』巻21「備後国泉合戦之事」

天文22年 1553年 3月-日 40歳
尼子晴久が美作国に向けて出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻22「尼子晴久作州働付高田合戦並真木射大蛇事」

天文22年 1553年 5月13日 40歳
高田(美作国)にて尼子晴久浦上宗景が戦う。
出典:『陰徳太平記』巻22「尼子晴久作州働付高田合戦並真木射大蛇事」

天文22年 1553年 5月22日 40歳
高田(美作国)にて尼子晴久浦上宗景が戦い、晴久が勝利する。宗景は天神山城(備前国)に撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻22「尼子晴久作州働付高田合戦並真木射大蛇事」

天文23年 1554年 11月1日 41歳
尼子晴久尼子国久誠久父子の殺害を命じ、国久は月山富田城(出雲国)登城中に討たれ、誠久は館にて自害する。
出典:-

天文24年 1555年 10月1日 42歳
厳島(安芸国)に滞在中の陶晴賢毛利元就が急襲し、晴賢は自害する。
出典:『言延覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年)、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『陰徳太平記』巻27「毛利元就厳島渡海付同所合戦事」、同巻28「陶全羨最後之事」

弘治1年 1555年 10月23日 42歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月17日 45歳
出羽(石見国)にて本城常光小笠原長雄・牛尾幸清・湯惟宗・宇山久兼吉川元春・出羽元祐・杉原盛重福屋隆兼が戦う。
出典:『陰徳太平記』巻31「石州出羽合戦之事」

弘治4年 1558年 2月28日 45歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄1年 1558年 4月晦日日 45歳
吉川元春益田藤兼、佐波秀連、杉原盛重福屋隆兼小笠原長雄の所領・温湯(石見国)の在所を放火する。その火が、長雄館にも引火する。元春は長雄勢を攻め、長雄は温湯城(石見国)に撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄1年 1558年 5月20日 45歳
毛利元就毛利隆元小早川隆景率いる毛利勢7000が小笠原長雄の籠る温湯城(石見国)を攻めるべく出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄1年 1558年 5月24日 45歳
毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景益田藤兼、佐波秀連、杉原盛重福屋隆兼、宍戸隆家、熊谷信直天野隆重、出羽元祐率いる毛利勢12000が小笠原長雄の籠る温湯城(石見国)を包囲する。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄1年 1558年 5月29日 45歳
小笠原長雄の籠る温湯城(石見国)を攻めるにあたり、毛利隆元が笠取山に、吉川元春が温湯城・赤城間に、小早川隆景が小栖山に陣取る。
温湯城(石見国)-赤城間に陣取る吉川元春が、赤城の小笠原勢を攻めると思いこんだ小笠原長雄が、加勢として旗谷に勢を出す。元春は応戦し、小笠原勢を破る。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄1年 1558年 6月1日 45歳
吉川元春が、赤城に陣取る小笠原勢を攻める。小笠原勢は温湯城(石見国)に撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻31「小笠原館放火付温湯城取巻事」

永禄3年 1560年 12月24日 47歳
尼子晴久が死去する。
出典:-

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