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石高から軍役算出
軍役から石高算出
城 郭 史
月山富田城(出雲国)
がっさんとだじょう
築 城 年
-
築 城 者
-
改 築 年
-
改 築 者
-
廃 城 年
-
別 称
-
現 所 在 地
〒692-0403
島根県安来市広瀬町富田
史 料 地 名
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
リ ン ク
尼子経久
、
尼子晴久
、
尼子義久
、
天野隆重
、
吉川広家
月山富田城(出雲国) 年表
文明18年 1486年 1月1日
尼子経久
が塩冶掃部助の
月山富田城
(出雲国)を夜襲し、掃部助を討ち取って同城を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻2「尼子経久立身之事」
永正11年 1514年 2月12日
尼子晴久
が生まれる。
出典:-
大永3年 1523年 6月27日
尼子経久
・
毛利元就
・吉川元経が大内家家臣・蔵田信房が在番する鏡山城(安芸国)を攻める。元就は経久許可のもと、城主・信房に対し、信房が切腹すれば妻子を助命すると述べ、信房は元就の提案を受け入れ切腹する。
出典:『陰徳太平記』巻4「丹比元就被囲青屋ノ城事」
天文7年 1538年 7月21日
京都にて
尼子詮久
の播磨侵攻により
赤松晴政
が高砂(播磨国)に没落したとの噂が流れる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条
天文9年 1540年 8月10日
尼子詮久
が
吉田郡山城
(安芸国)の
毛利元就
を攻めるべく、
月山富田城
(出雲国)を出陣する。一門衆として
尼子久幸
、尼子経貞、
尼子国久
、
尼子誠久
、
尼子豊久
、
尼子敬久
が、国衆として小鴨氏、庄氏、三村氏、石川氏、細川氏、伊勢氏、山内氏、高野山氏、木梨氏、池上氏、三吉氏、宮氏、杉原氏、三沢為幸、三刀屋久祐、浅山、宍道、佐波隆連、
本城常光
、羽根氏、
福屋隆兼
、岡本正長、小笠原長徳、周布氏、祖式氏、
吉川興経
、
武田信実
、尼子家家臣として亀井安綱、佐世清宗、河本隆任、牛尾幸清、
湯原宗綱
、川副常重、川副久盛、宇山久信、秋上綱平、中井久包、中井平蔵兵衛、高尾久友、黒正久澄、立原久光、三刀屋蔵人、森脇勝正、森脇清平、横道清高、多胡辰敬、古志吉信、熊野久家、熊野次郎、米原広綱、湯惟宗、湯家経、馬田慶信、山中氏、神西氏、広田氏、桜井氏、原氏、吉岡氏、疋田氏、遠藤氏、池田氏、相良氏、大西氏、本田氏、平野氏、津森氏、松田氏等が出陣する。総勢48000とされる。
出典:『陰徳太平記』巻10「尼子晴久吉田発向之事」
天文10年 1541年 11月13日
尼子経久
が死去する。
出典:-
天文11年 1542年 1月12日
大内義隆
が
月山富田城
(出雲国)の
尼子晴久
を攻めるべく、山口(周防国)を出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻13「尼子経久逝去並ニ大内義隆雲州発向之事」
天文11年 1542年 2月-日
大内義隆
が
尼子晴久
を攻めるべく出雲国に向けて出陣する。
陶隆房
、内藤興盛、
毛利元就
等が参加する。新庄西禅寺に大内勢が陣取る。
出典:『江濃記』「京極生害之事」、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)
天文11年 1542年 3月-日
大内義隆
勢が出羽二山に陣取る。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)
天文11年 1542年 7月23日
大内義隆
勢が赤穴光清の籠る
赤穴城
(出雲国)を包囲する。
出典:『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)
天文11年 1542年 7月27日
大内義隆
勢が赤穴光清の籠る
赤穴城
(出雲国)を攻め、同城を落とす。光清は戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻13「尼子経久逝去並ニ大内義隆雲州発向之事」、『二宮佐渡覚書』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)
天文12年 1543年 1月21日
大内義隆
が畦地山(出雲国)に本陣を置く。
出典:『陰徳太平記』巻13「富田菅谷蓮池合戦之事」
天文12年 1543年 5月7日
大内義隆
が椋羅木山(出雲国)の本陣を払い、湯谷より船にて山口(周防国)に撤退せんとする。義隆の養子・
晴持
が海路にて周防国に帰国する最中、船が転覆して溺死する。
出典:『陰徳太平記』巻14「大内義隆朝臣殿軍付晴持最後之事」、『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)
天文20年 1551年 9月1日
大内義隆
が
陶隆房
の謀叛にあい大寧寺にて自害する。
出典:『大内義隆記』(米原正義校注『第二期 戦国史料叢書 7 中国史料集』人物往来社、1966年 所収)、『厳助大僧正記』同年月日条、『陰徳太平記』巻19「義隆卿自害並大寧寺炎焼之事」
天文22年 1553年 3月-日
尼子晴久
が美作国に向けて出陣する。
出典:『陰徳太平記』巻22「尼子晴久作州働付高田合戦並真木射大蛇事」
天文22年 1553年 5月13日
高田(美作国)にて
尼子晴久
と
浦上宗景
が戦う。
出典:『陰徳太平記』巻22「尼子晴久作州働付高田合戦並真木射大蛇事」
天文22年 1553年 5月22日
高田(美作国)にて
尼子晴久
と
浦上宗景
が戦い、晴久が勝利する。宗景は
天神山城
(備前国)に撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻22「尼子晴久作州働付高田合戦並真木射大蛇事」
天文23年 1554年 11月1日
尼子晴久
が
尼子国久
・
誠久
父子の殺害を命じ、国久は
月山富田城
(出雲国)登城中に討たれ、誠久は館にて自害する。
出典:-
弘治4年 1558年 2月17日
出羽(石見国)にて
本城常光
・
小笠原長雄
・牛尾幸清・湯惟宗・
宇山久兼
と
吉川元春
・出羽元祐・
杉原盛重
・
福屋隆兼
が戦う。
出典:『陰徳太平記』巻31「石州出羽合戦之事」
永禄3年 1560年 12月24日
尼子晴久
が死去する。
出典:-
永禄6年 1563年 7月-日
毛利元就
が
尼子義久
を志路村(安芸国)に置く。
月山富田城
(出雲国)に
天野隆重
を置き、南条城(伯耆国)に
杉原盛重
を置く。
出典:『毛利元就記』
永禄8年 1565年 4月17日
毛利元就
が
尼子義久
の籠る
月山富田城
(出雲国)を攻める。塩谷口にて
吉川元春
勢と尼子勢が戦う。
出典:『陰徳太平記』巻44「作州高田城合戦之事」
永禄8年 1565年 9月3日
毛利元就
の命により
三村家親
、
香川光景
・広景・
春継
父子が
吉田元重
の籠る大江城(伯耆国)を攻め、同城を落とす。元重は
月山富田城
(出雲国)に逃亡する。
出典:『陰徳太平記』巻39「大江城没落並富田勢夜討之事」
永禄8年 1565年 9月20日
毛利元就
、
毛利輝元
、
吉川元春
、
吉川元長
、
小早川隆景
等が率いる軍勢25000が
尼子義久
の居城・
月山富田城
(出雲国)を攻めぐべく掠良木山に陣取る。
元就が末次(出雲国)に
米原綱寛
を、天満城に
杉原盛重
家臣の菖蒲左馬允・入江大蔵少輔・菊池肥前守を、守山に長屋小次郎を置く。
出典:『陰徳太平記』巻39「富田所々付城並山中鹿ノ助夜討事」
永禄9年 1566年 1月1日
尼子義久
が
宇山久兼
を殺害する。
出典:『陰徳太平記』巻40「卯山飛騨守生害之事」
永禄9年 1566年 11月21日
尼子義久
が
毛利元就
に降伏する。
出典:-
永禄9年 1566年 11月28日
尼子義久
が
月山富田城
(出雲国)より退城する。
出典:-
永禄12年 1569年 5月-日
尼子勝久
、
山中幸盛
、立原久綱、横道正光、横道高宗、真木宗右衛門、吉田三郎左衛門、吉田八郎左衛門、川副右京亮、川副三郎左衛門、川副次郎左衛門、目黒助次郎、米原助十郎、月坂助太郎、力石九郎兵衛、平野加兵衛、平野源助、宇山弥次郎、三吉五郎左衛門、三吉甚次郎、小林甚助、青砥助次郎、日野又五郎、大塚弥三郎、大野平兵衛、日野助五郎、福山内蔵允、中井与次郎、片桐治部丞、江美源内左衛門が隠岐国に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻43「尼子勝久入雲州付松永霜台事」
永禄12年 1569年 6月23日
尼子勝久
が忠山(出雲国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻43「尼子勝久入雲州付松永霜台事」
永禄13年 1570年 1月16日
毛利元就
が
尼子勝久
を攻めるべく、
吉田郡山城
(安芸国)より
毛利輝元
、
吉川元春
、
吉川元長
、
小早川隆景
を出陣させる。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」
永禄13年 1570年 2月8日
毛利輝元
、
小早川隆景
が津賀(石見国)に陣取る。先陣の
吉川元春
、
吉川元長
、
吉川経言
が赤穴(出雲国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」
永禄13年 1570年 2月9日
吉川元春
・
元長
・
経言
父子が福山次郎左衛門・遠藤甚九郎・川副右京亮率いる尼子勝久勢の籠る多久和城を攻め、同城を落とす。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」
永禄13年 1570年 2月14日
布部山(出雲国)にて
毛利輝元
・
吉川元春
・
小早川隆景
率いる毛利勢と
山中幸盛
・立原久綱率いる尼子勢が戦い、毛利勢が勝利する。毛利勢は細迫左京亮、児玉弥七郎、粟屋元光、田門右衛門尉が、尼子勢は真木与一、隠岐清実、寺本四郎三郎、東藤八、金尾半四郎、飛石孫太夫、横道正光が戦死する。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」
永禄13年 1570年 2月24日
末次城(出雲国)に籠る
尼子勝久
を攻めるべく、
吉川元春
・
元長
・
経言
が同城の向かいの山に陣取る。。
出典:『陰徳太平記』巻46「出雲国布弁合戦之事」
元亀1年 1570年 10月3日
尼子勝久
が末次城(出雲国)を攻める。
勝久の末次城攻撃を
月山富田城
(出雲国)で聞いた
吉川元春
が末次城救援のため月山富田城を発つ。途中、
杉原盛重
、南条元清、三刀屋久扶、三沢為清、
益田藤兼
、山田重直が元春に合流し、末次城近くに陣取る。元春は元清・重直を新山攻めを命じる。勝久・幸盛・久綱は元春が後詰にやってきたことを受け、新山に撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻47「勝久攻末次付後詰並米原降参之事」
元亀1年 1570年 10月10日
吉川元春
が
尼子勝久
、
山中幸盛
、立原久綱等が籠る新山城(出雲国)より撤退する。
出典:『陰徳太平記』巻47「勝久攻末次付後詰並米原降参之事」
元亀2年 1571年 8月25日
吉川元春
、宍戸隆家、口羽通良、
杉原盛重
、南条元清、三沢為清、三刀屋久扶等の軍勢7000が、
尼子勝久
の籠る新山城(出雲国)を攻める。勝久は城より脱出し、隠岐国に逃れる。
出典:『陰徳太平記』巻48「山中鹿助出奔付尼子勝久逃走於隠州之事」
天正12年 1584年 3月7日
天野隆重
が死去する。
出典:-
慶長5年 1600年 7月4日
吉川広家
が大坂(摂津国)に向かうべく出雲国を出立する。
出典:『関原陣輯録』「家康公上杉景勝退治として御出陣の事」(三坂圭治校訂『戦国期毛利氏史料撰』マツノ書店、1987年)
慶長5年 1600年 7月13日
吉川広家
が大坂(摂津国)に到着する。
出典:『関原陣輯録』「木津御留守居より関東え御断の書状(下略)」(三坂圭治校訂『戦国期毛利氏史料撰』マツノ書店、1987年)
慶長5年 1600年 10月5日
徳川家康
が
毛利輝元
の領国について周防国・長門国以外の所領を没収する。
出典:『関原始末記』
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