人 物 史

茨木長隆 いばらぎ ながたか
生 没 年?-?
出 身-幼 名-
別 称-
法 名-
戒 名-
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兄 弟 姉 妹-
配 偶 者-
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官 位伊賀守
役 職-
城 郭茨木城(摂津国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
茨木長隆 年表
- -年 -月-日 
茨木長隆が生まれる。
出典:-

天文2年 1533年 7月29日 
大徳寺三好千熊丸の被官人 市原源次郎が兵糧米を賦課したことについて、今後同じようなことが生じた場合、大徳寺で成敗してもよい旨を茨木長隆が大徳寺に伝える。
出典:天文2年7月29日付細川晴元奉行人奉書(『戦国遺文』三好氏編第1巻-参考15号「大徳寺文書」)

天文3年 1534年 10月22日 
三好千熊丸の被官 市原与吉兵衛尉・市原又三郎が平野社境内神殿守・神供田の所務を押し取ろうとしたことについて、今後そのようなことがないようにし、押領物があれば返付するように千熊丸に命じる。
出典:天文3年10月22日付細川晴元奉行人茨木長隆奉書案(「平野社文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-105号)

天文7年 1538年 8月21日 
本願寺証如細川晴元に制札の礼として太刀1腰・銭3000疋(30貫)を、晴元の取次・古沢に銭500疋(5貫)を、茨木長隆に太刀1腰・馬代を贈る(使者は八尾新四郎)。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 8月27日 
8/23に細川晴元へ遣わした八尾新四郎が大坂本願寺に戻り、古沢(晴元取次)・茨木長隆が喜んでいた旨を証如に伝える。また、晴元が発令した徳政令について、大坂本願寺寺内は徳政の適用範囲外である旨が晴元より伝えられる。
出典:『天文日記』同年月日条

天文8年 1539年 11月19日 
茨木長隆が公方御料所の丹波国桐野・河内のことについて、公方の支配を妨げる者を排除し、年貢を公方に納入するよう波多野秀忠に命じる。これを受け、秀忠は荒木新兵衛尉に年貢の納入を命じる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 11月24日 
茨木長隆伊勢貞孝のもとに訪れる。貞孝は酒でもてなす。公方御料所の丹波国桐野・河内について長隆より報告がある。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 11月25日 
茨木長隆が公方御料所の丹波国桐野・河内の名主百姓中に対し逃散を企てたことを非難し、逃散を企てた者の捜索を命じる。もし、異論があるたなら12月2日までに上洛し弁明するようにと命じる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 3月21日 
大舘常興茨木長隆に書状を遣わし、井出新庄の公用について去年分が納入されていないので、池田氏に納入するよう伝えてほしいと伝える。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

- -年 -月-日 
茨木長隆が死去する。
出典:-

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