歴史の目的をめぐって

   寺 院 史

大坂本願寺(摂津国) おおさかほんがんじ
本 尊阿弥陀如来
創 建-
開 基蓮如
山 号-
宗 派浄土真宗
別 称大坂御坊
関連宗教施設-
現 所 在 地現大阪城公園辺り
旧 所 在 地-
史 料 地 名-
イ メ ー ジ-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
リ ン ク-
大坂本願寺(摂津国) 年表
明応5年 1496年 9月24日 
蓮如が摂津国東成郡生玉荘内の大坂の地に御坊の建立を開始する。
出典:明応6年11月25日付蓮如御文、明応7年11月21日蓮如御文、『拾塵記』

明応5年 1496年 9月29日 
蓮如が28日に大坂御坊建立の鍬初めを予定していたが、日が悪いという理由でこの日に始まる。
出典:『拾塵記』

明応5年 1496年 10月8日 
大坂御坊の草坊がなる。
出典:『拾塵記』

享禄5年 1532年 5月19日 
畠山義堯木沢長政飯盛山城(河内国)を攻める。
出典:『細川両家記』

享禄5年 1532年 6月15日 
畠山義堯木沢長政の籠る飯盛山城(河内国)を攻撃していたところ、細川晴元が長政を救援すべく、本願寺証如に門徒の動員を依頼する。証如は30000の門徒勢を動員し飯盛山城の後詰に赴かせ畠山勢を破る。義堯は石川の道場にて自害する。
出典:『細川両家記』

享禄5年 1532年 6月20日 
細川晴元本願寺証如に要請して馳せ集まった摂津・河内・和泉の一向一揆100000に、三好元長の居所であるの顕本寺が攻められる。追い詰められた元長は、三好一秀、塩田若狭守、加地丹波守等とともに自害する。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条、『言継卿記』同年月22日条

享禄5年 1532年 7月19日 
一向一揆勢2000が山崎(山城国)に攻め込み西岡衆と戦う。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文1年 1532年 8月2日 
にいた細川晴元が一向一揆勢に包囲されるが、合戦にて勝利する。
出典:『二水記』同年月3日条

天文1年 1532年 8月5日 
一向一揆勢が細川晴元の居る北荘に攻め入るが、木沢長政の救援もあって細川勢が一向一揆勢を退ける。
池田城(摂津国)に摂津国の一向一揆勢が攻めかかるが和睦により一揆勢は開陣する。
出典:『経厚法印日記』同年月日条、『細川両家記』、『足利季世記』巻四 山科本願寺責落事

天文1年 1532年 8月8日 
に居る細川晴元大坂本願寺に軍勢を遣わすも一向一揆勢が細川勢を退ける。
出典:『経厚法印日記』同年月日条

天文1年 1532年 8月23日 
法華衆および六角定頼の軍勢30000-40000が山科本願寺を包囲する。定頼は同寺の東に陣取る。矢合わせが行われる。
出典:『二水記』同年月日条、『経厚法印日記』同年月日条

天文1年 1532年 8月24日 
早朝より山科本願寺が法華衆や六角定頼勢の攻撃を四方から受ける。野村郷(山城国)からの焼き討ちにより寺内に入り込まれ、また下間兵庫助が定頼に内応したこともあって、未刻(13-15時)に諸勢が寺内に乱入し、同寺が陥落する。寺内は一軒も残らず焼き討ちされる。
定頼は夜に帰陣する。
出典:『私心記』同年月日条、『経厚法印日記』同年月日条、『二水記』同年月日条、『細川両家記』

天文1年 1532年 9月26日 
山崎(山城国)にて一向一揆勢と薬師寺国長・法華衆が戦う。
出典:『二水記』同年月日条

天文1年 1532年 9月28日 
山崎(山城国)にて一向一揆勢と薬師寺国長・法華衆が戦い、一揆勢が勝利する。薬師寺国長、一宮堅成が撤退する。
出典:『二水記』同年月日条

天文1年 1532年 10月-日 
一向一揆勢が南都を焼き討ちにする。
出典:『細川両家記』

天文1年 1532年 11月23日 
摂津国上郡衆が一揆し富田道場を放火する。
出典:『足利季世記』巻四 所々一揆起ル事

天文2年 1533年 1月1日 
一向一揆が尼崎大物(摂津国)の松井越前守を攻める。
出典:『足利季世記』巻四 所々一揆起ル事、『陰徳太平記』巻8「摂州諸所合戦之事」

天文2年 1533年 2月10日 
一向一揆がにいる細川晴元を攻め、堺を落とす。晴元は淡路国に逃亡する。
出典:『足利季世記』巻四 所々一揆起ル事、『陰徳太平記』巻8「摂州諸所合戦之事」

天文2年 1533年 3月5日 
一向一揆が伊丹城(摂津国)を攻撃する。
出典:『足利季世記』巻四 伊丹城合戦附晴元帰ル事、『細川両家記』、『陰徳太平記』巻8「摂州諸所合戦之事」

天文2年 1533年 3月29日 
一向一揆に攻撃されている伊丹城(摂津国)を救援すべく、法華衆を引き連れ同城の後詰に駆け付け一向一揆を破る。
出典:『足利季世記』巻四 伊丹城合戦附晴元帰ル事、『陰徳太平記』巻8「摂州諸所合戦之事」

天文2年 1533年 4月7日 
池田城(摂津国)に着陣する。本満寺に本願寺との手切れが15日であることを伝えたうえで檀那を動員し大坂本願寺に攻め入るよう催促する。
出典:(天文2年)4月7日付細川晴元書状(『戦国遺文』三好氏編第1巻-103号「本満寺文書」)

天文2年 1533年 4月26日 
上京下京の日蓮衆徒が、京都に滞在している細川晴元勢に交じり大坂本願寺攻めに出陣する。
出典:『祇園執行日記』同年月日条

天文2年 1533年 4月29日 
に籠っていた一向一揆が細川晴元の攻撃を受け大坂本願寺に撤退する。
出典:『足利季世記』巻四 伊丹城合戦附晴元帰ル事、『細川両家記』

天文2年 1533年 5月5日 
三好千熊丸木沢長政、法華衆が大坂本願寺を攻める。
出典:『足利季世記』巻四 伊丹城合戦附晴元帰ル事、『陰徳太平記』巻8「摂州諸所合戦之事」

天文2年 1533年 5月20日 
細川晴元本願寺証如の和睦が成立する。大坂本願寺を攻めていた三好千熊丸木沢長政、法華衆が同寺より撤退する。
出典:『足利季世記』巻四 伊丹城合戦附晴元帰ル事、『細川両家記』

天文2年 1533年 6月8日 
中島(摂津国)との手切れにより、同地への攻撃を三好千熊丸に命じたことを本満寺に伝え、同寺に大坂在陣を促す。
出典:(天文2年)6月8日付細川晴元書状(「本満寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-参考14号)

天文2年 1533年 6月22日 
細川晴元本願寺証如の和睦について、実説は和睦はなったが、大坂本願寺にいた細川高国の牢人衆が晴元勢、証如勢に襲い掛かり双方300人の死者を出したという。
出典:『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』151号

天文2年 1533年 11月16日 
木沢長政が大和衆を引き連れ、大坂本願寺近辺を焼き討ちする。
出典:『私心記』同年月日条

天文3年 1534年 10月20日 
灘(摂津国下郡)にて三好千熊丸と一向一揆勢と戦う。
出典:『私心記』同年月日条

天文5年 1536年 1月18日 
木沢長政のもとへ本願寺証如より使者・藤井八郎左衛門が訪れ、大和国吉野上市下市還住のことについて述べる。本願寺は越智氏を介して還住を遂げようとしていると述べたため、大和国は木沢自身が守護であり進退する国であることを主張する。
出典:『天文日記』同年1月20日条

天文5年 1536年 1月22日 
遊佐長教本願寺証如の和与につき、証如より長教へ天文4年に礼として太刀、馬が贈られたので、その返礼として長教が太刀1腰、馬1疋(月毛)を証如に贈る。使者は菱木孫右衛門。
出典:『天文日記』同年月日条

天文5年 1536年 5月25日 
本願寺証如大坂本願寺寺内六町の「かまへ」を視察する。
出典:『天文日記』同年月日条

天文5年 1536年 7月29日 
木沢長政、三好長直、三好政長が中島(摂津国)に侵攻する。それにつき本願寺証如が長政に無事中島に侵入したことを祝う使者を送る(使者は藤井八郎左衛門尉)。その際、長政より本陣である天王寺より兵糧を中島に運び入れるにあたって、運搬のための船を所望され、また兵糧も少々所望される。証如は船5艘と飯を送る。この事件により大坂本願寺の備えを厚くするため、加賀四郡番衆が武具を購入したいので100貫の借用を願い出たので、証如は100貫を貸し与える。
出典:『天文日記』同年月日条、『私心記』同年月日条、『足利季世記』巻四 細川晴国最後ノ事

天文5年 1536年 12月23日 
本願寺証如が浅井亮政・加賀四郡に六角定頼との和与が整った旨を伝える。
出典:『天文日記』同年月日条

天文5年 1536年 12月24日 
大内義隆が日明貿易の輸出品として瑪瑙を本願寺証如に所望する。この日その使者が大坂本願寺に到着する。瑪瑙を証如が所持していない場合は加賀国那谷寺観音堂の下にあるので、取り寄せてもらうよう義隆が証如に依頼する。
出典:『天文日記』同年月日条

天文6年 1537年 6月3日 
大坂本願寺寺内の新屋敷西北の要害について新屋敷の町人が普請をする。
出典:『天文日記』同年月日条

天文6年 1537年 7月11日 
本願寺証如大坂本願寺寺内における盆踊りを停止する。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 6月18日 
梅戸高実本願寺証如のもとに使者として遣わした宮田次郎左衛門が大坂本願寺に到着する。証如に太刀1腰・黒栗毛の馬を贈る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 8月27日 
8/23に細川晴元へ遣わした八尾新四郎が大坂本願寺に戻り、古沢(晴元取次)・茨木長隆が喜んでいた旨を証如に伝える。また、晴元が発令した徳政令について、大坂本願寺寺内は徳政の適用範囲外である旨が晴元より伝えられる。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 9月14日 
大坂本願寺寺内の六町の番屋に火付・盗人・博打を発見し報告してきた者には代物(褒美)を遣わす旨を周知させる制札を発給する。下間頼慶が花押を捺す。
出典:『天文日記』同年月日条

天文8年 1539年 2月24日 
延暦寺東塔・西塔より、坂本関・四屋関が勝手な行いをするため、関所の徴収者を小唐崎に変更したので、東国・北国から大坂本願寺にやってくる門徒衆にその旨を知らせるようにと通知がくる。
出典:『天文日記』同年月日条

天文10年 1541年 11月2日 
本願寺証如が堺より大坂本願寺に帰寺する。
出典:『天文日記』同年月日条

天文11年 1542年 閏3月22日 
細川晴元の使者として高畠長直大坂本願寺に居る本願寺証如のもとに赴く。未刻(13-15時)、長直と証如が対面する。証如は長直を三献をもってもてなす。
出典:『天文日記』同年月日条

天文11年 1542年 4月29日 
中院中納言が大坂本願寺を訪れる。本願寺証如が歓待する。
出典:『天文日記』同年月日条

天文11年 1542年 7月16日 
巳刻(9:00~11:00)、大坂本願寺の阿弥陀堂の礎石を据える。
出典:『天文日記』同年月日条

天文11年 1542年 7月21日 
辰刻(7-9時)、大坂本願寺の阿弥陀堂の柱立を行う。
出典:『天文日記』同年月日条

天文11年 1542年 7月26日 
巳刻(9:00~11:00)、大坂本願寺の阿弥陀堂の棟上が行われる。
出典:『天文日記』同年月日条

天文11年 1542年 11月19日 
大坂本願寺の阿弥陀堂に新造の本尊を安置する。
出典:『天文日記』同年月日条

天文11年 1542年 11月20日 
大坂本願寺の親鸞像を新しい厨子に移す。
出典:『天文日記』同年月日条

天文12年 1543年 1月6日 
辰半刻(8時)、顕如が生まれる。
出典:『天文日記』同年月日、『大谷嫡流実記』「顕如」の項

天文12年 1543年 5月17日 
平手政秀大坂本願寺を訪れ本願寺証如に礼をする。証如は肴をもって一献と湯漬で対面して応対する。理由は、政秀が尾張において門徒衆に「悪勢者」であるからという。
出典:『天文日記』同年月日条

天文12年 1543年 5月26日 
本願寺証如の子・顕如の誕生を祝う細川晴元の使者として高畠長直大坂本願寺に訪れる。証如は長直を三献をもってもてなす。
出典:『天文日記』同年月日条

天文12年 1543年 10月25日 
本願寺証如のもとへ京都の一条氏より音信として持明院中将がやってくる。持明院は土佐下向のため大坂本願寺寺内町新屋敷住吉屋に宿泊する。証如は下間光頼に、持明院に河野新六と番衆20人を警護としてつけるように命じる。
出典:『天文日記』同年月日条

天文15年 1546年 2月25日 
大坂本願寺寺内町に住む八尾明顕の門徒・荒川屋四郎衛門が本願寺証如に斎を調進する。順興寺実従、興正寺、常住衆、卅日番衆、明顕、荒川四郎衛門が相伴する。
出典:『天文日記』同年月日条

天文15年 1546年 4月20日 
大坂本願寺の阿弥陀堂前の四足門が立つ。
出典:『天文日記』同年月日条

天文23年 1554年 7月18日 
寺内相模大坂本願寺の御堂において落髪する。落髪の礼として本願寺証如に礼として100疋を進上する。証如より盃と太刀を賜う。
出典:『天文日記』同年月日条

永禄4年 1561年 3月28日 
大坂本願寺にて本願寺顕如が親鸞300回忌法要を執り行う。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

永禄5年 1562年 1月23日 
大坂本願寺寺内町にて火災が起こり2000軒余が焼失する。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

永禄7年 1564年 7月13日 
山科言継大坂本願寺に赴くため京都を発つ。鳥羽(山城国)にて乗船。淀(山城国)にて大船に乗り換える予定であったが、大坂行きの船がなく交渉するもかなわなかったため山崎(山城国)まで赴き水無瀬(摂津国)にて逗留する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄7年 1564年 7月14日 
山科言継が水無瀬(摂津国)を発ち、橋本(山城国)にて船を用意する。若槻伊豆守の過書を用意し、巳下刻(10時)に乗船。申刻(15-17時)に大坂の烏丸亭に到着する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄7年 1564年 7月25日 
山科言継が大坂に戻り烏丸亭に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄7年 1564年 12月26日 
大坂本願寺が焼失する。
出典:『言継卿記』同年12/27条

永禄10年 1567年 9月3日 
別所氏の軍勢1000が番のため大坂本願寺に入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条

元亀1年 1570年 7月27日 
三好康長三好長逸三好宗渭、三好為三、岩成友通、東条行長、松山重治、斎藤龍興、長井道利等が中島天満森(摂津国)に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 7月29日 
安宅甚太郎率いる淡路勢1500が兵庫(摂津国)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月9日 
安宅甚太郎率いる淡路勢1500が尼崎(摂津国)に到着する。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月13日 
安宅甚太郎・池田某が猪名寺(摂津国)にて戦う。
出典:『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月17日 
三好長逸三好宗渭岩成友通の軍勢が、三好義継畠山昭隆伊丹親興・遊佐の軍勢が籠る古橋城(河内国)を攻める。
出典:『尋憲記』同年月20日条、『言継卿記』同年月18日条、『多聞院日記』同年月18日条、『陰徳太平記』巻47「三好勢摂州渡海之事」

元亀1年 1570年 8月26日 
織田信長天王寺に陣取り、諸勢を天満が森、川口、渡辺、神崎、上難波、下難波、浜の手に展開し、三好長逸岩成友通三好康長、安宅信康、十河存保、篠原長房、松山重治、香西佳清、三好為三、斎藤龍興、長井道利が陣取る野田・福島(摂津国)を攻める。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月3日 
足利義昭が中島(摂津国)に入る。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月8日 
織田信長が楼の岸(摂津国)に砦を築き、斎藤利治稲葉良通、中川重政を置く。川口に砦を築き、平手汎秀、長谷川与次、水野監物、佐々成政、塚本小大膳、丹羽氏勝、佐藤秀方、梶原景久、高宮右京亮を置く。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月9日 
織田信長が天満が森に本陣を移す。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月12日 
足利義昭織田信長が海老江(摂津国)に陣を移し、三好長逸岩成友通三好康長、安宅信康、十河存保、篠原長房、松山重治、斎藤龍興、長井道利の籠る野田・福島(摂津国)を攻める。長逸等は信長に降伏を申し出るが信長に断られる。
本願寺顕如が義昭、信長を攻撃する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」、『兼見卿記』同年月日条

元亀1年 1570年 9月13日 
本願寺顕如が織田方の楼の岸砦、川口砦に攻め入る。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月14日 
本願寺顕如が天満が森に攻め入る。かすがゐ堤の合戦で織田信長と大坂本願寺勢が戦い、信長が本願寺勢を退ける。この戦いで織田勢の第1陣を佐々成政が、第2陣を前田利家がつとめる。成政は負傷し撤退する。
出典:『信長公記』巻3(9)「野田福嶋御陣の事」

元亀1年 1570年 9月23日 
織田信長和田惟政柴田勝家に殿を命じ、野田・福島(摂津国)を引き払い京都に向かう。江口を経由して足利義昭とともに帰洛する。
信長は吉田兼見に白川と山中の通路を封鎖するように命じる。兼見は白川、浄土寺にその旨を命じる。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『信長公記』巻3(10)「志賀御陣の事」

元亀3年 1572年 -月-日 
本願寺顕如織田信長に玉澗仲石の軸と白天目茶碗を贈る。
出典:『信長公記』巻5(1)「むしやの小路御普請の事」

天正2年 1574年 4月3日 
大坂本願寺にて本願寺顕如が率いる一向一揆が織田信長に対し挙兵する。
出典:『信長公記』巻7(4)蘭奢待を切捕らせらるるの事

天正2年 1574年 4月11日 
大坂本願寺の一向一揆攻めのため織田信長の命により筒井勢が河内国に向けて出陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正2年 1574年 4月12日 
一向一揆攻めのため織田信長が遣わした先勢が河内国を焼く。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正2年 1574年 7月20日 
中島(摂津国)にて荒木村重と一向一揆勢が戦い、一揆勢が勝利する。
出典:『多聞院日記』同年月24日条

天正2年 1574年 9月29日 
織田信長願証寺(長島)包囲につき、餓死者が続出する。これにより信長に降伏を申し入れ、船にて寺を退散する一向一揆勢が鉄砲にて撃たれる。信長は中江城、屋長島に籠る一向一揆勢の男女20000人を包囲し火をつけ焼き殺す。この戦いで織田勢は織田信広が戦死する。
出典:『信長公記』巻7(10)「樋口夫婦御生害の事」

天正3年 1575年 3月22日 
織田信長細川藤孝に丹波国船井郡・桑田郡の諸侍を与力としてつけるので、秋に企図している大坂本願寺攻めに軍勢を動員するよう命じる。
出典:同年月日付織田信長朱印状(「細川家文書」『増訂織田信長文書の研究 下巻』501号)

天正3年 1575年 4月7日 
本願寺顕如が北陸道門徒中に、織田信長大坂本願寺を破却しようとしているので、同寺に籠城すること、さしあたり兵粮を同寺まで調進するようにと命じる。
出典:同年月日付本願寺顕如印判状写(「浄光寺文書」『増訂織田信長文書の研究 下巻』参考)

天正3年 1575年 4月13日 
織田信長大坂本願寺を攻めるため、畿内、若狭国、近江国、美濃国、尾張国、伊勢国、丹後国、丹波国、播磨の国衆、根来寺衆を率い、天王寺、住吉、遠里小野に陣取る。
出典:『信長公記』巻8(3)「河内国新堀城攻め干され並に誉田城破却の事」

天正3年 1575年 4月14日 
織田信長大坂本願寺近くの作毛を薙ぎ捨てる。
出典:『信長公記』巻8(3)「河内国新堀城攻め干され並に誉田城破却の事」

天正3年 1575年 4月16日 
織田信長が遠里小野に陣取り、田畠の作毛を刈り取る。
出典:『信長公記』巻8(3)「河内国新堀城攻め干され並に誉田城破却の事」

天正3年 1575年 10月21日 
織田信長本願寺顕如三好康長松井友閑を介して和睦する。顕如が小玉鑑、枯木・花の絵を信長に贈られる。笑岩が茶壺三日月を信長に進上する。
出典:『信長公記』巻8(8)「大坂三軸進上の事」

天正4年 1576年 4月14日 
本願寺顕如及び一向一揆が籠る大坂本願寺への路次を封鎖するため、荒木村重へ同寺の北にあたる野田(摂津国)に砦の普請を、明智光秀細川藤孝へ同寺東南にあたる森口・森河内(河内国)に砦の普請を、原田直政天王寺に砦を築き、木津を抑えて大坂本願寺への通路を遮断するように命じる。天王寺砦には佐久間信栄、光秀および検使の猪子高就大津長昌を置く。
出典:『信長公記』巻9(3)「原田備中御津寺へ取出討死の事」

天正4年 1576年 4月21日 
織田信長が大坂に城を7つ築く。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月3日 
早朝、原田直政が先陣に三好笑岩根来寺衆・和泉国衆を、次陣に直政率いる大和・山城国衆をもって木津の一向一揆勢の砦を攻めるが、楼の岸砦より出撃した一向一揆勢と戦い、直政は奮戦するも戦死する。他に塙喜三郎、塙小七郎、箕浦無右衛門、丹羽小四郎が討死する。一向一揆勢は余勢をかり、明智光秀佐久間信栄荒木村重猪子高就大津長昌等が籠る天王寺砦を攻める。
出典:『多聞院日記』同年月日・4日条、『兼見卿記』同年月日・4日条、『言継卿記』同年月4日条、『信長公記』巻9(3)「原田備中御津寺へ取出討死の事」

天正4年 1576年 5月4日 
織田信長のもとに木津砦攻めで大坂本願寺に籠る一向一揆勢と戦った原田直政の討死が伝えられる。信長は5月5日に大坂本願寺へ出陣することを決め、分国中に残らず上洛するよう軍勢動員をかける。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月5日 
辰刻(7-9時)、織田信長大坂本願寺に向けて2000の軍勢を引き連れ出陣する。午刻(11-13時)、八幡を通る。先陣の佐久間信盛が若江城(河内国)に攻め入る。
筒井順慶は信長の大坂本願寺攻めにつき、奈良中の15-60歳の男性を総動員するため一乗院尊政大乗院尋憲に許可を得るべく飯田出羽入道・松田を遣わす。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『言経卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月6日 
織田信長が若井(若江)(河内国)に在城する。
奈良(大和国)にて筒井順慶および松永久通の無事が伝わる。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正4年 1576年 5月7日 
早朝より織田信長が総勢で住吉口より出陣する。先陣は佐久間信盛松永久秀細川藤孝、若江衆、二陣は滝川一益蜂屋頼隆羽柴秀吉丹羽長秀稲葉一鉄氏家直昌安藤守就、三陣は馬廻衆。午刻(11-13時)に天王寺に入り、大坂本願寺に籠る一向一揆勢と合戦。2000余を討つ勝利を収めたという。信長はこの戦いで足に鉄砲があたり負傷する。戦後、天王寺砦に佐久間信盛佐久間信栄、進藤山城守、松永久秀、松永久通、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿を置く。また、住吉浜に要害を築き、真鍋貞友、沼野伝内を置く。
出典:『兼見卿記』同年月日条、『言継卿記』同年月日条、『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻9(4)「後後巻再三御合戦の事」

天正4年 1576年 5月8日 
織田信長本願寺顕如大坂本願寺周辺での戦闘についての報告が京都にもたらされる。その報告には、信長が大坂西木津の城を落とし、一揆勢10000人を討ち取ったという。また、信長が「大坂之城」(大坂本願寺)を攻め、「大坂之左右之大将」と言われる下間頼廉・雑賀孫市を討ち取ったという。(この報については誤報)
根来寺を経由し大坂本願寺に入城しようとした吉野飯貝の一向衆が捕らえられる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天正4年 1576年 5月23日 
毛利家が大坂本願寺へ船手をもって兵粮を運び入れるとの風聞を聞いた織田信長安宅神五郎に、もし中国地方より兵粮を運ぶ船が来たならば関船を出して追い落とすようにと命じる。
出典:(天正4年)5月23日付織田信長朱印状(『戦国遺文』三好氏編3巻-1746号、「萩原文書」))

天正6年 1578年 4月4日 
織田信長が、織田信忠を大将とし、北畠信雄織田信包神戸信孝津田信澄明智光秀滝川一益蜂屋頼隆丹羽長秀を加えた大坂本願寺攻めの軍勢を編成する。
出典:『信長公記』巻11(5)「相撲の事」

天正6年 1578年 4月5日 
織田信長大坂本願寺周辺の麦苗を悉くなぎ捨てる。
出典:『信長公記』巻11(5)「相撲の事」

天正6年 1578年 4月6日 
織田信長大坂本願寺周辺の麦苗を悉くなぎ捨てる。
出典:『信長公記』巻11(5)「相撲の事」

天正6年 1578年 4月8日 
織田信忠大坂本願寺より京都に帰陣する。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正6年 1578年 6月26日 
九鬼嘉隆が大船7艘を熊野浦に出す。大坂へと回漕中、淡輪の海上にて大船の行く手を阻むべく、雑賀・淡輪浦の小船が嘉隆の大船を襲撃するが、九鬼の大船が大鉄砲にて小船を一掃。以後、九鬼への襲撃が止む。
出典:『信長公記』巻11(9)「九鬼大船の事」

天正6年 1578年 7月17日 
九鬼嘉隆が率いる大船7艘がに着岸。見物人を驚愕させる。
出典:『信長公記』巻11(9)「九鬼大船の事」

天正6年 1578年 7月18日 
九鬼嘉隆が率いる大船7艘が大坂へと出航。海上に留まり、大坂本願寺への海路を封鎖する。
出典:『信長公記』巻11(9)「九鬼大船の事」

天正6年 1578年 7月20日 
浦に伊勢から5000を乗船した大船が到着する。幅7間、長さ12-13間の「鉄ノ船」で「テツハウ」を通さない作り。大坂本願寺の通路を遮断するためという。
出典:『多聞院日記』同年月日・21日条

天正6年 1578年 9月27日 
織田信長九鬼嘉隆の大船を見物するため、京都を発ち、八幡に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正6年 1578年 9月28日 
織田信長が八幡を発ち若江(河内国)に到着する。
出典:『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正6年 1578年 9月29日 
早朝、織田信長天王寺に到着。佐久間信盛のところにて休息。その後、鷹狩をしながら住吉神社に移る。
出典:『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正6年 1578年 9月30日 
織田信長に到着する。近衛前久、細川、一色が同道。九鬼嘉隆の大船を見物する。今井宗久のもとに茶を飲み、帰る途中、宗養・宗及・道昵の私宅にも寄る。住吉神社に帰る。住吉神社にて嘉隆を召し黄金10・服・ばくろう2折を与え、かつ1000人ずつ扶持を与える。また、犬飼助三・渡辺佐内・伊藤孫大夫の3人に黄金3枚と服を与える。
出典:『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正6年 1578年 10月1日 
織田信長が住吉神社から河内国を経由し京都に戻る。安見新七郎のもとで休息する。二条御新造に宿泊する。
出典:『信長公記』巻11(11)「大船堺津にて御見物の事」

天正6年 1578年 11月6日 
毛利家の水軍衆が木津へ向かってくるが、九鬼嘉隆の率いる大船7艘が応戦。毛利水軍衆の大将が乗る船を大鉄砲で打ち崩したため、水軍衆は九鬼の大船に近寄らなくなる。見物人は九鬼の手柄と称賛する。
出典:『信長公記』巻11(13)「荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事」

天正7年 1579年 4月6日 
下間頼廉大坂本願寺へ雑賀御坊惣中に雑賀鉄砲衆300名の派兵を再度請う。
出典:(天正7年)4月6日付下間頼廉書状(『戦国遺文』三好氏編3巻-参考138号、「鷺森別院文書」)

天正7年 1579年 9月29日 
天王寺にて、織田信長勢と大坂本願寺の一向一揆勢が戦う。
出典:『多聞院日記』同年10月6日条

天正7年 1579年 11月20日 
荒木村重有岡城(摂津国)が開城し、織田信長に渡される。
出典:『多聞院日記』同年月22日条

天正8年 1580年 2月20日 
織田信長大坂本願寺を攻めるため上洛する。妙覚寺に宿泊する。
出典:『多聞院日記』同年月21日条、『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 3月1日 
禁裏より織田信長本願寺顕如の和睦のため、近衛前久勧修寺晴豊庭田重保が勅使として顕如のいる大坂本願寺に赴く。勅使に佐久間信盛松井友閑が添えられる。
出典:『信長公記』巻13(1)「播州三木城落居の事」

天正8年 1580年 閏3月6日 
織田信長安土城(近江国)より天王寺に入る。
出典:『信長公記』巻13(3)「大坂退散御請け誓紙の事」

天正8年 1580年 4月9日 
本願寺顕如、如春尼、下間頼廉、平井越後守、八木駿河守が大坂本願寺を退去する。顕如の子・教如は大坂本願寺への籠城を継続する。
出典:『信長公記』巻13(6)「本門跡大坂退去の事」

天正8年? 1580?年 6月9日 
大坂本願寺籠城を継続する教如が、越中・加賀の門徒衆の非協力の状況を糺すため寺内素休と井上善五郎を勝興寺に遣わす。
出典:6月9日付教如書状(『越中真宗史料』一 中世「勝興寺文書」)

天正8年? 1580?年 7月2日 
横田重恒等が、6月9日に勝興寺に遣わされた寺内素休・井上善五郎に、大坂本願寺籠城(「大坂拘様」)を続ける教如の無事と、越中下向後の二人が大坂へ越中の情勢について報告がないため不審に思っていること、松倉城(越中国)に在番している河田長親に大坂本願寺籠城が困難であるため支援を依頼するように命じる。
出典:7月2日付横田重恒他連署状(金龍静『一向一揆論』(吉川弘文館、2004年)史料編-62号 「慈明寺文書」)

天正8年 1580年 8月2日 
大坂本願寺に籠城を継続していた教如織田信長に同寺を明け渡す。勅使として近衛前久勧修寺晴豊庭田重保が、信長からの使者として松井友閑佐久間信盛矢部家定が大坂本願寺に赴く。教如は雑賀(紀伊国)に移る。この日の夜、大坂本願寺が焼ける。
出典:『多聞院日記』同年月5日条、『信長公記』巻13(9)「大坂退散の事」

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