人 物 史

細川晴元 ほそかわ はるもと
生 没 年永正11年(1514)-永禄6年(1563)3/1
出 身-幼 名-
別 称六郎
法 名-
戒 名龍昇院
細川澄元清泰院
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者三条公頼の娘、六角定頼の娘
細川昭元、細川晴之、娘(朝倉義景の妻)、娘(飯尾定宗の妻)、娘(勝興寺顕栄の妻)、如春尼[養女](本願寺顕如の妻)
官 位右京大夫
役 職室町幕府 管領
城 郭芥川山城(摂津国)
参 考 文 献細川晴元に関する参考文献
関 連 デ ー タ史料にみえる細川晴元の呼称
細川晴元の関連文化財
細川晴元の家臣
細川晴元 年表
永正11年 1514年 -月-日 1歳
細川晴元が生まれる。
出典:-

永正17年 1520年 6月10日 7歳
父・澄元勝瑞城(阿波国)にて死去する。
出典:『陰徳太平記』巻4「細川澄元囲越水城付細川高国後詰之事」

大永1年 1521年 8月23日 8歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
出典:-

大永6年 1526年 12月13日 13歳
細川晴元勢の先陣として、細川典厩、細川和泉守、三好勝時、三好勝長、三好政長に着岸する。
出典:『陰徳太平記』巻6「城州桂川合戦之事」

大永7年 1527年 2月9日 14歳
三好勝長、三好政長柳本賢治と合流するべくを発つ。
出典:『陰徳太平記』巻6「城州桂川合戦之事」

大永7年 1527年 2月11日 14歳
三好勝長、三好政長山崎(山城国)に到着し、柳本賢治と合流する。
出典:『陰徳太平記』巻6「城州桂川合戦之事」

大永7年 1527年 2月13日 14歳
千咒寺の合戦で足利義晴細川道永・武田元光と柳本賢治、三好勝長、三好政長が戦い、賢治が勝利する。義晴方は多くの戦死者を出し、日野内光が戦死する。
出典:『北野社家日記』同年月日条、『陰徳太平記』巻6「城州桂川合戦之事」

大永7年 1527年 3月22日 14歳
足利義維細川晴元が阿波国よりに入る。
出典:『細川両家記』同年月日条、『陰徳太平記』巻6「城州川勝寺村合戦ノ事」

大永7年 1527年 3月23日 14歳
細川晴元北荘・南荘に、地下への宿泊免除、喧嘩、押買・押売、3銭以上の窃盗、濫妨狼藉(博打)の停止を定めた定書を発給する。北荘宛は右衛門尉・可竹軒周聡連署、南荘宛は三好元長、可竹軒周聡連署。
出典:大永7年3月23日付細川晴元掟書案(『蜷川家文書』2-494・495号)

大永7年 1527年 9月17日 14歳
三好元長伊丹城(摂津国)を攻める。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻6「城州川勝寺村合戦ノ事」

大永7年 1527年 10月13日 14歳
足利義晴細川道永が軍勢20000-30000を率い坂本(近江国)より上洛し、義晴は若王子に、高国は神護寺に陣所を置く。またその加勢として、六角定頼率いる軍勢20000(30000とも)が東福寺に、朝倉教景率いる軍勢6000(10000とも)が下京四条に布陣する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条

大永7年 1527年 10月25日 14歳
足利義晴東寺法輪院に、細川道永が吉祥寺(山城国)に陣替えする。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

大永7年 1527年 10月28日 14歳
三好元長伊丹城(摂津国)攻めを止め、細川道永を討つべく京に向かう。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻6「城州川勝寺村合戦ノ事」

大永7年 1527年 10月29日 14歳
川勝寺にて畠山義堯・遊佐河内守と朝倉宗滴が戦う。
出典:『陰徳太平記』巻6「城州川勝寺村合戦ノ事」

大永7年 1527年 11月17日 14歳
三好元長、波多野稙通、赤井、柳本賢治が長坂口より足利義晴の陣所に攻め入る。元長、賢治、赤井は本圀寺に陣取り、東寺への通路を塞ぐ。稙通は本能寺に陣取る。
出典:『言継卿記』・『厳助大僧正記』同年月日条

大永8年 1528年 1月21日 15歳
六角定頼三好元長細川晴元細川道永の和睦を取りまとめる。
出典:『細川両家記』

大永8年 1528年 4月2日 15歳
細川道永相国寺に陣替えする。六角定頼が相国寺慈照院に陣所を置く。
出典:『言継卿記』同年月日条

大永8年 1528年 4月21日 15歳
足利義晴相国寺万松軒に陣所を置く。
出典:『言継卿記』同年月日条

大永8年 1528年 5月28日 15歳
足利義晴六角定頼坂本(近江国)に撤退し、石山寺に陣取る。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

享禄1年 1528年 8月20日 15歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

享禄1年 1528年 9月8日 15歳
足利義晴が朽木(近江国)に逃れる。
出典:『享禄以来年代記』同年月日条(『続群書類従』第29輯下)

享禄2年 1529年 8月10日 16歳
三好元長が阿波国に帰国する。
出典:『細川両家記』

享禄2年 1529年 8月16日 16歳
柳本賢治、高畠、可竹軒が伊丹城(摂津国)を攻める。伊丹元扶が戦死する。
出典:『細川両家記』

享禄2年 1529年 11月21日 16歳
柳本賢治、高畠、可竹軒が伊丹城(摂津国)を落とす。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条、『細川両家記』

享禄3年 1530年 6月29日 17歳
柳本賢治が依藤城(播磨国)攻めの最中、家中の謀叛に遭い死去する。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条、『細川両家記』、『陰徳太平記』巻7「播州依藤城攻並浦上陥諸城事」

享禄3年 1530年 8月27日 17歳
細川道永が神咒寺(摂津国)に陣取る。道永に対応すべく、細川晴元高畠長直伊丹城(摂津国)に、池田信正を池田城(摂津国)に、薬師寺国盛を富松城(摂津国)に入れ置く。
出典:『細川両家記』

享禄3年 1530年 9月21日 17歳
細川道永が薬師寺国盛の籠る富松城(摂津国)を攻め落とす。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻7「細川常桓頼浦上則宗付摂州伊丹富松大物合戦之事」

享禄3年 1530年 10月19日 17歳
富松南(摂津国)にて細川道永高畠長直が戦い、道永が勝利する。道永は富松城(摂津国)に陣取る。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻7「細川常桓頼浦上則宗付摂州伊丹富松大物合戦之事」

享禄3年 1530年 11月6日 17歳
薬師寺国盛が細川道永に寝返る。道永は細川晴元被官の山中遠江守・瓦林左衛門尉の守る大物(摂津国)を攻め、同所を落とす。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻7「細川常桓頼浦上則宗付摂州伊丹富松大物合戦之事」

享禄4年 1531年 2月21日 18歳
細川晴元の要請により三好元長に到着する。
出典:『細川両家記』

享禄4年 1531年 2月28日 18歳
細川道永伊丹城(摂津国)を攻める。道永の攻撃に耐えられなくなった高畠長直が、城を道永に明け渡し池田城(摂津国)に移る。
出典:『細川両家記』

享禄4年 1531年 3月6日 18歳
細川道永池田城(摂津国)を攻め落とす。
出典:『細川両家記』

享禄4年 1531年 3月10日 18歳
細川道永にいる足利義澄・細川晴元を攻めるべく淀川を越え、中島(摂津国)に陣取る。先陣を住吉のこまつに陣取らせるが、より出撃した晴元勢に敗れる。諸勢は天王寺、今宮、木津、難波に、道永は中島の内の浦井に、浦上村宗は野田・福島(摂津国)に陣取る。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻7「天王寺合戦付細川常桓自害ノ事」

享禄4年 1531年 3月25日 18歳
細川政之が兵8000を率いに到着する。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻7「天王寺合戦付細川常桓自害ノ事」

享禄4年 1531年 閏5月13日 18歳
細川典厩、香川信景が築島に、三好元長が住吉の津守口遠里小野に陣取る。
出典:『陰徳太平記』巻7「天王寺合戦付細川常桓自害ノ事」

享禄4年 1531年 6月4日 18歳
細川道永勢が布陣する天王寺、今宮、木津に三好元長が攻めかかり、道永方の伊丹国扶、瓦日向守、薬師寺国盛、波々伯部兵庫介が戦死する。道永は尼崎(摂津国)に逃亡する。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻7「天王寺合戦付細川常桓自害ノ事」

享禄4年 1531年 6月5日 18歳
尼崎(摂津国)にいた細川道永を三好一秀が捕縛する。一秀より細川晴元に捕縛の報告があり、晴元は切腹させるように命じる。
出典:『細川両家記』

享禄4年 1531年 6月6日 18歳
細川道永が大物(摂津国)の広徳寺にて切腹する。
出典:『細川両家記』

享禄5年 1532年 1月23日 19歳
1月22日の三好元長による柳本甚次郎殺害の件で、細川晴元が細川持隆を折檻し、持隆と持隆被官人80が髻を切る。
出典:『二水記』同年月日条

享禄5年 1532年 3月5日 19歳
細川晴元三好元長を成敗するため軍勢催促状を発給する。
出典:(享禄5年)3月5日付細川晴元書状(「末吉文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-参考13号)

享禄5年 1532年 4月6日 19歳
細川晴元池田城(摂津国)に入城する。
出典:『私心記』同年月日条

享禄5年 1532年 5月19日 19歳
畠山義堯木沢長政飯盛山城(河内国)を攻める。
出典:『細川両家記』

享禄5年 1532年 6月15日 19歳
畠山義堯木沢長政の籠る飯盛山城(河内国)を攻撃していたところ、細川晴元が長政を救援すべく、本願寺証如に門徒の動員を依頼する。証如は30000の門徒勢を動員し飯盛山城の後詰に赴かせ畠山勢を破る。義堯は石川の道場にて自害する。
出典:『細川両家記』

享禄5年 1532年 6月20日 19歳
細川晴元本願寺証如に要請して馳せ集まった摂津・河内・和泉の一向一揆100000に、三好元長の居所であるの顕本寺が攻められる。追い詰められた元長は、三好一秀、塩田若狭守、加地丹波守等とともに自害する。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条、『言継卿記』同年月22日条

享禄5年 1532年 7月19日 19歳
一向一揆勢2000が山崎(山城国)に攻め込み西岡衆と戦う。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文1年 1532年 7月29日 19歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文1年 1532年 8月2日 19歳
にいた細川晴元が一向一揆勢に包囲されるが、合戦にて勝利する。
出典:『二水記』同年月3日条

天文1年 1532年 8月4日 19歳
細川晴元本願寺証如が敵対関係となる。(『私』)
木沢長政の衆が一向一揆勢と喧嘩し殺害される。長政はその報復として、の東にあるあさかの道場の近郷を放火する。
出典:『私心記』同年月日条、『祇園執行日記』同年月日条、『細川両家記』

天文1年 1532年 8月5日 19歳
一向一揆勢が細川晴元の居る北荘に攻め入るが、木沢長政の救援もあって細川勢が一向一揆勢を退ける。
池田城(摂津国)に摂津国の一向一揆勢が攻めかかるが和睦により一揆勢は開陣する。
出典:『経厚法印日記』同年月日条、『細川両家記』、『足利季世記』巻四 山科本願寺責落事

天文1年 1532年 8月8日 19歳
に居る細川晴元大坂本願寺に軍勢を遣わすも一向一揆勢が細川勢を退ける。
出典:『経厚法印日記』同年月日条

天文1年 1532年 8月23日 19歳
法華衆および六角定頼の軍勢30000-40000が山科本願寺を包囲する。定頼は同寺の東に陣取る。矢合わせが行われる。
出典:『二水記』同年月日条、『経厚法印日記』同年月日条

天文1年 1532年 8月24日 19歳
早朝より山科本願寺が法華衆や六角定頼勢の攻撃を四方から受ける。野村郷(山城国)からの焼き討ちにより寺内に入り込まれ、また下間兵庫助が定頼に内応したこともあって、未刻(13-15時)に諸勢が寺内に乱入し、同寺が陥落する。寺内は一軒も残らず焼き討ちされる。
定頼は夜に帰陣する。
出典:『私心記』同年月日条、『経厚法印日記』同年月日条、『二水記』同年月日条、『細川両家記』

天文1年 1532年 9月26日 19歳
山崎(山城国)にて一向一揆勢と薬師寺国長・法華衆が戦う。
出典:『二水記』同年月日条

天文1年 1532年 9月28日 19歳
山崎(山城国)にて一向一揆勢と薬師寺国長・法華衆が戦い、一揆勢が勝利する。薬師寺国長、一宮堅成が撤退する。
出典:『二水記』同年月日条

天文1年 1532年 10月1日 19歳
細川晴元の軍勢が京都に駐在し打ち回りをする。
出典:『祇園執行日記』同年月日条

天文1年 1532年 10月14日 19歳
京都の駐在していた細川晴元の軍勢が丹波国に向けて京都を発つ。
出典:『祇園執行日記』同年月日条

天文2年 1533年 2月10日 20歳
一向一揆がにいる細川晴元を攻め、堺を落とす。晴元は淡路国に逃亡する。
出典:『足利季世記』巻四 所々一揆起ル事、『陰徳太平記』巻8「摂州諸所合戦之事」

天文2年 1533年 3月5日 20歳
一向一揆が伊丹城(摂津国)を攻撃する。
出典:『足利季世記』巻四 伊丹城合戦附晴元帰ル事、『細川両家記』、『陰徳太平記』巻8「摂州諸所合戦之事」

天文2年 1533年 3月29日 20歳
一向一揆に攻撃されている伊丹城(摂津国)を救援すべく、法華衆を引き連れ同城の後詰に駆け付け一向一揆を破る。
出典:『足利季世記』巻四 伊丹城合戦附晴元帰ル事、『陰徳太平記』巻8「摂州諸所合戦之事」

天文2年 1533年 4月6日 20歳
細川晴元淡路国より池田城(摂津国)に入る。
出典:『私心記』同年月日条、『足利季世記』巻四 伊丹城合戦附晴元帰ル事、『細川両家記』、『陰徳太平記』巻8「摂州諸所合戦之事」

天文2年 1533年 4月7日 20歳
池田城(摂津国)に着陣する。本満寺に本願寺との手切れが15日であることを伝えたうえで檀那を動員し大坂本願寺に攻め入るよう催促する。
出典:(天文2年)4月7日付細川晴元書状(『戦国遺文』三好氏編第1巻-103号「本満寺文書」)

天文2年 1533年 4月26日 20歳
上京下京の日蓮衆徒が、京都に滞在している細川晴元勢に交じり大坂本願寺攻めに出陣する。
出典:『祇園執行日記』同年月日条

天文2年 1533年 4月29日 20歳
に籠っていた一向一揆が細川晴元の攻撃を受け大坂本願寺に撤退する。
出典:『足利季世記』巻四 伊丹城合戦附晴元帰ル事、『細川両家記』

天文2年 1533年 5月5日 20歳
三好千熊丸木沢長政、法華衆が大坂本願寺を攻める。
出典:『足利季世記』巻四 伊丹城合戦附晴元帰ル事、『陰徳太平記』巻8「摂州諸所合戦之事」

天文2年 1533年 5月20日 20歳
細川晴元本願寺証如の和睦が成立する。大坂本願寺を攻めていた三好千熊丸木沢長政、法華衆が同寺より撤退する。
出典:『足利季世記』巻四 伊丹城合戦附晴元帰ル事、『細川両家記』

天文2年 1533年 6月8日 20歳
中島(摂津国)との手切れにより、同地への攻撃を三好千熊丸に命じたことを本満寺に伝え、同寺に大坂在陣を促す。
出典:(天文2年)6月8日付細川晴元書状(「本満寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-参考14号)

天文2年 1533年 6月18日 20歳
平岡にて細川晴国と薬師寺国長・三雲資胤・蒲生定秀進藤貞治が戦い、晴国が勝利する。薬師寺国長は戦死する。
出典:『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』151号)

天文2年 1533年 6月21日 20歳
細川晴元本願寺証如が和睦した、もしくは和睦して安堵した晴元に一向一揆勢が襲い掛かったと京都にて噂される。
出典:『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』151号

天文2年 1533年 6月22日 20歳
細川晴元本願寺証如の和睦について、実説は和睦はなったが、大坂本願寺にいた細川高国の牢人衆が晴元勢、証如勢に襲い掛かり双方300人の死者を出したという。
出典:『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』151号

天文2年 1533年 6月23日 20歳
細川晴国と法華寺法華衆が戦う。
出典:『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』151号

天文2年 1533年 8月11日 20歳
三好長直が本願寺証如と和睦し細川晴元に叛旗を翻す。
出典:『足利季世記』巻四 三好伊賀守合戦之事

天文2年 1533年 10月18日 20歳
官庁近辺にて細川晴元と細川晴国が戦い、晴元が勝利する。ただし、晴元勢も死傷者を多く出す。
出典:『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』152号)

天文2年 1533年 -月-日 20歳
木沢長政細川晴元に叛旗を翻した三好長直を説得し晴元に仕えさせる。
出典:『足利季世記』巻四 三好伊賀守合戦之事

天文2年 1533年 11月16日 20歳
木沢長政が大和衆を引き連れ、大坂本願寺近辺を焼き討ちする。
出典:『私心記』同年月日条

天文2年 1533年 12月7日 20歳
丹波国にいる細川晴国が軍勢(波多野氏足軽)を西京(山城国)に遣す。
出典:『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』152号)

天文2年 1533年 12月8日 20歳
巳刻(9-11時)、細川晴元と細川晴国の軍勢が、本圀寺、四条法華堂、知恩寺にて戦う。晩に双方引き上げる。
出典:『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』152号)

天文3年 1534年 7月20日 21歳
木沢長政三好政長が軍勢20000をもって細川晴国方の嵯峨城(西芳寺城)(山城国)を攻める。
出典:『北野社家日記』同年月日条、『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』154号)

天文3年 1534年 8月28日 21歳
足利義晴の命により、芥川山城(摂津国)にいた細川晴元が、軍勢3000を率い、亥刻(21-23時)、上洛する。晴元に内藤、香西元成が随従する。晴元は四条橋を通り建仁寺(山城国)に寄宿する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天文3年 1534年 -月-日 21歳
足利義維が志筑(淡路国)に下向し、当地に居す。
出典:『阿州将裔記』「足利義冬より之系図」

天文3年 1534年 -月-日 21歳
足利義維が平島荘(阿波国)に下向し、当地に居す。
出典:『阿州将裔記』「足利義冬より之系図」

天文4年 1535年 9月28日 22歳
細川晴元建仁寺(山城国)に入る。
出典:『祇園執行日記』同年月日条

天文5年 1536年 7月27日 23歳
延暦寺衆徒、六角定頼が京都の法華宗寺院を攻撃する。これにより、上京の一条・小川あたりが焼け、誓願寺講堂が焼失する。下京も放火される。
出典:『巌助往年記』同年月日条

天文5年 1536年 7月29日 23歳
木沢長政、三好長直、三好政長が中島(摂津国)に侵攻する。それにつき本願寺証如が長政に無事中島に侵入したことを祝う使者を送る(使者は藤井八郎左衛門尉)。その際、長政より本陣である天王寺より兵糧を中島に運び入れるにあたって、運搬のための船を所望され、また兵糧も少々所望される。証如は船5艘と飯を送る。この事件により大坂本願寺の備えを厚くするため、加賀四郡番衆が武具を購入したいので100貫の借用を願い出たので、証如は100貫を貸し与える。
出典:『天文日記』同年月日条、『私心記』同年月日条、『足利季世記』巻四 細川晴国最後ノ事

天文5年 1536年 8月29日 23歳
細川晴国が三宅国村の裏切りにあい、天王寺(摂津国)にて自害する。
出典:-

天文5年 1536年 8月-日 23歳
細川晴国が天王寺において自害する。
出典:『巌助往年記』同年月日条

天文5年 1536年 9月2日 23歳
足利義晴が隠居を表明し、子・菊童丸に家督を譲る。政務について、奉行衆として大舘常興大舘晴光摂津元造細川高久海老名高助本郷光泰荒川氏隆朽木稙綱を指名する。
出典:『巌助往年記』同年月日条

天文5年 1536年 9月24日 23歳
細川晴元山崎(山城国)より上洛する。
出典:『巌助往年記』同年月日条

天文5年 1536年 10月2日 23歳
本願寺証如細川晴元の入洛を祝し太刀1腰・5合5荷・書状を送る。また木沢長政も入洛したので、長政へも太刀1腰・3種5荷・書状を送る。使者は横田出雲。
出典:『天文日記』同年月日条

天文6年 1537年 1月1日 24歳
細川晴元、外様衆の細川元常、細川陸奥守、細川二郎四郎、摂津元造、二階堂左衛門尉、御供衆の大舘常興大舘晴光、大舘兵庫頭、畠山民部大輔、上野与三郎、大舘治部大輔、朽木稙綱、伊勢兵庫助が出仕する。足利義晴足利菊童丸への取次は荒川氏隆
出典:『言継卿記』同年月日条

天文6年 1537年 4月19日 24歳
細川晴元六角定頼の娘と祝言をあげる。
出典:『天文日記』同年4/28条

天文6年 1537年 8月23日 24歳
伊東義祐が将軍 足利義晴の偏諱を望んでいることを細川晴元が披露し許可を得たことを晴元が義祐に伝える。詳しくは三好政長が添状にて伝える。
出典:(天文6年)8月23日付細川晴元書状(「伊東家古文状」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-108号)

天文6年 1537年 12月24日 24歳
本願寺証如細川晴元の和睦につき、証如が木沢長政に300貫を贈る(使者が出たのは25日)。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 1月1日 25歳
細川晴元が幕府に出仕する。供は薬師寺与一、長塩又二郎。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 1月2日 25歳
細川晴元が幕府に出仕する。供は香西、柳本。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 1月3日 25歳
細川晴元が幕府に出仕する。供は薬師寺与一、長塩又二郎。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 1月7日 25歳
細川晴元が幕府に出仕する。供は波多野、柳本。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 2月13日 25歳
細川晴元が自邸にて観世大夫の能を催す。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 3月2日 25歳
細川晴元が幕府に出仕する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 3月5日 25歳
細川晴元山崎(山城国)にて城を築く。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 3月15日 25歳
細川晴元が上洛する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 3月25日 25歳
足利義晴が観世大夫の能を催す。細川晴元が参会する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 4月24日 25歳
細川晴元が能を催す。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 8月1日 25歳
細川晴元が幕府に出仕する。供は波多野備前。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 8月21日 25歳
本願寺証如細川晴元に制札の礼として太刀1腰・銭3000疋(30貫)を、晴元の取次・古沢に銭500疋(5貫)を、茨木長隆に太刀1腰・馬代を贈る(使者は八尾新四郎)。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 8月27日 25歳
8/23に細川晴元へ遣わした八尾新四郎が大坂本願寺に戻り、古沢(晴元取次)・茨木長隆が喜んでいた旨を証如に伝える。また、晴元が発令した徳政令について、大坂本願寺寺内は徳政の適用範囲外である旨が晴元より伝えられる。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 9月2日 25歳
六条八幡宮に納める御馬代1疋について、八朔の進上物として細川晴元が幕府に納めた馬が御倉 正実坊にいるのでそれを請け取るようにと治部河内守に伝える。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文7年 1538年 9月8日 25歳
細川高久細川晴元による山城国段銭賦課について奉公衆の所領を免除するようにとする御内書の作成を大舘常興に依頼し、案文を受け取る。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文7年 1538年 10月19日 25歳
足利義晴細川晴元が八木城(丹波国)を攻め、負傷者を出す。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 10月-日 25歳
細川晴元の命により三好政長が山城国上郡にて段銭を徴収する。
出典:『巌助往年記 上』同年月日条

天文7年 1538年 11月3日 25歳
足利義晴細川晴元が八木城(丹波国)を攻め、負傷者を出す。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 -月-日 25歳
細川氏綱が、にて細川晴元打倒の兵をあげる。
出典:-

天文8年 1539年 1月1日 26歳
細川晴元が幕府に出仕する。供は薬師寺与一、長塩又二郎、柳本。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 1月2日 26歳
細川晴元が幕府に出仕する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 1月3日 26歳
細川晴元が幕府に出仕する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 1月14日 26歳
三好長慶が軍勢2500を引き連れ上洛する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 1月15日 26歳
細川晴元が幕府に出仕する。供は三好長慶、長塩又二郎、芥川。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 1月25日 26歳
三好長慶が催した宴に細川晴元が招かれ、晴元は観世能を見物する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 2月20日 26歳
細川晴元伊勢貞孝邸を訪れる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 3月19日 26歳
娘が生まれる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 4月1日 26歳
細川晴元伊勢貞孝が幕府に出仕する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 5月5日 26歳
細川晴元が幕府に出仕する。供は波多野、池田。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 6月1日 26歳
細川晴元伊勢貞孝が幕府に出仕する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 閏6月17日 26歳
三好利長(長慶)三好政長の確執により、細川晴元が高雄(山城国)に引き退く。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条、『巌助往年記』同年月条、『大舘常興日記』同年7月1日条

天文8年 1539年 閏6月18日 26歳
高雄(山城国)滞在中の細川晴元のもとに野依二郎左衛門尉が遣わされる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 7月6日 26歳
伊勢貞孝が高雄(山城国)にいる細川晴元に音信として5種10荷を遣わす。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 7月14日 26歳
三好政長が高雄(山城国)より妙心寺・西京に攻め入ったのを受け、三好利長(長慶)山崎(山城国)より三好伊賀守を金乗寺に出陣させる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 7月21日 26歳
吉祥城(山城国)を三好利長(長慶)が攻め落とす。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 7月23日 26歳
細川晴元茨木長隆伊勢貞孝のもとに遣わし、洛中洛外を除く西国に徳政令の発布を提案する。貞孝より足利義晴にその旨の披露があり、義晴は六角定頼に相談せよと返答する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 7月25日 26歳
足利義晴上京下京での徳政を停止する。
細川晴元が高雄より嵯峨(山城国)に陣替えする。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 7月27日 26歳
高雄(山城国)に在陣中の細川晴元のもとに本願寺証如が音信として書状と5種10荷を遣わす。
出典:『天文日記』同年月日条

天文8年 1539年 8月13日 26歳
三好利長(長慶)三好政長の対立のことにつき、六角定頼坂本(近江国)に赴く。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 9月13日 26歳
三好利長(長慶)三好政長の対立の仲裁に乗り出した六角定頼進藤貞治と永原重隆に軍勢800を付し芥川山城(摂津国)に遣わす。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 9月26日 26歳
細川晴元山崎(山城国)より上洛する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 9月27日 26歳
伊勢貞孝細川晴元のもとを訪れる。貞孝の供は波多野。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 10月1日 26歳
細川晴元伊勢貞孝が幕府に出仕する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 10月3日 26歳
六角定頼が上洛する。蒲生定秀、青地、池田、下笠、上崎、三雲、本間が定頼の供をする。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 10月10日 26歳
細川晴元六角定頼義賢父子を自邸に招く。晴元が催した観世能に伊勢貞孝も出席する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 10月22日 26歳
細川晴元六角定頼のもとを訪れる。定頼は観世能を催す。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 10月-日 26歳
三好利長(長慶)三好政長が和睦する。
出典:『巌助往年記 上』同年月条

天文8年 1539年 11月1日 26歳
細川晴元、六角定頼が幕府に出仕する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 12月2日 26歳
3日の足利義晴菊童丸父子の細川晴元邸への訪問につき晴元のもとへ伊勢貞孝が見舞いに赴く。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 12月3日 26歳
足利義晴菊童丸父子が細川晴元のもとを訪れる。義晴の供は細川右馬頭、佐々木民部少輔、春阿。菊童丸の供は大舘晴光、上野与三郎、細川晴経、大舘晴忠、伊勢貞孝、祐阿。能が催される。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 12月4日 26歳
足利義晴菊童丸父子が細川晴元近侍のもと自邸に戻る。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文10年 1541年 6月29日 28歳
細川晴元が、妙観院領摂津国下郡御料所中・都賀荘要脚反銭賦課免除につき徴収催促を停止するよう三好範長(長慶)と平井新左衛門尉に命じる。
出典:天文10年6月29日付細川晴元奉行人奉書案(『戦国遺文』三好氏編第1巻-148号「天城文書」)

天文10年 1541年 10月2日 28歳
三好長慶、波多野が塩川城(摂津国)を攻撃中、木沢長政が裏切ったため、長慶等は塩川城より撤退すると、京都にて風聞が伝わる。
出典:『惟房公記』同年月日条

天文10年 1541年 10月16日 28歳
細川晴元が、晴元に謀叛を起こした木沢長政の討伐のため鷹山弘頼に軍勢催促をする。
出典:(天文10年)10月16日付細川晴元書状(『戦国遺文』三好氏編第1巻-157号「興福院文書」)

天文10年 1541年 10月29日 28歳
木沢長政細川晴元に謀叛を起こす。早朝、晴元は岩倉(山城国)の山本氏の館に赴くが、その日のうちに引き返す。足利義晴が晴元に供奉するよう命じたが、晴元は応じず。
出典:『惟房公記』同年月日条

天文10年 1541年 12月8日 28歳
細川晴元木沢長政を対治するため芥川山城(摂津国)まで軍勢を寄せる。
出典:『多聞院日記』同年月15日条

天文10年 1541年 12月12日 28歳
細川晴元の摂津国出陣につき本願寺証如が晴元に音信として太刀1腰、5種10荷、細川藤賢に太刀1腰・3種5荷、三好長慶・波多野備前・三好政長に太刀1腰・綿10把、高畠長直に綿3把、藤賢取次の小河民部丞に太刀1腰・綿3把を送る。使者は八尾新四郎。
出典:『天文日記』同年月日条、(天文10年)12月10日付本願寺証如書状案(『戦国遺文』三好氏編第1巻-159号『天文書札案』)

天文10年 1541年 12月20日 28歳
足利義晴本願寺証如に御内書を発給し、河内国門徒が木沢長政に加勢しないように同国門徒中へ指示するよう命じる。
出典:『天文日記』同年月日条

天文10年 1541年 12月22日 28歳
本願寺証如が12月20日請け取った御内書の旨に従うことを、足利義晴に返事する。
出典:『天文日記』同年月日条

天文10年 1541年 12月26日 28歳
本願寺証如が歳末の礼として細川晴元に太刀1腰、三好長慶に太刀1腰を贈る。使者は大坂小五郎。
証如が出陣中の芥川孫十郎・池田長正に太刀1腰・梅染2端を贈る。
証如が木沢長政に藤井八郎左衛門を遣わす。
出典:『天文日記』同年月日条

天文11年 1542年 1月11日 29歳
細川晴元が上洛する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月18日条

天文11年 1542年 1月14日 29歳
細川晴元芥川山城(摂津国)に入城する。
出典:『天文日記』同年月18日条

天文11年 1542年 2月21日 29歳
足利義晴細川晴元の戦勝祈願の祈祷料を京中諸土倉に賦課する。担当は細川高久
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 3月6日 29歳
細川晴元伊勢貞孝に長塩を遣わし、唐船進物のことについて礼を述べる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 3月17日 29歳
木沢長政信貴山城(大和国)・二上・飯盛山城(河内国)の軍勢5000をもって遊佐長教が籠る高屋城(河内国)を攻める。これを受け、細川晴元三好長慶三好政長六角定頼が出陣する。太平寺の合戦で、細川・三好・遊佐・六角と長政と戦い、細川等が勝利し、長政は戦死する。
合戦後、信貴山城が焼失する。
出典:『厳助往年記』同年月日条、『天文日記』同年月日条、『蜷川親俊日記』同年月18・19日条、『惟房公記』同年月日18日条

天文11年 1542年 3月19日 29歳
細川晴元より木沢長政の首が足利義晴のもとに届く(使者は山中橘左衛門尉)。これを受け、晴元に長政と遊佐又五郎を討ち取ったことは神妙との旨を記した御内書を発給する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 3月21日 29歳
細川晴元が太平寺の合戦で戦功のあった鷹山弘頼に感状を発給する。
出典:(天文11年)3月21日付細川晴元書状(「興福院文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-166号)

天文11年 1542年 3月26日 29歳
細川晴元が摂津国より上洛する。
出典:『惟房公記』同年月28日条

天文11年 1542年 3月27日 29歳
細川晴元が京都より足利義晴の居る坂本(近江国)に赴く。
出典:『惟房公記』同年月28日条

天文11年 1542年 3月28日 29歳
足利義晴菊童丸父子が坂本(近江国)より大津(近江国)を経由し上洛する。義晴の供は細川右馬頭、上野与三郎、万阿、藤中納言。菊童丸の供は大舘晴光、佐々木、小原、大舘治部大夫、佐々木民部少輔、伊勢貞孝、孝阿。義晴は相国寺法住院に入り、御殿の作事を命じる。
細川晴元は坂本(近江国)より上洛する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条

天文11年 1542年 閏3月16日 29歳
足利義晴が酒宴を催す。細川晴元が参加し、晴元より鷹が進上される。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 閏3月20日 29歳
足利義晴が酒宴を催す。細川晴元が参加する。
摂津国、丹波国において不知行地がある者は名乗り出るようにと命じる。
出典:『蜷川親俊日記』『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 閏3月21日 29歳
飛鳥井雅綱の蹴鞠会に、細川晴元、細川丹波守、長塩、大井源介、平井、桜井、速水、吉田、蜷川親俊が参加する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 閏3月22日 29歳
細川晴元の使者として高畠長直大坂本願寺に居る本願寺証如のもとに赴く。未刻(13-15時)、長直と証如が対面する。証如は長直を三献をもってもてなす。
出典:『天文日記』同年月日条

天文11年 1542年 閏3月28日 29歳
大舘晴光邸(万松軒)に近衛稙家細川晴元伊勢貞孝が訪れる。酒宴あり。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 5月24日 29歳
伊勢貞孝細川晴元に矢筒を贈る。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 6月23日 29歳
細川晴元の京都の屋敷の普請が終わる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 7月9日 29歳
幕府奉公衆の知行分の安堵を細川晴元が承認したので、幕府は祝着の意を伝えるべく伊勢貞孝を晴元のもとに遣わし鷹を贈る。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 7月10日 29歳
細川晴元が9日に鷹を贈ってもらったことへの礼として足利義晴のもとに赴く。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 7月19日 29歳
近衛稙家細川晴元のもとを訪れる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 8月5日 29歳
伊勢貞孝細川晴元のもとを訪れる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 8月21日 29歳
伊勢貞孝細川晴元のもとを訪れる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 9月3日 29歳
細川晴元伊勢貞孝のもとを訪れる。小的あり。その後、座敷にて酒宴あり。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 9月6日 29歳
細川晴元伊勢貞孝に馬を贈る。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 10月3日 29歳
細川晴元が丹波に向けて発ち、嵯峨(山城国)に逗留する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 10月26日 29歳
白河直広の偏諱と左京大夫任官について、細川晴元が請け負うので伊勢貞孝が直広の依頼を晴元に伝える。直広には「晴広」の名と左京大夫任官が認められる。これにつき、晴元の使者として筒井蔵人と富松与一、白河方の使者である八槻別当の派遣が決まり、白河晴綱、班目十郎、船田式部少輔、和知右馬助への蜷川親俊書状が調えられる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 11月23日 29歳
細川晴元が丹波より上洛する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 12月1日 29歳
細川晴元伊勢貞孝が幕府に出仕する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文12年 1543年 5月26日 30歳
本願寺証如の子・顕如の誕生を祝う細川晴元の使者として高畠長直大坂本願寺に訪れる。証如は長直を三献をもってもてなす。
出典:『天文日記』同年月日条

天文12年 1543年 7月-日 30歳
細川氏綱が10000余の軍勢をもって槙尾城に入城する。
出典:『多聞院日記』同年月27日条

天文12年 1543年 8月24日 30歳
本願寺証如が、細川晴元芥川山城(摂津国)入城につき、晴元に太刀・5種10荷を贈る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文12年 1543年 10月20日 30歳
本願寺証如細川晴元に、細川氏綱との戦いに勝利したことを祝す音信を遣わす。使者は八尾。
出典:『天文日記』同年月日条

天文13年 1544年 1月-日 31歳
細川晴元細川氏綱を討伐するため芥川山城(摂津国)に入城する。
出典:『厳助往年記』同年月日条

天文13年 1544年 1月-日 31歳
にて細川晴元細川氏綱が戦い、晴元が勝利する。
出典:『厳助往年記』同年月日条

天文14年 1545年 2月25日 32歳
細川晴元邸にて千句が行われる。参加者は山科言継、東坊城、細川元常、細川尹隆、細川晴賢、誓願寺西堂、智恵光院重蓮社、最勝院素経、曽我、本郷光泰安威藤備、飯川彦九郎、諏訪信濃守、寿慶、祐乗、春阿弥、飯尾兵部丞。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文14年 1545年 5月24日 32歳
細川晴元が上野玄蕃頭勢を討つべく山城国南部に三好長慶三好宗三等率いる軍勢を遣わす。
出典:『厳助往年記』同年月日条

天文15年 1546年 8月10日 33歳
細川晴元が8/6に日本にやってきた唐人(29名程度)の礼を受ける。
出典:『厳助大僧正記』同年同月日条(『史籍集覧』25 近代デジタルライブラリー コマ番号178-208)

天文15年 1546年 12月16日 33歳
細川晴元が書状をもって河内国一揆について本願寺証如が制止を加えたことについて謝す。
出典:『天文日記』同年月日条

天文15年 1546年 12月19日 33歳
足利義藤坂本(近江国)の樹下成保邸にて元服する。加冠は六角定頼、理髪は細川晴経、惣奉行は摂津元造、元服奉行は松田晴秀飯尾堯連、打乱は朽木稙綱、泔坏は大原高保、御祝調進は大隅秀宗・大草公広、御手長は伊勢盛正、御物奉行は蜷川親俊・三上秀長が勤める。定頼は義藤に馬・弓・征矢・鎧・砂金を進上する。
足利義藤の御乗馬初め儀を執行する。
義藤が従四位下・左馬頭に叙位・任官する。征夷大将軍就任の宣旨が下され、勅使・高辻大納言が義藤のいる坂本(近江国)に遣わされる。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条、『光源院殿御元服記』(『群書類従』)

天文16年 1547年 3月22日 34歳
三宅城(摂津国)の三宅国村が細川晴元勢の攻撃を受け、退城する。
出典:『陰徳太平記』巻15「将軍北白川御籠城之事」

天文16年 1547年 3月晦日 34歳
足利義晴義藤父子が北白川城(山城国)に900余騎にて籠城する。随従者は近衛稙家聖護院道増、大覚寺義尭、烏丸光康日野晴光、高倉永家、日野資将、賀茂在留、大舘晴光、細川輝経、大舘晴忠、細川隆是、伊勢貞教、摂津元造、摂津晴門、三淵晴員、小笠原備前守、武田信実和田惟政
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」

天文16年 1547年 4月1日 34歳
細川晴元三好長慶ら淡路・四国衆30000をもって足利義晴義藤父子が籠城する北白川城(山城国)を攻める。
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」

天文16年 1547年 4月10日 34歳
足利義晴義藤父子が籠城する北白川城(山城国)を攻めていた三好長慶ら淡路・四国衆30000が摂津国国衆の制圧を優先した細川晴元の命により摂津国に引き上げる。
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」

天文16年 1547年 5月5日 34歳
細川晴元芥川山城(摂津国)に籠城する薬師寺与一を攻撃する。攻め衆は三好長慶ほか。
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」

天文16年 1547年 6月25日 34歳
三好長慶の攻撃を受けていた芥川山城(摂津国)に籠る薬師寺与一が長慶に降伏する。
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」

天文16年 1547年 7月12日 34歳
細川晴元が四国勢を率い上洛し相国寺に陣取る。
晴元の要請を受けた晴元舅・六角定頼が、足利義晴義藤が籠城する北白川城(山城国)を包囲する。
出典:『足利季世記』巻4「公方東坂本御出奔ノ事」

天文16年 1547年 7月19日 34歳
細川晴元六角定頼の包囲を受け耐えられず足利義晴義藤父子が籠城していた北白川城(山城国)を自焼し東坂本(近江国)に逃れる。
出典:『足利季世記』巻4「公方東坂本御出奔ノ事」、『陰徳太平記』巻15「将軍北白川御籠城之事」

天文16年 1547年 7月29日 34歳
足利義藤細川晴元六角定頼義賢父子を赦免する。両人が義晴のいる坂本(近江国)に出仕する。ただし、晴元は義晴とは対面できず。
晴元・定頼間で諸事協議がなされる。
出典:『足利季世記』巻4「舎利寺合戦ノ事附晴元定頼免許ノ事」、『厳助往年記 上』同年月日条

天文16年 1547年 閏7月3日 34歳
細川晴元が細川国慶の籠る高雄城(山城国)を攻撃するため20000の軍勢を率い出陣する。晴元は龍安寺を陣所とする。晴元の出陣につき、六角定頼進藤貞治・永原・三雲・蒲生定秀・青地ら軍勢500を援軍として送る。
出典:『厳助往年記』同年同月条

天文16年 1547年 閏7月5日 34歳
細川晴元が細川国慶の籠る高雄城(山城国)を攻め落とす。この戦いで神護寺の堂舎全てが放火される。
出典:『厳助往年記』同年同月条

天文16年 1547年 閏7月29日 34歳
足利義藤のもとに細川晴元が挨拶に訪れる。晴元と六角定頼が諸事を協議する。
出典:『厳助大僧正記』同年同月条

天文17年 1548年 4月24日 35歳
細川晴元と畠山政国が和睦する。晴元勢(三好長慶三好之虎安宅冬康等)が、若林(河内国)の陣所を払いへ移る。
出典:『足利季世記』巻4「細川玄蕃頭討死ノ事」

天文18年 1549年 1月13日 36歳
六角定頼が、岸和田兵衛大夫に、三好長慶細川晴元に謀反したこと、松浦守が長慶に与同したことを伝え、兵衛大夫に晴元方として行動するように求める。
出典:天文18年1月13日付六角定頼書状写(「武家事紀」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-参考19号)

天文18年 1549年 2月26日 36歳
細川晴元が細川晴堅の館がある中島城(摂津国)に入る。
三好長慶尼崎(摂津国)に出陣する。この日、畠山・遊佐長教の軍勢が欠郡(摂津国)・河内十七箇所に陣取る。
出典:『足利季世記』巻4「方浜合戦ノ事」

天文18年 1549年 3月1日 36歳
細川晴元が籠る中島城(摂津国)に軍勢を率い向かう。途中、柴島城にいる三好宗三と戦い破り、あわせて中島城を落とし入城する。軍勢を榎並城(河内国)に遣わす。
出典:『足利季世記』巻4「方浜合戦ノ事」

天文18年 1549年 3月-日 36歳
細川晴元が三宅国村の三宅城(摂津国)を落とし在城する。
出典:『足利季世記』巻4「方浜合戦ノ事」

天文18年 1549年 4月-日 36歳
細川晴元が近江国に赴き、六角定頼と摂津攻めのことについてと談合する。
出典:『厳助大僧正記』同年同月条(『史籍集覧』25 近代デジタルライブラリー コマ番号178-208)

天文18年 1549年 4月26日 36歳
細川晴元が摂津を攻めるにあたり丹波国を経由し塩川城(摂津国)に下向する。
六角定頼が晴元の摂津国攻めを援護するべく京都東山に軍勢を遣わす。
出典:『厳助大僧正記』同年同月条(『史籍集覧』25 近代デジタルライブラリー コマ番号178-208)、『足利季世記』巻4「川原合戦ノ事」

天文18年 1549年 4月28日 36歳
塩川城(摂津国)にいた細川晴元のもとに三好宗三が合流し、西宮(摂津国)を放火する。
出典:『足利季世記』巻4「川原合戦ノ事」

天文18年 1549年 4月29日 36歳
三好宗三伊丹親興尼崎(摂津国)を放火する。
出典:『足利季世記』巻4「川原合戦ノ事」

天文18年 1549年 5月1日 36歳
三好宗三が東富松城(摂津国)を攻めるが、城兵の抗戦により撤退する。
出典:『足利季世記』巻4「川原合戦ノ事」

天文18年 1549年 5月2日 36歳
三宅城(摂津国)の香西元成三好長逸の守る芥川山城(摂津国)を攻撃するも敗れる。
出典:『足利季世記』巻4「川原合戦ノ事」

天文18年 1549年 5月5日 36歳
三好宗三が諸勢を率い三宅城(摂津国)に入る。
出典:『足利季世記』巻4「幡雲立事」

天文18年 1549年 5月9日 36歳
細川晴元の合力として岸和田兵衛大夫と木沢左京亮が河内国に攻め込むべく北荘に陣取るが、畠山・遊佐長教三好長慶の軍勢に攻め込まれ敗走する。
出典:『足利季世記』巻4「幡雲立事」

天文18年 1549年 5月28日 36歳
細川晴元が一庫城(摂津国)より三宅城(摂津国)に入る。
出典:『足利季世記』巻4「幡雲立事」

天文18年 1549年 6月24日 36歳
十河一存が単独で細川晴元の居所である三宅城(摂津国)を攻撃する。一存の三宅城攻撃を受けてもなお三好長慶細川晴元との戦いは避け、三好宗三の籠る江口城を攻撃し、落とす。この戦いで宗三、高畠長直高畠長信が戦死する。晴元は政長の敗報を受け嵯峨(山城国)に逃れる。
出典:『私心記』同年同月条、『足利季世記』巻4「江口城攻落シ宗三打死ノ事」、『厳助大僧正記』同年同月条(『史籍集覧』25 近代デジタルライブラリー コマ番号178-208)、

天文18年 1549年 6月25日 36歳
六角義賢細川晴元の援軍として進藤貞治ら軍勢36000を率い西ノ岳・鳥羽・竹田・山崎・神南(山城国)に軍勢を駐屯させ自身は東寺に布陣する。しかし、24日の江口の合戦で晴元が敗れたとの報が入り、義賢は北白川(山城国)まで撤退する。
晴元は夕方に上洛する。
出典:『足利季世記』巻4「大樹ト晴元御没落ノ事」

天文18年 1549年 6月27日 36歳
24日の江口の合戦で三好長慶に敗れた細川晴元が、足利義晴義藤と合流し、近衛晴嗣聖護院道増、大覚寺義俊、三宝院義尭、久我晴通とともに京都を脱し慈照寺に逗留する。晴元は東山葛岡に陣取る。
義晴、義藤、晴元、六角義賢が長慶への対応を協議する。
出典:『足利季世記』巻4「大樹ト晴元御没落ノ事」

天文18年 1549年 6月28日 36歳
足利義晴義藤父子、細川晴元東坂本(近江国)の常在寺に移る。
出典:『足利季世記』巻4「大樹ト晴元御没落ノ事」

天文18年 1549年 7月-日 36歳
六角定頼が摂津国にて細川晴元が死亡したと聞き、山崎(山城国)まで軍勢を進めるが、無事であることを知り京都に戻る。
出典:『厳助大僧正記』同年同月条

天文18年 1549年 -月-日 36歳
清水寺本願が千部経法会の実施を細川晴元に確認したところ、晴元は三千部・四千部を用意し、万部経法会を実施すると宣伝するように答える。そのため、万部経法会の開催を知らせる高札をかかげる。
出典:『清水寺別当記』同年2月24日条

天文19年 1550年 1月1日 37歳
細川晴元伊勢貞孝が幕府に出仕する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文19年 1550年 1月7日 37歳
伊勢貞孝が吉書につき幕府の使者として細川晴元のもとに赴く。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文19年 1550年 3月7日 37歳
今村慶満、小泉氏が四条に野伏せりをしかけてきた細川晴元足軽と戦う。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

天文19年 1550年 3月13日 37歳
細川晴元が足軽を四条に送り野伏せりをしかける。また、晴元は軍勢を西院に遣わし焼き討ちにする。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 3月27日 37歳
足利義晴は東山御城に移る予定であったが、細川晴元が同意せず、移動は取り止めとなる。
出典:『厳助往年記』同年月日条

天文19年 1550年 4月4日 37歳
足利義晴が北白川(山城国)に城を築く。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 4月17日 37歳
細川晴元が、未明、山中より西院小泉城(山城国)に軍勢を差し向け攻撃する。馬廻衆1名、30名ばかりが討死する。午刻(11-13時)、寄衆が撤退する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 5月4日 37歳
辰刻(7-9時)、足利義晴が死去する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 5月11日 37歳
細川晴元六角義賢の諫言により足利義藤が比叡辻(近江国)宝泉寺に移る。
出典:『足利季世記』巻4「前将軍薨逝ノ事」

天文19年 1550年 6月9日 37歳
足利義藤細川晴元が中尾城(山城国)に入城する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 7月8日 37歳
細川晴元坂本(近江国)より馬廻衆らを吉田・浄土寺・北白川(山城国)に出撃させる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 7月14日 37歳
三好長逸三好長虎十河一存が率いる三好勢18000が一条から五条に展開する。細川晴元が足軽100で野伏せりを仕掛け鉄砲にて三好長虎与力を討つ。足利義藤は吉田山(山城国)に陣取るも三好勢と交戦せず。六角定頼勢は北白川山上に布陣するも交戦せず。九ツ時(11-13時)に三好勢は三好長慶のいる山崎(山城国)に撤退する。
義藤は東山の寺社本所領を押領するものの、三好長慶が寺社本所領を安堵しているため地下(村人)は義輝の命に応じず。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 8月2日 37歳
細川晴元が加勢を募るため越前に下向したと京都で噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 10月20日 37歳
三好長逸十河一存、芥川らが御所の東から五条に陣取る。
六角定頼が東山山上に軍勢20000をもって陣取る。六角勢のうち永原衆が細川勢2000とともに鴨河原にて野伏をする。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 11月19日 37歳
摂津国・丹波国・河内国の国衆からなる三好長慶の軍勢40000が、東山・聖護院・岡崎・吉田・北白川・浄土寺・師子谷・田中(山城国)を悉く放火し、足利義藤の籠る中尾城(山城国)の城際に野伏せりを仕掛ける。
午刻(11-13時)に撤退した三好勢に対し、細川晴元が軍勢30を鴨川まで出す。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 11月20日 37歳
三好長慶松永長頼を先手の大将とする軍勢を山科(山城国)に遣わし、大津・松本(近江国)を放火する。その三好勢は山科(山城国)に陣取る。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助往年記』同年月日条

天文19年 1550年 11月21日 37歳
足利義藤が籠城していた中尾城(山城国)を焼き、堅田(近江国)に逃亡する。細川晴元坂本(近江国)に移る。三好長慶は足利勢が布陣していた北白川(山城国)に軍勢を遣わし、焼け残りを放火する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 11月24日 37歳
三好長慶が諸国から動員した軍勢を解散する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 1月30日 38歳
伊勢貞孝足利義藤を連れて密かに上洛させようとしたところ上洛計画が露見する。義藤は近江国に止まるが、貞孝は上洛する。
出典:『言継卿記』同年2月1日条、『厳助往年記』同年2月条

天文20年 1551年 2月7日 38歳
志賀(近江国)にて松永長頼松永久秀六角義賢が戦い、義賢が勝利する。
出典:『足利季世記』巻5「進士九郎賢光ノ事」

天文20年 1551年 2月22日 38歳
近江国内で六角定頼に反抗する勢力の蜂起があったため、細川晴元坂本(近江国)から対岸に渡航する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 2月24日 38歳
三好長慶勢、伊勢貞孝が志賀(近江国)に攻め入る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 2月26日 38歳
三好長慶勢、伊勢貞孝が志賀(近江国)に入り、同地にて山陣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 2月27日 38歳
三好長慶勢、伊勢貞孝大津(近江国)を放火する。その後、三好・伊勢勢は志賀(近江国)より京都に帰陣する。三好・伊勢勢の撤退を受け、六角義賢が追撃の軍勢を遣わす。鹿ヶ谷にて六角勢と三好長虎が戦う。六角勢が北白川(山城国)に出没し放火する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条

天文20年 1551年 2月28日 38歳
六角義賢の軍勢が東門前・鹿ヶ谷・岡崎・若王寺・粟田口・山科・日岡・四宮(山城国)を放火し、鴨川に野伏せりを掛ける。これを受け、三好長慶伊勢貞孝今村慶満を遣わすも六角勢は撤退する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条

天文20年 1551年 3月2日 38歳
三好長慶が軍勢20000のをもって岩倉(山城国)の山本館を攻め、放火する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 3月7日 38歳
伊勢貞孝が吉祥院(山城国)にいる三好長慶のもとを訪れる。長慶の居所に小童が忍び入り焼き討ちを企てるが捕える。長慶は東寺松永久秀陣所に移る。
出典:『言継卿記』同年月8日条

天文20年 1551年 3月14日 38歳
三好長慶伊勢貞孝邸を訪れる。貞孝邸で長慶と貞孝が将棋をさす。その後、乱舞が行われる。夕方、奉公衆・進士賢光が長慶に斬りかかり傷を負わせる。負傷した長慶は山崎(山城国)に移る。
宇津(丹波国)より香西元成・柳本・宇津・三好政勝の軍勢が京都に入り伊勢貞孝邸を焼き討ちする。同軍勢は西賀茂・正伝寺(山城国)に陣取る。
出典:『言継卿記』同年月14・15日条

天文20年 1551年 3月15日 38歳
香西元成・柳本・宇津・三好政勝三好長虎率いる軍勢20000が戦い、長虎が勝利する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 3月16日 38歳
三好長慶が見舞いに訪れた使者と面会し無事を伝える。
三好長虎率いる軍勢20000が3月14日に香西元成三好政勝らが陣取った西賀茂・正伝寺(山城国)を放火する。その後、長虎の軍勢は東に向かう。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 7月14日 38歳
細川晴元の命により三好政勝香西元成、柳本、山本、山中、織田左近大夫、十河左介、岸和田が軍勢3000で等持寺に打ち入り、相国寺に立て籠る。そこに、松永久秀松永長頼が率いる摂津・河内・大和の軍勢40000が攻め寄せ、両勢交戦の末、松永勢が勝利する。松永勢は相国寺を放火する。
出典:『厳助往年記』同年月日条、『足利季世記』巻5「大内殿生害之事並家伝之事」

天文21年 1552年 1月2日 39歳
舅・六角定頼が死去する。
出典:-

天文21年 1552年 1月28日 39歳
足利義藤が比叡辻の宝泉寺より、未下刻(14:00頃)、入洛する。伊勢貞孝被官の蜷川弥三郎・堤三郎兵衛を先頭に三宝院、奉公衆、同朋衆、大舘晴光上野信孝、大舘晴忠、朽木稙綱、細川中務大輔、伊勢貞孝、縁阿弥、高倉永家、慶寿院(義輝正室)、遊佐勘解由左衛門、近衛稙家、大覚寺義俊が付き従う。細川聡明丸も上洛する。
義藤、聡明丸の上洛につき、三好長慶が麾下の国衆を辻固めに動員し、三好長逸松永久秀を遣わして逢坂にて出迎える。
六角義賢の軍勢に守られた聡明丸が、戌刻(19-21時)に東寺に到着する。三好千熊丸が聡明丸を出迎える。
細川晴元足利義藤の帰洛に随行せず若狭に向かうため堅田から葛川に向かったとされる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『足利季世記』巻5「公方三好和談之事」

天文21年 1552年 3月12日 39歳
細川晴元が葛川より若狭国へ移ったと噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 6月3日 39歳
三好長慶細川晴元に細川聡明丸を奪われることを恐れ聡明丸を鳥羽(山城国)に移す。
出典:『足利季世記』巻5「細川讃岐守生害ノ事」

天文21年 1552年 6月5日 39歳
三好長慶が細川聡明丸を越水城(摂津国)に迎える。
出典:『足利季世記』巻5「細川讃岐守生害ノ事」

天文21年 1552年 8月26日 39歳
細川晴元が葛川より小野(近江国)に移ったと噂される。その後、宇津(丹波国)に移ると予定で、その従者80名ばかりと噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 10月2日 39歳
夕方、三好長慶が上洛する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 10月3日 39歳
三好長慶が西岡・三鈷寺・灰方・良峯・岩倉(以上、山城国)・坂本(近江国)などを焼き討ちする。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 10月20日 39歳
細川晴元被官の香西元成が丹波国桑田郡に侵攻する。内藤国貞が応戦するが元成が勝利する。
出典:『足利季世記』巻5「細川讃岐守生害ノ事」

天文21年 1552年 10月25日 39歳
三好長慶が丹波国に向けて出発する。西岡(山城国)に着陣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 11月13日 39歳
三好長慶が嵯峨(山城国)に移り軍勢を解散する。摂津国に向かうとされる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 11月27日 39歳
細川晴元が西岡(山城国)に出没し、同地を放火、その後、嵯峨(山城国)に陣取る。
夜、三好長慶方の西院小泉城、郡城が自焼する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 11月28日 39歳
辰刻(7-9時)頃、細川晴元足利義藤の籠る霊山城(山城国)を攻撃すべく五条坂(山城国)を放火する。清水坂(山城国)にて足利勢と細川勢が戦う。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 12月1日 39歳
三好長慶細川晴元の攻撃をうけていた足利義藤のもとに駆け付ける。
細川晴元が長慶の上洛にともない丹波国に逃亡する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 1月27日 40歳
三好長慶越水城(摂津国)を発つ。
出典:『足利季世記』巻5「細川讃岐守生害ノ事」

天文22年 1553年 2月20日 40歳
細川晴元が乾あたりに足軽を繰り出すが、三好長慶勢が追い払う。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 2月26日 40歳
細川晴元が高尾五台山に城を築く。
鳴瀧あたりにて、細川晴元勢と三好長慶勢と戦い、細川勢は大将分4・5人、計20人程が討ち取られる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 2月27日 40歳
三好長慶細川晴元にの高尾山を軍勢10000にて攻める。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 3月8日 40歳
足利義藤三好長慶の関係が決裂する。義藤が霊山城(山城国)に入城する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 3月10日 40歳
細川晴元の牢人衆が畑(丹波国)にて蜂起する。この討伐のため、三好長慶松永久秀を遣わす。
出典:『足利季世記』巻5「細川讃岐守生害ノ事」

天文22年 1553年 7月14日 40歳
細川晴元が軍勢1000人を長坂・船岡山(山城国)に繰り出す。細川勢に対し、奉公衆および河内国の安見宗房勢3000が対峙する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 7月22日 40歳
北野社右近馬場にて足利義藤細川晴元を赦免する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 7月28日 40歳
細川晴元が長坂(山城国)に軍勢を遣わす。長坂にいた晴元被官の内藤彦七、香西元成、柳本、三好政勝を、足利義藤が奉公衆・上野民部大輔らが5・6名を遣わし出迎える。北野神社右近馬場にて晴元を赦免する。
西院(山城国)の集落を焼き討ちにするも、同地の三好方の小泉城(山城国)は落ちず。義藤のもとへ挨拶に訪れた人々を送り、自身は北山に陣取る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 7月29日 40歳
足利義藤が西院(山城国)に野伏せりを仕掛ける。細川晴元の家臣・内藤彦七、香西元成三好政勝、十河左介、宇津二郎左衛門が談合のため義藤の陣所を訪れる。義藤は彼らに酒を振舞う。大舘晴光上野信孝、上野与三郎、杉原晴盛も談合に参加。同朋衆に酌をさせる。
下京に1町につき結橋2つを賦課する。
出典:『言継卿記』同年月日・7月30日条条

天文22年 1553年 7月30日 40歳
足利義藤が北山(山城国)より北野社右近馬場を経て西京東南角の松之本に布陣する。西院小泉城(山城国)を内藤彦七らに率いられた細川勢3000-4000とともに包囲する。西七条・鳥羽あたりで火が上がったため西院城への三好の後詰に備えたが、三好勢が来なかったため再度、西院城を包囲し、城の東北に布陣した奉公衆の上野信孝と杉原晴盛に城攻めを命じるが、兵の損耗を嫌った両者は攻撃をせず。夕方、北山に帰陣する。
三好長慶が、申刻(16時)、鳥羽(山城国)に布陣し、東寺にて野伏せりをする。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 8月1日 40歳
三好長慶芥川山城(摂津国)への押さえの軍勢を残し、河内国・和泉国・大和国・摂津国・紀伊国の軍勢を25000を率い上洛する。長慶の上洛にあわせ、安見宗房が上洛する。
足利勢が籠る霊山城(山城国)に今村慶満を遣わし攻める。今村勢は、一族の今村源七郎ら死傷者を出すが、城を守る松田監物を自害に追い込み城を落とす。また、長慶は船岡山(山城国)に陣取っていた足利義藤十河一存率いる河内国・紀伊国の諸勢10000を遣わし攻撃を加え、多くを捕らえる。義藤は北山(山城国)に逃れる。細川晴元は一戦に及ばず撤退する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『足利季世記』巻5「大樹都落之事」

天文22年 1553年 8月2日 40歳
細川晴元足利義藤の礼に赴き1獻を受ける。義藤、晴元は杉坂(丹波国)に移る。
出典:『言継卿記』同年月日条、『天文二十二年目代秀世諸色帳』同年月日条(『北野天満宮史料 目代日記』北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1975年)

天文22年 1553年 8月3日 40歳
細川晴元足利義藤のもとに礼に赴く。義藤、晴元は杉坂(丹波国)から山国に移り浄福寺に逗留する。山国から途中に向かう。
出典:『厳助大僧正記』『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 8月5日 40歳
足利義藤細川晴元が山国を経由し龍花に向かう。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 8月18日 40歳
細川晴元の牢人衆・塩川伯耆守が池田(摂津国)にて蜂起し芥川山城(摂津国)の後詰に赴くが敗れる。
出典:『足利季世記』巻5「芥川落城之事」

天文22年 1553年 8月19日 40歳
芥川山城(摂津国)に籠っていた芥川孫十郎が三好長慶に降伏し、城を明け渡す。
出典:『足利季世記』巻5「芥川落城之事」

天文23年 1554年 4月12日 41歳
松永久秀が丹波国桑田郡に侵攻する。久秀と三好政勝と戦い、久秀が勝利する。
出典:『足利季世記』巻5「丹州播州エ三好勢遣之事」

天文23年 1554年 11月2日 41歳
明石(播磨国)にて細川晴元衆の人見・香西と交戦中の赤松義祐へ援軍として安宅冬康篠原長房が明石に陣取る。
出典:『足利季世記』巻5「丹州播州エ三好勢遣之事」

弘治1年 1555年 10月23日 42歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月3日 45歳
細川聡明丸が芥川山城(摂津国)にて元服し細川六郎となる。
出典:『足利季世記』巻5「千部経ノ事」

弘治4年 1558年 2月28日 45歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄1年 1558年 3月13日 45歳
足利義輝が朽木(近江国)より龍花へ移る。
出典:『言継卿記』同年月15日条

永禄1年 1558年 4月-日 45歳
足利義輝が龍花より和邇(近江国)へ移る。
出典:『言継卿記』弘治四年本表紙

永禄1年 1558年 5月3日 45歳
足利義輝が軍勢3000余を率い和邇(近江国)より坂本(近江国)の石河の本誓寺に入る。上醍醐に義輝の陣が置かれるのではと噂される。
出典:『言継卿記』『厳助大僧正記』同年月条、『惟房公記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月4日 45歳
足利義輝細川晴元の軍勢15000(『厳助大僧正記』。『言継卿記』では5000人)が如意嶽(山城国)に攻め入り、柵を設ける。鹿ヶ谷(山城国)を放火する。三好長慶勢と矢合わせをする。義輝・晴元は園城寺の上に城を構える。
出典:『言継卿記』『厳助大僧正記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月7日 45歳
三好長慶坂本(近江国)より京都をうかがう足利義輝に備えるため、三好長逸池田長正伊丹親興松永久秀松永法雲軒率いる15000の兵を河原に出撃させる。
足利義輝細川晴元が軍勢15000をもって如意嶽に攻め入り矢合わせをする。勝軍地蔵城(山城国)に布陣していた三好長慶勢の伊勢貞孝寺町通昭・松山重治・岩成友通の2000余りの兵は、城を放火し、東寺・吉祥寺・報恩寺四条道場・等持寺・唱門土村あたりまで撤退する。三好勢の撤退により、義輝は勝軍山城に入城する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月8日 45歳
足利義輝の軍勢が北白川の古城・勝軍地蔵に布陣する。対する三好長慶は、5000の軍勢を吉田山に布陣させ、残りの軍勢で如意嶽を攻撃し、足利勢を破る。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月9日 45歳
三好長逸松永久秀松永長頼等の摂津国衆・丹波国衆が如意嶽を攻める。如意嶽に置いた足利義輝の軍勢が悉く撤退する。三好勢は神楽岡(山城国)より四条・七条・八条・九条に引き上げるところ、義輝が勝軍地蔵城(山城国)に300の兵で出張し、三好長慶勢の布陣する河原に打って出るも敗れて白川口に逃れる。奉公衆の松任修理・本郷新九郎・本郷三郎・山名又五郎・久世兵部少輔・松田二郎左衛門ら70余名が討死する。
久秀が勝軍地蔵城を攻め、六角義賢の軍勢と戦う。
出典:(永禄1年6月14日付細川晴元書状(『戦国遺文三好氏編』第1巻-518号「後鑑所収古文書」)、『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条、『足利季世記』巻5「公方勝軍地蔵エ出張之事」

永禄1年 1558年 11月26日 45歳
三好長慶が上洛する。
出典:永禄1年11月27日付藤岡直綱書状(『戦国遺文三好氏編』第1巻-548号「東寺百合文書」)

永禄4年 1561年 3月29日 48歳
三好長慶義興の御相伴衆就任を祝うべく長慶の館へ足利義輝が御成する。その際、義輝が長慶に細川晴元との和睦をするよう言い渡す。
出典:『厳助往年記』同年月日条、『足利季世記』巻5「晴元入道三好ト和談事」

永禄4年 1561年 5月6日 48歳
足利義輝が斡旋していた三好長慶細川晴元の和睦が成立する。晴元は普門寺(摂津国)に入り富田荘を知行地として長慶より与えられる。
出典:『足利季世記』巻5「晴元入道三好ト和談事」

永禄4年 1561年 7月28日 48歳
六角義賢細川晴元の次男を擁立し、畠山高政安見宗房遊佐信教根来寺衆と示し合わせて勝軍地蔵城(山城国)にて軍勢10000程で蜂起する。
出典:『永禄四年古記録甲』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)、『足利季世記』巻5「勝軍地蔵山合戦之事」

永禄4年 1561年 7月29日 48歳
六角義賢の軍勢1000が東山(山城国)に出張る。三好長慶勢は出勢せず。
出典:『永禄四年古記録甲』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

永禄4年 1561年 7月30日 48歳
六角義賢勢と三好長慶勢が戦う。
出典:『永禄四年古記録甲』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

永禄4年 1561年 8月19日 48歳
六角義賢勢と三好長慶勢が戦う。
出典:『永禄四年古記録乙』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

永禄4年 1561年 10月20日 48歳
六角義賢勢と三好長慶勢が戦う。
出典:『永禄四年古記録乙』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

永禄4年 1561年 10月26日 48歳
東河原(山城国)にて六角義賢勢と三好長慶勢が戦う。
出典:『永禄四年古記録乙』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

永禄4年 1561年 10月28日 48歳
東河原(山城国)にて六角義賢勢と三好長慶勢が戦う。小泉山城守が戦死する。
出典:『永禄四年古記録乙』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

永禄6年 1563年 3月1日 50歳
細川晴元が普門寺(摂津国)にて死去する。
出典:『足利季世記』巻6「晴元逝去之事」

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