人 物 史

三好長慶 みよし ながよし
生 没 年大永2年(1522)2/13-永禄7年(1564)7/24
出 身阿波国幼 名千熊丸
別 称孫次郎、利長、範長
法 名-
戒 名聚光院
三好元長慶春院
兄 弟 姉 妹三好長慶三好之虎安宅冬康十河一存、野口冬長
配 偶 者波多野稙通の娘、遊佐長教の娘
三好義興、娘(松永久秀の妻)、三好義継[養子]
官 位伊賀守、筑前守、修理大夫
役 職室町幕府 相伴衆
摂津国守護代
城 郭越水城(摂津国)、芥川山城(摂津国)、飯盛山城(河内国)
参 考 文 献三好長慶に関する参考文献
関 連 デ ー タ史料にみえる三好長慶の呼称
三好長慶の関連文化財
三好長慶の家臣
三好長慶 年表
大永2年 1522年 2月13日 1歳
三好長慶が生まれる。
出典:-

享禄1年 1528年 8月20日 7歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

享禄5年 1532年 6月19日 11歳
父・元長の命によりから阿波国に逃れる。
出典:『細川両家記』

享禄5年 1532年 6月20日 11歳
細川晴元本願寺証如に要請して馳せ集まった摂津・河内・和泉の一向一揆100000に、父・三好元長の居所であるの顕本寺が攻められる。追い詰められた元長は、三好一秀、塩田若狭守、加地丹波守等とともに自害する。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条、『言継卿記』同年月22日条

天文1年 1532年 7月29日 11歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文1年 1532年 8月9日 11歳
三好千熊丸千満丸兄弟が連署で父・元長の菩提所である見性寺に阿波国上郡山本分を寄進する。
出典:天文1年8月9日付三好長慶・三好実休連署書下(「見性寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-101号)

天文2年 1533年 5月5日 12歳
三好千熊丸木沢長政、法華衆が大坂本願寺を攻める。
出典:『足利季世記』巻四 伊丹城合戦附晴元帰ル事、『陰徳太平記』巻8「摂州諸所合戦之事」

天文2年 1533年 5月20日 12歳
細川晴元本願寺証如の和睦が成立する。大坂本願寺を攻めていた三好千熊丸木沢長政、法華衆が同寺より撤退する。
出典:『足利季世記』巻四 伊丹城合戦附晴元帰ル事、『細川両家記』

天文2年 1533年 6月8日 12歳
中島(摂津国)との手切れにより、同地への攻撃を三好千熊丸に命じたことを本満寺に伝え、同寺に大坂在陣を促す。
出典:(天文2年)6月8日付細川晴元書状(「本満寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-参考14号)

天文2年 1533年 7月29日 12歳
大徳寺三好千熊丸の被官人 市原源次郎が兵糧米を賦課したことについて、今後同じようなことが生じた場合、大徳寺で成敗してもよい旨を茨木長隆が大徳寺に伝える。
出典:天文2年7月29日付細川晴元奉行人奉書(『戦国遺文』三好氏編第1巻-参考15号「大徳寺文書」)

天文2年 1533年 9月6日 12歳
瓦林氏が越水城(摂津国)を急襲し落とす。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻8「摂州諸所合戦之事」

天文2年 1533年 9月23日 12歳
瓦林氏が籠る越水城(摂津国)を三好伊賀守、三好長虎、池田信正、伊丹氏が攻める。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻8「摂州諸所合戦之事」

天文2年 1533年 9月24日 12歳
越水城(摂津国)に籠る瓦林氏が三好伊賀守、三好長虎、池田信正、伊丹氏に降伏する。
出典:『細川両家記』

天文3年 1534年 10月20日 13歳
灘(摂津国下郡)にて三好千熊丸と一向一揆勢と戦う。
出典:『私心記』同年月日条

天文3年 1534年 10月22日 13歳
三好千熊丸の被官 市原与吉兵衛尉・市原又三郎が平野社境内神殿守・神供田の所務を押し取ろうとしたことについて、今後そのようなことがないようにし、押領物があれば返付するように千熊丸に命じる。
出典:天文3年10月22日付細川晴元奉行人茨木長隆奉書案(「平野社文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-105号)

天文3年 1534年 10月25日 13歳
三好千熊丸が越水(摂津国)へ入る。
出典:『私心記』同年月日条

天文3年 1534年 11月21日 13歳
東大寺領摂津国長洲荘野地・前田代官職補任につきに三好連盛とともに、年貢銭等を納入等を制約する起請文を東大寺に提出する。ただし、三好千熊丸の花押は無し。
出典:天文3年11月21日付三好連盛・三好長慶連署請文(「宝珠院文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-106号)

天文3年 1534年 -月-日 13歳
足利義維が志筑(淡路国)に下向し、当地に居す。
出典:『阿州将裔記』「足利義冬より之系図」

天文3年 1534年 -月-日 13歳
足利義維が平島荘(阿波国)に下向し、当地に居す。
出典:『阿州将裔記』「足利義冬より之系図」

天文6年 1537年 9月15日 16歳
三好長慶へ入る。
出典:『天文日記』同年9月18日条

天文6年 1537年 9月17日 16歳
三好長慶淡路国へ赴く。
出典:『天文日記』同年9月18日条

天文6年 1537年 11月5日 16歳
三好長慶の出陣につき本願寺証如が太刀・馬(河原毛)を贈る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 3月3日 17歳
本願寺証如が年始の祝儀といて三好長慶に3種5荷を贈る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 3月19日 17歳
本願寺証如の2月3日の年始の祝儀の返礼として三好長慶が証如に贈った太刀・馬(栗毛雲雀)が証如のもとに届く。使者は加地源右衛門。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 6月14日 17歳
本願寺証如三好元長の七回忌として三好長慶のものとに小経1巻・500疋を贈る。使者は円山隠岐。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 10月16日 17歳
本願寺証如が京極高延、京極高吉に音信として書状・太刀・馬代を贈る。また、三好長慶に音信として書状、太鼓・小鼓5枚ずつ、13種5荷を贈る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 10月18日 17歳
三好長慶が16日の本願寺証如の音信に対して返事をする。
出典:『天文日記』同年月日条

天文8年 1539年 1月14日 18歳
三好長慶が軍勢2500を引き連れ上洛する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 1月15日 18歳
細川晴元が幕府に出仕する。供は三好長慶、長塩又二郎、芥川。
蜷川親俊より兄鷹が贈られる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 1月25日 18歳
三好長慶が催した宴に細川晴元が招かれ、晴元は観世能を見物する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 6月23日 18歳
三好長慶の母死去につき、中島(摂津国)の崇禅寺にて仏事を勤行する。本願寺証如が長慶に香典1000疋を送る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文8年 1539年 閏6月13日 18歳
三好長慶三好政長が決裂する。これにつき、長慶に足利義晴より六角定頼から細川晴元に交渉をするので出陣を延期するようにと伝える御内書が発給される。また、長慶に与同する伊丹次郎、池田筑後守、柳本孫七郎、三宅国村、芥川豊後守、木沢長政へも御内書が発給される。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 閏6月16日 18歳
三好利長(長慶)が摂津国上郡に出陣する。
利長が清水寺・同門前に軍勢の乱暴狼藉、矢銭・兵糧の賦課、山林竹木の伐採、一揆乱入、課役の賦課を禁じる禁制を発給する。
出典:『天文日記』同年月日条、天文8年閏6月16日付三好利長禁制(『戦国遺文』三好氏編第1巻-120号「成就院文書」)

天文8年 1539年 閏6月17日 18歳
三好利長(長慶)三好政長の確執により、細川晴元が高雄(山城国)に引き退く。
利長が大山崎(山城国)に軍勢の乱暴狼藉、山林竹木の伐採、押買・所質取りを禁じる禁制を発給する。
利長が大徳寺に軍勢の乱暴狼藉、山林竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課を禁じる禁制を発給する。
出典:天文8年閏6月17日付三好利長禁制写(『戦国遺文』三好氏編第1巻-121号「疋田家本離宮八幡宮文書」)

天文8年 1539年 閏6月20日 18歳
三好利長(長慶)が知恩寺に軍勢の乱暴狼藉、寄宿や矢銭・兵糧米の賦課、山林竹木の伐採・放火を禁じる禁制を発給する。
出典:天文8年閏6月20日付三好利長禁制(『戦国遺文』三好氏編第1巻-123号「知恩寺文書」)

天文8年 1539年 7月14日 18歳
三好政長が高雄(山城国)より妙心寺・西京に攻め入ったのを受け、三好利長(長慶)山崎(山城国)より三好伊賀守を金乗寺に出陣させる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 7月21日 18歳
吉祥城(山城国)を三好利長(長慶)が攻め落とす。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 8月13日 18歳
三好利長(長慶)三好政長の対立のことにつき、六角定頼坂本(近江国)に赴く。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 8月14日 18歳
三好利長(長慶)越水城(摂津)に入城したのを祝し、音信として書状と3種5荷を遣わす。
出典:『天文日記』同年月日条

天文8年 1539年 9月13日 18歳
三好利長(長慶)三好政長の対立の仲裁に乗り出した六角定頼進藤貞治と永原重隆に軍勢800を付し芥川山城(摂津国)に遣わす。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 9月26日 18歳
細川晴元山崎(山城国)より上洛する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 10月28日 18歳
備中国にて阿波衆(三好勢)が尼子詮久勢と戦い損害を被るという。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 10月-日 18歳
三好利長(長慶)三好政長が和睦する。
出典:『巌助往年記 上』同年月条

天文8年 1539年 11月11日 18歳
三好利長(長慶)が上洛する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月条

天文9年 1540年 2月15日 19歳
三好利長(長慶)が野間長久に都賀荘安田分の替地として上庄内浅見右京亮跡職を給付する。
出典:天文9年2月15日付三好利長書状写(『戦国遺文』三好氏編第1巻-133号「池田家文書」)

天文9年 1540年 2月18日 19歳
本願寺証如三好利長(長慶)に音信を遣わす。下間頼慶が添状を発給する。
出典:(天文9年)2月18日付本願寺証如書状案(『戦国遺文』三好氏編第1巻-134号『天文書札案』)

天文9年 1540年 6月17日 19歳
三好利長(長慶)が西宮神社に千句田2段を連歌田として新たに寄進することを伝える奉書を発給する。署名は松永久秀
出典:(天文9年)6月17日付三好長慶奉行人奉書(『戦国遺文』三好氏編第1巻-136号「岡本文書」)

天文9年 1540年 12月27日 19歳
〓井甚左衛門尉が買得した所々の地を三好範長(長慶)が安堵する。
出典:天文9年12月27日付三好長慶書下(『戦国遺文』三好氏編第1巻-141号「〓井文書」)

天文10年 1541年 6月29日 20歳
細川晴元が、妙観院領摂津国下郡御料所中・都賀荘要脚反銭賦課免除につき徴収催促を停止するよう三好範長(長慶)と平井新左衛門尉に命じる。
出典:天文10年6月29日付細川晴元奉行人奉書案(『戦国遺文』三好氏編第1巻-148号「天城文書」)

天文10年 1541年 7月28日 20歳
三好範長(長慶)が鈴江十左衛門尉に中庄内山口将監分を合力として給付する。
出典:天文10年7月28日付三好長慶書下(『戦国遺文』三好氏編第1巻-152号「鈴江家文書」)

天文10年 1541年 9月21日 20歳
多田塩川要害を攻撃中の三好範長(長慶)のもとに、本願寺証如が音信として書状と3種5荷を贈る。使者は芝田宗九郎。
出典:『天文日記』同年月日条

天文10年 1541年 9月23日 20歳
21日の本願寺証如の音信に対する三好範長(長慶)の返書が証如のもとに届く。
出典:『天文日記』同年月日条

天文10年 1541年 10月2日 20歳
三好長慶、波多野が塩川城(摂津国)を攻撃中、木沢長政が裏切ったため、長慶等は塩川城より撤退すると、京都にて風聞が伝わる。
出典:『惟房公記』同年月日条

天文10年 1541年 10月18日 20歳
本願寺証如が音信として三好範長(長慶)に3種5荷、三好政長に3種3荷、加地肥前に樽代100疋、塩田左馬助に100疋を遣わす。
出典:『天文日記』同年月日条

天文10年 1541年 11月13日 20歳
三好範長(長慶)在陣につき祈祷巻数・銭100疋を送ってくれた大山崎惣中に、範長が礼状を発給する。
出典:(天文10年)11月13日付三好範長(『戦国遺文』三好氏編第1巻-158号「離宮八幡宮文書」)

天文10年 1541年 12月12日 20歳
細川晴元の摂津国出陣につき本願寺証如が晴元に音信として太刀1腰、5種10荷、細川藤賢に太刀1腰・3種5荷、三好長慶・波多野備前・三好政長に太刀1腰・綿10把、高畠長直に綿3把、藤賢取次の小河民部丞に太刀1腰・綿3把を送る。使者は八尾新四郎。
出典:『天文日記』同年月日条、(天文10年)12月10日付本願寺証如書状案(『戦国遺文』三好氏編第1巻-159号『天文書札案』)

天文10年 1541年 12月26日 20歳
本願寺証如が歳末の礼として細川晴元に太刀1腰、三好長慶に太刀1腰を贈る。使者は大坂小五郎。
証如が出陣中の芥川孫十郎・池田長正に太刀1腰・梅染2端を贈る。
証如が木沢長政に藤井八郎左衛門を遣わす。
出典:『天文日記』同年月日条

天文11年 1542年 1月-日 21歳
三好長慶大山崎(山城国)に軍勢の乱暴狼藉、山林竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課を禁じる禁制を発給する。
出典:天文11年1月日付三好孫次郎禁制(『戦国遺文』三好氏編第1巻-164号「離宮八幡宮文書」)

天文11年 1542年 3月17日 21歳
木沢長政信貴山城(大和国)・二上・飯盛山城(河内国)の軍勢5000をもって遊佐長教が籠る高屋城(河内国)を攻める。これを受け、細川晴元三好長慶三好政長六角定頼が出陣する。太平寺の合戦で、細川・三好・遊佐・六角と長政と戦い、細川等が勝利し、長政は戦死する。
合戦後、信貴山城が焼失する。
出典:『厳助往年記』同年月日条、『天文日記』同年月日条、『蜷川親俊日記』同年月18・19日条、『惟房公記』同年月日18日条

天文11年 1542年 3月18日 21歳
三好長慶が榎並(河内国)に入り放火する。また飯盛山麓にて畠山勢と戦い勝利する。
出典:『私心記』同年月日条

天文11年 1542年 3月20日 21歳
本願寺証如三好長慶に対し太平寺の合戦で木沢長政を討ち取り勝利したことを祝す。
出典:『天文日記』同年月日条

天文11年 1542年 3月28日 21歳
足利義晴菊童丸父子が坂本(近江国)より大津(近江国)を経由し上洛する。義晴の供は細川右馬頭、上野与三郎、万阿、藤中納言。菊童丸の供は大舘晴光、佐々木、小原、大舘治部大夫、佐々木民部少輔、伊勢貞孝、孝阿。義晴は相国寺法住院に入り、御殿の作事を命じる。
細川晴元は坂本(近江国)より上洛する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条

天文12年 1543年 7月24日 22歳
三好長慶が革島一宣に27日に松浦守を攻めるため、26日にに入ることを伝える。
出典:(天文12年)7月24日付三好長慶書状(「革島家文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-179号)

天文14年 1545年 5月24日 24歳
細川晴元が上野玄蕃頭勢を討つべく山城国南部に三好長慶三好宗三等率いる軍勢を遣わす。
出典:『厳助往年記』同年月日条

天文14年 1545年 5月25日 24歳
三好長慶三好政長が田原七郷(山城国)を放火する。
出典:『厳助往年記』同年月日条

天文14年 1545年 5月26日 24歳
三好長慶三好宗三が三室戸太法寺に留まる。石墻坊、太法寺五ヶ荘を放火した後、木幡(山城国)に移る。
出典:『厳助往年記』同年月日条

天文14年 1545年 5月27日 24歳
三好長慶が醍醐寺山上山下宛に三好勢による乱入狼藉、山林竹木の伐採、兵糧米の賦課を停止する禁制を発給する。
出典:天文14年5月27日付三好長慶禁制(「醍醐寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-183号)

天文15年 1546年 2月17日 25歳
本願寺証如三好長慶とその被官・塩田に当年の樽を遣わす。
出典:『天文日記』同年月日条

天文15年 1546年 2月19日 25歳
三好長慶とその被官・塩田が2月17日の音信の返しとして本願寺証如に太刀を送る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文15年 1546年 9月5日 25歳
本願寺証如が中島(摂津国)に在陣中の三好長慶安宅神太郎(冬康)、十河孫六郎、三好政長に音信として3種3荷を贈る。使者は芝田宗九郎。
出典:『天文日記』同年月日条

天文15年 1546年 9月11日 25歳
三好長慶池田城(摂津国)を攻める。
出典:『私心記』同年月日条

天文15年 1546年 10月21日 25歳
三好長慶細川藤賢の拠る中島(摂津国)に攻め込む。
出典:『私心記』同年月日条

天文15年 1546年 11月25日 25歳
三好長慶池田城(摂津国)を攻める。
出典:『私心記』同年月日条

天文15年 1546年 12月6日 25歳
本願寺証如三好長慶三好之虎三好政長、山中三郎太郎、山中橘左衛門、三木与左衛門、塩田に音信として綿を送る。使者は芝田宗九郎。
出典:『天文日記』同年月日条

天文15年 1546年 12月19日 25歳
足利義藤坂本(近江国)の樹下成保邸にて元服する。加冠は六角定頼、理髪は細川晴経、惣奉行は摂津元造、元服奉行は松田晴秀飯尾堯連、打乱は朽木稙綱、泔坏は大原高保、御祝調進は大隅秀宗・大草公広、御手長は伊勢盛正、御物奉行は蜷川親俊・三上秀長が勤める。定頼は義藤に馬・弓・征矢・鎧・砂金を進上する。
足利義藤の御乗馬初め儀を執行する。
義藤が従四位下・左馬頭に叙位・任官する。征夷大将軍就任の宣旨が下され、勅使・高辻大納言が義藤のいる坂本(近江国)に遣わされる。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条、『光源院殿御元服記』(『群書類従』)

天文16年 1547年 3月晦日 26歳
足利義晴義藤父子が北白川城(山城国)に900余騎にて籠城する。随従者は近衛稙家聖護院道増、大覚寺義尭、烏丸光康日野晴光、高倉永家、日野資将、賀茂在留、大舘晴光、細川輝経、大舘晴忠、細川隆是、伊勢貞教、摂津元造、摂津晴門、三淵晴員、小笠原備前守、武田信実和田惟政
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」

天文16年 1547年 4月1日 26歳
細川晴元三好長慶ら淡路・四国衆30000をもって足利義晴義藤父子が籠城する北白川城(山城国)を攻める。
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」

天文16年 1547年 4月10日 26歳
足利義晴義藤父子が籠城する北白川城(山城国)を攻めていた三好長慶ら淡路・四国衆30000が摂津国国衆の制圧を優先した細川晴元の命により摂津国に引き上げる。
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」

天文16年 1547年 5月5日 26歳
細川晴元芥川山城(摂津国)に籠城する薬師寺与一を攻撃する。攻め衆は三好長慶ほか。
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」

天文16年 1547年 6月25日 26歳
三好長慶の攻撃を受けていた芥川山城(摂津国)に籠る薬師寺与一が長慶に降伏する。
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」

天文16年 1547年 7月12日 26歳
細川晴元の要請を受けた六角定頼義賢が、足利義晴義藤が籠城する北白川城(山城国)を包囲する。
三好長慶三好政長が軍勢30000をもって河内十七箇所に陣取る。
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」、『陰徳太平記』巻15「将軍北白川御籠城之事」

天文16年 1547年 7月19日 26歳
細川晴元六角定頼の包囲を受け耐えられず足利義晴義藤父子が籠城していた北白川城(山城国)を自焼し東坂本(近江国)に逃れる。
出典:『足利季世記』巻4「公方東坂本御出奔ノ事」、『陰徳太平記』巻15「将軍北白川御籠城之事」

天文16年 1547年 7月26日 26歳
三好長慶三好政長が河内十七箇所から住吉・遠里・小野・深ノ口に陣替えする。
出典:『足利季世記』巻4「舎利寺合戦ノ事附晴元定頼免許ノ事」

天文16年 1547年 7月29日 26歳
足利義藤細川晴元六角定頼義賢父子を赦免する。両人が義晴のいる坂本(近江国)に出仕する。ただし、晴元は義晴とは対面できず。
晴元・定頼間で諸事協議がなされる。
出典:『足利季世記』巻4「舎利寺合戦ノ事附晴元定頼免許ノ事」、『厳助往年記 上』同年月日条

天文16年 1547年 8月11日 26歳
三好長慶三好之虎安宅冬康が河内国に攻め入り若林に陣取る。畠山政国の籠る高屋城(河内国)から出撃してきた畠山家足軽と三好長慶が戦う。
出典:『足利季世記』巻4「舎利寺合戦ノ事附晴元定頼免許ノ事」

天文17年 1548年 4月24日 27歳
細川晴元と畠山政国が和睦する。晴元勢(三好長慶三好之虎安宅冬康等)が、若林(河内国)の陣所を払いへ移る。
出典:『足利季世記』巻4「細川玄蕃頭討死ノ事」

天文17年 1548年 5月2日 27歳
三好長慶越水城(摂津国)に帰陣する。
出典:『足利季世記』巻4「細川玄蕃頭討死ノ事」

天文17年 1548年 8月11日 27歳
三好長慶伊丹親興池田長正池田城(摂津国)に夜討ちをかけ、城を焼き討ちにする。
出典:『私心記』同年月日条

天文17年 1548年 8月11日 27歳
十河一存三好宗三を攻めるべく河内十七ヶ所に入る。
出典:『足利季世記』巻4「方浜合戦ノ事」

天文17年 1548年 9月-日 27歳
三好長慶が極楽寺に三好勢の乱入・狼藉、山林・竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課を禁止する禁制を発給する。
出典:天文17年9月日付三好長慶禁制(「水無瀬神宮文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-212号)

天文17年 1548年 9月-日 27歳
三好長慶大徳寺・諸塔頭門前に三好勢の乱入・狼藉、山林・竹木の伐採、陣取り、矢銭・兵糧米の賦課を禁止する禁制を発給する。
出典:天文17年9月日付三好長慶禁制(「水無瀬神宮文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-213号)

天文17年 1548年 9月-日 27歳
三好長慶清凉寺釈迦堂に三好勢の乱暴狼藉、山林伐採、無理を言う輩、放火の停止を記した禁制を発給する。
出典:天文17年9月日付三好長慶禁制(『戦国遺文三好氏編』第1巻-214号「清凉寺文書」)

天文17年 1548年 11月6日 27歳
河内国十七ヶ所攻めのため出陣した伊丹親興三好長慶が礼状を送る。
出典:天文17年11月6日付三好長慶書状(「岐阜市歴史博物館所蔵大野木訥庵コレクション」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-215号)

天文17年 1548年 12月10日 27歳
三好長慶遊佐長教が親子の思いをなし、互いに見放さないことを誓う起請文を交わす。
出典:天文17年12月10日付三好長慶起請文(『戦国遺文三好氏編』第1巻-217号「双柏文庫所蔵文書」)

天文17年 1548年 12月-日 27歳
三好長慶東福寺に三好勢の乱入狼藉、山林竹木伐採、放火の停止を記した禁制を発給する。
出典:天文17年12月日付三好長慶禁制(「東福寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-222号)

天文17年 1548年 12月-日 27歳
三好長慶本能寺に三好勢の乱入狼藉、山林竹木伐採、矢銭・兵糧米の賦課の停止を記した禁制を発給する。
出典:天文17年12月日付三好長慶禁制(「本能寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-223号)

天文18年 1549年 1月11日 28歳
三好長慶越水城(摂津国)を発し、伊丹親興の居る伊丹(摂津国)を焼き払う。
出典:『足利季世記』巻4「方浜合戦ノ事」

天文18年 1549年 1月13日 28歳
六角定頼が、岸和田兵衛大夫に、三好長慶細川晴元に謀反したこと、松浦守が長慶に与同したことを伝え、兵衛大夫に晴元方として行動するように求める。
出典:天文18年1月13日付六角定頼書状写(「武家事紀」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-参考19号)

天文18年 1549年 1月19日 28歳
三好長慶の合力として阿波衆・畠山衆が欠郡(摂津国)に入る。
出典:『足利季世記』巻4「方浜合戦ノ事」

天文18年 1549年 2月12日 28歳
三好長慶越水城(摂津国)を発し、伊丹親興の伊丹(摂津国)を悉く焼き払う。
出典:『足利季世記』巻4「方浜合戦ノ事」

天文18年 1549年 2月18日 28歳
三好長慶に入る。
出典:『足利季世記』巻4「方浜合戦ノ事」

天文18年 1549年 2月19日 28歳
三好長慶とその舅・遊佐長教が中島城(摂津国)・榎並城(河内国)攻めについて談合する。
出典:『足利季世記』巻4「方浜合戦ノ事」

天文18年 1549年 2月26日 28歳
細川晴元が細川晴堅の館がある中島城(摂津国)に入る。
三好長慶尼崎(摂津国)に出陣する。この日、畠山・遊佐長教の軍勢が欠郡(摂津国)・河内十七箇所に陣取る。
出典:『足利季世記』巻4「方浜合戦ノ事」

天文18年 1549年 3月1日 28歳
細川晴元が籠る中島城(摂津国)に軍勢を率い向かう。途中、柴島城にいる三好宗三と戦い破り、あわせて中島城を落とし入城する。軍勢を榎並城(河内国)に遣わす。
出典:『足利季世記』巻4「方浜合戦ノ事」

天文18年 1549年 3月-日 28歳
細川晴元が三宅国村の三宅城(摂津国)を落とし在城する。
出典:『足利季世記』巻4「方浜合戦ノ事」

天文18年 1549年 3月-日 28歳
三好長慶東寺に三好勢の乱入狼藉、山林竹木伐採、放火を停止する禁制を発給する。
出典:天文18年3月日付三好長慶禁制(「東寺百合文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-225号)

天文18年 1549年 3月-日 28歳
三好長慶が上鳥羽内上郷に三好勢の乱入狼藉、山林竹木伐採、放火を停止する禁制を発給する。
出典:天文18年3月日付三好長慶禁制(「集古文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-226号)

天文18年 1549年 4月-日 28歳
細川晴元が近江国に赴き、六角定頼と摂津攻めのことについてと談合する。
出典:『厳助大僧正記』同年同月条(『史籍集覧』25 近代デジタルライブラリー コマ番号178-208)

天文18年 1549年 4月26日 28歳
細川晴元が摂津を攻めるにあたり丹波国を経由し塩川城(摂津国)に下向する。
六角定頼が晴元の摂津国攻めを援護するべく京都東山に軍勢を遣わす。
出典:『厳助大僧正記』同年同月条(『史籍集覧』25 近代デジタルライブラリー コマ番号178-208)、『足利季世記』巻4「川原合戦ノ事」

天文18年 1549年 4月28日 28歳
塩川城(摂津国)にいた細川晴元のもとに三好宗三が合流し、西宮(摂津国)を放火する。
出典:『足利季世記』巻4「川原合戦ノ事」

天文18年 1549年 4月29日 28歳
三好宗三伊丹親興尼崎(摂津国)を放火する。
出典:『足利季世記』巻4「川原合戦ノ事」

天文18年 1549年 4月-日 28歳
三好長慶が龍安寺に三好勢の乱入狼藉、山林竹木伐採、矢銭・兵糧米の賦課を停止する禁制を発給する。
出典:天文18年4月日付三好長慶禁制(「龍安寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-228号)

天文18年 1549年 5月1日 28歳
三好宗三が東富松城(摂津国)を攻めるが、城兵の抗戦により撤退する。
出典:『足利季世記』巻4「川原合戦ノ事」

天文18年 1549年 5月2日 28歳
三宅城(摂津国)の香西元成三好長逸の守る芥川山城(摂津国)を攻撃するも敗れる。
出典:『足利季世記』巻4「川原合戦ノ事」

天文18年 1549年 5月5日 28歳
三好宗三が諸勢を率い三宅城(摂津国)に入る。
出典:『足利季世記』巻4「幡雲立事」

天文18年 1549年 5月9日 28歳
細川晴元の合力として岸和田兵衛大夫と木沢左京亮が河内国に攻め込むべく北荘に陣取るが、畠山・遊佐長教三好長慶の軍勢に攻め込まれ敗走する。
出典:『足利季世記』巻4「幡雲立事」

天文18年 1549年 5月-日 28歳
三好長慶大山崎に三好勢の乱入狼藉、山林竹木伐採、放火、山河殺生、矢銭・兵糧米の賦課、押買を停止する禁制を発給する。
出典:天文18年5月日付三好長慶禁制(「疋田家本離宮八幡宮文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-231号)

天文18年 1549年 6月11日 28歳
早朝、三好宗三が榎並城(河内国)を出て江口に陣取る。これを受け三好長慶は、安宅冬康十河一存を別府川に布陣させ三宅城(摂津国)との連絡を絶つ。
出典:『足利季世記』巻4「宗三出張ノ事」

天文18年 1549年 6月23日 28歳
三好長慶が中島城(摂津国)にて軍評定を開く。十河一存細川晴元のいる三宅城(河内国)の攻撃を主張するが、主討ちになるとして長慶が退ける。
出典:『足利季世記』巻4「江口城攻落シ宗三打死ノ事」

天文18年 1549年 6月24日 28歳
十河一存が単独で細川晴元の居所である三宅城(摂津国)を攻撃する。一存の三宅城攻撃を受けてもなお三好長慶細川晴元との戦いは避け、三好宗三の籠る江口城を攻撃し、落とす。この戦いで宗三、高畠長直高畠長信が戦死する。晴元は政長の敗報を受け嵯峨(山城国)に逃れる。
出典:『私心記』同年同月条、『足利季世記』巻4「江口城攻落シ宗三打死ノ事」、『厳助大僧正記』同年同月条(『史籍集覧』25 近代デジタルライブラリー コマ番号178-208)、

天文18年 1549年 6月27日 28歳
24日の江口の合戦で三好長慶に敗れた細川晴元が、足利義晴義藤と合流し、近衛晴嗣聖護院道増、大覚寺義俊、三宝院義尭、久我晴通とともに京都を脱し慈照寺に逗留する。晴元は東山葛岡に陣取る。
義晴、義藤、晴元、六角義賢が長慶への対応を協議する。
出典:『足利季世記』巻4「大樹ト晴元御没落ノ事」

天文18年 1549年 6月28日 28歳
足利義晴義藤父子、細川晴元東坂本(近江国)の常在寺に移る。
出典:『足利季世記』巻4「大樹ト晴元御没落ノ事」

天文18年 1549年 6月28日 28歳
三好長慶が商売人中宛に諸口雑夫料については土御門有脩の知行であるので所務を有脩に納入するよう伝える。
出典:天文18年6月28日付三好長慶書状(「宮内庁書陵部蔵土御門家文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-237号)

天文18年 1549年 6月-日 28歳
三好長慶が賀茂社境内および所々散在に三好勢の乱入狼藉、山林竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課を停止する禁制を発給する。
出典:天文18年6月日付三好長慶禁制(「賀茂別雷神社文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-239号)

天文18年 1549年 7月-日 28歳
三好長慶清水寺成就院に軍勢の乱妨、無理な要求をすること、矢銭・兵糧米の徴収を禁止する禁制を発給する。
出典:天文18年7月日付三好長慶禁制(「成就院文書」『清水寺史』3巻)

天文18年 1549年 7月-日 28歳
三好長慶が村雲町の浄福寺に三好勢の乱妨狼藉、謂れのない課役の賦課、矢銭・兵糧米の賦課を禁止する禁制を発給する。
出典:天文18年7月日付三好長慶禁制(「浄福寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-244号)

天文18年 1549年 7月-日 28歳
三好長慶が本能寺に三好勢の乱入狼藉、竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課を禁止する禁制を発給する。
出典:天文18年7月日付三好長慶禁制(「本能寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-246号)

天文18年 1549年 7月-日 28歳
三好長慶が東山禅林寺に三好勢の乱入狼藉、山林竹木の伐採、放火、矢銭・兵糧米の賦課を禁止する禁制を発給する。
出典:天文18年7月日付三好長慶禁制(「禅林寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-247号)

天文18年 1549年 7月-日 28歳
三好長慶が金蓮寺に三好勢の乱入狼藉、竹木の伐採、矢銭・兵糧米の賦課を禁止する禁制を発給する。
出典:天文18年7月日付三好長慶禁制(「金蓮寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-248号)

天文18年 1549年 8月24日 28歳
三好長慶伊丹親興の籠る伊丹城(摂津国)を落とすため伊丹城への向城を築く。城の東は森本に池田長正、南は恒富前田城に淡路国衆、西は御願塚に三好勢、北西は小屋城に小川式部丞を配置する。
出典:『足利季世記』巻4「伊丹大和守心替ノ事」

天文18年 1549年 8月27日 28歳
山科言継が長慶の勝利を祝し太刀1腰を長慶に贈る。
禁裏御料所内蔵寮料陸路河上四方八口率分役所について、今村慶満が押領していることを言継が長慶に訴える。
出典:『言継卿記』同年月日条、天文18年8月27日付山科言継書状写(『言継卿記』『戦国遺文 三好氏編』第1巻-251・252号)

天文18年 1549年 10月10日 28歳
三好長慶が六条若宮八幡宮領の所々散在当知行分について領知を認める。
出典:(天文18年)10月10日付三好長慶書状(「若宮八幡宮文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-254号)

天文18年 1549年 10月14日 28歳
三好長慶山崎(山城国)にて三宝院義堯と対面する。
出典:『厳助往年記』同年月日条

天文18年 1549年 10月26日 28歳
足利義晴が中尾城(山城国)の普請を始める。(『足利季世記』巻4「伊丹大和守心替ノ事」では28日)
出典:『萬松院殿穴太記』

天文18年 1549年 11月11日 28歳
三好長慶大徳寺真珠庵に対し謂れのない賦課を懸ける者がいたならば報告するようにと伝える。
出典:天文18年11月11日付三好長慶書状写(「真珠庵文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-257号)

天文18年 1549年 11月24日 28歳
三好長慶が御祈願所月峰寺(摂津国能勢郡)に従来どおり諸公事・臨時課役を免除することを伝える。
出典:天文18年11月24日付三好長慶書状写(「月峰寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-258号)

天文18年 1549年 12月12日 28歳
三好長慶が寺町三郎左衛門の借物について、細川氏綱の命により摂津国欠郡は徳政につき返弁は必要なしの旨を伝える。
出典:(天文18年)12月12日付三好長慶書状(「灯心文庫所蔵文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-260号)

天文18年 1549年 -月-日 28歳
子・義興が生まれる。
出典:-

天文19年 1550年 1月11日 29歳
三好長慶が富松城(摂津国)に入城し、伊丹城(摂津国)の総攻めのため軍勢を催促する。
出典:『足利季世記』巻4「伊丹大和守心替ノ事」

天文19年 1550年 2月22日 29歳
山科言継今村慶満の率分関違乱を三好長慶三好長逸・狩野信濃守に訴える書状を送る。また長慶には勅筆詩歌3枚を、長逸には勅筆詩歌2枚を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 3月28日 29歳
本興寺(尼崎(摂津国))にて三好長慶伊丹親興が会見し和睦する。
出典:『足利季世記』巻4「伊丹大和守心替ノ事」

天文19年 1550年 3月29日 29歳
三好長慶伊丹親興の籠る伊丹城(摂津国)から撤退する。
出典:『足利季世記』巻4「伊丹大和守心替ノ事」

天文19年 1550年 4月4日 29歳
足利義晴が北白川(山城国)に城を築く。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 4月17日 29歳
細川晴元が、未明、山中より西院小泉城(山城国)に軍勢を差し向け攻撃する。馬廻衆1名、30名ばかりが討死する。午刻(11-13時)、寄衆が撤退する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 5月1日 29歳
足利義晴は自身の病が悪化したため、上野信孝伊勢貞孝三淵晴員飯川信堅大舘晴光摂津元造を召し、怨敵である三好長慶を退治し子・義藤を上洛させるようにと遺言を残す。
出典:『足利季世記』巻4「前将軍薨逝ノ事」

天文19年 1550年 5月4日 29歳
辰刻(7-9時)、足利義晴が死去する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 7月14日 29歳
三好長逸三好長虎十河一存が率いる三好勢18000が一条から五条に展開する。細川晴元が足軽100で野伏せりを仕掛け鉄砲にて三好長虎与力を討つ。足利義藤は吉田山(山城国)に陣取るも三好勢と交戦せず。六角定頼勢は北白川山上に布陣するも交戦せず。九ツ時(11-13時)に三好勢は三好長慶のいる山崎(山城国)に撤退する。
義藤は東山の寺社本所領を押領するものの、三好長慶が寺社本所領を安堵しているため地下(村人)は義輝の命に応じず。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 8月28日 29歳
十河一存の大和国入部について、一存の兄である三好長慶遊佐長教の関係が良好であることと、筒井との関係が良好であることから延期となる。
出典:『多聞院日記』同年月日条

天文19年 1550年 10月20日 29歳
三好長逸十河一存、芥川らが御所の東から五条に陣取る。
六角定頼が東山山上に軍勢20000をもって陣取る。六角勢のうち永原衆が細川勢2000とともに鴨河原にて野伏をする。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 11月19日 29歳
摂津国・丹波国・河内国の国衆からなる三好長慶の軍勢40000が、東山・聖護院・岡崎・吉田・北白川・浄土寺・師子谷・田中(山城国)を悉く放火し、足利義藤の籠る中尾城(山城国)の城際に野伏せりを仕掛ける。
午刻(11-13時)に撤退した三好勢に対し、細川晴元が軍勢30を鴨川まで出す。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 11月20日 29歳
三好長慶松永長頼を先手の大将とする軍勢を山科(山城国)に遣わし、大津・松本(近江国)を放火する。その三好勢は山科(山城国)に陣取る。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助往年記』同年月日条

天文19年 1550年 11月21日 29歳
足利義藤が籠城していた中尾城(山城国)を焼き、堅田(近江国)に逃亡する。細川晴元坂本(近江国)に移る。三好長慶は足利勢が布陣していた北白川(山城国)に軍勢を遣わし、焼け残りを放火する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 11月23日 29歳
三好長慶が21日に足利義藤が自焼した中尾城(山城国)を破却する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 11月24日 29歳
三好長慶が諸国から動員した軍勢を解散する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 1月30日 30歳
伊勢貞孝足利義藤を連れて密かに上洛させようとしたところ上洛計画が露見する。義藤は近江国に止まるが、貞孝は上洛する。
出典:『言継卿記』同年2月1日条、『厳助往年記』同年2月条

天文20年 1551年 2月7日 30歳
志賀(近江国)にて松永長頼松永久秀六角義賢が戦い、義賢が勝利する。
出典:『足利季世記』巻5「進士九郎賢光ノ事」

天文20年 1551年 2月16日 30歳
山科言継が上洛をした三好長慶松永久秀のもとに大沢掃部を遣わす。東寺にいた久秀は、大沢掃部とともに吉祥院(山城国)を居所としていた長慶のもとに赴くが留守であったため大沢掃部と別れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 2月24日 30歳
三好長慶勢、伊勢貞孝が志賀(近江国)に攻め入る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 2月26日 30歳
三好長慶勢、伊勢貞孝が志賀(近江国)に入り、同地にて山陣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 2月27日 30歳
三好長慶勢、伊勢貞孝大津(近江国)を放火する。その後、三好・伊勢勢は志賀(近江国)より京都に帰陣する。三好・伊勢勢の撤退を受け、六角義賢が追撃の軍勢を遣わす。鹿ヶ谷にて六角勢と三好長虎が戦う。六角勢が北白川(山城国)に出没し放火する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条

天文20年 1551年 2月28日 30歳
六角義賢の軍勢が東門前・鹿ヶ谷・岡崎・若王寺・粟田口・山科・日岡・四宮(山城国)を放火し、鴨川に野伏せりを掛ける。これを受け、三好長慶伊勢貞孝今村慶満を遣わすも六角勢は撤退する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条

天文20年 1551年 3月2日 30歳
三好長慶が軍勢20000のをもって岩倉(山城国)の山本館を攻め、放火する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 3月4日 30歳
三好長慶が軍勢1000を引き連れ伊勢貞孝のもとを訪れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 3月7日 30歳
伊勢貞孝が吉祥院(山城国)にいる三好長慶のもとを訪れる。長慶の居所に小童が忍び入り焼き討ちを企てるが捕える。長慶は東寺松永久秀陣所に移る。
出典:『言継卿記』同年月8日条

天文20年 1551年 3月14日 30歳
三好長慶伊勢貞孝邸を訪れる。貞孝邸で長慶と貞孝が将棋をさす。その後、乱舞が行われる。夕方、奉公衆・進士賢光が長慶に斬りかかり傷を負わせる。負傷した長慶は山崎(山城国)に移る。
宇津(丹波国)より香西元成・柳本・宇津・三好政勝の軍勢が京都に入り伊勢貞孝邸を焼き討ちする。同軍勢は西賀茂・正伝寺(山城国)に陣取る。
出典:『言継卿記』同年月14・15日条

天文20年 1551年 3月15日 30歳
香西元成・柳本・宇津・三好政勝三好長虎率いる軍勢20000が戦い、長虎が勝利する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 3月16日 30歳
三好長慶が見舞いに訪れた使者と面会し無事を伝える。
三好長虎率いる軍勢20000が3月14日に香西元成三好政勝らが陣取った西賀茂・正伝寺(山城国)を放火する。その後、長虎の軍勢は東に向かう。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 3月17日 30歳
三好長慶の無事が噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 3月23日 30歳
山科言継三好長慶を見舞う使者を送る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 3月26日 30歳
山崎(山城国)にいる三好長慶のもとに山科言継の使者・大澤掃部が訪れるが逢えず。掃部には松永久秀、鳥養兵部が応対する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文20年 1551年 5月5日 30歳
遊佐長教若江城(河内国)城内にて珠阿弥に暗殺される。
出典:-

天文20年 1551年 7月14日 30歳
細川晴元の命により三好政勝香西元成、柳本、山本、山中、織田左近大夫、十河左介、岸和田が軍勢3000で等持寺に打ち入り、相国寺に立て籠る。そこに、松永久秀松永長頼が率いる摂津・河内・大和の軍勢40000が攻め寄せ、両勢交戦の末、松永勢が勝利する。松永勢は相国寺を放火する。
出典:『厳助往年記』同年月日条、『足利季世記』巻5「大内殿生害之事並家伝之事」

天文20年 1551年 10月1日 30歳
三好長慶が富田(摂津国)に至る。
出典:(天文20年10月1日付斎藤基速書状(『戦国遺文三好氏編』第1巻-320号「東寺百合文書」)

天文21年 1552年 1月28日 31歳
足利義藤が比叡辻の宝泉寺より、未下刻(14:00頃)、入洛する。伊勢貞孝被官の蜷川弥三郎・堤三郎兵衛を先頭に三宝院、奉公衆、同朋衆、大舘晴光上野信孝、大舘晴忠、朽木稙綱、細川中務大輔、伊勢貞孝、縁阿弥、高倉永家、慶寿院(義輝正室)、遊佐勘解由左衛門、近衛稙家、大覚寺義俊が付き従う。細川聡明丸も上洛する。
義藤、聡明丸の上洛につき、三好長慶が麾下の国衆を辻固めに動員し、三好長逸松永久秀を遣わして逢坂にて出迎える。
六角義賢の軍勢に守られた聡明丸が、戌刻(19-21時)に東寺に到着する。三好千熊丸が聡明丸を出迎える。
細川晴元足利義藤の帰洛に随行せず若狭に向かうため堅田から葛川に向かったとされる。
出典:『言継卿記』同年月日条、『足利季世記』巻5「公方三好和談之事」

天文21年 1552年 2月26日 31歳
細川氏綱細川藤賢が上洛し足利義藤に出仕する。三好長慶が御供衆として出仕する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『足利季世記』巻5「公方三好和談之事」

天文21年 1552年 2月29日 31歳
足利義藤が参内する。御供衆として細川藤賢三好長慶を随伴する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 4月4日 31歳
三好長慶が朝廷へ勅筆古今の御礼のため参内する。太刀・折紙・万疋を進上する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 4月25日 31歳
三好長慶が軍勢5000余を率い丹波国に攻め入る。
出典:『足利季世記』巻5「細川讃岐守生害ノ事」、『陰徳太平記』巻21「丹州八上城攻付摂州芥川城明退事」

天文21年 1552年 4月末日 31歳
三好長慶が波多野晴通が籠る八上城(丹波国)を攻撃する。
出典:『言継卿記』同年5月24日条、『足利季世記』巻5「細川讃岐守生害ノ事」

天文21年 1552年 5月23日 31歳
芥川孫十郎・池田長正・小川式部丞が三好長慶に謀叛を起こすとの噂が流れる。これを受け、長慶は夜中に八上城(丹波国)を撤退し有馬郡(摂津国)に逃れる。
出典:『足利季世記』巻5「細川讃岐守生害ノ事」、『陰徳太平記』巻21「丹州八上城攻付摂州芥川城明退事」

天文21年 1552年 5月24日 31歳
一昨夜(22日)に八上城(丹波国)を攻めていた三好長慶が敗れ、越水城(摂津国)に撤退したと噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条、『天文日記』同年月25日条

天文21年 1552年 6月3日 31歳
三好長慶細川晴元に細川聡明丸を奪われることを恐れ聡明丸を鳥羽(山城国)に移す。
出典:『足利季世記』巻5「細川讃岐守生害ノ事」

天文21年 1552年 6月5日 31歳
三好長慶が細川聡明丸を越水城(摂津国)に迎える。
出典:『足利季世記』巻5「細川讃岐守生害ノ事」

天文21年 1552年 10月2日 31歳
夕方、三好長慶が上洛する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 10月3日 31歳
三好長慶が西岡・三鈷寺・灰方・良峯・岩倉(以上、山城国)・坂本(近江国)などを焼き討ちする。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 10月20日 31歳
細川晴元被官の香西元成が丹波国桑田郡に侵攻する。内藤国貞が応戦するが元成が勝利する。
出典:『足利季世記』巻5「細川讃岐守生害ノ事」

天文21年 1552年 10月25日 31歳
三好長慶が丹波国に向けて出発する。西岡(山城国)に着陣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 10月28日 31歳
三好長慶が河瀬城を包囲する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 11月13日 31歳
三好長慶が嵯峨(山城国)に移り軍勢を解散する。摂津国に向かうとされる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 11月27日 31歳
細川晴元が西岡(山城国)に出没し、同地を放火、その後、嵯峨(山城国)に陣取る。
夜、三好長慶方の西院小泉城、郡城が自焼する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 11月28日 31歳
辰刻(7-9時)頃、細川晴元足利義藤の籠る霊山城(山城国)を攻撃すべく五条坂(山城国)を放火する。清水坂(山城国)にて足利勢と細川勢が戦う。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 12月1日 31歳
三好長慶細川晴元の攻撃をうけていた足利義藤のもとに駆け付ける。
細川晴元が長慶の上洛にともない丹波国に逃亡する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 12月5日 31歳
三好長慶が祇園を宿所とする。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文21年 1552年 12月-日 31歳
三好長慶東寺に三好勢の乱妨・狼藉禁止、山林竹木の伐採禁止、東寺への寄宿・陣取り禁止、東寺への矢銭・兵糧米徴収の禁止を記した禁制を発給する。
出典:天文21年12月日付三好長慶禁制(「東寺百合文書」ヤ函195 東寺百合文書WEB)

天文21年 1552年 -月-日 31歳
子・慶興が元服する。
出典:『言継卿記』天文22年1月28日条

天文22年 1553年 1月27日 32歳
三好長慶越水城(摂津国)を発つ。
出典:『足利季世記』巻5「細川讃岐守生害ノ事」

天文22年 1553年 1月28日 32歳
三好長慶慶興父子が上洛する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 1月30日 32歳
三好長慶、斎藤越前守が山科言継のもとを訪れ太刀を贈る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 閏1月1日 32歳
足利義藤が参内する。三好長慶が供奉する。
山科言継が昨日に礼にやってくる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 閏1月8日 32歳
三好長慶が淀(山城国)に移る。三好長慶について悪いうわさが流れる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 閏1月16日 32歳
三好長慶足利義藤警護として軍勢500を室町(山城国)に駐屯させる。
山科言継が昨日に礼にやってくる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 2月12日 32歳
三好長慶が上洛し東寺に入る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 2月20日 32歳
細川晴元が乾あたりに足軽を繰り出すが、三好長慶勢が追い払う。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 2月26日 32歳
細川晴元が高尾五台山に城を築く。
鳴瀧あたりにて、細川晴元勢と三好長慶勢と戦い、細川勢は大将分4・5人、計20人程が討ち取られる。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 2月27日 32歳
三好長慶細川晴元にの高尾山を軍勢10000にて攻める。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 3月8日 32歳
足利義藤三好長慶の関係が決裂する。義藤が霊山城(山城国)に入城する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 3月10日 32歳
細川晴元の牢人衆が畑(丹波国)にて蜂起する。この討伐のため、三好長慶松永久秀を遣わす。
出典:『足利季世記』巻5「細川讃岐守生害ノ事」

天文22年 1553年 3月27日 32歳
山科言継清凉寺千部経に訪れる。三好長慶が馬上50-60騎を含め700-800人を率い清凉寺に参詣する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 4月2日 32歳
山科言継三好長慶に依頼された玉葉集の書写を始める。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 4月3日 32歳
山科言継三好長慶に依頼された玉葉集の書写のため右衛門督より玉葉集の上・中・下を借用する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 5月9日 32歳
粟津修理亮が三好長慶を招く。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 6月9日 32歳
三好之虎が細川持隆を見性寺に攻め自害に追い込む。
出典:『足利季世記』巻5「細川讃岐守生害ノ事」

天文22年 1553年 7月3日 32歳
三好長慶が芥川孫十郎の籠る芥川山城(摂津国)の東の山に陣取り芥川山城を攻める。
出典:『足利季世記』巻5「大樹都落之事」

天文22年 1553年 7月28日 32歳
細川晴元が長坂(山城国)に軍勢を遣わす。長坂にいた晴元被官の内藤彦七、香西元成、柳本、三好政勝を、足利義藤が奉公衆・上野民部大輔らが5・6名を遣わし出迎える。北野神社右近馬場にて晴元を赦免する。
西院(山城国)の集落を焼き討ちにするも、同地の三好方の小泉城(山城国)は落ちず。義藤のもとへ挨拶に訪れた人々を送り、自身は北山に陣取る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 7月29日 32歳
足利義藤が西院(山城国)に野伏せりを仕掛ける。細川晴元の家臣・内藤彦七、香西元成三好政勝、十河左介、宇津二郎左衛門が談合のため義藤の陣所を訪れる。義藤は彼らに酒を振舞う。大舘晴光上野信孝、上野与三郎、杉原晴盛も談合に参加。同朋衆に酌をさせる。
下京に1町につき結橋2つを賦課する。
出典:『言継卿記』同年月日・7月30日条条

天文22年 1553年 7月30日 32歳
足利義藤が北山(山城国)より北野社右近馬場を経て西京東南角の松之本に布陣する。西院小泉城(山城国)を内藤彦七らに率いられた細川勢3000-4000とともに包囲する。西七条・鳥羽あたりで火が上がったため西院城への三好の後詰に備えたが、三好勢が来なかったため再度、西院城を包囲し、城の東北に布陣した奉公衆の上野信孝と杉原晴盛に城攻めを命じるが、兵の損耗を嫌った両者は攻撃をせず。夕方、北山に帰陣する。
三好長慶が、申刻(16時)、鳥羽(山城国)に布陣し、東寺にて野伏せりをする。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 8月1日 32歳
三好長慶芥川山城(摂津国)への押さえの軍勢を残し、河内国・和泉国・大和国・摂津国・紀伊国の軍勢を25000を率い上洛する。長慶の上洛にあわせ、安見宗房が上洛する。
足利勢が籠る霊山城(山城国)に今村慶満を遣わし攻める。今村勢は、一族の今村源七郎ら死傷者を出すが、城を守る松田監物を自害に追い込み城を落とす。また、長慶は船岡山(山城国)に陣取っていた足利義藤十河一存率いる河内国・紀伊国の諸勢10000を遣わし攻撃を加え、多くを捕らえる。義藤は北山(山城国)に逃れる。細川晴元は一戦に及ばず撤退する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『足利季世記』巻5「大樹都落之事」

天文22年 1553年 8月14日 32歳
この頃、三好長慶が龍華に逃れた足利義藤に随従している者の知行を没収すると触れ回る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 8月18日 32歳
細川晴元の牢人衆・塩川伯耆守が池田(摂津国)にて蜂起し芥川山城(摂津国)の後詰に赴くが敗れる。
出典:『足利季世記』巻5「芥川落城之事」

天文22年 1553年 8月19日 32歳
芥川山城(摂津国)に籠っていた芥川孫十郎が三好長慶に降伏し、城を明け渡す。
出典:『足利季世記』巻5「芥川落城之事」

天文22年 1553年 8月22日 32歳
安見宗房芥川山城(摂津国)を請け取る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 8月30日 32歳
安見宗房の交渉により開城した芥川山城(摂津国)を三好長慶が受け取り入城する。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

天文22年 1553年 9月3日 32歳
三好長慶の命により松永長頼が八上城(丹波国)攻めに赴く。
出典:『足利季世記』巻5「芥川落城之事」

天文22年 1553年 9月18日 32歳
松永長頼が八上城(丹波国)の合戦で波多野晴通に敗れ八木城(丹波国)より退く。
出典:『足利季世記』巻5「芥川落城之事」

天文22年 1553年 9月28日 32歳
三好長慶の病死が噂される。
出典:『言継卿記』同年月29日条

天文22年 1553年 10月25日 32歳
山科言継三好長慶に依頼された玉葉集の書写を終える。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 11月13日 32歳
長尾景虎に到着する。本願寺証如に音信として太刀・馬を遣わす。ただし実物は越後国より送るため目録のみで、実際には鳥目1000疋と樽代を送る。この音信は、三好長慶よりの助言による。
出典:『天文日記』同年月日条

天文22年 1553年 12月1日 32歳
三好長慶山科言継に依頼していた玉葉集の書写本を受け取る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文22年 1553年 12月15日 32歳
三好長慶が玉葉集を書写してくれた山科言継に礼状を送る。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文23年 1554年 4月12日 33歳
松永久秀が丹波国桑田郡に侵攻する。久秀と三好政勝と戦い、久秀が勝利する。
出典:『足利季世記』巻5「丹州播州エ三好勢遣之事」

天文23年 1554年 9月1日 33歳
三好長逸が三木次郎と交戦中の有馬源二郎のもとに援軍として播磨国衆を率いて赴き三木勢を破る。
出典:『足利季世記』巻5「丹州播州エ三好勢遣之事」

天文23年 1554年 11月2日 33歳
明石(播磨国)にて細川晴元衆の人見・香西と交戦中の赤松義祐へ援軍として安宅冬康篠原長房が明石に陣取る。
出典:『足利季世記』巻5「丹州播州エ三好勢遣之事」

天文23年 1554年 11月11日 33歳
三好長慶が明石(播磨国)に着陣する。
出典:『足利季世記』巻5「丹州播州エ三好勢遣之事」

天文24年 1555年 1月10日 34歳
三好之虎が明石(播磨国)に攻め入る。
出典:『陰徳太平記』巻24「赤松晴政攻播州明石並三木城事」

天文24年 1555年 1月13日 34歳
三好長慶が太山寺に陣取る。
出典:『足利季世記』巻5「丹州播州エ三好勢遣之事」、『陰徳太平記』巻24「赤松晴政攻播州明石並三木城事」

天文24年 1555年 2月27日 34歳
三好長慶と明石氏・別所氏の和睦が成立し、長慶は播磨国に参集させていた軍勢を開陣する。
出典:『足利季世記』巻5「丹州播州エ三好勢遣之事」、『陰徳太平記』巻24「赤松晴政攻播州明石並三木城事」

天文24年 1555年 9月27日 34歳
三好長逸が波多野晴通の籠る八上城(丹波国)攻めるが、晴通が長逸を退ける。
出典:『足利季世記』巻5「毛利合戦之事」

弘治1年 1555年 10月23日 34歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治2年 1556年 1月1日 35歳
芥川山城(摂津国)にて火災があり、三好慶興松永久秀の陣所が焼ける。
出典:『厳助往年記』同年月日条

弘治2年 1556年 5月-日 35歳
松永長頼が宇津氏を討つため丹波国に入部する。
出典:『厳助往年記』同年月日条

弘治2年 1556年 10月-日 35歳
三好長慶が禁裏の四方の築地等を修築するため、洛中の上京下京に棟別銭を賦課する。奉行は結城進斎。
出典:『厳助往年記』同年月条

弘治3年 1557年 8月26日 36歳
大風および大雨によりの尼崎・別所・島尾・今津・西宮・兵庫・灘(以上、摂津国)・明石(播磨国)に津波が起こる。
出典:『足利季世記』巻5「千部経ノ事」

弘治4年 1558年 2月3日 37歳
細川聡明丸が芥川山城(摂津国)にて元服し細川六郎となる。
出典:『足利季世記』巻5「千部経ノ事」

弘治4年 1558年 2月28日 37歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄1年 1558年 3月13日 37歳
足利義輝が朽木(近江国)より龍花へ移る。
出典:『言継卿記』同年月15日条

永禄1年 1558年 4月-日 37歳
足利義輝が龍花より和邇(近江国)へ移る。
出典:『言継卿記』弘治四年本表紙

永禄1年 1558年 5月3日 37歳
足利義輝が軍勢3000余を率い和邇(近江国)より坂本(近江国)の石河の本誓寺に入る。上醍醐に義輝の陣が置かれるのではと噂される。
出典:『言継卿記』『厳助大僧正記』同年月条、『惟房公記』同年月日条

永禄1年 1558年 5月19日 37歳
三好長慶の軍勢(三好長逸松永久秀松永長頼、伊勢十郎、粟津修理亮)が鳥羽(山城国)・九条(山城国)辺より京都内の大宮を北へ、御霊口サイの神の前(御霊社脇)を南へ、大原辻に出て、富小路の東・京極を南へ行き打ち廻り、鳥羽に帰陣する。軍勢は10000とも15000とも。
出典:『言継卿記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月2日 37歳
三好長慶が勝軍地蔵に城を築き軍勢を布陣させる。4日に足利義輝が坂本(近江国)より入洛するとの風聞をうけての処置という。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月4日 37歳
足利義輝細川晴元の軍勢15000(『厳助大僧正記』。『言継卿記』では5000人)が如意嶽(山城国)に攻め入り、柵を設ける。鹿ヶ谷(山城国)を放火する。三好長慶勢と矢合わせをする。義輝・晴元は園城寺の上に城を構える。
出典:『言継卿記』『厳助大僧正記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月5日 37歳
東山(山城国)の麓の村々が足利義輝勢と三好長慶勢の戦いにより灰燼に帰す。
出典:『惟房公記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月7日 37歳
三好長慶坂本(近江国)より京都をうかがう足利義輝に備えるため、三好長逸池田長正伊丹親興松永久秀松永法雲軒率いる15000の兵を河原に出撃させる。
足利義輝細川晴元が軍勢15000をもって如意嶽に攻め入り矢合わせをする。勝軍地蔵城(山城国)に布陣していた三好長慶勢の伊勢貞孝寺町通昭・松山重治・岩成友通の2000余りの兵は、城を放火し、東寺・吉祥寺・報恩寺四条道場・等持寺・唱門土村あたりまで撤退する。三好勢の撤退により、義輝は勝軍山城に入城する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月8日 37歳
足利義輝の軍勢が北白川の古城・勝軍地蔵に布陣する。対する三好長慶は、5000の軍勢を吉田山に布陣させ、残りの軍勢で如意嶽を攻撃し、足利勢を破る。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月9日 37歳
三好長逸松永久秀松永長頼等の摂津国衆・丹波国衆が如意嶽を攻める。如意嶽に置いた足利義輝の軍勢が悉く撤退する。三好勢は神楽岡(山城国)より四条・七条・八条・九条に引き上げるところ、義輝が勝軍地蔵城(山城国)に300の兵で出張し、三好長慶勢の布陣する河原に打って出るも敗れて白川口に逃れる。奉公衆の松任修理・本郷新九郎・本郷三郎・山名又五郎・久世兵部少輔・松田二郎左衛門ら70余名が討死する。
久秀が勝軍地蔵城を攻め、六角義賢の軍勢と戦う。
出典:(永禄1年6月14日付細川晴元書状(『戦国遺文三好氏編』第1巻-518号「後鑑所収古文書」)、『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条、『足利季世記』巻5「公方勝軍地蔵エ出張之事」

永禄1年 1558年 6月12日 37歳
足利義輝が勝軍地蔵(山城国)に御殿を建てる。
三好長慶が吉田神楽岡(山城国)に足軽を遣わす。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月15日 37歳
三好長慶が河原に足軽を差し向けるも勝軍地蔵(山城国)の足利義輝勢は出撃せず黙止する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月17日 37歳
三好長慶が河原に足軽を差し向けるも勝軍地蔵(山城国)の足利義輝勢は出撃せず黙止する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄1年 1558年 6月17日 37歳
三好長慶が河原に足軽を差し向けるも勝軍地蔵(山城国)の足利義輝勢は出撃せず黙止する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄1年 1558年 閏6月7日 37歳
三好長慶勢14000が足利義輝の籠る勝軍地蔵城(山城国)を攻める。
出典:『惟房公記』同年月日条

永禄1年 1558年 7月14日 37歳
三好長慶が軍勢10000を東河原へ出撃させ、一乗寺・試楽寺・松崎・浄土寺・獅子谷・岡崎・粟田口(山城国)で地子銭を徴収する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄1年 1558年 7月20日 37歳
足利義輝の足軽が勝軍地蔵城(山城国)から200名ほど出撃する。これに対し、三好長慶が300名で迎撃する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄1年 1558年 7月21日 37歳
足利義輝の足軽が勝軍地蔵城(山城国)から300名ほど出撃する。これを受け、三好長慶が200-300名で迎撃する。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄1年 1558年 7月24日 37歳
足利義輝が勝軍地蔵城(山城国)の軍勢を山科花山郷・四手井城に遣わし当地を放火する。これを受け三好長慶は軍勢5000-6000を同地につかわす。足利勢は如意嶽を経由し勝軍地蔵城まで戻る。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄1年 1558年 9月18日 37歳
にて三好長慶三好之虎安宅冬康十河一存の4兄弟が集まる。
出典:『足利季世記』巻5「公方勝軍地蔵エ出張之事」

永禄1年 1558年 9月-日 37歳
三好長慶清水寺に軍勢の乱妨、山林竹木の伐採、伽藍に向けての鉄砲発砲を禁止する禁制を発給する。
出典:永禄1年9月日付三好長慶禁制(「成就院文書」『清水寺史』3巻)

永禄1年 1558年 11月6日 37歳
三好長慶慶興父子が芥川山城(摂津国)に帰る。
出典:『足利季世記』巻5「公方勝軍地蔵エ出張之事」

永禄1年 1558年 11月26日 37歳
三好長慶が上洛する。
出典:永禄1年11月27日付藤岡直綱書状(『戦国遺文三好氏編』第1巻-548号「東寺百合文書」)

永禄1年 1558年 11月27日 37歳
六角義賢の仲介により足利義輝三好長慶が和睦する。これにつき、義輝が勝軍地蔵城(山城国)より相国寺に移ったことをうけ、長慶・慶興父子が上洛し、義輝に出仕する。
三好長慶芥川山城に帰城する。
出典:『足利季世記』巻5「公方勝軍地蔵エ出張之事」

永禄1年 1558年 12月18日 37歳
三好長慶芥川山城(摂津国)に帰城する。
出典:『足利季世記』巻5「高政高屋城ヲ出ル事」

永禄2年 1559年 5月23日 38歳
三好長慶が摂津国衆を率いを発し根来寺に向かう。
出典:『足利季世記』巻5「細川氏綱淀城入事」

永禄2年 1559年 5月-日 38歳
根来寺衆・河内国衆の安見宗房三好長慶と対立したため十河一存が討伐に赴く。
出典:『足利季世記』巻5「細川氏綱淀城入事」

永禄2年 1559年 5月29日 38歳
十河一存根来寺衆が戦い、根来寺衆が勝利する。
出典:『足利季世記』巻5「細川氏綱淀城入事」

永禄2年 1559年 5月-日 38歳
三好長慶安見宗房を攻めるため河内国に10000の軍勢をもって侵攻する。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

永禄2年 1559年 6月6日 38歳
三好長慶高屋城(河内国)を攻めるべく河内十七ヶ所に布陣する。安見宗房は長慶勢に対し足軽を遣わし防戦する。
出典:『足利季世記』巻5「細川氏綱淀城入事」

永禄2年 1559年 6月22日 38歳
三好長慶安見宗房が戦い、三好勢400名程が討死する。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永禄2年 1559年 7月21日 38歳
河内国の安見宗房を攻める三好長慶の加勢として、松永蓬雲軒が別所氏、明石氏、衣笠氏、真島氏、有馬氏等とともに軍勢20000を率い摂津国欠郡に駆け付ける。
出典:『足利季世記』巻5「細川氏綱淀城入事」

永禄2年 1559年 7月22日 38歳
三好長慶方の池田出羽守と安見宗房方の遊佐三郎左衛門が合戦し、出羽守が勝利する。
出典:『足利季世記』巻5「細川氏綱淀城入事」

永禄2年 1559年 7月29日 38歳
三好長慶が喜連・杭全(河内国)に陣取る。
出典:『足利季世記』巻5「細川氏綱淀城入事」

永禄2年 1559年 7月-日 38歳
三好長慶東大寺に禁制を発給する。
出典:永禄2年7月日付三好長慶禁制(『東大寺公慶上人』)

永禄2年 1559年 8月1日 38歳
三好長慶畠山高政安見宗房の籠る高屋城(河内国)に攻め入り城下を放火する。宗房が飯盛山城に撤退したため、長慶、高政は高屋城に入城する。
出典:『足利季世記』巻5「細川氏綱淀城入事」

永禄2年 1559年 8月4日 38歳
安見宗房飯盛山城(河内国)より大和国に逃亡する。
出典:『足利季世記』巻5「細川氏綱淀城入事」

永禄2年 1559年 8月8日 38歳
松永久秀が大和国に入部する。
出典:『多聞院日記』天正5年10月9日条

永禄3年 1560年 1月15日 39歳
三好長慶畠山高政淀城(山城国)にいる管領・細川氏綱のもとに礼に赴く。
出典:『足利季世記』巻5「長慶任修理大夫事」

永禄3年 1560年 1月16日 39歳
三好長慶松永久秀淀城(山城国)より上洛する。
出典:『足利季世記』巻5「長慶任修理大夫事」

永禄3年 1560年 2月4日 39歳
足利義輝が参内する。三好長慶が供奉し、修理大夫に任官される。三好義興が筑前守に、松永久秀が弾正少弼に任官される。
出典:『足利季世記』巻5「長慶任修理大夫事」

永禄3年 1560年 2月10日 39歳
三好長慶芥川山城(摂津国)に帰城する。
出典:『足利季世記』巻5「長慶任修理大夫事」

永禄3年 1560年 3月5日 39歳
三好長慶に在陣する。
出典:『足利季世記』巻5「長慶任修理大夫事」

永禄3年 1560年 4月3日 39歳
三好長慶が河内国に入る。
出典:『足利季世記』巻5「長慶任修理大夫事」

永禄3年 1560年 4月4日 39歳
三好長慶芥川山城(摂津国)に帰城する。
出典:『足利季世記』巻5「長慶任修理大夫事」

永禄3年 1560年 4月6日 39歳
三好長慶淡路国に向かうため兵庫(摂津国)に入る。
出典:『足利季世記』巻5「長慶任修理大夫事」

永禄3年 1560年 4月8日 39歳
洲本(淡路国)にて、不和となっていた三好長慶三好之虎が会見する。之虎は出家し物外軒実休と号す。
出典:『足利季世記』巻5「長慶任修理大夫事」

永禄3年 1560年 4月28日 39歳
三好長慶芥川山城(摂津国)に帰城する。
出典:『足利季世記』巻5「長慶任修理大夫事」

永禄3年 1560年 5月16日 39歳
三好長慶畠山高政が断交する。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永禄3年 1560年 6月24日 39歳
畠山高政討伐のため三好長慶の催促をうけた三好実休が四国衆を率い尼崎(摂津国)に到着する。
出典:『足利季世記』巻5「松永弾正和州平均之事」

永禄3年 1560年 7月3日 39歳
玉櫛(河内国)にて畠山高政三好実休が戦い、実休が勝利する。実休は若井(河内国)を攻める。
出典:『足利季世記』巻5「松永弾正和州平均之事」

永禄3年 1560年 7月7日 39歳
三好実休が太田・若林(河内国)に陣替えする。
出典:『足利季世記』巻5「松永弾正和州平均之事」

永禄3年 1560年 7月19日 39歳
三好実休が富田林(河内国)に陣取る。
出典:『足利季世記』巻5「松永弾正和州平均之事」

永禄3年 1560年 7月22日 39歳
大窪にて三好実休安見宗房が戦い、実休が勝利する。
出典:『足利季世記』巻5「松永弾正和州平均之事」

永禄3年 1560年 7月24日 39歳
松永久秀畠山高政方の井戸若狭守が籠る井戸城(大和国)を攻める。
出典:『足利季世記』巻5「松永弾正和州平均之事」

永禄3年 1560年 8月14日 39歳
堀溝にて池田勢と安見宗房が戦い、池田勢が勝利する。
出典:『足利季世記』巻5「細川氏綱淀城入事」

永禄3年 1560年 8月30日 39歳
三好実休高屋城(河内国)近所に攻め寄せる。
出典:『足利季世記』巻5「松永弾正和州平均之事」

永禄3年 1560年 8月-日 39歳
井戸若狭守が松永久秀に降伏し井戸城(大和国)を明け渡す。
出典:『足利季世記』巻5「長慶任修理大夫事」

永禄3年 1560年 9月9日 39歳
高屋城(河内国)東の河原口にて伊丹親興と貴志・丹下・野尻が率いる畠山勢と交戦し、親興が勝利する。
出典:『足利季世記』巻5「松永弾正和州平均之事」

永禄3年 1560年 10月8日 39歳
畠山高政の籠る飯盛山城(河内国)の後詰として香西元成、山中新左衛門、木沢新太郎が杉山口(山城国)に遣わされるが三好長慶勢に敗れる。
出典:『足利季世記』巻5「松永弾正和州平均之事」

永禄3年 1560年 10月12日 39歳
三好長慶勢が香西元成が在城していた炭山城(山城国)を攻める。元成は戦死する。
出典:-

永禄3年 1560年 10月15日 39歳
根来寺衆の杉坊・岩室が率いる軍勢500が高屋城(河内国)の後詰としてやってくるが、高屋城を包囲する三好勢が打ち破る。
出典:『足利季世記』巻5「松永弾正和州平均之事」

永禄3年 1560年 10月24日 39歳
飯盛山城(河内国)の安見宗房が城を三好長慶に明け渡しに逃れる。
高屋城(河内国)の畠山高政遊佐信教が城を長慶に明け渡しに逃れる。
出典:『足利季世記』巻5「松永弾正和州平均之事」

永禄3年 1560年 11月13日 39歳
畠山高政方の万歳大和守が降伏し万歳城(大和国)を松永久秀に明け渡す。
出典:『足利季世記』巻5「松永弾正和州平均之事」

永禄3年 1560年 11月13日 39歳
飯盛山城(河内国)に入城する。
三好実休高屋城(河内国)に入城する。
出典:『足利季世記』巻5「松永弾正和州平均之事」

永禄3年 1560年 11月18日 39歳
畠山高政方の長谷の桜坊が降伏し城を松永久秀に明け渡す。
出典:『足利季世記』巻5「松永弾正和州平均之事」

永禄3年 1560年 11月24日 39歳
畠山高政方の澤・日の牧城が松永久秀に降伏する。
出典:『足利季世記』巻5「松永弾正和州平均之事」

永禄4年 1561年 1月15日 40歳
三好長慶慶興父子が上洛し足利義輝に出仕する。義輝は長慶・慶興父子を御相伴衆に取り立て、桐の御紋の使用を許す。また慶義に偏諱を賜い「義興」と名乗らせる。
出典:『足利季世記』巻5「晴元入道三好ト和談事」

永禄4年 1561年 3月18日 40歳
弟・十河一存が死去する。
出典:-

永禄4年 1561年 3月29日 40歳
三好長慶義興の御相伴衆就任を祝うべく長慶の館へ足利義輝が御成する。その際、義輝が長慶に細川晴元との和睦をするよう言い渡す。
出典:『厳助往年記』同年月日条、『足利季世記』巻5「晴元入道三好ト和談事」

永禄4年 1561年 3月30日 40歳
未刻(13-15時)、足利義輝三好義興邸を訪れる。安威藤備安東泰職石谷光政小林藤宗進士藤延が義輝騎乗の馬を曳く。寺町通昭和久是徳が進物奉行を、三好長逸が惣奉行をつとめる。 義輝には、義興が太刀1腰・鎧1領・弓・征矢・馬1疋を、細川氏綱三好長慶松永久秀・長逸・三好宗渭三好長虎・三好帯刀左衛門尉、池田勝正、多羅尾綱知がそれぞれ太刀1腰を進上する。
出典:『三好筑前守義長朝臣亭江御成之記』(『群書類従』)、三好義興等進献物注文(『蜷川家文書』3-747号)

永禄4年 1561年 5月6日 40歳
足利義輝が斡旋していた三好長慶細川晴元の和睦が成立する。晴元は普門寺(摂津国)に入り富田荘を知行地として長慶より与えられる。
出典:『足利季世記』巻5「晴元入道三好ト和談事」

永禄4年 1561年 7月28日 40歳
六角義賢細川晴元の次男を擁立し、畠山高政安見宗房遊佐信教根来寺衆と示し合わせて勝軍地蔵城(山城国)にて軍勢10000程で蜂起する。
出典:『永禄四年古記録甲』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)、『足利季世記』巻5「勝軍地蔵山合戦之事」

永禄4年 1561年 7月29日 40歳
六角義賢の軍勢1000が東山(山城国)に出張る。三好長慶勢は出勢せず。
出典:『永禄四年古記録甲』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

永禄4年 1561年 7月30日 40歳
六角義賢勢と三好長慶勢が戦う。
出典:『永禄四年古記録甲』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

永禄4年 1561年 -月-日 40歳
畠山高政根来寺衆・紀伊国衆が岸和田(和泉国)に出陣し、安見宗房遊佐信教もそれに応じるとの報をうけ、高屋城(河内国)に在番していた三好実休が大将として安宅冬康三好康長三好政勝・三好盛政・吉成勘助・篠原長房の軍勢7000を率い畠山勢と対陣する。
出典:『足利季世記』巻5「勝軍地蔵山合戦之事」

永禄4年 1561年 8月19日 40歳
六角義賢勢と三好長慶勢が戦う。
出典:『永禄四年古記録乙』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

永禄4年 1561年 10月20日 40歳
六角義賢勢と三好長慶勢が戦う。
出典:『永禄四年古記録乙』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

永禄4年 1561年 10月26日 40歳
東河原(山城国)にて六角義賢勢と三好長慶勢が戦う。
出典:『永禄四年古記録乙』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

永禄4年 1561年 10月28日 40歳
東河原(山城国)にて六角義賢勢と三好長慶勢が戦う。小泉山城守が戦死する。
出典:『永禄四年古記録乙』(北野天満宮史料刊行会、北野天満宮、1980年)

永禄4年 1561年 -月-日 40歳
勝軍地蔵城(山城国)に入った永原安芸守率いる六角勢10000に対処すべく京都の三好勢の総大将として三好義興が梅津(山城国)に在陣する。松永久秀が西院(山城国)に在陣する。
出典:『足利季世記』巻5「勝軍地蔵山合戦之事」

永禄4年 1561年 11月24日 40歳
三好義興松永久秀が勝軍地蔵城(山城国)に攻め寄せ六角義賢と交戦する。三好勢は城を落とすことができずに撤退する。この戦いで、六角方は永原安芸守が、三好方は三郷主膳助が戦死する。
出典:『足利季世記』巻5「勝軍地蔵山合戦之事」

永禄5年 1562年 3月5日 41歳
久米田(河内国)にて畠山高政安見宗房遊佐信教根来寺衆と三好実休が戦い、実休が戦死する。実休の辞世「草からす 霜又今朝ノ 日に消て 報の程は 終にのかれず」。
この戦いにより高屋城(河内国)が落ちるとともに、三好長慶の居城・飯盛山城を除く河内国の三好方の諸城が畠山高政方に靡く。
出典:『厳助往年記』同年月6日条、『足利季世記』巻6「久米田合戦之事」

永禄5年 1562年 3月6日 41歳
三好実休が戦死したため、安宅冬康は在番していた岸和田城(和泉国)を放棄する。同城は畠山高政の支配下となる。
足利義輝が慶寿院とともに八幡(山城国)に移る。
六角義賢が勝軍地蔵城(山城国)から清水坂に陣を移す。
三好長慶山崎(山城国)に撤退する。
出典:『足利季世記』巻6「久米田合戦之事」

永禄5年 1562年 5月24日 41歳
三好義興安宅冬康松永久秀三好長逸三好長虎、三好盛政、三好政勝率いる軍勢8000が教興寺(河内国)に出陣する。
出典:『足利季世記』巻6「教興寺合戦之事」

永禄6年 1563年 3月1日 42歳
細川晴元が普門寺(摂津国)にて死去する。
出典:『足利季世記』巻6「晴元逝去之事」

永禄6年 1563年 8月25日 42歳
子・義興が黄疽という病により芥川山城(摂津国)にて死去する。義興の死により十河一存の子・義継を後継とする。
出典:『足利季世記』巻6「晴元逝去之事」

永禄6年 1563年 12月20日 42歳
細川氏綱淀城(山城国)にて死去する。
出典:『足利季世記』巻6「晴元逝去之事」

永禄6年 1563年 2月-日 42歳
池田長正が死去する。
出典:『池田氏家譜集成』

永禄7年 1564年 5月9日 43歳
三好長慶飯盛山城(河内国)にて弟・安宅冬康を呼び出し、冬康を自害させる。
出典:『言継卿記』永禄同年月10日条、『足利季世記』巻6「冬康生害之事」

永禄7年 1564年 7月24日 43歳
三好長慶が死去する。養子・義継が幼齢であるとして長慶の死は秘匿される。
出典:『足利季世記』巻6「冬康生害之事」

永禄9年 1566年 6月24日 
未刻(13-15時)、真観寺(河内国)にて三好長慶の葬儀を三好義継三好長逸が執り行う。
出典:『鹿苑日録』同年月日条・同年月26日条、『足利季世記』巻6「冬康生害之事」

慶長19年 1614年 7月14日 
徳川秀忠が父・家康に定家自筆『伊勢物語』を贈る。土井利勝が持参する。林羅山は家康に読み聞かせをする。この本は後土御門天皇の御物で、畠山義総三好長慶と伝わり、三好家没落後は堺(和泉国)にあったが、細川藤孝が入手し、松平忠吉が藤孝に所望して入手し、忠吉没後は秀忠に進上されたものとされている。
出典:『駿府記』同年月日条

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