人 物 史

伊勢貞孝 いせ さだたか
生 没 年?-永禄5年(1562)9/11
出 身-幼 名-
別 称又三郎
法 名-
戒 名-
伊勢貞辰
伊勢貞忠[養父]
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兄 弟 姉 妹-
配 偶 者-
伊勢貞良
官 位伊勢守
役 職室町幕府 政所執事
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ-
伊勢貞孝 年表
和暦 西暦 年齢 事項 出典
--617-伊勢貞孝が生まれる。
*貞孝の誕生日については『蜷川親俊日記』天文7年6月17日条に「貴殿正誕生日御祈札自蟠根寺到来」とみえることによる。
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明応8年14991221-伊勢貞孝邸での聴松の月忌の斎に八坂塔の勧進十穀ば陪席する。『鹿苑日録』同年月日条
大永2年1522628-足利義晴が祇園会を見物するため下御所に赴く。伊勢貞孝大舘尚氏等が供をする。『祇園会御見物御成記』(『群書類従』)
大永6年1526216-足利義晴が石清水八幡宮に参詣する。細川高国が男山山上を、畠山稙長が義晴の宿院・善法寺を警固する。義晴の参詣にあたり、聖護院道増、広橋守光、烏丸光康、高倉永家、日野内光、賀茂在富、白川雅業、土御門有春、細川澄賢、畠山稙成、朽木稙綱伊勢貞孝、伊勢備中守、結城左近将監、飯川能登守、蜷川式部少輔、能勢弥太郎、西郡四郎、上野民部大輔、小林五郎、三上大蔵、松田丹後守が供奉する。『陰徳太平記』巻6「石清水八幡宮造営付義晴将軍御社参之事」
天文3年153493-足利義晴が軍勢2000を率い坂本(近江国)より上洛する。南禅寺に入る。先駆けは蜷川、大舘晴光・上野与三郎・佐々木治部少輔・一色式部少輔・力阿弥、伊勢貞孝六角義賢が随従する。義賢は若王子に寄宿する。『北野社家日記』同年月日条、『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』154号)
天文4年15351124-養父・貞忠が死去する。-
天文7年153816-鷹狩始め。伊勢貞孝が古市弾正忠より一献の進上を受ける。飯川彦九郎、縁阿が貞孝に同道する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文7年1538122-積蔵院刑部少輔が伊勢貞孝に巻数1朶、油煙3挺を贈る。貞孝は積蔵院に礼状を発給する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文7年1538221-細川晴元伊勢貞孝に大鷹を贈る。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文7年1538429-伊東義祐が偏諱の礼として足利義晴に30000疋(300貫)、伊勢貞孝に5000疋(50貫)を進上する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文7年153851-伊勢貞孝が体調不良につき幕府に出仕せず。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文7年153861-伊勢貞孝が体調不良につき幕府に出仕せず。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文7年1538617-伊勢貞孝が蜷川道運を連れ葛川に赴く。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文7年1538619-伊勢貞孝が葛川より戻る。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文7年1538623-十如院が伊勢貞孝のもとを訪れる。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文7年153871-伊勢貞孝が体調不良につき幕府に出仕せず。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文7年1538712-蜷川親俊が伊勢貞孝に樽を進上する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文7年15381123-足利菊童丸の髪置が行われる。伊勢貞孝が服を調進する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文7年15381224-本願寺証如の使者として円山隠岐が伊勢貞孝のもとに訪れる。貞孝は隠岐に対面する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153912-伊勢貞孝が幕府に出仕する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153913-伊勢貞孝が幕府に出仕する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153916-野洲井光助伊勢貞孝に例年通り1荷を贈る。光助は貞孝に対面する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539220-細川晴元伊勢貞孝邸を訪れる。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153941-細川晴元伊勢貞孝が幕府に出仕する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539425-足利義晴が庭田邸を訪問する。供は大舘晴光、上野与三郎、伊勢貞孝『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153951-伊勢貞孝が幕府に出仕する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153961-細川晴元伊勢貞孝が幕府に出仕する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539閏616-足利菊童丸、母・慶寿院が八瀬(山城国)へ赴く。供は大舘晴光朽木稙綱伊勢貞孝『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539閏624-伊勢貞孝が陸奥国南部の商人 左藤掃部助時吉と面会する。樽代100疋、太刀が時吉より進上される。時吉に肩衣を下賜し、盃を遣わす。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539閏626-伊勢貞孝清水寺に参詣する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153976-伊勢貞孝が高雄(山城国)にいる細川晴元に音信として5種10荷を遣わす。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153977-足利菊童丸伊勢貞孝邸を訪れる。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539722-伊勢貞孝が有馬晴純よりの偏諱および修理大夫任官の礼に対し返書を発給する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539723-赤松晴政、別所就治に足利義晴への礼を披露した旨を伝える。
細川晴元より茨木長隆が使者としてやってきて、洛中洛外を除く西国に徳政令の発布をしてはと提案を受ける。貞孝は足利義晴にその旨を披露したところ、六角定頼に相談せよとの返答を受ける。
『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539724-伊勢貞孝のもとに陸奥国の赤萩伊豆守が礼に訪れる。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539725-上京下京での徳政停止につき、伊勢貞孝が政所公人・開闔雑色をもって触れさせる。これにつき上京下京の土倉が5荷3種を貞孝に進上する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539729-富松与次が陸奥下向につき伊勢貞孝のもとを暇乞いに訪れる。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153981-伊勢貞孝が幕府に出仕する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153988-伊勢貞孝が病のため鞍馬(山城国)にて養生中の武田元光のもとへ見舞いに赴く。太刀(吉宗)、腰物(正弘)を贈る。元光より太刀(国行)、腰物(則光)が贈られる。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153989-伊勢貞孝のもとへ武田元光より使者として粟屋式部が訪れる。3献にてもてなす。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539823-坂本(近江国)に滞在中の六角定頼より伊勢貞孝のもとへ馬、太刀、10荷10合が贈られる。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539824-上京下京の地下人から申請のあった徳政停止について六角定頼と相談し、定頼より徳政停止で問題なしとの返答を受けたことから、松田晴秀に徳政停止を施行するよう伝える。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153996-大友家の被官 斎藤掃部助、斎藤新左衛門尉、津久見が伊勢貞孝にもとに礼に訪れ、太刀、馬を贈られる。貞孝は3献にてもてなす。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年153999-伊勢貞孝が幕府に出仕する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539926-細川晴元山崎(山城国)より上洛する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539927-伊勢貞孝細川晴元のもとを訪れる。貞孝の供は波多野。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539101-細川晴元伊勢貞孝が幕府に出仕する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539103-六角定頼が上洛する。蒲生定秀、青地、池田、下笠、上崎、三雲、本間が定頼の供をする。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年15391010-細川晴元六角定頼義賢父子を自邸に招く。晴元が催した観世能に伊勢貞孝も出席する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年15391021-伊勢貞孝六角定頼のもとを訪れる。
六角義賢が左京大夫に任じられる。
『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539112-栗真観音寺より伊勢貞孝に祈祷巻数、柑子2籠が進上される。
貞孝が春日社に神馬1疋を幕府より進献することを伝える。
『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539115-足利菊童丸が東山城(山城国)に赴く。供は大舘晴光、佐々木民部少輔、伊勢貞孝、万阿弥。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年15391113-六角定頼義賢父子が伊勢貞孝邸を訪れる。貞孝は観世能にてもてなす。藤宰相、大舘晴光、上野与三郎、細川高久海老名高助、永田景弘、飯川彦九郎、祐乗坊、蜷川親俊、青地、下笠、三雲、蒲生定秀が相伴する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年15391117-足利義晴・慶寿院・菊童丸千歳丸近衛稙家のもとを訪れる。菊童丸の供は大舘晴光、畠山上野介、上野与三郎、細川晴経伊勢貞孝、歳阿。義晴の供は細川晴賢、佐々木民部少輔、孝阿。堤、三上、野依、河村民部、淵田、鈴木、開藤、河田弥三郎、林源二郎が随従する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年15391119-観世大夫、観世四郎、観世与五郎が貞孝のもとに訪れる。与五郎に小袖を贈る。
赤松政村より礼として太刀、馬1疋、杉原20帖、10月7日付書状が届く。政村の使者・円光寺より杉原3束が贈られる。
『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年15391122-伊勢貞孝六角定頼のもとに赴く。貞孝は定頼に緞子、盆、太刀を贈る。六角義賢が貞孝に太刀を贈る。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年15391124-茨木長隆伊勢貞孝のもとに訪れる。貞孝は酒でもてなす。公方御料所の丹波国桐野・河内について長隆より報告がある。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539121-伊勢貞孝が幕府に出仕する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539122-3日の足利義晴菊童丸父子の細川晴元邸への訪問につき晴元のもとへ伊勢貞孝が見舞いに赴く。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539123-足利義晴菊童丸父子が細川晴元のもとを訪れる。義晴の供は細川右馬頭、佐々木民部少輔、春阿。菊童丸の供は大舘晴光、上野与三郎、細川晴経、大舘晴忠、伊勢貞孝、祐阿。能が催される。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年1539126-伊勢貞孝六角定頼のもとに赴く。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年15391224-本願寺証如への歳暮の礼に対する返礼の書状を伊勢貞孝が認める。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文8年15391230-上京下京の地下人20名の連判状をもって幕府に願い出ていた納銭方の員数増員が認められる。これにつき、礼として、地下人納銭方の佐野、中山、野洲井光助伊勢貞孝のもとを訪れ300疋を贈る。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文9年1540112-伊勢貞孝が下間光頼を御料所 加賀国森嶋・6ヶ村(長嶋、野田、高畠、宮武、藤六、小豆澤)・徳久の代官職に補任し、これより3ヶ年公用を京着するように命じる。天文9年11月2日付伊勢貞孝代官職補任状案(『蜷川家文書』3巻-546号)
天文11年1542112-本願寺証如伊勢貞孝に礼として3種3荷を贈る。使者は大坂小五郎。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年154221-唐船帰国につき、進物の目録が大内義隆より伊勢貞孝のもとへ届く。貞孝より足利義晴にこの旨が報告される。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年1542215-赤松晴政より御内書の礼として太刀1腰(則房)、腰物(信国)の進上足利義晴に披露したことを伝える晴政宛の返書を伊勢貞孝が調える。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年1542225-御霊神社別当 行光坊が伊勢貞孝に礼として10疋を贈る。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年154236-細川晴元伊勢貞孝に長塩を遣わし、唐船進物のことについて礼を述べる。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年1542312-足利義晴の使者として大舘常興のもとを祐阿が訪れる。訪問目的は、筒井順昭より代替わりの御礼進上があったが御内書を発給するべきか否かとのこと。常興としては不要であると考えるが、六角定頼伊勢貞孝が必要と考えるならば発給してもよいと返答する。『大舘常興日記』同年月日条
天文11年1542328-足利義晴菊童丸父子が坂本(近江国)より大津(近江国)を経由し上洛する。義晴の供は細川右馬頭、上野与三郎、万阿、藤中納言。菊童丸の供は大舘晴光、佐々木、小原、大舘治部大夫、佐々木民部少輔、伊勢貞孝、孝阿。義晴は相国寺法住院に入り、御殿の作事を命じる。
細川晴元は坂本(近江国)より上洛する。
『蜷川親俊日記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条
天文11年1542閏318-畠山稙長より礼として遊佐蔵人が伊勢貞孝のもとを訪れる。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年1542閏328-大舘晴光邸(万松軒)に近衛稙家細川晴元伊勢貞孝が訪れる。酒宴あり。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年154241-伊勢貞孝が幕府に出仕する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年154244-豊後衆が伊勢貞孝のもとへ夕食に訪れる。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年154246-伊勢貞孝足利義晴の御所の堀10間の普請を白川郷、東梅津村、深草村に命じる。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年154251-伊勢貞孝が幕府に出仕する。御服を拝領する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年1542517-豊後衆の小西、田北、小田部、塩手が伊勢貞孝のもとに礼に訪れる。酒宴あり。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年1542518-武田義統伊勢貞孝のもとを訪れる。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年1542521-足利菊童丸が感神院新宮に参詣する。供は大舘晴光朽木稙綱伊勢貞孝『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年1542524-伊勢貞孝細川晴元に矢筒を贈る。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年154266-伊勢貞孝が八瀬へ川狩りに赴く。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年1542610-伊勢貞孝近衛稙家のもとに赴き、揚弓を楽しむ。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年1542612-伊勢貞孝が八瀬へ川狩りに赴く。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年1542626-細川晴元伊勢貞孝のもとを訪れ小的に興じる。湯漬け、冷麦の後、酒宴および観世能あり。晴元に腰物を贈る。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年154271-伊勢貞孝が幕府に出仕する。御服を拝領する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年154279-幕府奉公衆の知行分の安堵を細川晴元が承認したので、幕府は祝着の意を伝えるべく伊勢貞孝を晴元のもとに遣わし鷹を贈る。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年1542713-宗晴康が偏諱の礼として太刀1腰、曇金1端、毛氈1枚、虎皮1枚、鳥目3000疋を足利義晴に進上する。また、伊勢貞孝に太刀1腰、豹皮1枚、鳥目1000疋を贈る。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年1542721-足利義晴近衛稙家のもとを訪れる。供は上野、朽木稙綱伊勢貞孝『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年1542722-宗彦七(義調)が偏諱の礼として太刀1腰、曇金1端、紅綿1斤、鳥目2000疋を足利義晴に、伊勢貞孝へ太刀1腰、鞍覆、鳥目500疋が進上する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年1542729-泉涌寺が伊勢貞孝のもとへ礼に訪れる。
有馬晴純より礼として太刀、緞子1段が有馬晴直より太刀、鳥目1000疋が貞孝に贈られる。
『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年154285-伊勢貞孝細川晴元のもとを訪れる。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年154286-足利義晴が鷹狩に赴く。伊勢貞孝が北白川にて1献を受け、剣を拝領する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年1542817-坂東屋富松与一が礼として貞孝のもとを訪れる。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年1542821-伊勢貞孝細川晴元のもとを訪れる。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年154291-伊勢貞孝が幕府に出仕する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年154293-細川晴元伊勢貞孝のもとを訪れる。小的あり。その後、座敷にて酒宴あり。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年154296-細川晴元伊勢貞孝に馬を贈る。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年154299-伊勢貞孝が幕府に出仕する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年1542924-伊勢貞孝建仁寺十如院の死去につき弔いに赴く。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年1542101-伊勢貞孝が幕府に出仕する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年1542106-白河晴綱の使者として八槻別当が伊勢貞孝のもとを訪れ礼をする。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年15421025-足利義晴伊勢貞孝に鮭1尺を賜う。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年15421026-白河直広の偏諱と左京大夫任官について、細川晴元が請け負うので伊勢貞孝が直広の依頼を晴元に伝える。直広には「晴広」の名と左京大夫任官が認められる。これにつき、晴元の使者として筒井蔵人と富松与一、白河方の使者である八槻別当の派遣が決まり、白河晴綱、班目十郎、船田式部少輔、和知右馬助への蜷川親俊書状が調えられる。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年1542111-伊勢貞孝が幕府に出仕する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年15421113-足利義晴の代理として春日社に300-400名を引き連れ社参する。腹巻(紺糸)、太刀、馬を積蔵院に奉納する。新禅院の通り、転害の腹巻屋に宿泊する。『蜷川親俊日記』同年月日条、『多聞院日記』同年月15日条
天文11年15421130-伊勢貞孝が27ヶ日の参籠祈祷をした積蔵院に礼状を発給する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年1542121-細川晴元伊勢貞孝が幕府に出仕する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年15421223-足利菊童丸が参内する。供は細川右馬、ワカサノ一兎、細川晴経、上野与三郎、伊勢貞孝、緑阿、奉行衆の諏訪晴長、松田八郎左衛門尉、御走衆の飯川能登守、彦部、沼田、飯川彦九郎、宇治大路、水主。
本願寺証如より歳暮の礼として太刀が贈られる。使者は円山。
『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年15421224-和泉国の松浦氏が伊勢貞孝のもとへ礼に訪れる。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文11年15421226-栂野田中坊が恒例の巻数1朶、薪1荷を伊勢貞孝に贈る。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文15年1546110-本願寺証如足利義晴に年始の礼として音信を遣わす。あわせて清光院、三淵晴員伊勢貞孝、蜷川親俊へも音信を遣わす。『天文日記』同年月日条
天文15年1546110-足利菊童丸が参内する。大舘晴光朽木稙綱伊勢貞孝、縁阿弥、杉原七郎、石谷光政、本郷与三郎、安威藤備、沼田光兼、飯川彦九郎が供奉し、薬師寺与一、柳本又二郎が辻固めをする。『言継卿記』同年月日条
天文19年155011-細川晴元伊勢貞孝が幕府に出仕する。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文19年155015-伊勢貞孝が歯固めの儀式に参加し、御服を賜る。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文19年155017-伊勢貞孝が吉書につき幕府の使者として細川晴元のもとに赴く。『蜷川親俊日記』同年月日条
天文19年155051-足利義晴は自身の病が悪化したため、上野信孝伊勢貞孝三淵晴員飯川信堅大舘晴光摂津元造を召し、怨敵である三好長慶を退治し子・義藤を上洛させるようにと遺言を残す。『足利季世記』巻4「前将軍薨逝ノ事」
天文19年155054-辰刻(7-9時)、足利義晴が死去する。『言継卿記』同年月日条
天文20年1551130-伊勢貞孝足利義藤を連れて密かに上洛させようとしたところ上洛計画が露見する。義藤は近江国に止まるが、貞孝は上洛する。『言継卿記』同年2月1日条、『厳助往年記』同年2月条
天文20年1551224-三好長慶勢、伊勢貞孝が志賀(近江国)に攻め入る。『言継卿記』同年月日条
天文20年1551226-三好長慶勢、伊勢貞孝が志賀(近江国)に入り、同地にて山陣する。『言継卿記』同年月日条
天文20年1551227-三好長慶勢、伊勢貞孝大津(近江国)を放火する。その後、三好・伊勢勢は志賀(近江国)より京都に帰陣する。三好・伊勢勢の撤退を受け、六角義賢が追撃の軍勢を遣わす。鹿ヶ谷にて六角勢と三好長虎が戦う。六角勢が北白川(山城国)に出没し放火する。『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条
天文20年1551228-六角義賢の軍勢が東門前・鹿ヶ谷・岡崎・若王寺・粟田口・山科・日岡・四宮(山城国)を放火し、鴨川に野伏せりを掛ける。これを受け、三好長慶伊勢貞孝今村慶満を遣わすも六角勢は撤退する。『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条
天文20年155132-三好長慶が軍勢20000のをもって岩倉(山城国)の山本館を攻め、放火する。『言継卿記』同年月日条
天文20年155134-三好長慶が軍勢1000を引き連れ伊勢貞孝のもとを訪れる。『言継卿記』同年月日条
天文20年155137-伊勢貞孝が吉祥院(山城国)にいる三好長慶のもとを訪れる。長慶の居所に小童が忍び入り焼き討ちを企てるが捕える。長慶は東寺松永久秀陣所に移る。『言継卿記』同年月8日条
天文20年1551314-三好長慶伊勢貞孝邸を訪れる。貞孝邸で長慶と貞孝が将棋をさす。その後、乱舞が行われる。夕方、奉公衆・進士賢光が長慶に斬りかかり傷を負わせる。負傷した長慶は山崎(山城国)に移る。
宇津(丹波国)より香西元成・柳本・宇津・三好政勝の軍勢が京都に入り伊勢貞孝邸を焼き討ちする。同軍勢は西賀茂・正伝寺(山城国)に陣取る。
『言継卿記』同年月14・15日条
天文21年1552128-足利義藤が比叡辻の宝泉寺より、未下刻(14:00頃)、入洛する。伊勢貞孝被官の蜷川弥三郎・堤三郎兵衛を先頭に三宝院、奉公衆、同朋衆、大舘晴光上野信孝、大舘晴忠、朽木稙綱、細川中務大輔、伊勢貞孝、縁阿弥、高倉永家、慶寿院(義輝正室)、遊佐勘解由左衛門、近衛稙家、大覚寺義俊が付き従う。細川聡明丸も上洛する。
義藤、聡明丸の上洛につき、三好長慶が麾下の国衆を辻固めに動員し、三好長逸松永久秀を遣わして逢坂にて出迎える。
六角義賢の軍勢に守られた聡明丸が、戌刻(19-21時)に東寺に到着する。三好千熊丸が聡明丸を出迎える。
細川晴元足利義藤の帰洛に随行せず若狭に向かうため堅田から葛川に向かったとされる。
『言継卿記』同年月日条、『足利季世記』巻5「公方三好和談之事」
天文21年1552327-伊勢貞孝が自邸にて真如堂勧進のため観世大夫による猿楽を催す。『言継卿記』同年月日条
永禄1年155867-三好長慶坂本(近江国)より京都をうかがう足利義輝に備えるため、三好長逸池田長正伊丹親興松永久秀松永法雲軒率いる15000の兵を河原に出撃させる。
足利義輝細川晴元が軍勢15000をもって如意嶽に攻め入り矢合わせをする。勝軍地蔵城(山城国)に布陣していた三好長慶勢の伊勢貞孝寺町通昭・松山重治・岩成友通の2000余りの兵は、城を放火し、東寺・吉祥寺・報恩寺四条道場・等持寺・唱門土村あたりまで撤退する。三好勢の撤退により、義輝は勝軍山城に入城する。
『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条
永禄4年1561421-伊勢貞孝伊達晴宗飛鳥井雅春の陸奥下向を伝え、対面し懇意にするよう依頼する。(永禄4年)4月21日付伊勢貞孝書状(『伊達家文書』1-226号)
永禄5年1562825-伊勢貞孝・貞良父子、奉公衆、牢人衆が北山杉坂口(山城国)より京都に入る。『永禄以来年代記』(『続群書類従』第29輯下)
永禄5年1562828-伊勢貞孝が室町まで乱入する。『永禄以来年代記』(『続群書類従』第29輯下)
永禄5年1562829-伊勢貞孝が室町まで乱入する。『永禄以来年代記』(『続群書類従』第29輯下)
永禄5年1562911-北山(山城国)にて伊勢貞孝松永久秀が戦い、貞孝が戦死する。伊勢方は本郷判官、有馬源二郎、結城将監等が戦死する。『永禄以来年代記』(『続群書類従』第29輯下)
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