人 物 史

伊東義祐 いとう よしすけ
生 没 年永正9年(1512)-天正13年(1585)8/5
出 身-幼 名虎熊丸
別 称六郎、祐清、六郎五郎
法 名可水、照眼
戒 名-
伊東尹祐福永祐炳の娘
兄 弟 姉 妹女(福永源兵衛の妻)、伊東祐充、伊東義祐、玉蓮(島津忠治の妻)、伊東祐吉
配 偶 者荒武氏の娘、籾木氏の娘、河崎祐長の娘、東(福永源兵衛の娘)、福園(川崎良長の娘)
高城(肝付良兼の妻、杉田宗盛の妻)、麻生(北原兼守の妻、馬関田右衛門佐の妻)、伊東歓虎丸、伊東義益、町上(伊東祐青の妻)、娘(伊東祐信の妻)、照覚院、伊東祐兵
官 位修理大夫、大膳大夫
役 職室町幕府 相伴衆
城 郭佐土原城(日向国)
参 考 文 献伊東義祐に関する参考文献
関 連 デ ー タ伊東義祐の関連文化財
伊東義祐 年表
永正9年 1512年 -月-日 1歳
伊東義祐が生まれる。
出典:-

大永1年 1521年 8月23日 10歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
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享禄1年 1528年 8月20日 17歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
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天文1年 1532年 7月29日 21歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
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天文6年 1537年 8月23日 26歳
伊東義祐が将軍 足利義晴の偏諱を望んでいることを細川晴元が披露し許可を得たことを晴元が義祐に伝える。詳しくは三好政長が添状にて伝える。
出典:(天文6年)8月23日付細川晴元書状(「伊東家古文状」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-108号)

天文7年 1538年 4月29日 27歳
伊東義祐が偏諱の礼として足利義晴に30000疋(300貫)、伊勢貞孝に5000疋(50貫)を進上する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

弘治1年 1555年 10月23日 44歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
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弘治4年 1558年 2月28日 47歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
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永禄2年 1559年 1月15日 48歳
子・祐兵が日向国都於郡城にて生まれる。
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永禄3年 1560年 6月2日 49歳
足利義輝島津貴久伊東義祐に紛争を停止するよう命じる。
出典:(永禄3年)6月2日付足利義輝御内書(『島津家文書』1-86号)

永禄7年 1564年 -月-日 53歳
島津義弘伊東義祐への抑えとして飯野城(日向国)に入る。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義弘」の項

元亀1年 1570年 4月23日 59歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
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元亀2年 1571年 6月23日 60歳
島津貴久が薩摩国にて死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津貴久」の項

元亀3年 1572年 5月4日 61歳
木崎原(日向国)にて伊東祐安と島津義弘が戦い、義弘が勝利する。祐安は戦死する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義弘」の項

天正1年 1573年 7月28日 62歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
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天正5年 1577年 12月11日 66歳
佐土原(日向国)にて島津義久伊東義祐が戦い、義久が勝利する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義久」の項

天正6年 1578年 11月12日 67歳
耳川にて田北鎮周、佐伯惟教、佐伯惟真、佐伯鎮忠、角隈石宗等が率いる大友勢と島津義久が戦い、義久が勝利する。大友方は鎮周、惟教、惟真、鎮忠、石宗、臼杵統景、蒲池鑑盛、蒲池統安が戦死する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第108「島津義久」の項、『豊薩軍記』巻2「高城河原合戦並大友諸将討死事」

天正13年 1585年 8月5日 74歳
伊東義祐が死去する。
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