人 物 史

足利義晴 あしかが よしはる
生 没 年永正8年(1511)3/5-天文19年(1550)5/4
出 身近江国幼 名亀王丸
別 称-
法 名-
戒 名万松院曄山道照
足利義澄、足利義稙[養父]-
兄 弟 姉 妹足利義晴足利義維
配 偶 者慶寿院(近衛尚通の娘)、大舘尚氏の娘
足利義輝足利義昭、周暠、女(武田義統の妻)、女(三好義継の妻)、女(烏丸光宣の妻)、宝鏡院理源
官 位左馬頭、参議、左近衛権中将、右近衛大将、権大納言、左大臣
役 職室町幕府 征夷大将軍
城 郭中尾城(山城国)
参 考 文 献足利義晴に関する参考文献
関 連 デ ー タ足利義晴の関連文化財
足利義晴 年表
永正8年 1511年 3月5日 1歳
足利義晴が近江国九里にて生まれる。
出典:『足利家官位記』、『足利季世記』巻2「義晴御誕生之事」

永正10年 1513年 2月14日 3歳
足利義晴足利義尹が和睦する。この和睦につき、義晴が太刀(真久)、馬を義尹に進上する。
出典:『伊勢貞助記』同年月日条

永正17年 1520年 12月26日 10歳
足利義晴・赤松義村が置塩(播磨国)を脱し明石(播磨国)の榛谷に移る。
出典:『赤松記』同年条

永正18年 1521年 3月7日 11歳
夜、足利義稙が京都を密かに抜け出し、南荘に赴く。
出典:『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」

永正18年 1521年 3月10日 11歳
夜、足利義稙淡路国に入る。
出典:『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」

永正18年 1521年 6月-日 11歳
足利亀王丸が上洛するため、播磨国を立つ。
出典:『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」

永正18年 1521年 7月6日 11歳
申刻(15-17時)、足利亀王丸が播磨国より上洛する。桂(山城国)にて細川高国伊勢貞忠が義晴を迎える。義晴は上京の岩栖院に入る。
出典:『北野社家日記』同年月日条、『公卿補任』大永2年、『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」

永正18年 1521年 7月10日 11歳
足利亀王丸が参内する。
出典:『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」

永正18年 1521年 7月27日 11歳
足利亀王丸が義晴と称す。
出典:『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」

大永1年 1521年 8月23日 11歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
出典:-

大永1年 1521年 11月25日 11歳
左馬頭となる。
出典:『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」

大永1年 1521年 12月24日 11歳
元服する。上京の岩栖院より三条の御所に移る。
出典:『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」

大永2年 1522年 6月28日 12歳
足利義晴が祇園会を見物するため下御所に赴く。伊勢貞孝大舘尚氏等が供をする。
出典:『祇園会御見物御成記』(『群書類従』)

大永2年 1522年 7月5日 12歳
足利義晴が二条邸を訪問する。太刀1腰(国盛)、香合1(金原)、盆1枚(堆朱)を贈る。
出典:『親孝日記』同年月日条

大永3年 1523年 4月9日 13歳
撫養(阿波国)にて足利義稙が死去する。位牌は相国寺恵林院に安置される。
出典:『陰徳太平記』巻4「将軍義植公御潜居付義晴朝臣被任征夷将軍事」、『相国考記』同年月日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)

大永3年 1523年 8月5日 13歳
未刻(13-15時)、足利義晴伊勢貞忠邸を訪れる。
出典:『伊勢守貞忠亭御成記』(『群書類従』)

大永3年 1523年 8月14日 13歳
足利義晴法住院(足利義澄)の13回忌法要を相国寺法住院にて修す。
出典:『相国考記』同年月日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)

大永6年 1526年 2月16日 16歳
足利義晴が石清水八幡宮に参詣する。細川高国が男山山上を、畠山稙長が義晴の宿院・善法寺を警固する。義晴の参詣にあたり、聖護院道増、広橋守光、烏丸光康、高倉永家、日野内光、賀茂在富、白川雅業、土御門有春、細川澄賢、畠山稙成、朽木稙綱伊勢貞孝、伊勢備中守、結城左近将監、飯川能登守、蜷川式部少輔、能勢弥太郎、西郡四郎、上野民部大輔、小林五郎、三上大蔵、松田丹後守が供奉する。
出典:『陰徳太平記』巻6「石清水八幡宮造営付義晴将軍御社参之事」

大永7年 1527年 1月27日 17歳
夜、丹波より柳本賢治が上洛するとの噂が京都で飛び交い、細川道永が賢治に応戦するべく西岡(山城国)に軍勢を遣わす。
出典:『言継卿記』同年月28日条

大永7年 1527年 2月3日 17歳
柳本賢治が西岡野田城(山城国)を落とし、西岡10ヶ所および西院(山城国)を焼く。細川道永は北野経王堂、北野社松梅院に布陣する。夜、高国は愛宕山に篝火を焚く。
出典:『言継卿記』同年月日条

大永7年 1527年 2月12日 17歳
足利義晴柳本賢治討伐のため水干、立烏帽子のいで立ちで出陣する。御供衆として大舘、細川昌勝、伊勢貞忠が随従する。義晴は本圀寺に陣取る。細川道永、武田元光も出陣する。高国は軍勢10000を率い、桂川に布陣。桂川にて賢治と戦う。
出典:『北野社家日記』同年月日条、『厳助往年記』同年月日条

大永7年 1527年 2月13日 17歳
千咒寺の合戦で足利義晴細川道永・武田元光と柳本賢治、三好勝長、三好政長が戦い、賢治が勝利する。義晴方は多くの戦死者を出し、日野内光が戦死する。
出典:『北野社家日記』同年月日条、『陰徳太平記』巻6「城州桂川合戦之事」

大永7年 1527年 2月14日 17歳
足利義晴細川道永・武田元光が坂本(近江国)に退く。
出典:『北野社家日記』同年月日条

大永7年 1527年 2月16日 17歳
柳本賢治が上洛する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

大永7年 1527年 3月22日 17歳
足利義維細川晴元が阿波国よりに入る。
出典:『細川両家記』同年月日条、『陰徳太平記』巻6「城州川勝寺村合戦ノ事」

大永7年 1527年 10月13日 17歳
足利義晴細川道永が軍勢20000-30000を率い坂本(近江国)より上洛し、義晴は若王子に、高国は神護寺に陣所を置く。またその加勢として、六角定頼率いる軍勢20000(30000とも)が東福寺に、朝倉教景率いる軍勢6000(10000とも)が下京四条に布陣する。
出典:『言継卿記』同年月日条、『厳助大僧正記』同年月日条

大永7年 1527年 10月25日 17歳
足利義晴東寺法輪院に、細川道永が吉祥寺(山城国)に陣替えする。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

大永7年 1527年 10月28日 17歳
三好元長伊丹城(摂津国)攻めを止め、細川道永を討つべく京に向かう。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻6「城州川勝寺村合戦ノ事」

大永7年 1527年 10月29日 17歳
川勝寺にて畠山義堯・遊佐河内守と朝倉宗滴が戦う。
出典:『陰徳太平記』巻6「城州川勝寺村合戦ノ事」

大永7年 1527年 11月17日 17歳
三好元長、波多野稙通、赤井、柳本賢治が長坂口より足利義晴の陣所に攻め入る。元長、賢治、赤井は本圀寺に陣取り、東寺への通路を塞ぐ。稙通は本能寺に陣取る。
出典:『言継卿記』・『厳助大僧正記』同年月日条

大永7年 1527年 11月18日 17歳
三好元長が西院(山城国)に陣取る。(『細』)
三好元長勢と朝倉家の印牧氏と戦い、三好勢が50人ばかりを討たれる。(『言』)
出典:『言継卿記』同年月日条、『細川両家記』

大永8年 1528年 1月21日 18歳
六角定頼三好元長細川晴元細川道永の和睦を取りまとめる。
出典:『細川両家記』

大永8年 1528年 4月21日 18歳
足利義晴相国寺万松軒に陣所を置く。
出典:『言継卿記』同年月日条

大永8年 1528年 5月14日 18歳
細川道永が京都から逃れ山上(山城国)に逃れる。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

大永8年 1528年 5月28日 18歳
足利義晴六角定頼坂本(近江国)に撤退し、石山寺に陣取る。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条

享禄1年 1528年 8月20日 18歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

享禄1年 1528年 9月8日 18歳
足利義晴が朽木(近江国)に逃れる。
出典:『享禄以来年代記』同年月日条(『続群書類従』第29輯下)

享禄4年 1531年 6月4日 21歳
細川道永勢が布陣する天王寺、今宮、木津に三好元長が攻めかかり、道永方の伊丹国扶、瓦日向守、薬師寺国盛、波々伯部兵庫介が戦死する。道永は尼崎(摂津国)に逃亡する。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻7「天王寺合戦付細川常桓自害ノ事」

享禄4年 1531年 6月6日 21歳
細川道永が大物(摂津国)の広徳寺にて切腹する。
出典:『細川両家記』

享禄5年 1532年 3月5日 22歳
細川晴元三好元長を成敗するため軍勢催促状を発給する。
出典:(享禄5年)3月5日付細川晴元書状(「末吉文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-参考13号)

享禄5年 1532年 6月20日 22歳
細川晴元本願寺証如に要請して馳せ集まった摂津・河内・和泉の一向一揆100000に、三好元長の居所であるの顕本寺が攻められる。追い詰められた元長は、三好一秀、塩田若狭守、加地丹波守等とともに自害する。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条、『言継卿記』同年月22日条

天文1年 1532年 7月29日 22歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文1年 1532年 8月2日 22歳
にいた細川晴元が一向一揆勢に包囲されるが、合戦にて勝利する。
出典:『二水記』同年月3日条

天文1年 1532年 8月23日 22歳
法華衆および六角定頼の軍勢30000-40000が山科本願寺を包囲する。定頼は同寺の東に陣取る。矢合わせが行われる。
出典:『二水記』同年月日条、『経厚法印日記』同年月日条

天文1年 1532年 8月24日 22歳
早朝より山科本願寺が法華衆や六角定頼勢の攻撃を四方から受ける。野村郷(山城国)からの焼き討ちにより寺内に入り込まれ、また下間兵庫助が定頼に内応したこともあって、未刻(13-15時)に諸勢が寺内に乱入し、同寺が陥落する。寺内は一軒も残らず焼き討ちされる。
定頼は夜に帰陣する。
出典:『私心記』同年月日条、『経厚法印日記』同年月日条、『二水記』同年月日条、『細川両家記』

天文3年 1534年 1月28日 24歳
吉田兼右が桑実寺(近江国)にいる足利義晴のもとに礼に赴く。
出典:『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』153号)

天文3年 1534年 6月29日 24歳
足利義晴坂本(近江国)に移る。
出典:『北野社家日記』同年月日条、『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』153号)

天文3年 1534年 7月5日 24歳
足利義晴坂本(近江国)にて、北野社松梅院禅光、御霊社別当、本能寺と対面する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天文3年 1534年 8月28日 24歳
足利義晴の命により、芥川山城(摂津国)にいた細川晴元が、軍勢3000を率い、亥刻(21-23時)、上洛する。晴元に内藤、香西元成が随従する。晴元は四条橋を通り建仁寺(山城国)に寄宿する。
出典:『北野社家日記』同年月日条

天文3年 1534年 9月3日 24歳
足利義晴が軍勢2000を率い坂本(近江国)より上洛する。南禅寺に入る。先駆けは蜷川、大舘晴光・上野与三郎・佐々木治部少輔・一色式部少輔・力阿弥、伊勢貞孝六角義賢が随従する。義賢は若王子に寄宿する。
出典:『北野社家日記』同年月日条、『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』154号)

天文3年 1534年 10月4日 24歳
足利義晴南禅寺山上に築城するにあたって、開闔松田盛秀が東山十ヶ郷・五十余郷に1郷につき人夫30人を供出するよう各領主に伝える。
出典:『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』154号)

天文3年 1534年 -月-日 24歳
足利義維が志筑(淡路国)に下向し、当地に居す。
出典:『阿州将裔記』「足利義冬より之系図」

天文3年 1534年 -月-日 24歳
足利義維が平島荘(阿波国)に下向し、当地に居す。
出典:『阿州将裔記』「足利義冬より之系図」

天文5年 1536年 3月10日 26歳
子・菊童丸が生まれる。南禅寺門前に産所を仮建てする。
出典:『巌助往年記』同年月条

天文5年 1536年 4月-日 26歳
足利義晴が御殿を南禅寺門前に新造する。
出典:『巌助往年記』同年月条

天文5年 1536年 7月27日 26歳
延暦寺衆徒、六角定頼が京都の法華宗寺院を攻撃する。これにより、上京の一条・小川あたりが焼け、誓願寺講堂が焼失する。下京も放火される。
出典:『巌助往年記』同年月日条

天文5年 1536年 8月19日 26歳
足利義晴が五山に命じた水陸会が清水寺にて修される。
出典:『相国考記』同年月日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)

天文5年 1536年 9月2日 26歳
足利義晴が隠居を表明し、子・菊童丸に家督を譲る。政務について、奉行衆として大舘常興大舘晴光摂津元造細川高久海老名高助本郷光泰荒川氏隆朽木稙綱を指名する。
出典:『巌助往年記』同年月日条

天文6年 1537年 1月1日 27歳
細川晴元、外様衆の細川元常、細川陸奥守、細川二郎四郎、摂津元造、二階堂左衛門尉、御供衆の大舘常興大舘晴光、大舘兵庫頭、畠山民部大輔、上野与三郎、大舘治部大輔、朽木稙綱、伊勢兵庫助が出仕する。足利義晴足利菊童丸への取次は荒川氏隆
出典:『言継卿記』同年月日条

天文6年 1537年 8月23日 27歳
伊東義祐が将軍 足利義晴の偏諱を望んでいることを細川晴元が披露し許可を得たことを晴元が義祐に伝える。詳しくは三好政長が添状にて伝える。
出典:(天文6年)8月23日付細川晴元書状(「伊東家古文状」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-108号)

天文6年 1537年 11月13日 27歳
子・義昭が生まれる。千歳丸と命名する。
出典:-

天文7年 1538年 1月10日 28歳
巳刻(9-11時)、足利義晴が参内する。大舘晴光細川晴経、歳阿を初めて供に加える。申刻(15-17時)、戻る。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 1月12日 28歳
足利義晴のもとに近衛稙家青蓮院尊鎮が訪れる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 3月25日 28歳
足利義晴が観世大夫の能を催す。細川晴元が参会する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 4月29日 28歳
伊東義祐が偏諱の礼として足利義晴に30000疋(300貫)、伊勢貞孝に5000疋(50貫)を進上する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 6月7日 28歳
足利義晴が御殿の葺替えにつき10000疋(100貫)を支出する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 6月-日 28歳
三淵万吉足利義晴に謁し、細川元常の養子になるよう命じられる。
出典:『綿考輯録』第1巻

天文7年 1538年 10月19日 28歳
足利義晴細川晴元が八木城(丹波国)を攻め、負傷者を出す。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 11月3日 28歳
足利義晴細川晴元が八木城(丹波国)を攻め、負傷者を出す。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 11月10日 28歳
足利義晴細川晴元が八木城(丹波国)を攻め落とす。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 1月14日 29歳
三好長慶が軍勢2500を引き連れ上洛する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 1月18日 29歳
足利義晴のもとに本願寺証如より10合10荷が進上される。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 2月28日 29歳
足利義晴熊谷信直に礼として太刀1腰(行平)・青銅1000疋を贈ってもらったことへの礼状を発給する。
出典:(天文8年)2月28日付足利義晴御内書(『大日本古文書』家わけ14「熊谷家文書」123号)

天文8年 1539年 4月25日 29歳
足利義晴が庭田邸を訪問する。供は大舘晴光、上野与三郎、伊勢貞孝
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 4月26日 29歳
足利義晴の御殿の棟上がなる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 5月17日 29歳
三好政長の被官・唐木崎開康が買得した大徳寺領正親町万里小路4丁町内の地について足利義晴より大徳寺に返付するようにとの命が下ったことを受け、大徳寺に返付する旨を伝える書状を発給する。
出典:(天文8年)5月17日付三好政長書状案(『戦国遺文』三好氏編第1巻-114号「大徳寺文書」)

天文8年 1539年 6月10日 29歳
足利義晴が細川典厩に先例があるとして築地の修復を命じるも、典厩は先例はなく、また手元如意につき拒否をする。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 6月28日 29歳
子・千歳丸興福寺一乗院に入ることが決まる。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文8年 1539年 閏6月3日 29歳
大村純前が足利義晴に太刀1腰(国宗)、馬代10000疋(100貫)を進上する。義晴は座敷にて純前に対面する。純前に剣を下賜したところ、さらに太刀1腰(菊一文字)、馬の進上を受ける。また、純前は足利菊童丸に馬・太刀を進上する。菊童丸にも対面する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 閏6月13日 29歳
三好長慶三好政長が決裂する。これにつき、長慶に足利義晴より六角定頼から細川晴元に交渉をするので出陣を延期するようにと伝える御内書が発給される。また、長慶に与同する伊丹次郎、池田筑後守、柳本孫七郎、三宅国村、芥川豊後守、木沢長政へも御内書が発給される。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 7月23日 29歳
細川晴元茨木長隆伊勢貞孝のもとに遣わし、洛中洛外を除く西国に徳政令の発布を提案する。貞孝より足利義晴にその旨の披露があり、義晴は六角定頼に相談せよと返答する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 7月25日 29歳
足利義晴上京下京での徳政を停止する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 8月1日 29歳
足利義晴が後奈良天皇に太刀1腰、馬1疋を、足利菊童丸太刀1腰、馬1疋を進上する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 8月13日 29歳
三好利長(長慶)三好政長の対立のことにつき、六角定頼坂本(近江国)に赴く。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 9月13日 29歳
三好利長(長慶)三好政長の対立の仲裁に乗り出した六角定頼進藤貞治と永原重隆に軍勢800を付し芥川山城(摂津国)に遣わす。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 9月26日 29歳
細川晴元山崎(山城国)より上洛する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 10月3日 29歳
六角定頼が上洛する。蒲生定秀、青地、池田、下笠、上崎、三雲、本間が定頼の供をする。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 10月4日 29歳
六角定頼が幕府に出頭する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 10月18日 29歳
足利義晴六角定頼のもとを訪れる。観世能が催される。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 10月24日 29歳
足利義晴菊童丸父子が六角定頼のもとを訪れる。式三献のもてなしがある。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 10月-日 29歳
三好利長(長慶)三好政長が和睦する。
出典:『巌助往年記 上』同年月条

天文8年 1539年 11月2日 29歳
栗真観音寺より足利義晴に祈祷巻数が進上される。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 11月17日 29歳
足利義晴・慶寿院・菊童丸千歳丸近衛稙家のもとを訪れる。菊童丸の供は大舘晴光、畠山上野介、上野与三郎、細川晴経伊勢貞孝、歳阿。義晴の供は細川晴賢、佐々木民部少輔、孝阿。堤、三上、野依、河村民部、淵田、鈴木、開藤、河田弥三郎、林源二郎が随従する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 12月3日 29歳
足利義晴菊童丸父子が細川晴元のもとを訪れる。義晴の供は細川右馬頭、佐々木民部少輔、春阿。菊童丸の供は大舘晴光、上野与三郎、細川晴経、大舘晴忠、伊勢貞孝、祐阿。能が催される。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 12月4日 29歳
足利義晴菊童丸父子が細川晴元近侍のもと自邸に戻る。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文9年 1540年 5月12日 30歳
足利義晴が五山に命じた大施餓鬼会が北野経王堂にて行われる。
出典:『鹿苑日録』慶長2年9月28日条、『相国考記』同年月日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)

天文9年 1540年 6月17日 30歳
禁裏にて天下大疫御祈祷として不動小法が修される。その費用3000疋(30貫)を足利義晴が土倉に賦課する。
出典:『巌助往年記』同年月条

天文9年 1540年 6月24日 30歳
足利義晴相国寺普廣院にて普廣院(足利義教)の100回忌法要を修す。
出典:『相国考記』同年月日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)

天文10年 1541年 1月8日 31歳
足利義晴への門跡の参賀あり。巌助にのみ対面する。
出典:『巌助往年記』同年月日条

天文10年 1541年 10月29日 31歳
木沢長政細川晴元に謀叛を起こす。早朝、晴元は岩倉(山城国)の山本氏の館に赴くが、その日のうちに引き返す。足利義晴が晴元に供奉するよう命じたが、晴元は応じず。
出典:『惟房公記』同年月日条

天文10年 1541年 10月30日 31歳
足利義晴が慈照寺に移る。
出典:『惟房公記』同年月日条

天文10年 1541年 12月20日 31歳
足利義晴本願寺証如に御内書を発給し、河内国門徒が木沢長政に加勢しないように同国門徒中へ指示するよう命じる。
出典:『天文日記』同年月日条

天文10年 1541年 12月22日 31歳
本願寺証如が12月20日請け取った御内書の旨に従うことを、足利義晴に返事する。
出典:『天文日記』同年月日条

天文11年 1542年 2月1日 32歳
唐船帰国につき、進物の目録が大内義隆より伊勢貞孝のもとへ届く。貞孝より足利義晴にこの旨が報告される。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 2月12日 32歳
唐船帰国につき、足利義晴が錦1疋、羅1疋、紗1足を朝倉孝景に贈るよう命じるとともに、11日付孝景宛御内書を発給する。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 2月17日 32歳
御沙汰始。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 2月21日 32歳
足利義晴細川晴元の戦勝祈願の祈祷料を京中諸土倉に賦課する。担当は細川高久
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 2月23日 32歳
京中倉役について小物・雑色は免除することを足利義晴が命じる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 2月25日 32歳
青蓮院尊鎮足利義晴に3合3荷を贈る。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 3月9日 32歳
遊佐長教が斎藤山城守を殺害したことが幕府に伝わる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月21日条

天文11年 1542年 3月12日 32歳
足利義晴が御供衆以下諸奉公衆に50疋を配当する。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 3月12日 32歳
足利義晴の使者として大舘常興のもとを祐阿が訪れる。訪問目的は、筒井順昭より代替わりの御礼進上があったが御内書を発給するべきか否かとのこと。常興としては不要であると考えるが、六角定頼伊勢貞孝が必要と考えるならば発給してもよいと返答する。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 3月16日 32歳
万里小路惟房が坂本(近江国)に在陣中の足利義晴のもとに礼に赴くべく、京都(山城国)を出発する。
出典:『惟房公記』同年月日条

天文11年 1542年 3月17日 32歳
万里小路惟房が坂本(近江国)に在陣中の足利義晴のもとに礼に赴く。申次は朽木稙綱
出典:『惟房公記』同年月日条

天文11年 1542年 3月17日 32歳
木沢長政信貴山城(大和国)・二上・飯盛山城(河内国)の軍勢5000をもって遊佐長教が籠る高屋城(河内国)を攻める。これを受け、細川晴元三好長慶三好政長六角定頼が出陣する。太平寺の合戦で、細川・三好・遊佐・六角と長政と戦い、細川等が勝利し、長政は戦死する。
合戦後、信貴山城が焼失する。
出典:『厳助往年記』同年月日条、『天文日記』同年月日条、『蜷川親俊日記』同年月18・19日条、『惟房公記』同年月日18日条

天文11年 1542年 3月19日 32歳
細川晴元より木沢長政の首が足利義晴のもとに届く(使者は山中橘左衛門尉)。これを受け、晴元に長政と遊佐又五郎を討ち取ったことは神妙との旨を記した御内書を発給する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 3月26日 32歳
細川晴元が摂津国より上洛する。
出典:『惟房公記』同年月28日条

天文11年 1542年 3月27日 32歳
細川晴元が京都より足利義晴の居る坂本(近江国)に赴く。
出典:『惟房公記』同年月28日条

天文11年 1542年 3月28日 32歳
足利義晴菊童丸父子が坂本(近江国)より大津(近江国)を経由し上洛する。義晴の供は細川右馬頭、上野与三郎、万阿、藤中納言。菊童丸の供は大舘晴光、佐々木、小原、大舘治部大夫、佐々木民部少輔、伊勢貞孝、孝阿。義晴は相国寺法住院に入り、御殿の作事を命じる。
細川晴元は坂本(近江国)より上洛する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条、『惟房公記』同年月日条

天文11年 1542年 閏3月5日 32歳
十市遠忠足利義晴の上洛の礼として十市平七を遣わす。義晴は平七と対面する。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 閏3月8日 32歳
三宅国村が毛氈免許のことにつき礼として馬・太刀・3000疋を足利義晴に進上する。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 閏3月11日 32歳
足利義晴六角定頼坂本(近江国)滞在時の支援を謝すべく御内書を発給するにあたり、案文の作成を大舘常興に命じる。常興より案文2案が提出される。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 閏3月12日 32歳
足利義晴相国寺の各塔頭を訪れ、室町将軍歴代に焼香を捧げるとともに緞子を1段ずつ塔頭に贈る。
撰銭の事について、先例通りに執事代に命じる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 閏3月16日 32歳
足利義晴が酒宴を催す。細川晴元が参加し、晴元より鷹が進上される。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 閏3月20日 32歳
足利義晴が酒宴を催す。細川晴元が参加する。
摂津国、丹波国において不知行地がある者は名乗り出るようにと命じる。
出典:『蜷川親俊日記』『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 閏3月21日 32歳
越前国より朝倉孝景のもとに遣わしていた富森左京亮が上洛し、孝景より30000疋を足利義晴に進上するとの報告がなされる。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 閏3月23日 32歳
足利義晴細川高久を通じて堀普請を命じる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 閏3月25日 32歳
結城国縁、杉原晴盛をもって、御供衆の大舘常興、上野与三郎、大舘晴光、吉見右馬頭、大舘兵庫頭、伊勢因幡守、大舘治部大輔、細川晴経朽木稙綱に、26日の御殿普請につき侍・中間を問わず小者3名を鋤を持たせて提供するようにと足利義晴が命じる。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 閏3月26日 32歳
足利義晴が御殿の普請に取り掛かる。庭石をひき、木を植える。作事奉行は結城国縁、杉原晴盛、祐阿。この普請に大舘常興は中間の孫兵衛、又五郎、新五郎を出す。
出典:『大舘常興日記』同年月日条

天文11年 1542年 4月2日 32歳
足利義晴の御殿の堀を掘り始める。人足は五十余郷に命じる。
出典:『大舘常興日記』同年月3日条

天文11年 1542年 4月3日 32歳
御所の普請を始める。足利義晴自ら普請を見物する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 4月6日 32歳
伊勢貞孝足利義晴の御所の堀10間の普請を白川郷、東梅津村、深草村に命じる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 4月13日 32歳
足利義晴が方違えとして相国寺に赴く。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 4月14日 32歳
赤松晴政が上洛し足利義晴に礼をする。太刀、馬代を進上する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 4月19日 32歳
足利義晴が方違えとして相国寺に赴く。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 7月9日 32歳
幕府奉公衆の知行分の安堵を細川晴元が承認したので、幕府は祝着の意を伝えるべく伊勢貞孝を晴元のもとに遣わし鷹を贈る。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 7月10日 32歳
細川晴元が9日に鷹を贈ってもらったことへの礼として足利義晴のもとに赴く。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 7月13日 32歳
宗晴康が偏諱の礼として太刀1腰、曇金1端、毛氈1枚、虎皮1枚、鳥目3000疋を足利義晴に進上する。また、伊勢貞孝に太刀1腰、豹皮1枚、鳥目1000疋を贈る。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 7月21日 32歳
足利義晴近衛稙家のもとを訪れる。供は上野、朽木稙綱伊勢貞孝
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 7月21日 32歳
足利義晴相国寺慶雲院にて慶雲院(足利義勝)の100回忌法要を修す。
出典:『相国考記』同年月日条(相国寺史料編纂委員会編『相国寺史料』第1巻、思文閣出版、1984年)

天文11年 1542年 7月22日 32歳
宗彦七(義調)が偏諱の礼として太刀1腰、曇金1端、紅綿1斤、鳥目2000疋を足利義晴に、伊勢貞孝へ太刀1腰、鞍覆、鳥目500疋が進上する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 7月29日 32歳
有馬晴純が礼として太刀(国久)、馬、曇金1端、唐錦1端(紋唐草)、緞子3段、毛氈5枚を、有馬晴直が太刀、馬、黄金30両を足利義晴に進上する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 8月6日 32歳
足利義晴が鷹狩に赴く。伊勢貞孝が北白川にて1献を受け、剣を拝領する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 8月12日 32歳
足利義晴が鷹狩に赴く。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 8月27日 32歳
御殿普請につき足利義晴相国寺より石を引く。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 8月28日 32歳
足利義晴が御殿普請につき庭石を引く。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 8月29日 32歳
有馬晴純の使僧が礼として足利義晴に引合、緞子を進上する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 9月4日 32歳
淵田新介を有馬晴純のもとへ遣わす。有馬からの礼の返事と、偏諱を与えるため。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 10月25日 32歳
足利義晴伊勢貞孝に鮭1尺を賜う。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 11月11日 32歳
修理替物の費用について播磨・備前・美作の3ヶ国の国役によって賄うよう足利義晴赤松晴政に命じる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文11年 1542年 11月13日 32歳
足利義晴の代理として春日社に300-400名を引き連れ社参する。腹巻(紺糸)、太刀、馬を積蔵院に奉納する。新禅院の通り、転害の腹巻屋に宿泊する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条、『多聞院日記』同年月15日条

天文11年 1542年 11月20日 32歳
子・千歳丸興福寺一乗院に入室する。供は朽木稙綱
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文12年 1543年 9月19日 33歳
足利義晴が御台料所芝山について、超勝寺が違乱をしているので、本願寺証如に違乱停止を命じるように依頼する。使者は杉原晴盛。晴盛は三献のもてなしを受ける。
出典:『天文日記』同年月日条

天文12年 1543年 10月30日 33歳
足利義晴より命じられた禁裏御修理料(加賀国分)100貫文を本願寺証如が義晴に納める。また、三淵の家造作を室町殿が命じたので、その協力金として10貫を三淵晴員に送る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文12年 1543年 11月14日 33歳
本願寺証如のもとに土岐頼芸・鷲巣・斎藤より音信あり。使者は大桑与五郎。美濃国の門徒の年貢未納につき成敗を加えるので、さしあたり美濃門徒に土岐家へ年貢を納入するよう証如より命じて欲しいと依頼がある。
足利義晴より10月30日に納入した禁裏御修理料(加賀国分)100貫文の請取状が到来する。
出典:『天文日記』同年月日条

天文13年 1544年 7月9日 34歳
大洪水により京中の人馬が流出する。
出典:『厳助往年記』同年月日条

天文15年 1546年 1月10日 36歳
本願寺証如足利義晴に年始の礼として音信を遣わす。あわせて清光院、三淵晴員伊勢貞孝、蜷川親俊へも音信を遣わす。
出典:『天文日記』同年月日条

天文15年 1546年 7月27日 36歳
子・菊童丸が爵を受け義藤と名乗る。
出典:『厳助往年記』同年月日条

天文15年 1546年 11月-日 36歳
足利義晴が東山・北白川(山城国)の山上に築城を始める。また同城に備蓄する兵糧米として山科七郷の年貢1/3を借り受ける。
出典:『厳助往年記』同年月日条

天文15年 1546年 12月18日 36歳
足利義藤坂本(近江国)の樹下成保邸での元服につき、加冠役の六角定頼より迎えの軍勢が義藤のいる東山慈照寺にやってくる。義藤は巳刻(9-11時)に慈照寺を出発し、浄土寺、若王子、南禅寺、粟田口、日岡、花山、小山、大津を経由し坂本(近江国)に入る。坂本にて定頼・義賢父子が門外にて迎える。
出典:『厳助往年記』同年月日条

天文15年 1546年 12月19日 36歳
足利義藤坂本(近江国)の樹下成保邸にて元服する。加冠は六角定頼、理髪は細川晴経、惣奉行は摂津元造、元服奉行は松田晴秀飯尾堯連、打乱は朽木稙綱、泔坏は大原高保、御祝調進は大隅秀宗・大草公広、御手長は伊勢盛正、御物奉行は蜷川親俊・三上秀長が勤める。定頼は義藤に馬・弓・征矢・鎧・砂金を進上する。
足利義藤の御乗馬初め儀を執行する。
義藤が従四位下・左馬頭に叙位・任官する。征夷大将軍就任の宣旨が下され、勅使・高辻大納言が義藤のいる坂本(近江国)に遣わされる。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条、『光源院殿御元服記』(『群書類従』)

天文15年 1546年 12月20日 36歳
右近衛大将に任官される。
出典:『厳助往年記』同年月日条

天文15年 1546年 12月21日 36歳
本願寺証如が、足利義藤の元服につき、足利義晴と義輝へ披露状をもって御礼を申し入れる。使者は円山隠岐。
出典:『天文日記』同年月日条

天文16年 1547年 1月16日 37歳
足利義晴が慈照寺にて諸家の礼を受ける。
出典:『厳助往年記』同年月日条

天文16年 1547年 3月晦日 37歳
足利義晴義藤父子が北白川城(山城国)に900余騎にて籠城する。随従者は近衛稙家聖護院道増、大覚寺義尭、烏丸光康日野晴光、高倉永家、日野資将、賀茂在留、大舘晴光、細川輝経、大舘晴忠、細川隆是、伊勢貞教、摂津元造、摂津晴門、三淵晴員、小笠原備前守、武田信実和田惟政
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」

天文16年 1547年 4月1日 37歳
細川晴元三好長慶ら淡路・四国衆30000をもって足利義晴義藤父子が籠城する北白川城(山城国)を攻める。
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」

天文16年 1547年 4月10日 37歳
足利義晴義藤父子が籠城する北白川城(山城国)を攻めていた三好長慶ら淡路・四国衆30000が摂津国国衆の制圧を優先した細川晴元の命により摂津国に引き上げる。
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」

天文16年 1547年 5月5日 37歳
細川晴元芥川山城(摂津国)に籠城する薬師寺与一を攻撃する。攻め衆は三好長慶ほか。
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」

天文16年 1547年 6月25日 37歳
三好長慶の攻撃を受けていた芥川山城(摂津国)に籠る薬師寺与一が長慶に降伏する。
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」

天文16年 1547年 7月12日 37歳
細川晴元の要請を受けた六角定頼義賢が、足利義晴義藤が籠城する北白川城(山城国)を包囲する。
出典:『足利季世記』巻4「公方東坂本御出奔ノ事」

天文16年 1547年 7月19日 37歳
細川晴元六角定頼の包囲を受け耐えられず足利義晴義藤父子が籠城していた北白川城(山城国)を自焼し東坂本(近江国)に逃れる。
出典:『足利季世記』巻4「公方東坂本御出奔ノ事」、『陰徳太平記』巻15「将軍北白川御籠城之事」

天文16年 1547年 7月29日 37歳
足利義藤細川晴元六角定頼義賢父子を赦免する。両人が義晴のいる坂本(近江国)に出仕する。ただし、晴元は義晴とは対面できず。
晴元・定頼間で諸事協議がなされる。
出典:『足利季世記』巻4「舎利寺合戦ノ事附晴元定頼免許ノ事」、『厳助往年記 上』同年月日条

天文16年 1547年 閏7月3日 37歳
細川晴元が細川国慶の籠る高雄城(山城国)を攻撃するため20000の軍勢を率い出陣する。晴元は龍安寺を陣所とする。晴元の出陣につき、六角定頼進藤貞治・永原・三雲・蒲生定秀・青地ら軍勢500を援軍として送る。
出典:『厳助往年記』同年同月条

天文16年 1547年 閏7月5日 37歳
細川晴元が細川国慶の籠る高雄城(山城国)を攻め落とす。この戦いで神護寺の堂舎全てが放火される。
出典:『厳助往年記』同年同月条

天文17年 1548年 6月7日 38歳
足利義晴義藤父子が坂本(近江国)より上洛する。
出典:『足利季世記』巻4「細川玄蕃頭討死ノ事」

天文17年 1548年 7月-日 38歳
足利義晴が山科七郷(山城国)を御料所とする。
出典:『厳助往年記』同年月日条

天文18年 1549年 6月27日 39歳
24日の江口の合戦で三好長慶に敗れた細川晴元が、足利義晴義藤と合流し、近衛晴嗣聖護院道増、大覚寺義俊、三宝院義尭、久我晴通とともに京都を脱し慈照寺に逗留する。晴元は東山葛岡に陣取る。
義晴、義藤、晴元、六角義賢が長慶への対応を協議する。
出典:『足利季世記』巻4「大樹ト晴元御没落ノ事」

天文18年 1549年 6月28日 39歳
足利義晴義藤父子、細川晴元東坂本(近江国)の常在寺に移る。
出典:『足利季世記』巻4「大樹ト晴元御没落ノ事」

天文18年 1549年 10月26日 39歳
足利義晴が中尾城(山城国)の普請を始める。(『足利季世記』巻4「伊丹大和守心替ノ事」では28日)
出典:『萬松院殿穴太記』

天文18年 1549年 12月4日 39歳
足利義晴が鷹狩をする。
出典:『足利季世記』巻4「伊丹大和守心替ノ事」

天文18年 1549年 12月5日 39歳
足利義晴が鷹狩をする。やや体調を崩す。
出典:『足利季世記』巻4「伊丹大和守心替ノ事」

天文19年 1550年 1月15日 40歳
足利義晴が病を患う。義晴は病の身ながら四過時分、山科言継と高倉父子と対面する。
出典:『言継卿記』同年月3日条

天文19年 1550年 2月15日 40歳
慈照寺の山上に足利義晴が城の普請を始める。
出典:『厳助往年記』同年月日条

天文19年 1550年 2月16日 40歳
足利義晴が勝軍地蔵城(山城国)の普請を始める。中尾城の普請を再開する。
出典:『足利季世記』巻4「伊丹大和守心替ノ事」、『萬松院殿穴太記』

天文19年 1550年 3月27日 40歳
足利義晴は東山御城に移る予定であったが、細川晴元が同意せず、移動は取り止めとなる。
出典:『厳助往年記』同年月日条

天文19年 1550年 4月4日 40歳
足利義晴が北白川(山城国)に城を築く。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 5月1日 40歳
足利義晴は自身の病が悪化したため、上野信孝伊勢貞孝三淵晴員飯川信堅大舘晴光摂津元造を召し、怨敵である三好長慶を退治し子・義藤を上洛させるようにと遺言を残す。
出典:『足利季世記』巻4「前将軍薨逝ノ事」

天文19年 1550年 5月2日 40歳
穴太(近江国)にて足利義晴の死去が噂される。
出典:『言継卿記』同年月3日条

天文19年 1550年 5月3日 40歳
土佐光茂足利義晴の御影を描く。
出典:足利義晴像(京都市立芸術大学芸術資料館所蔵)

天文19年 1550年 5月4日 40歳
辰刻(7-9時)、足利義晴が死去する。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 5月7日 
申刻(15-17時)、足利義晴に左大臣従一位が追贈される。院号は萬松院と噂される。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文19年 1550年 5月19日 
相国寺鹿苑院にて足利義晴の諷経の弔いが執行される。
出典:『足利季世記』巻4「前将軍薨逝ノ事」

天文19年 1550年 5月21日 
慈照寺にて萬松院(足利義晴)の葬儀が執り行われる。
出典:『言継卿記』同年月日条

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