人 物 史

三好政長 みよし まさなが
生 没 年永正5年(1508)-天文18年(1549)6/24
出 身-幼 名-
別 称神五郎、甚五郎、善長
法 名半隠軒、宗三
戒 名-
三好勝時-
兄 弟 姉 妹-
配 偶 者-
三好宗渭、三好為三
官 位越後守
役 職-
城 郭-
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ史料にみえる三好政長の呼称
三好政長の関連文化財
三好政長 年表
永正5年 1508年 -月-日 1歳
三好政長が生まれる。
出典:-

大永1年 1521年 8月23日 14歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
出典:-

大永6年 1526年 12月13日 19歳
細川晴元勢の先陣として、細川典厩、細川和泉守、三好勝時、三好勝長、三好政長に着岸する。
出典:『陰徳太平記』巻6「城州桂川合戦之事」

大永7年 1527年 2月9日 20歳
三好勝長、三好政長柳本賢治と合流するべくを発つ。
出典:『陰徳太平記』巻6「城州桂川合戦之事」

大永7年 1527年 2月11日 20歳
三好勝長、三好政長山崎(山城国)に到着し、柳本賢治と合流する。
出典:『陰徳太平記』巻6「城州桂川合戦之事」

大永7年 1527年 2月13日 20歳
千咒寺の合戦で足利義晴細川道永・武田元光と柳本賢治、三好勝長、三好政長が戦い、賢治が勝利する。義晴方は多くの戦死者を出し、日野内光が戦死する。
出典:『北野社家日記』同年月日条、『陰徳太平記』巻6「城州桂川合戦之事」

大永7年 1527年 10月28日 20歳
三好元長伊丹城(摂津国)攻めを止め、細川道永を討つべく京に向かう。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻6「城州川勝寺村合戦ノ事」

大永7年 1527年 10月29日 20歳
川勝寺にて畠山義堯・遊佐河内守と朝倉宗滴が戦う。
出典:『陰徳太平記』巻6「城州川勝寺村合戦ノ事」

大永7年 1527年 11月17日 20歳
三好元長、波多野稙通、赤井、柳本賢治が長坂口より足利義晴の陣所に攻め入る。元長、賢治、赤井は本圀寺に陣取り、東寺への通路を塞ぐ。稙通は本能寺に陣取る。
出典:『言継卿記』・『厳助大僧正記』同年月日条

大永8年 1528年 1月21日 21歳
六角定頼三好元長細川晴元細川道永の和睦を取りまとめる。
出典:『細川両家記』

享禄1年 1528年 8月20日 21歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

享禄4年 1531年 6月4日 24歳
細川道永勢が布陣する天王寺、今宮、木津に三好元長が攻めかかり、道永方の伊丹国扶、瓦日向守、薬師寺国盛、波々伯部兵庫介が戦死する。道永は尼崎(摂津国)に逃亡する。
出典:『細川両家記』、『陰徳太平記』巻7「天王寺合戦付細川常桓自害ノ事」

享禄5年 1532年 6月20日 25歳
細川晴元本願寺証如に要請して馳せ集まった摂津・河内・和泉の一向一揆100000に、三好元長の居所であるの顕本寺が攻められる。追い詰められた元長は、三好一秀、塩田若狭守、加地丹波守等とともに自害する。
出典:『厳助大僧正記』同年月日条、『言継卿記』同年月22日条

天文1年 1532年 7月29日 25歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文2年 1533年 8月20日 26歳
田中にて三好長直と三好政長、伊丹氏、池田氏が戦い、長直が勝利する。
出典:『足利季世記』巻四 三好伊賀守合戦之事

天文3年 1534年 7月20日 27歳
木沢長政三好政長が軍勢20000をもって細川晴国方の嵯峨城(西芳寺城)(山城国)を攻める。
出典:『北野社家日記』同年月日条、『兼右卿記』同年月日条(『ビブリア』154号)

天文3年 1534年 10月13日 27歳
北野社領摂津国芦屋荘領家職について、三好政長の競望を停止し当所百姓中に北野社へ年貢・諸公事物を納入するよう命じる室町幕府奉行人奉書が発給される。
出典:(天文3年)10月13日付室町幕府奉行人奉書(『戦国遺文』第1巻-参考16号『北野社家日記』)

天文5年 1536年 7月29日 29歳
木沢長政、三好長直、三好政長が中島(摂津国)に侵攻する。それにつき本願寺証如が長政に無事中島に侵入したことを祝う使者を送る(使者は藤井八郎左衛門尉)。その際、長政より本陣である天王寺より兵糧を中島に運び入れるにあたって、運搬のための船を所望され、また兵糧も少々所望される。証如は船5艘と飯を送る。この事件により大坂本願寺の備えを厚くするため、加賀四郡番衆が武具を購入したいので100貫の借用を願い出たので、証如は100貫を貸し与える。
出典:『天文日記』同年月日条、『私心記』同年月日条、『足利季世記』巻四 細川晴国最後ノ事

天文6年 1537年 8月23日 30歳
伊東義祐が将軍 足利義晴の偏諱を望んでいることを細川晴元が披露し許可を得たことを晴元が義祐に伝える。詳しくは三好政長が添状にて伝える。
出典:(天文6年)8月23日付細川晴元書状(「伊東家古文状」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-108号)

天文7年 1538年 7月3日 31歳
本願寺証如が初めて三好政長に音信を遣わす。使者は藤井八郎左衛門で絞30具と3種5荷を贈る。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 7月5日 31歳
三好政長本願寺証如の7月3日の音信の返しとして、証如に政長の与力を使者として遣わす。
出典:『天文日記』同年月日条

天文7年 1538年 10月15日 31歳
三好政長高畠長信高畠長直が杉坂に現れた敵勢と戦い勝利する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文7年 1538年 10月-日 31歳
細川晴元の命により三好政長が山城国上郡にて段銭を徴収する。
出典:『巌助往年記 上』同年月日条

天文8年 1539年 5月17日 32歳
三好政長の被官・唐木崎開康が買得した大徳寺領正親町万里小路4丁町内の地について足利義晴より大徳寺に返付するようにとの命が下ったことを受け、大徳寺に返付する旨を伝える書状を発給する。
出典:(天文8年)5月17日付三好政長書状案(『戦国遺文』三好氏編第1巻-114号「大徳寺文書」)

天文8年 1539年 6月5日 32歳
三好政長清凉寺に軍勢の乱暴・狼藉、寺内竹木の伐採、盗賊の禁止、臨時課役の賦課、喧嘩の禁止を保障する禁制を発給する。
出典:天文8年6月5日付三好宗三禁制(『戦国遺文』三好氏編第1巻-116号「清凉寺文書」)

天文8年 1539年 閏6月13日 32歳
三好長慶三好政長が決裂する。これにつき、長慶に足利義晴より六角定頼から細川晴元に交渉をするので出陣を延期するようにと伝える御内書が発給される。また、長慶に与同する伊丹次郎、池田筑後守、柳本孫七郎、三宅国村、芥川豊後守、木沢長政へも御内書が発給される。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 閏6月17日 32歳
三好利長(長慶)三好政長の確執により、細川晴元が高雄(山城国)に引き退く。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条、『巌助往年記』同年月条、『大舘常興日記』同年7月1日条

天文8年 1539年 7月14日 32歳
三好政長が高雄(山城国)より妙心寺・西京に攻め入ったのを受け、三好利長(長慶)山崎(山城国)より三好伊賀守を金乗寺に出陣させる。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 7月21日 32歳
吉祥城(山城国)を三好利長(長慶)が攻め落とす。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 7月22日 32歳
三好政長在陣につき本願寺証如が音信として3種5荷を贈る。
出典:天文8年7月22日付本願寺証如書状案(『戦国遺文』三好氏篇第1巻-124号『天文書札案』)

天文8年 1539年 8月9日 32歳
三好政長が松崎名主百姓中に松崎内にある大徳寺領田地分の年貢・諸公事物の寺納を命じる書状を発給する。
出典:天文8年8月9日付三好政長書状案(『戦国遺文』三好氏篇第1巻-125号「大徳寺文書」)

天文8年 1539年 8月13日 32歳
三好利長(長慶)三好政長の対立のことにつき、六角定頼坂本(近江国)に赴く。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 9月13日 32歳
三好利長(長慶)三好政長の対立の仲裁に乗り出した六角定頼進藤貞治と永原重隆に軍勢800を付し芥川山城(摂津国)に遣わす。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 9月26日 32歳
細川晴元山崎(山城国)より上洛する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文8年 1539年 10月3日 32歳
本願寺証如が音信として馬(河原毛)1疋を三好政長に贈る。
出典:天文8年10月3日付本願寺証如書状案(『戦国遺文』三好氏篇第1巻-129号『天文書札案』)

天文8年 1539年 10月-日 32歳
三好利長(長慶)三好政長が和睦する。
出典:『巌助往年記 上』同年月条

天文10年 1541年 8月12日 34歳
三好政長、波多野氏が多田氏を討つべく出兵する。
出典:『巌助往年記 上』同年月条

天文10年 1541年 10月18日 34歳
本願寺証如が音信として三好範長(長慶)に3種5荷、三好政長に3種3荷、加地肥前に樽代100疋、塩田左馬助に100疋を遣わす。
出典:『天文日記』同年月日条

天文10年 1541年 12月12日 34歳
細川晴元の摂津国出陣につき本願寺証如が晴元に音信として太刀1腰、5種10荷、細川藤賢に太刀1腰・3種5荷、三好長慶・波多野備前・三好政長に太刀1腰・綿10把、高畠長直に綿3把、藤賢取次の小河民部丞に太刀1腰・綿3把を送る。使者は八尾新四郎。
出典:『天文日記』同年月日条、(天文10年)12月10日付本願寺証如書状案(『戦国遺文』三好氏編第1巻-159号『天文書札案』)

天文10年 1541年 12月15日 34歳
金蓮寺から音信として銭30疋が贈られたことに対し、三好政長が礼状を発給する。
出典:(天文10年)12月15日付三好政長書状写(『戦国遺文』三好氏篇第1巻-162号「諸寺文書纂」)

天文11年 1542年 3月8日 35歳
三好政長に渡海する。
出典:(天文10年)3月10日付三好政長書状(「酒井氏書状文書」『戦国遺文』三好氏篇第1巻-165号)

天文11年 1542年 3月9日 35歳
三好政長高屋城(河内国)に向かう。
出典:(天文10年)3月10日付三好政長書状(「酒井氏書状文書」『戦国遺文』三好氏篇第1巻-165号)

天文11年 1542年 3月10日 35歳
三好政長が下河内に向かう。
出典:(天文10年)3月10日付三好政長書状(「酒井氏書状文書」『戦国遺文』三好氏篇第1巻-165号)

天文11年 1542年 3月17日 35歳
木沢長政信貴山城(大和国)・二上・飯盛山城(河内国)の軍勢5000をもって遊佐長教が籠る高屋城(河内国)を攻める。これを受け、細川晴元三好長慶三好政長六角定頼が出陣する。太平寺の合戦で、細川・三好・遊佐・六角と長政と戦い、細川等が勝利し、長政は戦死する。
合戦後、信貴山城が焼失する。
出典:『厳助往年記』同年月日条、『天文日記』同年月日条、『蜷川親俊日記』同年月18・19日条、『惟房公記』同年月日18日条

天文11年 1542年 4月20日 35歳
三好宗三波多野秀忠が宇津城(丹波国)を攻める。しかし、落とすことができず開陣する。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条

天文12年 1543年 6月4日 36歳
三好政長が病の多賀常直に養生を勧める。
出典:(天文12年)6月4日付三好宗三書状(「板原家文書」『戦国遺文』三好氏篇第1巻-170号)

天文12年 1543年 6月6日 36歳
波々伯部元継・田井長次が三好半隠軒に龍翔寺領下三栖の内、安芸宣司の下地1町余について以前は賦課されていなかった段銭や人夫について賦課されたので、賦課対象地から除くようにとの依頼がくる。
出典:(天文12年)6月6日付波々伯部元継・田井長次連署状案(「大徳寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-171号)

天文12年 1543年 6月8日 36歳
三好政長が龍翔寺に対し、下三栖内の同寺領について、諸課役の賦課はこれまでなかったが、段銭の賦課は惣並であるので賦課したが、免除地とは知らなかったので、もし賦課する者がいたならば停止することを伝える。
出典:(天文12年)6月8日付三好宗三書状案(「大徳寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-173号)

天文14年 1545年 5月24日 38歳
細川晴元が上野玄蕃頭勢を討つべく山城国南部に三好長慶三好宗三等率いる軍勢を遣わす。
出典:『厳助往年記』同年月日条

天文14年 1545年 5月25日 38歳
三好長慶三好政長が田原七郷(山城国)を放火する。
出典:『厳助往年記』同年月日条

天文14年 1545年 5月26日 38歳
三好長慶三好宗三が三室戸太法寺に留まる。石墻坊、太法寺五ヶ荘を放火した後、木幡(山城国)に移る。
出典:『厳助往年記』同年月日条

天文14年 1545年 10月4日 38歳
三好宗三の取り持ちにより北野経王堂において万部経法会を執り行う。
出典:『言継卿記』同年月日条

天文15年 1546年 9月5日 39歳
本願寺証如が中島(摂津国)に在陣中の三好長慶安宅神太郎(冬康)、十河孫六郎、三好政長に音信として3種3荷を贈る。使者は芝田宗九郎。
出典:『天文日記』同年月日条

天文15年 1546年 12月6日 39歳
本願寺証如三好長慶三好之虎三好政長、山中三郎太郎、山中橘左衛門、三木与左衛門、塩田に音信として綿を送る。使者は芝田宗九郎。
出典:『天文日記』同年月日条

天文16年 1547年 3月-日 40歳
三好政長が式阿道場西興寺に三好勢による乱妨狼藉、竹木伐採、陣取り、矢銭・兵糧米の賦課を停止する禁制を発給する。
出典:天文16年3月日付三好宗三禁制(「尊経閣文庫所蔵武家手鑑」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-189号)

天文16年 1547年 4月19日 40歳
三宅城(摂津国)攻略につき音信として巻数・香水代100疋を贈ってくれた法隆寺に三好政長が返礼の書状を送る。
出典:天文16年4月19日付三好宗三書状(「法隆寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-192号)

天文16年 1547年 7月6日 40歳
八幡宮に社領返付の旨を三好政長高畠長直が伝える。
出典:(天文16年)7月6日付三好宗三・高畠長直連署状(「桂文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-196号)

天文16年 1547年 7月12日 40歳
細川晴元の要請を受けた六角定頼義賢が、足利義晴義藤が籠城する北白川城(山城国)を包囲する。
三好長慶三好政長が軍勢30000をもって河内十七箇所に陣取る。
出典:『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」、『陰徳太平記』巻15「将軍北白川御籠城之事」

天文16年 1547年 7月26日 40歳
三好長慶三好政長が河内十七箇所から住吉・遠里・小野・深ノ口に陣替えする。
出典:『足利季世記』巻4「舎利寺合戦ノ事附晴元定頼免許ノ事」

天文16年 1547年 閏7月11日 40歳
天王寺の東にて三好政長と畠山勢が戦う。三好政長勢は、侍311人、他800人程を討ち取る。ただし、政長方も侍37人、雑兵75人が討死し、とりわけ篠原盛家、安宅佐渡守、藤田山城が戦死。彼らの死を惜しむ。
出典:(天文16年)閏7月14日付三好宗三書状(「波多野家文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-198号)

天文16年 1547年 閏7月14日 40歳
7月11日、波多野与兵衛尉が上野玄蕃、内藤彦五郎、宇津元朝、野々口牛助を破ったことについて、三好政長がその勝利を祝う。
出典:(天文16年)閏7月14日付三好宗三書状(「波多野家文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-198号)

天文16年 1547年 10月6日 40歳
細川国慶が畠山政国に加勢すべく内野西ノ京(山城国)に300余人を率い現れる。
国慶に応戦するため六角定頼は多賀豊高に軍勢200余を付けて遣わす。
京都合戦にて三好宗三と細川国慶、小泉秀清、今村慶満が戦い、宗三が勝利する。国慶は戦死する。
出典:天文16年10月9日付三好宗三書状案(「大徳寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-202号)

天文16年 1547年 10月9日 40歳
三好政長が藤林綱政に龍翔寺領の三栖の内にある所領を渡すように伝える。
出典:天文16年10月9日付三好宗三書状案(「大徳寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-201号)

天文17年 1548年 12月6日 41歳
三好政長清水寺の御堂供養につき御札を拝見したことを同寺に伝える。
出典:天文17年12月6日付三好宗三書状(「清水寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-216号)

天文18年 1549年 1月24日 42歳
三好政長が多田衆を率い池田市場(摂津国)に朝早く攻め入り焼き討ちする。
出典:『足利季世記』巻4「方浜合戦ノ事」

天文18年 1549年 2月11日 42歳
朝、三好宗三が武野紹鷗、津田宗達、源六を招き茶会を催す。
出典:『宗及茶湯日記』「茶湯幷唐物拝見之事」同年月日条

天文18年 1549年 2月13日 42歳
朝、武野紹鷗が三好宗三、源六、津田宗達、森河を招き茶会を催す。
出典:『宗及茶湯日記』「茶湯幷唐物拝見之事」同年月日条

天文18年 1549年 3月1日 42歳
細川晴元が籠る中島城(摂津国)に軍勢を率い向かう。途中、柴島城にいる三好宗三と戦い破り、あわせて中島城を落とし入城する。軍勢を榎並城(河内国)に遣わす。
出典:『足利季世記』巻4「方浜合戦ノ事」

天文18年 1549年 3月-日 42歳
細川晴元が三宅国村の三宅城(摂津国)を落とし在城する。
出典:『足利季世記』巻4「方浜合戦ノ事」

天文18年 1549年 3月-日 42歳
三好宗三尼崎(摂津国)の本興寺・西門前に三好勢による乱妨狼藉、陣取り・寄宿、竹木伐採、矢銭・兵糧米の賦課を停止する禁制を発給する。
出典:天文18年3月日付三好宗三禁制(「本興寺文書」『戦国遺文 三好氏編』第1巻-224号)

天文18年 1549年 4月26日 42歳
細川晴元が摂津を攻めるにあたり丹波国を経由し塩川城(摂津国)に下向する。
六角定頼が晴元の摂津国攻めを援護するべく京都東山に軍勢を遣わす。
出典:『厳助大僧正記』同年同月条(『史籍集覧』25 近代デジタルライブラリー コマ番号178-208)、『足利季世記』巻4「川原合戦ノ事」

天文18年 1549年 4月28日 42歳
塩川城(摂津国)にいた細川晴元のもとに三好宗三が合流し、西宮(摂津国)を放火する。
出典:『足利季世記』巻4「川原合戦ノ事」

天文18年 1549年 4月29日 42歳
三好宗三伊丹親興尼崎(摂津国)を放火する。
出典:『足利季世記』巻4「川原合戦ノ事」

天文18年 1549年 5月1日 42歳
三好宗三が東富松城(摂津国)を攻めるが、城兵の抗戦により撤退する。
出典:『足利季世記』巻4「川原合戦ノ事」

天文18年 1549年 5月2日 42歳
三宅城(摂津国)の香西元成三好長逸の守る芥川山城(摂津国)を攻撃するも敗れる。
出典:『足利季世記』巻4「川原合戦ノ事」

天文18年 1549年 5月5日 42歳
三好宗三が諸勢を率い三宅城(摂津国)に入る。
出典:『足利季世記』巻4「幡雲立事」

天文18年 1549年 6月11日 42歳
早朝、三好宗三が榎並城(河内国)を出て江口に陣取る。これを受け三好長慶は、安宅冬康十河一存を別府川に布陣させ三宅城(摂津国)との連絡を絶つ。
出典:『足利季世記』巻4「宗三出張ノ事」

天文18年 1549年 6月23日 42歳
三好宗三が「川舟を 留て近江の 勢もこそ 問んともせぬ 人を待かな」と六角定頼勢を待つ歌を詠む。
出典:『足利季世記』巻4「宗三出張ノ事」

天文18年 1549年 6月24日 42歳
十河一存が単独で細川晴元の居所である三宅城(摂津国)を攻撃する。一存の三宅城攻撃を受けてもなお三好長慶細川晴元との戦いは避け、三好宗三の籠る江口城を攻撃し、落とす。この戦いで宗三、高畠長直高畠長信が戦死する。晴元は政長の敗報を受け嵯峨(山城国)に逃れる。
出典:『私心記』同年同月条、『足利季世記』巻4「江口城攻落シ宗三打死ノ事」、『厳助大僧正記』同年同月条(『史籍集覧』25 近代デジタルライブラリー コマ番号178-208)、

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