人 物 史

河田長親 かわだ ながちか
生 没 年天文12年(1543)-天正9年(1581)3/24
出 身近江国幼 名岩鶴丸
別 称-
法 名禅忠
戒 名-
河田元親-
兄 弟 姉 妹河田長親、下条忠親、安田堅親
配 偶 者北条高広の娘
河田岩鶴丸
官 位豊前守
役 職-
城 郭松倉城(越中国)
参 考 文 献-
関 連 デ ー タ河田長親の関連文化財
河田長親 年表
天文12年 1543年 -月-日 1歳
河田長親が近江国にて生まれる。
出典:-

弘治1年 1555年 10月23日 13歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 16歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄12年 1569年 1月2日 27歳
北条氏康が上杉家家臣 松本景繁・河田長親・上野家成に書状を送り上杉謙信と和睦することを請う。
出典:永禄12年1月2日付北条氏康書状(「歴代古案」)

元亀1年 1570年 4月23日 28歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 7月28日 31歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正6年 1578年 3月13日 36歳
上杉謙信が虫気により死去する。
出典:『薬師堂墨書』・『高野山過去帳』(『上越市史』資料編3)、(天正6年)3月24日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1477号)

天正6年 1578年 10月4日 36歳
斎藤利治が太田保内の本郷(越中国)に陣取る。今泉城(越中国)に籠る椎名小四郎、河田長親を攻め、月岡野の合戦にて破る。
出典:『信長公記』巻11(11)「越中御陣の事」

天正7年 1579年 3月17日 37歳
上杉景勝上杉景虎が籠っていた御館を攻め、落とす。景虎は鮫尾城(越後国)に逃れる。
出典:(天正7年)3月19日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1796号)、(天正7年)3月24日付上杉景虎書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1800号)

天正7年 1579年 3月24日 37歳
上杉景勝上杉景虎の籠る鮫尾城(越後国)を攻める。景虎は切腹する。
出典:(天正7年)3月24日付上杉景虎書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1800号)

天正8年? 1580?年 7月2日 38歳
横田重恒等が、6月9日に勝興寺に遣わされた寺内素休・井上善五郎に、大坂本願寺籠城(「大坂拘様」)を続ける教如の無事と、越中下向後の二人が大坂へ越中の情勢について報告がないため不審に思っていること、松倉城(越中国)に在番している河田長親に大坂本願寺籠城が困難であるため支援を依頼するように命じる。
出典:7月2日付横田重恒他連署状(金龍静『一向一揆論』(吉川弘文館、2004年)史料編-62号 「慈明寺文書」)

天正9年 1581年 3月24日 39歳
佐々成政が神通川・六道川を渡り、中田(越中国)に陣取る。小井手城(越中国)を攻めていた上杉景勝河田長親同城より撤退する。
長親が松倉城(越中国)にて死去する。
出典:『信長公記』巻14(2)「御馬揃への事」

人物リストに戻る

Copyright(c)Kudo Katsuhiro All Rights Reserved.