人 物 史

上杉謙信 うえすぎ けんしん
生 没 年享禄3年(1530)1/21-天正6年(1578)3/13
出 身越後国幼 名虎千代
別 称平三、長尾景虎、政虎、輝虎
法 名謙信、宗心
戒 名不識院殿真光謙信
長尾為景虎御前
兄 弟 姉 妹長尾晴景、長尾景康、仙桃院、上杉謙信
配 偶 者-
上杉景勝[養子]、上杉景虎[養子]
官 位弾正少弼
役 職室町幕府 関東管領
越後国守護代
城 郭栃尾城(越後国)、春日山城(越後国)
参 考 文 献上杉謙信に関する参考文献
関 連 デ ー タ上杉謙信の関連文化財
上杉謙信の家臣
上杉謙信 年表
享禄3年 1530年 1月21日 1歳
上杉謙信が生まれる。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 3歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文22年 1553年 11月13日 24歳
長尾景虎に到着する。本願寺証如に音信として太刀・馬を遣わす。ただし実物は越後国より送るため目録のみで、実際には鳥目1000疋と樽代を送る。この音信は、三好長慶よりの助言による。
出典:『天文日記』同年月日条

天文22年 1553年 11月14日 24歳
本願寺証如長尾景虎に、11月13日の音信の返礼として太刀(2貫相当)・緞子10端(13貫余相当)・嶋織色20端(15貫相当)を送る。
出典:『天文日記』同年月日条

弘治1年 1555年 10月23日 26歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治1年 1555年 11月27日 26歳
上杉景勝が生まれる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 29歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
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永禄2年 1559年 4月21日 30歳
足利義輝が、坂本(近江国)に到着した長尾景虎に早く上洛するようにと伝える。
出典:(永禄2年)4月21日付足利義輝御内書(「上杉家文書」『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』-165号)

永禄3年 1560年 -月-日 31歳
*7月5日以前。
長尾景虎の上野国侵攻につき、北条氏康本願寺顕如に武蔵国における一向衆禁制の解除を条件に加賀一向一揆の軍勢を景虎領国の越後国へ侵攻するよう依頼する。
出典:(永禄3年カ)7月5日付下間頼充書状写(『加能史料』14 永禄3年7月5日条 「箱根神社文書」)、永禄9年10月2日付北条氏康朱印状(『加能史料』14 永禄3年7月5日条 「善福寺文書」)

永禄3年 1560年 7月5日 31歳
本願寺顕如北条氏康に、長尾景虎の領国越後国へ加賀一向一揆の軍勢を攻め込ませると伝える。また、一向一揆の越後侵攻の条件としてい提示された武蔵国一向衆の禁制解除を喜ぶ。
出典:(永禄3年カ)7月5日付下間頼充書状写(『加能史料』14 永禄3年7月5日条 「箱根神社文書」)、永禄9年10月2日付北条氏康朱印状(『加能史料』14 永禄3年7月5日条 「善福寺文書」)

永禄3年 1560年 10月17日 31歳
武田信玄が瑞泉寺(越中国)の内衆・上田藤右衛門に、長尾景虎が上野国に侵攻したので、北条氏康と示し合わせ景虎と交戦することを伝えるとともに、門徒衆と神保氏とで越後国に侵攻するように依頼する。
出典:(永禄3年)10月17日付武田信玄書状(『加能史料』14 永禄3年7月5日条5 「仏厳寺文書」)

永禄4年 1561年 閏3月16日 32歳
長尾景虎が山内上杉家の家督と関東管領職を相続する。名を上杉政虎に改める。
出典:-

永禄4年 1561年 9月10日 32歳
川中島(信濃国)にて武田信玄上杉政虎が戦う。武田勢:武田信繁(戦死)、室住虎光(戦死)、山本晴幸(戦死)、初鹿野忠次(戦死)、油川信吉[戦死]、田沢正俊(戦死)、山高親之(信繁の首級奪還)。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第147「油川信吉」、同巻第150「田沢正俊」の項、同巻第160「山高親之」の項

永禄4年 1561年 12月-日 32歳
上杉政虎足利義輝の偏諱を受け、輝虎と名を改める。
出典:-

永禄6年 1563年 8月18日 34歳
延暦寺東塔東谷正覚坊重盛が、上杉政虎の武運長久の祈祷を根本中堂において行う。
出典:(永禄6年)8月18日付正覚坊重盛書状(「上杉家文書」『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』-348号)

永禄8年 1565年 5月19日 36歳
午初点(11時)、松永久通ら三好勢10000が御所(春日殿)にいた足利義輝を襲撃する。義輝は応戦するが戦死する。義輝とともに討死した者は、周嵩、慶寿院、畠山九郎、大館岩石、上野兵部少輔、上野与八郎、摂津いと、細川宮内少輔、一色淡路守、一色又三郎、彦部雅楽頭、彦部孫四郎、荒川治部少輔、武田左兵衛尉、進士晴舎、進士主馬頭、沼田上野介、杉原晴盛、朝日新三郎、結城主膳正、有馬源次郎、治部三郎左衛門、福阿弥、台阿、松阿、林阿、慶阿、疋田孫四郎、二宮弥三郎、大弐、谷口民部丞、小林左京亮(慶寿院内者)、西面左馬允(慶寿院内者)、松井新二郎(慶寿院内者)、高木右近(慶寿院内者)、森田新左衛門尉(慶寿院内者)、竹阿(慶寿院内者)、金(慶寿院内者)、蔵首座(周嵩内者)、河端兵部丞(周嵩内者)、木村小四郎(周嵩内者)、飯田左橘右兵衛尉(春日局内者)、松原小三郎(春日局内者)、粟津甚三郎(春日局内者)、林与五郎(春日局内者)、西川新左衛門尉(春日局内者)、中井助左衛門尉(春日局内者)、畑(内者)、村田弥介(杉原内者)、八田十右衛門尉(杉原内者)、高橋(進士内者)、一河など。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 -月-日 37歳
上杉輝虎が加賀国に攻め込み一向衆と戦う。
出典:永禄9年8月26日付顕如書状案(『顕如上人文案』)

永禄12年 1569年 1月2日 40歳
北条氏康が上杉家家臣 松本景繁・河田長親・上野家成に書状を送り上杉謙信と和睦することを請う。
出典:永禄12年1月2日付北条氏康書状(「歴代古案」)

永禄12年 1569年 2月8日 40歳
足利義昭織田信長によって自身が上洛したことを上杉輝虎に伝えるとともに、武田信玄との和睦を勧める御内書を発給する。使者は智光院。
出典:(永禄12年)2月8日付足利義昭御内書(「上杉家文書」『織田信長文書の研究』上巻 参考p250)

元亀1年 1570年 4月23日 41歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月25日 41歳
北条三郎と清円院(長尾政景の娘)の婚儀が執り行われる。謙信は三郎に上杉景虎の名を与え、養子とする。
出典:(元亀1年)5月12日付北条氏康書状(『上杉家文書』巻1-609号)

元亀1年 1570年 12月-日 41歳
上杉輝虎が不識庵謙信と称すようになる。
出典:-

元亀2年 1571年 10月3日 42歳
北条氏康が死去する。
出典:『早雲寺過去帳』

元亀4年 1573年 3月20日 44歳
足利義昭上杉謙信武田信玄本願寺顕如との和睦を促す使者・書状を送る。
出典:(元亀4年)3月20日付足利義昭御内書(『上越市史 別編1 上杉氏文書集』1144号)

元亀4年 1573年 4月12日 44歳
武田信玄が死去する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第145「武田晴信」の項

元亀4年 1573年 7月18日 44歳
織田信長が槙島(山城国)を放火する。信長が足利義昭が籠る槙島城(山城国)を攻めようとしたところ義昭が降伏する。義昭の子・義尋を人質として信長のもとに送り、義昭は槙島城(山城国)を退城し枇杷荘(山城国)に移る。
出典:『兼見卿記』同年月日条

天正1年 1573年 7月28日 44歳
「元亀」より「天正」に年号が改まる。
出典:-

天正1年 1573年 8月20日 44歳
朝倉景鏡の裏切りにより賢松寺(越前国)にて朝倉義景が自害する。義景の首が龍門寺(越前国)にいる織田信長のもとにもたらされる。
出典:『信長公記』巻6(14)(「朝倉義景成敗、越前一国平均に申付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月27日 44歳
羽柴秀吉小谷城(近江国)京極丸を攻略し、浅井久政長政父子を分断する。秀吉は小丸に籠る久政を攻め、久政は切腹する。久政の首は織田信長の居る虎御前山に届けられる。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)

天正1年 1573年 8月28日 44歳
織田信長小谷城(近江国)京極丸に入る。
浅井長政は小谷城にて自害する。
浅井久政・長政父子の首を京都に送る。
出典:『信長公記』巻6(15)(「浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事」)、『豊鑑』巻1

天正2年 1574年 3月11日 45歳
上杉謙信が、越後国の者は高野山参詣の際、無量光院を宿坊とすることを同院に誓う。
出典:天正3年3月11日付上杉謙信定書(「無量光院文書」『上越市史』資料編3-891号)

天正2年 1574年 12月19日 45歳
上杉謙信が法体となる。
出典:天正3年4月24日付上杉謙信願文(「上杉家文書」『上越市史』資料編3-894号)

天正3年 1575年 4月24日 46歳
上杉謙信北条氏政の退治を祈願する願文を宝前に捧げる。
出典:天正3年4月24日付上杉謙信願文(「上杉家文書」『上越市史』資料編3-894号)

天正3年 1575年 6月13日 46歳
本願寺顕如が浄興寺(越後国頚城郡)に上杉謙信の支援が受けられるよう交渉を依頼する。
出典:(天正3年)6月13日付顕如消息(『上越市史 資料編3 古代・中世』898号)

天正3年 1575年 6月-日 46歳
上杉謙信が大崎郷荒井町の問屋を和田六右衛門に定め、荒井町への伝馬宿送の差配を同人に命じる。
出典:天正3年6月日付新発田長敦・竹俣慶勝・斎藤朝信連署定書(『上越市史』資料編3-897号)

天正4年 1576年 5月28日 47歳
加賀一向一揆勢の藤丸勝俊・徳田重清・広瀬貞清・高桑武数・奥政堯・山本家芸・窪田綱盛・鏑木頼信・石黒政長・洲崎景勝が金沢御堂の七里頼周・坪坂伯耆入道・広済寺に上杉謙信の出馬を要請する。
出典:天正4年5月28日付藤丸勝俊等連署状(『真宗大谷派金沢別院史 下』6号)

天正5年 1577年 3月5日 48歳
直江景綱が死去する。
出典:-

天正5年 1577年 閏7月5日 48歳
織田信長伊達輝宗に、上杉謙信を追伐する旨を伝え、本庄雨順斎と相談し謙信を攻めるよう要請する。
出典:(天正5年)閏7月23日付織田信長朱印状(『伊達家文書』1-302号)

天正5年 1577年 8月8日 48歳
上杉謙信の攻撃を受けた七尾城(能登国)城主・長続連を救援すべく、織田信長柴田勝家を大将として滝川一益羽柴秀吉丹羽長秀斎藤利治氏家直昌安藤守就稲葉一鉄不破光治前田利家佐々成政原長頼金森長近、若狭衆を遣わす。
出典:『信長公記』巻10(6)「柴田北国相働の事」

天正6年 1578年 3月13日 49歳
上杉謙信が虫気により死去する。
出典:『薬師堂墨書』・『高野山過去帳』(『上越市史』資料編3)、(天正6年)3月24日付上杉景勝書状(『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1477号)

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