人 物 史

北条氏康 ほうじょう うじやす
生 没 年永正12年(1515)-元亀2年(1571)10/3
出 身-幼 名伊豆千代丸
別 称新九郎
法 名-
戒 名大聖寺殿東陽宗岱大居士
北条氏綱養珠院宗栄
兄 弟 姉 妹北条新九郎、北条氏康、北条為昌、北条氏堯
配 偶 者瑞渓院(今川氏親の娘)
北条氏親、北条氏政、七曲殿、北条氏照、尾崎殿、北条氏規、長林院殿、蔵春院殿、北条氏邦上杉景虎、北条氏忠、北条氏光、桂林院殿、浄光院殿
官 位相模守、左京大夫
役 職-
城 郭小田原城(相模国)
参 考 文 献北条氏康に関する参考文献
関 連 デ ー タ北条氏康の関連文化財
北条氏康の家臣
北条氏康 年表
永正12年 1515年 -月-日 1歳
北条氏康が生まれる。
出典:-

永正16年 1519年 8月15日 5歳
韮山城(伊豆国)にて祖父・早雲が死去する。
出典:『関八州古戦録』巻1「北条早雲庵父子附氏綱菩提所建立之事」

大永1年 1521年 8月23日 7歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
出典:-

大永2年 1522年 3月15日 8歳
弟・氏堯が生まれる。
出典:-

享禄1年 1528年 8月20日 14歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 18歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文3年 1534年 6月5日 20歳
北条氏綱氏康鶴岡八幡宮に参詣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1534年 3月23日 21歳
北条氏康が、父・氏綱の咳気平癒祈願として、鶴岡八幡宮西檀所にて愛染王護摩を修す。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1534年 8月16日 21歳
北条氏綱が甲斐国に向けて出陣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1534年 8月22日 21歳
山中(甲斐国)にて北条氏綱と小山田信有・勝沼信友が戦い、氏綱が勝利する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1534年 8月24日 21歳
上杉朝興が川越(武蔵国)より出陣したとの報を受けた北条氏綱小田原城(相模国)に帰城する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1534年 10月13日 21歳
北条氏綱が上総国、下総国、伊豆国、相模国、武蔵国より動員した兵をもって上杉朝興の川越城(武蔵国)を攻める。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1534年 10月21日 21歳
北条氏康鶴岡八幡宮に神馬を奉納する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文5年 1536年 6月10日 22歳
梅岳承芳が玄広恵探の籠る花倉城(駿河国)を攻め、恵探は普門寺(駿河国)に逃れるも自害する。
出典:-

天文5年 1536年 8月1日 22歳
北条氏康・為昌兄弟が鶴岡八幡宮に参詣する。社内を巡見する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文5年 1536年 10月10日 22歳
北条氏綱氏康・為昌父子が玉縄城(相模国)に到着する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文5年 1536年 10月11日 22歳
辰刻(7-9時)、北条氏綱氏康・為昌父子が鶴岡八幡宮に参詣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文6年 1537年 2月26日 23歳
北条氏綱が駿河国に向けて出陣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文6年 1537年 4月27日 23歳
上杉朝興が川越(武蔵国)にて死去する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文6年 1537年 6月13日 23歳
北条氏綱が駿河国に向けて出陣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文6年 1537年 6月14日 23歳
駿河国において北条氏綱今川義元が戦い、氏綱が勝利する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文6年 1537年 7月11日 23歳
北条氏綱が武蔵国に向けて出陣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文6年 1537年 7月16日 23歳
北条氏綱川越城(武蔵国)を落とす。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文6年 1537年 7月20日 23歳
北条氏綱が難波田憲重の籠る松山城(武蔵国)を攻める。
出典:『快元僧都記』同年月22日条

天文7年 1538年 9月3日 24歳
北条氏康鶴岡八幡宮獅子勧進として東郡・西郡の家1間に2銭ずつ徴収することを認める。
出典:『戦国遺文』後北条氏編1巻-157号「相州文書」

天文7年 1538年 10月2日 24歳
足利義明・里見義堯が国府台に出勢したのを受け、北条氏綱氏康父子が下総国に向けて出陣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文7年 1538年 10月6日 24歳
北条氏綱が国府台に向け江戸城(武蔵国)を出陣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文7年 1538年 10月7日 24歳
国府台にて足利義明と北条氏綱が戦い、氏綱が勝利する。義明、足利義純、足利基頼が戦死する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文7年 1538年 10月10日 24歳
北条氏綱小田原城(相模国)に帰城する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文7年 1538年 11月-日 24歳
国府台にて北条氏綱と足利義明・里見義堯が戦い、氏綱が勝利する。義明は戦死する。
出典:『関八州古戦録』巻1「北条早雲庵父子附氏綱菩提所建立之事」

天文7年 1538年 -月-日 24歳
子・氏政が生まれる。
出典:-

天文10年 1541年 7月19日 27歳
父・氏綱が死去する。
出典:『関八州古戦録』巻1「北条早雲庵父子附氏綱菩提所建立之事」

天文11年 1542年 -月-日 28歳
子・氏照が生まれる。
出典:-

天文14年 1545年 -月-日 31歳
今川義元が長窪城(駿河国)を攻める。
出典:『関八州古戦録』巻1「上杉憲政武州河越城責ノ事」

天文14年 1545年 9月26日 31歳
上杉憲政が北条綱成が在番する川越城(武蔵国)を軍勢65000をもって包囲する。
出典:『関八州古戦録』巻1「上杉憲政武州河越城責ノ事」

天文14年 1545年 10月27日 31歳
足利晴氏が川越城(武蔵国)を包囲する上杉憲政に加勢すべく古河(下総国)より軍勢20000にて出陣する。
出典:『関八州古戦録』巻1「上杉憲政武州河越城責ノ事」

天文14年 1545年 -月-日 31歳
子・氏規が生まれる。
出典:-

天文15年 1546年 4月1日 32歳
北条氏康が上杉憲政に包囲されている川越城(武蔵国)を救援すべく、軍勢8000を率い小田原城(相模国)を発ち、砂窪(武蔵国)に着陣する。
出典:『関八州古戦録』巻1「北条氏康河越城後詰付夜軍ノ事」

天文15年 1546年 4月20日 32歳
北条氏康川越城(武蔵国)を包囲する上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の陣を夜襲し、勝利する。朝定が戦死し、憲政は平井城(上野国)に撤退する。上杉勢は難波田憲重が戦死する。
出典:『関八州古戦録』巻1「北条氏康河越城後詰付夜軍ノ事」

天文17年 1548年 -月-日 34歳
子・氏邦が生まれる。
出典:-

天文23年 1554年 -月-日 40歳
逸見義久北条氏康に属する。
出典:『寛政重修諸家譜』巻第138「逸見義久」の項

弘治1年 1555年 10月23日 41歳
「天文」より「弘治」に年号が改まる。
出典:-

弘治4年 1558年 2月28日 44歳
「弘治」より「永禄」に年号が改まる。
出典:-

永禄3年 1560年 -月-日 46歳
*7月5日以前。
長尾景虎の上野国侵攻につき、北条氏康本願寺顕如に武蔵国における一向衆禁制の解除を条件に加賀一向一揆の軍勢を景虎領国の越後国へ侵攻するよう依頼する。
出典:(永禄3年カ)7月5日付下間頼充書状写(『加能史料』14 永禄3年7月5日条 「箱根神社文書」)、永禄9年10月2日付北条氏康朱印状(『加能史料』14 永禄3年7月5日条 「善福寺文書」)

永禄3年 1560年 7月5日 46歳
本願寺顕如北条氏康に、長尾景虎の領国越後国へ加賀一向一揆の軍勢を攻め込ませると伝える。また、一向一揆の越後侵攻の条件としてい提示された武蔵国一向衆の禁制解除を喜ぶ。
出典:(永禄3年カ)7月5日付下間頼充書状写(『加能史料』14 永禄3年7月5日条 「箱根神社文書」)、永禄9年10月2日付北条氏康朱印状(『加能史料』14 永禄3年7月5日条 「善福寺文書」)

永禄3年 1560年 10月17日 46歳
武田信玄が瑞泉寺(越中国)の内衆・上田藤右衛門に、長尾景虎が上野国に侵攻したので、北条氏康と示し合わせ景虎と交戦することを伝えるとともに、門徒衆と神保氏とで越後国に侵攻するように依頼する。
出典:(永禄3年)10月17日付武田信玄書状(『加能史料』14 永禄3年7月5日条5 「仏厳寺文書」)

永禄5年 1562年 4月8日 48歳
弟・氏堯が死去する。
出典:-

永禄5年 1562年 -月-日 48歳
孫・氏直が生まれる。
出典:-

永禄8年 1565年 5月19日 51歳
午初点(11時)、松永久通ら三好勢10000が御所(春日殿)にいた足利義輝を襲撃する。義輝は応戦するが戦死する。義輝とともに討死した者は、周嵩、慶寿院、畠山九郎、大館岩石、上野兵部少輔、上野与八郎、摂津いと、細川宮内少輔、一色淡路守、一色又三郎、彦部雅楽頭、彦部孫四郎、荒川治部少輔、武田左兵衛尉、進士晴舎、進士主馬頭、沼田上野介、杉原晴盛、朝日新三郎、結城主膳正、有馬源次郎、治部三郎左衛門、福阿弥、台阿、松阿、林阿、慶阿、疋田孫四郎、二宮弥三郎、大弐、谷口民部丞、小林左京亮(慶寿院内者)、西面左馬允(慶寿院内者)、松井新二郎(慶寿院内者)、高木右近(慶寿院内者)、森田新左衛門尉(慶寿院内者)、竹阿(慶寿院内者)、金(慶寿院内者)、蔵首座(周嵩内者)、河端兵部丞(周嵩内者)、木村小四郎(周嵩内者)、飯田左橘右兵衛尉(春日局内者)、松原小三郎(春日局内者)、粟津甚三郎(春日局内者)、林与五郎(春日局内者)、西川新左衛門尉(春日局内者)、中井助左衛門尉(春日局内者)、畑(内者)、村田弥介(杉原内者)、八田十右衛門尉(杉原内者)、高橋(進士内者)、一河など。
出典:『言継卿記』同年月日条

永禄9年 1566年 10月2日 52歳
北条氏康が阿佐布の善福寺に対し、武蔵国内で禁制されていた一向衆を赦免する。
出典:永禄9年10月2日付北条氏康朱印状(『加能史料』14 永禄3年7月5日条 「善福寺文書」)

永禄11年 1568年 12月12日 54歳
北条氏政今川氏真を救援すべく小田原城(相模国)より駿河国に向けて出陣する。
出典:(永禄11年)12月28日付由良成重書状(『上杉家文書』1-528号)

永禄11年 1568年 12月13日 54歳
興津(駿河国)にて北条氏政武田信玄が戦う。
出典:(永禄11年)12月28日付由良成重書状(『上杉家文書』1-528号)

永禄12年 1569年 1月2日 55歳
北条氏康が上杉家家臣 松本景繁・河田長親・上野家成に書状を送り上杉謙信と和睦することを請う。
出典:永禄12年1月2日付北条氏康書状(「歴代古案」)

永禄12年 1569年 1月18日 55歳
北条氏康氏政父子が武田信玄に攻められた今川氏真を救援すべく、小田原城(相模国)より出陣し、心経寺に陣取る。
出典:『北条記』巻4「今川没落之事付薩埵合戦之事」

永禄12年 1569年 1月25日 55歳
北条氏康氏政父子が清見寺に向けて発向する。武田信玄は軍勢を興津河原(駿河国)に出す。辰刻(7-9時)、北条勢と武田勢が戦い、北条勢が勝利する。
出典:『北条記』巻4「今川没落之事付薩埵合戦之事」

永禄12年 1569年 1月26日 55歳
北条氏政が三島(伊豆国)を発ち、薩埵山に陣取る武田信玄勢と戦う。
出典:(永徳12年)2月6日付北条氏政書状(『上杉家文書』1-538号)

永禄12年 1569年 9月10日 55歳
御獄(武蔵国)にて武田信玄と藤田氏邦が戦う。
出典:(永禄12年)9月10日付藤田氏邦書状(『上杉家文書』1-582号)

永禄12年 1569年 9月10日 55歳
武田信玄が藤田氏邦の籠る鉢形城(武蔵国)を攻める。氏邦が信玄勢を退ける。
出典:(永禄12年)9月10日付藤田氏邦書状(『上杉家文書』1-582号)

永禄12年 1569年 10月4日 55歳
武田信玄北条氏康北条氏政父子の籠る小田原城(相模国)の攻略を諦め、同地より撤退する。
出典:(永禄12年)10月16日付北条氏康書状(『上杉家文書』1-585号)

永禄12年 1569年 10月8日 55歳
三増峠(相模国)にて武田信玄北条氏照・氏邦・綱成等が戦い、信玄が勝利する。
武田勢:山高信親
出典:『寛政重修諸家譜』巻第161「山高信親」の項

元亀1年 1570年 4月23日 56歳
「永禄」より「元亀」に年号が改まる。
出典:-

元亀1年 1570年 4月25日 56歳
北条三郎と清円院(長尾政景の娘)の婚儀が執り行われる。謙信は三郎に上杉景虎の名を与え、養子とする。
出典:(元亀1年)5月12日付北条氏康書状(『上杉家文書』巻1-609号)

元亀1年 1570年 9月17日 56歳
吉田兼見が北条氏康氏政父子に初めて音信を遣わす。氏康には兎毫30管、氏政には湯がけ3具を贈る。奏者は幸田源次郎。
出典:『兼見卿記』同年月日条

元亀2年 1571年 10月3日 57歳
北条氏康が死去する。
出典:『早雲寺過去帳』

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