歴史の目的をめぐって
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史料にみえる人物の呼称
石高から軍役算出
軍役から石高算出
寺 院 史
興福寺(大和国)
こうふくじ
本 尊
-
創 建
-
開 基
-
山 号
-
宗 派
法相宗
別 称
-
関連宗教施設
-
現 所 在 地
〒630-8213
奈良県奈良市登大路48
旧 所 在 地
-
史 料 地 名
-
イ メ ー ジ
-
参 考 文 献
-
関 連 デ ー タ
-
リ ン ク
-
興福寺(大和国) 年表
治承4年 1180年 3月17日
園城寺
僧徒が
延暦寺
・
興福寺
とともに鳥羽法皇、高倉上皇をさらうとの風聞があったため、
平宗盛
・平通盛・
平経正
が鳥羽殿を
平知盛
が高倉上皇の御所を警固する。
出典:『玉海』同年月日条
治承4年 1180年 12月28日
平重衡
が奈良(大和国)を放火し、
興福寺
、
東大寺
が類火に遭い、東大寺大仏殿および大仏も焼失する。
出典:-
元暦2年 1185年 6月23日
南都衆徒が
平重衡
を木津川にて処刑する。同衆徒は重衡の首を般若寺門前に梟首する。
出典:-
正長2年 1429年 2月4日
長谷寺
において
興福寺
坊人と伊賀守護・仁木氏が合戦する。宇多土一揆の大将・榛原が討死、仁木氏も膝口を負傷する。
出典:『満済准后日記』同年2月5・6・9日条
康正3年 1457年 3月8日
信貴山
塔婆勧進のため
興福寺
を訪れ尋尊に奉加帳への判(奉加)を募る。また、門下が勧進に応じるよう大乗院に命じてもらう。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条
文明2年 1470年 5月26日
美濃国正書記の
興福寺
大乗院 尋尊宛の書状を
信貴山
勧進聖が尋尊に届ける。
出典:『大乗院寺社雑事記』同年月日条
文明10年 1478年 3月-日
興福寺
が兵庫関の関料について、塩飽浦の船の過所を停止し同浦の船より関料を徴収する。
出典:『多聞院日記』同年4月4日条
文明10年 1478年 4月4日
兵庫関より関料3貫文が
興福寺
に納入される。
出典:『多聞院日記』同年月日条
文明10年 1478年 4月19日
兵庫関より関料20貫文が
興福寺
に納入される。
出典:『多聞院日記』同年月日条
文明10年 1478年 5月6日
兵庫関より関料7貫文が
興福寺
に納入される。
出典:『多聞院日記』同年月日条
文明10年 1478年 7月25日
兵庫関より6月の関料5貫500文と3貫文が
興福寺
に納入される。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天文1年 1532年 10月-日
一向一揆勢が南都を焼き討ちにする。
出典:『細川両家記』
天文6年 1537年 11月26日
当麻寺を守護するようにと命じる興福寺別当宛の後奈良天皇綸旨を
中山孝親
が調える。
出典:天文6年11月26日付後奈良天皇綸旨「当麻寺文書」(『大日本仏教全書』118)
天文7年 1538年 1月26日
木沢長政
が
興福寺
に敵対していた戒重将監を幕府の命により討ち取る。
出典:『蜷川親俊日記』同年2月3日条
天文8年 1539年 6月28日
足利千歳丸
が
興福寺
一乗院に入ることが決まる。
出典:『大舘常興日記』同年月日条
天文8年 1539年 10月28日
興福寺
多聞院が
下京
四条のナラヤ三郎衛門所に宿泊する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天文10年 1541年 6月20日
石清水八幡宮若宮造営および遷宮につき大和国に段銭を賦課したので
興福寺
と国民中とともに等祥蔵主を納めるよう命じる室町幕府奉行人連署奉書が
木沢長政
に発給される。
出典:天文10年6月20日付室町幕府奉行人連署奉書(『石清水文書』6-周囲49(『室町幕府文書集成 奉行人奉書篇 下』3473号))
天文11年 1542年 3月5日
熊野より智勢が
興福寺
多聞院を訪れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天文11年 1542年 3月6日
智勢が
興福寺
多聞院より
堺
南荘材木町にある熊野の穀屋に帰る。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天文11年 1542年 11月20日
足利千歳丸
が
興福寺
一乗院に入室する。供は
朽木稙綱
。
出典:『蜷川親俊日記』同年月日条
天文12年 1543年 8月9日
武田信虎
が
高野山
に参詣の後、
興福寺
多聞院を訪れ逗留する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天文12年 1543年 8月15日
武田信虎
が駿河国に向けて
興福寺
多聞院を出立する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天文18年 1549年 5月18日
筒井城(大和国)にて興福寺衆による信読経が行われる。これは、筒井城内にて奇異のことが多く起こったり、光る物が現れたり、狐が人々を悩ますためであるという。また、筒井順昭も狂気することがあるためだという。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天文21年 1552年 5月11日
山科言継
が
東大寺
大仏殿・八幡宮に参詣する。また
興福寺
大乗院に赴く。
出典:『言継卿記』同年月日条
永禄8年 1565年 7月28日
夜、
一乗院覚慶
が
興福寺
一乗院を離れ、和田城(近江国)に移る。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄8年 1565年 8月27日
尊政
が
興福寺
一乗院に入室する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄9年 1566年 9月28日
筒井藤政
が
興福寺
成身院にて得度する。戒師は成身院宗慶。陽舜房順慶と名乗る。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄10年 1567年 4月18日
三好長逸
、
岩成友通
、
三好宗渭
が軍勢10000を率い奈良(大和国)に陣取る。
松永久秀
の在城する
多聞山城
(大和国)に攻め寄せる。三人衆の勢は、古市、鹿野薗を放火し白毫寺辺りに野陣する。
三好義継
、久秀・
久通
父子は大力、辛碓、
東大寺
南大門に布陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)
永禄10年 1567年 4月25日
松永久秀
が
興福寺
に同寺を破却する旨を通達する。
出典:『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)
永禄10年 1567年 5月2日
筒井順慶
の手引きにて
岩成友通
の率いる軍勢10000が
東大寺
大仏殿、念仏堂、二月堂、知足院に陣取る。
松永久秀
は
東大寺
戒壇院に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『清水別当記』抄(『清水寺史 第三巻 史料』)
永禄10年 1567年 5月15日
篠原長房
、
池田勝正
が
松永久秀
を攻めるべく大和国に向けて出陣する。
三好宗渭
、高畠が
東大寺
二月堂・同大仏殿に陣取る。それに備えるため
三好義継
、久秀・
久通
父子が
多聞山城
(大和国)、
興福寺
、
東大寺
戒壇院(以上、大和国)に陣取る。
出典:『言継卿記』同年月日条
永禄10年 1567年 5月17日
池田勝正
が西方寺(大和国)に、
三好宗渭
が天満山より西ノ坂に、
岩成友通
が念仏堂より氷室山法雲院の後ろの畠に、
筒井順慶
が大乗院山に陣取る。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄10年 1567年 5月18日
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
の軍勢が東山より
多聞山城
(大和国)に攻め入るも
松永久秀
が退ける。久秀は三好三人衆の軍勢に陣取りをさせないようにするため般若寺、文殊堂、仏餉屋、妙光院、観音院、松井安芸宿所、西院郷、北水門、南水門を焼く。またこの放火の際に放った火が
東大寺
戒壇院の授戒堂に飛び火する。
夜、久秀が宿院城(大和国)に夜襲をかけ、
池田勝正
勢が損害を出し最福院に逃れる。最福院は破却される。
出典:『多聞院日記』同年月日・19日条
永禄10年 1567年 5月23日
朝、
池田勝正
がマメ山に陣を移す。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄10年 1567年 5月24日
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
の軍勢が法輪院に入る。これを受け、
松永久秀
が宝徳院、妙音院、徳蔵院、金蔵院に火矢を放ち放火する。
夜前、久秀が無量寿院を焼く。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄10年 1567年 5月28日
申刻(15-17時)、秋山勢が無量寿院の屋敷の門の築地に矢倉をのぼせ攻め入る。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄10年 1567年 6月4日
夜、
筒井順慶
が
興福寺
寺中に火矢を放つ
出典:『多聞院日記』同年月5日条
永禄10年 1567年 6月5日
筒井順慶
が龍華院方発心院、中蔵院、千手院、大聖院、安養院、谷坊、慈明院に陣取る。千手院の上に城を築くという。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄10年 1567年 7月13日
寅刻から卯半刻(3-6時)まで
松永久秀
が今御門、餅飯殿、橋本、角振、小西を焼く。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄10年 1567年 7月23日
東大寺
にて
三好長逸
・
三好宗渭
・
岩成友通
と
松永久秀
が戦う。この合戦により東大寺戒壇院、千手院が焼失する。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『言継卿記』同年月25日条
永禄10年 1567年 10月10日
松永久秀
が
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
の軍勢が陣取る
東大寺
大仏殿に、子刻初点(11時)夜襲をしかけ三好勢を破る。三好三人衆の軍勢が鑓中村ほか200-300人討死する。この戦いにより穀屋より出た火が法華堂、大仏殿の廻廊に移り、丑刻(1-3時)に大仏殿が炎上する。大仏殿のほか、念仏堂、唐禅院、四聖坊、安楽坊、深井坊が焼失する。
氷室山に陣取っていた別所勢と郡山の辰巳勢は陣所を自ら焼き払う。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『言継卿記』同年月11日条
永禄10年 1567年 11月2日
三好長逸
、
三好宗渭
、
岩成友通
の軍勢と
松永久秀
の軍勢が
春日社
大鳥居にて戦う。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄10年 1567年 12月2日
興福寺
が
近衛前久
を介し寺内における松永勢の陣取りを止めるよう
松永久秀
に依頼するも久秀は拒否する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄11年 1568年 5月13日
三好康長
が向井専弘より
春日社
造営につき材木の供出に難色を示している
興福寺
を説得するよう依頼される。
出典:(永禄11年)5月13日付向井専弘書状写(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1407号「春日大社文書」)
永禄11年 1568年 5月14日
三好康長
が
興福寺
に対し
春日社
造営につき材木の供出に応じるよう依頼する。
出典:(永禄11年)5月14日付三好康長書状(『戦国遺文』三好氏編第2巻-1408号「春日大社文書」)
永禄11年 1568年 9月3日
三好康長
が
多聞山城
(大和国)の西北に攻め寄せる。奈良宿を放火する。
筒井順慶
が多聞山城(大和国)の東に攻め寄せる。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄11年 1568年 9月4日
河内国の三好勢が
東大寺
辺りに攻め寄せる。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄11年 1568年 9月5日
河内国の三好勢が帰陣する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄12年 1569年 3月12日
興福寺
が
織田信長
に音信として樽を贈る。
出典:『多聞院日記』同年月日条
永禄13年 1570年 1月6日
興福寺
衆が井戸(大和国)に在陣中の
松永久秀
のもとに礼に訪れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条
元亀2年 1571年 7月10日
筒井順慶
が足軽40-50人を
興福寺
近辺に攻め遣わし馬を奪取し、人2名を殺害する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
元亀3年 1572年 5月9日
筒井順慶
が南大門(大和国)に陣取る。奈良(大和国)にやってきた織田勢が大黒カ尾より
松永久秀
の
多聞山城
(大和国)の北側を包囲する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正2年 1574年 3月10日
柴田勝家
が
興福寺
に使者を遣わし奈良(大和国)の支配を
織田信長
より命じられたことを伝える。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正2年 1574年 3月14日
柴田勝家
が寺社および奈良(大和国)の支配を
織田信長
より命じられたことを記した制札を打つ。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正2年 1574年 3月27日
織田信長
が軍勢3000を率い
多聞山城
(大和国)に入る。奈良中の僧坊への陣取りや縁を頼っての宿借りを禁止する。多聞院英俊はこの施策を「一段善政下知」と評価する。信長の蘭奢待切り取りにあたり、
荒木村重
、
佐久間信盛
、
柴田勝家
、
菅屋長頼
、
丹羽長秀
、
蜂屋頼隆
、
塙直政
、
松井友閑
が奉行をつとめる。
出典:『多聞院日記』同年月日条、『信長公記』巻7(4)蘭奢待を切捕らせらるるの事
天正2年 1574年 11月16日
織田勢が奈良(大和国)より引き上げる。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正4年 1576年 1月21日
興福寺
寺門衆が
筒井順慶
のもとへ礼に訪れる。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正4年 1576年 5月15日
筒井順慶
が
興福寺
、奈良(大和国)中に触を出し
原田直政
一類の預かり物があれば、紙1枚といえども提出するように命じる。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正4年 1576年 5月30日
筒井順慶
が
明智光秀
の病につき
興福寺
の坊舎7人衆に病気平癒の祈祷を命じる。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正6年 1578年 2月5日
近衛前久
・
信基
父子が
興福寺
一乗院に赴く。
出典:『兼見卿記』同年月7日条
天正8年 1580年 閏3月17日
筒井順慶
が大和国内の諸寺の釣鐘を徴発する。この日、
興福寺
大門にある釣鐘2つを順慶が召し上げる。用途はクツイカ峯にたたらを建てて鉄砲に鋳直すためとされる。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正8年 1580年 8月20日
大和郡山城
(大和国)に滞在中の
明智光秀
のもとに
興福寺
が礼として摩尼を贈る。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正8年 1580年 9月26日
織田信長
が大和国の寺社・本所・諸寺・諸山・国衆に対し所領の指出を命じる。指出にあたっては起請文形式で
滝川一益
、
明智光秀
宛で提出するように命じる。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正8年 1580年 10月22日
大和国の寺社・本所・諸寺・諸山・国衆の
織田信長
への所領の指出の結果、
興福寺
領は19000石、大乗院領は750石、一乗院の寺領は1300石、
東大寺
領は1500石、
多武峰
領は8000石、
法隆寺
領は300石、
薬師寺
領は2000石とされる。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正10年 1582年 7月8日
浅野長政
が奉行として
興福寺
領木津(山城国)の指出の提出を命じる。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正10年 1582年 7月24日
興福寺
が木津(山城国)の指出を
浅野長政
へ提出する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正10年 1582年 7月28日
筒井順慶
が
興福寺
大乗院領の畑に入部を企てている牢人衆を討つため、松蔵弥八郎、井上九三郎に軍勢1000を付けて遣わす。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正10年 1582年 7月29日
筒井順慶
が牢人衆が籠っていた
興福寺
大乗院領の畑城を接収する。
出典:『多聞院日記』同年月日条
天正11年 1583年 1月11日
筒井順慶
が
春日社
に参詣する。順慶は成身院にて
興福寺
の僧衆の礼を受ける。
出典:『多聞院日記』同年月日条
文禄5年 1596年 4月5日
興福寺
一乗院にて本尊の開帳が行われる。
長谷寺
(大和国)にて本尊の開帳が行われる。
出典:『多聞院日記』同年月日条
慶長16年 1611年 11月16日
鷹司信房
の子・信尊が
興福寺
大乗院に入室し得度する。
出典:『春日社司祐範記』同年月日条
慶長17年 1612年 4月3日
徳川家康
が
興福寺
の宝蔵に入った盗人の逮捕を
板倉勝重
に命じる。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 8月17日
徳川家康
が
中井正清
より提出された
興福寺
(大和国)南大門、
法隆寺
(大和国)の御持堂・聖霊院・法華堂の棟札写4通を見て、各棟札には大工名が入っているのに、
方廣寺
(山城国)大仏殿の棟札にはそれがないとして立腹する。
出典:『駿府記』同年月日条
慶長19年 1614年 11月15日
卯刻(5-7時)、
徳川家康
が
大坂城
(摂津国)攻めに赴くべく、
二条城
(山城国)より出陣する。未刻(13-15時)、家康は木津(山城国)に到着するが、旅館狭小につき、急遽、奈良(大和国)まで進む。奈良奉行・中坊左近が膳を献上する。一乗院、大乗院、喜多院、春日社禰宜が出迎える。
秀忠
が大坂城を攻めるべく
伏見城
(山城国)を出陣し枚方(河内国)に陣取る。
出典:『駿府記』同年月日条、『当代記』同年月日条、『佐久間軍記』
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