人 物 史

北条氏綱 ほうじょう うじつな
生 没 年文明18年(1486)-天文10年(1541)7/19
出 身-幼 名-
別 称伊豆千代丸、新九郎
法 名-
戒 名-
北条早雲-
兄 弟 姉 妹北条氏綱、北条氏時、葛山氏広、北条長綱
配 偶 者近衛尚通の娘
北条新九郎、北条氏康、北条為昌、北条氏堯
官 位左京大夫
役 職-
城 郭小田原城(相模国)
参 考 文 献北条氏綱に関する参考文献
関 連 デ ー タ北条氏綱の関連文化財
北条氏綱 年表
文明18年 1486年 -月-日 1歳
北条氏綱が生まれる。
出典:-

長享1年 1487年 7月20日 2歳
「文明」より「長享」に年号が改まる。
出典:-

延徳1年 1489年 8月21日 4歳
「長享」より「延徳」に年号が改まる。
出典:-

明応1年 1492年 7月19日 7歳
「延徳」より「明応」に年号が改まる。
出典:-

文亀1年 1501年 2月29日 16歳
「明応」より「文亀」に年号が改まる。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正1年 1504年 2月30日 19歳
「文亀」より「永正」に年号が改まる。
出典:『厳助往年記』同年月日条

永正12年 1515年 -月-日 30歳
子・氏康が生まれる。
出典:-

永正13年 1516年 7月11日 31歳
北条早雲新井城(相模国)に籠る三浦義同義意父子を攻め、同城を落とす。義同・義意父子は戦死する。
出典:(永正14年)3月3日付上杉朝良書状(「秋田藩採集文書」)、『鎌倉九代後記』、『相州兵乱記』

永正16年 1519年 8月15日 34歳
韮山城(伊豆国)にて父・早雲が死去する。
出典:『関八州古戦録』巻1「北条早雲庵父子附氏綱菩提所建立之事」

大永1年 1521年 8月23日 36歳
「永正」より「大永」に年号が改まる。
出典:-

大永2年 1522年 3月15日 37歳
子・氏堯が生まれる。
出典:-

大永4年 1524年 1月14日 39歳
武蔵野(武蔵国)にて北条氏綱と上杉朝興が戦い、氏綱が勝利する。
出典:『関八州古戦録』巻1「北条早雲庵父子附氏綱菩提所建立之事」

享禄1年 1528年 8月20日 43歳
「大永」より「享禄」に年号が改まる。
出典:-

天文1年 1532年 7月29日 47歳
「享禄」より「天文」に年号が改まる。
出典:-

天文1年 1532年 10月17日 47歳
卯刻(5-7時)、北条氏綱が玉縄(相模国)より鶴岡八幡宮に参詣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文2年 1533年 4月18日 48歳
北条氏綱鶴岡八幡宮に参詣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文2年 1533年 11月12日 48歳
上杉朝興が大磯・平塚(相模国)に軍勢を遣わし、中郡を焼き払う。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文3年 1534年 6月2日 49歳
北条氏綱が玉縄城(相模国)に帰城する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文3年 1534年 6月3日 49歳
北条氏綱鶴岡八幡宮に参詣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文3年 1534年 6月5日 49歳
北条氏綱氏康鶴岡八幡宮に参詣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1534年 3月23日 50歳
北条氏康が、父・氏綱の咳気平癒祈願として、鶴岡八幡宮西檀所にて愛染王護摩を修す。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1534年 7月27日 50歳
北条氏綱が玉縄城(相模国)に帰城する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1534年 7月28日 50歳
北条氏綱鶴岡八幡宮に参詣する。氏綱が社内を巡見。27日に造営用の材木が到着しており、氏綱は喜ぶ。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1534年 8月16日 50歳
北条氏綱が甲斐国に向けて出陣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1534年 8月22日 50歳
山中(甲斐国)にて北条氏綱と小山田信有・勝沼信友が戦い、氏綱が勝利する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1534年 8月24日 50歳
上杉朝興が川越(武蔵国)より出陣したとの報を受けた北条氏綱小田原城(相模国)に帰城する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1534年 9月-日 50歳
上杉朝興が相模国に侵攻し、大磯、平塚、一宮、小和田、賀崎、鵜沼を放火する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1534年 10月3日 50歳
相模国に侵攻していた上杉朝興が川越(武蔵国)に撤退する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文4年 1534年 10月13日 50歳
北条氏綱が上総国、下総国、伊豆国、相模国、武蔵国より動員した兵をもって上杉朝興の川越城(武蔵国)を攻める。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文5年 1536年 3月17日 51歳
今川氏輝が死去する。
出典:『快元僧都記』同年月18日条

天文5年 1536年 4月19日 51歳
北条氏綱鶴岡八幡宮に参詣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文5年 1536年 4月24日 51歳
北条氏綱が玉縄城(相模国)に在城中。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文5年 1536年 10月10日 51歳
北条氏綱氏康・為昌父子が玉縄城(相模国)に到着する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文5年 1536年 10月11日 51歳
辰刻(7-9時)、北条氏綱氏康・為昌父子が鶴岡八幡宮に参詣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文6年 1537年 1月22日 52歳
北条氏綱の願いにより鶴岡八幡宮透廊間にて般若経の真読が行われる。真読料として銭5000疋が納められる。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文6年 1537年 2月26日 52歳
北条氏綱が駿河国に向けて出陣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文6年 1537年 4月26日 52歳
北条氏綱が玉縄城(相模国)に到着する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文6年 1537年 4月27日 52歳
上杉朝興が川越(武蔵国)にて死去する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文6年 1537年 4月28日 52歳
北条氏綱鶴岡八幡宮に参詣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文6年 1537年 5月16日 52歳
足利義明が軍勢を率い真里谷信隆の峯上城(上総国)に向かう。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文6年 1537年 5月29日 52歳
北条氏綱鶴岡八幡宮に参詣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文6年 1537年 6月13日 52歳
北条氏綱が駿河国に向けて出陣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文6年 1537年 6月14日 52歳
駿河国において北条氏綱今川義元が戦い、氏綱が勝利する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文6年 1537年 7月11日 52歳
北条氏綱が武蔵国に向けて出陣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文6年 1537年 7月16日 52歳
北条氏綱川越城(武蔵国)を落とす。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文6年 1537年 7月20日 52歳
北条氏綱が難波田憲重の籠る松山城(武蔵国)を攻める。
出典:『快元僧都記』同年月22日条

天文7年 1538年 1月晦日 53歳
北条氏綱が玉縄城(相模国)に到着する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文7年 1538年 2月1日 53歳
北条氏綱鶴岡八幡宮に参詣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文7年 1538年 2月2日 53歳
北条氏綱が葛西城(武蔵国)を攻め、同城を落とす。その後、岩槻城(武蔵国)に向かう。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文7年 1538年 2月14日 53歳
北条氏綱が帰陣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文7年 1538年 4月27日 53歳
北条氏綱が玉縄城(相模国)に到着する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文7年 1538年 4月28日 53歳
北条氏綱鶴岡八幡宮に参詣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文7年 1538年 10月2日 53歳
足利義明・里見義堯が国府台に出勢したのを受け、北条氏綱氏康父子が下総国に向けて出陣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文7年 1538年 10月6日 53歳
北条氏綱が国府台に向け江戸城(武蔵国)を出陣する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文7年 1538年 10月7日 53歳
国府台にて足利義明と北条氏綱が戦い、氏綱が勝利する。義明、足利義純、足利基頼が戦死する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文7年 1538年 10月10日 53歳
北条氏綱小田原城(相模国)に帰城する。
出典:『快元僧都記』同年月日条

天文7年 1538年 11月-日 53歳
国府台にて北条氏綱と足利義明・里見義堯が戦い、氏綱が勝利する。義明は戦死する。
出典:『関八州古戦録』巻1「北条早雲庵父子附氏綱菩提所建立之事」

天文7年 1538年 -月-日 53歳
孫・氏政が生まれる。
出典:-

天文10年 1541年 7月19日 56歳
北条氏綱が死去する。
出典:『関八州古戦録』巻1「北条早雲庵父子附氏綱菩提所建立之事」

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